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自分にとっては珍しいものをいただきました。新ふぐの白ワイン煮の缶詰は、洋風でワインに合うふぐなんてワクワク感が高まり興味津々でした。ただ味付けは和風でした…やはりビールか日本酒の方が合いました。最近は身体のためにお茶もいいものをと考えています。白桃と烏龍茶が合体なんて、酎ハイならともかく、いただかない限りは自分からは買わない一品。思ったよりも烏龍茶が勝っていて上品なお茶でした。こちらは誰でも知っているお茶でしょうか?柚子茶ってとにかく美味しそうですが、韓国では日常的とのことです。マーマレードのようなジャムをお湯で溶かして飲みます。冬にはあったまった気がして、夏は冷やすと清涼感がある、やはり上品でやさしい飲み物です。
2019.01.20
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パリにいた94年からの3年間、携帯電話やインターネットがまだ普及せず、固定電話の国際電話やFAX、手紙、特に絵葉書で日本とやりとりしていましたが、教員を5年してから行ったこともあり、日本から多くの人が訪ねてきてくれました。コンサートにもよく行きましたが美術館にもよく行きました。自分の所望する音楽がパリでどのように活かせるかは難しいことでしたが、美術からのヒントがそれを確信に変えてくれる気がして、日本のガイドブックにある美術館は全て行きました。中にはマイナーなものや観光的な博物館もありますが、行けるだけ行った結果、やはり名の知れた美術館が素晴らしく、ガイドブックに載っていないところはそれなりという結論でした。ルーヴル、オルセー、オランジュリーにはそれぞれ10回以上は行きましたし、現代アートのポンピドゥセンターは特に関心がありました。家から近かったマルモッタン美術館のモネを見てから、モネの家のあるジヴェルニーにも何度か行きました。美術の変遷は音楽のそれと密接に関連があり、美術が音楽よりやや先の時代を進んでいます。ピカソが人生の中でスタイルを変えていったことが、ストラヴィンスキーのそれと似ていること、今日本でも有名になった、構図がキャンパスからはみ出ているナビ派を、サン=ジェルマン=アン=レーのドニ美術館で見たこと、モディリアーニ、カンディンスキー、クレーから、キャンパスを切ったりしたフォンタナなど、近現代の作風や変遷に音楽と同じくらい興味がありました。例えば、ルノアールやモネのような印象派と、ドビュッシー、ラヴェルの印象主義と言われる作風には共通点を感じます。そこで自分との関心で気づいたことが、エルンスト、ダリ、マグリットといったシュルレアリスムにあたるものが、音楽には唯一欠落していることでした。もちろん絵画は見える具象であるわけですから、抽象である音で表現したりすることは、音楽そのものや聴き方の概念を変えたり固定する必要があります。しかし、絵画によって自分のやりたい意欲がますます湧きました。もっとも大きな問題点は、絵画であってもシュルレアリストの作風は明快なスタイルはあっても、筆致や技法というその人のレトリックを持っているわけではないことです。その意味では同じ主義の画家はともかく、美術界全体としてそれを簡単には絵画と認めないのではないだろうか、もちろんアカデミックな部分で絵が下手では描けないことですが、新しい絵画として認めるだろうかということです。シュルレアリスムは20世紀前半までの過去の作風と言った音楽評論家がいましたが、留学していた頃から四半世紀が過ぎた現代、まさにその系譜をたどっているのがバンクシーです。バンクシーの絵は簡単に真似できてしまうでしょう。しかし、そのメッセージ性と存在するコンセプトが芸術です。都内で見つかったそれらしき絵は上のものではありませんが、どうやら本物のようです。落書きと作品を分別した都知事は責められていますが、芸術をどう考えるかというとても良い機会とも思います。
2019.01.19
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ここまでの人生、自分はわざと何でも言われやすいポジション、相手の目線に合わせることを得意としていました。そうすることによって本音を引き出せ、教育的には適切なアドヴァイスを送れると感じていました。パリに留学していた時に知人のピアニストが、ロン=ティボー国際コンクールの1次を通過し、2次に課されたフランスの新曲について曲の相談を受けました。その作曲家の名前や作風を知らないまま、楽譜を見て簡単な分析や楽譜上の解釈を考えたわけです。出版された楽譜でしたがミスもあり、楽譜上から読み取れる収穫はありませんでした。その時にそのピアニストが話したことのもっとも大きな話題は、自分が心酔している3次の曲の練習をもっとしたいのに、なぜこんな曲に時間を割いて煩わされなければならないか、とのことでした。当時、1996年の日本ピアノ指導者協会、ピティナピアノコンペティションの特級課題曲に拙作「ピアノのためのエッセイ」が選ばれ、日本では特級のコンペティションを受けたピアニストが、ちょうど同じことを考えていたのではないかと思います。留学は1997年まででしたので、その曲を演奏したピアニストの意見を聞くことがないどころか、演奏も後々にビデオで見た程度です。現代音楽の作曲家にとって自分の曲が課題曲になるというのが、もっとも幅広く知られることのひとつであると思います。しかし、そのコンクールの参加者にとって、その曲を演奏することが実りとは感じておらず、作曲者と演奏者のギャップは大きいことが多いと考えられます。要は本当にすばらしい課題曲が選ばれることです。作曲で留学することの利点は、自分が立ち会わなくても世界中のどこにでも曲を出せることです。自分の作風はその当時に現代音楽の最前線では難しい状況を感じていましたが、日本には仕事もコンクールも両立できました。ピアノデュオ協会作曲コンクールや吹奏楽の朝日作曲賞入選(2位)を留学中に取りました。残念なことは演奏を一切聴けていないことでした。作曲家はつくったらちゃんと演奏や演奏者の意見を聞くことは必須だと思います。その意味で多少のお金になっても進展はありません。
2019.01.10
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洗足学園の教員になった時から学校から何度か留学の話がありました。それは学校の給費で3年間の予定で留学するというものでした。とても恵まれた話だったのですが、作曲を自分の思いどおりにしていたこと、また仕事としてとても順調にいっていたことから明快な返事ができていませんでした。当時の現代音楽の理想形として自らの語法を開拓することを目指すことはできても、自分の環境から考えて多様式の音楽を作ることは揺るぎないものになっていきました。ただ、このかたちは現代音楽から外れているとも考えられます。そこで留学と考えた際に、学べる多様式の作曲家はアルフレード・シュニトケただ一人でした。しかし、自分の師がフランス系であったことからフランスを外すことは考えられず、当時ロシアからドイツのハンブルクにいるという話であった、シュニトケのもとに行けないことはわかっていました。その意味で留学を躊躇する気持ちはありましたが、1994年に渡仏することになり武者修業の留学が始まりました。3月にオーケストラ曲「新多様式空間」が東京文化会館で初演され、多様式で書いていた「草野心平の詩による3つの最期の歌」(メゾソプラノ版)が、奏楽堂日本歌曲作曲コンクールの第1回に入選したため、その本選会があった5月24日まで日本におり26日にフランスに渡りました。奏楽堂の作曲コンクールは第1回で打楽器を伴奏とした、もっとも歌曲らしくない自分の曲が約200曲の中から本選に残り、聴いた人にはじゅうぶんに異端としての印象がついたことと思います。また1位の方は当時在職中の桐朋学園大学の50代の准教授でした。そんな鳴り物入りのコンクール後の受賞レセプションでは、自分の曲がコンクールの発起人の黛敏郎氏、審査委員長の林光氏には好まれておらず、もう一人の審査員・間宮芳生先生のみが推してくださっていることが感じ取れました。打楽器パートのある箇所について、新しいか古いかとの意見が審査員の中で分かれ、かなり緊迫した口論になったことを憶えています。推測ですが、いろいろな人から跳ねっ返り者と思われていたと感じられながら、自分としてはどうすることもできぬままフランスに渡りました。一から新たな作風の作曲家に師事することはどうしても考えられず、フランスの特定の先生に就くことはしないことを日本の先生とも話していました。また、フランスの日本人の作曲家に就くことは許されませんでした。それまでの作品を持って道場破りのようにさまざまな作曲のもとへ1度だけのレッスンに行く、しかし自分の作風を認めてくれる著名でアカデミックな作曲家はいません。そんな生活の中、ハンブルクへも何度か行きシュニトケの所在がわかりました。しかし、彼の病状などから会うことはできませんでした。では、作曲ではなく和声などのエクリチュールで師事する選択肢もありましたが、池内友次郎先生のもとではやる和声の課題がなくなっても師事していましたし、対位法も8声対位法までみっちり行い先生から修了の声をいただきました。それでこのような勉強がよくできるかと言われるとそれほど自信がありませんが、池内先生の考えていらっしゃった真理はじゅうぶん習得できたと思いましたので、フランスでそれ以上やろうとは思えなかったのです。当時パリのPassyに住んでおり、近くの歩いても行けるRadio Franceの現代音楽祭、毎年2月に行われるPrésenceには毎年全ての公演を聴きに行きました。テーマ作曲家が毎年フランス人ではなく、外国からの空気を採り入れた、とても貴重な経験であったと思います。95年がリゲティ、96年がカーゲル、97年がグバイドゥーリナでした。96年にカーゲルのティンパニ協奏曲が演奏され、協奏曲の最後に唯一使われていなかったティンパニを叩くと、皮が破けてティンパニ奏者の頭がティンパニの中に入るという演出でした。カーゲルのトリック性はそれまでも知っていたのでさほど驚きはしませんでした。音楽の指向性として共感できるのですが、習いたいとは思えませんでした。グバイドゥーリナは作風をして共感でき自分の考えをわかってもらえたかもしれません。目の前で話はできましたが、残念だったのは97年3月初めに完全帰国する直前でした。そのほかにも書きたいことやエピソードは本当にたくさんありますが、大きな出来事としてパリにいた著名な作曲家、エディソン・デニソフが96年に亡くなりました。その時に奥様からいただいた手紙がありますので載せます。1997年1月3日私の夫エディソン・デニソフが深刻な病気で1996年11月24日に、亡くなったことをお知らせすることを残念に思います。あなたの難しい仕事における健闘と成功を祈っています。エカテリーナ・デニソフ
2019.01.02
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1989年から1994年の5年間は20代後半から30代で、大学を卒業後ストレートで、洗足学園、尚美学園の講師もしながら、たくさんの仕事をした日々を送りました。その間にコンクールを受けてもいました。1991年からは多様式性を採り入れた作風になりましたが、それでも多くの委嘱を受け新しい作品を発表することに遑はありませんでした。テレビやJ-popの仕事も請け負いながら、中でも影響を受けたのは日本オペラ振興会のオペラ「天守物語」の、地方公演用アレンジをした時のこと、作曲者の水野修孝先生もジャンルを超えた作風であったため、本当に共感できる仕事になりました。また、舞踏の山海塾・蝉丸さんとのコラボレーションにおいて、音楽についてのたくさんの話をしたことが大きかったように思います。この時期に名だたる人との人脈はできました。自分は作曲家の中でも何でも忌憚なく言われるタイプのようです。現代的な作風について迷っていた自分に、在京プロオーケストラの重鎮からは旋律による叙情性を勧められ、現代音楽における多くが荒唐無稽な論理として批判されていると諭されもしました。無調音楽は文法をなくした文と同じく、もはや単語として意味のない音の羅列において、どれだけの意味を持たせるかということでもあります。例えば単なる12音技法においてそこから意味を見出すことは難しい、そのようなことであろうかと思います。ただし、そこに何かしらの別の文法を当てはめた時に音楽が成り立つと考えられます。そのようにして多くの無調音楽がつくられているわけですが、その文法が数学的、生物学的などの論理で音を連ねた場合に、音楽として成立するかという意味で苦言をいろいろいただいたわけです。先日、区とある音楽大学が共催した「音(楽)のかたちをもっと知り、いまを聴く」という講演会に、自分の認識を確認するために行ってみました。そこで講師で来ていたのはその音楽大学の准教授で作曲が専門でした。内容も20世紀の音楽から現代の音楽を志向するものを考えるという、興味深いものであったのですが、音楽史を学生相手に説明しているような、専門用語をマメに説明せず大雑把にすっ飛ばしていく内容で、説明しづらい箇所は語尾がはっきり聞き取れないようなものでした。おまけに配布されたレジュメの半分しか説明できず時間切れという、今時こんなお粗末な講演があるのかと目を疑いました。このような講演は現代の音楽の聴き方を示すレクチャーとして、とても有効なものであるにも関わらず肝心の21世紀の音楽が説明されず仕舞い。結局現代音楽の理解には繋がらないと感じられました。また、人によって感じ方はそれぞれですが、その講師は12音技法については難解であるという位置付けをしていましたから、講師の考えがそもそも先進的ではないこともわかりました。現在12音技法の曲を進んで演奏する演奏家の数は本当に少ないのは確かです。音楽史的な意味と作曲としての意味がある時、あるいは仕事でなければ、演奏されづらいものであることは確かだと感じます。純粋に12音技法による楽曲の演奏は大学院でも本当に少ないと思います。全体を通じて感じたことは、自分が知っている1990年頃の音楽史と、この講師が説明しようとしたことはほぼ同じであるということです。四半世紀の間、なぜ音楽史の大きな発展はなかったのかということ、それは今の時代や社会に理由がありそうです。
2019.01.01
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