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津軽三十三観音霊場の最初の札所は弘前の南、小高い山の上に位置する久渡寺です。おそろしい長さの登り階段があることでも有名ですが、その参拝難度に相応しい歴史と由緒を持つ寺院です。津軽真言五山の一つにも数えられる古刹を見ていきます。津軽三十三観音霊場一番札所:護国山 観音院 久渡寺 観音堂坂元の集落から山道を車で数分、麓の駐車場が見えてきます。駐車場周辺にはラーメン屋とカフェもあり、参拝後に腹を満たしたり、休憩したり出来そうです。カフェは精進出汁カレーで有名な "ska vi fika?" というお店で、数回お邪魔したことがあります。登山終わりにここでカレーとコーヒーを頼んで一服するのが好きですでは寺院の方へ。この社号標のある所から久渡寺に向かえます。手水です。かなり年代物の水盤です。境内案内図はこんな感じです。本尊の聖観音は観音堂に納められています。参道の脇には真言宗といえばの不動明王が居わします。反対側には弘法大師像が置かれ、その脇の道を行くと本堂に直行できます。長い長い戦いの末、やっと参道を登り切りました。ちょうど観音堂も見えていますね。観音堂です。何だか前来た時よりも新しくなっている気がしますが、気のせいでしょうか?とにかく赤い宝形造のこじんまりした観音堂ですが、そこに納められている本尊は歴史の塊のようなもの。気になる由緒を見てみましょう。久渡寺について 伝承によれば、西暦800年ころ、坂上田村麻呂が蝦夷征伐に津軽にやってきた時、阿闍羅山(大鰐町)に本陣を構え、岩木山まで峰伝いに千の坊舎「阿闍羅千坊」を建てたという。延暦年間(782~803年)、阿闍羅山に阿闍羅千坊の本尊を祀る補陀落寺(興国寺ともいう)を建立。本尊は大日尊で、左右は不動尊と観世音の三尊であったという。 建久2年(1191年)、唐の僧侶・円知上人が津軽に来た際、本阿闍羅三山坊の荒れ果てているのを見て、大日尊を蔵館(大鰐町)に、不動尊を古懸(平川市碇ヶ関地区)に、そして当時小沢山と呼ばれていたこの地に聖観音を遷して布教の本拠地とし、小沢山「救度寺」と称した。 明応年間(1492~1501年)、日範(日知)が中興し、そのあとを道円と寛照によって継承される。 慶長年間(1596~1615年)、寛海和尚によって再興され、津軽一統を志す大浦為信が寺領を寄進、小沢村古舘から坂元村に寺を遷し、国を護る山として「護国山観音院」と改称。 元和5年(1619年)、二代藩主・津軽信枚が領内鎮護のため堂舎を再建し別当を置いて藩の祈願所とした。 寛永3年(1626年)、百沢寺、最勝院、国上寺、橋雲寺とともに津軽真言五山の一つとなる。 寛永10年(1633)、三代藩主・信義が寺領百石を寄進、現在の寺名「久渡寺」に改める護国山 観音院 久渡寺 / 久渡寺について より抜粋古懸山 不動院 國上寺とともに、阿闍羅山上の一堂宇から始まったようです。國上寺の由緒によると、推古18年(610年)当初の寺号は大安国寺です。今回の由緒によると、そこから150年位後の延暦年間(782~803年)には補陀落寺(または興国寺)とも呼ばれ、一度荒廃するものの建久2年には唐僧円智上人によって、本尊の三尊はそれぞれ別々の寺院の本尊として遷されます。不動尊は”古懸の國上寺”へ、大日如来(阿弥陀如来)は”大鰐の大円寺(当時は高伯寺)”へ、そして聖観音がこの”久渡寺”に遷し祀られたみたいですね。こうしてみると、岩木山の南では阿闍羅山が信仰の山としてメジャーだったことが分かります。扁額です。斜めから。阿闍羅山の大寺院から分かれた、3つの寺院の内の一つである久渡寺。津軽三代からの崇敬も篤く、それを示すかのように観音堂には杏葉牡丹が染め抜かれています。津軽三十三観音霊場の打ち始めも、ここからなら素晴らしい滑り出しになること間違いなしです久渡寺山の山の神観音堂から左手に進むと久渡寺山までの登山道が伸びています。往復1時間くらいの工程になりますが、途中は切り立った崖などもあり、それなりに危険な道でもあります。登山道のは入り口には如意輪観音が刻まれた石碑が置かれています。そこから5分もせずに鳥居が見えてきました。これは恐らく久渡寺山山頂の社のものでしょう。更に進んでみます。鳥居の後ろ辺りに観世音の石碑が置かれています。これ以降参道沿いに三十三観音らしき石碑が見られますが、いよいよ霊地という雰囲気が漂ってきましたね!途中の鳥居は半壊していました。鳥居の上部は現在地面に転がり苔むしています。また石碑が有りました。これは准胝観音でしょうか、千手観音とそっくりです。鬱蒼とした林を抜けて、頂上を目指します。日が当たらないせいか、この石碑は苔に覆われていますね。如意輪観音。少々見ずらいですが、参道の中央を裂くように走っているのは雪解け水の浸食の跡です。春先に来るとチョロチョロと清水が流れています。この清水が丁度参道の中間位だと思います。そしてここからは道が更に険しくなります。文字通りスパートをかけてきます。雨の日には滑って危険ですので、是非ストック持参で望んだ方がいいと思います。山頂に着きました。体の熱でカメラのレンズが曇ってしまっています。鳥居と覆い堂の果てに小さな小祠が置かれているのが見えますでしょうか?この通り小祠は崩れかけです。以前は覆い堂が無く野ざらしでしたが、今回参拝した時は覆い堂が付けられていました。住職の言によると、その内石祠に交換したいとのことでした。そっちの方が格段に耐久度が高いでしょうからね、分かります。小祠には蔦が絡み自然に帰ろうとしています。そして内部には神鏡が置かれています。山の神が祀られているとのことですが、実は遠い昔は、雨乞い祈祷の際に本尊の聖観音を納めるのに使っていた祠だそうです。祠の左手には久渡寺山山頂の三角点があります。そして山頂からの眺望。弘前の町を一望できます。遠くには平川や黒石もギリギリ見えますよこんなに素晴らしい景色が見れるなら登るのも悪くないですよねぇ(誘い)!御詠歌補陀落や 恵みも深き観世音 罪もむくいも はらす宮だち本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर以前貰った御朱印です。三十三観音の御朱印(直書き)以上です。次の記事・二番札所:多賀神社(清水観音堂) 清水寺模した観音堂2025.5.8久渡寺春例祭 山開き今回、久渡寺にて火渡りが開催されると言う事で参加してきました。丁度一年前、元城山 照法寺で開催された火渡りを見た切りでしたが、やはり直にこうした修験道と関連する行事を見るのは面白いものです今回の火渡りにも、津軽一円の真言宗寺院の住職たちが集まり行事を斎行していました。写真の通り観客もたくさん集まっており、観音堂前の広場は大賑わいです。この日は観音堂や龍神堂も開け放たれ、堂内にてお参りできます。観音堂内にはガンプラが数体飾られていたのが印象的でした。さて、写真は龍神堂の内部です。中央は十一面観音と分かるんですが、その両脇時は何が祀られているんでしょうか。右はおそらく何らかの龍王、左はその妻か娘でしょうか?もしかしたら十和田龍神(八の太郎とたつこか?)かも知れません。石仏の右側には立派な2対の龍神像が収められています。こちらは十和田龍神とみて良さそうです。お参りを終えると、程なくして火渡りが始まりました。遠くからほら貝の音が響き、行者姿の住職さんたちが結界内に入ろうとします。この時に言った文句が面白かったんですよ!「吾ら久渡寺山の修験なり、入山の許可を頂きたい」的な感じの事を叫び、受け手側が了承して、いよいよ始まります。まずは観音堂に向かって般若心経を数編。次に中央に積み重なった杉の葉の山を清めて?いました。恐らくそれに立てられた幣は不動明王を模したものではないでしょうか。その次は結界の四方を固めていきます。”大聖不動明王!”と叫び、太刀を受け取ると、東西南北それぞれで邪なものを断ち切るように”えぇい!!”と力強く太刀を振るいます。次に弓です。こちらもなにか四方を祓う様なものなんでしょう。弓をいるマネをしていました。ほんとの昔には、実際に放っていたでしょうね四方を清め終わると、いよいよ護摩が焚かれて、その御前で荒行が始まります。この荒行の中で最も危険なのが、カチカチに熱せられた兜の鍬形の様な鉄部品を、火から掴み上げるというものです。高らかに掲げ、”不動明王!”と叫ぶ姿は必見です。もう一つ危険なものとして、両端に火が付けられた木の束を、懐中から入れ袖口から出すというもの。こちらも下手したらひどいやけどを負ってしまいます。実際にこれらの荒行の火傷によって命を落とした修験僧も多かったようです。住職さんたちが行う最後の荒行として、湧いた湯を笹でもって体にたたきつけるというものがあります。1年前に照法寺で見たものは1人でしたが、今回は2人づつ2回行っていました。乱舞と言う表現が適切でしょうか、空中に巻き上げられたお湯の粒が観客を襲いますが、それでも荒行は続きます。そしてクライマックス・・・釜に入り不動明王と唱えた後、残りの湯をすべてかぶり、釜を逆巻きに掲げて練り歩きます。これはやはり何度見ても飽きませんねぇ今回の火渡りは適切な大きさのわらじを選んだため、指の安全は守られました。久渡寺山は勇壮な行事によって山開きし、沢山の登山客を受け入れます。今年も無事、山登りの季節が始まりました!山中での無事を祈願し、締めくくりとします。今回貰った御朱印です。これらはなんと仙安さん直筆の御朱印になります。久渡寺の火渡りに合わせて、ゴールデンウィーク期間中に本堂で受付していました。なんというか、展覧会で作品を見ていただけでも満足だったのに、こんな直書きの御朱印を貰ってしまった日にゃぁ、嬉しさで天に昇ってしまうかもしれません本当に嬉しいですよ、これは!※桜にまつわる6つの図案からそれぞれ指定して書いてもらえます。今回はその内、桜観音・桜龍神にしました。桜観音桜龍神以上です。久渡寺オリジナル御朱印帳(表)大判サイズで蛇腹、ほぼ全ての御朱印に対応出来そうです。久渡寺オリジナル御朱印帳(裏)久渡寺オリジナル御朱印帳2こちらも大判で両面梵字で埋め尽くされています。付属のカバーに御朱印帳と書かれており、表裏を判別できます。・・・かっこいい!
2025年01月31日
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千葉県成田の住宅街に突如として巨大な鳥居が表れました。扁額の代わりに、菊の御紋が掛けられています。どうやら皇室と関りの深い神社みたいです。では行ってみましょう!2024.10.13小御門神社二車線の道を跨ぐようにかけられた、かなり巨大な神明鳥居です。夕日に照らされてそれはもう美しい限りですねぇ!本当は神社の参拝後に発見しました。友達と二人して夕日を背に鳥居まで走るという青春をかましたのは良い思い出です。大鳥居から神社までは車で5分くらいでしょうか、それなりに距離があります。この鳥居をくぐると境内です。脇には別格官幣社の社号標が建っていますねぇ。説明書きです。小御門神社の森 郷土環境保全地域指定:昭和54年4月3日面積:1.81㌶ 小御門神社の森は、植林された多くの樹種から成る人工林ですが、植樹後100年以上経過しているため、自然林への移行過程にあり、カラマツ・ムクロジ・オガタマキ等比較的珍しい樹種も混在する、良好な自然環境を形成しています。 本殿の裏にある公家塚は、元弘2年(1332年)5月に下総の国に配流され、その年の10月に32歳で逝去された太政大臣藤原師賢公を葬ってあり、里人は、この塚に立ち入ることを恐れて、自然林としていまなお人為加えられず残されております。この地域の動植物をとらないでください。千葉県環境部自然保護課続いて神社のご由緒です。由緒 鎌倉時代末期。藤原師賢公は清華家の家格を有する花山院家にお生まれになりました。公は若くして気概に富み、学問が深く後醍醐天皇は殊のほか寵愛なされました。 元弘の変(1331年)では、後醍醐天皇の身代わりとなり、比叡の山に登り幕府軍を迎え討ちます。「小御門」と呼ばれる所以です。そして幾度の激戦の末、六波羅探題に捕らえられ、下総国香取郡名古屋へと配流され、この地にて薨去されました。 その後、後醍醐天皇の建武中興に尽くした南朝側の皇族・武将など国家に功績を挙げた忠臣を称え、明治15年(1882年)明治天皇は国の守り神として小御門神社を創建せられ、別格官幣社に列せられました。 後醍醐天皇と忠臣をお祀りする神社を「建武中興十五社」といいます。帝に扮したということで”小御門”なんでしょうね。後醍醐天皇は隠岐島へ、師賢公は下総へそれぞれ流されたようですが、この地で没する無念たるやすさまじかったことでしょう。御霊信仰に発展しそうなもんですが、実際のところはどうだったんですかね。静かな参道を奥へと進むと手水舎が見えてきます。参道の先には神垣に囲まれた社殿が置かれています。桜の木も多く、春に来ると絶景でしょう!正面から見るとこんな感じです。門の左右にしっかりと刻まれた菊の紋。拝殿はかなり開放感があります。壁がほとんど取り払われて、まるで神楽殿のようです。奥には本殿でしょうか、神明造の社殿が横たわっていますね。そしてここからが面白いポイントなんですが、本殿の直ぐ裏手に奥の宮が置かれているんです。脇には末社が3つ、右から八幡神社・北辰神社・菅原神社です。これが噂の奥の宮。柵に囲われた石碑が見えますでしょうか?何の変哲もない石碑に見えますが、その更に背後には物凄いものがあります。なんと小高い盛土が柵に囲われて置かれています。盛土には木々が繁り、全体像は見えにくいですが、まるで古墳の様です。おそらくこれが説明書きの塚でしょうか。伝説通りならば、ここに藤原師賢公が眠っていることになります。斜めから。まさか神社とセットで古墳様のものが置かれているなんて思いもせず、参拝時は友達と二人で目を輝かせていました。尊者が眠る古墳に、それを祀る神社の社殿、これらが全て備わっている ”the 聖地” という感じの神社でした。今回貰った御朱印です。小御門神社奥の宮公式サイトへのリンクです。・成田「小御門神社」病気平癒 健身安泰《身代わりの神》以上です。
2025年01月30日
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御岩神社や花園神社など、茨城県の北半分辺りを友達と回った日の帰りに、面白そうな神社を見つけて寄り道することにしました。神社に向かっていると、橋を越えた辺りで急に大鳥居が見えてきます。これはなんだか期待できそう、二人してウキウキで参拝しました。大中神社大鳥居です。道に跨って建っており、その先には小山が見えます。鳥居が見えてきました。すごく新しい鳥居ですが、最近建立されたんでしょうか?手水です。龍が口を開けて待っています。社殿拝殿です。なかなかにしっかり装飾された社殿ですよねぇ!手前には阿吽の狛犬が控えます。ご由緒です。大中神社御祭神:大己貴命(大国主命)配祀:少彦名神由緒沿革 大同2年(807年)11月15日創建。 後、八幡太郎源義家公奥羽追討の時、館籠地(たてこもりち)字小森に「大宮大明神」を建立し、戦勝を祈願したと云う。その後、佐竹公の崇敬厚く館の台に奉祀した。 応永元年(1394)炎上後、正長元年(1428年)滝沢山に遷座した。その後、水戸藩主徳川光圀公の命により元禄13年(1700年)3月、字宿西(現在地)に曳社し、黒川・徳田・小妻・小中・大中・折橋・小菅・大菅・黒坂、以上旧9ヶ村の総社となした。 明治6年(1873年)4月1日、旧大中村村社に列格「大宮大明神」を大中神社と改称した。同40年(1907年)4月1日、第178号供進指定。 昭和27年(1952年)6月12日、宗教法人設立、現在に至る。大同2年創建ということは、記述は無いですが坂上田村麿とも関係ありそうです。というか創建月日まで分かっているのは面白いですよね。扁額の代わりに画がかかっています。この神社の例大祭を描いたものでしょうか?本堂です。神垣に囲まれていますが、遠くからでも優れた装飾が施されていると分かります。境内末社境内には10以上の末社が置かれています。これらはもともと旧9ヶ村に鎮座していた神社だと思われます。大中神社に集められたという記載も有りましたよね。これが総社たる所以でしょう。まずは拝殿右手4つ。右から稲荷神社・大山神社・鹿島神社・八幡神社です。続いて右から出羽三山神社・琴平神社・駒形神社・筑波神社。更に粟島神社(淡嶋神社)・鷺森神社。池中には厳島神社。奥の祠は不動明王だったと思います。拝殿左手に向かいます。素鷲神社。天満神社。愛宕神社。これは鳥居付です。どの祠もゆがんだり傾いたりして、かなり歴史を感じます。斜めから。地域の総社ということもあって、末社の数が半端じゃなかったですね。それぞれの祠には何の神社なのか書かれた立て札が付き、地域の信仰の姿を現していました。境内は苔むし、小木が生い茂り、なかなか雰囲気が良かったです。偶然の出会いに感謝今回貰った御朱印です。以上です。調子に乗って撮った写真ギャラリー社殿
2025年01月29日
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坂牛の凉雲寺隣に鎮座する坂牛八幡宮。明治の廃仏棄釈によって今は八幡宮とされているようですが、観音堂としての知名度が高い様で、八幡宮であると知る人の方が少ないみたいです。八戸御城下三十三観音霊場二十五番札所:坂牛八幡宮(坂牛観音堂)前回とは違って、今回は鳥居をくぐって参拝してみました。拝殿よりも駐車場から遠いため、くぐるのは地域の人が主でしょうか。竹が繁る参道を進んでいくと、階段上に二之鳥居が置かれています。ここをくぐるともう手水や社殿は目の前です。社殿です。もともと観音堂ということもあり、造りは宝形、本堂の類はなかったような気がします。いつ来ても驚かされるのが、社殿に打ち付けられた参拝名簿や札の数々・・・。中には最近のものもあり、今でも巡礼する方がいて安心しました。いつまでも亡くならずに受け継がれていってほしいですね。前回のおさらい坂牛観音堂(現坂牛八幡宮)本尊坂牛観音(千手観音)聖徳太子の作とされる。腕などは欠損しており、今では胴体と顔ぐらいしか残っていないようだ。現在は御神体として祀られている。由緒 観音堂隣の凉雲寺が当地に移ったのが延宝年間(1673~1681年)と言われており、その頃にはもう観音堂が置かれていた様である。 寛保3年(1743年)、奥州南部糠部三十三観音巡礼の則誉守西上人が参拝したときには、修復直後であったらしく順礼次第記に記述がみられる。 明治元年(1868年)の神仏分離によって、坂牛村の村社:坂牛八幡宮となった。 現在の社殿・鳥居・手水はいずれも昭和38年(1963年)5月に奉納されたものである。 坂牛観音堂は八戸修験の総元締め、常泉院の祈祷所であったらしく、八戸藩の祈願所にもなっているようだ。普段は坂牛観音堂隣の凉雲寺が管理を任されていた。 岩井重郎兵衛愛秀の八戸御城下三十三番札所では二十四番札所になっている。前回の記事:十三番札所:坂牛観音 坂牛地区にある見事な造りの観音堂堂内です。中央には一つの厨子が置かれています。おそらくここに聖徳太子御作の千手観音像(坂牛観音)が収められているんじゃないでしょうか、知らんけど。斜めから。久しぶりの参拝でしたが、社殿は健在でした。ただこの社殿も恐らく建ってから50年以上たっているので、安心はできません。ここが南部でよかったと本当に思います。御詠歌たのもしや 誓ひはおもき坂牛に ひかれてまゐる 後の世のため現代新御詠歌坂牛の 観音堂の松古りて 梢にしきりに鳴く黒つぐみ札所本尊:坂牛観音(千手観音) सहस्रभुज
2025年01月29日
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館鼻といえば毎週日曜に開かれる朝市が有名です。岸壁の下、海の真横で開かれて、かなりの人が訪れるそうな。朝市以外にも館鼻は神社仏閣が林立していることで有名です。新井田川が太平洋に注ぎ込むところに、一人どっしりと座っているかのような巨大な岸壁に、人々はどのような感情を抱いていたのでしょうか?柳湯館鼻から新井田川に沿って市街方向へ進むと、今回紹介する湯処が見えてきます。ここの休憩所は郷土についての本が多く、ついつい長居してしまうんです。風呂上がりにゆっくりするにはちょうど良い環境ですよ。浴室内は広い洗い場と3種の湯船、サウナで構成されています。まずは心身の汚れをシャワーで洗い流しましょう。まずは普通湯に入ります。普通湯は至るところからバブルが吹き出しています。温度は41℃くらい、普通ですね。湯船は一つなんですが、これがさらにいくつかの湯に別れています。座り風呂、立ち風呂、打たせ湯、電気風呂といった具合にです。この中で特に良かったのが打たせ湯と電気風呂です。打たせ湯は周りを囲うように幕が張られ、ある意味個室の打たせ湯の様な状態です。打たせ湯に打たれて、表情が緩みすぎても隠す必要がありません。これがどんなに恐ろしい事か分かるでしょうか・・・。好きなだけ緩み切れる、本当に素晴らしい空間です電気風呂は電気の強さが程よく、あずましいという言葉を地で行く入り具合です。薬風呂は独特の香りと湯質のお風呂です。確か高麗ニンジンが入ってるとかどうとか・・・不確かですが、入っていて気持ち良い事に代わりは有りません。ぬるめですが、それがかえって長風呂を促して、あがるころには相当リラックスできてしまいます水風呂はキンキンに冷えています。一気に体温が下がり、入浴がはかどります。サウナはそれこそ普通の温度です。90℃以上は有ると思います。古き良き町の風呂屋という雰囲気の湯処でしたバラエティな風呂を楽しめる素晴らしい湯処、さすが温泉王国青森・・・!柳湯料金:480円(2024.12.27現在)休憩所の飲食物:自販機(ジュース)数台入浴備品の販売:有湯の温度:普通湯の種類:3種類サウナ:有以上です。
2025年01月29日
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仕事でかいた汗を流すために近場の湯処を調べていると、何やらよさげな湯処を見つけました。仕事場からは数十分と行けない距離ではありません。鮫川の村中をひた走り、”手・まめ・館”を過ぎ、遂に辿りつきました。湯の田温泉 さぎり荘仕事終わりということもあって、既に日は暮れかけています。出張ヘルプという扱いなので、そこまでハードな仕事は要求されませんが、仕事に代わりは有りません・・・。12月の福島出張中の前半くらいでしょうか、まだまだ青森に帰るまで日数があります。ここでかいた汗を流してゆっくりしましょう。施設内に入るとカウンターがあり、そこで支払いを済ませます。右にはカフェがありますが、今の時間帯はやってない様です。かるく施設内の説明を受け、脱衣所に直行、そのまま浴室へ。浴室内は中程度の広さで、左にサウナとベランダ、右に洗い場と湯舟があります。湯舟は普通湯と水風呂の2種類です。ここの普通湯は、何というかとても入りやすい温度です。熱すぎず、ぬるすぎず、とにかく入りやすかったです。いつも以上に長風呂になってしまったのも、おそらくこれが原因でしょう。ここで温まってから、ベランダに出て澄んだ空気に身をさらすと、それだけで相当気持ち良かったです水風呂も冷たいわけでは無く、プールに近い温度帯でした。これはヒートショック防止のためだとおもいますが、必要以上に体が冷えないので良いと思いました。サウナは本格派、熱い空気が漂い、汗がツトーっと頬をつたいます。温度は90℃前後といったところでしょうか、こちらもほどほどです。全体的に中道を往く、体に負担なく入れるクセの無い温泉でした・・・!ここには広い休憩スペースが有るんですが、体が落ち着くまでそこでゴロゴロしてました。何となく体がほぐれ、明日からの仕事も頑張れそうです。外はすっかり夜闇一色、煌々と輝くさぎり荘を後にし、宿泊先へと向かうのでした。湯の田温泉 さぎり荘料金:600円(10時~17時)、500円(17時~20時)(2024.12.5現在)休憩所の飲食物:自販機(ジュース)数台、カフェもある入浴備品の販売:有湯の温度:41℃くらい湯の種類:2種類サウナ:有公式サイトのリンクです。・さめがわぶらり ガイドマップ / 湯の田温泉 村民保養施設「さぎり荘」以上です。
2025年01月27日
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去年の4月に参拝したきりでしたが、今回参拝してみて改めて面白い由緒だなぁと思いました。大通りから横道にそれたところに参道があり、真っすぐに浄生寺の小高い境内まで続いています。寺院の前には広い駐車場があり、車でも安心です。八戸御城下三十三観音霊場十六番札所:凉雲山 浄生寺まずは前回のおさらいと由緒の確認からです。本尊阿弥陀如来:八戸市指定文化財札所本尊浄生寺観音(十一面観音)由緒 来迎寺の末寺。来迎寺末寺になる前は對泉院の庵寺や大日堂とも呼ばれていたらしく、宗派が判然としなかったようだ。 元禄5年(1692年)八戸の豪商9代目又右衛門(惣十郎)と弟:松橋孫助が、浄生院の菩提を弔うために庵寺として創建。同年然誉廓信上人創建との説もある。 元禄11年(1698年)山寺号がないと不便であるため格式があがり、享保18年(1733年)には八戸南部四代藩主広信公自身が開基、徳蓮社良然廓信上人を招いて寺院として開山した。翌享保19年(1734年)には松橋孫助の尽力によって、遂に凉雲山という山号と、浄生寺という寺号を賜った。 現在の本堂は平成9年(1997年)に再建されたもので宝形造、銅板葺、桁行4間、梁間4間、正面1間軒唐破風向拝付、外壁は真壁造、白漆喰仕上げ、正面左右に華頭窓付。※浄生院:南部二十九代(盛岡南部三代)藩主重信公の側室。八戸南部三代藩主通信公の生母。 前回の記事:八番札所:浄生寺観音 美女に似せた観音像がおわす観音堂御詠歌や説明書きに見える大日如来は、以前は堂内にあったようですが、18世紀末~近現代の荒廃期に散逸してしまったそうです。札所本尊の十一面観音も損傷が激しかったんですが、平成10年に修復され現在の美しい姿に戻っています。また、岩井重郎兵衛愛秀の八戸御城下三十三番札所では三十二番札所になっています。その御詠歌は「ただ頼め はなの蕾にのちの世を 清く生きるる お寺なるらむ」です。いよいよ境内です。今回は扁額も撮ってみました。金縁の豪華な扁額です。堂内左隅には札所本尊と権現頭が収められています。札所本尊の浄生寺観音(十一面観音)です。四本の腕を持つ独特の姿で、腕や足の微妙な傾きが像に生き生きとした生命感を与えています。浄生院がどれほどの美女か分かるような気がします。権現頭は相当の年代物に見えます。充てられた祭神は八大龍王で、まさに寺の権現頭という感じがします。斜めから。知識ゼロで参拝するのも面白いんですが、ある程度知ってから参拝するのもまた良いですね!浄生寺は御堂の形も美しく、同じく新井田に鎮座する對泉院と対になる寺です。こちらが上の寺、あちらが下の寺と呼ばれているようで、どちらも八戸御城下三十三観音霊場の札所になっています。新井田に来た際は併せて参拝したいところです!御詠歌ふしぎさの 誓ひは新井田浄生寺 大日堂の きよき流れは現代新御詠歌十一面 観音像の美しや 浄生院殿 ここに睡れる札所本尊:浄生寺観音(十一面観音) एकदशमु以上です。次の記事・十七番札所:貴福山 對泉院 新井田の下の寺、對泉院の千手観音
2025年01月26日
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皆さま、初詣はどこに行きましたでしょうか?正月も過ぎ、一月も終わろうとしている頃、初詣の記事を載せたいと思います。今年の初詣は少々足を伸ばして岩手県滝沢市の鬼越蒼前神社に行ってきました。この神社は最も古い蒼前神社とされており、現在でも神事に馬が登場するなど馬と関係の深い神社です。元旦と6月第2土曜日にはチャグチャグ馬コが催され、今回初詣の時に見学してきました。何頭もの着飾った馬たちがパカパカと行進する姿は、見ていて小気味良いですよ鬼越蒼前神社一之鳥居です。幟がいくつも立って”祭”という雰囲気が漂っています。そして鳥居脇には説明書きがありますね、見てみましょう。チャグチャグ馬コと蒼前神社 その昔、野良しごとの途中で馬が暴れ出し、滝沢の鬼古里山(おにこりやま)の峠まで駆けてきて遂には息絶えてしまいました。村人たちはこれを手厚く葬って祠を建てました。これが蒼前神社の始まりといわれています。以来、村人たちは5月5日の端午の節句に仕事を休んで馬に飾りをつけ、この神社に参拝するようになりました。 チャグチャグ馬コ装束は、参勤交代で活躍する御用馬が着用した「小荷駄(こにだ)装束」に由来しています。小荷駄とは大名行列の輸送部隊のことで、馬は献上品などの物資を背負っていました。農村の馬産家たちは藩に馬を供出する務めを担い、その褒美として小荷駄装束を拝領する幸運に恵まれました。それが家の名誉となり、やがて蒼前参りの馬コに着せるようになります。こうしてチャグチャグ馬コの原型が出来上がりました。 チャグチャグ馬コの行進祭は1958年(昭和33年)から新暦の6月15日、2001年(平成13年)からは6月第2土曜日に行われることになりました。ついでに御由緒です。鬼越蒼前神社祭神保食神由緒 慶長2年(1597年)鵜飼村姥屋敷に保食神を勧請、後、享保6年(1721年)鬼越峠に祠堂を建立す。明和5年(1768年)滝沢村字鬼越の地に移転す。 明治43年(1910年)無格社月読神社を合祀。 牛馬の守護神である当神社は「盛岡チャグチャグ馬コ」の発祥地として、例祭日の恒例行事となっている。岩手県神社検索 / 鬼越蒼前神社 より抜粋こうして由緒を見てみると、当初置かれていたのは保食神の社であったことが分かります。その後享保6年(1721年)に鬼越峠の駒形神を祀る祠と合わさり、明和の移転を経て現在の形になったようです。ここから言えることは、享保6年(1721年)には既に駒形大神は保食神に比定されていたということです。それに蒼前信仰が乗っかる形で発展したんでしょうか?蒼前・駒形信仰は、どちらも馬の守護にまつわるもので、家畜守護の側面を持つ保食神と同一とされたのはこのためでしょう。なんにせよ、未だ謎が多く残る神格であることに変わりはありません。鳥居には旧称の駒形神社の扁額が掛けられています。鳥居をくぐると松の木に囲われて社殿が置かれています。祭の30分前に来たんですが、既に境内は人で溢れていました。そこかしこから聞こえる南部弁に圧倒されながらも、境内の祠などを見ていきます。参道の脇にある社です。中には馬の置物が納められているので、恐らく神馬舎ではないでしょうか。馬の置物はこんな感じです。赤い前掛けがかわいいですねぇこっちのは幣を載せています。神輿みたいな感じですね。神馬舎の向いには駒形社と書かれた石碑が置かれています。下部の馬の線刻も迫力がありますよ。境内社の月読神社です。神明造の社で、神鏡の周りに餅などが備えられていました。いよいよ祭が始まるみたいです。拝殿の前に沢山の観衆が集まっていますね。私たちもそれにかだって馬の登場を待ちます。ほどなくして、神社前の通りの端に小荷駄を着た馬が表れました。南部装束を着た飼い主さんとその家族に囲まれながら、ゆっくりと神社まで歩いてきます。鳥居をくぐってそのまま境内へ、拝殿前で止まって全員で参拝していました。馬と供に初詣するという、非常に南部らしい光景ですサービスタイムも有ります。撮影チャンスです。一頭目が参拝を終えると、続々と後続が入ってきます。白い馬以外にも黒や茶、赤茶などの馬もいました。果てはミニチュアホースまで・・・こちらは赤ちゃんや幼児を載せて撮影するためのものみたいです。計10頭近くの馬が境内に集まりました。馬を引く家族たちには甘酒が配られます。この日も大分しばれてましたから、寒さに負けないようにとのはからいでしょうか。しばし撮影タイムが続きます。祭開催の演説の後、パレードが始まります。いったん全ての馬が境内を出て持ち場に並び、一斉に再び参拝するというものです。こうして馬一頭一頭を見ていると、落ち着きがない馬やゆーっくり歩く馬など、非常に個性があります。なんだかとても人間くさい感じがして面白かったです。これは家族として迎えられるのも当然でしょう。馬産が盛んな南部地域の伝統を今に残す、素晴らしい祭でした今回貰った御朱印です。チャグチャグ馬コの公式サイトへのリンクです。・南部盛岡 チャグチャグ馬コ以上です。調子に乗って撮った写真ギャラリー信仰の社拝殿斜めから。
2025年01月26日
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現在の八戸市内を中心に札所が置かれている巡礼です。正式には”八戸御城下三十三番札所巡り”と言うそうで、霊場の開創は文化10年(1813年)に岩井重郎兵衛愛秀が伯母の岩井ルンの菩提を弔うために三十三の札所を定めたことに始まるとされているようです。岩井重郎兵衛愛秀が定めた札所は、一番札所:清水観音堂~三十三番札所:對泉院という順番だったようですが、これは現在の札所の順とは全く異なっている様なんです。現在の札所の順番は明治30年(1897年)に佐々木恭岑(来迎寺住職)が観音講のメンバーと共に回ったものに則しています。下に状況をまとめてみると・・・八戸御城下三十三観音霊場について八戸御城下三十三番札所開創年:文化10年(1813年)開創者:岩井重郎兵衛愛秀自身の伯母、岩井ルン(八戸五代藩主信興公の側室)の菩提を弔うため。現在札所の順番は引き継がれていない八戸御城下三十三番札所巡り開創年:明治30年(1897年)開創者:佐々木恭岑ら八戸御城下三十三番札所の札所を引きつぎつつ、順番は独自のもの。これが今に伝えられている。となります。現在八戸御城下三十三番札所巡りの情報はネットには殆ど載っていないように感じます。今回八戸図書館で見つけた、デーリー東北出版「八戸御城下三十三番札所巡り」滝尻善英著を基に札所を巡礼・解説したいと思います。この書籍には、出版に際して山根勢五氏により新たに作られた”現代新御詠歌”も載せられており、これも記事の方に併せて載せました。参拝した札所の位置と札所記事は下のリンクからご確認ください!・八戸御城下三十三観音霊場 参拝の記録以上です。
2025年01月26日
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南部地方と言えど、やはり青森県というか、冬になると遠方への移動が危険且つ大変労力を使うようになります。最近はほとんど八戸市内やその近辺を周るだけという状態で、遠くに行きたい欲が解消されないままです。ただ、いつも以上に八戸の歴史を意識し、それに触れるようになって、そういえば三十三観音があったよなとふと思い出しました。雪によって閉じ込められることで、かえって地域の三十三観音を巡礼する動機が生まれました実際にいくつかの札所を周ってみると、奥州南部糠部三十三観音霊場の札所とも関係する寺院だったり、八戸南部氏・根城南部氏、その家臣たちとも関係の深い寺院がたくさん含まれていました。八戸の歴史を知る・楽しむといった点でも、本当に巡礼するおもしろさがありました。 御朱印は有る所には有るようですが、現状全て揃えることは不可能だと思われます。今回は御朱印抜きにして巡礼しました。奥州南部糠部三十三観音霊場の札所とかぶっている札所は、今回改めて巡礼してみました。以前とはまた違った視点で巡礼出来て新鮮でした発願:2024.12.21結願:2025.2.2八戸御城下三十三観音霊場一番札所:紫雲山 来迎寺他の巡礼:奥州南部糠部三十三観音霊場十番札所御詠歌ふだらくや めぐりはじめのしうんざん いづつのつみも きえてこそわく現代新御詠歌朱の柱 いかしく建てる来迎寺 札所巡りの ここに始まる札所本尊:来迎寺観音(三十三観音、ゆび観音) (御宝号)南無大慈大悲観世音菩薩札所記事・一番札所:紫雲山 来迎寺 今は無き如意輪観音、焼け残るゆび観音二番札所:月峯山 廣澤寺御詠歌つたえきく 延命堂のくわんせ音 だいひの利益 あらたなりけり現代新御詠歌南無延命 地蔵菩薩を秘佛にて 春のひかりの溢るるみ寺札所本尊:三十三観音 (御宝号)南無大慈大悲観世音菩薩札所記事・二番札所:月峯山 廣澤寺 八戸南部初代が寄進した延命地蔵尊祀る寺三番札所:松峯山 心月院御詠歌ゑんありて はるばるここに拝すれば 大悲のひかり あらたなりけり現代新御詠歌煩悩の 心も消えむ心月院 聖観音の 見目やさしさに札所本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर、三十三観音 (御宝号)南無大慈大悲観世音菩薩札所記事・三番札所:松峯山 心月院 宿寺から庵寺、末寺へと成った寺院四番札所:自淵山 長流寺御詠歌ありがたや るりのひかりはかがやきて 大慈大悲の 深きまことを現代新御詠歌馬淵川 長き流れの水澄みて 瑠璃のひかりは いまも輝く札所本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事・四番札所:自淵山 長流寺 類家對泉院三末寺が一、長流寺五番札所:法海山 天聖寺御詠歌おとにきく 法海山の観世音 二世安楽 いのるこの寺現代新御詠歌昼も夜も 静寂なき世の法海山 菩薩半跏の 観世音おはすひるもよるも しづまなきよの ほうかいさん ぼさつはんかの かんぜおんおはす札所本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事・五番札所:法海山 天聖寺 八戸の街中に座す名刹六番札所:長者山寺(廃寺) ※長者山寺現存せず、痕跡のみ御詠歌いくたびも まゐるこころは後の為 大悲の誓 おもき山寺現代新御詠歌餓死供養 塔のこるのみ山寺の 跡いちめんに 蒲公英の咲く札所本尊:田中観音(十一面観音) एकदशमुख札所記事・六番札所:長者山寺(廃寺) 今は無き、長者の小庵七番札所:福聚山 大慈寺(糠塚)他の巡礼(観音堂):奥州南部糠部三十三観音霊場九番札所御詠歌ひたすらに 頼みをかけよ福聚山 現世安穏 後世極楽現代新御詠歌山門の 構えもゆかし天平の 香りを大慈 大悲観音本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर、三十三観音 (御宝号)南無大慈大悲観世音菩薩札所記事・七番札所:福聚山 大慈寺(糠塚) 八戸に寺二つあり、名は大慈寺八番札所:月溪山 南宗寺他の巡礼:奥州南部糠部三十三観音霊場十一番札所御詠歌極楽は いづくにあるとききぬれば 南の方に あるとこそゆく現代新御詠歌吉祥の み姿厨子に聖観音 しづもり給う 藩主菩提寺札所本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事・八番札所:月溪山 南宗寺 八戸南部氏の菩提眠る名刹九番札所:臥龍山 禅源寺御詠歌ちちははの めぐみもふかきぜんげんじ だいひの誓い あらたなりけり現代新御詠歌爛漫の 花の色にぞつつまれて 禅源大悲の 古きみ仏札所本尊:十一面観音 एकदशमुख札所記事・九番札所:臥龍山 禅源寺 根城南部時代よりの古刹、禅源寺十番札所:石田山 光龍寺 観音堂御詠歌ひとすじに 頼みをかくる石田山 大慈大悲の 深きめぐみは現代新御詠歌金色に かがやく三十三観音 穆山禅師 ひらきしみ寺に本尊:千手観音ふくめた三十三観音 (御宝号)南無大慈大悲観世音菩薩札所記事・十番札所:石田山 光龍寺 観音堂 八戸南部氏数代の菩提弔う名刹十一番札所:三級山 龍源寺御詠歌こひねがふ 今はさわさと龍源寺 二世安楽を いのるこの寺現代新御詠歌白毫の 光りかしこし観世音 さやけく立てる龍源禅寺札所本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事・十一番札所:三級山 龍源寺 かつての水郷に建つ古刹十二番札所:八坂神社(田向村観音堂)御詠歌まゐるより 頼みをかけよ田向に ほとけのちひか あらたなりけり現代新御詠歌習合の み佛祀りて梨木平 観音堂の ひそやかに建つ札所本尊:十一面観音 एकदशमुख札所記事・十二番札所:八坂神社(田向村観音堂) 疱瘡除の信仰を集める元観音十三番札所:籠田山月山神社(籠田山観音堂 または 鶴輪山 九星寺)御詠歌はるばると めぐりて聞けば籠田山 大悲のうみを てらすつきがね現代新御詠歌古き世の 戦さ伝えて籠田山 九曜の星の 見渡し観音札所本尊:見渡し観音(聖観音とされているが・・・詳細不明)札所記事・十三番札所:籠田山月山神社(籠田山観音堂 または 鶴輪山 九星寺) 南部の向い鶴と月山の神祀る社十四番札所:岡田山観音堂(岡田山 天台寺)他の巡礼:奥州南部糠部三十三観音霊場三番札所御詠歌かくをかた 大悲の御堂拝すれば いつつのさはり 消えうせにけり現代新御詠歌観世音 菩薩のみ声か草の屋の 御堂のほとり わたる松風本尊:岡田山観音(千手観音 सहस्रभुज → 聖観音 आर्यावलोकितेश्वर)※現在は籠田山月山神社の御神体として収められています。代わりに木造聖観音像が置かれました。札所記事・十四番札所:岡田山観音堂(岡田山 天台寺) 馬産の様子を表す小絵馬と観音堂十五番札所:明久山 傳昌寺御詠歌何ごとも ここも妙なり傳昌寺 大悲の誓い 深き谷川現代新御詠歌おほらかに 学秀佛のおはす哉 一位のみどり清しきみ寺札所本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事・十五番札所:明久山 傳昌寺 妙の地に建つ八戸藩主御立寄の寺院十六番札所:凉雲山 浄生寺他の巡礼:奥州南部糠部三十三観音霊場八番札所御詠歌ふしぎさの 誓ひは新井田浄生寺 大日堂の きよき流れは現代新御詠歌十一面 観音像の美しや 浄生院殿 ここに睡れる札所本尊:浄生寺観音(十一面観音) एकदशमुख札所記事・十六番札所:凉雲山 浄生寺 新井田の上の寺、浄生院の観世音十七番札所:貴福山 對泉院御詠歌ありがたや 誓いは此處に貴福山 五障の誓ひも はるる此寺現代新御詠歌ひた燃ゆる 炎のこころ幾十年 つらぬき大き み寺は建ちぬ札所本尊:千手観音 सहस्रभुज札所記事・十七番札所:貴福山 對泉院 新井田の下の寺、對泉院の千手観音十八番札所:長根天満宮(雨覆横枕観音堂)御詠歌むかしより かはらぬみやの観世音 よこまくらなすも ひさしなるらん現代新御詠歌みだれ咲く 桜の木蔭横枕 観音堂の小さき祠札所本尊:雨覆横枕観音(聖観音) आर्यावलोकितेश्वर※南宗寺の横枕観音とは別ものとされる札所記事・十八番札所:長根天満宮(雨覆横枕観音堂) 長根の元観音、天満宮十九番札所:内舟渡観音堂御詠歌しみじみと ねがう心は大慈悲の ふかき恵みに 身をば任せて現代新御詠歌絶え間なく 車流るるこの里の 産土神とぞ 如意輪観音本尊:如意輪観音 चिन्तामणिचक्र札所記事未二十番札所:八ッ手観音堂御詠歌何ごとも 今はやつ手の観世音 深きねがひを うるぞうれしき現代新御詠歌もろびとの 願いやさしく聞き給う 八ッ手観音 昔もいまも本尊:八ッ手観音(千手観音) सहस्रभुज札所記事未二十一番札所:矢沢田中観音堂御詠歌田中なる 大悲のみどう拝すれば みわたし広き 誓いなるらん現代新御詠歌摩訶不思議 勢至観音のみ姿に あらはれ給ふ このみ社に本尊:清川・千代川・田中観音(聖観音) आर्यावलोकितेश्वर札所記事未二十二番札所:柳水山 西光院 青龍寺御詠歌濁りなき 世にやしりうち青龍寺 いつもかはらぬ みのりなるらん現代新御詠歌居ながらに 糠部三十三札所 めぐる功徳の 青龍寺観音札所本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर※本尊阿弥陀如来の左脇侍(本尊右手)札所記事未二十三番札所:根城隅ノ観音堂他の巡礼:奥州南部糠部三十三観音霊場十二番札所御詠歌希う 心は隅の観世音 きよき流れに 身をば洗うてこいねがう こころはすみのかんぜおん きよきながれに みをばあらうて現代新御詠歌大銀杏 根城南部の歴史秘め 御堂古びし 隅の観音本尊:根城隅ノ観音(聖観音) आर्यावलोकितेश्वर札所記事未二十四番札所:延命山 善照院御詠歌のをもすぎ さとをもすぎて 田面木の 寺へまゐるも 後の世のため現代新御詠歌桂木の 木目こそよけれ今の世に よみがへりたる 御鷹の観音札所本尊:お鷹の観音(聖観音) आर्यावलोकितेश्वर札所記事未二十五番札所:坂牛八幡宮(坂牛観音堂)他の巡礼:奥州南部糠部三十三観音霊場十三番札所御詠歌たのもしや 誓ひはおもき坂牛に ひかれてまゐる 後の世のため現代新御詠歌坂牛の 観音堂の松古りて 梢にしきりに鳴く黒つぐみ札所本尊:坂牛観音(千手観音) सहस्रभुज札所記事・二十五番札所:坂牛八幡宮(坂牛観音堂) 櫛引至近、坂牛の元観音二十六番札所:広台山 常安寺御詠歌のりのみち しるも知らぬもわたしべし 大悲のふねに 身をば任せて現代新御詠歌常安寺 古き石段のぼりきて 櫛引城のむかし偲ばむ札所本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर※本尊阿弥陀如来の左脇侍(本尊右手)札所記事未二十七番札所:魚籃山 常現寺御詠歌今あらた 新地をひらく観世音 現世安穏 後生極楽現代新御詠歌みちのくの 海安かれと南国の 魚籃観音 ここにしづまる札所本尊:魚籃観音、三十三観音 (御宝号)南無大慈大悲観世音菩薩札所記事・二十七番札所:魚籃山 常現寺 外ツ国伝来の魚籃観音祀る寺院二十八番札所:護国山 十王院御詠歌はやせなる 川口いるや舟人は 誓ひをいのる 上の観音現代新御詠歌海も山も 金色に染め没む陽に 西方浄土 仰ぐみ寺ぞ札所本尊:上野観音(三十三観音) (御宝号)南無大慈大悲観世音菩薩札所記事未二十九番札所:銀浪山 福昌寺御詠歌みつうらの 舟こぎよする白銀の 福昌でらに まゐるもろひと現代新御詠歌みはるかす 海の鎮めとそびえ立つ 名も銀浪山 福昌寺とこそ札所本尊:不明(昭和の白銀大火により焼失)札所記事未三十番札所:清水観音堂他の巡礼:奥州南部糠部三十三観音霊場六番札所御詠歌水きよき 浪間の月やしろかねの 馨のひびきに あくるうなばら現代新御詠歌おせんだく 重ねしみ佛いくそたび 火を水をも凌ぎ給ひぬ本尊:白銀浜清水観音(十一面観音) एकदशमुख札所記事・三十番札所:清水観音堂 清水湧く線路の脇の観音堂三十一番札所:亀遊山 浮木寺御詠歌兎も角も 恵みや鮫の観世音 みちびき玉へ 知るもしらぬも現代新御詠歌海亀に 賜びし香木み佛に 刻みてまつる 鮫浮木院うみがめに たびしこうぼくみほとけに きざみてまつる さめうきぎいん札所本尊:如意輪観音ふくめた三十三観音 (御宝号)南無大慈大悲観世音菩薩札所記事・三十一番札所:亀遊山 浮木寺 亀が授けた香木と刻まれし如意輪観音三十二番札所:弘法大師堂(常海町大日堂)御詠歌めぐり来て 今はときはのうれしさよ 大師の同行 ともによろこべ現代新御詠歌思ひきや この街中に行き遇へる 南無大師 遍照金剛札所本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事・三十二番札所:弘法大師堂(常海町大日堂) 市街地中心にポツンとある大師堂三十三番札所:二十八日町地蔵堂御詠歌やすらかに 軒をならべる君が代に 巷にうと(た)う よろづよの馨いくとせも ちかひをここにたのみおく 二世安楽と うつをさめける現代新御詠歌花野越へ 若葉の道に汗垂りて ひた歩みきぬ 念彼観音めぐりきて 満願成就の地蔵堂 慈母観音に 打ちをさめける札所本尊:子安聖観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事・三十三番札所:二十八日町地蔵堂 直房公お抱えの地蔵堂と子安観音以上です。
2025年01月26日
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こみせ通りを知っていますか?津軽衆なら誰でも知ってる黒石の古き良き景観を残した商店街のことです。酒蔵やカフェなどが多く、歩くだけでもなかなかに面白いんです!こみせ通りから横道に入ると、寺の入口がいくつも並んだ小道があり、今回の札所もそこに境内の入口が置かれています。2024.11.10津軽八十八霊場二十八番札所:紫雲山 金臺院 来迎寺今回は黒石市史の内容を確認してから、寺院の方を見ていきたいと思います(一部加筆)。紫雲山 金臺院 来迎寺浄土宗 光明山無量院誓願寺末寺(以前は梅福山報恩院専称寺末寺)開山:良応和尚本尊:阿弥陀三尊 山号紫雲山。旧本寺誓願寺(弘前市新町、津軽八十八霊場五十七番札所)。本尊阿弥陀如来。開山良応。 寺伝では、山形村(黒石市)の山谷某が、誓願寺の弟子となり、専称寺(福島県いわき市)に学び、正保元年(1644年)開山良応として創立したとする。 「蓮門精舎旧詞」では、弘前の高橋氏から出た良蓋が、慶長3年(1598年)に開山となって創立したとする。この記録は、元禄9年(1696年)に専称寺良住がその末寺の由緒をまとめたもので津軽領29ヶ寺のうち、寺伝と異なるものが14ヶ寺あり、なぜこのように異説が生じるようになったのか説明ができない。 元禄年間(1688~1703年)焼失、享保2年(1717年)再建。現存する鐘楼堂を兼ねた山門は、元禄の火災、明和3年(1766年)の大地震の累から逃れたものである。享保6年に専称寺が遠すぎることから誓願寺(※)末に賛ったという。※弘前市の誓願寺も、いわき市の専称寺の末寺であるが、津軽の浄土宗寺院の中では惣録に並ぶ格式の寺院であったようです。津軽の浄土宗惣録は弘前市の貞昌寺で、こちらも津軽八十八霊場の四十一番札所として知られています。 山号額は、赤穂浪士大高源吾の筆になるという。源吾は、横町にあった柳屋の銘酒八重垣の看板も書いたといわれるので、何か黒石と結びつける者がいたように思える。黒石市史 385・386ページ より引用黒石の寺院の中でも随一の美しさを誇る山門です。創建当時から境内を護ってきました。本堂です。かなり大きな御堂で、凛とした出で立ちです。ここの御朱印は貰うのに札所の中で一番苦労しました。故にここが僕の津軽八十八霊場の結願寺となりました。黒石市史以外のご由緒も載せます。来迎寺(黒石市) 来迎寺の創建は江戸時代初期の正保元年(1644年)に浄土宗の寺院として開かれたのが始まりと伝えられています。 江戸時代後期には花山院忠長の縁がある松があった事から、それに興味を持った江戸時代の紀行家菅江真澄も来迎寺を訪れて境内の様子などを記録しています(松は花山院忠長が手植したと伝えられていた事からかなり期待していたようです)。 幕末には浄仙寺(青森県黒石市)の中興の祖で名僧と知られる山崎是空を輩出しています(山崎是空は来迎寺住職良諦和尚の弟子となり当寺で修行を行ったとされます)。戊辰戦争の際は新政府軍の清水谷公考が函館を放棄し黒石で陣を構え来迎寺には家臣の一部が宿泊所としました。 山門は宝形屋根、鉄板葺き、一間一戸、楼門形式、出入り口上部は花頭風の意匠、袖壁付。宗派:浄土宗本尊:阿弥陀如来青森県歴史観光案内所 / 来迎寺 より抜粋かなり大きな寺院です。しかもかの菅江真澄が参拝したところでもあります。ここで彼の記述を見てみたいと思います。旧11月7日 この里にある紫雲山来迎寺(黒石市寺町。 浄土宗、正保元年開基)の庭に、花山院忠長卿の植えられたという松がある。きのうきょうの大雪に、なおみごとなことだろうと、でかけてゆき、しめ縄をひいて閉ざしてある門のわき口からはいると、枝葉が四方八方にひろがって、雪のなかに伏し埋もれていた。 しかしながら、この松は法会を行なうたびに邪魔になってわずらわしいというので、近年のこと、その枝をおとせ、あの枝をきれと、この寺のある上人が枝をおろさせたので、姿もむかしとは変わってしまった。由緒のある立派な松を大事に扱わないひどい僧だと、おかみの御機嫌をそこね、自らも方丈の室にこもって、一年ほど謹慎したという。 その松の枝を刈り下ろしたころ、人々は、「もったいない由緒のある松を、いかに自分が法師だからといって、わが弟子のように松までも坊主にしてしまった。 あの松きり坊主め」といって、子供までもみな憎み、いまも松を見るたびにそれを言いだして非難しあっているという。 しかし、以前に見たときとは姿が変わっているようであるが、いまでも、これにくらべものになる木があろうとも思われず、みごとな枝ぶりである。この松に雪のかかっている風情はことにおもしろく、むかしがしのばれた。平凡社 ワイド版東洋文庫82 菅江真澄遊覧記3 129ページ より引用この辺額が、かの赤穂浪士大高源吾が筆っしたという書でしょうか?斜めから。来迎寺は僕の津軽巡礼の節目となった寺院なので、個人的にかなりお気に入りです。ここも留守のことが多いので、参拝前に一報入れるようにすると安心できます。御詠歌くろいしの くろくはあらでこのひかり しろきみちにぞ たのむこのてら本尊:阿弥陀如来 अमिताभ以前貰った御朱印です。以上です。次の記事・二十九番札所:宝厳山 法眼寺 古色残した黒石の名刹、法眼寺
2025年01月22日
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九月の末に日光東照宮・日光二荒山神社と共に”日光の社寺”として世界遺産に登録されている日光山 輪王寺に参拝しました。何も下調べせずに行ったので、東照宮以外にもこんな数の神社仏閣があるとは知らず、敷地内でどこから参拝しようか迷ってウロウロしてしまいました。今回中心的な堂宇は参拝出来たんですが、やはりまだまだ細かいところは廻れていません。もしまた機会が得られたら、関連寺院や諸神社もしっかり廻りたいですね日光山 輪王寺東照宮の参道の途中に黒い寺門があります。脇には日光山 輪王寺と書かれた標柱が建っていますね。どうやらここが日光山 輪王寺の入口みたいです。説明書きです。黒門 黒門は、日光山総本坊であった「光明院」の正門です。光明院は、江戸時代、日光山を中興した「天海」大僧正が日光山全体の総本坊(本部)として再興したお寺です。その当時、東照宮を含む日光全山は、皇族出身の僧侶「輪王寺宮法親王」によって治められ、さらに江戸時代を通じて輪王寺宮が比叡山と東叡山(上野)を併せた三山を管領することとなります。 光明院は延べ床面積約2600坪(8700㎡)の大書院でしたが、神仏分離の混乱の際、明治4年(1871年)5月13日の火災により大半が失われました。その際、この「黒門」は境内北側にある「護法天堂」とともに焼失を免れたため、光明院の往時を偲ぶ貴重な建物となっています。続けてご由緒です。日光山 輪王寺の成り立ち天台宗大本山開山:勝道上人本尊:阿弥陀如来・千手観音・馬頭観音奈良~平安時代 日光山は、今を遡る約1250年前、奈良時代の末(天平神護2年・766年)「勝道上人」という高僧が、十人の弟子たちとともに深い観音信仰のもと、「神仏習合」の霊山として開山されました。 平安時代には弘法大師「空海」や慈覚大師「円仁」(第三代天台座主)らの来山伝承があり、嘉祥元年(848年)、円仁による「三仏堂」や「常行堂」など天台様式の仏堂の創建を契機として、日光山は天台宗大本山としての歩みを始めます。鎌倉~室町時代 鎌倉幕府から篤く崇敬を受けた日光山は、将軍の護持僧となる僧侶を輩出します。この頃より「男体山・女峰山・太郎山」の三山を「神」として、同時に「千手観音・阿弥陀如来・馬頭観音」の「仏」として崇める「日光三所権現」の信仰が整い、「弁覚上人」という優れた指導者のもとに修験道(山伏の修行)がいよいよ盛んになります。 室町時代には所領18万石、500におよぶ僧坊が建ちならび隆盛を極めますが、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めの際、北条側に加担したため寺領を没収され、日光山は一時衰退します。江戸時代 日光山は徳川初代将軍「徳川家康」、二代「秀忠」、三代「家光」の各公から絶大な崇敬を受た高僧「天海」が貫主となり復興を遂げます。 家康公は元和2年(1616年)、人生の指南役であった天海大僧正らを駿府城(静岡)枕辺に招き、「自分の死後、遺体を久能山(静岡)に納め、葬儀は増上寺(東京)で行い、位牌を大樹寺(愛知)に立て、一周忌を過ぎたら日光山に小さき堂を建てて勧請せよ。我、関八州の鎮守とならん。」という遺言を託し、4月17日に薨去されます。天海大僧正は遺言を受け、「山王一実神道」(天台仏教を基調とした神道説)により家康公の御霊を「東照大権現」として祀りました。 三代将軍「家光」は、祖父「家康」への尊崇の念深く、家康公の死後20年となる寛永13年(1636年)に東照宮を現在の豪華絢爛な社殿へと大きく建て替えました。慶安4年(1651年)4月20日の臨終に際して、敬愛する天海大僧正と神君(家康公)の眠る日光山への埋葬を遺言し、1年2ヶ月後という短期間で、山内西端の地に「大猷院」が造営されました。明治時代~現代 明治維新の戊辰戦争では、僧侶はじめ多くの人々の努力で日光山は戦渦に巻き込まれることなく済みましたが、明治4年(1871年)に「神仏分離令」が発布されるや、それまでの神仏習合の霊山として一つのものであった日光山も、「輪王寺・二荒山神社・東照宮」に分離され「日光二社一寺」と呼ばれるようになります。第二次世界大戦(1939~1945年)でも日光山は京都・奈良・鎌倉と同様に空襲に遭うことなく、全ての文化財は無傷に継承されました。 平成11年(1999年)12月、日光二社一寺の輪王寺38棟、東照宮40棟、二荒山神社23棟、その他2棟、合計103棟と50.8㌶の境内が、ユネスコの世界遺産(文化)に「日光の社寺」として登録され、現在に至っています。説明書きを見ると766年の開山とあります。この時建立されたのが紫雲立寺(しうんりゅうじ)で後に四本龍寺(しほんりゅうじ)と改称、現在でも日光の本宮神社裏手に観音堂と五重塔が残されています。勝道上人が登頂を果たした男体山は、別名二荒山(ふたらさん)ともいい、勝道上人の頃には補陀洛山(ほだらさん)とも呼ばれていた様です。”ほだら”が変化して”ふたら”に、”二荒(ふたら)”が変化して”にこう”に、最後には”日光(にっこう)”でしょうか。これほどまでに名前の変遷があるというのは、それだけ歴史の長い霊山ということを示しているんだと思われます。境内の東端には弁財天を祀ってそうな祠と池があります。詳細は不明です。参道の右端を見ると一際大きな桜の古木がおがっています。名を金剛桜というヤマザクラです。説明書きです。国天然記念物 金剛桜 黄芽、白花大輪の山桜で花香が強く、樹齢は約500年。地際より数本の支幹に分かれ、特異の樹形をなし、その基部の周囲は約5.7mに及ぶ。繖房状に3~4花を着け、花茎は約3.8cmで、極めて大輪。 花弁は円状で長さ約1.7cm。巾は約1.6cmで、花弁の縁は重なりあっている。明治14年(1881年)、当寺門跡彦坂諶厚大僧正により現在の地に移植せられたもので、大僧正の諡号、金剛心院に因んで命名されたもの。 昭和11年(1936年)12月16日、三好学理学博士の調査により、山桜の勝れた突然変異種に属し、加うるに樹形の著しきにより国の天然記念物として指定を受く。学名:Prunus mutabilis Miyos.f Kongo Miyos.金剛桜の根元には手水が置かれています。ここの手水は風流を地でいく造詣で非常に好きです鐘楼です。天保3年(1832年)に梵鐘とともに日光東照宮の御仮御殿境内に置かれていましたが、明治の神仏分離に伴って現在地に移されました。大晦日に響く鐘の音を聞いてみたいもんです。本堂(三仏堂)です。すごくデカい・・・!堂内に入るにはチケットが必要で、参道の階段下自販機で購入できます。堂内は右の方から蛇腹を描くように順路が設定されていて、最後出口付近で御朱印をいただくことができます。本堂の詳細も見てみましょう。日光山 総本堂 三仏堂 輪王寺の本堂は日光山随一、東日本では最も大きな木造の建物で、平安時代に創建された、全国でも数少ない天台密教形式のお堂です。現在の建物は、正保2(1645)年、徳川三代将軍「家光」公によって建て替えられました。三仏堂の前には、推定樹齢500年という、天然記念物に指定されている「金剛桜」(こんごうざくら)が植えられています。 三仏堂の内陣には、日光三所権現本地仏(千手観音・阿弥陀如来・馬頭観音)という三体の大仏さま(高さ7.5メートル)と、東照三所権現本地仏(薬師如来・阿弥陀如来・釈迦如来)という掛仏の、2組の三尊仏がご本尊さまとしてお祀りされています。世界遺産 日光山 輪王寺 / 日光山 総本堂 三仏堂 より抜粋二荒山は修験道の山として発展したこともあり、熊野三山信仰に倣った解釈がされていたんでしょうね。出羽三山や岩木山などにも、それぞれの嶺や山に別々の神仏を置き、三所権現と称して祀る形態が見られるんです。全国の主要な山でこうしたムーブメントがあったものと思われます。本尊の日光三所権現の尊像は、人の身長の4・5倍ある大きな仏像。そのため威圧感がすごく、初めて見た時は圧倒されました。特にお気に入りの馬頭観音はこれまた迫力があり最高でした去年の9月末には秘仏の五大明王像も公開され、記念の切り絵御朱印もやっていました。その美しさに惹かれ、高いながらも購入してしまいました・・・。ページ下部に載せていますので、そちらも是非ご覧ください!本尊の日光三所権現の尊像はこちらからご覧になれます。本堂の裏手には何やら不思議な塔が置かれていました・・・。説明書きです。相輪橖 高さ16mの仏塔です。寛永20年(1643年)徳川三代将軍家光公の発願により、日光山第53世「天海大僧正」が世界の平和と繁栄を願って、東照宮の奥院鬼門に建立しましたが、その後の大地震のために新宮(現二荒山神社)境内に移築され、さらに神仏分離によって明治14年(1881年)に現在地に移されました。内部にはお釈迦様の舎利(遺骨)に見立てた「お経」が納められています。 正面左右にある燈籠は、山内最大の青銅製燈籠で「糸割符燈籠」とよばれます。家康公から生糸輸入の特権を許された京都・堺・江戸・大阪・長崎の糸割符商人が奉納したもので、胴体部分のレリーフは、中国の「二十四孝の物語」がモチーフとなっています。相輪橖の隣には大護摩堂が置かれています。こちらも本堂と同程度に巨大な建物です。内部には本尊の五代明王や四天王などの尊像が置かれており、参拝した時には大勢の人が座ってその尊像を拝んでいました。日光東照宮の本地堂と同じく、天井には大迫力の龍が描かれています。ちなみにこの堂宇の御朱印もあり、大護摩堂外側左端に窓口があります。大護摩堂の詳細は下の公式サイトからご覧になれます!・世界遺産 日光山 輪王寺 / 大護摩堂大護摩堂の御朱印授与所の向いには、稲荷の社が置かれていました。小さいですが、苔むした礎石に鎮座している姿は風流を感じずにはいられません。説明書きです。光明院稲荷社 鎌倉時代中期(仁治元年・1240年)、日光山第24世弁覚法印が、日光山の総本坊として「光明院」を創建し、その鎮守として建立されたのがこの稲荷社で、古くから日光山の五大稲荷の一つとして、学業成就・家業繁栄の守護神として信仰されています。 光明院は、戦国時代に一時衰退するも、江戸時代に入り日光山中興「天海大僧正」(1536~1643年)によって再興されますが、明治の神仏分離の混乱の際に焼失してしまいました。この稲荷社は、そうした日光山の歴史を伝える貴重な文化財でもあります。説明書きには書かれていませんが、祭神も気になりますよね?寺社に置かれていたということは荼枳尼天を祀っている可能性も有りますが・・・気になるねぇ。本堂斜めから。さすがに天台宗の大本山ともなれば、寺院の規模も桁違いです。特に本堂は関東でも指折りの大きさで、本尊や展示品ともに見ごたえがすごかったです。特に宝物館などもあり、そこの収蔵品もなかなかに面白いです。古仏像の類も置かれていたと思います。輪王寺の歴史を楽しむには寄らない手はない施設です(御朱印あり)。本当にえがった!今回貰った御朱印です。大護摩堂本尊五代明王(白地)大護摩堂本尊五代明王(金地) 世界遺産登録25周年記念大護摩堂(切り絵)四天王の一、毘沙門天三仏堂三仏堂(切り絵)中禅寺湖畔の別院、中禅寺の記事も有ります。興味がある方は下のリンクからどうぞ!・十八番札所:日光山 輪王寺別院 中禅寺 歌ヶ浜の立木観音以上です。
2025年01月21日
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東北に住んでいるとあまり聞きなじみのない名前の神社ですが、常陸国(茨城県)稲敷に鎮座する大杉神社は、全国に600社近い分霊社を持つ大杉神社の総本社です。茨城県と言えば内陸に食い込む形で広がる霞ケ浦が有名です。霞ケ浦は様々な水産資源をもたらし、今日の茨城県の発展の基礎を作ってきたと言っても過言では無い重要な内海です。そんな霞ケ浦の南岸で”あんば様”として古来より親しまれてきたのが今回紹介する大杉神社なんです。大杉神社香取神宮参拝後に利根川の土手道を牛久方面にひた走ります。ほどなくして右折し、利根川を越えて霞ヶ関方面へ。だんだんと道路が狭くなり、町の中を走っているとこれまた荘厳な鳥居が見えてきました。鳥居が見えたところで右折し、駐車場へ停車。さっきの鳥居の前に戻ります。町中に何気ない顔で鎮座していますが、端々の装飾が華やかすぎて異彩を放っています。鳥居脇の両天狗に睨まれながら鳥居をくぐり境内へ。二の鳥居はすんごいカラフルです。他では見ないカラーリング!燈籠の数も半端じゃないです。そのまま進むと本堂が、右に行くと末社群が置かれています。燈籠の後ろにはひっそりと大黒天が居わします。境内には七福神が祀られており、この像もその一つです。今回の記事を書いているときに気付きましたが、恵比寿さんを撮り忘れています。どこにあったんでしょうか?気づかなかったよ・・・。二の鳥居の横辺りに小さな社殿があります。扁額には”悪縁切堂”と書かれていますね。悪縁切りの作法はどのようなものなのかというと、”われおもふ きみのこころははなれつる われもおもはじ きみもおもはじ”という言を心中で三度唱え、土器(かわらけ)を叩き割るという風に行うようです。境内の所定の場所で割るか、自宅で割った破片を神社に言伝とともに送るという二つの方法があるみたいですよ。説明書きです。旧護摩堂 文化元年(1804年)完成。 桁行二間、梁間四間の寄棟萱葺風銅板葺建物。寛政10年(1798年)に焼失した社殿に代わって現社殿の完成まで仮社殿として使用された建造物。奥二間が当初本殿部、手前二間が祈祷殿(幣殿)として使用されていたとみられる。当初は茅葺屋根であったがその後瓦葺に改められた。 平成23年(2011年)に発生した東日本大震災により屋根瓦の落下被害が甚大であったため、当初の形状に近似する萱葺風銅板葺の屋根に改められた。 当初は社殿東側に並び立っていたとみられるが、その後数度に及ぶ移築を経て現在地に移された。これは現在の表参道に建てられた山門です。これとは別に昔の表参道の山門が有るんですが、道路を跨いでいるため、安全に配慮してか現在はくぐることは出来ません。こちらの門の非常にしっかりとした装飾がなされています。門をくぐると手水があります。双龍の手水は初めて見ましたよこちらが旧表参道の山門です。ここが”茨城の日光東照宮”や”元日光”と呼ばれる所以となった建造部でしょう。あまりにも豪華すぎて、初めて見た時は理解が追いつきませんでした道路側から見た山門表側。仁王像の代わりに両天狗が安置されています。この写真を見ながら一体何杯のお酒を飲んだことでしょう・・・最高の思い出です装飾もこの通り。近くで見ると尚凄いですよね!?日光東照宮に負けず劣らず、素晴らしい山門です。説明書きです・・・が、ほぼ全く未知の領域の中国故事の内容である為省略します。この分野の理解が深まった頃に見返すかもしれません。神社仏閣の木彫装飾としてはよく用いられる分野なので、見識を深めたいところではありますが・・・。山門横には神輿社があります。奥には鐘楼も見えますね。山門から拝殿の方を見ると北斗七星の形に足型が置かれています。いろいろ調べてみましたが、これは古代中国(夏王朝とあるので中国史の中でも原初に近い部分か)の聖天子”禹”の歩き方を模した禹歩というものだと思います。ここら辺はさっぱり知らない分野です。知らないけども、足型があると踏みたくなるもの・・・この通り進んでみます。するとあら不思議、脳内は小学校の時にやったケンケンパのことでいっぱいです拝殿です。もう言う事ないですね、素晴らしいの一言に尽きます。拝殿の装飾です。疲れ目には少々辛いカラーリングw斜めから見てみても、その美しさは留まることを知りません。説明書きです。社殿 本殿・幣殿・拝殿を繋ぐ複合社殿。 規模は県内最大規模で本殿は奥行二間、梁間三間。幣殿は奥行三間、梁間三間。拝殿は奥行三間、梁間五間。 本殿は三手先組の折衷様。側面及び背面に浜縁を廻らす。妻部は二重虹梁で中備を四霊(龍・鳳凰・麒麟・亀)彫刻が飾る他、多種多様な彫刻が施されている。 幣殿は鳴き龍の鏡天井となっている。拝殿向拝部の繋ぎ虹梁は龍の丸彫り彫刻となっている。西側の龍尾に(「信秀」磯部儀左衛門信秀)の銘が確認される。現在の社殿は寛政10年(1798年)、享和2年(1802年)の相次ぐ火災による焼失後に再建がなされたもので、文化13年(1816年)に遷座が行われた。棟梁は栃木県大平町下皆川の多兵衛。彫刻師は栃木県栃木市富田の磯部儀左衛門信秀一門。天井画および障壁画は磯部一門の五楽院法橋等随の手になる。本殿、幣殿に廻る瑞垣欄間彫刻は二十四孝題材のうち剡子・紅革・仲由を除く23話23面、および本殿腰組中備彫刻7面の彫刻は嶋村円鉄(円哲)作になる正徳社殿からの転用材。平成18年(2006年)完成当初の姿に復元。ただし本殿腰組中備の復元彩色は*暦時のそれに従った。また屋根は建立当初杉皮葺きであったが、文政5年(1808年)銅瓦棒葺きに改められた。平成18年これらに従い復元修復が完成。続けて説明書きです。天海大僧正と大杉神社 慈眼大師あるいは南公坊とも呼ばれ、徳川家康・秀忠・家光の三代の将軍の参謀を務め、風水師としても知られた天海大僧正に奇跡の瑞雨をもたらしたのが大杉大神さま。関東一円を襲った大干ばつの年に、当時随風と名乗っていた天海が霞ケ浦に小舟を浮かべ、東方にあった龍神(大杉大神)を勧請して見事に雨を降らすという奇跡を起こした。以来随風は江戸で将軍の参謀を務め、家康は特に彼を重用し臨終の際にも彼を立ち合わせた。また家光は随風のために天皇から勅許を得て東叡山 寛永寺(上野寛永寺)を建立。神恩を賜った大杉神社のある安穏寺の住職となり、以降明治を迎えるまで大杉神社の別当であった安穏寺は東叡山 寛永寺、日光山 輪王寺の住職である輪王寺宮が住職を兼帯する特別な存在となった。 風水師であった天海大僧正は大杉神社を江戸の鬼門守護社と定めたため関東各地から参詣の人々が絶えることがなかった。 天海、輪王寺との関係から東叡山 寛永寺に在った家光の廟である大猶院が日光山へ移される際に、廟前にあった徳川本家奉納「大杉大明神宝前」の刻印の下から、消し潰された「大猶院宝前」の文字を確認することができる。 ちなみに天海大僧正は明智光秀とともに本能寺の変より先に稲敷市江戸崎の不動院に身を隠した織田信長であったと伝えられている。天海大僧正は寛政20年(1643年)に入寂。一般にはこのとき数え年108歳であったといわれる。信長は天文3年(1534年)に生を受けているので、仮に信長が天海であったとすると満109歳・数え110歳であったことになり、他の明智光秀説などと比べると信憑性が高い。ついでに御由緒も見てみましょう。大杉神社の歴史海上に浮かぶ大杉神社 稲敷市阿波の大杉神社は、全国に670社ほどある大杉神社の総本宮です。大杉神社の鎮座する場所は、『常陸風土記』に「安婆嶋」として登場します。霞ヶ浦、利根川下流域、牛久沼、印旛沼、手賀沼、小貝川下流域などを内包する常総内海(常総内湾)に突き出すような半島地形だったことから、古代においてこの地は内海に浮かぶ島のように思われておりました。 律令体制以前この一帯は、菟上之国(うなかみのくに)という霞ヶ浦東岸域(稲敷、行方、鹿島南部)と東総域(香取、海上、匝瑳)を治めていた国の一部と伝えられております。菟上之国は菟上国、海上国とも表記され、常総内海の交易、産物を中心として成立した小国で、ここに暮らす多くの人々は漁撈と農耕の両方を生活基盤としておりました。他にも、製塩や玉造(勾玉を中心とする信仰対象の装飾品の製作)も盛んで、当時の大切な交易物資であったと伝えられております。海河の守護神あんばさま 当時、菟上之国は広大な常総内海を支配域としておりました。その内海の航路標識の役割をはたしたのが、大杉神社の巨大な杉です。この地が「あんば」と呼ばれていたことから、巨杉に鎮座する神様は「あんばさま」と呼ばれました。この巨杉は常総内海の人々の信仰の対象として、また海で生活する人々の交通標識として役割を発揮していたと考えられます。後に舟運交通守護の神様として利根川水系、太平洋沿岸の舟運業に携わる多くの方々にも信仰され、交通安全の神様として篤い信仰を受けていました。 律令体制期に、菟上之国が内海の西にあった茨城国の一部に組み入れられるまで、大杉神社は菟上国造を祀るもっとも重要な神社でした。その後菟上之国の海上支配、交易権は、南下してきた仲国の一族が築いた鹿嶋、香取の両神社に移譲しましたが、一般民衆の間では依然として、海河守護の神様としての大杉神社の信仰は温存されつづけられました。※御神木かつて「あんばさま」と呼ばれていた「太郎杉」は、1778年に消失しました。現在の御神木は、樹齢およそ1000年・樹高40mの大杉「次郎杉」と、樹高28mの「三郎杉」です。あんばさま 総本宮 大杉神社 / 大杉神社の歴史 より抜粋実際に境内を廻ってみましたが、次郎杉の時点で大分大きく、太郎杉はいったいどれほどの大きさだったのか非常に気になります。日光の瀧尾神社、鹿島の鹿島神宮しかり、古代の信仰であればあるほど巨木を御神体として祀っている神社が多い気がしますねぇ。なにかそうする理由があるんでしょうか。本殿もこの通りきらびやかです。東照宮の様な赤さが特徴的ですね。拝殿の左手側には神楽殿と末社が置かれています。その内これは神楽殿。堂内には四神が置かれていました。説明書きです。これ以外の説明書きは、ページ最下部にあります。”醤油醸造と大杉神社”、”あんば囃子”についてのものです。神楽殿 毎年節分当夜に十二座神楽が行われる。本来庭上に四神幡を立て注連縄を張り巡らせて神楽場とした名残りの四神台石が境内に据えられている。 神楽殿は正徳社殿群以降幾多の火災に遭い焼失。天保13年(1842年)に再建された神楽殿も老朽化に伴い傾斜が著しかったため平成10年(1998年)に再建。元和元年(1615年)創業成功祈祷に訪れたヒゲタ醤油の創業者であった田中玄蕃がのちにこの十二座神楽を東総地域に拡めた。 演目は猿田彦命・素戔嗚命・住吉明神・八幡大神・手力男命・天鈿女命・三宝荒神・恵比須・鈿女・榊葉・田の神・稲荷大神の十二座。これに扇舞・鈴舞の巫女舞が付属する。神楽殿の天井にはこの通り極彩色の鳥が描かれています。これには神楽殿横の布袋尊もニッコリ!次に神楽殿脇の末社群です。鳥居には大国神社と書かれていますが、これ含め合計5社の末社が置かれています。各祠の前にはひさしが取り付けられ、熱い日差しが降り注ぐ時も、雨が強い日でも参拝しやすくなっています。末社は右から・・・・天満宮:菅原道真公・四柱神社:天之御中主神、高御産巣日神・神産巣日神、天照大御神、神直日神・大直日神・白山神社:菊理媛命・五十瀬神社:天照大御神・大国神社:大国主神、事代主神となっていて、それぞれ祠の造りが異なります。是非見比べて見てください。末社群斜めから。本殿の脇には三本杉の内、三郎杉が立っています。鳥居や注連縄で飾られ、御神木感たっぷりです。三郎杉の直ぐ近くには毘沙門天が睨みをきかせていました。毘沙門天の左隣は別当寺だった龍華山 慈尊院 安隠寺が置かれていますが、別記事で紹介したいと思います。基礎部分の壁には彩色画が描かれています。寺院を取り囲むように三面に描かれています。その内一つは天台宗総本山:比叡山 延暦寺を描いたものです。彩色画からすぐのところに葦船神社が置かれています。この社は蛭子命と大国主神を祭神とする社であり、更に水子供養の社でもあります。水子供養 大杉神社に葦船神社が再興 古来、数え7歳までの子どもは神の子とされ、7歳になる前にこの世から旅立っていった子は神のもとへ帰ったとして葬式をせず水子として祭られることが多かった。 大杉神社の鎮座する一帯でも、そうした子たちすべて水子として丁重に祭った。かつて常陸内湾(江戸時代初頭まで広がっていた利根川か流域、印旛、手賀、牛久沼流域、霞ヶ浦域)に面していた大杉神社には、水子供養のためこうした地域から多くの人々が参詣に訪れていた。数え7歳にいたらずにこの世を去ってしまった子らを祭ったのが、「葦船社(あしふねしゃ)」あるいは「蛭子社(ひるこしゃ)」と称された神社。 我が国で、水子の原型とされているのが蛭子命(ヒルコノミコト)と称される神様で、別名エビス大神。あの世へ葦の船に乗せたれて旅立った後、父・伊弉諾命(イザナギノモコト)と母・伊弉冉命(イザナキノミコト)のために富を宝船に乗せて帰ってくるという伝説があり、恵比寿像は必ずと言っていいほど宝船に乗り小脇に鯛を抱える図で描かれている。こうした伝承もあり、水子を祭ることは一家の繁栄と安泰をもたらすとして、江戸時代には多くの地域から大杉神社境内の葦船社に参詣したことも知られている。 大杉神社では、廃絶に近い形だった葦船社を「葦船神社」として再興、間もなく完成の時を迎える。御祭神は、水子を守護する蛭子命と冥界を守護する大国主命。実際の愛情を注いであげられなかった子を想う、水子を持つ多くの人の思いを取り入れた社殿になっている。慰霊のための落ち着いた雰囲気の中にも贅を尽くした作りを―社殿外部は黒に銀で模様が描かれ、内部は天井に様々な花が描かれ華やかな趣がある。あんばさま 総本宮 大杉神社 / 大杉神社に葦船神社が再興 より抜粋社の前には福禄寿と寿老人が置かれていました。葦船神社から少々歩くと、駐車場の奥の方に三本杉の一つ”次郎杉”が見えてきます。三本揃った姿を見て見たかったです・・・。次郎杉から拝殿方面へ。こちらにも末社群があり、扁額には合計7つの神社名が載っていますね。参道の途中には謎の祠が・・・。どうせだから稲荷から参拝することに。鳥居をくぐっていきます。稲荷神社です。何と言いますか・・・たくさん稼げるようになれそうです。祭神は保食神。ほんとすんごいですよね、装飾!お次は勝馬神社。競馬ファンの参拝が絶えないそうですよ。その名の通り馬を守護する目的で置かれた神社の様です。面白いことに、祭神は不明。上・下野国からもそれなりに近いため、もしかしたら上・下毛野一族が信仰していたとされる駒形大神を祀ったものかもしれないと妄想しています。祠の中には猿に引かれた勇壮な馬像が収められています。古来より神猿は馬の守護神とされていたとか・・・それに因んでいるんでしょうか。説明書きです。勝馬神社御祭神:不詳 もと馬櫪社と称し、貞観4年(862年)信太馬牧に祀られた馬体守護の古社。鎌倉時代ごろ大杉神社境内に遷座された。 4月8日は大杉神社の春の大祭で別名駒牽祭と呼ばれている。境内山奥に馬場(現駐車場)があり競馬が開催された。 旧来は馬場を見渡す地に石祠として鎮座。農耕馬の消滅とともに石祠の存在すら多くの人々から忘れ去られていた。平成14年篤志家の手によって現在の地に遷座、社殿を建立。JRA美浦トレーニングセンターが近いこともあり、馬主・騎手・調教師といった競馬関係者はもとより、競馬ファンの参拝も多い。本堂もありますよ!末社の中でも特に崇敬が篤そうです。つぎは摂社になるでしょうか、捄総社です。大杉神社・あんば様とも関係の深い菟上之国の国人を祀った神社のようですよ。計4つの神社が合祀されています。説明書きです。捄総社捄総社とは日祀社・鵜神社・梶鳥社・神護社の総称。・日祀社御祭神:日女大神 ウナカミの王の祀る太陽の神様。・鵜神社御祭神:鵜神大神 歴代のウナカミの王と、これに連なる菟上国造の御霊。・梶鳥社御祭神:鳥船大神 ウナカミの王のもと海上交通と交易を守護する神様。・神護社御祭神:鵜神大神の末裔、日奉部直神護命 菟上(海上)国造となった神護命が祖先を祭祀した神社。日祀社・鵜神社・梶鳥社を再建した功により祀られた。古代常陸の歴史に深く関わる内容で非常に面白いです説明書きを見る限り、日祀社では今の日本神話とは別系統の太陽神が祀られているということなんでしょうか?天照皇大神の別名はオオヒルメであり、ヒルメ部分が共通しています。系統が異なったとしても、太陽神=女神という共通認識があったということなんでしょうか。これ以上考えると寝れなくなりそうなので、ここらへんで切り上げます。最後は相生神社です。ここは何と生殖器崇拝の社で、祭神は伊弉諾大神と伊弉冉大神の二柱なんですが、御神体はどちらも生殖器型の石碑です。おびただしい数の木札が掛けられているのが見えるでしょうか、これは願いの数を表しています。相当に崇敬の篤い社だと分かりますね説明書きです。相生神社御祭神:伊弉諾大神、伊弉冉大神 男女和合の神社で、子授け(子宝)の神社として知られている。 男根石に願い紐を懸けて月参りする。子供が授かったら女陰石に叶い紐を懸け、お礼参りの祈祷を受ける。御神体をよく見てみます。もはや形が分からないほどに札でおおわれてしまっています。大杉神社の末社は面白いものばかりでした・・・!神社を去る時、駐車場の入り口に弁財天を見つけました。明日からの筑波周辺の散策が楽しめればいいなと思いながら、友人の運転する車内から眺めていました。実際すごく楽しめたのですが、筑波山に登りたいという思いも強くなってしまい・・・。これは登りにいくしかないようです。いつになるか分かりませんが、絶対に。今回貰った御朱印です。大杉神社の御朱印末社:勝馬神社の御朱印摂社:捄総社の御朱印これら以外にも摂社・末社の御朱印がいくつもありました。以上です。公式サイトへのリンクあんばさま 総本宮 大杉神社wikipediaへのリンクwikipedia / 大杉神社補足情報コーナー神楽殿の近くに説明書きがいくつも有るんですが、醤油並みに内容が濃すぎて進行に支障をきたしそうだったので、ここに載せたいと思います。醤油醸造と大杉神社 一般に関東での醤油醸造は元和2年(1616年)の千葉県銚子市での田中玄蕃による醸造が早いとされる。玄蕃は後のヒゲタ醤油の創業者であるが、千葉県野田市で天文年間に飯田市郎兵衛によってすでに醸造が手掛けられていたという。 しかし飯田市郎兵衛は茨城県稲敷市上君山出身で野田に移住したとされている。市郎兵衛の出身は上君山の飯田藤右衛門家ですでに天文年間(1532~1555年)に土岐原氏に納める醤油を醸造しており、天正2年(1574年)に家業としたといわれている。関東醤油醸造の初期の創業者は藤右衛門家に創業の折には挨拶に赴くのを慣例としていたとみられ、その折に藤右衛門家が信仰していた大杉神社での祈祷を受けることも恒例化していたとされる。田中玄蕃もそうした中の一人であり、高梨兵左衛門(キッコウマン)、国分勘兵衛(大国屋、のちの国分)などが代表例である。 醸造家とともに廻船問屋や諸々の商いをする商人たちが多く大杉神社を参詣するようになった。盛時には神社周辺に20軒ほどの参詣宿が軒を連ね、参詣人の多さは「蟻のあんば詣で」と称された。また参詣人の増大と信仰の隆盛は豪奢な社殿群の建設を可能にし「あんば日光」の異名をもって称されるほか「あんば参れば日光みることなし」と称されるほどであった。※1. 大杉神社鎮座地の地名「阿波」は「あんば」と称されてきた。旧村合併の際「阿波村」となり村名は「あば」大字名は「あんば」であったが後に混同されることが多くなり、現在は「あば」と発音されている。大杉大神さまの鎮座地が「あんば」であったことから、大杉大神さまを「あんばさま」「あんば」と一般には称していた。あんば囃子 これまで元和元年(1617年)にヒゲタ醤油の創業者田中玄蕃によって上方からもたらされたとされたと言われていたあんば囃子は、すでに天正年間(1573~1592年)に境内で踊られており、初源は天文年間(1532~1555年)に遡る。 その後下火となったものの享保10年(1725年)隣村須賀津の若衆が大杉神社内の幣束を持ち出し、悪魔祓え囃子を奏し踊ったことに端を発し、翌享保11年(1726年)には水戸市および千葉県市原市に及ぶ広域に流布。さらに享保12年(1727年)永代寺境内で出開帳が行われた。この際悪魔祓え囃子と称していたあんば囃子が大流行となった。江戸市中を席巻した囃子は、市中の混乱を招くとするほどに盛況であったため江戸町奉行大岡越前守忠助により禁令を受けるほどであった。 その後も各地に伝播、佐原囃子・潮来囃子・成田祇園囃子など関東近郊の多くの囃子の源流となった。
2025年01月20日
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つつじ祭りでも名高い七戸の天王神社。牛頭天王を祀る社で、県内には少ない八坂神社の系列の神社です。七戸町史にも、なぜこの地に牛頭天王が祀られたのかは分からないと書かれていましたが、現在まで数百年も大事にされ続けたということは、それなりの受け入れられる土壌があったものと思われます。七戸町秋祭りにも加わる、地域の有力神社を見ていきましょう2024.6.29天王神社小高い丘の麓に鳥居と社号標が建っています。社号標には天王神社とありますね。奥には長い上り参道も見えますよ。この参道は俗に言う男坂で、左手の方にはつづら折りの女坂も有ります。毎年春から夏にかけて参道両脇にツツジが咲き誇り、天王つつじ祭りが行われています。この時期には県内外からの参拝者が特に多いようです。参道を登り切ると宝形造の社があります。額堂という社殿で、名前からして扁額などの社宝を納めて居そうですが、詳細は不明です。拝殿です。非常に堂々とした佇まいですね拝殿右手には由緒書きも有りました。天王神社由来 天王神社は、応永初年(1394年)当地へ勧請されました。 主祭神は、本来国際的神格を有する牛頭天王ですが、我国では、素盞嗚尊のことであり、京都八坂神社と同じく、その妃櫛稲田姫命、御子八王子を併せ祀っております。 素盞嗚尊は勧善懲悪神であり、安穏長寿、五穀豊穣を司る神様であると共に、水神でもあります。 明治のはじめ、神仏分離の際、須賀神社と名乗った時期もありましたが、程なく、昔から親しんできた天王様の愛称に復し、七戸をはじめ近郷近在の人々からも広く信仰を集め今日に至りました。例大祭:10月10日 天王神楽(天王の権現様)は宝暦(1751年)の頃、当社に伝えられました。 伊勢神楽の流れをくむ優雅な舞と哀調をおびた美しい調べは貴重な伝統芸能であり、例祭の旧暦6月満月の宵から3日間は七戸の真夏を彩る風物詩の一つになっております。平成11年6月10日 宗教法人 天王神社併せて七戸町史の記述も見てみましょう。須賀神社 旧七戸域祉左方の高岡に鎮座し、素斐鳴尊を紀る。相殿として崇徳天皇・火産霊神を合祭する。須賀神社の名称の由来は、索斐鳴尊が櫛稲田姫を妃となさった時、詠まれたという「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を」を詠まれたのが、出雲国の大原郡須賀の里であったことによるものであるが、それは明治初年の神仏分離令後の改称で、それ以前には、牛頭天王社・祇園神社・八坂神社・素斐神社とも呼ばれ、別に天王様・愛宕様と親しみ呼ばれてきた神社である。 これについては盛田稔著『七戸牛頭天王由来記』という小冊があるが、それによれば本来の祭神は印度の牛頭天王または武塔神であるというが、日本にはいってきて素斐鳴尊と習合し、複雑な性格をもつにいたったという。全国的に荒神として恐れられまた糺し神として信仰されてきた。 牛頭天王社が七戸に勧請された年代は不明であるが、先の調査書によれば応永初年(1394年)の頃ではないかという。年代不明の黒漆の内御堂、享保3年(1718年)~享保9年(1724年)の納経札、宝暦12年(1762年)~安永2年(1773年)その他の棟札などが残っている。文久3年(1863年)に同社境内に妙見堂を建立したようで、その棟札が残っている。 祭典は以前1月10日に行なったが現在は9月10日に行なっている。参拝者は1日と10日に詣でている。現在の社殿は昭和31年(1956年)に建てたもの、拝殿が梁間四問桁行三間、幣殿は梁間三間桁行一問、本殿は梁間二間桁行一間の規模で、向拝は唐破風づくり、外に二間四面の額堂がある。境内には外にこま犬一対・石燈一対がある。こま犬は安政6年(1859年)正月吉日、浜中幾治郎・同善右衛門・同友吉・運贈船福吉丸与八の奉納になるもので石燈篭は、発起人三上ツル・内山たき外6名の寄進したものである。 社殿の東方に高さ154cmに及ぶ御影石の碑がある。表面に南無地蔵願玉大菩薩と刻み、片側に宝暦14年甲申(1764年)正月24日の紀年をほり、反対側に願主十数名の名を刻んでいる。台石の高さは40cm。七戸町史 364~366ページ より引用境内の由緒書きには記載されていませんが、祭神の素戔嗚命(牛頭天王)・櫛稲田姫命・八王子命以外にも火産霊命(愛宕権現として祀られたか)・崇徳天皇などが合祀されているようです。崇徳天皇は菅原道真公・平将門公と共に日本三大怨霊に数えられる神格であり、流刑先の讃岐や上方での信仰が主だと思います・・・。御霊信仰に由来するものだと思いますが、どうして当地に祀られたのかは不明です。扁額は金縁で非常に豪華です。別に神徳無限と刻まれた扁額も有りました。拝殿内です。千羽鶴の数がものすごいです。斜めから。天王神社は14世紀の建立とされる古社でした。小高い丘の上に鎮座するその姿は、まさに地域を見守るかの様です。逆に七戸の町中からも良く見え、それ故か崇敬も大変篤いようですねぇ毎年晩夏には七戸の秋祭りに加わり、観衆注目の中、町内を進んでいきます。和太鼓の演奏や仮装パレードなども付随し、まさに地域を代表する祭りです。去年はなんとか観覧できましたが、特に和太鼓の演奏は大迫力!音がぶつかってくるという表現がピッタリの力強い演奏でした。今年もまた参加したいと思います。つつじ祭りの写真撮りもしたいですねぇ以上です。調子に乗って撮った写真ギャラリー男坂と社殿秋祭りの山車2025.1.11冬詣出町内を割るように、真っすぐ参道が走っています。南部地方でも八甲田に近い地域は津軽並の豪雪です。拝殿も雪に囲まれていました。日差しは煌々と照り付けるので、凍った所がにわかに溶け出し、殺人的な参道(上り階段)を生み出していました。境内の謎の石です。境内から見える七戸城跡。あそこには神明宮も鎮座しています。拝殿斜めから。小登山をした甲斐あってか、美しい拝殿を撮影出来ました以上です。
2025年01月18日
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金木町の町中は道路が入り組んでおり、それに沿って住居がひしめいています。住宅と住宅の隙間を埋めるように幾つかの神社仏閣が配され、地域の信仰の起点となっているのですが、この朝日山 照蓮院もその内のひとつです。2024.11.9津軽八十八霊場八番札所:朝日山 照蓮院斜陽館から金木八幡宮へと向かいます。境内は静かで落ち着いた雰囲気が漂っていました。豪壮な社殿を横目に、参道に沿う形で走る小径を下っていくと、町を横断する様に伸びる県道2号に突き当たり、そこを西に向かい歩いていると、照蓮院の寺門が顔を出します。照蓮院の隣には金木愛宕神社が置かれています。拝殿です。”五所川原市の地名 178ページ”の記述を見てみると、建立年代は不明、延宝8年(1680年)に再建されているようです。神社名からして、祭神はおそらく火産霊命・加具土命でしょうか。鎮火の御神徳があると有名な神社なので、町内で火災が発生しないことを願って建立されたのではないでしょうか、知らんけど。照蓮院と至近であり、照蓮院の境内に置かれた地蔵尊と何らかの関係がありそうですよね。愛宕権現の本地は地蔵尊とされており、そのためか火伏の謂れを持つ地蔵尊は日本各地にあります。津軽では愛宕山 橋雲寺の勝軍地蔵尊や青森市の茶屋町延命地蔵尊が有名でしょうか。照蓮院の地蔵尊堂にはいくつもの地蔵尊像が収められています。金木周辺は特に地蔵信仰が根強いのか、こうした地蔵堂を持つ寺院が多く見られます。例として、津軽八十八霊場七番札所:金木山 雲祥寺や番外札所:川倉賽乃河原地蔵尊堂などが挙げられます。本堂です。早速ご由緒(一部加筆)を見てみましょう。朝日山 照蓮院浄土宗名越派 月窓山栄源院貞昌寺末寺開基:教誉浄頓本尊:阿弥陀如来 浄土宗名越派、貞昌寺末寺で本尊は阿弥陀如来です。 縁起によると、元禄7年(1694年)7月11日教誉浄頓が金木村中の地蔵堂跡地に庵を設け、念仏弘通(仏教の教えを広めること)の道場として開基したと言われています。 宝暦13年(1763年)正月17日弘前貞昌寺の隠居照教和尚が、貞昌寺の末寺とし浄土宗名越派に属し、安永2年(1773年)8月4日照蓮社として開創しました。 明治初年に寺号が許され照蓮社を喜三山照蓮院とし、後に山号を朝日山と改称しています。五所川原市の地名 179ページ より引用境内にはもともと地蔵尊堂が置かれていた様ですね。創建年の元禄7年(1694年)には既に廃堂となったのか、跡地とされていますが・・・。本寺の貞昌寺も津軽八十八霊場の四十一番札所として知られている名刹で、県指定名勝に指定されている庭園が有名です。扁額です。斜めから。金木の町に鎮座する寺院の一つということで、趣のある御堂が特徴的な札所でした。本尊の阿弥陀如来が札所本尊になっており、堂内に置かれています。蠟燭に火を灯し、線香を立て、合掌。線香の香りが漂う中で望む阿弥陀如来の顔は、いつも通りの仏頂面です。今年もこの仏頂面を拝み続けられるように、精進して稼いでいきたいと思います。御詠歌えんありて はるばるここにはいすれば だいひのちかい おもきあさひやま本尊:阿弥陀如来 अमिताभ以前貰った御朱印です。以上です。
2025年01月18日
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三沢市の内、古間木という地域には神社や仏閣が集まっており、今回紹介する立正閣も鎮座しています。三沢駅を囲むように様々なスポットがある為、電車で来て、あとは歩きで、という楽しみ方もできそうです。ちなみに地名の”古間木”は”ふるまき”と読まれ、古牧に由来しているそうです。方言的には”ふるま↑ぎ↓”と読まれます。当地域では木崎の牧という藩営大牧場が有りましたが、それを今に伝える地名となっています。立正閣三沢駅から徒歩数分、アクセス最強です。外観は普通の民家ですが、境内には立正閣と書かれた看板が建っています。ここの寺院のご由緒などは不明ですが、おそらく県内で一番ホスピタリティー溢れる寺院だと思われます。まず、絵入りの御朱印は手書きで、当然待ち時間はそれなりにかかります。ですがその待ち時間中に抹茶とお菓子が楽しめるので全く気になりません。むしろウェルカムです手書きの御朱印は月ごとに絵柄や文が異なり、そうした御朱印が好きな方には特に刺さる御朱印です。今回貰った御朱印は雨の時期に合わせたもので、曇天を駆ける龍が描かれています。淡い色合いで表現される曇天もさることながら、光り輝く龍と達筆な書が合わさり、一つの作品として御朱印帳に刻み込まれています。正直あの値段でこの素晴らしいクオリティーの御朱印をいただくのは本当に申し訳なく、もう少し多く支払いたい気持ちになりました。素晴らしい御主題を書き入れてくださり、本当にありがとうございました!以上です。
2025年01月18日
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つがる市の中でも非常に栄えている地域として知られる柏村。イオンモールや自動車道の出口がある賑やかなエリアから静かな村の中に向かうと、この土地の鎮守であろう立派な鳥居が見えてきます。実際に社格は郷社であり、柏村のみならず、近郷からの崇敬も篤いようです。2024.11.10柏正八幡宮鳥居は石造で堂々とした佇まいです。誘う様に伸びる長い参道は、奥の林の方へ続いています。参道脇の空き地に停車し参拝しました。参道には一の鳥居から二・三の鳥居まで置かれており、最後の鳥居をくぐると拝殿は目の前です。手水はかっこいいながら、使用できるのかは分かりませんでした。ご由緒です。柏正八幡宮御祭神主祭神:誉田別命(十五代応神天皇)相祭神:少彦名神御由緒 天正4年(1576年)旧3月津軽平定の途上にある津軽為信公は、ある時鯵ヶ沢地方巡視の帰り妙堂崎の山手にさしかかった際、遥か東北の方に茫々と広がる芦原を望むと無住の地と思わる彼方に一大老樹が天を覆うている。その傍らより一条の炊煙が立ち上るのを見つけ奇異の念をいだき、その所を訪ねる事にした。 ようやくたどりついて見ると一大老柏木の傍らに茅葺の家が三軒並んであった。これは工藤祐益・花巻賴母・山崎織部等落武者の庵で、付近僅かに粟稗畑が耕されてあった。一行は暫くこの草庵に憩をとることにした。 昼時ともなったので、村人達は心をこめて粟や稗の酒飯を炊いてもてなした。為信公はことのほか上機嫌で祐益老の願いを聞くと、産土神の御加護の下に開墾を進めたいとお宮の建立を上願した。そして為信公はその四方遥か広漠たる葦原を眺め、この土地を広須野と名付け帰城して行ったという。 翌天正5年(1577年)旧3月公命によりて国家安泰・万民豊楽・五穀成就・新田開発成就の祈願の社として広須八幡宮が建立され、祐益老の孫千之太天が宮司となった。 寛文8年(1668年)に川端村(桑野木田)に移転され、広須・木造両組の新田開発の総鎮守として代々藩主の祈願所とされる。 明治22年(1889年)柏村となってから柏正八幡宮と改称し現在に至っている。津軽初代為信公の命によって建立された八幡宮だったようです。珍しく創建由緒が具体的で真実味があります。柏村の成立とも関わる内容で、非常に楽しめました・・・!他のサイトのご由緒も載せて内容を補足したいと思います。・・・。柏正八幡宮は当初、旧柏村広須にあり広須八幡宮と称していましたが寛文8年(1668年)四代藩主津軽信枚の命で現在地に遷座し引き続き広く信仰を集めました。 その後、廣大山 浄円寺の鎮守社である稲荷神社(保食神)が合祭、さらに明治6年(1873年)に薬師宮(少名彦名神)が合祭となり、同年に郷社に列しています。明治42年(1909年)に為信公直筆の棟札”正八幡宮”にあやかり柏正八幡宮に社号を改めています。青森県歴史観光案内所 / 柏正八幡宮(つがる市) より引用境内の由緒書きには書かれていませんが、保食神も合祀されているみたいですね。保食神が祀られていた稲荷神社、その社が置かれていた廣大山 浄円寺は津軽八十八霊場八十四番札所としても知られています。大きな本堂を持つ寺院で、昔は茅葺屋根でした。ここもいつか紹介したいです。境内には小祠が三つ置かれています。下の写真にはその内の2つと石碑が見えます。小祠の祭神は不明ですが、合祀された薬師神社の祭神かもしれません。とすると少彦名神と大国主神でしょうか?小祠ながら紙垂が下がり、良く管理されているようです。隣の石碑も参拝直後には記憶していたんですが、何が刻まれているか忘れてしまいました・・・。ただ前方2つの石碑は月と太陽が描かれているため、月待の行事と関係ある石碑だと思われます。特に左側は天細女と猿田彦と刻まれており、庚申塔の一種かもしれません。そして左側には残りの一祠と石碑群があります。石碑にある通り、おそらく祭神は保食神で、もと廣大山 浄円寺の鎮守社だったものでしょう、知らんけど。拝殿です。松に囲まれた厳かな社は、見ているだけで心が和みます。木材のおちついた色のせいでしょうか、それとも境内の緑のおかげでしょうか。拝殿の装飾です。木鼻の獅子がお気に入りです扁額です。拝殿外側には奉納された干支絵馬が飾られています。この微笑む牛の絵馬が結構好きです。こちらには虎とウサギも。毎年同じ方が書かれている様ですね。斜めから。津軽に居た頃は、勝負の前の日によくこの神社にお参りしていました。ここにお参りすることで、自分のステータスパラメーターにバフが付くような感じがします。特に精神力は+5ポイント強化されます(?)。そんな阿呆なことを言いつつ、境内の写真で締めたいと思います。参拝することで気が引き締まるのは確かです以前貰った御朱印です。拝殿右手の宮司さん宅でいただけました。以上です。調子に乗って撮った写真ギャラリー
2025年01月16日
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上野と言えば、大寺院の東叡山 寛永寺が有名ですが、今回紹介する江戸六地蔵の札所(仮)もその塔頭の一つです。本地の寛永寺からも徒歩数分。すぐに着きます。六番札所とは銘記しましたが、ここを江戸六地蔵の札所とするかは、札所間でも意見が分かれるらしく、はっきりしたことは言えません。ただ面白い寺院である事だけははっきり言い切れます。江戸六地蔵六番札所②:東叡山 浄名院寛永寺の寺門から北を向くと、すでに東叡山 浄名院が見えます。立派な寺門が建っているそうなんですが、参拝時は工事中でした。境内東側が入り口で、入るともう異様な光景が広がっていました。おびただしい数の地蔵尊が立ち並んでいます。まぁ、これはまだ片鱗でしかないんですがねぇ・・・。事務所を横目に境内奥に進むと、本堂が見えてきました。白く現代的な御堂ですねぇ。提灯や香炉、灯篭などが昔の姿を今に伝えます。ご由緒です。縁起 昔は高重院、其後寛文6年(1667年)圭海大僧都開基。東叡36坊の浄圓院と称し、寺領二百石を賜う。五代将軍綱吉公の母寶樹院菩提所となり、寛海和尚は養善院に転住さる。寛文12年(1673年)当山第一世妙立和尚安楽律の新法門を唱導。これに対し山徒頻に誹謗せしが、妙立門下霊空和尚出で師説を顕揚す。 当時日本佛法の大王輪王寺宮の大御心を動かし奉るに到り、遂に享保8年(1723年)御令旨に依り安楽一派を興立し、当山は浄名律院と改称し建立さる。又一山一ヶ寺の制を設けて、比叡山に安楽律院、東叡山に当山、日光山に興雲律院の三院県立本山とし、徳川幕末の本宗棹尾の偉観を呈す。大明院宫、崇保院宮、隋宜楽院宮、御三代法親王の御崇敬を仰ぐ。殊に崇保院宮は地蔵信仰深く自ら尊蔵を画き江戸府内寺院に賜わり毎月24日の縁日はそれより始まる。 当山三十八世妙運和尚自他の人を合せ、八万四千の石地蔵尊を建立し、上は佛祖の供恩に酬い、下澆末の衆生を救わんとして発願さるや、直に北白川宮能久親王殿下の十数体奉納あり。徳川、小松、一條、近衛、毛利等各家の奉納に倣い、各界の人これに続き建立今日に到る。 境内には明治初年神佛分離に際し、江戸六地蔵六番(永代寺富岡八幡宮の別当寺)は廃寺となり、地蔵尊も破壊され、以来当寺に江戸六地蔵第六番として再造された。江東区第五編第八章宗教一六二五頁に当時の地蔵尊の背面文が書かれているので之を記す。東叡山 净名院古典の知識が皆無なので、少々難解な文章に感じます。書き下し分の様な御由緒も見つけたので載せたいと思います(一部加筆)。東叡山 寛永寺 淨名院(通称:へちま寺)天台宗 開山:玄門大和尚本尊:阿弥陀三尊 浄名院は東京都上野公園東叡山寛永寺の北にあり、緑の樹木におおわれ境内は約千六百餘坪あり、寛文6年(1666年)圭海大僧都により上野寛永寺36坊の一つとして開かれ四代将軍徳川家綱の母宝樹院の菩堤所となり浄円院と称した。享保8年(1723年)安楽律院となり妙立大和尚の孫弟子玄門大和尚を第一世として浄名院と改称した。 当時の江戸は華美で繁栄めざましい時代であったが寺の隆盛のかげには不徳な僧を生むようなこともあり、妙立大和尚はこれらの僧風に根本から刷新を加え、ただ一筋に清い信仰を広めたい一念であらゆる迫害に耐えて安楽律院を開かれたのである。やがて輪王寺宮様の支持を得て御朱印二百石を賜った。そして比叡山には安楽律院、日光山には興雲律院、東叡山には浄名院すなわち一山一所の三院が創立された。 明治12年(1879年)三十八世妙運大和尚が釈迦入滅百年後印度の阿育王が、八万四千の石宝塔を世界各地に建立されたように、一つには仏恩に報い、一つには民衆を救うため八万四千体の石地蔵尊建立を発願された。そして自づから地蔵尊の真影を八万四千体拝写し、これを八万四千人に授与しこの受施者は必ず一体建立できるよう誓願された。奉納には率先して北白川能久親王が十数体造立、徳川、小松、近衛、一条、毛利の旧殿上人、陸奥宗光、大山元帥、犬養木堂また三井、安田の財閥、梨園の花形その他各地の方が造像し今日に続いている。一年一度の効験あらたかなへちま加持祈願法要が毎年あり(旧8月15日)その十五夜の日には全国の信仰者が参詣し境内を埋める。 明治初年神仏分離によって江戸六地蔵六番の寺(永代寺富岡八幡宮の別当寺)が廃寺となり、地蔵尊像も破壊されたので、後に当山境内に江戸六地蔵第六番が再造された。天台宗東京教区 / 東叡山寛永寺 淨名院(通称:へちま寺) より抜粋本堂内には本尊の阿弥陀如来と脇侍の2仏が置かれています。祭壇の右手には毘沙門天らしき像も見えます。再び外へ。境内には地蔵尊関係の石碑が所狭しと置かれています。これは八万四千体地蔵尊の記念碑でしょうか。稲荷社も置かれています。祭神は伏見稲荷大明神です。稲荷社の傍らには石猿が置かれています。なかなかに精巧な像です。こっちには不動尊。こっちには摩崖の六地蔵。そんで閻魔地蔵尊なるものもありました。大きな五輪塔も有ります。これが寶樹院の墓なんでしょうか。五輪塔の近くには、当寺院の名所の一つ、へちま地蔵尊が置かれています。宝珠の代わりにへちまを持ったその姿は、十五夜に開かれるへちま加持祈祷の時には多くの参拝者の目に触れる事でしょう。周りには本当にへちまが植えられており、夏らしさが感じられる地蔵尊です。境内中央辺りには地蔵堂が置かれています。地蔵堂の右側には、江戸六地蔵の尊像(仮)が置かれています。明治39年(1906年)になって造立されたものなので、まだまだ新しさが残っていますね。一応新しい六番札所とされています。地蔵堂の周りにはまだまだ面白いものがあります。八万四千体地蔵の第一番目の地蔵尊です。明治12年(1879年)三十八世妙運大和尚が始めた八万四千体地蔵の建立ですが、その第一歩はここにある小さな地蔵尊みたいです。地蔵堂内にはもちろん地蔵尊像が置かれています。地蔵堂斜めから。では、八万四千体地蔵を拝んで締めくくりとします。2024年3月時点で、境内約三万体、全国合計約五万二千体にもなっているようです。あと約三万体ですね、近いうちに達成しそうです。八万四千体のうち八体は、湯島の柳井堂 心城院に建立されています。説明書きです。八万四千体地蔵 この寺の名は初め浄円院といい、寛文6年(1666年)寛永寺三十六坊のーつとして創建された。享保8年(1723年)净名院となる。表門は享保年間(1716~1735年)の建立。 地蔵信仰の寺となったのは第三十八世地蔵比丘妙運和尚の代からである。妙運和尚は大坂に生まれ、二十五歳で日光山星宮の常観庵にこもったとき地蔵信仰を得、一千体の石造地蔵菩薩像建立の発願をたてた。明治9年(1876年)浄名院に入り、明治12年、さきの一千体の願が満ちると、さらに八万四千体建立の大誓願に進んだ。明治18年(1885年)には地蔵山総本尊を建立。各地から多数の信者が加わり、地蔵菩薩像の数は増え続けている。 境内にある青銅製の大きな地蔵菩薩坐像は、かつて江戸六地番の地蔵菩薩像があった深川永代寺が明治維新のとき廃寺になったためと、日露戦争の戦没者を弔うため、明治39年(1906年)新たに建立されたものである。 なお、旧8月15日の「へちま供養」には、せき、ぜんそくに効験を願う人々で賑わう。平成13年3月 台東区教育委員会境内の地蔵尊置場には、まだまだ大分空きがあり、今からでも建立は遅くないようです。何にせよあれだけの数の地蔵尊が並び立った時の景色は圧巻の一言です。造像年:明治39年(1906年)置かれた街道:?今回貰った御朱印です。江戸六地蔵尊本尊阿弥陀如来へちま地蔵八万四千体地蔵尊公式サイトへのリンクです。・上野さくら浄苑以上です。調子に乗って撮った写真ギャラリー
2025年01月15日
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10月のはじめ頃、名取から秋保経由で蔵王まで廻りました。その時に、以前逃した秋保大滝の不動尊を参拝し、無事御朱印をいただくことができました。前に来た時もそうなんですが、仙台の中心街から秋保の不動尊に向かうまでに、異常な数の幟旗が収められた神社があったんです。ここも以前は参拝できず、今回やっと参拝出来ました。秋保神社名を秋保神社、聞きしに勝る幟の数、計り知れない歴史を感じます。参道脇の石碑は山の神の他、蔵王権現、湯殿山など東北の有名どころばかり並んでいます。その内の一つは天女の様な石刻の像で、おそらく淡嶋明神を象ったものかと思われます。他には天照皇大神のものなども有ります。一の鳥居をくぐるともう、おびただしい数の幟旗が参道沿いに立ち並び、異様な光景とも取れます。しかしこれは、幟の数だけ願掛けした者がいるという崇敬の証明なんです。勝負の神と書かれているので、何かしらの武神が祀られているのか・・・気になりますが、先を急ぎましょう。立派な山門をくぐります。山門内部には神輿と秋保神社名産の達磨が置かれています。社務所でもオンラインショップでも、ひとつひとつ手作りの小さな秋保達磨を買うことができます。僕も旅のテンションにまかせて買ってしまいました今年も様々な物ごとに負けじと頑張りますよ!達磨の購入は公式サイト↓から出来ます!・秋保神社 / 御札・御守山門をくぐると、絵馬に囲まれた木が立っていました。恐らく御神木でしょう。近づいてみると説明書きが建っていました。それによると・・・子育て若乳銀杏 当社の銀杏は古くから御神木として親しまれ、秋になるとたくさんの実を付け、その姿はまるで子供を抱えているかの様子で子宝・子育ての信仰が厚く、多くの母が我子の成長を祈った。 よく見ると枝の付け根に乳房の小さいものがついており「若乳銀杏」と呼ばれているが、災難除けなどのご利益もあると伝えられている。だそうです。垂乳根というやつで、よほど長い年月を生きた銀杏から垂れてくるみたいです。こうした古銀杏は、どの地域でも育児と関連した願掛けがなされる信仰対象となっているんでしょうね。青森県内でも深浦にはかなりの年より銀杏が生えていますが、それにも垂乳根がたくさんついています。更に奥には七福神が並んでいます。そしてその隣には末社群。右から・熊野神社:須佐之男命・稲荷神社:倉稲魂命・雷神社:別雷命・天神社:菅原道真命となっています。拝殿の方に進んでいくと、塀に囲まれ、表面がザラついた岩が置かれています。周囲には砕けた陶片のようなものが散らばっています。勝石という様で、これに玉を投げつけ割れれば厄払いできるというもの。いわゆる厄割玉です。勝石の隣には末社の奏神社があります。この末社は珍しく道祖神を祀っています。公式サイトでも、男性はこちらにお参りすると良いと書かれており、子宝に恵まれるようにという願掛けの場になっているようです。道祖神は時折、男根型の石や木が御神体として祀られることもあり、生殖器崇拝と関連する神格と言えそうです。では拝殿の方も見ていきましょう。まず特筆すべきは前面に置かれた大絵馬でしょうか。この年は辰年で、力強い表情の龍が描かれています。”勝負の神”と評される秋保神社にピッタリのデザインでした次は一ノ蔵でしょうか。4つの酒蔵が一体となって、宮城県に誕生した酒造会社です。まだ飲んだことのない銘柄なので、今置いているのが無くなり次第、飲んでみたいですねぇ!どんなタイプの味わいなのか気になります。そして今回のメインと言っても差し支えないものが、拝殿左手に祀られています。その名も子宝和合の神です。右は女性器型で山の神として、左は男性器型で道祖神として祀っているようです。菅江真澄ではないですが、東北には他の地域よりもこうした信仰が色濃く残されているようです。見つけた時嬉しい気持ちになりましたよ。説明書きです。和合の神御祭神:山の神(女神)、道祖神(男神)御神徳:夫婦和合、子宝、縁結び、豊穣由緒 御創建1200年に境内で発見された柿の奇木で、そのお姿から「山の神」としてお祀り致しております。 山の神とは生命を司り、恵みを生む事から夫婦和合・子宝・縁結び・豊穣の御神徳があるとされ、当社に於いては左手に鎮まる道祖神(別称:塞の神)と併せ「和合の神」とされております。扁額です。ご由緒です。公式サイト・宮城県神社庁のサイトを基にすると・・・主祭神:健御名方命合祀神:天照皇大神・豊受皇大神(神明社)、軻遇突智命(愛宕社)、大巳貴之命(湯神社・新川神社)・少名彦之命(新川神社)、日本武尊 (白山社)、應神天皇 (八幡社)、月讀之命 (羽山社) 大同3年(808年)に坂上田村麿が蝦夷平定に際して、当地に熊野神社を祀ったのが始まり。 明応9年(1500年)、秋保氏九代盛房は、名取の大曲城主長井晴信により楯山城を落とされ山形に逃避、最上氏の庇護下に入った。その約12年後(1512年、1513年とも)、力を蓄えた盛房は楯山城奪還に際して信濃国の諏訪大社に戦勝を祈願、それと同時に秋保の地にも諏訪大明神を勧請し、諏訪神社を建立(この時に熊野神社を併合している)。同年、村民との協力もあり、無事に楯山城を取り戻した盛房は、戦の神として当神社を篤く崇敬したとされる。 明治5年(1872年)村社に列せられ、明治40年(1907年)3月には供進社に指定された。明治42年(1909年)3月に馬場の愛宕神社をはじめ、長袋の神明社、新川の新川、湯元の湯、境野の八幡・羽山、新川の白山の各神社を合祀、諏訪神社の社号を秋保神社と改め今日に至った。参照サイト秋保神社 / 御祭神・御由緒宮城県神社庁 神社検索 / 秋保神社秋保・里センター / 秋保歴代当主と言えそうです。斜めから。秋保氏の命運をかけた勝負の際に建立された神社でした。勝負の神の正体は諏訪大明神こと健御名方命だったようです。武甕槌命と並び立つ武神で、信濃の諏訪大社を総本宮として全国で祀られています。なにか勝負事がある方は、お参りするのもまた一興ではないでしょうか。境内には生殖器崇拝の御神体も見られ、東北の古い文化を残しているようで面白い神社でした今回貰った御朱印です。紙ではなく、極薄の木板に御朱印が押されています。以上です。調子に乗って撮った写真ギャラリー辰年大絵馬秋保七福神巡り恵比須神大黒天弁財天毘沙門天布袋尊福禄寿寿老人
2025年01月13日
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東京駅から東西線で門前仲町駅まで向かいます。東京湾にもほど近い深川の街には、有名な八幡宮や不動堂が密集しており、そちらも廻りたいところ。県道10号を一つ北に逸れると、もう深川不動が顔をのぞかせています。この参道沿いにいろいろな店が立ち並び、昔の風情を残している様に感じました。この参道の一画に今回紹介する寺院が鎮座しています。ここが江戸六地蔵の最後の札所です。江戸六地蔵六番札所①:大栄山 金剛神院 永代寺今回深川不動こと、成田山東京別院には時間が足りず参拝できませんでした壁一面に梵字が刻まれた面白いスポットでもあるので、いつかは絶対に参拝したい・・・!着きました。こじんまりとした境内に立派な御堂が置かれています。境内には地蔵尊が置かれています。こちらも素晴らしいんですが、江戸六地蔵の尊像ではありません。もう一つ地蔵堂が置かれています。こちらは子育地蔵尊と言うそうです。この堂宇の中にも江戸六地蔵の尊像はありません。本堂の右手には石碑群が置かれています。ここにも六地蔵の尊像はありませんねぇ、どこにあるんでしょうか?何やら地蔵尊と書かれている説明書きを見つけました。文化財である事には間違いありませんが、これも六地蔵とは関係ないようです。江東区指定有形文化財(絵画) 絹本着色地蔵菩薩半跏像 一幅 地蔵菩薩半跏像は、像を描いた本紙を掛け軸に表装したものです。本紙縦84.0cm、横37.0cm。表装は縦178.8cm、横56.0cmです。地蔵菩薩はやや左を向いて、海中の岩座の上の蓮華座上に半跏に坐っています。また袈裟を着て、右手に錫杖を持ち、左手には宝珠を載せ、宝珠からは雲が立ちのぼっています。衣の文様には金泥や截金で装飾が施されています。 地蔵信仰は奈良時代末ごろに日本に伝来し、平安時代後半には六道に輪廻転生する人々を救う菩薩として信仰されてきました。鎌倉時代に流布した像容は僧の姿をして袈裟などの法衣を身につけ、あまねくこの世をまわるという意味から錫杖を持ち、また宝珠を持ちます。本像はその像容と線の描き方から南北朝時代(14世紀)の製作と考えられます。 本像は区内の絵画では古いもので、後世による補筆や大幅な修復がなされなかったことから描かれた当初の姿をよくとどめています。また地蔵菩薩が海中の岩座の上の蓮華座上に坐るという珍しい像容や、截金などにみられる技術の優秀性などから絵画史上において貴重な作品といえます。平成8年9月 江東区教育委員会境内のどこにも江戸六地蔵の尊像がありませんでした・・・。それもそのはず、六番札所の尊像は明治元年(1868年)の廃仏毀釈によって永代寺と共に取り壊されたようです。現在の永代寺は、もともと永代寺の塔頭の一つであった吉祥院が、名前を引き継いだものだそうです。そのため、江戸六地蔵の旧安置所としての立場をとっているようです。今は無き江戸六地蔵最後の一体は、享保5年(1720年)千葉街道沿いに置かれました。ここで御由緒も見てみましょう(一部加筆)。大栄山 金剛神院 永代寺高野山真言宗開山:長盛上人本尊:歓喜天 寛永4年(1627年)、富岡八幡宮別当として長盛上人により永代寺は永代島に創建された。当時の永代島は隅田川河口にあった6万508坪の砂州で、その内、2万2193坪が寺社地であった。成田不動尊などの出開帳が多くあり、江戸六地蔵の最後の一体が深川地蔵坊正元の勧進により永代寺に造立された(明治元年に壊される)。明治元年(1868年)の神仏分離令を契機にすすめられた廃仏毀釈により、永代寺は廃寺となり、明治29年(1896年)、永代寺塔頭であった吉祥院が永代寺の名称を継ぎ、現在にいたるという(「高野山真言宗大栄山永代寺縁起」)。 富岡八幡宮の別当寺永代寺は御成門にあり、大栄山金剛神院と号し、古義真言宗で、御室仁和寺末。開山は長盛法印で、寛永13年(1636年)に亡くなる。中興開山周光阿閣梨が慶安5年(1652年)の夏、弘法大師夢告を受け、「名にしおわん法のわか家を、人の心のうるほはずとも」との夢告を受け、高野山両門主碩学そのほか東国の納僧が永代島に集まり、一夏九旬の間法談があり、高祖大師の影堂を立て、真言三密の秘蹟を講じ、元禄12年(1699年)関東五ヵ寺同等の格をたまわり、正徳5年(1715年)有章院殿(家継)、享保12年(1727年)有徳院殿(吉宗)が永代寺を訪れたという(「葛西志」)。 永代寺には本坊以外に地中に11院(功徳院・多聞院・般若院・吉祥院・明王院・長寿院・愛染院・東光院・海岸院・大勝院・支王院)あったという。永代寺は讃岐国象頭山金光院より附弟を受けていたが、明治維新となり、復飾すべと、第一六代周徹法印は別当永代寺を改め、富岡家となり、神主として富岡八幡宮に奉仕することになる。 吉祥院の住僧覚阿坊は再建工事を落成し、あまり年月が経ていないので、取り壊しに忍びがたく永代寺法類の湯島円満寺の附属となし、従来般若院付きの大師堂も吉祥院付きとし、本坊代々の墓守と定め、存置することを願い許可され、円満寺附属となる。明治29年、歴史ある名称を残すため、吉祥院を改めて永代寺となり、円満寺末を離れ、仁和寺直末となったという。吉祥院は元禄5年(1692年)の創立、開基は宥範であった(「新撰東京名所図会」)。(江東区の民俗深川編より)猫の足跡 / 大栄山永代寺|廃寺となった永代寺の名跡を継いだ寺院 より抜粋斜めから。永代寺は相当に大きな寺院だったようで、”門前仲町”の門前とは永代寺の門前という意味からつけられた地名だそうです。このように地名にも残る程の大寺院が取り壊されてしまうとは、廃仏毀釈とは相当の破壊力を持った運動だったことが伺えます。どんな形であれ、現在も永代寺の名は脈々と受け継がれています。また、本堂には明治期頃の富岡八幡宮の御朱印が飾られているんですが、これは青森県民の方が永代寺を参拝した時に奉納したものだとのこと・・・。その方の一族が貰った御朱印が、長い年月を経て別当に戻ってきたと言うわけです。不思議な縁もあるものです。造像年:享保5年(1720年)置かれた街道:千葉街道今回貰った御朱印です。以上です。次の記事・六番札所②:東叡山 浄名院 幾千も上野に集いし地蔵尊
2025年01月13日
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深川の永代寺参拝後に歩いて向かいました。江戸六地蔵の札所の中では、お互いに距離が近くアクセスしやすいのが助かります。ナビに従って歩いていると、住宅街の隙間から寺門が見えました。あそこが今回の目的地である霊巌寺でしょう。江戸六地蔵五番札所:道本山 東海院 霊巌寺遠くに寺門が見えます。今歩いているところは、昔は表参道だったんでしょうか。門の前に着きました。四脚門というやつでしょうか、非常に立派です。境内に入ると右手に手水と幼いころの法然上人の像が置かれていました。その反対側には今回のメイン、江戸六地蔵の尊像が置かれています。説明書きです。東京都指定有形文化財(彫刻) 銅造地蔵菩薩坐像(江戸六地蔵の一)指定:大正10年(1921年)3月 江戸六地蔵の由来は、・・・。 六地蔵のうち、霊巌寺の地蔵は第五番目で、享保2年(1717年)に造立されました。他の六地蔵に比べ、手の爪が長く、宝珠を持つ左手の指のうち、四本の指が密着した形になっています。像高は、273cmあり、かつては鍍金が施されており、所々に金箔が残っています。 江戸時代中期の・・・。平成23年3月建設 東京都教育委員会ここの地蔵尊には、有形文化財の碑が付属しています。”江戸六地蔵 第五番”としっかり刻まれていますねぇ。地蔵尊から更に奥に進むと、かの有名な老中、名君としても知られる松平定信公の墓があります。福島県白河市では、まず知らない人はいないというほどの有名な歴史的人物です。白河市では守国大明神として白河神社に祀られていますが、ここ霊巌寺には菩提が置かれているようです。渋沢栄一ゆかりの場所でもあり、昭和4年(1929年)には栄一が中心となって定信公百回忌を挙行しているようですよ。定信公の墓からまた更に奥、六地蔵が並んでいました。赤い頭巾と前掛がトレードマークです。本堂です。渋い色合いの屋根に風情を感じます。由緒の方はというと・・・(一部加筆)。道本山 東海院 霊巌寺浄土宗開山:霊巌本尊:阿弥陀三尊 開山は霊巌。 霊巌は寛永元年(1624年)沼地を埋めたて一寺を建立。布教に専心したため、道俗の参詣人が多く、境内が狭くなった。同5年(1629年)幕府の許可をえて、さらに埋めたて寺地を拡張。諸堂舎が整備され、檀林として教育の道場となり、道誉流伝法の中心寺院となった。 明暦3年(1657年)大火にあって伽藍を焼失したが、万治元年(1658年)深川海辺新田に替地を賜り、二世珂山、弟子珂碩の功績によって復興された。 この後、雄松院、長専院、済松院の3別院ができ、正覚院など子院8院、桜谷北など七谷に90の学寮ができ、江戸檀林として隆盛をきわめた。 寛文5年(1665年)50石の朱印状をもらった。その後再三にわたる火災にあって焼失。規模が縮小された。web 新纂浄土宗大辞典 / 霊巌寺 より引用この内容の補足として下の点があります。霊巌が寛永元年に沼地を埋立てたのは、現在の日本橋あたりの葦原で、霊巌島と呼ばれた。万治元年に現在地に移ったのは、徳川幕府の火事対策のため。扁額です。金縁で非常に豪華です。本堂斜めから。五番札所の霊巌寺は、江戸六地蔵の札所であると共に、元白河藩主の松平定信公が眠る寺院でもありました。参拝時には地蔵尊だけでなく、是非こちらも見たいところ。白河は僕も出張で長い間お世話になり、愛着があります。そんな白河ゆかりの偉人がここに眠っているとなると、参拝した時の喜びも一層高まるというもの・・・非常にエモいですということで、よろしければ白河で松平定信公を祀る神社の記事も有りますので、是非ご覧ください↓・白河市:南湖神社 白河の名君祀りし神社造像年:享保2年(1717年)置かれた街道:水戸街道今回貰った御朱印です。以上です。次の記事・六番札所①:大栄山 金剛神院 永代寺 今は無き深川の地蔵尊
2025年01月12日
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中尊寺の入り口から徒歩2、3分。通りの向こうには高級な蕎麦屋などが立ち並ぶ中、この店だけは庶民の味方です。味もほどほど、値段は安い、そんな感じです。平泉レストハウス 門前おやすみ処外観はこんな感じです。入り口に食券機があるので、そこで好きなメニューを選びましょう。隣にはお土産屋も有るので、食後の腹ごなしにうろつくのも良いのではないでしょうか。2024.11.2義経うどん軟派な名前からは想像できませんが、山菜や三つ葉などの香りが良く、ワカメ・ネギなどもたっぷり入って予想外においしかったです平泉・中尊寺と言えば、悲劇の武将源義経とも縁の深い歴史ドラマの舞台です。この日は高館義経堂・毛越寺・中尊寺と、義経・奥州藤原氏に所縁のある名所ばかり廻りましたから、それらを思い出しつつ、この地で繰り広げられた奥州合戦や衣川の戦いなど、平安末期に奥州で起こった大戦に思いを耽つつ、にやけ顔で食事をしました。はたから見たら、相当な変人に見えたことでしょう。何はともあれ、腹を満たしてゆっくり休めました以上です。
2025年01月12日
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弘前の南方、坂下地区。背後には秋田県との県境となっている鬱蒼とした山地が広がっています。坂下地区の道の奥には津軽の名刹久渡寺があり、参道の約200段にもなる長い石段は有名です。この石段の麓には天の救いか食事どころがあります。ここで元気を蓄えてから参道を行くも良し、帰りに失った元気を補うも良し、という巡礼者や登山者の助けとなるような食事処ですska vi fika?店構えはこんな感じです。冬季も営業しているみたいですよ。僕はインスタはやっていませんが、この店の情報はインスタにて確認できるみたいです。2024.11.10精進出汁のヘルシーカレー登山などでどれだけ胃がへしゃげようとも、おいしく食べれそうなあっさりカレーです。特徴はお肉を使っていないこと・精進出汁(おそらく野菜などでとったスープでしょうか)を使っていることです。これには僕の心の中の修験者もニッコリ久渡寺・久渡寺山両方を参拝・登山した後だったこともあり、ぺろりと平らげました。肉を使っていなくても不思議とうま味がたっぷり感じられ、疲れた体に染み込んできます。いつもコッテリとした料理ばかり食べているので、胃腸を労うこともできました。食事後はなぜか誇らしい気分になりました。少しでも健康に気を使ったからでしょうか、謎。以上です。
2025年01月12日
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金木町といえば太宰治の生家斜陽館。館の周りには寺町が広がり、その中には太宰治の生家津島家の菩提寺もあります。そして斜陽館から山側に歩いて2分の所には、美しい山門を備えた寺院が見えてきます。四辻の角に見えるその姿は、金木の風情ある街並みを構成する一要素となっています。2024.11.9青蓮山 妙乗寺山門に鐘楼が載ったタイプの寺門です。高さがあり、木材の色も美しいため存在感があります。山門の建立は大正9年(1920年)、20世大明院日実の代です。その後昭和54年(1979年)頃、22世日明の代に鐘楼が新調されています。境内には大黒天の像もあります。神仏混淆の痕跡です。本堂です。所々に金色の金具が使われており、非常に豪華です。開山以来の本堂は慶応3年(1867年)に焼失しており、現在の本堂は明治17年(1884年)の再建を経て、昭和54年(1979年)に改築されたものです。続いて由緒も見てみます。公式サイト・金木郷土誌では・・・青蓮山 妙乗寺日蓮宗 宝幢山法立寺末寺開山:唯法開基:本住院日良本尊:十界曼荼羅 宝永5年(1708年)僧日良が金木新田の川内村(現中泊町)に庵を結び、妙乗庵と称したことに始まります。その後、正徳4年(1714年)8月21日、荒関利右ェ門の帰依と渇望により金木村に移転し、同時に開基檀越となった荒関利右ェ門から寺院建立のための土地を寄進され創立しました。開山は唯法、開基は本住院日良とされているようです。 享保12年(1727年)弘前法立寺末寺となり、青蓮山 妙乗寺と号しました。と、あります。本寺である法立寺は弘前新寺町のはずれにあり、津軽で最も歴史の古い日蓮宗寺院と言われているそうです。本堂斜めから。日蓮宗の寺紋と思われる柄入りの垂れ幕が、豪壮な御堂に掛かっています。金木駅からもそう遠くないので、金木散策の際にもアクセスしやすい寺院です。以前貰った御首題です。公式サイトへのリンクです。・日蓮宗 青蓮山 妙乗寺以上です。
2025年01月12日
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あぶくま高原道路の矢吹中央IC近くにある健康施設です。温泉だけでなく、ゲートボール場や休憩所なども併設されており、地域住民の憩いの場という雰囲気があります。一度目の福島出張の帰り路で立ち寄り、元気を補充していきましたあゆり温泉広い駐車場に停車し、ロビーに向かいます。導くように提灯が明るく灯っていますよ。外観はこんな感じです。温泉入り口には飲泉所があります。通常は一日一杯が適量みたいです。飲んでみました。何となく塩味が感じられ、いろいろな成分が溶け出している感が有りました。粘度も少しありますね。ロビーで支払いを済ませ、浴室に向かいます。寒々とした渡り廊下を抜けて脱衣所に入りました。鍵付きロッカー有で安心です。浴室はかなり広く、畳が何畳も敷かれた運動場の様な広場と、大きな湯舟が一つありました。外には屋根付きの露天風呂と小さな小屋型のサウナがあります。雰囲気は温泉というよりも健康施設という感じです。ただ温泉は本当に気持ちよく、後悔はしません。普通湯は湯温41℃くらいでしょうか、ちょうど良い湯加減です。ゆっくりと湯に浸かり、疲れをしっかり癒せます。温まりすぎたら外に出て風を浴びると心地よいです。露天風呂も同じくらいの湯加減です。湯舟は小さめですが、頭寒足熱感があって気持ち良いです。露天風呂でゆーくりと湯に浸かり、しっかりと休みます。ちょうど良く脱力できて、目がさえてきました。これで長時間の運転にも耐えられそうです。有料道路の出口からも近く、長旅の疲れをいやすのにちょうど良い温泉でした。あゆり温泉料金:400円(2024.11.1現在)休憩所の飲食物:自販機(ジュース)2台入浴備品の販売:有湯の温度:普通湯の種類:2種類サウナ:有公式サイトへのリンク・矢吹町 あゆり温泉以上です。
2025年01月12日
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今回紹介するのは、江戸六地蔵の内最も西に位置する札所 霞関山 本覚院 太宗寺です。JR新宿駅からも近く、徒歩で数分位です。江戸六地蔵の他にも、閻魔堂や不動堂など見ごたえのある堂宇が多く、伝統的な建物と近代的な建物とが向かい合って鎮座する面白い寺院でした。江戸六地蔵四番札所:霞関山 本覚院 太宗寺境内はこんな感じです。広場を中心に様々な堂宇が置かれています。境内の入り口には案内板があり、ここで諸堂宇の位置を確認できます。内藤新宿太宗寺の文化財 太宗寺は、慶長年間初頭(1596年頃)に僧太宗の開いた草庵を前身とし、のちの信州高遠藩主内藤家の菩提寺として発展した寺院です。 かつての内藤新宿の仲町に位置し「内藤新宿の閻魔」「しょうづかのばあさん」として江戸庶民に親しまれた閻魔像・奪衣婆像や、江戸の出入口に安置された「江戸六地蔵」のひとつである銅造地蔵菩薩など、当時の面影をのこす多数の文化財が伝えられています。 ミニ博物館「内藤新宿太宗寺の文化財」では、太宗寺に伝えられる文化財や、内藤新宿の歴史などを紹介しています。ぜひ、ご覧下さい。※寺務所にて、解説パンフレットを配布しています。では地蔵尊から見ていきましょう。何とも言えない表情を浮かべながら、蓮台の上に座しています。手には錫杖と宝珠、頭には傘をかぶり、首には垂布を巻いています。説明書きです。東京都指定有形文化財(彫刻) 銅造地蔵菩薩坐像(江戸六地蔵の一)指定:大正10年(1921年)3月 江戸六地蔵の由来は、・・・。 六地蔵のうち、霞関山 本覚院 太宗寺の地蔵は、三番目として正徳2年(1712年)に造立されました。像高は六地蔵の中では一番小ぶりで267cmです。本像には、かつて鍍金が施されていました。 江戸時代中期の・・・。平成23年3月建設 東京都教育委員会一番小ぶりと言っても、3m近い像高を持っているのでかなり存在感があります。今回の地蔵尊像も非常に見ごたえのある美像でした次は閻魔堂です。宝形造の大きな堂宇です。白地に赤の木材が映えています。この日は丁度御開帳の日で、運よく閻魔像も見ることが出来ました。こちらが閻魔像です。人よりも断然大きく迫力に圧倒されます。それもそのはず、像高は5.5mもあり、江戸六地蔵の2倍近い大きさの巨像なんです。文化11年(1814年)の建立と言われており、江戸三大閻魔の一座とされているようです。閻魔堂斜めから。奪衣婆も有名なんですが、この時は見忘れました・・・。もったいないこちらが不動堂です。三日月不動尊とも呼ばれる不動尊像と、新宿山ノ手七福神の一つである布袋尊像が収められています。こちらもシックな色合いが素晴らしいクールな堂宇です堂内です。三日月不動尊の恐ろしい表情と、布袋尊の柔和な表情とが並立しており、不思議な雰囲気が漂っています。三日月不動尊は由緒も面白いので、↓に載せます。説明書きです。太宗寺の文化財⑤新宿区指定有形文化財 彫刻 三日月不動像指定年月日:昭和59年11月2日 額の上に銀製の三日月をもつため、通称三日月不動と呼ばれる不動明王の立像です。 銅造で、像高は194cm、火炎光背の総高は243cm。江戸時代の作ですが、製造年・作者などは不明です。 寺伝によれば、この像は高尾山 薬王院に奉納するため甲州街道を運搬中、休息のため立寄った太宗寺境内で、盤石のごとく動かなくなったため、不動堂を建立し安置したと伝えられています。 なお、額上の三日月は「弦月の遍く照らし、大空をかける飛禽の額に至るまで、あまねく済度せん」との誓願によるものといわれます。このため、像の上の屋根には窓が取り付けられ、空を望むことができます。新宿山ノ手七福神 布袋尊像 新宿山の手七福神は、昭和初期に有志により創設されたもので、太宗寺(布袋尊)・鬼王神社(恵比須神)・永福寺(福禄寿)・厳島神社(弁財天)・法善寺(寿老人)・経王寺(大黒天)・善国寺(毘沙門天)の七ヶ所となっています。 布袋尊は中国の禅僧がモデルで、豊かな暮らしと円満な家庭の守護像です。不動堂斜めから。不動堂の隣には稲荷社と塩かけ地蔵が祀られています。塩かけ地蔵尊とは、その名の通り大量の塩をかけられた地蔵尊像です。願掛けする時にその返礼として塩をかけたことから、現在の様な塩に包まれた姿をしています。なぜ塩なのか・・・その由来ははっきりしていないそうです。本堂です。境内の堂宇の中でもかなり近代的な造りをしています。本尊は阿弥陀如来です。※由緒一部加筆霞関山 本覚院 太宗寺浄土宗開山:太宗開基:内藤重頼本尊:阿弥陀三尊太宗寺の歴史 寺伝によれば、慶長元年(1596年)ごろに僧・太宗が開いた草庵、「太宗庵」が前身である。寛永6年(1629年)、安房国勝山藩主であった内藤正勝の葬儀を行ったことを契機に内藤氏との縁が深まり、寛文8年(1668年)に正勝の長男重頼から寺地の寄進を受け、太宗を開山として太宗寺が創建されました。院号は正勝の法名を拝しています。 元禄4年(1691年)、内藤氏は信濃国高遠藩へ移封されましたが、太宗寺はその後も高遠藩内藤氏の菩提寺として、歴代藩主や一族の墓地が置かれました。 内藤氏の墓地は約300坪の広大なものでしたが、昭和27年(1952年)から行われた区画整理で縮小されました。5代目当主正勝など3基の墓石が現存します。 かつては境内北側に水が湧いており、蟹川につながる池がありましたが、昭和25年(1950年)3月、境内北側は都市計画公園として新宿区に移管され、新宿区立新宿公園となっています。 境内には江戸に入る6本の街道の入り口にそれぞれ安置された地蔵菩薩像(江戸六地蔵)の第三番があります。また、この寺には閻魔像・奪衣婆像が安置されており、江戸時代から庶民に信仰されてきました。現在も、毎年7月15日・16日の縁日に御開扉されています。他に新宿山ノ手七福神の一つである布袋尊像、真っ白に塩を被った姿が特徴の「塩かけ地蔵」などがあります。御苑前 愛苑 / 太宗寺の歴史 より引用地蔵尊もさることながら、閻魔堂や不動堂に置かれている仏像群も見ごたえがありましたねぇ!新宿にお立ち寄りの際は是非ご参拝ください造像年:正徳2年(1712年)置かれた街道:甲州街道今回貰った御朱印です。新宿山ノ手七福神めぐりの御朱印以上です。次の記事・五番札所:道本山 東海院 霊巌寺 松平定信の菩提弔う寺の地蔵尊調子に乗って撮った写真ギャラリー閻魔堂
2025年01月11日
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延喜式神名帳とは・・・延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう、しんめいちょう)は、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十の神名式上・下のことで,この部分だけがとくに取り出されて「延喜式神名帳」と呼ばれるようになった。延喜式によって「官社」に指定する神社一覧である。wikipedia / 延喜式神名帳 より引用とwikiにあります。当時の律令制によって分けられた国・郡ごとに、神名と所在、大小の別、社数などが書かれています。この延喜式に名前が見える神社を式内社といい、存在していることは知られているが記載がない神社を式外社というようです。式内社や式外社が現在のどの神社に対応しているのかについては、今でも盛んに調査されているようです。式内社の後裔と考えられる神社のことを論社・比定社などと呼び、一種の敬称の様になっています。この記事では、式内社とその論社を並べて楽しんでみたいと思います。青森県民故、式内社とは縁遠い存在ですが、それだけに参拝出来た時の喜びは大きいです。太字で延喜式内社を示し、下に論社・比定社を並べています。論社・比定社は参拝したところを中心に載せていきたいと思います。参拝していない場合は”未”と付いています。個人的に延喜式内社とされている神社には、万葉仮名で神社名を綴ったものが多いと感じました。延喜式神名帳:式内社と式外社東山道陸奥国延喜式編纂当時、現在の青森県の領域は朝廷の支配範囲ではなく、それ故青森県には式内社が一社もないようです100座の神名が記録され、その内訳は1社1座で、大社は15社、小社は85社です。斯波郡:1座 / 小1社現在の紫波町と矢巾町をあわせた領域がだいたいの範囲とされています。奥六郡の1つです。式内小社:志賀理和氣神社紫波町:志賀理和氣神社 未江刺郡:1座 / 小1社膽澤郡と隣り合って存在する郡で、岩手県奥州市の東半分がだいたいの領域です。ここも奥六郡の1つと言われています。式内小社:鎮岡神社奥州市:鎭岡神社膽澤郡:7座 / 小7社岩手県の南西に置かれた郡で、現在の金ヶ崎町と奥州市の西半分がだいたいの範囲です。伊沢郡・胆沢郡とも書かれ、俗に言う奥六郡の一つです。式内小社:磐神社奥州市:磐神社 未式内小社:駒形神社奥州市:駒形神社 本社金ヶ崎町:駒形神社 里宮 未式内小社:和我叡登挙神社奥州市:衣川月山神社 境内の奇岩式内小社:石手堰神社奥州市:石手堰神社式内小社:膽澤川神社奥州市:於呂閇志膽澤川神社 未式内小社:止止井神社奥州市:止々井神社 未式内小社:於呂閇志神社奥州市:於呂閇志神社 未奥州市:於呂閇志膽澤川神社 未氣仙郡:3座 / 小3社大船渡市の一部から陸前高田市を含む領域が主な範囲とされています。式内小社:理訓許段神社大船渡市:尾崎神社 二十八番札所:尾崎神社 大善院(蛸浦観音堂) 海辺の小山に広がる神仏習合の霊場と観音堂陸前高田市:氷上神社式内小社:登奈孝志神社陸前高田市:氷上神社式内小社:衣太手神社陸前高田市:氷上神社磐井郡:2座 / 小2社ほぼ現在の岩手県一関市・平泉町を併せた範囲が領域だとされます。神社もそうですが、歴史の有る寺院などが多く集まるスポットでもあります。式内小社:配志和神社一関市:配志和神社式内小社:儛草神社一関市:儛草神社 未桃生郡:6座 / 大1社・小5社石巻市北半分と東松島市を合わせた範囲が主な領域だったようです。元は牡鹿郡でしたが、8世紀以降に分離する形で成立したようです。式内小社:飯野山神社石巻市:飯野山神社(吉野) 未石巻市:飯野山神社(宮下) 未式内小社:日高見神社石巻市:日高見神社 未式内小社:二俣神社石巻市:二俣神社 未東松島市:石上神社? 未式内小社:石神社石巻市:葉山神社 未石巻市:石神社 未石巻市:龍口神社 未気仙沼市:岩倉神社 未東松島市:石上神社 未東松島市:鹿石神社 未名神大社:計仙麻大嶋神社気仙沼市:大島神社 未気仙沼市:御崎神社南三陸町:計仙麻大嶋神社 未式内小社:小鋭神社石巻市:賀茂小鋭神社 未気仙沼市:大島神社 未石巻市:白鳥神社(城内) 未牡鹿郡:10座 / 大2社・小8社石巻市の南半分を占める範囲が主な領域だったようです。式内社の一部は奥州三十三観音霊場の札所とも深く結びついており、一緒に参拝することをお勧めします。名神大社:零羊埼神社石巻市:零羊埼神社式内小社:香取伊豆乃御子神社石巻市:香取伊豆乃御子神社 未石巻市:和渕神社 未式内小社:伊去波夜和氣命神社石巻市:伊去波夜和氣命神社(水沼) 未石巻市:伊去波夜和氣命神社(大宮) 未式内小社:曾波神社石巻市:曾波神社 未名神大社:拝幣志神社石巻市:拝幣志神社 未式内小社:鳥屋神社石巻市:鳥屋崎神社 未石巻市:羽黒山鳥屋神社 未式内小社:大嶋神社石巻市:大島神社 未石巻市:金華山黄金山神社? 未式内小社:鹿嶋御兒神社石巻市:鹿島御児神社 未式内小社:久集比奈神社石巻市:久集比奈神社 未式内小社:計仙麻神社石巻市:朝日山計仙麻神社 未石巻市:金華山黄金山神社? 未気仙沼市:羽黒神社 未南三陸町:計仙麻大嶋神社? 未小田郡:1座 / 小1社現在の涌谷町の一部が主な領域だったようです。式内小社:黄金山神社涌谷町:黄金山神社 涌谷町:黄金山神社(涌谷) 産金の里と金山守護の社石巻市:金華山黄金山神社 未志田郡:1座 / 小1社主に大崎市の東南部一帯がだいたいの範囲とされているようです。式内小社:敷玉早御玉神社大崎市:敷玉早御玉神社 未玉造郡:3座 / 小3社主に大崎市の西半分がだいたいの範囲とされています。式内小社:温泉神社大崎市:温泉神社式内小社:荒雄河神社大崎市:荒雄川神社(鳴子温泉) 未大崎市:荒雄川神社(岩出山) 未式内小社:温泉石神社大崎市:温泉石神社 未宮城郡:4座 / 大2社・小2社、式外社1社現在の宮城県仙台市北半分と塩竈市、利府町、七ヶ浜町を足したような領域範囲をもっていた様です。陸奥国府にもほど近く、大社も2社と多いです名神大社:志波彦神社塩竈市:志波彦神社 塩竈市:志波彦神社・鹽竈神社 二社で一つの陸奥國一之宮名神大社:鼻節神社七ヶ浜町:鼻節神社 未式内小社:伊豆佐賣神社利府町:伊豆佐比賣神社 未式内小社:多賀神社多賀城市:多賀神社(高崎) 未多賀城市:陸奥総社宮 未多賀城市:浮嶋神社 未多賀城市:多賀神社(市川) 未式外社:鹽竈神社塩竈市:鹽竈神社 塩竈市:志波彦神社・鹽竈神社 二社で一つの陸奥國一之宮賀美郡:2座 / 小2社現在の加美町とだいたい同じ範囲だったとされています。式内小社:飯豊神社加美町:飯豊神社 未式内小社:賀美石神社加美町:賀美石神社 未色麻郡:1座 / 大1社現在の加美町とだいたい同じ範囲だったとされています。名神大社:伊達神社色麻町:伊達神社 未黒川郡:4座 / 小4社現在の黒川郡とほぼ同等の領域が範囲とされています。式内小社:須伎神社大衡村:須伎神社 未大和町:鶴ヶ峯八幡宮 未式内小社:石神山精神社大和町:石神山精神社 未式内小社:鹿島天足別神社富谷町:鹿島天足別神社 未式内小社:行神社富谷町:行神社 未大和町:船形山神社 未名取郡:2座 / 小2社現在の名取市とほぼ同等の領域が範囲とされています。熊野三山の写し霊場が造られるなど、奥州きっての信仰の地でもあります。式内小社:多加神社仙台市:多賀神社 未名取市:多賀神社 未式内小社:佐具叡神社名取市:佐具叡神社(佐倍乃神社境内) 名取市:藤原実方公の墓 歌枕見る事かなわぬ実方の君柴田郡:1座 / 大1社伊具郡の北に位置し、現在の宮城県大河原町・村田町・柴田町・川崎町などを合わせた範囲が領域とされているようです。この内、村田町は蔵王町と同じく白鳥信仰が盛んな地域です。名神大社:大髙山神社大河原町:大高山神社(新開) 未大河原町:大高山神社(台部) 未亘理郡:4座 / 小4社宮城県南部の沿岸、現在の亘理町・山元町を合わせた領域が主な範囲とされています。現代でいうところの県境にあたりますかね。式内小社:鹿嶋伊都乃比氣神社亘理町:鹿島緒名太神社 未亘理町:鹿嶋天足和気神社 未式内小社:鹿嶋緒名太神社亘理町:鹿島緒名太神社 未亘理町:鹿嶋天足和気神社 未式内小社:安福河伯神社亘理町:安福河伯神社 未式内小社:鹿嶋天足和氣神社亘理町:鹿嶋天足和気神社 未伊具郡:2座 / 小2社宮城県南部の角田市・丸森町周辺が領域とされます。中央を阿武隈川がながれており、それによって東西に分けられています。東半分を東根、西半分を西根と呼んでいるようです。式内小社:熱日髙彦神社角田市:熱日高彦神社式内小社:鳥屋嶺神社丸森町:鳥屋嶺神社 未苅田郡:1座 / 大1社現在の宮城県南西の蔵王町や七ヶ宿町、白石市など、蔵王連山の麓の地域が領域とされていたようです。論社の一つがある町は、現在も遠苅田などと呼ばれ、名称の痕跡が残されています。名神大社:苅田嶺神社蔵王町:刈田嶺神社(蔵王町宮)蔵王町:蔵王刈田嶺神社(里宮) 蔵王町:蔵王刈田嶺神社 里宮 奥羽山脈の名峰祀る神社(冬期)蔵王町:蔵王刈田嶺神社(奥宮) 蔵王町:蔵王刈田嶺神社 奥宮 奥羽山脈の名峰祀る神社(夏期)宇多郡:1座 / 大1社福島県浜通り最北の郡です。現在の相馬市・新地町などが領域とされます。岩手県や青森県の南部地方で篤く信仰される”そうぜん様”。その神格の伝承がここにも残っています。名神大社:子負嶺神社新地町:子眉嶺神社 新地町:子眉嶺神社 遠く相馬に鎮座するそうぜん宮標葉郡:1座 / 小1社福島県浜通りの中ほど、現在の大熊町・浪江町・双葉町・葛尾村にあたる範囲に置かれたとされます。式内社の苕野神社は東北大震災で被災しましたが、現在は社殿が再建され参拝可能です。式内小社:苕野神社浪江町:苕野神社磐城郡:7座 / 小7社福島県浜通り地方に置かれた郡で、現在のいわき市とだいたい同じ範囲が領域とされます。延喜式内社の7社は、街の観光資源としてホームページなどで紹介されるなど、活発に利用されています。このブログでも紹介しているので、興味のある方は下のリンクからどうぞ!・延喜式内磐城七社式内小社:二俣神社いわき市:二俣神社 いわき市:二俣神社 謎多き磐城の古八幡社式内小社:子鍬倉神社いわき市:子鍬倉神社式内小社:大國魂神社いわき市:大國魂神社式内小社:佐麻久嶺神社いわき市:佐麻久嶺神社式内小社:鹿嶋神社いわき市:鹿島神社式内小社:住吉神社いわき市:住吉神社 いわき市:住吉神社 東北1社の式内住吉神社式内小社:温泉神社いわき市:温泉神社 いわき市:温泉神社 いで湯の郷の古神社信夫郡:5座 / 大1社・小4社福島市の中央・南部を合わせた領域が主な範囲です。古墳時代の頃には既に朝廷の勢力圏内にあったようで、街の中央に鎮座する信夫山を取り囲む形で式内社が鎮座しています。式内小社:鹿島神社福島市:鹿島神社(鳥谷)福島市:鹿島神社(岡島)福島市:鹿島神社(小田)国見町:鹿島神社 / 医薬神社式内小社:黒沼神社福島市:黒沼神社(堂殿)福島市:黒沼神社(金沢)福島市:黒沼神社(浅川)名神大社:東屋沼神社福島市:東屋沼神社式内小社:東屋國神社福島市:東屋國神社式内小社:白和瀬神社福島市:白和瀬神社磐瀬郡:1座 / 小1社福島県中通り地方の南、現在の須賀川市周辺が領域であったとされます。桙衝神社境内には縄文時代の祭祀場遺跡があり、その頃から神聖視されてきた場所だったんではないでしょうか。式内小社:桙衝神社須賀川市:桙衝神社白河郡:7座 / 大1社・小6社現在の白河市・西白河郡・東白川郡・石川郡を併せた領域だとされています。陸奥国の中でも南端に位置し、坂東二国と陸奥国の境となる白河関がおかれたところでもあります。名神大社:都都古和氣神社棚倉町:馬場都都古和氣神社 棚倉町:馬場都都古和氣神社 農耕神祀る棚倉の古社白河市:都々古和気神社(三森) 白河市:都々古和気神社(三森) 鉾を突き立てた聖なる山と古神社棚倉町:八槻都都古別神社 棚倉町:八槻都々古別神社 八溝山麓に鎮座する神仏混淆の神社玉川村:都々古別神社 玉川村:都々古別神社 玉川村の開拓祖神、筒子別のかみやしろ式内小社:伊波止和氣神社古殿町:伊波止和気神社 古殿町:伊波止和気神社 若木茂る古殿の古社白河市:白河神社白河市:磐戸別神社 白河市:磐戸別神社 関山の山神祀る古社式内小社:白河神社白河市:白河神社白河市:鹿嶋神社 白河市:鹿嶋神社 白河の街の鹿嶋の社式内小社:八溝嶺神社大子町:八溝嶺神社式内小社:飯豊比賣神社白河市:飯豊比売神社式内小社:永倉神社西郷村:永倉神社式内小社:石都都和氣神社石川町:石都々古和気神社耶麻郡:1座 / 小1社福島県会津地方の北部、現在の北塩原村・西会津町・磐梯町・猪苗代町周辺が領域とされます。東北の仏教文化の中心地として有名な地域です。式内小社:磐椅神社猪苗代町:磐椅神社 未磐梯町:磐梯神社 未會津郡:2座 / 大1社・小1社福島県会津地方の内、南会津・会津若松市にあたる範囲が領域とされたようです。名神大社として有名な伊佐須美神社は、現在仮社殿で運営しており、拝殿・本殿の再建が待ち遠しいです。名神大社:伊佐須美神社会津美里町:伊佐須美神社 会津美里町:伊佐須美神社 父子再会の地に建つ総鎮守の社式内小社:蠶養國神社会津若松市:蠶養國神社 会津若松市:蠶養國神社 会津の中心街にある式内社下野国毛野一族の内、北東に勢力を伸ばした下毛野一族が居住した国とされています。五世紀頃には那須一族と下毛野一族両者の支配領域を合わせて下野国として制定されました。11座の神名が記録され、その内訳は1社1座で、大社は1社、小社は10社です。都賀郡:3座 / 小3社足利市と佐野市を除く栃木県南西の大部分がだいたいの領域でした。この郡に国分寺が設置されたと伝わります。全て式内小社ですが、特に大神神社は現在大きな境内を持つ神社に様変わりしており、非常に見ごたえが有りました。式内小社:大神神社栃木市:大神神社栃木市:大平山神社 未式内小社:大前神社藤岡町:大前神社 未式内小社:村檜神社栃木市:村檜神社 未河内郡:1座 / 大1社栃木県の中央、宇都宮市・日光市・下野市・鹿沼市にかかる縦長の領域が主な範囲とされています。日光の山々を祀る二荒山神社が鎮座する地として、山岳信仰の中枢となっています。名神大社:二荒山神社宇都宮市:宇都宮二荒山神社日光市:日光二荒山神社 日光市:日光二荒山神社 日光の神々祀る関東総鎮守の社芳賀郡:2座 / 小2社栃木県の南東、現在の益子町・茂木町・市貝町・芳賀町・真岡市・宇都宮市の一部を含む範囲がだいたいの領域とされています。古社の他、坂東三十三観音霊場の札所となっている古刹も多い印象です。式内小社:大前神社真岡市:大前神社式内小社:荒樫神社茂木町:荒橿神社 未那須郡:3座 / 小3社栃木県の北東、那須町・那珂川町・大田原市・那須塩原市・那須烏山市を含めた範囲がだいたいの領域とされています。古代は下野国とは異なる那須国が置かれており、統治者の墓とされている笠石は、日本三古碑に数えられています。式内小社:健武山神社那珂川町:健武山神社式内小社:温泉神社那須町:那須温泉神社 那須町:那須温泉神社 温泉街の奥に鎮座する那須温泉総鎮守の社大田原市:大宮温泉神社式内小社:三和神社那珂川町:三和神社寒川郡:2座 / 小2社思川の両岸にあたる地域が主な領域とされているようです。他の郡に比べてかなり小さいですが、式内社として2社もの神社が知られているのは面白いです。式内小社:阿房神社小山市:安房神社 未式内小社:胸形神社小山市:胸形神社 未小山市:網戸神社 未上野国毛野一族の内、南西に勢力を伸ばした上毛野一族が居住した国とされます。下野国と同じく、片岡郡・緑野郡・甘良郡の3郡を統括した羊太夫について書かれた多胡碑が、日本三古碑に指定されています。羊という名は日本由来の物ではなく、大陸の遊牧民の姓だとも言われているようです。坂東の他の国同様、早くから拓けていた地域みたいですね。12座の神名が記録され、その内訳は1社1座で、大社は3社、小社は9社です。片岡郡:1座 / 小1社高崎市中央のほんの一部が主な領域だったようです。上野国の郡の中でも最小の郡だそう。式内小社:小祝神社高崎市:小祝神社 未甘樂郡:2座 / 大1社・小1社群馬県の南西、下仁田町・南牧村・甘楽町などを合わせた範囲が主な領域だったようです。特に渡来人が多く移り住んだ地域らしく、馬産が盛んだったことと無関係ではないでしょう。名神大社:貫前神社安中市:咲前神社 未富岡市:一之宮貫前神社 未式内小社:宇藝神社富岡市:宇藝神社 未群馬郡:3座 / 大1社・小2社高崎市の中央とその周辺にまたがる範囲が主な領域とされていたようです。”群馬”は”くるま”と読まれ、字の通り馬産が盛んな地域であったようです。名神大社:伊加保神社渋川市:伊香保神社 未吉岡町:三宮神社 未渋川市:若伊香保神社 未式内小社:榛名神社高崎市:榛名神社 未高崎市:諏訪神社(東明屋) 未高崎市:椿名神社(権田) 未式内小社:甲波宿禰神社渋川市:甲波宿禰神社(川島) 未 東吾妻町:甲波宿禰神社 未渋川市:武内神社 未渋川市:甲波宿禰神社(行幸田) 未勢多郡:1座 / 大1社群馬県の東方、みどり市と前橋市の大部分、桐生市の西半分が主な領域だったようです。かつては赤城山を中心として、その周囲の麓の地域一帯が領域でしたが、後に縮小してしまいました。名神大社:赤城神社前橋市:赤城神社(三夜沢) 未前橋市:二宮赤城神社 未前橋市:赤城神社(赤城山) 未前橋市:赤城神社(横室) 未山田郡:2座 / 小2社桐生市の東半分、みどり市の南半分が主な領域だったようです。片岡郡ほどでは無いですが、こちらもかなり小さな郡でした。式内小社:賀茂神社桐生市:賀茂神社 未式内小社:美和神社桐生市:美和神社 未那波郡:2座 / 小2社伊勢崎市の南半分とその周辺が主な領域だったようです。片岡郡に次いで小さな郡でしょう。式内小社:火雷神社玉村町:火雷神社 未式内小社:倭文神社伊勢崎市:倭文神社 未佐位郡:1座 / 小1社那波郡の北東にあった郡で、伊勢崎市の北半分が主な領域だったようです。・・・こちらも相当に小さい郡ですねぇ。式内小社:大國神社伊勢崎市:大國神社 未信濃国諏訪を始めとする幾つかの領域から成る国です。現在の長野県と岐阜県の一部が主な領域だったとされています。信濃国には48座の神名が記載され、その内訳は大社5社(7座)で、小社41社(41座)です。伊那郡:2座 / 小2社現在の飯田市・伊那市・駒ヶ根市・上伊那郡・下伊那郡を併せた範囲が主な領域だったようです。遠江国や三河国と接しており、天竜川に沿って集落が造られています。信濃と東海地方を繋ぐ主要街道が走る地域です。式内小社:大山田神社下條村:根ノ神社 未下條村:大山田神社 未阿南町:深見諏訪神社 未式内小社:阿智神社阿智村:阿智神社 未阿智村:安布知神社 未諏訪郡:2座 / 大1社言わずと知れた神話が息づく土地です。縄文時代から古代に至るまで人の往来があり、良質な黒曜石の産地としても知られています。狩猟採集民の信仰が残る土地とも言われているみたいですね。諏訪信仰の根源地でもあります。名神大社:南方刀美神社茅野市:諏訪大社 上社 前宮諏訪市:諏訪大社 上社 本宮下諏訪町:諏訪大社 下社 春宮下諏訪町:諏訪大社 下社 秋宮筑摩郡:3座 / 小3社長野県西部に広がる広大な郡です。木曽群とその北部にある諸郡を併せた範囲が主な領域とされます。乗鞍岳や木曽駒ヶ岳、御嶽山など、ハイパープロミネンス峰が林立する地域です。式内小社:岡田神社松本市:岡田神社 未式内小社:沙田神社松本市:沙田神社 未式内小社:阿禮神社塩尻市:阿禮神社安曇郡:2座 / 大1社・小1社長野県北西部にある郡で、筑摩郡の北部にありました。現在の安曇野市や大町市、北安曇郡を中心とした範囲が主な領域だったとされています。名神大社:穂高神社安曇野市:穂高神社 未式内小社:川會神社池田町:川会神社 未更級郡:11座 / 大1社・小10社主に長野市南部の一地域を範囲とする小群です。領域は狭くとも、信濃随一とも言える式内社数を誇ります。式内小社:布制神社長野市:布制神社(石井) 未長野市:布制神社(布施五明) 未長野市:臼女神社 未長野市:布制神社(山布施) 未式内小社:波閉科神社千曲市:波閇科神社 未式内小社:佐良志奈神社千曲市:佐良志奈神社 未式内小社:當信神社長野市:當信神社 未式内小社:長谷神社長野市:長谷神社 上社 未長野市:長谷神社 下社 未式内小社:日置神社生坂村:日置神社(村上) 未生坂村:日置神社(北陸郷) 未長野市:日置神社 未式内小社:清水神社長野市:清水神社(三水) 未長野市:清水神社(田野口) 未長野市:清水神社(真島町) 未千曲市:清水神社 未式内小社:氷鉋斗賣神社長野市:氷鉋斗賣神社 未長野市:更級斗女神社 未式内小社:頤気神社長野市:頤気神社(小島田町) 未長野市:頤気神社(松代町) 未式内小社:治田神社千曲市:治田神社 上の宮 未千曲市:治田神社 下の宮 未名神大社:武水別神社千曲市:武水別神社 未長野市:樋知大神社 未東海道常陸国早くから朝廷の支配地域だったと知られています。8世紀に成立した地方誌である常陸国風土記は有名で、現存する数少ない風土記の内の1つです。常陸国には28座の神名が記載され、その内訳は大社7社(1社1座)で、小社20社(21座)です。鹿島郡:2座 / 大2社茨城県の東側、沿岸地域の内南半分の領域が鹿島郡。名前通り、古来から鹿島神宮との結びつきが非常に強い地域だったようです。名神大社:鹿島神宮鹿嶋市:鹿島神宮 鹿嶋市:鹿島神宮 東国平定に遣わされた猛き雷を祀るかしまの社名神大社:大洗礒前薬師菩薩明神社大洗町:大洗磯前神社 大洗町:大洗磯前神社 浜に建つ 荒波の中の 石鳥居真壁郡:1座 / 小1社筑西市の全域とその東西の一部を含む範囲が主な領域とされています。真壁石という銘石の産地として有名です。式内小社:大國玉神社桜川市:大國玉神社 未信太郡:2座 / 小2社遥かに広がる恵の内海 霞ケ浦の西岸に広がる群です。ここには、東夷征伐を成した経津主大神が鎧を脱ぎ捨て天へと昇り帰ったと伝わる場所があり、現在は楯縫神社が鎮座しています。香取神宮との関連が深い地域と言えるのではないでしょうか。式内小社:楯縫神社美浦町:楯縫神社 未式内小社:阿弥神社阿見町:阿彌神社(竹来) 未阿見町:阿彌神社(中郷) 未久慈郡:7座 / 大1社・小6社茨城県の北部、久慈川の流域を主な領域としていた郡です。今でも山林が広がり、修験や山岳信仰に関連する神社が多く残る面白いエリアです。式内小社:長幡部神社常陸太田市:長幡部神社 未式内小社:薩都神社常陸太田市:薩都神社 未日立市:御岩神社 日立市:御岩神社 数多の神仏祀られる常陸の霊山日立市:薩都神社(御岩神社境内社) 日立市:御岩神社 数多の神仏祀られる常陸の霊山式内小社:天之志良波神社常陸太田市:天志良波神社 未式内小社:天速玉姫命神社日立市:泉神社 日立市:泉神社 上古の頃からの聖域、密筑の大井の泉神社常陸太田市:鹿島神社(春友) 未名神大社:静神社那珂市:靜神社式内小社:稲村神社常陸太田市:稲村神社 未大子町:近津神社(下野宮)桜川市:櫻川礒部稲村神社 未式内小社:立野神社水戸市:立野神社 未常陸大宮市:立野神社常陸太田市:赤土天満宮 未筑波郡:2座 / 大1社・小1社霞ケ浦西岸に位置する地域で、筑波山を囲むつくば市・つくばみらい市を合わせた領域がだいたいの範囲とされます。古来より歌枕となってきた神山 筑波山のお膝元。千年以上の歴史を有する関東きっての古社が鎮座しています。名神大社:筑波山神社 男神つくば市:筑波山神社 男体山山頂宮 つくば市:筑波山神社 男女両神鎮座する常陸の御山とかみやしろ式内小社:筑波山神社 女神つくば市:筑波山神社 女体山山頂宮 つくば市:筑波山神社 男女両神鎮座する常陸の御山とかみやしろ那賀郡:7座 / 大2社・小5社那珂川の流域に広がる郡で、海岸から山間部まで横長に伸びる広い領域を持ちます。那珂川の恵みを受ける田畑が広大に広がっており、古来から豊かな土地だったのではないでしょうか。式内小社:大井神社水戸市:大井神社 未笠間市:大井神社 未式内小社:青山神社城里町:青山神社 未名神大社:吉田神社水戸市:吉田神社 未式内小社:阿波山上神社城里町:阿波山上神社名神大社:酒烈礒前薬師菩薩明神社ひたちなか市:酒列磯前神社 ひたちなか市:酒列磯前神社 波被る 逆連の岩 神渡り式内小社:藤内神社水戸市:藤内神社 未水戸市:立野神社 未水戸市:有賀神社 未式内小社:石舩神社城里町:石船神社 未新治郡:3座 / 大1社・小2社現在の土浦市・石岡市・かすみがうら市など、霞ヶ浦北岸の大部分を領域とした郡です(かつてはもっと広大だったという説もある)。式内社以外にも面白い由緒の神社仏閣が数多くひしめき合う地域です。総社もこの郡に置かれていた様です。名神大社:稲田神社笠間市:稲田神社 未式内小社:鴨大神御子神主神社桜川市:鴨大神御子神主玉神社 未式内小社:佐志能神社笠間市:佐志能神社 未石岡市:佐志能神社(柿岡) 未石岡市:染谷佐志能神社 未石岡市:佐志能神社(村上) 未茨城郡:3座 / 小3社現在の笠間市・城里町・水戸市を中心とした範囲が主な領域です。北では那賀郡や久慈郡と接しており、茨城県の中央に位置しています。式内小社:夷針神社茨城町:夷針神社 未笠間市:愛宕神社 奥宮石岡市:足尾神社 未かすみがうら市:胎安神社 未かすみがうら市:子安神社 未式内小社:羽梨山神社笠間市:羽梨山神社 未式内小社:主石神社鉾田市:主石神社 未小美玉市:宮脇鹿島神社 未多珂郡:1座 / 小1社現在の高萩市・北茨城市・日立市が主な領域とされる郡です。養蚕起源伝説の1つ、金色姫伝説ゆかりの地である小貝ヶ浜などが有名です。式内小社:佐波波地祇神社北茨城市:二田神社 未北茨城市:佐波波地祇神社(大津町) 未下総国千葉県北部から茨城県南西部を主な領域としていたようです。丁度チーバくんの頭蓋骨に相当する範囲です。全11社の内、名神大社1社、式内小社10社で、1座1社です。香取郡:1座 / 大1社下総国の東の大部分を占める広大な領域を持っていたようです。名前の通り香取神宮と関係が深い地域みたいです。名神大社:香取神宮香取市:香取神宮香取市:香取神宮 ①主要社殿 蛮夷平定に遣わされた畏き刀神祀るかとりの社香取市:香取神宮 ②境内・外の摂末社 蛮夷平定に遣わされた畏き刀神祀るかとりの社千葉郡:2座 / 小2社下総の南西、特に沿岸部の地域が主な範囲です。現在の千葉市の大部分と習志野市に相当するでしょうか。海に面しているということで、海由来の伝説が残っているのも面白いです。式内小社:寒川神社船橋市:二宮神社 未千葉市:寒川神社 千葉市:寒川神社 海照す鎮守の社と嵐呼ぶ権現頭式内小社:蘇賀比咩神社千葉市:蘇賀比咩神社 未相馬郡:1座 / 小1社茨城県南部、千葉県と接する領域に置かれた郡です。千葉氏の諸族である相馬氏の発祥地で、相馬氏は後にここから福島県の相馬市まで移ることになります。式内小社:蛟蝄神社利根町:蛟蝄神社 門の宮利根町:蛟蝄神社 奥の宮相模国現在の神奈川県の内、川崎市・横浜市を除いた範囲が主な領域とされます。中世より東国の中心地であった古都 鎌倉や、相模の獅子とも称される後北条氏が治めた小田原など、常に歴史の表舞台にあった国と言えます。全13社の内、名神大社1社、式内小社12社で、1座1社です。足上郡:1座 / 小1社現在の南足柄市・足柄上郡・足柄下郡を中心とした範囲が主な領域とされています。式内小社:寒田神社松田町:寒田神社 未餘綾郡:1座 / 小1社現在の中郡大磯町・中郡二宮町を中心とした範囲が主な領域だったようです。相模国の郡の中では最小範囲の郡だそう。式内小社:川匂神社二宮町:川匂神社 大住郡:4座 / 小4社餘綾郡の上に覆いかぶさるような形で広がる大きな群です。現在の伊勢原市・平塚市・秦野市を中心とした範囲が主な領域だったようです。式内小社:前鳥神社平塚市:前鳥神社 平塚市:前鳥神社 学問と職能の神を祀る古社式内小社:高部屋神社伊勢原市:高部屋神社 伊勢原市:高森神社 式内小社:比比多神社伊勢原市:比々多神社(三ノ宮) 伊勢原市:比比多神社(上粕屋)式内小社:阿夫利神社伊勢原市:大山阿夫利神社愛甲郡:1座 / 1社大住郡の更に北部にあった郡で、現在の愛川町・清川村・厚木市を中心とした範囲が主な領域だったとされます。式内小社:小野神社厚木市:小野神社 厚木市:秋葉社 未髙座郡:6座 / 大1社・小5社相模川と境川に挟まれた肥沃な土地が主な領域で、現在の寒川町・綾瀬市・海老名市・座間市・相模原市東部・茅ヶ崎市・藤沢市・大和市などを合わせた範囲にあたるそうです。式内小社:大庭神社藤沢市:大庭神社 未式内小社:深見神社大和市:深見神社 未式内小社:宇都母知神社藤沢市:宇都母知神社 未名神大社:寒川神社寒川町:寒川神社 寒川町:寒川神社 関東総鎮守に数えられる相州の古きかみやしろ式内小社:有鹿神社海老名市:有鹿神社 未式内小社:石楯尾神社相模原市:石楯尾神社(名倉) 未相模原市:石楯尾神社(佐野川) 未相模原市:石楯尾神社(磯部) 未相模原市:大島諏訪明神社 未座間市:鈴鹿明神社 未藤沢市:鵠沼皇大神宮 未大和市:下鶴間諏訪神社 未甲斐国現在の山梨県にあたる広大な領域を持った国です。日本最高峰の富士山や南アルプスの山々、八ヶ岳などの高峰を幾つも擁しており、その為か山岳信仰が非常に盛んである様に感じました。全20社の内、名神大社は1社、式内小社1社で、1座1社です。山梨郡:9座 / 小9社現在の甲府市の大半、山梨市、甲州市の一部、笛吹市北部の一部分が主な領域とされています。領域内に山間部が多く在り、かの名山 金峰山を奉斎する金櫻神社なども、この郡の項に挙げられています。割合的には圧倒的に平野部の神社が多いです。式内小社:神部神社甲州市:神部神社山梨市:神部神社 笛吹市:賀茂春日神社 笛吹市:神明神社式内小社:物部神社笛吹市:物部神社 山梨市:大石神社 未甲州市:大石神社 山梨市:白山建岡神社 式内小社:甲斐奈神社甲府市:甲斐奈神社 甲府市:甲斐奈神社 2柱の山の女神を祀る古社笛吹市:甲斐奈神社(春日居) 笛吹市:甲斐奈神社(一宮町)笛吹市:吾妻屋宮 式内小社:黒戸奈神社山梨市:黒戸奈神社 甲府市:黒戸奈神社 未甲府市:細草神社 未甲府市:穴切大神社 式内小社:金櫻神社甲府市:金櫻神社(御岳町) 甲府市:金櫻神社(御岳町) 鬱金の桜と金峰山祀る社山梨市:杣口金櫻神社山梨市:金桜神社(歌田) 山梨市:金桜神社(万力) 式内小社:松尾神社甲州市:松尾神社 甲州市:松尾神社 恵林禅寺周辺の総鎮守甲斐市:松尾神社式内小社:玉諸神社甲州市:玉諸神社 奥宮 未甲州市:玉諸神社 未甲府市:玉諸神社甲府市:柴宮神社 式内小社:大井俣神社山梨市:窪八幡神社 山梨市:大井俣神社 甲府市:二宮神社 北杜市:諏訪神社 未式内小社:山梨岡神社笛吹市:吾妻屋宮 笛吹市:山梨岡神社 山梨市:山梨岡神社 巨麻郡:5座 / 小5社山梨県の西側一帯、北杜市から南部町までの南北に広い領域を持っていたようです。巨麻とは駒のことであり、古来より馬産の地として名を馳せていました。甲斐源氏の入部地として、中世の甲斐国の歴史を語る上で外せない土地です。因みにこの郡のいずこか(南部町周辺だと思われる)が南部氏の発祥地であり、この地から陸奥国に下向した事で奥州の大名としての歴史を歩みだします。式内小社:神部神社南アルプス市:八幡神社 / 三輪神社南アルプス市:神部神社(下宮地) 北杜市:白山神社 未北杜市:神部神社 未北杜市:熱那神社 韮崎市:南宮大神社 南アルプス市:神部神社(寺部) 式内小社:穂見神社南アルプス市:高尾穂見神社 未韮崎市:穂見神社 中之社 韮崎市:苗敷山穂見神社 甲斐市:八幡穂見神社 未北杜市:穂見諏訪十五所神社 式内小社:宇波刀神社北杜市:宇波刀神社 甲府市:宇波刀神社韮崎市:宇波刀神社 甲府市:御崎神社 式内小社:倭文神社韮崎市:本宮倭文神社韮崎市:倭文神社 降宮甲斐市:諏訪大神社 式内小社:笠屋神社甲府市:熊野神社(国母) 甲州市:諏訪神社 甲府市:笠屋神社 未北杜市:五社神社 甲斐市:笠屋神社 北杜市:諏訪神社 (長坂町)南アルプス市:笠屋神社 八代郡:6座 / 大1社・小5社富士山麓の笛吹市を中心として置かれた郡。古代~上古の頃はここが甲斐国の中心であり、現在も一之宮である淺間神社が鎮座しています。丸山古墳・甲斐銚子塚古墳などの巨大な墳墓が造営されており、統治者は中央とのつながりが深く、且つかなりの権力を持っていたものと思われます。式内小社:佐久神社甲府市:佐久神社 未笛吹市:佐久神社 式内小社:弓削神社市川三郷町:弓削神社式内小社:表門神社市川三郷町:表門神社甲府市:五社神社 甲府市:表門神社 市川三郷町:一宮浅間神社 名神大社:淺間神社笛吹市:山宮神社 笛吹市:山宮神社 浅間大神の元鎮座地、山中に居わす古やしろ笛吹市:淺間神社 笛吹市:淺間神社 甲斐国一宮に鎮座する古淺間社富士河口湖町:河口浅間神社甲府市:青沼浅間神社 式内小社:中尾神社笛吹市:中尾神社 式内小社:桙衝神社笛吹市:桙衝神社 笛吹市:美和神社笛吹市:杵衝神社 尾張国愛知県の内、西半分を占める広大な領域を持っていました。古来より朝廷との結びつきが強く、古社も多い印象です。全121社の内、名神大社8社、式内小社113社で、1座1社です。愛智郡:17座 / 大4社・小13社現在の名古屋市の大半を含む領域が範囲とされています。大宝律令以前から”あゆち”などの呼称があり、相当古くからの地名であることが分かります。式内小社:日置神社名古屋市:日置神社 未式内小社:上知我麻神社名古屋市:上知我麻神社(熱田神宮境内) 名古屋市:熱田神宮 ①中心社殿 御剣にやどる天照と熱田のかみやしろ式内小社:下知我麻神社名古屋市:下知我麻神社(熱田神宮境内) 名古屋市:熱田神宮 ①中心社殿 御剣にやどる天照と熱田のかみやしろ名神大社:熱田神社名古屋市:熱田神宮 名古屋市:熱田神宮 ①中心社殿 御剣にやどる天照と熱田のかみやしろ式内小社:御田神社名古屋市:御田神社(熱田神宮境内) 名古屋市:熱田神宮 ①中心社殿 御剣にやどる天照と熱田のかみやしろ式内小社:高牟神社名古屋市:高牟神社(今池) 未名古屋市:高牟神社(高針) 未名古屋市:御器所八幡宮 未式内小社:川原神社名古屋市:川原神社 未式内小社:針名神社名古屋市:針名神社 未名古屋市:烏森天神社 未式内小社:伊副神社東郷町:富士浅間神社 未名古屋市:徳重熊野社 未北名古屋市:宇福寺天神社 未名古屋市:伊副神社(伊副八幡宮境内) 未あま市:伊副部神社 未式内小社:成海神社名古屋市:成海神社 未名古屋市:天神社 未式内小社:物部神社名古屋市:物部神社 未名古屋市:御器所八幡宮 未名神大社:日割御子神社名古屋市:日割御子神社(熱田神宮境内) 名古屋市:熱田神宮 ①中心社殿 御剣にやどる天照と熱田のかみやしろ名神大社:孫若御子神社名古屋市:孫若御子神社(熱田神宮境内) 名古屋市:熱田神宮 ①中心社殿 御剣にやどる天照と熱田のかみやしろ名古屋市:若宮八幡宮名神大社:高座結御子神社名古屋市:高座結御子神社 名古屋市:高座結御子神社 御井の社と子育ての神式内小社:八劔神社名古屋市:八剣宮(熱田神宮境内) 名古屋市:熱田神宮 ①中心社殿 御剣にやどる天照と熱田のかみやしろ式内小社:火上姉子神社名古屋市:氷上姉子神社 未式内小社:青衾神社名古屋市:青衾神社 未以上です。
2025年01月10日
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八戸にほど近い北三陸の洋野町。海沿いを走る国道45号を久慈方面に向かっていると、山側に巨大な鳥居が建っていました。このきれいな赤鳥居は三陸道からも見える程に巨大です。実は前から気になっていました。今回八戸沿岸の神社仏閣を巡った帰りに立ち寄ってみることに・・・。岡谷稲荷神社近くで見ると新しい鳥居であることが分かります。近年になって建立されたんではないでしょうか。鳥居をくぐって道なりに進みます。十数分走ったでしょうか、また大きな鳥居が建っていました。近くには岡谷稲荷神社と刻まれた社号標も見えます。境内近くの駐車場に停車し、いろいろ見て回ります。境内周辺にも稲荷神社の小祠が置かれていました。おそらく村々で祀られていた稲荷神社が集められているんではないでしょうか、知らんけど。では参道を進んでみましょう。鳥居がいくつも立ち並び、拝殿に誘っています。参道の左手には謎の祠がありました。祭神不明ですが、大木の根元に建っていて、何となく意味ありげです。大山祇神などの神格が祀られているんじゃないでしょうか?鳥居の根元に重軽石がありました。ここで卜するのも一興!参道を少し外れて裏参道の方に向かうと、いくつもの石碑が置かれています。表面の文字が掠れて読めないものが多かったです。拝殿です。写真では規模感が伝わりずらいですが、実際に見ると本当に大きい立派な社殿です。19世紀になって建立された新しめの神社ですが、その崇敬は絶大だと思われます。では御由緒です。岡谷稲荷神社御祭神:宇迦能御魂命例祭日:旧5月15日 文化7年(1810年)巳之助なる者に、この岡谷地内に稲荷大明神が鎮まり居るという御神託があり、おろそかにせず祀るべきだとなり六尺四方の社殿を造る。文政10年(1827年)4月に南方向三十間余りの土地に二十六坪境内地を設け、一間半四方の社殿を造る。 明治4年(1871年)に入り神仏分離令の際、社寺奉行くの改めにより無格社となり、国家管理となる。明治17年(1886年)に社殿の狭きを感じ境内地六畝十歩を寄進し、本殿・幣殿・拝殿等を改築する。 御神徳を慕い崇敬者が多くなり郷社編入を望み、昭和19年(1944年)社殿改築に踏み切り工事着工、終戦に入り物資不足等の難題に遭遇するため完成が長引き昭和25年(1950年)に完成、現在に至る。岩手県内 神社検索(岩手県神道青年会作成) / 岡谷稲荷神社 より抜粋拝殿の前では狐が睨みをきかせています。そして右脇には御神木と思われる巨木も立っています。御神木の根元の小祠です。御神木を祀ったものなんでしょうかねぇ?岡谷稲荷神社の木彫装飾は素晴らしく、是非実際に見てほしいです!虹梁の波模様や木鼻の双獅子、蟇股上部の向かい合った狐など見所たっぷりです。扁額もこの通り立体的な波細工がこしらえられています。これまで見たどの扁額よりも美しい扁額です。美術品といっても過言ではありません。斜めから。種市集落だけではなく、周辺地域一帯でも崇敬の篤い稲荷神社でした。南郷の方にも分霊社が作られている他、たまに境内の末社としても小祠が見られます。近代になって作られた神社ではありますが、その人気は凄まじいです。この規模間の稲荷神社は八戸周辺ではなかなか珍しく、今回お参り出来て楽しかったです今回貰った御朱印です。公式サイトへのリンク・岡谷稲荷神社以上です。
2025年01月09日
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江戸は巣鴨の地蔵通り商店街。その入り口に江戸六地蔵を祀る寺があるのは非常に面白いですよね!巣鴨と言えば”とげぬき地蔵”こと萬頂山 高岩寺というイメージをこれまで持っていましたが、ここも同じく地蔵尊と縁ある寺であり、巣鴨に行った際には是非寄りたいところ・・・。中山道の脇に座す地蔵尊を是非ご覧ください!江戸六地蔵三番札所:醫王山 東光院 眞性寺商店街の入り口を横目に境内に向かいます。これでもかと提灯が掛けられています。提灯の果てには今回のメインである地蔵尊が座しています。参道右手にはおそらく阿弥陀堂と呼ばれる伽藍とともに、様々な由緒書きなどが見られます。この説明書きにはこの寺院で行われる”百万遍大念珠供養”についてと、江戸六地蔵の略年表・札所などが書かれています。 百万遍大念珠供養は「災い回避の御祈願」として毎年6月24日の午後5時より厳かに行われます。 眞性寺境内に沢山の老若男女が、災いの回避を願い、直径3寸5分の大玉と2寸の小玉が連なった(全部で540粒)長さ9間の大念珠を、お念仏を唱え廻します。 境内の「陰光地蔵尊石碑」によると、其の大念珠供養は天保10年(1839年)に始まり連綿と続けられておりましたが、先の大戦により中断し戦後昭和46年(1971年)に地内の江戸六地蔵供養会により復活しました。 現在は「江戸六地蔵尊奉賛会」の方々により運営され、どなたでも参加いただけます。また、子供用の大念珠も用意され、地域のお子様が大念珠を廻しております。 ご奉仕参加の皆様には奉賛会よりお供物が振る舞われます。江戸六地蔵尊略年表元和元年(1615年):眞性寺中興さる 祐遍法印・元和偃武(大阪夏の陣)元禄16年(1703年):元禄大地震(関東地方中心)宝永3年(1706年):深川の地蔵坊正元が願主となり京都の六地蔵に習い発願する宝永5年(1708年):江戸六地蔵第一番 東海道品川寺に造立宝永7年(1710年):江戸六地蔵第四番 奥州街道東禅寺に造立正徳2年(1712年):江戸六地蔵第二番 甲州街道太宗寺に造立正徳4年(1714年)6月:眞性寺第六世盛弁法印入寂 第七世意正法印正徳4年(1714年)9月:江戸六地蔵第三番 中山道眞性寺に造立享保2年(1718年):江戸六地蔵第五番 水戸街道霊巌寺に造立享保5年(1721年):江戸六地蔵第六番 千葉街道永代寺に造立天保10年(1839年):眞性寺にて百万遍大念珠供養が始まる(安政の大地震)文久3年(1863年):地蔵尊宝珠再造大正12年(1923年):関東大地震にて台座蓮弁二枚再造、第二次世界大戦 戦火に遭うも現存するが大念珠等消失昭和46年(1971年):百万遍大念珠供養が復活、今日へ至る平成20年(2008年)8月:六地蔵修復のため京都へ平成22年(2010年)6月:修復完成、還着開眼法要江戸六地蔵尊巡拝について江戸六地蔵尊第一番:品川寺江戸六地蔵尊第二番:太宗寺江戸六地蔵尊第三番:眞性寺江戸六地蔵尊第四番:東禅寺江戸六地蔵尊第五番:霊巌寺江戸六地蔵尊第六番:永代寺※二番札所と四番札所は各寺院の説明書きによっては順番が異なることもある。このブログでは御朱印の判の通り東禅寺を二番札所として紹介しています。阿弥陀堂の裏には閻魔堂があります。東京大空襲によって焼失してしまった堂宇の一つでしたが、令和四年から再建のための呼びかけを行い、令和5年に再建されたようです。以前は阿弥陀堂の隅に置かれていた閻魔大王像ですが、正式に堂宇が再建されたことでここに遷されています。参道の左手には寺門が置かれています。本来の入り口はこっちなんでしょうか?そしてこれが江戸六地蔵の三、眞性寺の地蔵尊像です。宝珠と錫杖を持った姿です。説明書きです。東京都指定有形文化財(彫刻) 銅造地蔵菩薩坐像(江戸六地蔵の一)指定:大正10年(1921年)3月 江戸六地蔵の由来は、その一つ太宗寺の像内にあった刊本『江戸六地蔵建立之略縁起」によれば、江戸深川の地蔵坊正元が不治の病にかかり、 病気平癒を両親とともに地蔵菩薩に祈願したところ無事治癒したことから、京都の六地蔵に倣って、宝永3年(1706年)造立の願を発し、人々の浄財を集め、江戸市中六か所に地蔵菩薩をそれぞれ一軀ずつ造立したと伝えられています。各像の全身及び蓮台には、勧進者、その造立年代などが陰刻されており、神田鍋町鋳物師太田駿河守正義によって鋳造されたことがわかります。六地蔵のうち、深川にあった永代寺の地蔵菩薩 (第六番)は、廃仏毀釈で取り壊され、五軀が残っています。 六地蔵のうち、眞性寺の地蔵は第四番目で、正德4年(1714年)に造立されました。平成20~22年度(2008~2010年)の修理の際に胎内から銅造地蔵菩薩坐像四軀と鋼札、木札等が多数発見されました。それらは修理完了時に再び胎内に戻され、大切に保存されています。像高は、268cmあり、かつては鍍金が施されていました。 江戸時代中期の鋳造像としては大作であり、かつ遺例の少ないものであることから文化財に指定されました。平成23年3月建設 東京都教育委員会地蔵尊像の背後には本堂があります。宝形造の御堂で、装飾が素晴らしく美麗です。この堂宇には本尊である薬師如来が収められています。御由緒も見てみましょう(一部加筆)。醫王山 東光院 眞性寺真言宗豊山派 豊山神楽院長谷寺末寺開山:行基菩薩開基:四十五代聖武天皇本尊:薬師如来起源と歴史 江戸六地蔵の一つと知られる醫王山東光院眞性寺は真言宗豊山派に属しており、奈良県の桜井市初瀬の総本山長谷寺の末寺です。開基(寺の始まり)は不明分ですが、聖武天皇(在位:724年2月4日 – 749年7月2日)勅願。行基菩薩が開いたものと伝えられています。 「地誌御調査上」(文久9年1826年)によれば、今から380年前、元和元年(1615年)に祐遍法印により中興開基(一度哀運にあったものを再建)が行われたのが記録として残っています。時代的には大阪夏の陣で徳川氏が勝利し天下を掌握した年です。 同書によれば、当寺は元禄の頃から田端東覚寺の末寺であったのですが、正徳元年(1711年)にはそこを離れ、京都御室御所仁和寺の末寺になったといいます。その後明治33年に至って仁和寺を離れ、真言宗豊山派総本山長谷寺の末寺になって今に至ります。巣鴨地蔵通り商店街 / 江戸六地蔵尊 眞性寺 より引用本堂斜めから。創建年は不明ですが、行基菩薩の開基と伝わる寺院でした。御府内八十八霊場の三十三番札所とも知られ、そちらの札所本尊はこの薬師如来となっています。本尊は秘仏であり、普段その姿を見ることは叶いませんが、地蔵尊像はいつでも拝むことができます。この親しみやすさが地蔵尊そのものを表しているようでおもしろいです。かつては芭蕉翁も訪れたとされる巣鴨の名刹でした造像年:正徳4年(1714年)置かれた街道:中仙道今回貰った御朱印です。御府内八十八霊場三十三番札所の御朱印以上です。次の札所・四番札所:霞関山 本覚院 太宗寺 霞ヶ関に座す地蔵尊調子に乗って撮った写真ギャラリー境内斜めから。近代的な要素も感じられる本堂と、寺門前の五色幕がキレイです!
2025年01月09日
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茨城県で最も有名な山と言っても過言ではない筑波山。山の中腹には駐車場やロープウェイ、ホテル、温泉など様々な施設が作られ、登山するもよし、そのまま泊まるもよし、筑波山神社に参拝するもよしという・・・とにかく環境が整っている神山です。そんな筑波山の店の中には、名物”蝦蟇の油”を売るお土産屋もたくさんあります。今回紹介するお店もその一つで、蝦蟇の油を買おうか迷った挙句、食事だけして帰るという体たらく振りを見せました。お食事 いしはま蝦蟇の油以外にも茨城の地酒や、ドラゴンソードキーホルダーなども売っています。この店のロケーションは最高で、山裾の平野部が一望できます。本当に絶景の一言です。2024.10.14つくばうどんつくばらしさがどんなものかは分かりませんが、おいしいということは確かです。すり鉢に入って出てきたつくばうどんには、筑波山の山の幸がたっぷりと入っています。しいたけや山菜、ネギなどの他、錦糸卵、鶏つくねも見えます。見た目の通りスープは醤油ベースで、つくねからしみ出した鶏出汁と相性抜群です・・・!細めの麺とよく絡み、口内にうま味たっぷりのスープを運びます。時々香る山菜の風味もあってか、最後まで口内が爽やかなまま食事できました。食べ終わる頃には”つくばらしさとはなんぞや”という問いの答えが少し見えた気がしました以上です。
2025年01月08日
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江戸三十三観音霊場の内、一桁台の札所は上野~浅草周辺に点在しているんですが、今回の札所は上野からほど近い湯島にあります。六番札所:東叡山 寛永寺 清水観音堂からは徒歩数分と近いです。まとめてお参りできますね!さらに今回の札所は湯島天満宮にも至近という・・・神社仏閣を楽しむには持って来いの立地なんです湯島天満宮の記事もありますよ。興味のある方は下のリンクからどうぞ!・文京区湯島:湯島天満宮 江戸湯島を代表する天満宮江戸三十三観音霊場七番札所:柳井堂 心城院湯島駅から天満宮に向かって歩いていると、男坂の手前右手に7番札所があります。以前はタイムアップで門が締まっており参拝できませんでしたが、今回は無事に参拝することが出来ました。境内はこじんまりとしていますが、その中に面白いものがギュッと詰まっています。境内右手には清水が張られた池があり、悠々と鯉が泳いでいます。赤い橋には大きな亀の姿も。橋の先には祠が見えますが祭神は不明です。もともとこの寺院は弁財天を祀っていたらしく、そうした縁からもこれは弁天堂なのかもしれません、知らんけど。池については公式サイトで解説されています。放生池(心字池) 江戸時代の文献『江戸志』の「宝珠弁財天 男坂下」の項に、「江戸砂子にいう、此所の池は長井実盛(ながいさねもり。後に斉藤別当実盛になる)庭前の池と伝う。昔は余程の池なりしを近世其の形のみ少しばかり残りたり」と記され、かつての池は太鼓橋が架かる程の規模だったようです。 この池の水源は「柳の井」で、元禄の昔から病気平癒などの祈願で縁起の良い亀を放し、「亀の子寺」として親しまれておりました。作家の久保田万太郎(明治22年~昭和38年)は、この池の亀を眺めて一句、「きさらぎや 亀の子寺の 畳替」と詠みました。 元の池は亀の冬眠にも適した泥池でしたが、近年、周囲の都市化により池の水が抜け、亀の放生が困難となりました。かねてより亀池の復活を望む声が多く寄せられ、平成23年10月、篤信者や縁者の寄進により一部改修工事が行われ、心城院の「心」の字形を模した「心字池」が完成しました。同年11月20日には放生会が行われ、60余名の方々により亀や金魚が放され、「亀の子寺」らしい賑わいをみせた一日となりました。 平成24年には、準絶滅危惧種のニホンイシガメの五つ子がこの池で産まれました。天台宗湯島聖天 心城院 / 江戸名水 「柳の井」 より引用本堂の手前には水琴窟というのがありました。鹿威しにも見えるこちらの水琴窟、なんと石に水をかけ、竹に耳を傾けると鈴の様な音が聞こえるんです。ここ以外にも水琴窟を置いている神社仏閣は有りますが、僕はここが水琴窟の初体験場でした。その奥には小祠があり、荼枳尼天が祀られています。稲荷大神と習合しているため、稲荷神社で祀られていることもありますね。そしてこちらは江戸の名水と名高い柳の井です。寺院名や御詠歌にも詠まれる井戸で、本当に透き通ったきれいな水が湧きだしています。説明書きも見てみましょう。江戸名水 美髪・厄除け 「柳の井」 当山には、江戸名水「柳の井」があることから、「柳井堂(りゅうせいどう)心城院」と称されています。江戸時代の文献『江戸砂子』・『御府内備考』・『紫の一本(ひともと)』・『江戸志』などの「柳の井 男坂下」の項に、「この井は名水にして女の髪を洗えば如何ように結ばれた髪も、はらはらほぐれ垢落ちる。気晴れて、風新柳の髪をけずると云う心にて、柳の井と名付けたり」と記されています。 「柳の井」は古来より水枯れもなく、数滴髪に撫でれば水が垢を落とすが如く、髪も心も清浄になり降りかかる厄難を拂ってくれると伝えられています。この霊水の美髪・厄除けのご利益を求め、日々参拝者が訪れています。 また、関東大震災の時には、湯島天神境内に避難した多数の罹災者の生命を守った唯一の水として、当時の東京市長から感謝状を受けました。(指定 文京区防災井戸)お水取りの方へこの水は飲料可能ですが、持ち帰って飲む場合は、なるべく煮沸してからお飲み下さい。天台宗湯島聖天 心城院 / 江戸名水 「柳の井」 より引用こんな街中ですが、清水湧き出る所も有る。本当に東京の神社仏閣は面白いところぞろいです。それでは御由緒も見てみましょう。天台宗 柳井堂 心城院(通称・湯島聖天)縁起 当山は元々、湯島天神の別当寺であった天台宗喜見院の「宝珠弁財天堂」と称されていました。ときに元禄7年(1694年)、喜見院第三世・宥海大僧都が、道真公とご縁の深い歓喜天(聖天さま)を弁財天堂に奉安したのが当山の開基で、尊像は比叡山から勧請した慈覚大師円仁作と伝えられております。当時は、現在の湯島天神男坂下が湯島天神の表門にあたり、太田道灌の御殿・皓月亭跡とも伝えられています。享保のころ、寺門維持のため幕府から「富くじ」が発行されました。江戸では、谷中感応寺(現・天王寺)、目黒瀧泉寺(目黒不動)、喜見院(湯島天神)が「江戸の三富」と言われ、大いに賑わいました。 当時の喜見院はかなりの境域がありましたが、明治維新の神仏分離令で惜しくも廃寺となりました。当然、弁財天堂もその影響を受けるところでしたが、聖天さまの御加護により湯島天神との本末関係を断つのみで、奇跡的に廃仏の難を逃れました。単独の寺院として歩み出した当山は、建立当時の因縁により天台宗に属し、寺名を「心城院」と改めました。 当山は、開基以来幾度となく発生した江戸の大火や関東大震災、東京大空襲の戦火にも遭うことなく法灯を伝えてきました。しかし、約300年の風雪に耐えた本堂や庫裏は老朽化が甚だしくなり、近年に改修され寺観を一新しました。天台宗湯島聖天 心城院 / 心城院について より引用ここの本尊は由緒に出てくる歓喜天です。抱き合った象頭の男女の姿で表される歓喜天ですが、見た目通り男女和合の難を除く・夫婦円満などの御神徳が想定された神格らしいです。御供え物は二股大根、神紋は足を絡めあった二股大根ということで、とても面白い神格なんです。公式サイトの説明では、歓喜天と共に十一面観音像が置かれるのが通例だそうで、この札所でも慈覚大師御作の十一面観音像が置かれています。それが江戸三十三観音霊場の札所本尊となっているようです。ちなみに御影は下のリンク(公式サイト)からご覧になれます。・天台宗湯島聖天 心城院 / 江戸三十三観音今回の札所は、小さいながらも境内中に面白いものがたくさん置かれている寺院でした。湯島天満宮と共にお参りすることで、湯島の歴史に触れたような気持になれます。御詠歌柳井の 水清くして白梅の 香りかぐわし 湯島のみほとけ札所本尊:十一面観音 एकदशमुख今回貰った御朱印です。以上です。
2025年01月08日
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東京の中でも博物館や美術館が林立する上野公園。公園内には様々な神社仏閣も見られますが、これは公園がもともと東叡山 寛永寺の境内であったためです。堂宇の中でも清水寺を模したとされる清水観音堂は江戸三十三観音霊場の札所にもなっています。その正面には不忍池の弁天堂があり、常に観光客であふれています。不忍池にそって南に進んだところに湯島という町があるんですが、そこに今回紹介する湯島天満宮があります。湯島と言えば天満宮というほど知名度のある神社ですよね2024.3.27湯島天満宮メトロの湯島駅からも至近ですが、どこから行くにせよ上り坂を進まなくてはいけません。こちらは表参道側の大鳥居です。道路を跨ぐようにかかっています。湯島天満宮には他にも2つの入り口があります。こちらは神社北側からの入り口で、立派な門がかかっています。門をくぐると素晴らしい本堂と共に、数え切れないほど大量の絵馬が迎えてくれます。写っているものは境内の絵馬の内、一部でしかありません。受験生からの崇敬が感じられます。こちらが東側の入り口です。湯島駅からだとここが一番近いと思います。この石段は俗に言う男坂で、もう一つの石段である女坂よりも勾配がきついです。石段の麓には元別当の柳井堂 心城院があり、こちらは江戸三十三観音霊場の七番札所になっています。男坂を登り切った所には、文学と関連する石碑がいくつも建っており天満宮らしい光景でした。柳井堂 心城院の記事は下のリンクからご覧になれます!・七番札所:柳井堂 心城院 聖天祀る湯島の寺院説明書きです。天神石坂(天神男坂) 38段の石段坂である。別名は天神男坂。すぐわきにある、ゆるやかな坂・女坂に対して男坂という。 江戸時代の書物”御府内備考”によると、湯島神社(天神)参拝のための坂であったが、その後、本郷から上野広小路に抜ける通り道になったという。文京区教育委員会 平成3年3月男坂から女坂に抜ける道沿いには地蔵尊が置かれていました。幸福地蔵と災害復興地蔵尊と言うようです。説明書きを見てみましょう。【災害復興地蔵尊由来】(佐久間達夫氏遺稿より) 1923年(大正12年)9月1日の関東大震災は、東都に未曽有の惨禍をもたらした。当時の町会長を中心として有志は、罹災者の安寧と早期復興を願い、300年来、火伏寺としての伝統を持つ心城院の協力を得て、災害復興地蔵尊(右)を当地に建立し、震災で亡くなった方々の冥福と地元の平和発展を祈った。 その後、1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲では、隣接町会がほとんど焼土と化した中で、当町会は一軒の損失もなく、その難を免れた。これは「お地蔵さん」の御加護によるものと、往時の人々の心に深く刻まれた。 左に奉安の尊像は、戦後復興の兆しがみえてきた頃のある朝、突如出現された。由来こそ定かではないが、お心安らかなそのお顔は、いつしか「幸せ」を呼ぶ地蔵尊(幸福地蔵)として親しまれている。この二体の地蔵尊は、地元天二町会をはじめ近隣地域の大切な守護神として、その後の繁栄を見守っている。 以前の地蔵尊は露座でしたが、平成25年の関東大震災90周年を迎えるにあたり、平成24年9月に天二町会リサイクル推進部様より、地蔵尊覆堂が奉納されました。天台宗湯島聖天 心城院 / その他のほとけさま より引用この地で長く親しまれた地蔵尊であることが分かります。祭祀は心城院が行っているようです。女坂です。疲れたくない方はこちらの参道をどうぞ。再び表参道に戻ります。参道の脇には宝物殿や自販機スポット、手水舎などがあります。手水舎です。装飾も凝ってますねぇ隣には撫で牛がおかれていますよ。拝殿です。赤地に黒・金の装飾が素晴らしい!本当にきれいな社殿ですよね!私も様々な知識を楽しんで吸収できるようにと願をかけました今年も新しいモノ・コトをいっぱい見て・体験して楽しんでいきたいですねぇ!ご由緒です。湯島天満宮 社殿は平成7年(1995年)総檜木造りとして造営された。平成5年(1993年)お木曳き(造営の開始)の神事が行われ、遷座祭(完成)まで2年7か月を要した。 祭神は菅原道真である。伝承によれば文和4年(正平10年・1355年)湯島の郷民が霊夢によって老松の下に勧請したといわれている。その後、太田道灌が社殿を再興し、江戸時代になって、徳川家康はじめ歴代の将軍があつく庇護し隆盛をきわめた。かつて、湯島天満官は“湯島天神”として知られ、鳥居前には門前町もでき、多くの人々で賑わった。・銅製表為居(都指定文化財)寛文7年(1667年)9月建設され、同11年(1671年)修理した銘がある。下脚部に唐獅子頭部の装飾は鳥居としては特異なものである。・奇緣氷人石(区指定文化財)もとは天保13年(1842年)に建てられたもので、嘉永3年(1850年)に湯島天満宮社殿前に移設された。右側面に「たづめるかた」左側面に「をしふるかた」とある。迷子探しの石で都内でも貴重なものである。文京区教育委員会 令和2年1月もう一つ由緒書きがあり、↑よりも古い由緒を綴っていました。湯島神社由緒御祭神:菅原道真公、天之手力雄命例祭日:5月25日 湯島神社は”湯島天満宮”、”湯島天神”として全国津々浦々まで知られている。 雄略天皇の勅命により御宇二年(458年)1月創建と伝えられ、天之手力雄命を奉斎したのがはじまりで、降って正平10年(1355年)2月郷民が菅公の御偉徳を慕い、文道の大祖と崇め本社に勧請した。 文明10年(1478年)10月に、太田道灌これを再建し、天正18年(1590年)徳川家康公が江戸城に入るに及び、特に当社を崇敬すること篤く、翌19年11月豊島郡湯島郷の内五石の朱印地を寄進し、もって祭祀の料にあて、泰平永き世が続き、文教大いに賑わうようにと菅公の遺風を仰ぎ奉ったのである。 その後、林道春・松永尺五・堀杏庵・僧堯恵・新井白石など、学者・文人の参拝もたえることなく続いた。将軍徳川綱吉公が湯島聖堂を昌平坂に移すにおよび、この地を久しく文教の中心としていよいよ湯島天満宮を崇敬したのである。 明治18年(1885年)に改築された社殿も老朽化が進み、平成7年12月、後世に残る総檜造りで造営された。尚公式サイトのご由緒には以下の内容も見えます。元禄16年(1703年)の火災で全焼したので、宝永元年(1704年)将軍綱吉公は金五百両を寄進している。明治5年(1872年)10月には郷社に列し、ついで同18年(1885年)8月府社に昇格した。明治維新以前は、上野東叡山寛永寺が別当を兼ね、喜見院がその職に当った。湯島天神 / 湯島天満宮縁起 より引用斜めから。元は天之手力雄命を祀る古社だったようですが、近年はもう天満宮のイメージが圧倒的に強いですね。この由緒をよんで初めて菅公以外の祭神がいる事を知りました。斜めから。天之手力雄命は、神話上では天之岩戸をこじ開ける役割を持っています。それこそ道開きの様な力が連想されますよね。学問の神格とともに道開きの神格まで祀られているとすれば、受験生にとってはまさに聖地の様な場所になるかもしれませんね試験はあくまでも実力勝負、神に頼るものではありません。ただ勉強のモチベーション維持や気合を入れるためには、願をかけるという行為は大いに役立つと思います。何にせよ、今回無事に参拝出来て良かったです!今回貰った御朱印です。以上です。
2025年01月08日
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二度目の福島出張の締めくくりとして、那須町の温泉神社に参拝しました。その近くに情緒あふれる温泉があると知り、行ってみることに・・・。名を鹿の湯、”動物が傷を治していた”といういで湯伝説はいろいろ見てきましたが、今回は鹿です。こちらも狩人に追われて云々・・・というストーリーで、もはや何回も聞いたような感じですが、逆に安心感も感じます。一体どんな温泉なのかも気になりますよねぇ行ってみましょう!那須湯本温泉 鹿の湯温泉神社からは徒歩で5~10分くらいと、そこまで遠くありません。名もなき小川に沿って進んでいくと、温泉の全体像が見えてきました。荒い木材でこしらえられた湯舎は風情抜群・・・小走りで入り口まで向かいます。先に来歴を見てみましょう。『鹿の湯』の由来と古えの軌跡 那須温泉元湯・鹿の湯は、七世紀前半、約千三百年前の舒明(じょめい)天皇の御世に開湯されたといわれます。 狩野三郎行広という者が山狩の際に、射損じて逃げる鹿を追って山奥に入ると、鹿は傷ついた体を温泉で癒していました。そこで鹿によって発見された「鹿の湯」と名づけたと伝えられています。公式には、聖武天皇の御世である天平十年(七三八年)の正倉院文書のなかに那須温泉の記録が残されています。 江戸時代には、江戸在府の大名はしばしば那須温泉に湯治に出かけていました。 正保二年(一六四五年)に盛岡城主・阿部対馬守より将軍家に出された湯治願が残されています。これを見ても明らかなように、那須温泉は古くからの湯治場として人気を集めていました。松尾芭蕉が「奥の細道」の旅の前半に立ち寄った温泉でもあり、殺生石の近くに「いしの香や 夏草あかし 露あかし」の句碑が立っています。 建物は昭和16年に改築され、そのままの姿を受け継いでいます。 ひなびた木造建築が、時の流れを拒んだかのような佇まいで、 はるか昔の日本の原風景にタイムトリップしたかのような感覚になります。那須温泉 鹿の湯 / 歴史 より抜粋どんだけ古い温泉なんだよ・・・と感嘆のため息をつきつつ、横を見ると怪しげな小屋があります。どうやらここが那須湯本温泉の源泉みたいです。ここから下流のいくつもの温泉に流れ込んでいるんでしょうか。着きました、鹿の湯です。今でも十分風情があるんですが、これに雪が合わさったら尚きれいでしょうね入り口の看板の書体、面白いですね。中に入ると料金所があり、そこで精算します。有料ですがタオルも買えます。諸々の手続きを済ませて、いざ鹿の湯!脱衣所は少々狭いですが、Max15人くらいは利用できそうです。脱衣・・・(以下略)。まずはかぶり湯という洗体法で身を清めます。湧き出るお湯をすくって頭からかぶり、またかぶりと何度も繰返します。この温泉にはシャワーの類がなく、これが唯一の洗体法です。ここの湯舟は非常に面白く、温度ごとに6層に分かれています。41.42.43.44.46.48℃の6種で、今回は46℃まで浸かりました。最初の41~42℃は少し物足りなく、個人的には43℃がちょうど良かったです。それ以降の温度は数十秒入っただけで、すぐ上がりました。46℃はまだ我慢できるんですが、一番熱い48℃の湯舟はもう入っていられなかったです。熱スギィ!四角形の少々深い湯舟ですが、入り心地は抜群。自分の好みの温度を探すのも面白いと思います。今回は短時間の入浴でしたが、不思議と体がすぐに温まって心地よかったです。こんなに温度が刻まれている温泉もそうそうないですよね。少しずつ熱湯(あつゆ)へ向かうように入るのがすごく楽しかったです!ここでは鹿の様に、元気を回復できましたこれで無事に青森まで運転できそうです。本当にいい湯だじゃ那須湯本温泉 鹿の湯料金:500円(2024.12.21現在)休憩所の飲食物:自販機(ジュース)1台入浴備品の販売:タオルのみ湯の温度:41~48℃まで様々湯の種類:6種類サウナ:無公式サイトへのリンクです。・鹿の湯 千三百年続く静寂と癒しの湯以上です。
2025年01月07日
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品川区の寺院の中でも相当の古刹である海照山 普門院 品川寺。商店街の一角にあるこのお寺には、江戸六地蔵の一番札所としても知られています。ここの地蔵尊像は六地蔵の内、最も最初に造られた最も大きい像です。最初が肝心という言葉通り、六地蔵の中で最も見ごたえが有りました。江戸六地蔵一番札所:海照山 普門院 品川寺地蔵尊像は門前に置かれています。確かに大きく存在感がありますねぇ今でもお参りにくる方が絶えないのか、瑞々しい花が供えられていました。説明書きです。東京都指定有形文化財(彫刻) 銅造地蔵菩薩坐像(江戸六地蔵の一) 江戸六地蔵の由来は、その一つ太宗寺の像内にあった刊本「江戸六地蔵建立之略緣起」によれば、江戸深川の地蔵坊正元が不治の病にかかり、病気平癒を両親とともに地蔵菩薩に祈願したところ無事治癒したことから、京都の六地蔵に倣って、宝永3年(1706年)造立の願を発し、人々の浄財を集め、江戸市中六か所に地蔵菩薩をそれぞれ一軀ずつ造立したと伝えられています。各像の全身及び蓮台には、勧進者、その造立年代などが陰刻されており、神田鍋町鋳物師太田駿河守正義によって鋳造されたことがわかります。六地蔵のうち、深川にあった永代寺の地蔵菩薩(第六番)は、廃仏毀釈で取り壊され、五軀が残っています。 六地蔵のうち、海照山品川寺の地蔵は一番古く、宝永5年(1708年)に造立されたものです。像高は、現存するものの中で一番大きく275cmあり、かつては鍍金が施されていました。 江戸時代中期の鋳造像としては大作であり、かつ遺例の少ないものであることから文化財に指定されました。平成23年3月建設 東京都教育委員会3m近い地蔵尊の前には、まるで見守られるかの様に餓死者供養塔などが置かれています。正面から。造像から300年を経た今、往時の輝きは失われていますが、個人的にはこの錆色の地蔵尊の方が好みですねぇ地蔵尊は仏の中でも特に身近で崇敬の篤い仏尊だと思うので、金ピカな姿よりはこうした厳かな見た目の方が親しみやすいと思います。道祖神とも同一視される地蔵尊は、よく道の脇に像が建てられています。上方と江戸とを結ぶ東海道では、他の道では類を見ないほど大きな地蔵尊が建てられていたんですね。造像年:宝永5年(1708年)置かれた街道:東海道今回貰った御朱印です。札所の海照山 普門院 品川寺の詳細については、下のリンクからご覧ください・三十一番札所:海照山 普門院 品川寺 商店街のなかの古刹以上です。次の札所・二番札所:洞雲山 東禅寺 街なかに座する地蔵尊
2025年01月07日
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去年の7月に東京を旅する機会があったんですが、その時に参拝しました。JR品川駅で降りて、旧東海道を南下。道沿いには同じく東京三十三観音霊場の札所である豊盛山 延命院 一心寺や、龍吟山 海雲寺などの寺院が立ち並んでいます。もともと宿場街であったことから、現在でも道は狭く、そこにギュウギュウ様々な店が詰め込まれています。私は東京の生まれではないですが、古き良き東京の雰囲気を感じられる場所だと思いました。江戸三十三観音霊場三十一番札所:海照山 普門院 品川寺商店街を歩いていると巨大な地蔵尊像が見えてきます。下調べで見た通りの景色が広がっていて、不思議な気持ちになりました。提灯が並ぶ参道を奥に進みます。この地蔵尊像は江戸六地蔵の一番札所になっています。詳細は下のリンクからご覧ください・一番札所:海照山 普門院 品川寺 最大最初の地蔵尊寺門です。脇には玄武の燈籠があります。境内には稲荷の小祠がありました。何よりも気になるのが、これでもかと主張してくる鐘楼です。立派な建物であることは言うまでも有りませんが、それを取り囲むように置かれた七福神像が面白いです。梵鐘にも面白いエピソードがあります。まずはこの梵鐘の来歴から。大梵鐘 明暦3年(1657年)9月18日、京都三条大西五郎左衛門尉藤原村長に命じ鋳造。 周囲に徳川三将軍の号(東照宮、台徳院殿、台献院殿)と六観音(聖・千手・十一面・准胝・如意輪・馬頭)を陽刻し、普門品一巻を陰刻する。真宗醍醐派別格本山 品川寺 / 寺宝・文化財 より引用明治時代初期には廃仏毀釈の影響で堂宇が焼かれると共に、この鐘は海外に持ち出されてしまいます。後にスイスのジュネーブ、アリアナ美術館にあると判明。それから紆余曲折あり昭和5年(1930年)5月5日に返還され、品川寺からは代わりに同型の鐘が美術館に送られました。現在その縁で品川区とジュネーブ市は友好都市となっています。毘沙門と弁財天。鐘楼の隣には六角屋根の建物があります。弁天堂です。その名の通り中には八臂弁財天が収められています。こちらの堂には役小角行者が置かれています。薬師堂?です。ここで御朱印や御守りの購入ができます。堂内に入ると、正面に何体もの仏像が所狭しと並べられています。それに圧倒されつつ、仏像を観察してみます。左右には十二神将、右に6、左に6並んでいます。そして中央には日光・月光菩薩に守られた薬師如来が鎮座していました。江戸中期の作像ですが、今でも金色の光を放っていました。下のリンクからご覧になれます。・真宗醍醐派別格本山 品川寺 / 寺宝・文化財薬師堂の脇には垂乳根のさがった銀杏が生えています。御神木でしょうか?区の天然記念物に指定されているようです。根元には庚申・道祖神の石碑が建ち、崇敬を注がれています。本堂です。エキゾチックな外観が特徴的です。堂内は護摩堂の様になっており、本尊の他にも不動明王や毘沙門天像などが置かれています。壁に飾られた曼荼羅も見ごたえがありますよ!御由緒です。・・・品川寺は弘法大師が東国巡錫のとき、この地の領主である品川氏に水月観音を授け、それ以来、品川左京亮まで600年も品川家に伝わっていた。しかし、、応永年間(1395~1428年)に起きた足利公方持氏と上杉氏憲(禅秀)の戦いで品川氏が滅び、そのときご本尊を草堂内に安置した。そのあと太田道灌が品川の地を支配したとき、このご本尊を崇拝し、長禄元年(1457年)4月に道灌が江戸城に入ると、旧居に伽藍を建立して道灌の念持仏の聖観世音菩薩をこのお寺に移し、金華山 普門院 大圓寺と号した。・・・。承応元年(1652年)には、羽前国の僧、権大僧都弘尊上人が、四代将軍家綱から寺領およそ五千坪を拝領し、徳川家の外護のもとに大伽藍を建立し、金華山 普門院 品川寺と改め、のちに山号を海照山と号した。江戸時代には諸大名の祈願所になり、松平讃岐守、松平阿波守、太田備中守の三家の外護を受けたという。江戸三十三観音巡礼 新妻久郎 / 202、203ページ より引用この説明書きに従えば、草創は大同年間(806~810年)に弘法大師、中興は承応元年(1652年)に弘尊上人ということになるでしょうか。本尊は弘法大師御作の水月観音と、太田道灌の念持仏である聖観音の二仏となり、これらが札所本尊にもなっています。両本尊は秘仏ですが、聖観音だけは↑の公式サイトでご覧になれます。いずれにせよ、当地の有力者との関りが深い寺院だったんでしょうね。御詠歌夕つぐる 鐘の響きに帰りませ 救世の観音 ここにまします本尊:水月観音、聖観音 आर्यावलोकितेश्वर今回貰った御朱印です。以上です。
2025年01月07日
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とても暑い夏の日、名古屋帰りに地下鉄浅草駅まで寄り道しました。そこから歩いて30分程でしょうか、住宅街の中に寺院がチラホラ。その中の一つに今回紹介する洞雲山 東禅寺があります。江戸六地蔵二番札所:洞雲山 東禅寺境内に入ると左手に夫婦の像があります。これはアンパンの考案者である木村安兵衛と、その妻ブナの銅像だそう。もしかしたらここが菩提寺なのかもしれません。本堂の前には傘を被った立派な地蔵尊がいました。説明書きです(一部加筆)。洞雲山 東禅寺曹洞宗 萬年山祝言寺末寺開山:哲州和尚開基:格州和尚本尊:釈迦三尊東京都指定有形文化財(彫刻) 銅造地蔵菩薩坐像(江戸六地蔵の一) 江戸六地蔵は、深川の地蔵坊正元が病気平癒に感謝して造立を発願し、多くの人々の浄財を集め、江戸市中六ヶ所に勧請したものである。全身にある陰刻から神田鍋町の鋳物師太田駿河守正義によって鋳造されたことがわかる。本像の高さは2.71m、品川寺に次いで第二番の宝永7年(1710年)に造立された。他の六地蔵は鍍金が施されているのに対し、記録では本像は像の表面を布目条にやすりをかけ、弁柄色の漆を塗った上に金箔を置いたあとが残っていたとある。永年の風雨により、損傷が著しかったため、平成11年(1999年)に修復工事を行った。胎内仏として小形の銅造六地蔵菩薩坐像等が現存する。 なお、江戸六地蔵は次のとおりである。品川寺 品川区南品川三丁目太宗寺 新宿区新宿二丁目真性寺 豊島区巣鴨三丁目霊泉寺 江東区白河一丁目永代寺 江東区(消域) 東京都文化財保護条例(昭和51年3月31日改正)より文化財指定種別を都重宝から東京都指定有形文化財に変更しましたので、石造標識については、このように読み替えて下さい。平成14年3月29日 東京都教育委員会造像当時の地蔵尊は金色に光り輝く神々しいものだったでしょうね。洞雲山 東禅寺は寛永元年(1624年)に哲州和尚が開山し、格州和尚が開基となりました。それから約1世紀後、奥州街道のは入り口の守りとして光り輝く地蔵尊像が建立されます。江戸から出て陸奥国方面に赴く人も、陸奥国方面から江戸に入る人も、この地蔵尊像を見るたびに、今自分が江戸に居る事を実感し、道中の無事などを願ったんではないでしょうか。そんな風に考えると非常にエモいですよね参拝出来て良かったです。造像年:宝永7年(1710年)置かれた街道:奥州街道今回貰った御朱印です。以上です。次の札所・三番札所:醫王山 東光院 眞性寺 巣鴨の商店街前の地蔵尊
2025年01月06日
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2024年の12月某日、初めて日光の奥地まで行きました。津軽衆ゆへ寒さには人一倍強いという自負がありましたが、この時期の日光も雪こそ積もっていませんが相当の寒さ。指が凍るかと思うほどしばれていました。その分空気は澄きり、頭上には蒼天が広がり、絶好の散策日和でした坂東三十三観音霊場十八番札所:日光山 輪王寺別院 中禅寺二荒山神社の大鳥居が建つ十字路を左に進みます。そのまま中禅寺湖の東岸を道沿いに進むと中禅寺に到着します。途中道沿いに停車し、男体山をパシャリ。山のすぐ麓が湖になっており、景観は最高!寒い思いをしても見に来て良かったと思います茨城の友達曰く、日光山という山はないそうです。それを聞くまでは男体山が日光山のことだと思っていました・・・。いつかは登拝を・・・!そんなこんなで中禅寺に到着です。東照宮周辺の寺社仏閣と同じく鮮やかな赤色が映えます。これも津軽から運ばれたベンガラで塗られたものでしょうか?入場料を払って、いざ境内へ!説明書きです。日光山 中禅寺 立木観音天台宗 日光山輪王寺別院開山:勝道上人本尊:立木観音(千手観音)中禅寺 中禅寺は、延暦3年(784年)、日光開山「勝道上人」によって建立されたお寺で、世界遺産「日光山輪王寺」の別院です。御本尊「十一面千手観世音菩薩」(国指定重要文化財)は、勝道上人が中禅寺湖上に千手観音様をご覧になり、その姿を「桂の立木」に彫ったお像と伝えられています。観音様は、現在も地に根をはり、訪れる人々を穏やかな表情で迎えます。また、坂東三十三観音霊場の第十八番札所として多くの巡礼の方たちもご参拝になります。 中禅寺が創建された当時、立木観音は男体山の麓(現在の二荒山神社中宮祠)にあり、仏と神を並べ祀る「神仏習合」のお寺でした。男体山登拝口に当たるため、男体山巡礼の起点としての役割も果たしていました。しかし、明治維新の神仏分離令が行われるさなか、明治35年(1902年)9月28日に発生した男体山の山津波(土砂崩れ)で立木観音は湖水に流されてしまいました。しかし、観音様は奇跡的に何百メートルも離れたこの地「歌ヶ浜」に漂着し、皆は「観音様がこの地を選んだ」といい、中禅寺は現在地に移築されたのです。楼門 中禅寺の入り口で、左右に仁王尊が、祀られています。仁王尊は金剛力士像ともいい、力士がモデルとなった尊像です。境内に災厄が入り込まないように護っています。右側を密釋金剛、左を那羅延金剛と申します。波之利大黒天堂 立木観音の化身です。伝説によると勝道上人は当初2回、男体山の登頂を断念し、3回目の登頂の前に、勝道上人は中禅寺湖の岸で一心に祈祷を行いました。すると勝道上人の前に「大黒天」が現れ、その助けで登頂を果たすことができたと伝えられています。 本堂 立木観音を奉安するお堂です。勝道上人は、中禅寺湖の上に金色の観音の姿を感得し、一刀三礼して柱の立木をそのままに、千手観音を彫り出したといわれます。そのようなことから「立木観音」という呼び 名となりました。観音様の頭頂にある十一面の顔と千の手と眼は、 全ての人々を救うという観音様の誓願を表しています。五大堂 本堂の奥手、京都・清水寺さなからの舞台作りの上に建てられた五大堂には、江戸時代初期に造られた「五大明王」がお祀りされています。五大明王は密教の根本仏、5つの仏の智恵の象徴で、中尊は不動明王です。 五大堂の天井には日本画家 堅山南風画伯による壮大な「龍」が描かれ、お堂からは中禅寺湖と男体山の壮大なパノラマを臨むことができます。山門正面の金剛力士像です。阿形:密釋金剛吽形:那羅延金剛どちらも日光東照宮の仁王像とそっくりです。デザインは少し異なりますが、カラーリングは同じようです。塗は所々剥がれていますが、素晴らしい造詣の美像であることにかわりありません。山門裏側には風神・雷神が収められていました。雷神像風神像どちらも表情がいきいきとしています。山門を抜けてすぐの右側には、存在感のある鐘楼が建っています。説明書きです。諸願成就の梵鐘 この鏡は諸願成就の梵鐘と申します。一つ撞いては父母先祖有縁無縁供養のため二つ撞いては延命福寿のため三つ以上は願の数々とむかしからいい伝えられた有名な鐘であります。 すでに参拝された皆様の御先代、又は知巳の方々もきっとご自身で撞かれ青く澄みわたった湖上を流れ行き、山峡に余韻を引いたこの鐘に数々の願いを籠められたにちがいありません。本日この鐘の音を耳に刻まれてお帰りになることも、中禅寺参拝の思い出のよすがにもなることでしょう。中禅寺執行鐘楼の反対側には延命水と書かれた立て札がありました。不動明王の盤石の基から水がこんこんと沸き出ています。おそらくこれが延命水でしょう。境内にはなかなかに巨木が多いです。参道に沿って巨木が立ち並んでいるようです。巨木の内の一つには、日光の本宮神社のように大きなこぶのある杉が生えています。身代わりの瘤と言われている様ですので、僕も一撫でしてきました。願わくば手荒れを取り除きください(切実)。更に奥に進むと小さな御堂がありました。手前は愛染明王堂、奥は休憩所です。愛染明王堂内部はこんな感じです。赤ら顔の愛染明王が中央に鎮座しています。外も中も全て真っ赤な御堂でした。明王堂の左隣には加山雄三の歌碑が建っています。この曲を聴きながら、ここから夕焼けを見たいもんです・YouTube / 加山雄三 - 君といつまでも歌碑の前には宝珠地蔵と謎の石碑が置かれています。確か庚申だったはず・・・。宝珠地蔵尊は・・・両手を前に合わせその上に宝珠を抱え持ったお姿で江戸時代初期の作と伝えられ、大変信仰され多くの人が参拝されます。とあります。地蔵と言えば片手に宝珠、もう片方に錫杖という姿を思い浮かべますが、この像は宝珠しか持っていません。確かにほかの地蔵像とは一味ちがう様です。その隣には、日本百観音と四国八十八ヶ所霊場巡拝記念の碑がありました。僕も死ぬまでには達成したいですが、どうでしょう。境内奥には波之利大黒天堂があります。ここには勝道上人の男体山登頂を助けたとされる大黒天が祀られています。下野七福神の札所に選定されている他、堂内では数珠づくり体験などもできるみたいです。説明書きです。波之利大黒天 奈良朝の昔、日光開山勝道上人が我れ山頂を極めずんば菩薩に致らじと勇猛心の発願によって、初めて中禅寺湖畔まて登攀、幾度か男体山頂を極めんとして果たされず、よって草庵に端座祈念せられた時、上人の不撓不屈の精進心を感応攝受、湖上に大黒天出現「吾れ汝を外護せん」と告られ、その御守護により山頂を極められ、日光開山の偉業を成就せられたので、その奇瑞に感激し、その折感見せられた大黒天の尊像を刻まれてお祀りしたのが、この波之利大黒天の由来であります。 この大黒天はよく諸人の苦厄を救わせ給い、特に事業成就、道中安全、 開運の尊天とし別には安産、足止め、盗難除けの守護天として全国的に尊崇を受けております。後から調べて分かったんですが、日光市足尾にも波之利大黒天を祀る洞があるようで、そこのご由緒もおもしろいんです。下に載せたいと思います。足尾の大黒天 毎年穂をくわえて日光中宮祠に現れる白ネズミはどこから来るのか、これを確かめるために勝道上人がこの白ネズミの足に紐(緒)を結わえて放ったところ、現在の足尾の村落に至ったことから、それ以来この村落を「足緒」と呼ぶようになり、白ネズミが入った洞穴を修験の場に選び大黒天とネズミを祀ったという。足尾の名称と、渡良瀬川橋梁(大黒橋)の袂に祀られる大黒様の由来である。wikipedia / 波之利大黒天 より引用そして観音堂です。歌ヶ浜観音堂とも称される美しい赤色をした観音堂で、右手の入り口から中に入ることができます。扁額には立木大悲殿?大悲閣?どちらかが書かれています。待合室の様な土間を抜けて観音堂内に入ると、下の説明書きの様な美しい千手観音像が文字通り立っています。この立木観音像は会津の金塔山 恵隆寺と同じく立木から彫り出したもので、現在でも地面に根を張っているとされています。もともとは二荒山神社 中宮祠の境内に観音堂があって、そこに収められていたんですが、明治35年の(1902年)9月28日に山津波に寄り中禅寺湖に流されます。千手観音像は無傷のままで歌ヶ浜(現在地)に漂着し、そのまま中禅寺の本尊となります。千手観音を取り囲むように置かれた四天王像は、源頼朝が奥羽征討時に寄進したものとされています。こちらも彩色などがないシックな姿で、まさにいぶし銀!最初の説明にあった五大堂です。こちらには観音堂内から行くことができます。この堂宇は五代明王像と天井画2種が有名です。天井画の内一方は東照宮境内の本地堂と同じく迫力満点の龍が、もう一方は色とりどりの花が描かれています。龍の天井画は本尊立木観音と共に公式サイトの方でご覧になれます。・世界遺産 日光山 輪王寺 / 中禅寺(立木観音)この五大堂から見る中禅寺湖も素晴らしいです。はるか遠くにはうっすらと白くなった山々が見えます。その中の一つには、関東地方最高峰の日光白根山があるようなんですが、どれかまでは分かりません。日光白根山は日本百名山にも選ばれています。五大堂を後にします。ここで買った”中禅寺”という銘の線香は、使うのがもったいなくてまだ物置のなかにしまってあります。本当に香り高いですよ観音堂斜めから。本堂の立木観音といい、男体山と中禅寺湖の絶景と言い、全てが素晴らしい札所でした。ただこれも日光の一部でしかなく、まだまだ行きたいところは沢山残っています。またいつか、周り残した堂宇巡りや登山などもしたいですねぇ、本当に。御詠歌中禅寺 のぼりて拝むみずうみの うたの浜路に たつは白波本尊:立木観音(十一面千手観音) सहस्रभुज今回貰った御朱印です。坂東三十三観音霊場 立木観音の御朱印。五大堂の御朱印。五代明王の梵字が押されています。2025.1.21本寺の日光山 輪王寺の記事ができました!下のリンクからどうぞ!・日光市:日光山 輪王寺 日光の霊地に建つ古刹以上です。次の記事・十九番札所:天開山 浄土院 大谷寺 大谷寺の磨崖の千手観音
2025年01月05日
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僕は定期的にネパールカレーを食べたくなる性分なんですが、津軽に住んでいた頃にその欲望を発散していた店があります。弘前から十和田までを結ぶ国道102号沿いにあるお店で、ネパール本国の方たちがやっている正真正銘のネパール料理店です。ポカラダイニングここはいつ来ても混んでいますが、その理由は単純においしいからだと思います。ネパールカレーを提供するお店は数あれど、本当においしいと心から言える店はそうそうありません。それに対して、このお店は心から”おいしい!”と言えるお店なのです。2024.11.17ガーリックティッカ と パラクマトンカレーセット良い事があった日も、嫌なことがあった日も、スパイスカレーは平等に私たちを受け入れてくれます。僕の人生においてスパイスカレーを食べるという行為は、心を鎮めてリセットすることと同義です。料理から立ち上る湯気とスパイスの香りを全身で味わうことで、自分の根源に立ち返ることが出来るのです。だいたいカレーセットと料理一品を注文します。今日はニンニク香るチキンことガーリックティッカと、ほうれん草ベースのマトンカレーを注文しました。ティッカはどの味付けでも好きですが、何よりもガーリックティッカが好きです。ジュウジュウという音と共に運ばれてくるだけで何だか嬉しくなります。噛みしめるたびに溢れ出すうま味が最高です。どうしてこんなにおいしいんでしょうか。パラクマトンカレーは言うまでもなく、ほうれん草のコクとマトンの風味が相性抜群の最高カレーとして知られています(自分調べ)。ナンですくい取って食べ、最後は皿に残らないように残しておいたナンでもってきれいに拭き取ります。きれいになったカレーの器を見るたびに、何とも言えない達成感が押し寄せます何て最高な瞬間でしょう・・・!カレーと言えば4月8日の花まつりですが、僕は年がら年中食べっぱなしです。自分のためにも、おいしいスパイスカレーを出している店を探して、いつもさまよい歩いているのです。以上です。
2025年01月05日
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一番札所:金龍山 浅草寺・一番札所:金龍山 浅草寺 江戸観音巡礼の打ち始め、浅草の大古刹浅草寺二番札所:江北山 宝聚院 清水寺・二番札所:江北山 宝聚院 清水寺 合羽橋の千手観音、白亜の清水寺三番札所:大観音寺・三番札所:大観音寺 首だけの黒鉄観音を祀る寺院四番札所:諸宗山 無縁寺 回向院 家畜供養塔五番札所:新高野山 大安楽寺・五番札所:新高野山 大安楽寺 処刑場供養の大師堂六番札所:東叡山 寛永寺 清水観音堂・六番札所:東叡山 寛永寺 清水観音堂 江戸は上野の清水寺七番札所:柳井堂 心城院・七番札所:柳井堂 心城院 聖天祀る湯島の寺院八番札所:東梅山 花陽院 清林寺九番札所:東光山 見性院 定泉寺十番札所:湯嶹山 常光院 浄心寺十一番札所:南縁山 正徳院 圓乗寺十二番札所:無量山 寿経寺 傳通院二十一番札所:三縁山 広度院 増上寺 西向観音堂・二十一番札所:三縁山 広度院 増上寺 西向観音堂 大伽藍と石の古仏二十五番札所:三田山 水月院 魚籃寺二十六番札所:周光山 長寿院 済海寺 観音堂二十七番札所:来迎山 道往寺 観音堂二十八番札所:勝林山 金地院・二十八番札所:勝林山 金地院 家康公お抱えの僧が開いた禅寺二十九番札所:高野山東京別院三十番札所:豊盛山 延命院 一心寺三十一番札所:海照山 普門院 品川寺・三十一番札所:海照山 普門院 品川寺 商店街のなかの古刹三十三番札所:泰叡山 護国院 瀧泉寺 観音堂番外札所:龍吟山 海雲寺・番外札所:龍吟山 海雲寺 竈の神と数百年の歴史有する十一面観音以上です。
2025年01月05日
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現在の東京都の中でも江戸と呼ばれた地域内にある三十三観音霊場です。札所によって直書きだったり書置きだったり、ウェルカムだったりそうじゃ無かったりと、結構対応が異なります。営業時間もそれぞれ異なり、坂東三十三観音霊場程の制限されてるかんじは有りませんでした。札所の多くはその土地で有名な寺院や観音堂であり、札所本尊以外にも面白い御堂とかが周辺にあるような感じです。なので、周っているだけでも十分面白いし、江戸の風情をたっぷり味わえる巡礼だと思いました。東京駅を中心に南北方面に札所が密集している感じがあります。あとは新宿方面にポチポチと点在、これらをどのようなルートで周るかによって、結願迄の日数が大きく変わると思います。ただし東京周辺住みであるなら、時間をかけてゆ~っくり周ったほうが満足感が最高に高まって楽しめると思うんです。僕も本来ならその土地の名物を味わいながら周りたかったんですが・・・機会が少なすぎる故、スケジュール構築には結構シビアにならなくてはいけませんでした。そして田舎者故分からなかったんですが、都市部の寺院は建物が御堂の様な感じではなく完全にビルになっているものも多いようです。江戸三十三観音の札所の中にも5.6コそのような札所がありました。やることが変わるわけでは無いのですが、そうした建物の変遷や違いなんかも時代を反映しているようで、見ていて面白かったです。発願:2024.7.142024.12.26現在の残り札所は11コ、来年には結願したいです。江戸三十三観音霊場一番札所:金龍山 浅草寺他の巡礼:坂東三十三観音霊場十三番札所御詠歌深きとが 今よりのちはよもあらじ つみ浅草へ まいる身ならば本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事・一番札所:金龍山 浅草寺 江戸観音巡礼の打ち始め、浅草の大古刹浅草寺二番札所:江北山 宝聚院 清水寺御詠歌ただたのめ 千手のちかひひろければ かれたる木にも 花さくと本尊:千手観音 सहस्रभुज札所記事・二番札所:江北山 宝聚院 清水寺 合羽橋の千手観音、白亜の清水寺三番札所:大観音寺御詠歌くろがねの かたきちかいにみ仏は 花咲くがごと ちまたにぞ立つ本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事・三番札所:大観音寺 首だけの黒鉄観音を祀る寺院四番札所:諸宗山 無縁寺 回向院 家畜供養塔御詠歌み仏の 慈悲の光に照らされて 万人塚に 詣でくる人本尊:馬頭観音 हयग्रीव札所記事未五番札所:新高野山 大安楽寺御詠歌あなとうと 導きたまへ観世音 花のうてなの 安らぎの寺札所本尊:十一面観音 एकदशमुख札所記事・五番札所:新高野山 大安楽寺 処刑場供養の大師堂六番札所:東叡山 寛永寺 清水観音堂御詠歌松風や 音羽の滝は清水の むすぶ心は 涼しかるらん本尊:千手観音 सहस्रभुज札所記事・六番札所:東叡山 寛永寺 清水観音堂 江戸は上野の清水寺七番札所:柳井堂 心城院御詠歌柳井の 水清くして白梅の 香りかぐわし 湯島のみほとけ札所本尊:十一面観音 एकदशमुख札所記事・七番札所:柳井堂 心城院 聖天祀る湯島の寺院八番札所:東梅山 花陽院 清林寺御詠歌安楽の 往生願い観音に 十声となうれば かないぬるあんらくの おうじょうねがいかんのんに とえとなうれば かないぬる札所本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事未九番札所:東光山 見性院 定泉寺御詠歌春の日は 東光山にかがやきて 駒込の里に 晴るるうす雲本尊:十一面観音 एकदशमुख札所記事未十番札所:湯嶹山 常光院 浄心寺御詠歌たのめただ 枯れたる木にも自から 実りの花や さくら観世音札所本尊:子育て桜観音(十一面観音) एकदशमुख札所記事未十一番札所:南縁山 正徳院 圓乗寺御詠歌観音の おしえのままに導かれ ただ円かれと み船に乗るらん札所本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事未十二番札所:無量山 寿経寺 傳通院御詠歌ありがたや まことの道をふむ人は 慈悲の阿弥陀が 救うとうとさ本尊:無量聖観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事未十三番札所:御詠歌本尊札所記事未十四番札所:御詠歌本尊札所記事未十五番札所:御詠歌本尊札所記事未十六番札所:御詠歌本尊札所記事未十七番札所:御詠歌本尊札所記事未十八番札所:御詠歌本尊札所記事未十九番札所:御詠歌本尊札所記事未二十番札所:御詠歌本尊札所記事未二十一番札所:三縁山 広度院 増上寺 西向観音堂御詠歌ありがたや 西向観音に詣る身は 現世安穏 後生極楽本尊:西向聖観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事・二十一番札所:三縁山 広度院 増上寺 西向観音堂 大伽藍と石の古仏二十二番札所:御詠歌本尊札所記事未二十三番札所:金龍山 大圓寺御詠歌逆縁も もらさで救う観世音 我が身はなれず 添いたもうなり本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर またはそれを含めた七観音札所記事未二十四番札所:御詠歌本尊札所記事未二十五番札所:三田山 水月院 魚籃寺御詠歌身をわけて 救う乙女の魚かごに 誓いの海の 深さをぞ知る札所本尊:魚籃観音札所記事未二十六番札所:周光山 長寿院 済海寺 観音堂御詠歌昔より たつともしらぬいまくまの 仏の誓ひ 新たなりけり本尊:亀塚観音(聖観音) आर्यावलोकितेश्वर札所記事未二十七番札所:来迎山 道往寺 観音堂御詠歌かかる世に 生まれあうみのあなうやと をもはでたのめ 十こえひとこえ本尊:千手観音 सहस्रभुज、聖観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事未二十八番札所:勝林山 金地院御詠歌そのかみの 祇園精舎を名におえる 寺のみ仏 拝むうれしさ本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事・二十八番札所:勝林山 金地院 家康公お抱えの僧が開いた禅寺二十九番札所:高野山東京別院御詠歌有り難や 高野の寺の観世音 大慈大悲に すがるうれしさ札所本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事未三十番札所:豊盛山 延命院 一心寺御詠歌ありがたや 東海道之道筋に 聖の御利益いただいて 背にして 我が道を往く姿かな札所本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事未三十一番札所:海照山 普門院 品川寺他の巡礼:東海三十三観音霊場二十一番札所、東海七福神霊場 毘沙門天、江戸六地蔵一番札所御詠歌夕つぐる 鐘の響きに帰りませ 救世の観音 ここにまします本尊:水月観音、聖観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事・三十一番札所:海照山 普門院 品川寺 商店街のなかの古刹三十二番札所:御詠歌本尊札所記事未三十三番札所:泰叡山 護国院 瀧泉寺 観音堂御詠歌身と心 願いみちたる不動滝 目黒の杜に おわす観音本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事未番外札所:龍吟山 海雲寺御詠歌龍吟じ 品川の海に雲おこり み仏の慈悲 ありがたきかな本尊:十一面観音 एकदशमुख札所記事・番外札所:龍吟山 海雲寺 竈の神と数百年の歴史有する十一面観音以上です。
2025年01月05日
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白河市の東の端に一軒のラーメン店があります。開店と同時に人がどんどん入り、数十分後にはもうその日のオーダーを締め切ってしまう、そんな激コミ店です。それもそのはず、ここは白河ラーメン発祥の地で、ここからのれん分けした店が今でもそこら中にあるそうな。仕事帰りにふらりと寄ると、一人で行ったのが功を奏して運よく入れました。本当にありがとうございました!手打中華そば とら食堂開店から三十分後でもう営業終了の看板が置かれます。入れて本当に幸運でした。2024.10.29手打ち中華そば福島出張中に一度は絶対に食べたいと思っていました。白河駅のお土産屋にも手打ち麵が並ぶほどの有名店です。東北に多いちぢれ細麺、この手打ち麺が人気の鍵なんでしょう。ノンアルビールを飲みながら待っていると、奥からラーメンが運ばれてきました。もうすでに達成感でいっぱいなんですが、これから腹も満たしていきますまずラーメンを凝視!トッピングなども良くある構成で、みたところ普通の醤油ラーメンの様ですが・・・。気がかりな点があるとすれば、このチャーシューです。さっきからうま味を放出し続けています。そんな御託は抜きにして食べてみましょう。まずは人気の麺から。やはりちぢれ面はスープとよく絡んでおいしいですね!適度な歯ごたえも相まって、啜るたびにどんどん幸せな気持ちになっていきます。スープも適度な塩味・豊かなうま味・上品な香りが一体となって、口内に極楽浄土の曼荼羅を描きます。この店がなぜ人気なのかが何となく分かった気がします。食べ終わるころには、眼前に蓮の花が咲き誇る池が広がっていました。あやうくそのまま成仏する所でしたが、これから青森に帰るという大仕事が待っています。このラーメンに出会えたおかげで、暗い東北道が、まるで陽光に照らされたように輝いて見えました以上です。
2025年01月05日
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今では全国チェーンのラーメン屋である山岡家ですが、その始まりはこの牛久店だと言われています。昭和63年9月の建立で、最初は蝦夷の国の一部(サッ・ポロ)・坂東一帯に、後に北陸・中部・畿内の方に分霊社が建立され、ついには陸奥国にまで範囲を広げました。ラーメン山岡家 牛久店国道6号は宮城県岩沼市を起点にして、福島の浜通り、茨城の沿岸地域から霞ヶ浦の西岸を通り、千葉県の柏を抜け、東京に至る道です。物流の要となる大きな道路の脇に、この牛久店は作られました。店の前は広くなっており、大型トラックが何台も停まっています。24時間営業なので、休憩所としても栄えていそうですよね2024.12.15たっぷり生姜醤油ラーメン山岡家は豚骨ラーメンのメッカなんですが、からきんずの津軽衆は醤油ラーメンを注文しました。この時の期間限定メニューで、本当においしそうだったんですよねぇ・・・。つい手が伸びてしまいました。この日は朝早くから友人と神社巡りを予定していたので、体を温め寒さに負けないためにも、自然と生姜を欲したのかもしれません。不可抗力です。食券を渡せばすぐにラーメンが出てきました。生姜独特の香りがこれでもかと鼻を撫でてきます。自然とよだれが垂れてきて、気づいたら箸を丼ぶりに突っ込んでいました。味わいは醤油ラーメンのそれなんですが、鶏か豚かの油がよく混ざっていて本当にスープがおいしい!生姜と小葱のおかげでその油っぽさも気になりません。どんぶりの中で調和がとれていて、一日の元気を補充できる一杯でした・・・!初めて山岡家に行きましたが、こりゃいいもんです。また食べに行きます以上です。
2025年01月05日
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奥州南部糠部三十三観音巡りの起点となる、一番札所:寺下観音の向いにあるお店です。糠部地域は九ヶ部四門の制によって一戸~九戸、東西南北の門に分けられていたんですが、ちょうど店のある階上に東門が置かれたそうです。店名はこれに因んだものではないでしょうか。本当は蕎麦が有名なお店なんですが、一日に出せる食数が決まっているらしく、遅くに行くと蕎麦にありつくことは難しいです。それは晩に行っても変わりません。以前ジャズライブを見に伺ったときは、運よくありつけましたが、本当においしかったです。ザルでもそうでなくとも味わい深い階上蕎麦をいただけますよJazz喫茶 東門風情あるたたずまい、最高です。夜に来るとまた違った雰囲気で良いですよぉ2024.11.04東門カレー階上岳に登った帰り、ちょうど麓のこの店に寄って腹を満たしました。がっつり食べたかったのでカレーを注文。本を読みながら料理を待ちます。運ばれてきました、東門カレーです。見た目の通り非常に良く煮込まれています。材料がホロホロ・トロトロでうま味たっぷりです。肉は鶏でしょうか、こちらも柔らかく煮込まれていました。辛さは当然控えめで、蕎麦屋のカレーという言葉がピッタリの洗練された味わいでした初めてジャズライブを見に行ってからというもの、出張や仕事が重なり、最近はライブを見に行けていません。今年は足繫く通って、再びライブと料理を楽しみたいですね以上です。
2025年01月05日
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仕事帰りに無性に中華が食べたくなり、以前から気になっていた店に向かいました。いつも駐車場が混んでいて、町の人たちにも人気なようですね・・・!待ちきれません中国料理 五香読みは”ウーシャン”みたいです。料理も店名の通り香り高かったです2024.11.22えびチャーハン と 担々麵仕事帰りに無性に中華が食べたくなり、以前から気になっていた店に向かいました。いつも駐車場が混んでいて、町の人たちにも人気なようですね・・・!注文を済ませて、ただ空腹に耐えます・・・。待ちかねた頃にチャーハンが出てきました。油のいい香りが漂い、食欲をさらに高めます。エビの香ばしい香りも、蓮華を持つ手を引き寄せるかのように匂い立ちますそのまま手が止まることはなく、チャーハンは全て腹の中へと・・・。ラーメンと食べるには丁度よい量でした。ほどなくして担々麺も運ばれてきました。量は控えめですが、見た目からしてもう麺とスープが絡みまくっているのが見て取れます。味噌と香辛料の香りを楽しみつつ、一気に啜っていきます。割と甘めですが、そのおかげで塩味も良く感じられます。辛さも控えめで次の日に響かないため、平日に食べるには丁度良いですどちらの料理も、本日の中華欲をしっかり満たしてくれました。好吃以上です。
2025年01月05日
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高杉集落と言えば、津軽三十三観音霊場の四番札所:紫雲山 南貞院 観音堂で有名ですが、今回紹介する加茂神社も同集落に鎮座しています。お互いに至近であり、廃仏毀釈時には紫雲山 南貞院の代わりに観音像を護持、札所にもなりました。現在は再び紫雲山 南貞院が復活し、札所からは外されましたが、四番札所との縁も深く一緒にお参りするのも一興ではないでしょうか・・・?四番札所:紫雲山 南貞院の記事は下のリンクからどうぞ!・四番札所:紫雲山 南貞院 聖観音堂 聖徳太子御作の聖観音加茂神社(高杉)赤鳥居が見えてきました。駐車スペースがないので、迷惑の内容に駐車場所を選ぶ必要があります。境内にはこれでもかと石碑が置かれています。こちらには稲荷宮と正観音とかかれた石碑がありました。こっちには飛龍宮と書かれたものが。飛龍宮とは何ぞや、良く分かりません。津軽三十三観音の札所の中にも、もともと飛龍宮だったものが3つくらいありますが、これは津軽半島の大蛇神話と関係する物なのでしょうか?その他にも石碑がいっぱい。牛頭天王を祀ったものでしょうか?天照皇大神の石碑と小祠。高杉氏の石像。拝殿右手には謎の祠があります。拝殿です。正面から見ると宝形造に見えますが、横から見ると切妻屋根になっています。では、御由緒です。加茂神社の創建は大同2年(807)、坂上田村麻呂(征夷大将軍)の子供とされる花輪丸が東夷東征の際、この地に陣を張り蝦夷を平定した後、神意に感謝し勧請したのが始まりと伝えれています。 当初、多くの記録、社宝を所有していましたが江戸時代初期の元和年間(1615~1624年)の火災で社殿と共に粉塵に帰しています。 古くから神仏混合して聖徳太子が自ら彫り込んだと伝わる聖観音像を本尊とする「高杉観音」又は「観音稲荷宮」として津軽三十三観音霊場第11番札所(寛延年間:1748~1750年以降は第4番札所)に選定されるなど広く信仰されてきましたが明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏教色が一掃され加茂神社として独立しています。青森県歴史観光案内所 / 南貞院 より抜粋祭神は別雷神と八幡大神です。諏訪八幡宮という小祠が元禄16年(1704年)に合祀されたため、このような祭神構成になっているようです。別雷神は大国主の御子神である農耕神:阿遅鉏高日子根神とも同一視され、農業が盛んな当地域において重要視されたのではないでしょうか。扁額です。元和の火災以前は花輪丸自筆の扁額があったそうですが、焼失し現存していません。本殿です。拝殿斜めから。長く津軽三十三観音霊場の札所として、神仏混淆の中高杉集落に鎮座していた加茂神社。現在も集落の隅の木立の中、ひっそりと崇敬を集めています。以上です。
2025年01月05日
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北茨城の花園渓谷には深い山奥の地でありながら、花園神社を始め八葉山 遍照院 浄蓮寺などの大きな仏閣なども見られ、修験との関りがありそうです。そんな緑溢れる土地にそばをやっている店を見つけました。花園神社に行く途中に偶然見つけ、入ってみることに・・・。水楓亭駐車場から店までは、まるで庭園のような石段を登っていきます。払えないぐらいの値段だったらどうしようと少し怖くなりましたが、ここまで来たからには食べない訳にはいきません。2024.10.12ざるそばセットこの店では、福島県塙町で栽培された在来品種を使って蕎麦を作っているそうです。そもそも北茨城は蕎麦処として有名なそうです。そんな土地で作られた蕎麦がおいしくない訳ありません。注文を済ませてそわそわ待っていると、ざるに乗った蕎麦とおいしそうな天ぷら盛りが出てきました。心を鎮めて蕎麦と向き合います・・・。まずは薬味無しで食べてみます。プツンプツンと歯切れのよい蕎麦で、細さも丁度良いです。ちゅるちゅるとゆっくりすすって楽しみます。薬味無しでも飽きが来ない風味豊かな蕎麦です天ぷらは自家栽培の野菜がメインだそうですよ。なんといっても、このナス・・・油がしみこんでうますぎる・・・!最初は塩で、お次はツユで楽しみます。ツユに溶けだした油も最後には薬味になっておいしくいただきました。北茨城の蕎麦、はまりそうです。以上です。
2025年01月04日
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去年の9月ごろに参拝しました。この神社は駐車場らしきものがなく、近くで停められる場所を探して歩いて参拝しました。この神社は五戸の神社の中でも特に面白い特徴を持っています。お楽しみに・・・!2024.9.21浅水八幡宮家と家の間に参道が伸びており、なんだか風情を感じちゃいます。進んでいくと手すりが崩れかけた橋があり、その先に上り坂が待っています。ヘアピンカーブの様に折れ曲がった参道なんですね。案内板を見る限り、頂上に今回の目的地の八幡宮がありそうです。浅水城跡の説明書きも見てみましょう。浅水城跡 浅水城跡は、戦国時代の永正年中(1504~1521年)南部22代政康の三男長義が築城したと伝えられている。 長義の官名は「遠江守」で、五戸・浅水を知行し、禄高三千石であった。長義は寶福寺を開基し位牌や墓は同寺にあり、石碑は五輪塔である。 長義の子孫南氏5代利康は寛永8年(1631年)24歳の若さで没したので、その霊を慰めるために建てられたのが南部町の三光庵霊廟である。浅水城は利康の死没によって廃城となり、120年間の支配が終わった。 現在は境内地となっており、昔の面影がわずかに残されている。この城跡の東端を奥州街道が通っていた。林野庁・青森県参道の折り返し地点付近には、瑞洞山 寶福寺へ至る道が伸びていました。僕は通りませんでしたが、皆さんは下のリンクからこのお寺に参拝することが出来ます・五戸町:瑞洞山 寶福寺 浅水城主南氏の菩提寺長い参道を上り切ると、やっと八幡宮が見えてきました。つづら折りの参道は、参拝者を拒むかのようです。さすが城跡・・・。頂上からの眺望。集落が見渡せます。拝殿です。シックな色合いの木材が特徴的な社殿です。御由緒も見てみましょう。浅水八幡宮(五戸町) ・・・。八幡宮の創建は不詳ですが伝承によると建久2年(1191年)、南部家の家臣津島平次郎が八幡神の分霊を滝の沢に祀った後に浅水館に遷座したとされ安倍八幡と称していたと伝えられています。 南長義(?~1583:三戸南部氏22代惣領南部政康の三男・3000石)が浅水城の城主になると当地に遷座し、河内源氏を祖に持つ南部家伝来の八幡大明神を勧請合祀して城の鎮守社にしたと思われます。 御神尊像は天保4年(1833年)に栃内六兵衛が制作した木像で御神体は石清水八幡宮(京都府八幡市)から河上宗次が奉納した神鏡。古くから神仏混合し修験道場として栄え、別当寺院として多門院の配下の修験界蔵院が祭祀を司ってきましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され、明治6年(1876年)に村社に列しました。 例祭は旧9月15日(往時は村人全てが休日となり大祭を楽しんだそうです)。祭神:八幡大神(十五代応神天皇)青森県歴史観光案内所 / 浅水八幡宮 より抜粋御由緒の”・・・津島平次郎が八幡神の分霊を滝の沢に祀った・・・”の部分は、櫛引八幡宮の創建由来にも見られ、両者に何らかの関連があることを示しているのか・・・または、両者がハク付けに使っただけなのか・・・気になりますね。滝ノ沢は六戸のことだとされているので、何かしら謎を解くカギがあるかもしれません。境内には由緒書きの看板があり、そこに合祀された神社のリストがありました。愛宕神:天文4年(1535年)の草創と伝う。浅間神:祭神は葦津姫命、大永4年(1524年)手倉橋より選し祭る。神明宮:明治5年(1872年)、本村より遷し祭る。法呂神:祭神は猿田彦命、宝暦3年(1753年)の勧請と伝う。祇園神:素戔島尊、明治5年5月手倉橋村より遷し祭る。白山神:祭神は伊弉冊命、勧請年月不詳。中德稲荷神:明治3年(1870年)の草創と伝う。古石神:祭神は大国主命、元和6年(1620年)7月18日の勧請と伝う。岡谷稲荷神:明治5年本村より選し祭る。春日神:祭神は天児屋根命滝神:祭神は大己貴命、明治5年本村より選し祭る。丹内神:祭神は金山彦命、元文2年(1737年)8月勧請と伝う。駒形神:三座の一は宝暦10年(1760年)の草創にて明治3年手倉橋より移し、一は寛永3年(1626年)鎮座にて北向より移し祭り、一は明治3年の勧請と伝う。少彦名神:明治6年(1873年)手倉橋村より勧請す。個人的には蟇股の所の装飾がお気に入りです扁額です。社殿内陣はこんな感じです。拝殿の右手には神輿社がありました。そしてこの神社で一番驚いたポイントがこれです。折れた石碑に養蠶國神社とあります。おそらく福島県会津地方の蠶養國神社を祀ったものだと思われますが、どうして遠く離れた南部の地にこれが建てられたんでしょうか?この石碑についての説明などはありませんが、五戸は戊辰戦争後に会津藩士達が追放された土地でもあります。この地に辿りついた会津藩士たちやその末裔が、自分たちの故郷の神社を祀ったんじゃないかと妄想しています。蠶養國神社の概要は下のリンクからご覧になれます。・会津若松市:蠶養國神社 会津の中心街にある式内社斜めから。江戸時代以前の創建由来を持ち、様々な神社が合祀された八幡宮でした。何よりもこの地に流された会津藩士たちの痕跡ともいえる石碑が置かれ、当地域の歴史を表現している、そんな不思議な神社でした。気になる方は是非ご参拝ください!以上です。
2025年01月04日
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五戸町の南方に浅水という集落があります。集落の中心には小高い山があり、現在は公園となっていますが以前は浅水城という城郭が建てられていました。三戸南部氏の庶家である南氏が居館としていたところで、当地域を一望できました。その南氏の菩提寺として寺領を賜ったのが、今回紹介する瑞洞山 寶福寺です。2024.9.21瑞洞山 寶福寺浅水集落を東西に貫く県道233号から、北の方に外れると寺門が見えてきました。参道は緩やかな階段で、登り切るとまた門がありました。境内の石碑、虎が書かれています。不思議な模様の入った石で作られています。本堂です。均整のとれた美しい形をしています。壁面には龍などの彫刻がなされ、見ごたえがあります。パンフレットの説明書きも見てみましょう。 現在の本堂は嘉永2年(1849年)に火災に遭い、安政6年(1859年)に再建された。安政期の本堂がほとんど改造を受けることもなく、今日まで大切に保存されており、江戸時代末期の年代特徴をよく表しており、貴重な建造物である。この通り素晴らしい建築物で、青森県重宝に指定されています。虹梁の植物の様な装飾も精巧で美しいです。説明書きです。青森県指定文化財 寶福寺 本堂一棟 附棟札一枚・入母屋造、向拝一間、軒唐破風付き、鋼板葺・桁行19.107m・梁間15.761m・建築面積325.50㎡ 寶福寺の構造は、土台に角柱を立て、足固賞、腰貫、切目長押、内法貫、内法長押、頭貫、台輪と組んで皿斗付き拳鼻付き平三斗を置いて二軒の繁垂木を受けている。 妻飾りは墓股と皿斗付き平三斗とを置いて二重虹梁藝股の形式を取り、錆懸魚を付けている。 内部天井は寄造型化粧屋根裏という珍しい構成を示し、江戸時代末期建築の特徴をよく表現している。平成7年4月19日指定 青森県教育委員会扁額です。堂内に入ると更に扁額があり、こちらの方が立派ですね。扁額の周囲には彩色された龍の彫刻があります。こちらは白龍。こちらは黒龍でしょうか。堂内は広く本尊の釈迦如来像が奥に鎮座していました。ここの天井画が有名なんですが、案の定撮り忘れです。説明書きだけ載せたいと思います。化粧屋根裏 本堂の内部天井は寄棟造型化粧屋根裏で極彩色豊かな植物が細やかに描かれており、 大変珍しい構成となっている。 現在は職人が残っていない為、当時の再現が非常に難しいとされ、貴重なものとなっている。ついでに御由緒も・・・賓福寺の歴史 真福寺の創建は鎌倉時代の正応年間(1288~1292年)修験者によって開かれたのが始まりと伝えられています。 当初、西越村大谷地にありましたが元年(1492年)に法光寺2世安施昌舜和尚が現在地に移し中興・開山しています。 大永3年(1523年)に浅水城の城主南長義が寺領35石を安堵し南家の菩提寺としています。※南長義(?~1583年)三戸南部氏22代惣領南部政康の三男。三戸城の南方に居を構えた事から南氏を称した。石高3000石。西越は新郷村の東側にあり、浅水からは割と近いです。三嶽神社など修験と関係の有りそうな神社が数多くあり、この寺院の始まりが修験者によるものだと言われても納得です。中興・開山共に法光寺の安施昌舜和尚です。これは糠部地方の仏教文化の中心として、法光寺が機能していたことが如実に表れていると思います。本尊とは別に素晴らしい仏像群が収められています。これは堂内左手にあります、二体の不動明王を伴った薬師如来でしょうか。彩色された地蔵尊もあります。そして裏手には千手観音座像があります。手の装飾が素晴らしく、本当に千本ありそうです。蓮華座の花びらの表現も見事で、いつまでも見ていられそうです。斜めから。南氏の菩提寺として浅水の集落に今も鎮座している瑞洞山 寶福寺。境内には南氏初代の長義公を弔った石塔があるとのことなんですが、こちらも撮り忘れてしまいました。温かくなったころにまた伺いたいですね本堂や仏像群も本当に素晴らしかったです。以上です。
2025年01月04日
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津軽弘法大師霊場最後の札所は言わずと知れた津軽の古刹 古懸山 不動院 國上寺です。結願所に相応しい歴史を持った寺院です。本尊の坐り不動も、7世紀に唐僧円智によって一木から作像された三体の不動尊像の一つであり、津軽三不動尊霊場の札所としても知られています。より詳細な説明は下のリンクからご覧ください。・三番札所:古懸山 不動院 國上寺 津軽最古級の大寺院津軽弘法大師霊場二十三番札所:古懸山 不動院 國上寺まずは境内を見回してみます。修行中の大師像がありました。四国八十八霊場の砂踏み場にもなっています。いつかは自分で周りたいもんです・・・!いついっても像の前には花が供えられていて、篤い信仰が感じられます。隣には白衣観音でしょうか、いきいきとした姿が特徴的ですねぇ不動堂(仮)です。ここに本尊の坐り不動尊が収められています。堂内には金剛界大日如来も納められており、旅の終わりを伝えてくれます。御詠歌むかしより 古懸の山に法の灯を ともす大師の ありがたきかなむかしより こがけのやまにのりのひを ともすだいしの ありがたきかないつまでも 宿りおりたや国上寺 衣の裾の その下にしていつまでも やどりおりたやこくじょうじ ころものすその そのしたにして本尊:古懸の坐り不動さん अचलनाथ以前貰った御朱印です。以上です。
2025年01月04日
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東北三十六不動尊霊場の十三番札所は、津軽でも随一の古刹とされる古懸山 不動院 國上寺です。本尊は坐り不動とも呼ばれる不動尊座像で、かつて阿闍羅山の山頂にあったとされる大安国寺、その不動堂の本尊とされる古仏でもあります。より詳細な説明は下のリンクからご覧ください。・三番札所:古懸山 不動院 國上寺 津軽最古級の大寺院2024.8.3東北三十六不動尊霊場十三番札所:古懸山 不動院 國上寺境内奥の不動堂(仮)に本尊があります。扁額にも古懸不動尊と刻まれていますね。堂内はこのような感じで、御前立の不動尊像の後ろ、幕の奥に坐り不動尊が居ります。正月に御開帳があるとされていますが、まだ一度も直に拝んだことはありません。斜めから。坐り不動は、津軽一代様酉年の守り本尊ともされ、東北三十六不動尊霊場以外の巡礼でも札所本尊に指定されています。そのせいか御詠歌なども巡礼間で共通しており、非常に篤く崇敬されています。”ねまる”は津軽弁で座るの意味ですが、この正月はそれこそねまってばりだったので、雪と寒さに負げねんで活発に動き回り、春からの巡礼さ備えたいと思います御詠歌めぐり来て みれば古懸の不動さん 大師もここに おわしましますめぐりきて みればこがけのふどうさん だいしもここに おわしまします本尊:古懸のねまり不動 अचलनाथ以前貰った御朱印です。以上です。
2025年01月04日
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