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「捨てたはずの浮き世に、今あらためて立ち戻りました私の心中を、
あなたさまがお察しくださいましたので、
長生きをしてきた甲斐があったと思い知られたことでございます」
と、尼君は泣いて、
「明石のような荒磯で、幼い姫をご養育申し上げますことを
おいたわしく思っておりましたが、こうして都へお迎えくださった今は
頼もしいご将来と祝福申し上げます。
何分にも素生の賤しい母親でございますゆえ、
それが将来の支障とならねばよろしいがと、
何やかや私には心配が尽きないのでございます」
など申し上げる尼君の気配が上品なのです。
この大井の邸に住んでいらしたという尼君の祖父・中務の親王の御事を
話題にしていらっしゃると、修繕していた鑓水の音が、
まるで恋しい昔を思い出させるように聞こえてきます。尼君、
「住み馴れし 人はかへりてたどれども 清水ぞ宿の あるじがほなる
(かつて住み馴れた私がここへ戻って参りましたのに、
あれこれと迷っている有様でございます。けれど鑓水だけは音をたてて流れて、
まるでこの邸の主のようでございますね)」
王孫でありながら、さりげなく控えめに言う尼君の様子を
『優雅で、賢い人だ』とお聞きになります。
「いさら井は 早くのことも忘れじを もとのあるじや 面がはりせる
(鑓水の流れは昔の主人を忘れたのではなく、
出家なさって尼に姿をかえていらっしゃるせいではございますまいか)
悲しいことですが」
と、じっと考え込んでお立ちになるお姿やお顔の色艶は、
尼君には『今まで見たこともないほどうつくしい』と思われるのです。