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父が亡くなって2週間、母が亡くなってちょうど1週間がたった。ダブル遺影?!なかなかみられない光景に我が家にやってきた人達は感激する。ふたりがとても幸せそうな顔をしているのもある。母の葬式が終わってから、姉の家族が泊まり、そのあと昨日まで我が家には姪っ子が泊まっていた。お客さんも来られるだろうし、家をあけるときに姪っ子に留守番を頼んでいた。姪っ子は何故か4連休だった。その前に忌引きで2日間お休みをもらったので、第2のゴールデンウイーク?!若い娘が予定もなく家にゴロゴロしているのはどうなんだろう。。。我が家としては非情に助かった。さすがに昨日の夕方には毎日の寝不足続きのせいか寝ていた姪。そろそろ帰らせないとね・・・・「お母さんはすぐにぶち切れるから、帰りたくないの! 怖いし!」まあね・・・親ってそういうものかもね。いくら何でも休みの間、ずっと我が家ですごさせるのも心苦しいので帰ってもらった。口数の多い姪ではないが、いないと静かで寂しいね~と夫と話す。明日から夫は職場に復帰する。私は家でひとりか・・・ここにいるときはいいのだが、実家に帰って家の中をみていると何とも言えない気持ちになる。ひとつひとつが父母の思いでだ。もういないのか・・・そこに2人がいたときは、それが当たり前だと思っていた。今もそこで生活しているような錯覚におちいる。父は山に行っていて、母は買い物に行っているんだろう。そんな気がしてならない。でもいくら待っても2人は帰ってくることなどないのにね。。。つつましい生活をそれなりに楽しんでいたんだなぁ・・・・向かいの家のおばちゃんの家に挨拶に行った。お通夜もお葬式にも来てくれていた。母が亡くなってからじっくり話すことは初めてだった。何と母は夜遅くになくなって次の日の朝方、挨拶にきていたらしい。寝ていて名前を呼ばれて、おや?!と思っていたのだそうだ。そして朝方に私からの知らせがはいった。一番母のことを気にかけて何度も我が家に電話をくれた。入院しているのを隠していたから話しをすることもできず、入院しているのがばれてからは面会制限をしてもらって・・・とても心苦しかった。「方向音痴でもちゃんと行けたんだね・・・」そのあと2人で涙した。人を信じることができなかった母だけど、本当は向かいのおばちゃんを信頼していたんだ。話しをさせてあげなかったことが少し後悔だ。身体を離れたあとは自由になってとびまわっていたんだろう。ずっとつらかったんだもんね。死ぬのが怖いと言っていたははだったが早く逝かなかったことに後悔はしていまいか・・・とにかくドラマをみせてもらった。特に父の死後2週間は超人的だった。人は間もない2週間だと言うが私たち家族にすれば、とても長い長い2週間であった。苦しむ母の姿をみれば誰でもそう思ったであろう。もう私もふっきらなきゃね。母が横に並んで父の遺影はますます嬉しそうに笑っている。今頃、けんかしてないだろうか・・・(≧∇≦)
2009年05月20日
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13日午後11時40分母の呼吸が止まった。その時、私だけがそこにいた。夕方までは姉も姪もうちの家族もいたのに・・・前日は姉と姪っ子が泊まった。私も夜中までいて・・・危ないかもしれないと言われて出張先の東京からとんぼ返りして夫が帰ってきた。その日、母はつらそうながらもがんばった。夫、明日でも良かった?!そんな気もしていた。次の日、日中姉がずっと付き添ってくれていた。段々つらそうになってると姉からのメールがあったが何とも言えない状態。尿が全くでなくなって2日たつのでいつ何時とも言われてはいたが母は思いのほかがんばっていた。なんで、そんなにがんばるの・・・・みているのがつらかった。みんながそう思っていたはず・・・母のお気に入りの弟に声をかけないわけにもいかなくなっていた。「がんばれ!!」やっぱりそう言うか・・・母、私たちと実の弟の言葉で悩んでいるのではなかろうか・・・その日の夕方。私はひとりで病室にいた。姉は前日もいてくれたので帰るようにうながした。姉は丸一日病院で過ごしたことで満足していたようだった。「お前もいい加減に帰ればいいよ。」「うん、少しだけいるよ。何かあったら連絡する。」痰がからんでいる母は呼吸の度にうがいをしているような音がする。痰をとってくれるのが見えるのだがどす黒い血のようなものが出ている。みていられない・・・消灯の時間になって、なんとなく帰りそびれてしまった。もう少し・・・そう思っている間にも離れることができなくなった。夜中の病院は割とうるさいのだと感じた。つらくて廊下中に響き渡るような声が聞こえてくる。「おかーさん、おかーさん。」どこかのおばさんが叫んでいる。眠れもせずに横になって身体を休ませていた。10時か・・・12時くらいまでいようかなと思っていた。ん?!あれ・・・父の呼吸が止まって知り合いの男の子が馬乗りになって心臓マッサージをしようとしてる?!身体の大きいその子が父のあばら骨を折るのではないかと心配になった。「やめてよ!そっとして!!」はっとして目が開いた。夢だった。なんと生々しい夢か・・・・母の呼吸が静か?!モニターの血圧が50を切った。これは・・・急いで看護師さんを呼ぶが驚くふうでもない。これってたいしたことでもない?!それまで上が60~70と低めではあったが50をきっているのに・・・たいしたことではないの?姉に一応知らせた。病院にすぐむかうと連絡がきた。夫は爆睡しているのか電話にでない。胸騒ぎがした。とても小さい呼吸に不安をおぼえた。「おむつかえますね~。」ここ数日ははぐっても何もでていなかったのだが、看護師さんがギョッとしていた。「大量にうんちがでてる!血もまじってる!」父も亡くなる数日前に大量のウンチが出た。近いんだ!!とっさにそう思った。オムツ替えをしようとして身体を動かした瞬間、鼻血が吹き出た。そこで看護師さん二人が慌てた。「hossyさん、家族をよんでください!」次の瞬間には母の呼吸が止まった。みんな間に合わなかった・・・・私しかいないのに・・・・前の日はみんないてくれたのに・・・もっと早くみんなに声をかけていれば・・・・姉と義兄、夫、子ども達、伯父、叔母夫婦がやってきた。なんでみんながいるときに逝ってくれなかったの・・・重すぎるよ・・・・私を憎んでいただろうに。家で療養していた父にかかりっきりだった私。病院にいた母は看護師さん任せだった。たまに顔をだせば怖い顔をして攻撃してくるし。父が亡くなっても病院に行く足取りは重かった。父が亡くなっても病院で付き添う時間も短かった私。一番さみしがった時期に父をひとりで置いておけなくて家に急いで帰っていた。父が亡くなった頃には誰が誰なのか分からなくなっていた。ただ朦朧としている母の姿をみるのがつらかった。私は最後まで母から逃げていたように思う。やさしくしてあげられなかった。本当に私に攻撃してくる母にやさしくできなかった。無理だった。眠っている母をなでているのが精一杯だった。ごめんね。父が亡くなった時の気持ちとは違う何かがある。後悔するのが分かっていても母によくしてあげられなかった。いつも私を試しているようにしか思えなかった。認知症になって・・・私に殺されると姉に報告したり、こんなことを言われてこんなこともされたと姉に報告していたことを知って母を憎いとさえ思った。病気でそうなったと分かっていても優しくできなかった。病院で必要なモノを届けて顔をちょっと出すのが精一杯だった。寂しい思いをさせた・・・こんな私を母は許してくるだろうか。尿がでなくなっても点滴を打ち続けていた母の身体はむくんでひどいものだった。小さな顔が大きくなって・・・いつも白髪姿なんか見せなかった母。生え際が真っ白だった。見た目を気にしていた母だけにその姿が痛々しい。一晩たった母の遺体から薬液がでてくる。鼻からがすごい。白い着物の襟が黄色くなった。どんなに苦しかったろう・・・がんばりすぎだよ。父の葬儀が5月1日だった。母は5月16日。父より後に逝きたかったんだろう・・・医師が信じられないとばかりに言っていた。父の葬儀の頃、危ないかもしれないという知らせがあった。そこからがんばった。最後のがんばりをみせてもらった。「いつも口ばかりでがまんできない!」姉は母のことをいつもそう言っていた。いやいや・・・がんばったがんばった。底力をみせられたよ。「どうや!すごかったやろ!」自慢げな母の姿が目に浮かぶ。そして母の最後の少し前にみた父の夢。知らせてくれたんだね。私しか側にいなくてよかったのか・・・・朦朧とし出した頃母の枕元で「ありがとね・・・」そう言うのが精一杯だった。そんな姿にならないと言えない言葉だった。いつも私は遅いんだよね・・・言葉がかえってこなくなってよく母に話しかけていた。愚かだね・・・母からの攻撃の言葉がないと分かって話しかけていた私はずるい人間なのだ。私は憎んではいない。母が少しでも幸せな人生だったと言えているならそれでいいと思う。今頃楽になっているんだろう。「こんなに楽なら早く来ればよかったわ~。」そんなことを言っていないだろうか・・・「いろんな愛のムチを与えたけど、あんたはだめだったね~。」そう言っているかもしれない。母は私の人生の教師だった。そのことは忘れない。深い愛だったのだろうか・・・少し私には重かったのかもしれない。今も両親がいなくなったことが信じられない。肉体が存在した頃、あなた達の存在を遠く感じていた。今、何かがひとつになったような気がする。昔、寂しかった。孤独を感じていた。ずっと孤独だった。あの頃の自分はもういない。この1年本当に幸せだった。本当はずっと幸せだったんだ。気がついたよ。今日はお通夜。明日は葬儀。そして明後日はこどもの運動会。切り替えが大変だ・・・・!Σ( ̄□ ̄汗…)
2009年05月14日
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ゴールデンウイーク中がヤマだと言われていた母。今も寝たきりで身動きひとつとれないまま病院で過ごしている。もう目も見えていないようだ。昨日は母の日だったので花瓶をもってお花を生けてきた。本人はそれどころでもなく顔をしかめていた。入院したころは「かゆい~かゆい~ いたいいた~い hossyのバカはどこに行ってる~」なんて話すこともできたのが今では痛みをとるために朦朧となっている。聞こえているとは思う。だけど返事がない。元気な時は母の思いこみの激しさと、おそろしいマイナス思考にうんざりしたものだ。ただ生かされているだけの母の姿をみて何とも言えない気持ちになる。生に対する執着があるのだと思う。死ぬのが怖いってずっと言っていた。「もう楽になりなよ・・・」言ってはいけない言葉。でも苦しがる父にも涙しながら何度も言った。白目も黄色くなって・・・顔は痛みでゆがみ・・・注射の針のあとが紫色になっている。「どんな姿になっても長く生きさせるのが子どもの役目だろうが!」主治医から母の余命宣告をいっしょに聞いた母の弟は、その姿をみてもやはり同じように言うのだろうか・・・その伯父は母の入院を知っても一度も病院に行かなかった。我が家にいるときも一度だって電話もなかった。本当に心配していたのか?夜に母を勝手に病院から連れ出そうとしたあの行動は何だったのかと笑えてしまう。一時の感情で常識なき行動に走った伯父も年なのか・・・母は今もがんばっているよ。尿も少なくなった。赤い色・・・人はこんな姿になっても逝けないのかと悲しくなる。何が気になっているのだろう。これ以上のつらいものはないと思う。手放せないのだから仕方ない。父の葬儀の後、姉とは何度も話しをしている。いまだに両親を許せないでいる。親らしいことは何もしていない!特に母のことは許せない。「あの人はどんな環境だって満足できない。どこまでいっても幸せになんてならない!」悪口は延々と続く。姪っ子と私はだまってしまう。もうやめようと言いたいのだが、ますますエスカレートするのがわかるから。「お前はまだいい!私がいつも家の犠牲になったきた!」そうなるのが分かっている。その姿は母とだぶる。何度もそれで言い合った。もういいじゃない・・・きっと姉はどんな親だったとしても何かしら言っていたと思う。お金があろうがなかろうが・・・しっかりものの親だったら、どうなっていたかね・・・口うるさく言われていたら素直に聞いていたかしらね・・・結局、私も姉も母に似ているのだ。私たちを映し出しているのが母の姿なのだ。母は大げさに私たちの姿を映し出しているのだ。そのことに早く気づきなさいと言いたいところだ。姉も見えていない部分がある。今のところは父をひきとった私たち夫婦に感謝しているからあまり言わない。でもいつか、その感謝の気持ちもなくなるであろう。そして攻撃する。あなたもつらい生き方しているね。もう楽にならないといけないのは姉なのである。母が亡くなったとしても、姉の苦悩はかわらない。飢餓感でいっぱいだ。姉がそのことに気がつくきっかけが今なのだと思うのに・・・その機会を逃す度に事はまた大きくなってふりかかるのではないだろうか。妹に言われて納得などするわけがない。私は姉にとってはいつもお気楽で脳天気なのだから。あなたが簡単なことを複雑にしてきたんだよ・・・許しさえすればいいのに。過去のトラウマが姉を苦しませる。出口のない迷路をさまよっている。憎むべき矛先がいつもどこかにある。それで自分をふるいたたせているのか?!母はいつどうなってもおかしくない状況である。明日は子どもの遠足。夫は二泊三日で出張。日曜日は次男の運動会。そのあと恐怖の家庭訪問がはじまる。こればかりは仕方ない。母も空気よみまくって、逝くタイミングを見失っているのか?!それはないと思うが・・・父の死は思いがけなかった。母は思いのほかがんばっている。ふたりとも意外だ・・・どうすることもできず、見守るしかない。落ち着かない状況である。電話にびびる。ふう・・・・
2009年05月11日
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父の葬儀が終わって一週間が経とうとしている。手抜かりがあって当然!開きなおっていた私たちだった。亡くなった直後、親戚の連絡先もわからないという情けない状況。父の姉である伯母にお任せ状態。伯母も80歳と高齢なので記憶力や判断力はあやしい。親戚が少ないとタカをくくっていたので気楽になっていた私と姉。それが新聞でお悔やみを知って我が家まで足を運んでくださった人もいた。病院で亡くなった父は実家ではなく現在の我が家まで遺体を運んだ。これが、あとあとおさがわせの原因になろうとは・・・実家のお向かいのおばちゃんんに事情を話してあった。実家経由我が家となった人たちには申しわけないことをしてしまった。お通夜も葬儀もなんだかバタバタで、足を運んでくださる人は夫や義兄の知り合いが多く、私も姉も誰誰???なんて目で合図状態。悲しい場所のはずが、いけないことにお笑いムードになってしまっていた。きっと、不謹慎に思う人も多かったであろう。父の遺影を見ると許されるような気がしてならない。ニッコリ笑っている父。その写真を選んだのは自分たちだ。大好きな私の夫といっしょに写したものだった。父の膝の中には目の中に入れてもいたくなかった赤ん坊の長男がいた。この状況が父にとって嬉しくないはずがなかった。最高の日の写真だったと言えよう。顔をクシャクシャにして笑っている父の姿。葬儀の日は私の結婚記念日であった。爺ちゃん、ウケをねらったね?!夫が父の養子となった日である。父にとっては嬉しい日。今にも「よく来てくれたね!」そう言っているように見えた。笑っている写真なんて・・・そう言われる人もあるだろう。きっと知っている人ならああ~そうそう、そんな人だった~そう言ってくれると思うのだ。1年以上も寝たり起きたりの生活で外を出歩く事なんてなかった父。今頃、身体も楽になっているだろうと思う。子ども達は父の最後に立ち会えなかったことを後悔している。「どうして起こしてくれなかったの!」ほんとだね・・・私も後悔だよ。起きなかったから救急車で病院まで行っちゃって・・・朝、帰ってきて「爺ちゃん、死んだよ・・・」ふたりとも目から涙があふれてた。次男は爺ちゃんの顔をみるのが嫌だとすねた。信じたくなかったんだよね・・・長男は葬儀の日までボロボロ泣いた。きっと、爺ちゃんは喜んでくれてるよ。。。通夜、葬儀の間、気になっていたのは母のこと。母も連休中がヤマだと言われていた。いつ病院から連絡が入るかとドキドキしていたが、何とかもってくれた。でも今の母はただつらく息をしているだけの状態である。はやく楽になりなよ・・・・爺ちゃんは一足先に楽になったよ・・・冷たいようだが、これ以上がんばれなどとは言えない。もう十分だよ。。。尿がでにくくなって・・・血圧が低くなっても母はがんばっている。「まんじゅうを・・・ パーマが・・・ ぞうりを・・・」父の葬儀にでたかったのだろうか・・・1日でも父より長く生きたかった母の願いは叶った。でも現在の母はそれを理解しているとは思えない。お腹や背中に水がたまっている。痛みを訴える母。さするくらいしか私にはできない。余命2カ月と言われたけど、もう3カ月経ったよ。もういいんだよ・・・何度口にしたことか。本人がその気にならないのでこればかりは仕方ない。ただ見守ることしか出来ない。父の遺影にむかってひとりで話しかける自分がいる正直、寂しいのである。笑っているあなたは何でも許してくれそうで・・・私はいつも好き勝手言ってしまう。ほんの少しだったけど、一緒に暮らせて良い時を過ごせた。こらえ性のない娘なので父は頃合いをみて逝ってしまったのではなかろうか・・・「もう少し長引くと、あいつに虐待されるかも~。」なんて笑いながら言いそうである。最後まで文句ひとつ言わずいてくれた。人の良いところを見つけてほめた。その存在がすばらしいのだと言った。後悔することもなかった。心配することもなく、いつも今を楽しんで生きていた。シンプルな人だった。忘れていた何かを思い出させてくれた父だった。身体がボロボロになっていても、苦しいとも言わずだまって耐えていたのだと思う。父の肺は片方はまるでだめ。もうひとつも半分くらいやられていた。どんなに苦しかったであろう。。。なのにいつも感謝して遠慮して・・・・地位も名誉もなかったけど・・・私にとっては自慢の父である。あなたのように生きられたらと心の底から願う。母もそのうち逝くからね。あなたが一番気にしていた人でしょう。また、よろしくね。私ももう少ししたら逝くのでね。。。あなたに少しでも近づけるようにがんばるね。ありがとう。
2009年05月07日
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