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シナゴーグに到着した時、すでに私は足を引き摺っていました。どこかでゆっくり座りたい。。。かといって、シナゴーグの礼拝堂にいつまでも居座ることはできません。そういえば、とっくに午後の3時を回っているのに、私ったら まだ昼食もとっていないじゃないの。今晩はオペラ座でのガラコンサートもあることだし、少しでも何かお腹に入れておこう。私はガイドブックを取り出し、シナゴーグのすぐ裏手にある「ケーク・ロージャ」という名のレストランをチェックしました。ブダペストには趣きあるお洒落なレストランが数多くあります。ですが、そういうお店は たった一人で入るにはちょっぴり敷居が高いのです。^^その点、ケーク・ロージャはどこにでもあるごく普通のレストラン。地元の若者がよく利用する、安くて美味しいと評判のお店です。ケーク・ロージャという名前は゛青いバラ"を意味するとかで、そんなところも気に入りました。^^その国ならではの一流店に入るのが旅の醍醐味なのであれば、その国ならではの素朴な味を、庶民レベルで味わうというのも、これまた旅の醍醐味というもの。日本人にとってのお味噌汁のような存在だという 代表的なハンガリー料理『グヤーシュ』こそ、どこにでもありそうな普通のお店が 一番家庭的な味なのでは(?)、、、そう私は思ったのでした。そして、まさしくケーク・ロージャはそんなお店だったのです。^^そこで、定番のグヤーシュ・スープと、グリルした豚肉がメインのハンガリアン・メニューを注文しました。値段は2700Ft。 単純に計算して、およそ1350円です。(チョコレートパフェのようなデザート付き)さほど寒くはなかったといっても、冬のヨーロッパ、しかも内陸部のブダペストです。温かいグヤーシュを飲んだとたん、身体の芯から温もりを感じられました。美味しい。 素直にそう思いました。グヤーシュは、牛肉、じゃがいも、玉葱などをパプリカ風味でしっかり煮込んだスープです。(韓国のキムチチゲよりは赤くないかしら…?!・笑)もともとは、牛肉の煮込みならパプリカを使わなくてもグヤーシュと呼んでいたそうですけど、18世紀後半に高価な胡椒の代わりとして広まったパプリカは、グヤーシュになくてはならない存在になったのだとか。あぁ、美味しい。 私の身体中の細胞の隅々に、その凝縮されたスープのエキスが染み込んでいく感じ。好き嫌いの多い私は、こんなスパイシーなお料理は大抵が食べられないはずなのに…。この瞬間、私はハンガリーで生きていけるような気がしてきたのです。(笑)本当に、美味しい。。。 たぶん、ハンガリーらしさを私の舌が感じ取ったのでしょうね。なんだか心の底までも温めてくれるような、きっと、このスープを作ってくれた方の心のぬくもりだったのでしょう。^^ただし、グヤーシュの後に出てきたメインの皿は、どれもこれもが同じような濃い味付けで 、しかも このボリューム。(一枚目の写真)私の胃袋は、今にもひっくり返りそうになりました!それでも これが2009年 最後の晩餐か、、、と出来る限り口へと運びました。まさか、数時間後に始まるガラコンサートが、最高級レストランの豪華ディナー付きだなんて思いもよらずに…。(><)* * * * * * * 私事ですが、、、先日 隣町の総合病院へ、循環器系の検査に行って参りました。以前から、私の腎臓内にある嚢胞(腎臓の中に生じる液体が溜まる袋状の空洞)の存在については知っていました。それが血管を圧迫することによって、高血圧を引き起こすことも知っていました。それでも、最近の激しい血圧の変動と動悸に異常を感じ、詳しい検査が必要となりました。腎臓に腫瘍が出来ているのではないか、それが一番の不安でした。私の症状がそれによく似ていた為です。幸いにも腫瘍は見つからず、副腎から分泌されるホルモンの数値が高いことが判明。ただ、多発性嚢胞腎には手術の手立てはなく、この先も嚢胞は大きくなり、数もどんどん増えていきます。そして本来の腎臓の機能を圧迫し、低下させ、最後には腎臓の働きを失わさせるというものです。それ以上に恐ろしいのが、嚢胞腎を持つ人の30%に脳動脈瘤が見られるとのこと。これが、くも膜下出血を引き起こす可能性もあるのだそうです。とにかく血圧をあげないように、これは繰り返し言われてきたことですけど、今後は腎臓を保護する作用のある血圧の薬を服用するように、、、と指導を受けました。もしも腫瘍があったなら、私は今すぐにも仕事を止め、宮本輝さんのようにドナウ河に沿って旅をするのもいいかなぁ~なんて、冗談にも本気にも思っていたのですが、今のところ、その遥かなる夢はまだお預けのようです。(笑)
2010.02.26

ブダペストで どうしても行きたかった場所があります。それは、ユダヤ教徒が集まる「シナゴーグ」です。これまで数々のホロコーストに関する記事を読みながら、私はユダヤ人と称される人達の集まりを見たことがありませんでした。アムステルダムでは、あの「アンネの日記」で有名な隠れ屋へ行ったりもしましたが、そうではなく、現在もその場で礼拝が行われ、結婚式や教育の場として活躍するユダヤ人の生きた場所、それを見てみたいなぁ~と思いました。な~んて書くと、まるで何かの研究者か宗教家とも思われそうですけど、もちろん 無知な私はユダヤ教たるもの、一体どのような宗教かも全く理解できておりません。正直に申しますと、ガイドブックに載っているユダヤ教独特の美しい内装をこの目で見たい!という単純な理由だけなのでした。(笑)*ブダペストのシナゴーグといえば、まず名前が挙がるのが『ドハーニ(Dohany)街のシナゴーグ』。3本の地下鉄が交差するデアーク広場から およそ500m、カーロイ(Karoly)通りを南に歩いて行くと、玉葱型の高い2本の塔が見えて来ます。ここでは空港などと同じくセキュリティーチェックを受け、正面脇にあるチケット売り場で入場券と写真許可のお金を支払い、厳かな内部へと入っていきます。 ここは、欧州最大の、世界でも3番目に大きなシナゴーグなのです!!1859年に完成したということは、数々の戦禍を潜り抜け、今なお当時の姿であるということ?内部には男性1492席、女性1472席、合計2964もの信者席があるのですが、改革派である このシナゴーグでは、メヒツァーと呼ばれる男女の席の間の仕切りはありません。ちなみに、改革派とはユダヤ教派の一つであり、慣習や方針面における簡素化と、大きく違えた解釈を持つ、主にパレスチナの外で離散しているユダヤ人のコミュニティーなのだそう。(?…自信なし。。。(^^;)すっかり観光化しているこの場所で、ユダヤ教徒だけはダビデの紋章が描かれた可愛い(失礼?)帽子を被って礼拝を行っていました。私は何も考えず 一つの席に着き、その広々とした豪華絢爛の建築様式と、神妙に祈りを捧げるユダヤ教徒達に見入っていました。はて?、、、私はちゃんと女性用の席に座っていたのだろうか?そんな基本さえ守れなかったであろう自分を、軽々しくシナゴーグへ足を運んだそんな自分を、今では少し恥ずかしく思っています。。(苦笑)けれど このシナゴーグ、美しい内装だけでなく、リストやサン・サーンスが度々弾いたといわれるオルガンまであるのですから、、、見応えは実にたっぷりなのです。* シナゴーグにオルガン?と思われる方がおられるかもしれませんので、ここで一言。その巨大なオルガンが存在するのも、このシナゴーグが改革派であるからだそうです。色々と細かく難しい決め事が、どの宗教にもあるのですね~。そして、そのような詳しいことは、帰国してから調べたこと。(笑)その時は、ただただその場にいることに酔いしれておりました。しかし いつまでもここにいる訳にいかないと、私は礼拝堂を後にして、裏手にある中庭へ、ホロコーストの記念碑を見に行きました。それは、柳の木をモチーフにした金属製のモニュメントで、その葉の一枚一枚にはホロコーストの大虐殺で犠牲になった人達の名前が哀しく刻まれているのです。 * * *ハンガリーにおけるユダヤ人の迫害?ユダヤ人が最初にハンガリーの地へやってきたのは3世紀ということですから、ハンガリー人の祖先であるマジャル人がその地を征服するよりも、5~6世紀も前ということになります。数々の変遷を経て、19世紀半ばのハンガリーにおいて、ユダヤ人の数は30万人に達していました。ハプスブルク王朝からは冷遇されていた彼らですが、オーストリア=ハンガリー二重帝国が成立すると、ハンガリーでの国会においてユダヤ人の締め付けが解放され、才能あるユダヤ人達の活躍が目立つようになります。20世紀前半にもなると、ブダペスト内だけでユダヤ人の数は20万人にも上り、シナゴーグの数も優に100を越えていました。しかし この時代、決してドイツだけではなかった反ユダヤ思想。ユダヤ人の職業の制限、財産の没収などの反ユダヤ法は、ナチス・ドイツがハンガリーを占領する以前に制定されていたのです。なにも恐ろしいのはナチスだけではありませんでした。ハンガリー国内においても、ドイツのナチス党を規範とする゛矢十字党"が結成され、ナチスがアーリア人の民族的な純潔を表すのと同じように、ハンガリー人の民族的純血を示していきました。そして、1944年にナチスに占領されるや、ハンガリー政府はすぐ各地にゲットー(強制収容所)を作り、僅か2ヶ月の間に、全国で40万人以上ものユダヤ人をアウシュヴィッツ・ビルケナウ絶滅収容所へ送ったといいます。また、矢十字党だけでも、一時期 毎晩のように50人ものユダヤ人をドナウ川に投げ込んで、溺死させたというのも信じ難い事実なのです。あぁ~、私の知らない歴史でいっぱいだぁ~。調べれば調べるほど、ぐちゃぐちゃで滅茶苦茶としか言いようのない事実が浮き彫りになるのです。><*日本人も辛い歴史を経ているものの、ただ我々には良くも悪くも『国』があった。。。ふと、高校に入学したての頃、「『日本人とユダヤ人』という本を読んで、論文を書きなさい!」と、宿題を出されたことを思い出しました。その時は、「なんでユダヤ人やねん!」と関西弁で思わずツッコミを入れてしまった私ですが。。。(^^;その本は1970年に出版されたもので、当時 大ベストセラーになったということですが、それより後に生まれ、ユダヤ人など全くの別世界だった当時の私にとって、その本の存在すら知る由もなかったのです。今なら もっと興味を持って その本を読めるかもしれない。(^^*) ハンガリーまで行って、せっかくシナゴーグへ入ったのですから、これからはもっと『ユダヤ』に興味を持ちたいなぁ~と思う、今日この頃です。^^
2010.02.22

『この人は、ブダペストに特別な思い入れがあるんだな。。。』描写そのものからもブダペストへの格別な思いが溢れていて、文中においても「一番美しい街」と称している。。。* ( 数日前のある真夜中、近ごろ不眠気味の私はいつものように目を覚ましました。それから激しくなった息苦しい動悸と血圧の高さに、大きな病院で検査をすることを勧められました。掛かり付けの先生は、私の弱い腎臓を常に心配して下さっています。そして、それによって引き起こされる血圧の上昇と、それによる腎臓への悪影響。その他にも気になるところがあったので、まずは詳しく調べてみよう、と元は国立病院だった隣町の総合病院を紹介されました。そして、この病院での待ち時間の長いことといったら。。。苦しみながらも暇つぶしに読んでいた本が、最後の会計が終わる頃には100ページまでも進んでおりました。)* * * * * * *7つの国(1983年当時)をまたぎながら黒海へと注ぐ、欧州で二番目に長い河ドナウ。その大河にそって、東西3000kmもの長い旅がはじまる。西ドイツ、オーストリア、ハンガリー、ユーゴスラビア、ブルガリアにルーマニア。時代は、未だ東西に分厚い鉄のカーテンが降ろされたまま。ハンガリーより以東は、すべてソヴィエト傘下の共産圏の国々というわけである。それでも、次々と現れる魅力溢れる街の数々。その中で、この作者は とりわけブダペストという街を愛してるんだな、、、そう私は感じました。~ 麻沙子は部屋に入るとカーテンをあけた。眼下にドナウのゆるやかな流れがあった。対岸のブダの街の灯が、ドナウ河に白と黄の小粒な輝きを散らしていた。ブダぺストが゛ドナウの真珠"と表現されることは知っていたが、どうせ百万ドルの夜景と同じ陳腐な謳い文句であろうと予想していた麻沙子は、確かに真珠としか言いようのない清楚な光を、いっとき我を忘れて見つめた。ブダの街にも、ドナウの水面にも、糸が切れて散らばった首飾りの真珠が、ひとつひとつ独自の光を放って息づいていた。烈しい雨が、それらを滲ませたり、揺らしたりした。「ほんとに真珠ね」 麻沙子は溜息混じりに言った。 ~ 宮本輝著『ドナウの旅人(下)』よりこれほどブダペストの夜景を そのままに描写した作家は他にいるだろうか、、、。私は感心しながら、唸りながら次から次へとページをめくりました。~ 「全ヨーロッパの中におけるハンガリーという国の、異邦人としての孤独か……。つまらない学者の論考よりも、マサコのひらめきのほうが正しいかもしれないね」シギィはしばらく頬杖をついて考えていたが、「ブダペストは、元は別々の街だったんだよな。ブダペストっていうひとつの街になったのは1870年代だ。それまではドナウ河を挟んで二つの独立した街だった。ブダは、ハンガリーの伝統を守る政治の街で、ぺストはドイツ人やユダヤ人が行き来する経済の街さ。ぺスト、つまりペシュトはドイツ語から来た名前だけど、ブダは、ドイツ語にも由来していないし、ハンガリー語でも意味不明だ。どうしてブダっていう名前がついたのかハンガリー人にも判らないそうだよ」そう言って、いたずらっぽい微笑を注ぎながら、シギィは麻沙子の頬を指でつついた。「マサコのひらめきを展開して、ブダは、じつはブッダだったって推理はどうだい?」「ブッダ?」「インドのブッダ・ゴータマさ」 麻沙子は声を殺して笑い、「でも、推理だけじゃぁペーターの論文の役には立たないわ。・・・」 ~ 『 同 』そのブダとぺストを初めて結んだのが、かの有名な『鎖橋』です。正式名は、セーチェニー・ラーンツ橋。全長375m、10年もの歳月をかけて造られた この橋が完成したのは1849年のこと。しかし、ここにもまた、深く哀しい歴史が刻まれています。そのすぐ後に勃発した対オーストリア独立戦争では、ハプスブルク家の軍隊によって爆弾が仕掛けられ一部が破壊。橋は同年11月には開通したものの、第二次世界大戦では又もドイツ軍に破壊されてしまいます。現在の姿は1949年に修復されたものですが、1956年に起こったハンガリー動乱では、かつてナチス・ドイツからハンガリーを救ったソヴィエトの戦車が、この橋を渡って ハンガリーの自由を奪うことになるのです。けれど、ベルリンの壁崩壊後、赤・白・緑の三色旗を持って集った市民が、やっと手にした自由を喜び祝ったのもこの場所なのだとか。。。この橋はただの橋とは違う、、、誇り高いハンガリー人そのものなのだと、一歩一歩踏みしめながら渡りました。そして、頬をかすむ冷たい空気を感じながら、橋から眺めたブダの街とペストの街。二つの街は、それぞれに美しさを競い合うように、認め合うように佇んでおりました。
2010.02.18

ここ数年、オーストリアにて「オリジナル ザッハー・トルテ」と戦ってきた私ですが、今回の旅行ではやむなく休戦。。。けれど、ハンガリーのスィーツだって負けてはいません。19世紀、オーストリア=ハンガリー二重帝国の成立により、ここブダペストにおいてもカフェ文化が花開きました。ウィーンと同じく、カフェは、都市民にとっての社交場であり、雑誌や新聞などを読み暇つぶしをする場であり、知識人たちが議論をし、執筆を勤しむ場でもありました。その活気溢れる大都会ブダペストは、外国から一攫千金をねらうケーキ職人と、地元ハンガリー人とのケーキ作りの切磋琢磨の場所となったそうです。そうと知れば、ますます期待が膨らみます!私も文化人気取りで甘いスィーツに濃い珈琲でも一杯と、それも今回の旅行の楽しみの一つでありました。^^* * *王宮の丘をぐる~っと一巡した私は、休憩とその後の計画とを兼ねて、前もってチェックしていた『カフェ・ルスヴルム(Ruszwurm)』を探しました。観光地の中心地にあり、何件も建ち並ぶカフェの中で、ひときわひっそりと 小さな入り口が老舗らしさを醸し出しています。確か、高級磁器のヘレンド(Herend)ショップの隣りだったと記憶しています。扉を押してみて、びっくり!外からは静かな雰囲気しか感じられなかったのに、その日は観光客が多かったのか、中は人いきれで煙っていました。その雰囲気は、19世紀の若者たちが新しい時代の幕開けへと熱く議論を交わした様子と似ているみたい。いいねぇ~、いいねぇ~。^^心の中でワクワクしながら、席が空くのを待っていました。次から次へと運ばれるスィーツ!それは、ハンガリースィーツの代表格「ドボシュ・ガトー(Dobos torta)」ではなく、サクサクのパイ生地にバニラクリームをたっぷり挟んだ このカフェ看板「ルスヴルム・クレーメシュ」です♪これが非常に美味しくて、このパイ生地のサックサク感がたまらなく美味しくて、このバニラクリームの、まるで幸せを呼ぶような 甘さと滑らかさが とにかくとても美味しくて、ここを訪れる人が、何故こうも揃いに揃って このクレーメシュを注文するのか納得することが出来ました。美味しい♪ 一口食べた私は、きっと満面の笑顔だったことでしょう。(*^^*)ただし、、、やはりそれも半分まで。国内では かなりの甘党と自負する私ではありますが、このとことん追求された甘さに、本家ザッハー・トルテと同じく、とことん苦しめられてしまいました。バニラのしつこい甘さと滑らかさが裏目に出てしまったのです。甘さの種類は違うけど、これはザッハー・トルテだって降参する甘さかもしれない。。。><おかげで、その全てを平らげた私は、以後 著しくスィーツ熱は低下します。(笑)*明けて、2010年1月1日。まだ前日の甘さを引き摺りつつ、グドゥルー宮殿のカフェで、皇妃エリザベート(シシィ)にちなんで「シシィ・カフェ」と名付けられた、アプリコット・リキュール入りの珈琲を飲むため、席につきました。そこで 止めればいいものを、つい「ドボシュ・ガトー」を頼んでしまいます。「ドボシュ・ガトー」とは、死ぬまでレシピを明かさなかったというドボシュ・ヨージェフの黄金の手によって、1884年に生み出されました。冷蔵技術が未熟だった当時、美味しいケーキをいかに長持ちさせるか悩んだ末、10日以上も品質を下げずに人々に愛されるケーキを完成させたのが始まりだそうです。チョコとスポンジが幾重にも重なっているのが特徴ですが、6層以上ないとドボシュ・ガトーとは呼べないのだとか。一流店のドボシュ・ガトーは12層もあるそうですよ。 ところが、これがイマイチ美味しくない。><スポンジはパサパサで、表面に乗るカラメルもガッチガチ。いくら長期間保存できるといっても、まさか10日以上も前のケーキではないでしょうね~???明らからに数日前のものでしょう!!!新年早々、大外れです。><ですが、リキュール入りの「シシィ・カフェ」の方は美味しかったです。凭れた胃の中を、優しく温かくじわ~っと広がっていき、疲れが一気に解消されました。あぁ、飲み物だけにすればよかった。。。(T_T)* さて、ブダペストのカフェといえば、一番に名前があがるのが、『カフェ・ジェルボー(Gerbeaud)』。ジュネーブ出身のジェルボー・エミルは各国で菓子作りを学んだあと、豪華で煌びやかに装飾されたロココ様式のカフェをブダペストで開きました。1858年に創業され、シシィも作曲家リストも常連だったとか。ここは、1/1の夕方5時頃に訪ねてみました。すでに日没を過ぎています。外観からして、なんて立派なことでしょう!さぞ内装も素晴らしいのでしょうね~。自分の服装をチェックしつつ 店内に入ろうとするも、そこには長~い行列ができておりました。入り口では、ウェイターさんが中へ入ろうとする人を確認しています。「カフェですか? テイクアウトですか?」並ぶ人の多さにげんなりした私は、「テイクアウトです。」と偽って、とにかく中へ入ってみました。 これは、勘弁。><どんなに優雅な空間でも、これほど人がごった返している中でお茶を飲むのはご免だわ…。これ以上 甘いケーキを食べる自信がなかった私は(飲み物だけでもいいけれど・笑)、正直 胸を撫で下ろしながら外へ出ました。あれから一ヶ月半、まだケーキに抵抗があります。(^_^)次のオーストリアでは悲願の打倒ザッハーを果たす為にも、この一年は甘さ控えめでいくことを、改めて心に誓うバレンタイン・ディーなのでした。(笑)
2010.02.14

≪ 田一枚 植ゑて立ち去る 柳かな ≫「岡山のどこへ行きたい?」ほぼ10ヶ月ぶりに会う 親友M子が、メールでそう尋ねてきました。「岡山市から笠岡って遠い? 笠岡市立竹喬美術館で『生誕120年 小野竹喬展』をこの14日までやってるんだけど、、、。」「picchuちゃん、いいところに気が付いたわね~。私、1月にその美術展へ行って、とても良かったから、もう一度観に行きたいな~って思ってたの。」* * *ブダペスト旅行記の途中ではありますが、先日 鑑賞した小野竹喬展について、先に記しておきたいと思います。^^明治22年、岡山県笠岡市において、日本画を代表する画家・小野竹喬は生まれました。その生誕120年を記念して、10年ぶりの大回顧展が開催されているのです。昨年の11月のこと。ブログ仲間のsakura由子さんが、大阪で開かれたこの展覧会について日記で紹介されておりました。小野竹喬?日本画家に詳しくない私は、過去にその名前を聞いたこともありませんでした。由子さんがアップして下さってる数点の絵画にどことなく惹かれ、少し竹喬さんについて調べてみました。そこで、私の住む香川県のお向かいさん、岡山県出身だと知りました。しかも笠岡市と海を挟んだだけの、すぐその向こうが私の住む町なのです。不思議とそれだけで親近感が湧いてきました。^^そして、セザンヌの影響を受けたという竹喬さんですが、私にはどこか竹久夢二の世界にも通じる何かを感じて、同じ郷里の誼かな~、なんて思ってしまいます。^^その回顧展が、現在、彼の故郷である笠岡を巡回中です。雨降りにも関わらず、笠岡市立竹喬美術館は大賑わい。皆さん、竹喬さん独特の柔らかい絵に癒されたかったのでしょうか。どの絵からも温かい人柄が窺い知れて、とても心が和みました。きっと竹喬さんは欲のない、素直な方だったのでしょうね~。観ていて、気持ちがす~っとしてくるのです。明るい青色や淡い茜色など、その色遣いも印象的で、、、竹喬さんの優しい視線の先にある、ごく当たり前の風景に少し頬紅を加えたような、そんな可愛い感じがします。^^もちろん、それだけが竹喬さんの作品ではありませんけど、そういう部分が特に私の中に残りました。(もしかして、私の心は疲れてるのかな?)そして、彼の晩年の代表作となる『奥の細道句抄絵』の、松尾芭蕉とのコラボレーション(?)が私的にはヒットでした。これまで、感性の乏しい私が芭蕉の句を読んだとしても、さほど心に響くものはなかったのですが、竹喬さんの絵とともに見る数々の句に、さすがは、芭蕉!としばし唸ってしまいました。(笑)私にとって、俳句だけでは感じ得ることができなかったもの、絵だけでも何か足りないものを、2人の世界が上手く融合して、その情景が心にしっかりと届いてきましたよ。なかなか見ごたえのある展覧会、この2/14(日)まで笠岡市立竹喬美術館で開催された後、お次は 3/2(火)~4/11(日)まで、東京国立近代美術館で楽しめます。≪ 暑き日を 海にいれたり 最上川 ≫「竹喬さんの絵を見た後は、あぁ、やっぱり笠岡の景色だって思うよね~。」美術館を出て、少し車を走しらせた頃、M子は言いました。ちょうど私も、まるで竹喬さんの絵みたい、、、と車窓から眺める笠岡の風景にそう感じていました。二人で同じこと思ってたんだ。^^けれど、花より団子の私達。(笑)「picchuちゃん、妖しいカレー屋さんに行きたくない?」というM子の一言で、ランチお預けで竹喬さんの世界に浸っていた私達も、一路 倉敷にあるインド料理屋さんへと走りました。実はこの日、私にとって生まれて初めてのインド料理だったのです☆店の扉を押した途端、ぷ~んと妖しげなお香の香りが漂ってきて、竹喬さんの純日本からインドへと一気に空を飛んだようです。^^「もう、おなかペコペコだよぉ~!><」そこで、少し早目のディナーコースを頼みました。「ラッシー。」 インド人らしき店員さんは そう言って、まずはドリンクを運んできてくれます。何も分からない私は、「ラッシー」が挨拶の言葉なのかと勘違いしてしまいました。彼女につられて、首を傾げながら笑顔で「ラッシー」と答えてみました。(恥)「picchuちゃん! ラッシーって、このジュースの名前だよ!(><)」きっと私よりもM子の方が恥ずかしかったに違いありません。(苦笑)それにしても、インド料理はもの凄~く美味しかったです!!スパイスが効いてるのかな~、身体の内側から暖かくなって、一日経った今でもお腹に温もりを感じています。また食べに行きたいなぁ~。^^ 「きっと、あの人達はネパール人よ。」とM子。「え? やっぱりインド人でしょう…。」「いいや、岡山には沢山のネパール人が来てるから、きっと彼らはネパール人だって。」美味しい料理が食べられるのなら、彼らがインド人であろうが、ネパール人であろうが、私には全く問題ありません!(笑)〈インドレストラン&バー マタ〉岡山県倉敷市宮前356-1086-421-7344http://indianrestaurentmata.com
2010.02.10

池田理代子さんの「ベルサイユのばら」だったでしょうか、私がマリー・アントワネットを知ったのは…。それは、私が高校生の頃にテレビで再放送されたのがきっかけでした。それから10年あまり経った 2000年1月。パリ・ベルサイユの旅から帰国した私は、遠藤周作さんの著書「王妃 マリー・アントワネット」を読み耽っておりました。そこで知った彼女の祖国、オーストリア。名門ハプスブルク家も、母であるマリア・テレジアという大女帝についても、その時 初めて知ったように思います。それから4年後、私はカフェの本場・ウィーンで美味しい珈琲が飲みたい、、、という単純な理由でウィーンへと出掛けます。そこで外せないのが、定番の観光名所「シェーンブルン宮殿」。訪れるまでは、きっと幼少時代のマリー・アントワネットの面影を感じられる場所なんだろうな~、くらいにしか思っていませんでした。そして、それを期待していました。ところが、そこでの主役は皇妃エリザベートだったのです。誰? この綺麗な人???彼女の存在を知らなかった私は、シェーンブルンで初めて その美しさに出会ったというわけです。* * * * * * *1月から開催中の、京都国立博物館の『THE ハプスブルク展』でも、岡山県立美術館の『華麗なるオーストリア大宮殿展』でも、かなりの人出で賑わっていました。ハプスブルク家の今日の人気は、シシィ(エリザベート)も一役買っていることに違いありません。やはり一番人気はシシィの肖像画ですね~。(*^^*)特に、京都へ来ている星型の髪飾りをつけた見返り美人のシシィ像、その実物を見ることを私も非常に楽しみにしていました。思ったよりも随分と大きなことに驚き、すでに知っていながらも その美しさに二度驚き、しばし言葉を失い、見惚れてしまいます。^^この人にとっては本望でなかったかもしれませんが、彼女はフランツ・ヨーゼフではなく、天に選ばれてしまった皇后なのだと、私は思います。(皇后としての役割を果たしたかどうかは別にして、、、。)*そして、悲しいかな、、、それはフランツ・ヨーゼフ自身も言えることでした。1896年頃に描かれた「オーストリア元帥姿の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世」。その瞳からは、何とも言えない憂いのようなものを感じました。~THE ハプスブルク展~部屋の片隅に飾られたこの絵。シシィや11歳のマリア・テレジアの華やかさとは対照的なこの絵。会場を回っている時はさほど思いもしなかったのですが、時間が経てば経つほど、じわ~っと哀れのようなものが心に広がっていきました。1896年ということは、まだシシィは生きていた頃ですが、すでにフランツ・ヨーゼフの弟 メキシコ皇帝マクシミリアンも、長男 ルドルフも失った後です。愛する妻(シシィ)は相変わらず放浪を続け、すでに欧州きっての帝国は傾きを隠せず、彼は必死で大国を守り続けようとがんじがらめになっていた頃。この先、まだまだ襲ってくる不幸を予感させるかのような フランツ・ヨーゼフの表情は、どの作品よりも私の中で印象的なものとなりました。弟の処刑、長男の情死、妻の暗殺、皇太子である甥夫婦の暗殺、 そして第一次世界大戦の勃発、、、。(孫娘の貴賎結婚なんて、まだ可愛いものですね~。^^;)ホント、もう呪われているとしか思えないような人生です。><それでも、実質的にハプスブルク家最後の皇帝に相応しい人物は、天から見下ろして きっと彼しかいなかったのでしょう。私が皇妃だったら、決して寂しい思いをさせなかったのに…、共に時代と戦ったのに、、、な~んて、最後に冗談でも付け加えておきますね。(笑)
2010.02.06

*グドゥルー宮殿【'10.01.01】あんなに固く閉じられた扉も、正午を少し過ぎて訪ねてみると、そこは大きく開かれ、どこから現れたのかと思うほど、外国からの団体客で溢れ返っておりました。館内をドイツ語やスペイン語が飛び交っています。何気なく後ろから説明を聞こうかなぁ~と思いましたが、日本語じゃないのならお手上げです。(笑)ですが、なかなかハンサム君が多かったスパニッシュ系の観光客。(*^^*)何食わぬ顔でついて行こうとしたら、ちょいちょいっと館員さんに手招きされました。まさか、「君はその団体じゃないでしょ!」って注意される~?いえいえ、「クロークにコートを預けるように」、、、とのお言葉でした。(笑)存分にシシィのドレス('10.01.25日記)を堪能した後、階段を上り、はい、写真はここまで、いざ入場です。*18世紀。この宮殿は、女帝マリア・テレジアからの信望が厚く、当時 最も高い地位であった貴族の一人、グラシャルコヴィチ伯爵によって建てられました。その後、1867年にはフランツ・ヨーゼフ皇帝の所有となり、夏の離宮として使われました。乗馬を好んだシシィはこの城を特に気に入り、春から秋にかけて滞在することが多かったそうです。しかし、シシィが暗殺された後、ハプスブルク家の者がこの宮殿を訪れることも稀になり、やがて勃発した二つの世界大戦では国家元首の別荘として、戦後はソ連兵の兵舎や老人ホームとして使われ、一時は廃墟のように荒れ果てていたといいます。半世紀近く手入れがなされなかった建物ですが、数々の記録をもとに、1989年から1996年まで修復工事が行われました。現在、その内の26の部屋を見学することができます。なんと、バロック宮殿としては世界でベルサイユ宮殿に次ぐ2番目に大きなものだとか?!広大な庭園に囲まれ、また宮殿内には乗馬学校や劇場、そして丘の上には六角形のパビリオンまでありますので、隅々まで巡ると その大きさは想像以上のものなはず。きっと夏には木洩れ日の下、キラキラと眩しく当時の面影を感じさせてくれることでしょう。できればもう一度、そんな季節に訪れたいものです。^^他の宮殿と同じく、内部にはシシィが実際に使っていた家具や日用品、写真や絵などが数多く展示されていました。印象的なのは、シシィが好んだというスミレ色の壁紙。部屋が進むにつれ、段々と濃くなるスミレ色ですが、それを背景に最も奥にある大理石のシシィ像は一段と気高く 美しい姿で私を出迎えてくれました。これまで色々なシシィ像を見て来ましたけど、私はこの宮殿のシシィが一番好き。^^ハンガリー王妃としての戴冠式に臨んだ姿で刻まれています。また、息苦しい宮廷生活になじめなかったという彼女らしく、来客を避けるための隠し扉も興味深かったです。扉の後ろには、やはりスミレ色の小部屋があって、ここで息をひそめていたのかな。私も内気だった子供時代、誰にも会いたくない時にこっそり隠れた思い出があって、そんな自分とシシィとを重ね合わせて、思わずクスッと笑ってしまいました。^^ ここでシシィは多くの夏を過ごしたんだ~。ちょっぴり感極まっていると、ふと ちょうど一年前に訪れたオーストリアの「カイザーヴィラ」を思い出しました。('09.01.29日記)確か、カイザーヴィラはシシィの夫、フランツ・ヨーゼフ皇帝が好んで 毎夏滞在した宮殿。ということは、やはり皇帝とシシィは別々に過ごすことが多かったのね。激務に追われるフランツ・ヨーゼフ。彼は仕事の合間に、シシィへ向けて数多くの手紙を書き続けました。そんな寂しそうな皇帝の後ろ姿を、昨年 カイザーヴィラで切なくなるほど感じ取っていただけに、なんとなく複雑な気持ちを抱きつつ、グドゥルーを後にした私です。。。
2010.02.02
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