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鉢植えのガクアジサイ(額紫陽花)が咲きそろった。去年までは薄青色だったが今年は薄桜紫色だ。和色名だと紅紫(こうし、べにむらさき)にほぼ近いか。土を変えたわけではないのだが、与えた液体肥料のせいで土の成分が変わったにちがいない。きれいな紫色である。 この色は油絵具で出すのはむずかしい。 油絵具の紫系純色は、いまは無いパリのブランシェ社の手練り色名表によると、モーヴ(Mauve)、ミネラル・ヴァイオレット(Mineral Violet)、コバルト・ヴァイオレット・デイープ(Cobalt Violet Deep)、コバルト・ヴァイオレット・ライト(Cobalt Violet Lifgt)、この4色である。 モーヴは、1856年にイギリスのW.パーキンによってアニリン・レーキを使って作られた。良心的なメーカーのモーヴには「Fugace(仏語:フュガス)」という注意書きが付されている。「消え去りやすい」という意味だ。すなわちモーヴは耐久性に欠けるのである。 コバルト・ヴァイオレット・デイープは、1859年にサルベタという人が発明した。この色は鉛や鉄を嫌うので、シルバー・ホワイトやオーカーなどとの混色は避けなければならない。乾燥は遅い。また乾燥後に湿気にあたると赤みを増すので、乾燥後は表面をコーティングする必要がある。皮膚や粘膜を腐食する毒性があるので充分注意すべきである。 コバルト・ヴァイオレット・ライトは、上記のディープを薄めたものではない。1880年にジェンティユという人が発明した。ディープとライトは顔料組成がまったく異なる。しかしながら鉄や鉛を嫌うことや、乾燥が遅いことや、空気中の湿気に対する反応は、ディープとまったく同じである。 我家のガクアジサイの花の色から油絵具の紫系について少し専門的なことを述べたが、ことほど左様に絵を描きながら紫を思うがままに表現するのはむずかしい。上の4色を使わずに他の絵具を混色して紫色を作る方法もあるが、これもまた思うように美しい紫にするのがむずかしい。軽やかな澄んだ透明感が出ない。いや、これは無論私にそれができないというだけだが・・・ ついでに述べれば、印刷インクの紫系は耐光性に欠ける。また耐久性にも欠ける。顔料組成は油絵具と同じなのだから当然である。したがって紫色を本の表紙やポスターなどに使用するには注意がいる。試作品をつくり長時間経過変質の余裕がないときは、むしろ避けたほうがよいかもしれない。ほとんどの場合、そんな時間はないはずだ。 庭の紫陽花を見ながら、それぞれの植物の色・・・自然の色に、私はいまさらながら嫉妬しているのである。
May 31, 2023
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朝、どこか地方へ旅行するという弟が、「読んでくれ」とエッセイ原稿を置いて行った。エッセイとはいえ、短い私論だった。私に「査読」してくれということだろう。午前中はそれを読む。二、三の問題点を指摘しておいた。 市の高齢福祉課からアンケート用紙が来た。私が民生委員だったときには住民に回答をお願いしていたが、今年からは私が「後期高齢者」として回答する番だ。すぐに記入して郵便で投函。 こういう書類が届くと、私は「後期高齢者」のイメージを払拭するために俄然エネルギッシュになる。じつに失礼な総称だ。民生委員だったときから気になっていた。日本の行政はこういうことに鈍感なのだ。みなさん、75歳になったら100歳まで生きて行政の鼻をあかしてください!
May 30, 2023
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昨夜から降ったり止んだりの雨が、またひとしきり激しく夜に入る。玄関の灯りに柏葉紫陽花が、俗世に未練の白衣の霊たちのように、それぞれの方向に念いを寄せている。白い穂状花が闇のなかにぼおと浮かんだので、私の一瞬のイメージにすぎない。イメージはたちまち神楽鈴に変わりさみだれに鳴る。 さみだれや仏の花を捨に出る 与謝蕪村
May 29, 2023
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市民による市内一斉清掃の日。年に2回、5月と11月の恒例。午前9時から10時まで。 私の町内は14ブロックの班に分かれ、それぞれ自宅近辺を掃除する。しかし普段、みな日常的に掃除しているので実のところ街はきれいだ。わずかばかりの落葉や道路脇にちょこちょこと生えている草をむしる程度。ものの30分で終了である。 石塀のふもとに散りぬ松落葉 青穹(山田維史) 家に入った直後に従姉から電話。これも年に1,2回の互いの元気確認。それでもしばらくぶりなので、何やかにやと雑談である。 私は78歳、従姉は86歳。おたがいに声はまっすぐ飛び、背筋がしゃんと伸びている。しかも彼女は前屈して両掌が床につくというのだからたいしたものだ。「絵を描いているんでしょう? とじこもっているんだから、1日1回は外に出て歩きなさい!」と注意される。私は若い時から散歩がにがてだ。目的をもって外出し、たとえばショッピングでも、売り場にまっすぐ行き、サッと買ってサッと帰る。 そんなことを従姉に言うと、「そうよねー、昔から忙しい人だから。無駄な歩きをしないものねー」 彼女の電話に鳥の鳴き声が聴こえていた。セキセイインコを飼っているのだ。人の言葉をよくしゃべる。「オリョウリシマショ」・・・キッチンについてきて従姉の肩にのって、「アチチデスヨ。アチチ、アチチ」 電話から鳥の人語や若楓 青穹
May 28, 2023
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今朝、両親の仏前に御飯を供奉すると、花立に「ほたるぶくろ」が飾られていた。私が知らない間に弟が供奉したらしい。弟は、おそらくどこかに吟行にでかけて、土地の人にでもちょうだいしたのであろう。私たちが子どものころに親しんだ野草である。 植物図鑑には「各地の山野に生ず」と書かれるのが常であるが、意外に、めったやたらには見かけない。私が懐かしく思い出すのは、やはり八総鉱山で植物採集のために山野を歩き回っていた小学生のころだ。私は「ほたるぶくろ」の群生地を良く知っていた。 いまこの日記を書く前に、先日画像を掲載した子どものころ使用していた牧野富太郎博士の学生植物図鑑を繰ってみた。すると「ほたるぶくろ」に鉛筆でチェックが記されていた。私の資料箱のひとつには、小学生のときにつくった植物標本が少しばかり保存してある。あるいはそのなかに「ほたるぶくろ」があるかもしれない。 「ほたるぶくろ」の開花は6,7月ころが最も多い。蛍が飛ぶには少し早いのだが、その蛍が宿る花と想像した古人の優雅な心が想いやられる。じっさいにこの花に蛍が宿ることはない(と思う)。私は見たことがない。じっさいには宿らないけれども、そのように想像する心に、私はなんとも言えない静かな喜びを感じる。 そして、「弟よ、サンキュー」である。牧野富太郎著『学生原色植物圖鑑』昭和31年刊 25ページより
May 27, 2023
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岸田首相に。首相秘書官というれっきとした公人だからあなたの息子について言うが、もういいかげんにこの幼稚な息子を秘書官などに据えておくのはおやめなさい。国政を担わせるために修行をさせているつもりか知らぬが、あなたの家族の問題ではありません。国民に対して無責任きわまりなく、無礼です。
May 26, 2023
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驚いた。ニューヨーク市がビルの重さで地盤沈下がおこっているという。米国の地質調査所などの研究結果がこのほど発表された。この地盤沈下によるニューヨーク周囲の海面上昇は、2050年までに約20〜76cmになる予想だ。現在、地盤沈下は年間1~2mmほどらしいが、洪水により街が浸水するおそれは否定できないようだ。ただし・・・と発表は付加している・・・一部の地域では地盤沈下がおこっていないので、その理由は不明だという。 昔、私が子どものころ、ニューヨーク市で摩天楼(天に近づく塔)が可能なのは、非常に固く厚い岩盤のためと地震が無いからだと聞かされたものだ。日本に高層建築ができないのは、地盤がやわらかいことと地震大国といわれるほど頻繁に地震が発生する地球規模の地質構造による、と。 その従来の定説をくつがえすような高層建築が、東京のみならず日本の他の大都市につくられるようになったのは、いつごろからだったろう。東京・池袋にサンシィン 60 が開業したのが1978年。メインビルディングは高さ239.7m。これはたしか1985年まではアジアで最も高い建築だった。地盤対策をふくむ建築技術の格段の進歩によるのは無論である。しかもその建築技術は、まるで逆転の発想というべき軟構造の採用。足許から頭のてっぺんまでガッシリ固めてしまうのではなく、「風の吹きようで靡(なび)きましょうわいなー」とでも言うかのように。 そのような軟構造の高層建築が、たしかに、地震のときにゆらゆらと揺れている映像が報道されたことがある。建物自体の構造的な揺れによって地震エネルギーを逃がしているのである。まるで禅の境地だ。日本人にはきわめて理解し易い理屈である。 しかしながらその高度な現代建築技術が、はたして古代ギリシャのアクロポリスのパルテノン神殿や日本の法隆寺五重塔の建築技術を凌駕して、環境変化の荒波を乗り越え、2500年、1300年という長い時間と時代嗜好に耐えられるかどうか。耐震研究が「永遠性」と結びついているのかどうか。たぶん、私が思うに、たぶんだが・・・現代建築家には「永遠性」をめぐる哲学はないであろう。 現在、世界の金満経済国では、摩天楼を経済指標とするかのように、その高さを競っている。かつて1930年までの数年間、ニューヨークのクライスラー・ビル(竣工1930年、全高320m)とエンパイア・ステイト・ビル(竣工1931年、全高443m)とが競いあった(滑稽な)話が伝わっている。当時、世界を驚嘆させたその高さも、現在ではまるで問題にならない。UAEのドバイのブルジュ・ハリファは全高828mである。上海の上海中心ビルは全高632m、サウジアラビアのメッカに建つアブラージュ・アル・ベイト・タワーの全高は601m。電波塔ではあるが東京スカイツリーの全高は634mである。 そしていまやサウジアラビアのジッダに1.000m超の高さのビルディングが計画されている。その名もキングダムタワー(王国塔)という。すでに3社の合同建築が決定している。 ニューヨークのマンハッタンには遠目には鉛筆のようなレジデンシャルビル(住居専用)が高さと内装の豪華さを競いあう。建ち並ぶ57番通りはビリオネア・ロウ(億万長者通り)と称されている。ニューヨーカーは super slenderest building と言い、不動産業者はエンパイア・ステイト・ビルが見下ろせると自慢し、一戸分が約200億円から260億円で販売されているようだ。 これらの超高層建築の寿命がどれほどか私は知らないが、ニューヨーク市が建築物の重さによる地盤沈下で沈みつつあると聞けば、まことに不謹慎ながらそのカタストロフィを見たい気もする。旧約聖書をもちだしてバベルの塔の崩壊を思い出さないこともない。しかしいまさら神話をあげつらうこともない。米国地質調査所の科学的な警告が出たのだ。人間というのは良いにつけ悪いにつけ、その欲望はころがりだしたら止まらない。厚い岩盤が沈むのを止められないなら、それならばいっそうのこと崩壊する摩天楼を見たいという私の気持は、絵描きの業(ごう)だろうか。バベルの塔の崩壊を描いた多くの画家たちのように。ピーテル・ブリューゲル「バベルの塔」1568年頃作ボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館蔵(実物がかつて日本で公開されたことがある)山田維史「バベルキューブ」1994年作 作者蔵(日本軽金属グループ機関誌のために制作 視覚トリックによる多次元建築)
May 25, 2023
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私が20歳半ばからの知人、漫画家の小澤一雄氏の展覧会に行ってきた。 長い知り合いでお年賀状を頂戴したり展覧会案内を受けて来たが、私のスケジュールの多忙のためなどいろいろあって実はもう50年も会っていなかった。彼の活躍は知っていた。全国に大勢のファンがいることも知っていた。先日、今回の展覧会の案内を受取り、私は急に会いたくなった。小澤氏は私より4歳ほど年下。彼は元気で執筆しているし、私も元気だ。しかし胸のなかに、今後はもう会えないかもしれないぞという声が起こったのだ。こんなことは小澤氏には言えないし、事実言わなかった。 会場に到着すると、彼はファンのためにサインの真っ最中だった。その手を止めて、近づいた私を見て、2秒くらいして言った。「ヤマダさん?」 こんな長い間会わずに、しかし私が小澤一雄氏とささやかな交流を保ってきたのは、20歳半ばに知り合ったとき、その少し前に或るコンペティションに出品されていた幾何学的デザインの架空ポスターに私は目をとめてい、それに私は才能のキラメキのようなものを感じ、出品者の名前を記憶した。そしてきっかけはまるで忘れたが、その人と知り合ったとき、彼はクラシック音楽に材をとる一コマ漫画家になっていた。そのとき私は確信した。小澤一雄は自分の生活と切っても切り離せない、しかも深い知識に裏打ちされたクラシック音楽にたいする嗜好を、一コマの漫画にして遊ぶことを発見した。遊びで食ってゆく術を手中にした。自己の内部に描くものがある。おそらく生涯、音楽漫画をやってゆくだろう。これは、本物だ、と。 私の絵の世界とはまるで接点はなかった。私も音楽が好きだということ以外は。 そして、会わずに50年が過ぎた。出会った時の私の確信はまちがってはいなかった。彼はオンリー・ワンの漫画世界を創った。 小澤氏は著書である漫画絵本の扉に、私が歌っているところだと言いながら筆を走らせた。 帰りぎわに、「ヤマダさんに会ったら、I さんのことを思い出しました。昔、I さんがヤマダさんの家に遊びに行ったと言ってました」と小澤氏は言った。「そうそう、私が世田谷に住んでいたころ、絵を見せてほしいと言って・・・」 そのひとは小澤氏の熱心なファンであり私のファンでもあった。神奈川県の理容師である。職場の理容室に、小澤氏の作品や私の作品の絵葉書をたくさん飾っていたようだ。もう随分のお年のはずで、あるときからプツリと手紙がこなくなった。小澤氏に対しても同様だったそうだ。大病としらせてきたが、その後に住所が変わったらしかった。亡くなられたのかもしれない。 「おたがいに元気で描きつづけましょう」と辞去した。 展覧会場は東京・高円寺の画廊だった。高円寺は私が25,6歳頃にヌード・デッサンに通ったスタジオがあった街である。街はすっかり変わって、昔の記憶をたどることはできなかった。
May 24, 2023
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予約しておいたCOVID-!9オミクロン株のワクチンを接種した。通算6回目である。私は基礎疾患もないし、過去5回の接種も身体にまったく何の影響もあらわれないので、接種券が送付されると即時に近所の医院に予約したのだった。それでもその医院の予約枠はほぼ埋まっていて、私が都合つく今日はわずかに夕方の30分間だけが空いていた。今回でこの医院での接種は3回になるが、他の3回はかなり遠い会場に行かなければならなかった。まあ、このワクチンについてはいろいろな考えの人がいるようだが、病気に関しては他人の考えを私はまったく参考にしない。 昨夜から降りつづいていた雨がすこし止んだ。これはしめたと、傘をもたずに山を降りた。往きはよかったが帰りは湿るていどに濡れた。ドライな男は少し湿ったほうがよかろう。 出掛ける前にちょっと鏡を覗いたら、髪がめっきり白くなっていた。白というより、髪の一本一本の内側にまだ黒さが残っているのか、銀色である。しかし、徐々に白くなったというのではなく、白髪はあったのだが、いつのまにか一時にザーッと銀色になったようだ。自分のことながら、「ふーん!」と、ヘンな感心をした。おもしろいものだ。
May 23, 2023
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ウクライナのゼレンスキー大統領が電撃訪日し、21日、広島G7に招待国として対面参加した。この意義は大きい。侵略しつづけるロシアは国際関係でますます孤立を深めるだろう。
May 21, 2023
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ヘルムート・バーガー氏が18日に死去された。享年78。 ルキノ・ヴィスコンティ監督作品の主演俳優として代表作に『地獄に堕ちた勇者ども』『ルートヴィヒ 神々の黄昏』『家族の肖像』。 私は、『地獄に堕ちた勇者ども』においてヘルムート・バーガー氏が演じた製鉄産業界の重鎮ヨアヒム男爵の孫マルティンが、男爵の誕生日の余興に、マルレーネ・ディートリヒそっくりに倒錯的女装をして見せたので、失礼ながら「こんなに上手い俳優だったのか」とびっくりした。 そしてその後、『ルートヴィヒ』でもその素晴らしさに賛嘆した。 狂王ルートヴィヒ ll世を描いた映画は他にドイツ映画が2作品ある。ヴィスコンティにさきがけて1955年にヘルムート・コイナー監督、ゲオルク・フルグレス脚本、美男俳優といわれたオットー・ウィルヘルム・フィッシャーがルートヴィヒ ll世を演じた。この映画の日本初公開は2007年、東京のアテネフランセ文化センターにおいてだった。 この作品については好意的批評が多い。たしかに見るべきところはある。しかし私の感想は厳しい。なんと言ったらよいだろう。映画を貫徹する構図に中心が無いというか、歴史的素材に目移りして訴求力が無いというか。そしてまた、美貌といわれた主演のフィッシャーだが、その美貌はルートヴィッヒを演じて、ヘルムート・バーガー氏が演じたような若き王の鋭い癇癖性が容貌にない。私は、この癇癖性は重要だと思う。王が王であろうという内的葛藤をかかえ、圧倒的威厳と狂気の内在を美貌に添えているからだ。晩年の王を、ヘルムート・バーガー氏は、甘い物が好きで歯が虫歯でボロボロになって、歯痛のために晴れた頬の無惨な容貌をみごとに表現していた。あるいはエリザベートが建設成ったヘルンキムーゼ城のベルサイユを模した「鏡の間」を訪れるシーンは、私はヴィスコンティ監督の演出 (ロミー・シュナイダーが演じた)の鋭敏に震えを禁じ得なかった。ヘルムート・コイナー監督の演出は比較するのも無駄である。王の狂気を鋭い音楽で頭を押えたり怒鳴りまくる演技など、コイナー監督の演出はいささか幼稚、と私は感じた。ヴィスコンティ監督がヘルムート・バーガー氏にそんな学芸会並みの演技を要求するはずもなかっただろうが。 ヴィスコンティ以後でも一作品あるが、ヴィスコンティ作品とはまるで比べ物にならない。ルートヴィヒ を演じた俳優の容貌はひとことで言えば「賤し」く、演技以前である。日本人にとってこの狂王ルートヴィヒ ll世の面影は、早くは森鴎外『舞姫』にその死が記述されてい(鴎外はこのときドイツに留学中だった)、澁澤龍彦が『異端の肖像』において詳しく描いていた。それらの書物を知らない人でも、ディズニー・ランドの白雪姫の城のモデルがルートヴィヒが国を傾けて築城したノイシュバンシュタイン城であることは知っているだろう。 ・・・というわけで私自身にヴィスコンティ作品以前にルートヴィヒ ll世のイメージはあった。そのイメージにヘルムート・バーガー氏が演じたルートヴィヒはピタリと重なったのである。 その素晴らしさはバーガー氏自身が重々自覚していたであろう。しかしながらバーガー氏は後年、その夢を追いすぎた、と私は思う。 ヘルムート・バーガー氏は1993年に『Ludwig 1881』に主演し、ふたたびルートヴィヒ ll世を演じた。1881年、王はお気に入りのスイスのレマン湖の物語を携えて、実際のレマン湖で寵愛する俳優ヨーゼフ・カインツ(ディディエ)に演じさせたのであった。監督はドナテッロ・ドゥビニとフォスコ・ドゥビニ。脚本はドナテッロ・ドゥビニ、フォスコ・ドゥビニ、そしてバルバラ・マルクス。 ・・・映画としての目のつけどころはおもしろい。しかし、この映画の「絵」の充実度は「貧しい」と私は感じる。製作費をケチった低予算映画だということが一目瞭然だ。小道具には見るべきものがある。立体写真の覗き眼鏡。ノイシュバンシュタイン城でロケーション撮影した白鳥のグロッタ(人工洞窟)での回転式照明器具や、喇叭型蓄音機などだ。 ルートヴィヒ ll世は、ヨーロッパ王家のなかでれっきとした王だったにもかかわらず、王であることに内心に不安をいだき、フランスのルイ14世太陽王に憧れ、豪奢と生まれながらの骨の髄までの驕慢をまとっていたはずだ。そういう人物が国家の財産を使い尽くしてお伽噺の幻想を現実にしようとした。通常ならば「蕩尽」と言うところだが、ルートヴィヒの場合は遊びではなかった。彼の人生だった。国を統治する王ではまったくなかった。・・・想像を絶する・・・そう、王が指示したレマン湖でのパフォーマンスにも王の周囲にも、常人の想像を絶する王の「狂気」が、映画の画面にゆらめいていなければならない、と私は思う。そういう狂気のゆらめきや、凡庸な俳優であるヨーゼフ・カインツに執着した王の秘めた焰が、この映画にはまるで表現されていない。カインツ役の俳優はキャスティング・ミスと私は感じる。実際のルートヴィヒは美貌で知られた。映画とはいえその王がホモセクシャルな魅力を感じる容貌・容姿の俳優とは思えないのだ。文学とちがって映画はイメージの直球である。観客の意識が没入しなければなんにもなるまい。大抵の観客は実際のルートヴィヒ ll世についてよく知っているのである。いいかげんな映画作品で通用するはずがあるまい。ヘルムート・バーガー氏だって、共演者が役のニンにあわなければ、芝居のしようがなかったかもしれない。 寵愛されていたとはいえ映画の中での俳優ヨーゼフ・カインツのなれなれしい態度。たびたびの食事のシーンなどは、私はこの役を演じた俳優の計算された演技ではないと見た。「王の食事」には歴史的な「意味」あるいは「儀式性」が背後に積み重なってい、そのうえで今ここにルートヴィヒの軽い食事もあるのだということを監督は描いていない。見かけのお膳立てではない。背後にある時代の絶対的な階級制を意識しているか否かという問題だ。すべての王という人間の心性にある抜き難い驕慢。神話的に宣言した不可触の存在。ヴィスコンティ監督は出自が出自だけに、一杯のワインを飲むルートヴィヒとそれをただ見つめるだけしかない俳優カインツをきちんと描いていた。こういうことはバーガー氏の責任ではない。監督の演出力のせいだ。たしかに、映画の最後に王とカインツが一緒に撮った実物の写真を紹介し、椅子に掛けた王の左肩にカインツが立ったままなれなれしく手を掛けていたのを、その手を消去修正した写真が残っているのだと解説していた。しかし、私が指摘する問題は、その説明ですむことでもない。『Ludwig 1881』は、見るべきことを制作者が何も見ていない映画だ。 死者を鞭打つようだが、ヘルムート・バーガー氏にかつて画面を圧倒した輝きがない。私が言うのは、若さにあった美貌のことではない。実際の王も1881年ころは病的にむくんだ顔をしていた。その変貌ぶりはヴィスコンティの『ルートヴィヒ』で、バーガー氏自身がみごとに活写していたではないか。私は無礼な感想をもつ。ヘルムート・バーガー氏はルキノ・ヴィスコンティ監督によって活かされた俳優だった、と。 私にとってヘルムート・バーガー氏は『地獄に堕ちた勇者ども』『ルートヴィヒ 神々の黄昏』『家族の肖像』、この3作品によって偉大な俳優である。 ・・・芸術というのは恐ろしい。 私が所持する『地獄に堕ちた勇者ども』のDVDの画像、そして、今は無い岩波ホールで43年前に上映された『ルートヴィヒ 神々の黄昏』の劇場パンフレットの画像を掲載して、ヘルムート・バーガー氏を追悼します。
May 20, 2023
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昨日にもまして暑かった。正午過ぎの気温31.5℃。 この陽気のせいではないだろうが、小庭のカシワバアジサイ(柏葉紫陽花)が開花しはじめた。しかも去年は文字通りひとつも花をつけなかった。ことしはたくさんつけている。エネルギーを1年間たくわえていたのだろうか。・・・花の気持はわからない。藤のような大きな白い穂状花が満開になり、重く垂れ下がるのが楽しみだ。 一日中、読書。 戦後数年間の幼い頃の記憶が、パッとよみがえり、意味があきらかになることがある。幼児の目に焼き付いた影像が、個人の記憶から日本の歴史の大きな意味に結びつくのである。いま78歳になって!・・・・・・・・・・・・・・【追記】 まったくの家族写真を掲載するのもどうかと思うが、上に述べたひとつの例として一枚の写真をめぐって書いてみよう。(下に掲載) 撮影年月日が母の筆跡で裏面に記されてある。昭和25年(1950)12月4日。写っているのは、母と私(5歳)と弟(2歳)。母は撮影年月日につづけて、「12月2日 主人長野県へ転勤後」と書いた。 ここに一つの家族の小さな物語と、その背景に戦後日本の歴史がはりついている。 この写真を撮影した場所は北海道の羽幌の写真館である。父は北方中国の戦地から復員後に婚約者(母)と結婚し、兵役招集前まで勤務していた住友金属鉱山に復職した。そして私が生まれた昭和20年5月の時点では、伊豆の土肥近傍の鉱山勤務についていた。あらゆる物資に窮乏していた日本にとって、金属資源開発は戦時の(そして戦後の)重要課題だった。 清水港や焼津港を目がけて駿河湾に飛来する米軍機の爆撃は日を追うごとに増していた。そのたびに家族は防空壕に逃げるものの、赤ん坊の私は暗闇を嫌って泣くため、母は私を背負って外に出てグラマン機を見ていたという。しかし米軍の機銃掃射は激しくなるばかり。母も外に立っていられず、私を厚い綿蒲団にぐるぐる巻にくるんで、弾丸が貫通しないことを祈りながら、階段の裏に押し込めるように置いて逃げた。 私の誕生からちょうど3ヶ月後に戦争は終わった。占領軍の進駐がはじまった。 赤ん坊を守るため、そして老父母を守るため、父は鉱山勤務を退職し、当時、羽幌町の町長だった義兄(父の姉の夫)の呼びかけを頼って、羽幌町役場勤務に職を換えた。 その間に、ダグラス・マッカーサーの司令により財閥解体がはじまった。最初にやり玉にあげられたのは三井、岩﨑(三菱)、住友、安井の四大財閥だった。実行に移されたのは1946年(昭和21年)9月6日である。父が勤務していた住友はすこし遅れたらしいが、1948年(昭和23年)には、傘下の鉱山は別子鉱業株式会社という名称にあらためられた。この社名は1951年(昭和26年)6月ころまでつづいた。 じつは、父は、羽幌町役場に職を変えておよそ5年後に、住友金属鉱山に勤務していたころの上司(私は昔そのお名前を聞いていたが、いまではすっかり忘れた)の誘いと口利きで、役場勤務をやめていわば本職の鉱山技師に復職した。折りも折り、義兄の妻だった姉が亡くなった(私が影像として記憶している最初の葬儀だ。その葬式が伯母のものだった事が後年わかった)。父はおそらく、そのまま義兄を頼っていることが心苦しくなったのであろう。加えて、1950年(昭和25年)6月に、レッド・パージ(赤狩り)が始まった。5歳になったばかりの私は、役場から帰宅した父が「首切り」という言葉で母に説明するのを聞いていた。そして言葉の強烈さで記憶した。役場勤めだった父は、GHQや政府からの通達を逸早く知ることができたのだろう。同僚から追放者が出たかどうか、幼児の私はむろん知らなかった。父も話しはしなかった。さらに同じ6月に朝鮮戦争が勃発した。おそらくこれに関わることだったろう、羽幌町の上空で米軍の空挺部隊(一般には落下傘部隊と呼んだ)の沢山のパラシュートが舞い降りた。明るいうちだった。私は、たしか裁判所前の壕の水門、井戸のようなコンクリート槽の傍だったと思うが(下から小さな半透明の川蝦が這い昇ってくるのだ)、路上で見上げていた。兵士の姿がはっきり見えた。・・・そんな状況下で、父は旧上司の折角の口利きを率直に受けたのである。 その最初の勤務地が長野県南佐久郡川上村の別子鉱山株式会社甲武信鉱山だった。写真の裏書きにあるとおり、父は単身、昭和25年11月2日に羽幌を発った。現地の事務所引継と家族を呼び寄せるための家を準備するためであった。出発の前に父は5歳の私に言った。「お母ちゃんを守ってあげてね」と。私はよく憶えている。 父が出発して二日後、母は、父に送るためであったろうか、三人の家族写真を撮影した。 父は単身、川上村梓山の「白木屋旅館」に滞在したようだ。母と弟と私の三人はおよそ1年後の10月ころに川上村に移転した。到着して数日間、すなわち羽幌から家財がとどくまでのあいだ、「白木屋旅館」に滞在した。その後、山二さんの一戸建ての高さ1間の板塀にかこわれた貸家に移った。その家で2年間暮らすことになった。 別子鉱業株式会社甲武信鉱山は、その昔の武田信玄が金鉱を探索した跡があちらこちらに残る地帯である。父が入山した当時の甲武信鉱山について、現在インターネットにPDFによる書類が掲載されている。『地質調査所月報 (第3巻 第10号)』に「長野縣甲武信鉱山金銀鉱床調査報告」・・・この報告書は末尾につぎのように書いている。「昭和25年6月より別子鉱業株式会社によってふたたび開発を企てられ、目下國師、および山神鉱床群の一部を探鉱中である。」 長野縣甲武信鉱山金銀鉱床調査報告 まさにこの報告書にあるとおり、別子鉱業株式会社は梓山の探鉱も開始し、そのために私の父は呼び戻されるように復職したのだった。のちに父が私に話してくれたが、甲武信鉱山からはたしかにザクロ石が発掘された。ザクロ石は金鉱の随伴鉱物である。しかし父が勤務後およそ2年間の探鉱調査の結果、設備投資に対する金の産出量が採算にあわないと判明したのである。甲武信鉱山は稼動せずに1952年(昭和27年)4月1日をもって閉山した。5月3日、日本国憲法が施行された。 財閥解体後に住友金属から別子鉱業へと名称変更したが、昭和28年頃には再び住友金属へ名称が変わった。甲武信鉱山の閉山による事後処理ののち、父は1953年9月30日に福島県南会津郡の住友金属八総鉱山に転勤した。 八総鉱山は旧古河財閥の所有だったが、やはり財閥解体により手放し、住友が買収した。父が入山したとき、ここもやはり探鉱の最中だった。ごくわずかな職員と労務者が試掘杭を掘削していた。しかし父も調査に加わり、このまま900メートル掘れば ヒ (鉱床の心臓部)に当たることが予測できた。予測は的中し、この後、10年間、福島県随一となる銅鉱山へと発展する。10年後に日本が国際連合加盟条件として提示された貿易自由化を受け入れたことで、日本の第1次産業がほぼ崩壊するまでは・・・。(福岡県大牟田市と熊本県荒尾市にまたがる三井三池炭鉱の長期にわたるストライキが、この問題の最も早い現れだった。) 以上が下に掲出した写真をめぐる我家の物語である。そして戦後の混乱のなかで父は家族を守るために奮闘していた。愚痴をこぼすことなく、笑いながら。 私は父に直接遊んでもらったことは一度もないが、植物や蝶類の採集に山野をうろついていた私のことを「野生児だねー」と言いながら、私を見守っていた。母もまた然り。父は、私の蘚苔類採集のために、鉱山杭道内に一緒につきそってくれもした。 日本中が飢え、貧しさに喘いでいた。父の転勤にともなう列車旅行、あるいは単なる家族旅行の折に、私は駅舎のゴミ箱をあさって茹で卵の殻を啜るように舐める婦人をみかけた。昭和30年代前半まで上野公園の山下には数えきれないくらいの戦災孤児(浮浪児という言葉があった)や、浮浪者がいたし、白衣の傷痍軍人が物乞いをしていた。 しかし私と弟は、食べ物の不足で苦しんだことがまったくなかった。私はいろいろな事をよく記憶してい、影像もあざやかに記憶しているが、不思議なことに母が毎日の食糧をどこで買っていたのか知らないのだ。食料品店がどこにあったかも、まったく記憶にない。 当時の国民は食糧管理制度のもとで食料配給を受ける「米穀通帳」を一世帯に一冊所持していた。文庫本ほどの小さな手帳だった。我家では「通い(かよい)」と言っていた。羽幌町にいた4,5歳ころ、私は母の言いつけで、小麦粉をもって製麺所に行き、饂飩を打ってもらっていた。饂飩屋さんに小麦粉が無かったのである。私は片道3丁、往復で1kmほどのこのお使いが好きだった。製麺機から簾のように饂飩が出てくるのがおもしろかったし、美しくもあった。・・・それより数年後、八総鉱山に移転した当初、わずかばかりの社員社宅と労務者社宅の集落に商店は一軒だけだった。早い時期に大宮鉱山から八総に入っていた「中鉢商店」である。しかしその名称で呼ぶ人はなく、「配給所」と言った。たしかしばらくのあいだ「米穀通帳」を使っていたと思う。茶箪笥の抽出にあったのを憶えている。その後、八総鉱山が発展し、鉱山関係者だけが居住する特異な住宅街が建設され、中鉢商店のほかに会社直営のいわゆるスーパーマーケットができた。しかしその直営店をも大抵のひとは「配給所」と言った。この頃は国の配給制度は存続していたもののほとんど形骸化してい、たぶん戦後のなごりが習慣となって「配給所」と言っていたのだろう。 母は幼児の私に言ったものだ。「にいちゃんは、お金のことを言ってはいけません」と。私の行動規範としてのこの教育は、現代の一般家庭の教育とことなっていたかもしれない。30歳前後の一介の給料取り(サラリーマン)だった父も母も、苦悩を一切口にしなかった。すくなくとも私たち子どもには見せなかった。父の単身赴任後に撮ったこの写真で、母は「このとおり大丈夫」ということを、父に知らせたのかもしれない。過去の歴史にとらわれず、毅然として前を向いて新生日本を生きてゆく・・・それが両親の思いだったのではなかろうかと、いまになって私は思うのだ。1950年(昭和25年) 12月4日撮影母、弟 (2歳)、私 (5歳)。 この写真を撮るとき写真師が、3人では具合が悪いからと言って、人形を置いた。私はそのことをよく憶えている。「迷信」がこんなところにも入り込むというようなことを、もちろんそんな言葉ではないが、私の頭に記憶された。私と弟が母とちがう方向に視線をやっているのは、たしか写真師が大型の暗箱写真機の横にシャッター・コードを持って構えたからである。
May 18, 2023
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いやー暑い。昼過ぎの気温30℃。フェーン現象によるのだそうだ。35℃まで上がった地方もあったようだ。 言うまいと思えど愚痴る暑さかな 青穹(山田維史) 常磐木の落葉に白き陽のひかり* *常緑樹が若葉になる季節。古い葉が落葉となる。いま我家の小庭は椿がまさに落葉となって、毎朝の掃除である。
May 17, 2023
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今日はほぼ一日中読書。昨晩、序文だけを読み、朝から本格的にとりかかった。内容が重い。今月いっぱいかかりそうだ。 このところ、・・・いや、このところじゃないな、1年くらい前からかな、・・・我家のあたりの上空は軍用機の航路になっているのだが、いままでは朝夕2回、厚木基地と横田基地とを結んで西北を飛ぶだけだったが、航路が南東にもおよぶようになり、1日2回とは限らなくなっている。ヘリコプターも頻繁に飛ぶ。 現在、21時24分、ヘリコプターが飛んでいる。3,40分前にも往復飛行していた。(ただしこのヘリコプターは軍用ではないかもしれない。さきほど警察署の緊急注意放送があった。小学生を刺傷する通り魔らしき事件が発生したという。犯人は逃走中らしい。・・・ヘリコプターが幾度も旋回している。(注)) というわけで、軍用機の動きで、私は何事かが起こっている気配を察知するのである。 (注)警察は事件性が無いと判断した。その判断にいたった理由はここには書かない。
May 16, 2023
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連休中に終わらせる予定だった2件の事が、1件は予定どおりに終わらせたが、もう1件がどのように手をつけたら良いのかと迷いに迷ったあげく、きょう、一気にやってしまった。短い書き物なのに1週間の遅延になった。 仕事を遅らせながら、一方でいつもどおりの読書は欠かさない。若桑みどり氏の大著『クアトロ・ラガッツィ 天正少年使節と世界帝国』を今朝早くに読み終えた。これも長くかかった。「クアトロ・ラガッツィ」とは「四少年」という意味。 16世紀から17世紀半ばまでのスペイン・ポルトガル・イタリアにはじまる、いわゆる大航海時代の、貿易経済・覇権争い・キリスト教伝道(受容と迫害)・文化交流(人材交流)を、若桑氏は支配者側の史料ばかりでなく、日本で失われた文書をイエズス会古文書館等に保存されている原史料を発掘して、西欧世界と日本とを等分の目で歴史を再構成していられる。 若桑氏は詳しくは書いていないが、その時代、美術史的にはイタリア・ルネッサンスが終りに近づいていた。四少年たちが到着する20年前にミケランジェロが死に、10年前にティティアンが死んでいた。しかしヴェロネーゼはヴェニスにまだ生きていた。死んだのは1588年である。ヴェニスにはティントレットも1594年まで生きていた。そして次代のバロック美術を担うことになるミラノ生まれのカラバッジオは、四少年たちとまさに同年齢だった。四少年たちが身をもって触れたのはそのような西欧だった。少年たちはバチカンに教皇を謁見したとき、システィーナ礼拝堂のミケランジェロの壮大な「最後の審判」と天井画を見たにちがいない。 若桑氏の西欧と日本とを等分に見る目は、歴史的事実のみならず一人一人の人間性に向けられている。支配者側の人物も市井の人物も同等である。その扱い方は他の歴史書には見られないことだ。そして、私が賛辞をおしまないのは、この著作が歴史の再構成と解説におわらず、あえて言わないまでも「21世紀の現代」を照射していることである。 たとえば次ぎの一節はどうだ。 〈世界帝国が形成された時代に中世的な幕藩体制を維持するには強力な思想統制が必要になる。その統制は恐怖と他者の排除によってはじめて効果的なものになる。これから起こる血塗られたキリシタンの虐殺と迫害は、恐怖による支配の最たるものであって、民心の統御に不可欠なものであった。〉(p.500上段) 時代に限定されるいくつかの語彙を変えれば、まったく現在私たちの周囲に起こっている状況を述べている、と私は思う。けだし若桑氏の慧眼である。 私は今後、幾度もこの本を読み直すだろう。 ついでだ。 じつは一カ所、誤植がある。p.411上段8行目。「天正十年」は、ただしくは「天正十九年」である。集英社 2003年10月30日 第一刷発行 (本体3800円+税)
May 14, 2023
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もじずり草 裏宿にしのぶ文字摺とおり雨 青穹(山田維史)
May 13, 2023
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米タイム誌電子版の5月22日・29日号(9日発売)が、岸田首相を表紙にした「日本の選択」と題した記事で、「岸田氏は数十年にわたる平和主義を放棄し、日本を真の軍事大国にしたいと望んでいる」と書いた。 これに対して林芳正外相は、タイム誌に「表題と中身に乖離がある」と申し込んだと、12日午前の記者会見で明かした。(毎日新聞 デジタル 13時44分) タイム誌はその後、「平和主義だった日本に、国際舞台でより積極的な役割を与えようとしている」と書き換えた。(同上 川口峻記者) 林外相の記者会見に先立つ11日、松野博一官房長官が記者会見してい、このタイム誌の記事に対して、「世界の分断を防ぐ歴史的な役割を担う指導者との論調となっており、記事全体としてそうした説明が反映されている」と評価した。(毎日新聞 デジタル 5月11日13時51分) さて、岸田首相についてのこのタイム誌の記事と、日本の官房長官と外相との対応(お二人の読解を含むはず)を、私はどのように読んだらよいだろう? まず私が重要だと思うのは、このタイム誌が指摘したように、これまでは日本が「平和主義」だったことが他国で認識されていたことだ。まさに世界に冠たる日本国憲法の平和主義宣言が他国に理解されていたことを示している。そしてその認識が崩れたのである。 官房長官と外相との読解は微妙に異なり、また微妙に一致していると思えるが、しかし私はタイム誌の論評は最初の文言も、あとで差し替えた文言も、真意は変わっていず、しかもその「数十年にわたる平和主義を放棄し」たという見方は図星であると思う。岸田氏にとって、否、平和主義を土俵際で踏み堪えながらも維持してきた日本にとって、まことに残念な国外の視線ではある。が、少なくとも私は「タイム誌の論評は鋭く正鵠を射ている」と思う。 まさかとは思うが、岸田首相は国内外向けにその場その場の当たり障りのないとご自分が思っている政策を、信念に欠ける言葉で語り、その後はまるで「虚仮(こけ)の一念」のような胆力(聞く耳をもたない頑固さ)で乗り切っている。外相と官房長官とに微妙な差異があるのは、岸田氏が首相として万全の信頼を得ていないからではないか。そして岸田首相が現実路線と思っている政策、とくに軍事面における議論なき決断は、日本国内の真の知識人のみならず一般国民からも危惧されていることがらであるが、国外の目には、外相や官房長官がいくら抗弁しようとも、「日本は平和主義を捨てて軍事大国をめざしている」と理解されているのである。この問題に対する日本政府と外国の政府との理解の落差は大きい。 横道にそれるが、昔、私はある私的なパーティーで米国の経済関係の記者と知り合った。その記者が私に話した短いコメントが忘れられない。 そのアメリカ人記者は、こう言った。「日本では企業戦士とかビジネス戦士というが、アメリカ人の私には強烈な表現なんです。経済に関してアメリカ人はゲーム感覚なんです。だから、戦士という表現に、とっさに身構えてしまうのです。国際的な経済交渉の場ですくなくとも感覚的には日本は不利になっているかもしれません。」 岸田首相に対して首相自身が思っている以上に外国政府は身構えているのだ、と私は思う。それはとりもなおさず日本に対して身構えているということだ。それが日本にとって「利」となるか「不利」となるか、そこが問題である。私は文化的な問題しか語れない。
May 12, 2023
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アメリカのニュージャージー州のプウェル・タウンシップで、8日、隕石らしい物体が民家の屋根を突き抜けて室内の床に落下したという。けが人は出なかった。大きさは縦15cmほど、横10cmほど。この物体が何であるか検証中らしいが、どうやら「みずがめ座 η (イータ)流星群」由来の隕石とみられている。 このニュースで思い出した。 昔、世田谷に住んでいたころだった。はっきりした年代は忘れたが、40年くらい前だったろうか。或る日、家の裏手で何かが地面に落下する音がした。なんだろうと思って、耳をすまして様子をうかがったが、その後は何の物音もしなかった。それきり忘れていたのだが、翌日の新聞に、隕石が落下したようだという記事が出た。しかも世田谷の何処からしかった。世田谷区は都内でも広い区域だ。落下したと推測される地点を新聞記事は明示してはいなかったと思う。・・・しかし、私は、「あれッ? もしかして、昨日の音は・・・」 たちまち子どものような好奇心が頭をもちあげた。私は探してみようと思った。物音がした家の裏手は、高さ1.5mほどのコンクリートパネルの塀で囲われたかなり広い、世田谷区でもめずらしい農地だった。私は塀に手をかけ、飛び越した(若かった!)。そしてできるだけ丁寧に隅から隅まで探した。畑なので石ころは無いし、探し易いといえば探し易い。 ・・・ご想像のとおり、隕石は発見できなかった。隕石は意外に頻繁に落下しているらしいが、まあ、そう簡単にみつかるものではないということでしょうナ。 ニューヨークの自然史博物館には巨大な隕石が展示されている。昔はたしかエレベーター前のホールにドカリと展示してあったと記憶する。現在はリニューアルされて、ものもしくサークルで囲ったプラットフォームに展示されている。重量が34トンもある。1897年に発見されて「アーニートウ隕石」と名付けられた。発見者の娘の名前からとったそうだ。発見場所から移動して展示した世界最大の隕石だという。 SF映画、あるいはカタストロフィ恐怖映画と言ったらよいのか、巨大隕石(小惑星)が地球に来襲する作品がある。しかし、これは必ずしもフィクションとは言えず、最近も、地球に衝突する危険性はないものの最接近して(天文学的な距離だが)通過した。また、地球から無人探査機を発射して接近する小惑星にぶつけて、その軌道をずらす、ということが実際におこなわれている。(後註) 地球がブラックホールにのみこまれて消滅するまで、まだ数十億年あるが、いずれ地球は宇宙の原理によって存在を消す。それが現実である。つい最近、惑星がのみ込まれて消滅する撮影に成功した。これまでは予想されてはいたが、撮影による証明はなかった。・・・地球を核兵器で破壊していいの? 人類は、天国だ霊魂不滅だなんて、幻想をいだいている場合じゃないよ。天文学的・宇宙物理学的現実を認識すべきだね。たとえ数十億年先の地球消滅でも。人類消滅はもっと近いかもしれないじゃないか。(註) 2022年10月11日、NASAが無人探査機「ダート(DART)」を小惑星に衝突させる実験をして成功した。 地球に対して潜在的に危険性がある小惑星を、国際的にPHA (Potentially Hazardous Asteroid) と分類している。その大きさは絶対等級22.0(最低直径110m)。地球との最小交差距離748万km以下。 小惑星の直径が100m以下ならば、衝突しても破滅的な状況にはならないだろうと推測されている。
May 10, 2023
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きのう一日中降りつづいた雨は、今朝になって止んだ。かわってやや強い風が吹きはじめ、20時過ぎても止まない。南に面した二階の軒下をまるで木枯のように吹き抜けて行く。 つい木枯と書いたが、岩手県北部では雪が降ったという。季節はずれというにしては、もう初夏なのだから、はずれすぎだ。5月3日のCNNが「気候変動の危機を伝える写真10選」を掲載していた。すさまじい写真である。岩手県の初夏の降雪は本州付近に延びた前線や低気圧のせいだそうで、これが地球規模の人間由来の大きな気候変動と関係があるか否かは、私には解らない。 すこし寒い。オックスフォード・シャツ1枚で過ごしていたが、カーディガンを羽織った。 やっぱり歳だなと思うのは、ここ1年半前あたりから平均体温が低くなったのだ。若い頃から平均36.5℃を維持してきた。それが36℃を切ることがある。コロナウィルス禍のため、会議に出席する前や主治医のクリニックを訪ねる前だけではなく、毎朝検温して記録するようになった。それが習慣になっている。コロナウィルスに関する医療態勢や医療保険あるいは予防接種について等、国の方針が今日から変更になった。しかしながら、私の毎日の検温習慣は、11年間つづいている血圧計測とともに、(同時にやってしまうので)今後もつづくだろう。まるで女性のオギノ式検温みたいだが、ハハハ、ただの一日のルーティンである。 そうそう、今朝、起床しようとして何気なく顔をごしごし擦った。ぱっちり目覚ようとしただけだが、ふと、顔の筋肉の下の頭蓋骨を丁寧にさぐってみた。画家として解剖学的な素人勉強をしてきた。たちまち脳裏というか目裏というか、自分の頭蓋骨のイメージが手探りによって意外なほど明瞭にうかびあがってきた。肉の下にある頭蓋骨の形状、その凹凸、眼窩のぐあい、下顎骨のぐあい、後頭部と頸骨とのつながりぐあい等々、・・・ああ、これが自分なのだと解剖学的に「確認」した。昔、舞踊家で俳優の田中泯氏と知り合ったころ、田中氏がご自身の全身骨格写真を撮影されて公表されたことがあった。私はその後、骸骨図像の研究をし、美術講義もしたが、今朝、まさか自分自身の肉を削いだ頭蓋骨をイメージするとは思わなかった。おもしろくなって、元気にとびおきた。
May 8, 2023
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早暁の夢かうつつか五月雨 青穹(山田維史) 紫陽花のつぼみ小さく五月雨 連休もしまいとなりて五月雨
May 7, 2023
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きのうは子どもの日だった。子どもはどこの国の子どもでもすばらしい。やさしさがある子も、きかん坊も、当方がおとなとして充分成熟した包容力があれば、みな可愛いと思えるものだ。 そんななかでも、私はとびぬけた才能を発揮している子どもに注目してきた。さまざまな分野があり、そのそれぞれに世界を驚嘆させる才能の子どもがいる。 芸術の分野に限定して、私が数年前から注目してきたのはピアニストのアレクサンデル・マロフィーフ (Alexander Malofeev)さんである。私には芸術的な営為を「子どもだから」という目で見たり聞いたりする意識がまったくない。可愛いなどとも思はない。当然ながらアマチュアには初めから関心がない。論評しようがないのである。アレクサンデル・マロフィーフさんについてはすでにこのブログに書いたことがある。9歳ころから大きなステージに出演しはじめ、現在は21歳になられ、他国の大学に特別講師として招かれその大学でピアノを学んでいる選り優れの学生に教えることもあるようだ。マロフィーフさんは、演奏技術は言う迄もないが、楽譜にどんな感情や物語のようなことが書かれているかを読解する特別な感受性をもっていられる、と私は思ってきた。 そしていままた、私はひとりのクラシック音楽の少年歌手に注目している。マラカイ・バヨー (Malakai Bayoh)さんである。13歳のこの少年は、TVショーに出演して見いだされたようだが、その後、プロフェッショナルのクラシック・ミュージシャンから招かれてキャリアを積んでいる。ポール・ダニエル氏指揮の英国国立歌劇場交響楽団と共演し、ロイヤル・アルバート・ホールにおいてモーツァルトの『ハレルヤ』を歌って輝かしいデェビューをした。モーツァルト歌曲おとくいのコロラチュラをみごとに歌っている。 マラカイ・バヨーさんの歌声は、「聖なるハーモニー」といわれる963ヘルツに大変近い波長らしい。・・・15歳頃の身体的な成長をどのように超えていくか。そのときこの歌声を維持できるかどうか。彼の行手には大きな壁がまちうけているであろう。すぐれた指導者に出逢うことを私は願う。 私がごちゃごちゃ言うことはない。YouTubeにお二人の演奏が掲載されている。この動画撮影時、バヨーさんは13歳、マロフィーフさんは12歳のときのサンサーンスのピアノ協奏曲2番である。マロフィーフさんのほうは、10歳のときのグリーグのピアノ協奏曲ロ短調、15歳のときのラフマニフのピアノ協奏曲2番と、最近21歳のチャイコフスキー『胡桃割り人形』より「パ・ド・ドゥ」の演奏も掲載しておこう。 マラカイ・バヨー13歳歌唱モーツァルト「ハレルヤ」 マラカイ・バヨー13歳歌唱ウェーバー「ピエ・ジェジュ」 マラカイ・バヨー歌唱ミサ曲「ベネディクトゥス」 マラカイ・バヨー/プッチーニ「私のお父さん」 アレクサンデル・マロフィーフ10歳の演奏 アレクサンデル・マロフィーフ12歳の演奏 アレクサンデル・マロフィーフ15歳の演奏 アレクサンデル・マロフィーフ21歳の演奏 この二人について述べたのは、先日の日記に書いたとおり、いま私は若桑みどり氏の著書で天正少年遣欧使節について読んでいることと関係する。 天正遣欧の少年たちは、日本が世界に耳目を開こうと派遣された歴史的に初めての文化使節だったと言ってよいだろう。正使2人と副使2人と従者2人の少年たちは、1582年(天正10年)日本を出発したとき、13歳(もしくは12歳)と14歳であった。 若桑氏によれば日本の多くの歴史家は、天正遣欧の少年たちについて、世界に向けられた文化的視点で考察することが少なかったようだ。少年たちは歴訪した国々や多くの都市で熱烈に歓迎され栄誉を受け、その気品と知性で、教皇をはじめすべての貴顕を驚嘆させた。しかしその事実さへ、閑却する歴史家がいる始末だ。少年たちが8年後 (1590年)に帰国したとき、彼らはラテン語、ポルトガル語、イタリア語に習熟してい、最年少だったらしい原マルティーノは帰国途中のゴアでラテン語で演説さへした。そのみごとな演説は当時のキリスト教世界で有名になった。そして日本語訳が、グーテンベルク印刷技術を学んだ従者の二人の少年によって、ただちにゴアで出版された。しかし、それさへ日本では現代まで無視された、と若桑氏はイエズス会古文書史料に当たって述べていられる。 しかし、艱難辛苦の末に帰国した少年たちには残酷な迫害が待ち受けていた。少年たちを待ち受けていたのは、自己の名声と一族の家系の永続のみを考えて日本を支配し、富と数多の女を収奪し、侵略によって世界を手中にしようとする、淫乱で残虐な心性をもった男(豊臣秀吉)だった。そして徳川家康、秀忠、家光とつづく言語を絶する虐殺の法社会だった。 ついでに述べよう。 現在、何やら三島由紀夫が出版界で復活する兆しがあるように私は思う。日本の雅な文化的心性の奥に、常に暴力的心性がはりついていたことを、はっきり認識していたのは、三島由紀夫である。彼はその認識を外国のインタビューアーに英語で説明していた。そして彼はその日本文化の表裏を一身に体現し、裏にあったことを制度として表に出そうとしていた、と私は指摘する。日本社会にキナ臭さが漂ういま、三島由紀夫死して53年後の復活の兆しはそのキナ臭さとあながち無縁ではないかもしれない。
May 6, 2023
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母在りし日の五月五日 八つ橋を亡母手をひく菖蒲園 青穹(山田維史) 男の児うまれて今日の初節句 いたいけや裾濃(すそご)紫端午かな
May 5, 2023
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ポスター制作;山田維史
May 3, 2023
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20日前にイギリスに発注した本がやっと届いた。急いでもっとも必要な部分を読み、その後、2時間ほど執筆。連休中に二つの仕事をおわらせるつもりだ。
May 2, 2023
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