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終日の雨。強く降り込める冷たい雨である。 そんな中を、夕方になってから4時間ばかり外出。雨は坂道を急流となって下る。私は道の途中でかがんで、ズボンの裾を少しばかり折上げた。みっともないが、出先でグショ濡れの姿を見せるよりはよかろう。 駅のプラットホームに、スピーカーで小鳥の声を流している。「ピーピークゥイック・クゥイック、ピーピークゥイック」と、ほぼ20秒間隔で流れる。そのうるさいこと。大きい音ではないのだが、単調さが神経を苛つかせるのだ。日本の都市部ではとかく無駄な音のたれながしが多い。サービスのつもりらしいが、ずいぶん粗雑な神経のひとたちの企画だ。こういうのは公害とは言わないのかしら。 この小鳥の声が気になるのか、私の目の先で、本物の小鳥が雨のなかを右往左往飛び回っていた。腹が白く、背と尾が黒い。ホームに降り立ち、また飛び立って屋根に止る。「ピーピークゥイック・クゥイック、ピーピークゥイック」という声の出ている小さなスピーカーの周辺を付かず離れず、去るに去れない。 「可哀想に、罪作りな音だことなー」と、私は、篠つく雨のなかの小鳥の飛翔を見つづけていた。
Jan 30, 2009
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昼間はあいかわらず遅々としてはかどらない新作の執筆をつづけている。心躍って筆が走りすぎるのを抑えなければならない状態にはまだほど遠い。 息抜きに夜8時からテレビで稲垣浩監督の『無法松の一生』(1958年)を観た。主演は三船敏郎、高峰秀子。封切時に会津若松の東宝で観ている。中学1年、13歳のときだった。その当時、黒澤明作品にめざめ、おのずと三船敏郎にも関心がむいていたので、たぶん三船敏郎が出演しているので観たのであろう。シネマスコープ。 シネマスコープというのは20世紀フォックス社が開発した横長の超巨大画面。1937年のパリ万博でアンリ・クレティアン博士(ソルボンヌ大学)が発表した原理を同社が権利を買い取って発展させ、1953年に第一作『聖衣』を世界主要都市で同時公開した。画面の縦横比率は、最初、1対2.55であったが、のちに音響装置の関係上1対2.35に変わった。『聖衣』は日本でも1953年に公開された。 日本映画にシネマスコープが登場したのは1957年。東映が東映スコープという名称で第一作『鳳城の花嫁』を公開した。『無法松の一生』はその翌年の東宝作品で、ベニス映画祭大賞を受賞している。 ちょうど50年前に観た映画。冒頭部分はすっかり記憶から抜け落ちていたものの、おおかたはまだしっかり記憶していた。・・・俥屋は芝居小屋の木戸御免(いわゆる顔パス)という小倉での慣習を、木戸番に拒否された松五郎(三船敏郎)が、腹いせに仲間(田中春男)と一緒に、桟敷で大蒜や韮や唐辛子を七輪で燻して大立ち回りをするシーン。 吉岡大尉夫妻(芥川比呂志、高峰秀子)の息子俊雄少年を松五郎が初めて見かけるシーン。 吉岡夫人に初めて会うシーン。吉岡大尉の死のシーン。 ・・・そして学芸会で俊雄が唱歌「青葉の笛」を歌うシーン。映画のなかで唱歌を歌う作品というのは、たとえばやはり高峰秀子が主演した『二十四の瞳』の「荒城の月」や「浜辺の歌」、唱歌ではないが『ビルマの竪琴』の「埴生の宿」や、『生きる』で志村喬が歌う「ゴンドラの唄」、『泥の河』のキッちゃんが歌う「戦友」等々を思い出す。このような歌のシーンを成立させるのはなかなか難しかろうと思う。歌手がうたうのではなく出演者が、場合によっては子供がうたって、映画の観客を感動させなければならないからだ。うまいなー、いいなー、と思ってもらわなければならない。上にあげた映画ではそれが成功している。『無法松の一生』における「青葉の笛」も、なかなか素晴らしいのだ。「一の谷の戦破れ、討たれし平家の公達あわれ・・・」と、俊雄少年のボーイソプラノが哀切にひびく。二番までうたい、その長い時間をみごとに維持しきっている。 記憶に残っているシーンを書きつらねていても仕方が無いけれど、13歳のときには見て取れなかったことがあることに気が付いた。当たり前といえば当たり前、それを少し書いておこう。 ひとつは小倉祇園太鼓のシーン。三船敏郎がかなりの長さで太鼓を打っている。「蛙打ち」「乱れ打ち」「勇み打ち」「暴れ打ち」と。カット切換えが挟みこまれるものの、ワンカット3分ほどの連打シーンには、ちょっとビックリした。 ふたつめは、小倉祭の夜、空に花火があがって、松五郎が吉岡夫人をたずねてくる。夫人の一人語りを聞くうちに松五郎は泣き出し、あわてて座敷に駆け上がって亡き吉岡大尉の遺影の前に額づく。その異様さに驚いた夫人は、「私たちに出来ることは力になりますよ」と呼び掛ける。松五郎は向き直り、思わず夫人の手を取ろうとする。夫人は身をよける。松五郎はガバと畳に頭をすりつけて「儂の心は汚れている」と言い残して駆け去る。夫人は松五郎が何に懊悩していたかを初めて知る。そして当惑する。・・・13歳の私が見て取れなかったのは、そのときの吉岡夫人の両肩がほんの少しすぼめられるのだが、その高峰秀子の演技である。当惑と、思い当たるフシと、しかし何かやはり汚いものが身にふれたような感じ。身分違いの松五郎の思慕の情などまったく思いもよらぬことだった。しかしまた、ふと、みずからも流れだしそうな感情・・・それらが同時に押し寄せて、おもわずしらず両の肩をほんの少しすぼめる。・・・そんな老いの影さえさしている未亡人の一瞬の身体のブレなど、いくら精神的にマセていたとはいえ13歳の少年には理解できなかったことだ。 三つ目は、絶望にうちひしがれて酒浸りの日々をおくる松五郎が、雪のなかをさまよい歩くシーン。一度雪の中に倒れ、おきあがって再び歩き出す。その後ろ姿にかぶせて、ド・ド・ド・ド・ドドド、ド・ド・ド・ド・ドドド、ド・ド・ド・ド・ドドド、・・・と小さな音で太鼓の単調な音楽が鳴る。長いシークエンスである。その音は次第に消えてゆくのだが、私は歌舞伎で雪を表現するときの太鼓による効果音を連想した。歌舞伎の雪太鼓は、ドーン、ドーン、ドーン・・・と一定の速度でつづく。この映画の場合はドーンという余韻は残さず、ド・ド・ドと短く刻まれる。それはまた心臓の鼓動のようでもある。・・・そう、松五郎は再び雪の中に倒れ込み、心臓をおさえる。酒に溺れて心臓麻痺で死んだ彼の父親のように・・・。 この後、画面は、カラーフィルムの陰陽が逆転し、すなわちソラリゼーション化され、松五郎の死にゆく意識に一生が走馬灯のように浮かぶ。日本映画のなかできわめてめずらしいデザイン化された映像が長々とつづくのである。 松五郎の遺品を整理していると、吉岡夫妻からもらった季節毎の祝儀が封も切らずに大切に柳行李からでてきた。夫人と俊雄名義の二通の貯金通帳も・・・。 イヤー、私は涙ぐんでしまった。これも13歳のときにはなっかったことだ。私も年をとったということだな。50年ぶりの映画だもの。【追記】 2009年のこの日記を、9年後の2018年現在も読んでくださる方が多数ある。ありがたいことです。 そこで、すでに一度書いているはずだが、もう一度追記しておく。 この『無法松の一生』で、三船敏郎(松五郎)が飛び入りで小倉太鼓を打つ シーンがあり、私はそのおよそ3分にも及ぶ連打に驚嘆した。歌謡曲『無法松の一生』は、古賀政男作曲で村田英雄が歌っていて、確か村田英雄のレコードデビュー曲。そのデビュー盤で太鼓演奏しているのが三船敏郎である。ちゃんとクレジットされている。私が映画で驚嘆したワン・カット撮影の三船敏郎の太鼓演奏の技量は「本物」だったのである。村田英雄『無法松の一生』で三船敏郎が太鼓演奏しているレコードは、このデビュー盤だけ。それがいかにも惜しい。(2018,12,12記)【追記】 『無法松の一生』は3回映画化されている。1963年の東映、村山新治監督作品の主演は、三國連太郎と淡島千景。この映画でも、もちろん小倉祗園太鼓のシーンがある。しかし、三國連太郎氏、必死に叩いているが、身体にまったく音楽性がない。私は目をそむけたくなった。気の毒だが三船敏郎の音楽性とはくらべものにならない。音楽的感性、リズム感とは、付け焼き刃ではどうにもならないのだ。こんなことを書く映画評論家はいないだろうから、ちょいと憎まれ口を言っておく。(2022.3.19記)
Jan 29, 2009
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オバマ大統領の就任演説(Obama's Inaugural Address)の全文をあらためて原文で読んだ(朝日新聞1月24日掲載)。これが歴史に残る演説かどうかについてはCNNでも議論されていたが、格調高いすばらしい演説であることはまちがいない。すくなくとも空虚な言葉はただの一語もない。理念は具体的なイメージでバックアップされていて、そこに二義性はうまれようがない。「美しい日本」などという、何の意味もないばかりか、人によってまったく異なるイメージが生まれる多義的な言葉などでは全然ないことを、私はあえて指摘したい。そしてアメリカ合衆国の理念ではあるが、いまやそれが世界の大方の理念と一致するものと言ってもよい。いや、私はそう願うのだ。 私は常に日本のことが念頭から離れないのだが、この演説はまた、いちいちが日本の現状を省みさせる。日本の政治的な進み行きは、ほとんど真逆のような感じさえするのだ。たとえば、 「Starting today, we must pick ourselves up, dust ourselves off, and begin again the work of remaking America.」 「きょう、出発にあたって、私たちはみずからを奮い立たせ、私たち自身の埃をはらいのけ、アメリカを再生するための仕事を始めなければならない。」 私が注目するのは、「自分自身の埃をはらいのけ」という宣言だ。ここには歴史認識があり、自己の過ちを修正する明確な意志が示されている。国民を統合するために古きにしがみついて、それを「伝統」などといいくるめる日本の大衆操作術とは大きな違いである。しかも大統領は、その後にすぐさま、そのことを政治がどう具体的にしてゆくかを明らかにする。総じてオバマ大統領の演説は、理念を掲げてからその具体化すべき問題を示している。空虚な言葉はひとつもない、と先に私が述べたのはそういうことである。 思いおこせば日本の首相は、佐藤栄作は記者会見場からマスコミを追い出したし、田中角栄は自分の都合の悪い質問をした取材記者に対して、「お前はどこの社だ!」と恫喝したものだ。ヤクザ並。低級なんですな。自らの言論をまったく信じていない証拠である。そういうヤカラによる政治が連綿としてつづいている。これは与野党に関わりない。野党だって場当たり的な稚拙な言葉しかもちあわせていないのだから。 いまや対外的な日本の顔は、政治によって保たれてはいない。政治家諸君、そして政治家を志向する人たちよ、自らを裸にし、ただ一個の人間として哲学することから勉強しなおさなければいけませんよ。言葉とはそういうものです。
Jan 25, 2009
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午後7時過ぎ、外出先で通りを歩いていると小降りの雨になった。傘を持たずに出たので、強い降りにならねばよいがと思ってふと空を見上げた。すると雨のなかに白いものがまじった。雪だった。よほど注意深くなければ気付かぬほどに、ひとつぶの雨がヒラリと目の前で雪にかわる。その一片のほかはやはり雨粒である。このまま雪になるとは思えなかったが、文字通り一瞬のできごとが、私の気持をあざやかにした。 もしかすると私はそのただ一片の雪に心をうばわれて、すこしぼんやりして歩いていたのかもしれない。 しばらくして街灯のない暗い通りに入った。右側に金網のフェンスがしばらくつづく。その中ほどまで来たとき、突然、右腕を軽く掴まれた。「エッ?」と驚いて振向いたが、誰もいない。通りには私が歩いているばかりである。 気のせいかと思いなおして歩き始めるやいなや、再び、腕をグイとひっぱられた。もはや気のせいではなかった。私は用心深く、そして腹に気をいれて、姿の見えないものに掴まれている腕を払った。 「痛い!」 小声で言ったのは私である。私の腕をひっぱっていたのは、なんと金網から突き出た一本の木の枝だった。長さ7,80cmほどばかり通りに突き出ている。暗くて見えなかったのだが、その枝が私のコートの腕にからみついていた。まさに、正体見たり・・・である。 寒の雨われ引留める人もなく 青穹(山田維史)
Jan 24, 2009
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きのう一日中降りつづいた雨があがり、くもり空ながら温かい日だった。庭の桜草が咲き始めている。我家の小庭は、例年なら白桃がいちばん早く咲くのだが、ことしはどうやら桜草に先を越されたようだ。桜草は繁殖力が強く、植えたおぼえのない場所にもどんどん生える。寒中にも緑の葉をひろげて、一つの株が、1,2ヶ月のあいだに幾つにも殖えている。 パンジー(三色スミレ)や同系のビオラは、園芸の基本だと聞いたことがる。寒中に植えて、寒さを経験させると良く花が咲く。つぎつぎに咲くので、晩秋ちかくまで楽しめる。私も長い鉢を四つばかり色とりどりのパンジーを植え込んでいたのだが、花期がおわってそのまま放置しておいたら、いつのまにか桜草に占領されてしまった。 近所の家の通りに面した軒下が、春になるとみごとに桜草におおわれる。なかなかいいなー、園芸の腕がいいのだな、などと長年いささか羨ましく見てきた。ところがここにきて、桜草を育てるのに、どうやらそれほど腕は必要無さそうだと思えてきた。かってにどんどん殖えるのだから。 我家の桜草は、もとはと言えば、母が隣家の夫人から一株頂戴したことにはじまる。その折り、夫人が「どんどん殖えますよ」とおっしゃったとか。・・・まさにそのとおりになりつつある。 老母は昨年から、庭にでることもできなくなったが、桜草が咲きそろったら、見せてやろう。
Jan 23, 2009
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宵闇がせまる頃から雨が降りはじめた。ただいま午前零時を20分ばかり過ぎ、気温がぐっと冷えてきた。仕事場に入ってコンピューターのキーボードを叩いている足元にその冷えを感じる。とはいえ、じつはこの冬、仕事場のエアコンデショナーの暖房を一度も入れていない。必要ないのだ。私の身体はよほど新陳代謝が良いのか、それとも単に鈍いだけなのか、とにかく身体が温かい。着ている物は、長袖のアンダーシャツにアウターシャツ(ワイシャツやブラウス)とニットセーター、それにズボン。股引など穿いたことがない。元気な爺ちゃんなのである。 野生動物は気温が下がると体温があがる。人間の身体も、自律神経が正常だと動物と同じ体温調節がなされる。家電メーカーには悪いが、電気毛布などで人工的に身体を温めることをつづけるとホルモン・バランスが崩れ、ついには自律神経失調となり体温調節ができなくなる。暖房ばかりではなく冷房についても同様で、冷房病というのはすなわち自律神経失調症である。 冷たい寝床にもぐりこんだ瞬間は、ブルッとくるけど、やがて身体が発熱してくる。我家の猫たちは私が寝床に入るのをまちかねたように、ずらりと私の蒲団の上に陣取って眠る。蒲団の上から人体の最も発熱する箇所をみごとに探りあてるのである。股間のあたり、膕(ひかがみ)、足の甲。それらの場所取りに遅れたものは、寝ている私の頬を触って、蒲団の中に入れてくれとせがむ。・・・猫たちにとっては私はほどよい温かさの暖房器具なのである。 さて、正月明けから始めた新作50号(117cm×91cm)の制作は、毎日少しづつ執筆しているが、予定よりは遅れぎみ。複雑で細かい絵柄なので、それも仕方があるまい。描きつづけていれば、いつかはゴールに到着する。
Jan 21, 2009
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新聞はオバマ新大統領就任式のニュースでもちきりだ。アメリカのみならず世界がオバマ氏に期待しているようだ。苦境に立っての船出だけに、行く末はかならずしも楽観はできないだろうが。 それでも日本人の私でさえ、真に新しい未来がひらけるかもしれないと思うのは、何と言ってもオバマ氏の知性に磨かれた言葉の力だ。残念ながら、わが日本の閣僚諸氏はじめ政治家諸氏には望んでも具わないものだ。いったい、何故なのだろう? ここには表面的な問題ではない、非常に深い何事かがありそうだ。政治学も社会学も教育学も、かつてまったくこのような問題を研究してこなかったけれども・・・。おそらく、個人の資質に帰されてきたのであろう。だが、私は、個人を超越した、社会の有り様の問題のような気がする。閣僚がつぎつぎの舌禍事件をおこしているのをみても、この浅はかな、ほとんど恥知らずな無教養な言葉を吐き散らす者たちが、一国の指導者の地位にのぼってくるということは、如何に万人に開かれた道とはいえ、私には異常社会としか思えないのである。 アメリカ大統領の選出は、ほぼ3年の長きにわたる演説また演説の結果である。アメリカ社会がいかに言葉を重視しているかがわかる。これほど長きにわたれば、付け焼き刃ははがれてしまうだろうし、思想やヴィジョンが練りに練られていなければ、言葉はひろがってゆかない。言葉はその推進力を失ってしまうだろう。3年間の演説は、みずからの分厚い著書を語るにひとしいからだ。その場かぎりの大衆受けのパフォーマンスは通用しないはずだ。 そしてアメリカ国民の真の力は、それらの演説を大変熱心に聞き、言葉の意味を良く理解することだ。それは、自分自身の言葉と照らし合わせ咀嚼する力があるということであろう。 この世界は言葉によってできあがっているのだ。 日本の教育は、そのことをなおざりにしてきた。大学教育を受けた者が、満足な語彙をもたず、論理的な話ができない。石をなげれば大学生に当る日本だが、内実は、カラッケツ。大学生と話していると、まるで幼稚園児と話しているような気になることがある。・・・これがほんの一握りの連中の例ではなく、日本全土にわたっているのだとしたら、これはやはり異常でしょう? オバマ氏はどんなに世界が期待しようと、やはりアメリカの大統領。私は日本のことを考えたいのですよ。
Jan 21, 2009
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告白すれば私は絵描きとして、高解像度カメラで人間の皮膚を撮影した写真に、時に嫉妬することがある。これは絵では表現できない、と。皮膚のザラつき、毛穴、皮脂のヌメリ等々。私はその皮膚感にエロティシズムを感じるのだ。人間を描くなら、そういうものを描きたいのである。 ところで、昨日言及したアンドリュー・ワイエスに私が注目するのは彼の風景画に対してではなく、もっぱらその人物画に対してである。彼の皮膚描写に独特の感性を見るのだ。ワイエス作品にはエロティシズムの一面が色濃くあるけれども、それは挑発的なポーズなどでは全然無く、人間の存在そのもの、人間の生命からあふれる精気感と生命の孤独な不安感によるものである。その捕えかた、・・・あるいは感性といってもよいし画家としての視線といってもよいが、それは美術表現としてはむしろ非常に特異なエロティシズムである、と私は思っている。 彼は、皮膚にこそ個性がやどっているとでも考えているかのようだ。いや、その考えは正鵠を射ているだろう。皮膚には人生が表れる。 私は昔、学生時代にパン製造工場で早朝配送のアルバイトをしたことがある。東京工場からできたてのパンや菓子を車で小田原方面まで運ぶのである。帰りはちょうど昼頃に茅ヶ崎近辺を通過するのだが、運転手はそこで弁当をつかった。浜辺に一件の漁師小屋があり、腰のまがった老婆がたったひとりで住んでいた。その小屋を借りるのである。老婆は茶をいれてくれながら、運転手と四方山話をした。老婆の顔は潮焼けした鞣し革のようで、無数の深い深い皺におおわれていた。私はかつてそのような顔を見たことがなかった。苦労知らずに育った学生の私には、別世界の人として映った。私は、感動した。すばらしい顔だと思った。皺の一本一本に、私の知らない物語がきざみつけられているのだと思った。・・・私は、老婆の顔をつくづくと観察し、そして昂揚していた。私の生命がもえあがるようで、もしそう言ってよければ、それはエロティックな感覚であった。 その頃私は絵描きになるとはまったく思っていなかったが、後年、絵描きになってから、しばしばその老婆の顔を思い出した。あの皮膚、あの皺、あの存在感・・・喜びも悲しみも、いっさいが潮に焼かれてしまい、いまは喜びや悲しみを語る言葉さへなく、ただ命としてそこに存在する人を。 ワイエスの描く人物を見るとき、私は茅ヶ崎海岸の老婆を重ね、そして確かに作品を理解する。
Jan 18, 2009
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アメリカの国民的画家ともいうべきアンドリュー・ワイエス氏が16日に亡くなったとAP通信が報じた。1917年生まれの91歳だった。 質実で詩情あふれる写実画風は、本国のみならず日本にも多くのファンがいた。福島県立美術館など、その作品を数多く所蔵する美術館も少なくはない。ワイエスが日本で大々的に紹介されたのは確か1974年、東京と京都の両国立近代美術館における展覧会であった。その後、3度にのぼる大規模な展覧会が開催されており、現在も巡回展が開かれている。海外の現代画家としてはほとんど異例といえる。 アンドリュー・ワイエスが日本の観衆に好まれるのは、アメリカの静かな片田舎のなんともない風景を淡々と描くその「分かりやすさ」であろう。少なくとも多くの観衆は、そのように思っているに違いない。 じつは、ワイエスの描く風景は、決してそのまま実在する風景ではないのであるが・・・ かつて1974年の展覧会図録のインタビューでワイエス自身が語っていた。「今日の美術界では、私は非常に保守的なのでかえってラディカルです。」と。 現代美術が「造型芸術」と言い換えられるように、表現形態の目新しさ、珍奇さ、思想性、個人性を追究する場となって久しい。写実はカメラにその領域を譲りわたし、現代美術の最先端に写実表現はなくなってしまった。アメリカは特に、現代美術の旗手という自負もあり、国家戦略的にその道を押し進めてきた。たしかに、美術家をめざす若者たちには、アメリカ現代美術はおもしろいのであった。 私はアンドリュー・ワイエスを「国民的画家」と言った。最初の個展が称讃され、その10年後には早くもアメリカ美術史にのこる『クリスティーナの世界』(ニューヨーク近代美術館蔵)を発表し、かずかずの栄誉につつまれて来た。しかし、たぶんアメリカの現代芸術家は、今、だれひとりとしてワイエスのことなどあげつらわないであろう。けれども彼が自己分析しているとおり、そこにこそワイエス芸術のラジカル性がある。そしてその自己分析が、「私は作品が売れることに麻痺してしまうことなどとうていできない。自分の地位が全く確かだと思っていられるのは途方もない馬鹿だけです」と言っていたのを聞くと、この画家が一筋縄ではゆかない展望をもっていたらしいことがほの見えてくる。 アンドリュー・ワイエスの作品は、テンペラ、水彩、ドライ・ブラッシュによるものである。ワイエスが日本に初めて紹介されたとき、絵を勉強している学生はドライ・ブラッシュという聞き慣れない技法に関心をもった。簡単にいえば、水彩を筆に浸してからその水気をきってしまう方法であるが、ワイエスの技術は非常に熟達していて、しかも繊細で、じつのところどのように制作しているのか分らない。下に掲載した画像のうち、2番目のポスターの作品『遥か彼方に』(1952)が、ドライ・ブラッシュによる。他はテンペラである。 ワイエスが紹介されて以後、日本の画家たちもワイエス風な人物画を描くひとたちが出てきたが、ドライ・ブラッシュの技法だけは私は見かけていない。【1974年の展覧会図録】【1988年、世田谷美術館のワイエス親子三代の展覧会広告ビラ。アンドリューの父も画家、息子も画家である。】【ヘルガという女性をモデルに15年間秘かに制作されたシリーズの展覧会図録、1990】【1995年の展覧会図録】 現在、巡回しているワイエス展の会場と日程はつぎの通りです。 2009年1月4日~3月8日 愛知県美術館 2009年3月17日~5月10日 福島県立美術館
Jan 17, 2009
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忙しい1週間だった。この忙しさはまだしばらくつづくが、このブログもそうそう休んでばかりいられない。新しい記事は何もないのに、アクセスしてくださる方はいる。もうしわけない気持になってくるのだ。 会津の清水先生から新しい「九条リンゴ」がとどいた。りんご園に依頼して「九条」と文字が浮き出るように育てたもので、先生はここ数年来毎年つくられて絵葉書に仕立てて送ってくださる。九条とは、もちろん日本国憲法第九条のこと。「この九条の心を永久に腐らせないようにするために、リンゴに文字を写して〈九条リンゴ〉と名付けました」と先生は言う。 あらためてここに日本国憲法第九条を掲げておこう。 【第九条 第一項】 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 【第二項】 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。 さて、清水先生のお葉書は、わたしの「新アダムとイヴ」シリーズの完成を待っていると書いて下さっている。20作まで製作してきたが、いつ終わるともわからない連作である。 この「新アダムとイヴ」は、旧約を否定し、肉としての生命、死ぬべき運命としての人間存在の肯定を主張するものである。あるいは、生れながらにして、ずたずたに傷付けられている現代の人間に対して、「智恵の実」を食べることの勧めである。そしてまた、あらゆる宗教によって貶められた女性の復権を唱うことである。要するに宗教的幻想から人間の実存的生命を解放すること、・・・その私の願いと、願いであることを考えつづけるための作品なのである。したがって、物語が終わるように終わる、そのような計画性のあるものではない。 しかし清水先生、いつ終わるとも知れないシリーズですが、どうぞお待ちになっていてください。いつまでもいつまでも、お待ちになっていて下さい。わたしの絵のなかに時々登場するリンゴは、「智恵の実」としてのリンゴです。先生の「九条リンゴ」と思想的に通底すると思っています。
Jan 13, 2009
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きょうもまた午前中から執筆を始め、2時まで。基礎部分の制作が波に乗り出すと、・・・あるいは波に乗せようとしている時期は、私の日記はいたってつまらないものになる。仕事場にとじこもってただ黙々と筆を運んでいるだけなのだから。 いや、書きたい事はあるのだ。しかし、それはブログで公表するような類いの話ではない。 あしたは一つ大仕事があるので、今夜はもうゆっくり休むことにする。
Jan 7, 2009
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午前中から始めて午後2時まで執筆。昼食はそれまで後回し。気持に火がついてきた。このまま坦々と筆を運べば、1月中には最初の粗塗りが終わりそうだ。2月いっぱいかけて2度3度の塗を重ねて、うまくいけば3月までには完成するかもしれない。 午後4時、所用のため外出。 夜、帰宅すると、猫のサチとマスクが、何か言いたそうに長いあいだまとわりついて離れなかった。何を言いたかったのか・・・。ちょっと疲れて横になった私の胸のうえにサチがのっかって、私の顔を見ている。頭を撫でてやると、気がすんだのか他の部屋へ出ていった。
Jan 6, 2009
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きょうから仕事始めの方も多かろうと思うが、私も描初め。 今年は良い年にと祈念したやさきに、中東で愚劣なうえにも愚劣な戦火が再び炸裂した。此処では(他の場所でも同様だが)歴史が人智とはならず、ただ憎悪を掻き立てる。昨年、ローマ法皇が、イスラム教は人殺しの歴史だという意味のとんでもない発言をして国際的な物議を起した。己の非道無惨な歴史を知らぬわけでもあるまいに。ことほどさように、理性と知性なき者が、無辜(罪のない)の人々の命を殺害する。 そんなことを考えながら、そのテーマにそって以前からすこしづつ描いている作品に一筆を入れた。
Jan 5, 2009
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