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長雨の先触れはしる草の音 青穹(山田維史) 我が家のカシワバアジサイ 現在、一株に16房の花が咲いている。
May 31, 2024
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蒸し暑い。台風1号が北上し、関東地域は明日、大雨が予想されている。 さみだれの一つ晴れ間や明烏 青穹(山田維史) 紫陽花や恋の深間か濃紫(こむらさき) 庭のガクアジサイのはじめの淡いピンク色が、今は濃い紫色に変わった。 紫陽花には多くの別名がある。七変化。よひら。おたくさ。雪毬。 「あぢさい」は「厚咲」が訛ったものという説がある。あるいはまた「厚藍」から転化したとも。多くが藍色に咲くためらしいが、万葉仮名では「味狭藍(アヅサイ)」と書いた。
May 30, 2024
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日本語やその使い方が異様な乱れになっているのは今に始まったことではない。今日の朝日新聞夕刊に《神社の銅板270枚盗難 栃木の市文化財 各地で金属盗難急増》と見出しをつけた記事が載った。金属盗難が多発していることは私は知っていた。電線が盗まれたり、道路防護柵や道路標識が盗まれているようだ。貧窮のためというより、公共財を保護し維持してゆく公徳心が金のために心底から崩壊してきているのだろう。・・・ところで、冒頭に述べた言葉の問題は、神社の銅葺屋根の盗難に関わりがあるとはいえ、切り離してもよい。私が気になったのは、盗まれた神社の関係者の言葉使いである。この人は新聞取材に次のように言っている。そのまま引用すると、 「憤りしか感じない。文化財、神社という場所から盗むとはいかがなものか。地域の人が守り続けているい大切な神社から盗むなんて、本当に言葉が出ない」 私がこの言葉の何に首を傾げたのかと、このブログを読んでいられる人は思われるだろうか? 取材に応じた人の心意の誠は疑い得ない。しかしながら私は、「いかがなものか」という言葉がこんなところに使われたことにヘンな気持ちになったのだ。そんな悠長なことを言っている場合ではないでしょう、と。犯罪が行われたのですよ、公共財・文化財が破壊されたのですよ、と。この「盗むとはいかがなものか」という言葉には、「盗んだっていいじゃないですか」という返答のでてくる余地があるということ。「いかがなものか」という言葉の論理は、そのような応えを導き出すのである。・・・まさか神社の関係者だから、「盗人にも三分の理」などと仏心(神心?)で「いかがなものか」と言ったのではないでしょう。 「いかがなものか」という言葉を私たちが頻繁に耳目にするのは、日本の政治家の発言においてである。物事を判断しなければならない局面で、自己の立場を明示しないのである。「みなさん、お分りでしょう? 私の考えがわかりますよね?」近年大流行語になってしまった「忖度」を聞き手になかば強要しているのである。・・・これに対して日本の報道記者たちは追求の鉾先を納めてしまう。政治家はその時点で問題の処理があいまいなまま終了することを知りつくしている。 屋根の銅板を270枚も盗まれた件の神社関係者は、「いかがなものか」という言葉を政治家のように底意を含んで使ったのではない(と私は思う)。新聞取材に対して、政治家が使う言葉を無意識のうちにマネしたのであろう。 「いかがなものか」とか「忖度」という言葉の使われ方は、日本人の美徳とされる「おもいやり」と重なっているように私は思うのだが、どうも日本人の倫理観に揺らぎが悪きに出てきているのではないか。それを助長するかのように、日本語の異様な乱れは、TVやインターネットや、新聞・雑誌等からの悪きマネ(影響)ではないかと私は思っている。不思議なことに、正しい日本語はひろまらず、誤用やヤクザ符丁はたちまち日本全土にひろまる。しかも年齢にさほど関係がないようだ。社会の幼稚化と関係はないだろうか? 付け加えると、日本語を耳から学んだ他国の人たちが、「マジ」とか「ムズイ」とか「ヤバイ」などと言うのを聞くと、私はガッカリしてしまう。せっかく日本語を覚えてくれているのに、と。
May 29, 2024
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空爆による破壊や、虐殺、飢餓創出、そして核兵器製造やその効能実験等が繰り返されるたびに、誰が言うのかは分明にしないが、それらの行為・状況・状態について、「懸念」という言葉が繰り返されている。国内的なかんばしからぬ諸問題についての論評にも頻出する。 「懸念」とは、「気がかり」という意味。また、「心配」という意味である。・・・私は上述のごとき状況に対するこの言葉を耳目にするたびに、何か気持ちにしっくりしないものを感じる。「懸念」で片付けられることがらではないからである。なぜ多くの無辜の人にとって危急な事態を、その言葉で片付けることができるのだろう、と。いや、現に世界中で起こっている事態は、全人類にとって危急なのだ。しかしながら我々が「懸念」という言葉で片付けるのは、政治的な思惑で事態を捉えるからである。人間的な問題として捉えていないのだ。いや、人間的な問題として考えないのである。 2023年3月17日、国際刑事裁判所(ICC) はウクライナ侵攻問題をめぐる犯罪容疑でロシア大統領に対する逮捕状を出した。また、パレスチナのハマスによるイスラエル攻撃に対して、イスラエルが復讐としておこなっているパレスチナ自治区ガザ地区への攻撃をめぐり、2024年5月20日、国際刑事裁判所は人道上の著しい侵害で両者の上級幹部5人に対する逮捕状の請求をした。これらの逮捕状の請求に対して各国から賛否両論が出ている。そして、この逮捕状に実行力があるかどうかは大いに疑問があるが、少なくとも私は、前述の「懸念」にとどまっていた考えから一歩前進した新しい思想を感じ取っている。 過日、私が制作してインターネットで発信してきた戦争反対や言論の自由を訴えるポスターについて、さるジャーナリスムの関係者たちが、「ポスターからあたらしいアピール」をしているという評価をしていた。彼らの指摘は図星である。一般的にすぐには理解されないかもしれないが、国際的な大きな問題はもちろん国内社会問題にしても、各論を精緻に論じることは絶対的に必要ではあるが、一方で、各論に終始することによって「人間」の純粋存在を、しゅったいした問題の危急の埒外に置きかねない。私はそのことを諸問題に添ってアピールするのである。そして、私はそれを小さい一言とは思わなのである。私ができることはそれしかない、と思っている。 「懸念」という言葉で片付けられている事態を、どのようにイメージにしようかと思いつつ・・・。イメージはそのほとんどに二面性がある。反戦争を訴える戦争画が同時に戦意高揚を謳いあげてしまうように。Is it really okay to dismiss a global emergency as just "concern"? Every time the destruction caused by air strikes, massacres, famines, and the production and testing of nuclear weapons are repeated, the word “concern''is repeated, although it is not clear who said it, about these acts, situations, and conditions. And It also frequently appears in criticisms on various domesticissues. "Concern" means “anxiety.” It also means "worry." Every time I hear or see this word used in response to the situation described above, I feel something strange about it. This is because this is not something that can be dismissed as a "concern." I wondered why such a dangerous situation for so many innocent people could be dismissed with those words. No, what is currently happening aroundthe world is a crisis for all humanity. However, the reason we dismiss the issue with the word "concern" is because we view the situation based on political considerations. They don't see it as a human problem. No, they don't think of it as a humanproblem. On March 17, 2023, the International CriminalCourt issued an arrest warrant for the RussianPresident on suspicion of crimes related to theinvasion of Ukraine. In addition, on May 20, 2024, theInternational Criminal Court recuested arrest warrants for five senior leaders of both Hamas andIsrael for serious violations of connection with Israel'sattacks on the Gaza Strip, an Palestinian-controlled area carried out by Israel in retaliation for attacks byHamas in Israel. There have been mixed reactions from various countries to this request for arrest warrants. And while there are serious doubts as to whether this warrant will have any enforcement power, but at least I sense a new way of thinking that goes a step further from the aforementioned "concerns." The other day, a poster that I created and posted on the Internet appealing for opposition to war and freedom of speech was criticized by people involved in journalism, saying that the poster was making a "new appeal.'' They guessed it right about my works, ..My point may not be immediately understood. However, while it is absolutely necessary to discuss each issue in detail, not only on major international issues but also on domestic social issues. on the other hand, by focusing on each issue from start tofinish, we are able to reduce the pure existence of"human beings" to urgent issues. We might leave it outside. I will appeal to this point along with various issues. And I don't think that's a small word. I think that's all I can do.I was wondering how to visualize a situation that is dismissed with the word "concern"... Most imageshave a dual nature, just as war paintings that advocate anti-war sentiment also aing the praisesof fighting sprit. Tadami Yamada
May 28, 2024
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今日は市民各戸総出で年2回行われる日野市の恒例の市内一斉清掃。午前9時から10時まで。本格的な夏に入る前に街を清潔にしておこうというわけである。といっても、いつものことだが、我が町内はきれいなもの。このところ雨がつづいたので、側溝の雨水槽の汚泥を浚うだけ。私が引き受けた。それとてたいしたこともなく終了した。 小庭のガクアジサイの花色は、今年はピンクだ。カシワバアジサイの花色は変わることがない。オフホワイトである。房状の花はまだ10cmほどだが、花房の数は例年になく多い。花房はこれから15〜20cmまで大きくなるだろう。 かつて紫陽花を読んだ17拙句と追加2句 紫陽花の煙る東都の雨簾 青穹(山田維史) 紫陽花の青める雨の東都かな 紫陽花のさ青める路地や若女房 雨やみて紫陽花の青いでしかな 猫ひとり紫陽花の花まろきこと 二つ名におたくさと云う未亡人 紫陽花や色違えたる日のうつり 夕せまり降りそむ雨や七変化 パレットに紫陽花の青ためしけり 紫陽花や雨に濡れゆく石畳 紫陽花や雨沛然と暮六つ 夕かげり紫陽花の青沈みけり 走井に添いて水盛る四片(よひら)かな 驟雨来て軒の宿りや青よひら 紫陽花や斯く今生の変化かな 紫陽花や定めなき世の変化かな 紫陽花や老いて我が身は細りけり 紫陽花やつぼみ小さく軒しずく 紫陽花や東都は雨に打たれけり
May 26, 2024
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過日、柿の木が万朶の花盛りだと書いた。散る花も結構な数で、隣家の敷地にまで落ちて迷惑をかけた。そんなことが数日つづいたあと、落花はぱたりと止んだ。ところが昨日あたりから、今度は生まれたばかりのような小さな柿の実がポトリポトリと落ちだした。実の直径は1cmほどである。 この赤ちゃん柿の落下は、じつは自然の理。というより、柿本来の理(らしい)。どうやら柿は、数多く生りすぎた実を「自主的に」落とすことによって、・・・つまりそれらに栄養をとられないようにして、他の実をより大きく成熟させるのである。 「落とす実」と「残す実」とをどのように選別しているのか、私には分からない。しかも、落とすのはもうこれで充分だという限界があるような気がする。成熟した果実は、人間の側からは「食用果実」としてのみ見ているが、柿の木の側からは成熟した実を地に落として繁殖する目的がある。したがって、残す実はより良いものでなければなるまい。栄養が充分いきわたり健康に発芽できる種(たね)が内部に育っていなければなるまい。・・・落ちる豆柿は、なんらかの(もしかすると厳密な)柿の生物的原理に依っているにちがいない。 ここで私は急いで付け加えなければならない。「人間」についてである。 人間は他の生物と大きく異なるてんは、本能が破壊された生物として生存してきた。その破壊が何億年前に起こり始め、なぜ破壊が人間という生物だけに起こったのかは全く不明だ。人間という生物に共通な営巣デザインが本能として組み込まれていた形跡を、いまのところ発見できていないのである。のみならず人間の「巣」(住居)のデザインは極めて多様であり、不思議なことにその巣は、柔らかな身体を包みこむのではなく敵対するかのように硬く、優しくない。人間以外のあらゆる生物は、種に固有な営巣デザイン本能が遺伝子に組み込まれていて、それは破壊されて来なかったし変化もしていない。これは重要な点である。 性本能もまた、人間の場合は破壊されている。人間の性行動は生殖本能から完全に逸脱してい、快楽追求行動として多様化している。宗教的な性的禁欲も生物学的な性本能から逸脱した異常行動であり、実は快楽追求行動の裏返しである。正常という概念は如何なる観点からも人間の性行動には当てはまらない。すなわち性が文化になっているのである。 さて、本能を破壊されたまま生きることを余儀なくした人間は、本能にかわるものとして「文明」をうみだすことに成功した。人間と他の生物とを分ける徹底的な違いがここに生じたのである。つまり人間の心身は同時に二つの世界を生きることになる。「生物的人間」と「社会的人間」の二つである。個人個人によって、あるいはどんな社会に生きているかによって、その二つの比重は異なってくるのだが、いずれにしろ、どちらか一方にのみ生きているということは有り得ない。これもまた人間にとって重要な点である。 上述の子柿の自然落下を、その現象のみを人間の在り様に適用しようとすると、それは「優生思想」となるであろう。優生思想(Eugenic ideology) は, 生物原理ではない。人間を有用と無用とに分けた傲慢な社会思想である。しかもその有用・無用は弁別者の恣意的な認識による。この自己中心的な認識は擬似科学によって補強される。あるいは宗教によって補強される。つまり幻想が社会を覆い尽くし、優生思想が制度化されると、そこから覚醒することは非常に難しい。幻想に心身を「侵される」というのも、本能を破壊された存在である人間特有の現象である。 人間は、「生物的人間」と「社会的人間」の二つを同時に生きており、その平衡感覚こそが未来に向けて存在するために最も大事であろう。平衡感覚の支点となるのは共存共生の高度な人間愛である。 ・・・子柿の自然落下はそのことを私におしえる。 The other day, I wrote that the persimmon tree in my small garden was in full bloom. There were quite a number of flowers falling, and they even landed on the neighbor's property, causing a nuisance. After a few days of this, the flowers suddenly stopped falling. However, from around yesterday, small persimmons that looked like they had just been born started falling out. The diameter of the fruit is about 1cm. The falling of these baby persimmons is actually a natural law. Rather, it seems to be the original principle of persimmons. Apparently, persimmons “voluntarily” drop their Excess fruit…in other words, they prevent the fruit from being deprivied of nutrients, and allow the remaining fruits to grow larger and mature. I don't know how they sort out the “fruit to be dropped” and the “fruit to ripen.” Moreover, I feel like there is a limit to the persimmon tree itself, which is enough to drop. From the human perspective, the mature fruit is seen only as an edible fruit, but from the perspective of the persimmon tree, the mature fruit is dropped to the ground forthe purpose of propagation. Therefore, the fruit that remains must be of better quality. There must be seeds growing inside that are fully nourished and able to germinate healthily. ...The falling mame persimmons must depend on some kind of (perhaps exact) biological principle of persimmons. I must hasten to add here. It's about “human beings.” Humans are vastly different from other creatures. We have survived as creatures whose instincts have been destroyed. It’s unclear how many Billionstel of years ago that destruction began, and it’s also completely unclear why it happened only to humans. So far, no evidence has been found that humans have a common nest-building design built into them as an instinct. Not only that, but the designs of human "nests" (dwellings) are extremely diverse, and strangely enough, these nests are not gentle, as if they were hostile to our soft bodies rather than enveloping them. All living creatures other than humans have a species-specific nest design instinct built into their genes, which has not been destroyed or changed. This is an important point. The sexual instinct is also destroyed in humans. Human sexual behavior has completely deviatedfrom the reproductive instinct ans has diversified into pleasure-seeking behavior. Religious sexual abstinence is also an abnormal behavior thatdeviates from biological sexual instincts, and isactually the oppsite of pleasure-seeking behavior.The concept of normality does not apply to humansexual behavior in any respect. In other words, sexuality has become a culture. Now, humans who were forced to live with their instincts destroyed succeeded in creating “civilization" as a substitute for their instincts. This is where the fundamental difference that separates humans from other living things arose. In other words, the human mind and body live in two worlds at the same time. There are two types: the “biological human'' and the “social human''. The weight of the two will differ depending on the individual and the kind of society they live in, but in any case, it is impossible to live only in one or the other. This isalso an important point for humans. If we were to try to apply the above-mentioned natural fall of the persimmon to the human condition alone, it would become “eugenic thinking.'' Eugenic ideology is not a biological principle. It is an arrogant social ideology that divides humans into those who are useful and those who are useless. Moreover, its usefulness or uselessness depends on the arbitraryperception of the discriminator. This self-centered perception is reinforced by pseudoscience. Or reinforced by religion. In other words, once society is overwhelmed with illusions and eugenic ideology becomes institutionalized, it is extremely difficult to awaken from it. Having one's mind and body “invaded'' by illusions is a phenomenon unique to humans, whose instincts have been destroyed. Human beings live as “biological humans'' and “social humans'' at the same time, and a sense ofbalance is probably the most important thing in order to exist for the future. The fulcrum of a sense of balance is a high level of human love for coexistence and symbiosis....The natural fall of a persimmon teaches me this. Tadami Yamada
May 23, 2024
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近所の商店にトウモロコシが出ていたので買った。早生なのか。ずいぶん早いように思ったが、それはともかくとして、我が家では今年の初物である。茹でトウモロコシにして食した。実がしっかり入っていて、甘みもあり、うまかった。 昨日あたりからすっかり夏のような気温である。暑い! 初夏となり山路に汗のにじみける 青穹(山田維史) 初夏となり山路をゆけば汗となり 初夏となり山路に滲む玉の汗 山路ゆく額に汗の初夏となり 山路ゆく額の汗に初夏の風 世界に毎日配信される映像 夏空や爆撃の雲音もなく 夏空に爆撃の雲立ちのぼる
May 22, 2024
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咲き初める紫陽花のあお三つ四つ 青穹(山田維史) とりどりに若葉さざめく驟雨かな
May 20, 2024
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推理作家アーサー・コナンドイルのシャーロック・ホームズ・シリーズは日本にも多くの読者がいる。その第一作『緋色の研究』につづく第二作『四つの署名』の自筆原稿と、この小説が執筆される経緯を書いたコナンドイル自身の手紙を付して、来たる6月26日にニューヨークにおいてサザビーズのオークションに出品されるそうだ。CNNが報じている。 『四つの署名』が書かれる経緯は、ある夕食の席でのことだそうだ。オスカー・ワイルドと米国の雑誌「リッピンコット・マンスリー・マガジン」編集者のJ.M.ストッダートが同席していた。ストッダートの依頼でコナンドイルは『四つの署名』の執筆を約束し、ワイルドはなんと『ドリアン・グレーの肖像』の執筆を約束したのだという。まさに現代文学の奇跡的な夕食だったわけだ。 アーサー・コナンドイルの自筆原稿はほとんどが博物館の所蔵になっているそうだが、サザビーズはこのたびの『四つの署名』原稿の落札予想価格は1億9千万円だとか。 それはともかく、この自筆原稿は、編集者J.M.ストッダートがおこなったアメリカ英語へのスペル変換と、コナンドイル自身がおこなった作品微調整のためのいくつかの単語に線を引いた以外は、直しがまったく無いのだという。このことに私は興味をもったのである。 今日の朝日新聞「天声人語」が、亡くなられたばかりのカナダのノーベル賞作家アリス・マンロー氏について書いていて、短編小説の名手といわれるマンロー氏は「毎日朝から必死に書き、書くと削りに削る」のだ、とあった。 そして実はまったく偶然なのだが、今朝方、私は弟と日本の文学者の自筆原稿について話していたのだった。たとえば、私は谷崎潤一郎氏の自筆原稿を実際に見たことがあった。毛筆書きのそれは、直しの部分は実に几帳面に原稿用紙のマス目を完全に黒く塗りつぶしていた。直す以前にどんな文章だったか、あるいは語句だったか、まったく判らなかった。 三島由紀夫氏の自筆原稿も見たことがある。この作家も全くといってよいほど書き直しがない。まるで清書したかのように几帳面な文字が原稿用紙を埋めていた。ほかにも2、3の作家の原稿を見たことがある。 生原稿は見たことがないが、大江健三郎氏の小説は第一稿から完成までに二度三度と最初から書き直すことは、ご自身のエッセイなどで読者は周知のことである。大江氏は部分的に書き直しているのではないらしい。ということは、完成作以外に2、3のヴァージョンがあるということだろうが、それらのヴァージョンは作品が完成すると大江氏自身が焼却したらしい(私はそういう記述を読んだ記憶がある)。 私の長年の知己だった花輪莞爾氏は、あるとき電話をくださり、これまでの作品を削り始めていること、そして作品中の全ての漢字にルビを振るつもりだ、とおっしゃった。ルビに関しては、ご自分が幼少期に読んだ本には全ての漢字にルビが振られていたことに倣おうとしていられるらしかったが、大学で教えていて学生たちがあまりにも漢字が読めないことに愕然としていることも要因らしかった。私はいまさら初期の作品を削ることも、全漢字にルビを振ることも、おやめになったほうがよろしいと思ったが、口には出さなかった。・・・そんな話を弟としていたのである。 コナンドイルは、推理小説の名作と言われる『四つの署名』を、執筆を始める前にすっかり頭の中で作りあげていたのであろうか。推理小説というのは「論理」の小説である。執筆の過程で登場人物が勝手に動き出すことはあったにしても、論理逸脱は避けなければならないだろうから、あらかじめ結末さへしっかりできあがっていれば、あるいは一気呵成に書ききることはできたのかもしれない。・・・いやぁ、それにしても『四つの署名』の自筆原稿に直しが無いというのは、すごい! ついでながら、私は画家との交際は無いのだが、20代だった昔、秋吉巒(あきよしらん)氏のご自宅を訪問した。奥様も同席なさり、秋吉氏はご自作の絵について、一旦筆を置いたあとからまた筆を入れるのでいつまでも完成しないのだ、とおっしゃった。そういえばアンリ=ジョルジュ・クルゾー監督のドキュメンタリー映画『ミステリアス・ピカソ 天才の秘密』のなかで、ピカソがわきあがるイメージを描いては消し、描いては付け足してゆくうちに混乱におちいる場面があった。 ・・・並べて書くのはおこがましいが、私は自作の絵の描き直しはしない。描きながら発展することはもちろんあるのだが、描いた部分を途中で削ったり塗り重ねたりして描き直すことはまったくない。イメージは初めから頭の中にあるからである。そしてまた、描き直しをしないのは薄塗りを重ねてゆく絵肌のつくり方のためでもあるが・・・。これはイラストレーション原画を油絵の具で描いていたので、原稿として4X5ポジフィルムや8X10フィルムにスタジオ撮影しやすくなることを考えてのことである。つまり絵肌が平滑で凹凸がないほうが、照明をセッティングしやすいからである。
May 19, 2024
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May 18, 2024
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我家の小庭の植物の緑いろいろ ナツグミ,トサブンタン、コウゾ、シダ(ヘビノネゴザ)、ツバキ、ハコネウツギ、カタバミ、ユキノシタ、シュロ、カエデ、ドクダミ、カキ、ナンテン、チャ、クサボケ、ハサンショウ・・・まだまだいろいろあります。 ヤツデ、カシワバアジサイ、ガクアジサイ、フタリシズカ、ムサシアブミ、マンリョウ、ヤマジノホトトギス、アガパンサス、ローズマリー、ヒメジオン、ハコネシダ、オニヤブソテツ、ツユクサ、ニリンソウ、クローヴァー・・・ スキャン画像ではそれぞれの葉の微妙な緑色は出ません。しかし葉の形状のみならずどれひとつとして同じ緑色はありません。これが生来の「個性」というものです。人間もまた、そうでありましょう。
May 17, 2024
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おや、懐かしい! YouTubeにサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら (Wating for Godot)』がたくさんの劇団によっての上演動画が掲載されていた。 懐かしいと言ったのは、私が高校3年のときだった、高校生演劇祭に参加するための或る戯曲を私が演出した。出演者は二人だけ。一種の不条理演劇だった。当時、小田島雄志氏などが「不条理演劇」という概念を提唱し、ベケットやイヨネスコやピンターなどがさかんに紹介されていた。日本では別役実氏の作品などがそれであったろう。・・・私は、じつは実際の上演は一度も観たことがなかったのだが、こんな演出だろうか、それともこんな演出だろうかなどと空想し、是非自分でも不条理演劇を演出したいものだと思っていた。 そこに現れた(見つけた)のが、どことも判らない「あるところで」二人の男がくりひろげる脱出の試みの物語だった。私はむくの3寸角材で、幅5メートル x 高さ3メートルほどの枠を作り、その中にモンドリアン風な黄金比率の格子を組み、それをステージの奥のホリゾント幕の前に設置した。舞台セットはそれだけである。幕にはホリゾント・ライトでブルー(青)の明りを下から照らした。ステージ全体は陰の無いフラットライトである。二人の男は日常的な個性を削ぎ、抽象化された二つの観念として、灰色の上下のタイツを着せた。劇の中程で天から太いロープがするすると降りてくる。これは、観客からは見えない劇場機構としてステージはるか上部に張り巡らされた簀(すのこ)から、スタッフがタイミングを計りながらそろそろ下ろした。男が首をつっこむと、ロープはどんどん降りてきて、男は首を吊れないのである。・・・このロープ操作にはひどく気をつかった。不慮の事故でロープが何かにからまりでもしたなら、出演者は本当に首を吊ってしまうからだった。3,4人の天井のスタッフは緊張していた。 ・・・私の演出プランの基底にあったのが、実際の舞台は観たことがなくただ空想していたサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』だったのである。私の60年前の演出プラン、全然忘れていない! 『ゴドーを待ちながら』を観ながら思い出した。Wating for Godot at the Redlands Theatre FestivalWaiting for Godot at San Quentin Workshop, 1988
May 15, 2024
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山田維史「2024年5月14日の自画像;79歳」
May 14, 2024
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アメリカのホラー映画プロデューサー・監督のロジャー・コーマン氏が5月9日に亡くなったという。享年98。 ロジャー・コーマン氏は"The King of quickies", メイン・プログラムと抱き合わせで上映されるいわゆる「B級映画の巨匠」と言われた。プロデュース作品は300本以上になる。エドガー・アラン・ポーの小説を映画化した功績は忘れてはならないだろう。1955年の"The Day the World Ended" (AIP;アメリカン・インターナショナル・ピクチャーズ製作)は、撮影スタッフも出演俳優も少人数、上映時間60分、公開期間10日間というスケジュールであったが、ほとんど無名に近かったモンスター役の俳優も、制作会社も、ロジャー・コーマンの未来も変えてしまった。撮影に使用したセットは、すぐさま次の作品に転用された。スタッフがわずか3人だけのときもあった。しかし彼の作った映画は、ロジャー・コーマンを知らなかった若者を引きつけ、制作会社AIPは観客領域を拡大した。 もちろん彼がプロデュースし監督した作品は、現在、DVD等で観ることができる。"The Vampire" (1957, Germany)、"Hoiuse of Usher" (1963, AIP)、"Masque of the Red Death" (1964, AIP)、"DR. Goldfoot and the Bikiini Machine" (1964, AIP) ロジャー・コーマン氏を追悼します。下の画像は私がホラー映画の教科書にしている一冊。大判であるがロジャー・コーマン氏についての記述は7ページにわたる。今は無い銀座の洋書店イエナで購入した。デニス・ギッフォード著『ホラー映画図史』1973年
May 14, 2024
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弟が八総鉱山小学校の同級会があると言っていた。それでしばらく思い出話をした。 私が中学1年のときだったと憶えているが、学校が長い休暇に入ったのでしばらくぶりに帰省した。そのときに弟のクラスで父母会(父兄会)の授業参観があった。私は母と一緒に参観したのである。弟のクラス担任は佐藤宗義先生だったが、教室の後ろに立って弟の受業を見ている中学生を、佐藤先生は何と思われたか。 そんな息子を伴って授業参観する母も母だ。こういうとき、・・・つまり中学生の私も一緒に行くと言ったとき、私の母はまったく普段とかわりなく「それでは一緒に行きましょう」と応える人だ。父にしても、「そうかい、授業参観してきたかい」と言うような人であった。この親にしてこの子あり、というところか。ハハハハ。家庭生活に、目くじらを立てることなどない、ということだ。
May 13, 2024
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ベートヴェンが聴力を失い、肝臓や腎臓の病に苦しんで56歳で死んだことはよくしられている。その原因が鉛中毒が原因であった可能性があるという研究結果が発表された。CNNが報じている。ベートーヴェン(1770-1827)は生前、自分の病気について医学的な研究を望んていたらしい。その願いを叶えるかのように(死後200年も経っているが)、国際チームがベートヴェンの二束の遺髪を分析したところ、現在ならば即入院という量の鉛が検出した。さらにヒ素や水銀も検出された。 ベートーヴェンがこれらの物質を中毒になるほど何から摂取したのかは明確にしないが、数千年前からワインの甘味料・保存料として酢酸鉛が加えられていて、またグラスの透明度をあげるために鉛ガラスが使用されていたので、ワイン好きだったベートーヴェンは数十年の間に体内に蓄積された可能性があるという。 ・・・それにしてもである。当時の人たちの中にベートヴェン以外の症例は残っていないのだろうか? ベートーヴェンが自らの意思で髪の毛を遺していたというのが、現在の研究につながっていることはあるにしろ。死に際して遺髪を親しい人に贈るというのは、当時の一般的な習慣だったともいう。もし、ほかにも遺髪が存在するなら、ベートーヴェンの遺髪分析を例外的な研究にせずにすむのではなかろうか。著名人については一般受けはするだろうが、どうせなら時代の病跡まで研究がすすめられることを私は期待する。CNN「ベートーヴェンは鉛中毒だったか」
May 12, 2024
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四迷忌や苔むす墓碑に今日の雨 青穹(山田維史) 四迷忌や机に古書を開きけり 四迷忌や机に開く明治の書 二葉亭四迷(1864-1904)は憧れのロシアへ派遣員として赴任した帰国途上、インド洋の船中で死去。シンガポールに埋葬された。享年48。 四迷忌やいまのロシアは侵略者 四迷忌やいずこも戦(いくさ)不意の死よ 四迷忌や其面影も遠くなり
May 10, 2024
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連休前に終了した家の補修工事だが、今日の午後、職人が自らの仕事の出来上がり具合を再確認に来た。こういう心がけは、私の気にいるところだ。バカな政治家や官僚がノサバッている日本だ、「公僕」が主人である国民をナメきっているのだろう。職人諸氏の爪の垢でも煎じて飲むがいい。 私はシュワルツ・ネッガー氏の次の言葉を思い出す。 「われわれが選んだ議員から今まさに必要なことは、公共のために仕える彼らの公僕の心。自分たちの権力や自分たちの政党のためよりももっと大きな事柄に仕える公僕を、われわれは必要としているのだ。われわれが必要な公僕は、高い理想をもった人物であり、その理想はこの国が他国から見上げられるようなことでなければならない」
May 9, 2024
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柿の花盛りである。といってもたいへん地味な花なので、万朶の花も目立たない。小さな緑色の「壺」のようだ。 じつは昨日あたりから落花し始めている。朝の庭掃除に数百個の小さな壺を掃き集めた。今朝も同様である。掃いても掃いても落下する。これで実がなるのかいな、と枝を見上げる。 隣家の敷地にまで落ちている。夫人が掃除しているので、私は「申し訳ございません」と謝った。「気にしないでください」とおっしゃりながら、「去年は駄目だったようですけど、今年はすごい花ですね」と、夫人も我が家の柿の木を見上げた。 実際、ごっそりかたまって花が付いているのである。「はたしてこれがすべて実になりますかどうか」「楽しみですわね」「ははは、楽しみにいたします」 それはそれとして、花のほとんど無い我が家の小庭は、そのかわりのように様々な色合いの緑にあふれている。植物それぞれに固有の緑色をもっている。種が違えば、どれひとつとして同一の色合いは無い。今日は雨が降っているが、いつかそれぞれの葉を取って、スキャンしてみようか。パレットの緑の良い参考色になりそうだ。
May 8, 2024
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ほぼ一日中、図像研究のための資料整理。ある一つのテーマでUSBメモリーに記録した画像は約2,450点。もちろんその一点一点に正確な説明書を付してある。なかなか大変な作業で、目も疲れるが、じつは楽しく、時間を忘れる。
May 7, 2024
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ミケランジェロのソネット【イタリア語;原詩】Spirto ben nato, in cu'si specchia e vede nelle tuo belle membra oneste e care quante natura e 'I ciel tra no'può fare,quand'a null'altra suo bell'opra cede: spirto leggiadro, in cui si spera e crede dentro, com di fuor nel viso appare, amor,pietà, mercé,cose si rare,che ma' furn'in beltà con tanta fede:I'amor mi prende e la belta mi lega; la pietà, la mercé con dolci sguardi ferma speranz'al cor par che ne doni. Qual uso o qual governo al mondo niega, qual crudeltà per tempo o qual più tardi,c'a si bell'opra morte non perdoni?良き生来の精神、その公平さに反映する美しい肢体、貞淑で貴重なもの私たちを通して自然と天が作るかぎり、その美しい作品に代わるものなどないときに:希望と信念を抱く優雅な精神顔の外側に現れるのと同じように、内側にも愛、哀れみ、慈しみ、貴重なもの、これほどの美はかつてなかった:愛が私をとらえ、美に結びつける憐れみ、優しい視線の慈悲確固たる希望が心に宿るようだ。世界に対する規則や慣用を否定するもの、時を経て後の機会に起こった残虐な行為すばらしい作品に対して死は容赦しないのか?(日本語訳:山田維史) 下の画像は、ミケランジェロのソネットと戯画が書かれている、1510年頃のものと推測されている紙葉。戯画は天井画を描いているところか? ただしここに書かれているソネットは、私が翻訳した上掲の詩ではありません。 (フロレンスのカーサ・ブオナロッティ蔵;Casa Buonarroti, Florence)
May 6, 2024
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Arts by Tadami Yamada 姿を消した子どもの移民 CNN
May 5, 2024
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連休前に家の第二期補修工事も終わり、今日は久しぶりに外出。といっても特殊な紙を購入するのが主な目的だが、園芸用の如雨露を買ったり、菓子屋によって柏餅を買い、菖蒲湯のための菖蒲を買ったり、なんだかんだと4時間も街中をうろうろしていた。 めずらしく本屋へは寄らずだ。ちょっと欲しい本がある。オックスフォード大学出版の刊行で、日本円で一冊16,00円くらいする。円安のためだろうか? この本のために、とりあえず余計な本の購入は止めて、倹約、倹約。
May 4, 2024
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山田維史
May 3, 2024
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ああ五月一日は雨である。 さみだれや散る花あれば咲く花も 青穹(山田維史) さみだれや友の葉書の濡れてあり 五月雨の音も緑にけむりけり 五月雨や若葉打つ音さまざまに
May 1, 2024
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