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先週の金曜日、ちょっとした力仕事をした。コンクリート・ブロックを一パレット分、30mほど移動、手で一個ずつ運んだ。そので空きになったパレットを50m程別の場所に持っていきタイルの置き場にした。タイルのケースを50個ほど、これはネコ(1輪車)で運んだ。2時間くらいの作業だった。 若い頃は次の日に筋肉痛になった。年とともに2日遅れ、3日遅れとなる。今回は火曜日に腰が痛んだ。4日遅れである。普段だとコシイタ(腰痛・ヨウツウ・という言葉はどうもしっくりとこない)は半日で終わるのだが、今回は水曜の朝、もっと酷くなっていた。仕事場に立って30分もすると、激痛で我慢が出来なくなる。同僚に話して、少し休ませてもらった。少しどころか1時間。30分立って、1時間休むを繰り返した。 帰りも駅から自宅まで15分足らずの距離なのだが、約40分かかった。痛みは痛風で慣れているのだが、この7年発作は起こっていない(薬を服用) 今日は整形外科・いつも膝の治療で行っているところ・に行き、「腰もお願いします」と。レントゲンを撮った。私の腰骨は6つだそうだ。普通は5個。肋骨がはえている骨が12+5で17というのが普通で、11+6というのが私らしい。一個多い分だけ腰痛になりやすいという。「今回治ってもまた起こりますよね」と若い医者はハッキリと言う。 散髪に行った。椅子に座ると腰に激痛。我慢していると理髪師さんが不思議な顔をする。そこで腰が痛いというこちらの事情を話した。自分のせいでないことが分かった理髪師さんは安心してかにこやかになった。 自宅に帰って寝る。 やっと椅子に座っても痛くない状態になった。
2005.04.28
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大惨事である。JR西日本の事故の遠因に国鉄の民営化・JRになったことではないかと思う。関西圏は私鉄が発達していて、国鉄ははじめから営業努力をしなかった。沿線住民の足で充分、いや、その足で無かったかも知れない。しかし、民営化・JR西日本になって、私鉄と競争しはじめた。今では私鉄を追い抜いたという人もいる。 先週の週刊新潮に、郵政民営化圧力で、郵便局内の職場環境が厳しくなり、自殺者まで出ているという記事がでていた。生ぬるい官営から厳しい民営、という見方は一面的でもっと、人間味のある改革が出来ないか?という趣旨の記事だった。 この記事を読んで思い当たる節があった。私の職業は警備員で工事現場のゲートに立つ事が多いのだが、1日に何回も郵便配達の人たちを見かける。みな、バイクに乗っている人たちで、やたら、スピードを出している。もう、2年前になるが、交通法規にウルサイ同僚がいた。彼は交通法規だけでなく、細細とした日常全てにウルサイのだが、郵便配達員のバイク暴走を郵便局に抗議の電話をかけるんだと憤った。 その時は、現場近くに住む人で郵便局長と親しい人がいてその人を通じて、穏便に注意をしてもらった。 この記事を読むと、そういう穏便でも、露骨にでも、忠告に耳をかさない体質になっているようだ。安全あっての仕事は鉄道も郵便も同じだと思う。 もう一度、安全面での検討をして欲しいものだ。
2005.04.26
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鉄道王・ハリマンは日露戦争の時に、日本の戦時公債を一人で1000万円引き受けた。ポーツマス条約締結後、一億円の財政援助を約束している。条件として、日本がロシアから手に入れた満鉄の共同経営だった。井上馨も渋沢栄一もこの提案には乗り気だった。 しかし、小村寿太郎の反対でこの案は消え去った。当時のルーズベルト大統領が反対だったこともある。 だが、満州進出のアメリカの野望は残った。それが、第二次大戦の遠因になっている。 このハリマンはチャーチルと一緒にスターリンにあっている。英米の援助が北海からはドイツの攻撃で失敗したので、イランから鉄道でソ連に膨大な援助をした。その段取りをしたのがハリマンだった。 ハリマンの野望から20世紀の歴史を見直すとまた、違った風景が見えるかも知れない。
2005.04.25
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なかなか本が読みきれなくて困っている。黄文雄さんの『日本の植民地の真実』はまだ1/3くらいで、興味深い指摘が多々あって、読み通すのに、何年かかるかという感じだ。 高山正之さんの『世界は腹黒い』は週刊新潮に連載していた分の3年分だから、約160のコラムが収録されている。この本も次から次と面白いテーマを示唆してくれる。 松山幸雄さんの『自由と節度』は、読み始めたばかりだが、朝日新聞の内実が詳しく書かれている。 ハリソン・E・ソールズベリーの『独ソ戦』は一度通読したが、読み返してみると、これも興味深い情報満載だ。 高山さんの本に東ティモールのことでデタラメを書いたと非難されている後藤乾一早大教授の著書を持っている。『火の海の墓標』時事通信社・1977/3/25発行でまとまった本としては後藤さんの最初の出版のようだ。戦前インドネシアで新聞記者をしていた日本人が独立戦争に参加したドキュメントなのだが、読みごたえのある本である。こういうまじめな研究者がデタラメなことを言うのか俄かには信じがたい。 歴史の面白さは違った、あるいは、全く正反対の情報が同時に存在していることである。それらを付け合わしていくと、また、違った情景が見えてくる。こういう訓練をしていると現在の世の中の動きも違ってみえてくるから面白いものである。 かつて、ニクソンが突如、北京を訪問した。日本の政府・外務省はあわてた。台湾・中華民国派が多数派だったそうだ。そして、田中角栄の訪中・中共承認となった。当時、ニクソンは日本の頭越しで中国へ行ったと日本人は思ったようだが、あるジャーナリストは、ソ連の頭越しで中国にいったのであって、日本のことは眼中になかったと分析していた。 これと同じ事が今、起こっているのではないだろうか? 韓国で。 韓国の頭越しで小泉が金正日と会った。ノムヒョンの行動は昔の日本があわてて、中国を承認したのと似ている。 歴史、歴史というが、松本清張の昭和史などは、歴史学というよりも精神病理学の研究対象のように思う。隣国の歴史認識は精神鑑定・精神病理学で、対応した方がいいと思う。 ある妄想体質をもった真面目な研究家であればあるほど、妄想と現実の境目がわからなくなっているのかも知れない。
2005.04.24
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「あらキチガイやで!」と放送禁止用語を連発した塩爺に拍手する人は多い。いろいろな事情があるのだろうが、あの騒がしい近隣のおばさんの姿に韓国や中国の最近のデモ騒動を重ねている人も多いと思う。お金持ちは直引っ越し出来たけど、家を売らなければ引っ越しできない人々は、買い手が付かない家に我慢して住まざるを得ない。 外交問題を含めて、騒がしい近隣とどう付き合うか? 頭の痛い事である。 私が韓国に関心を持つ切っ掛けになった新聞記事があった。1960年(昭和35年)頃の毎日新聞に広田洋二(当時、論説委員だったと思う)の署名入りの特集だった。「イギリスの戦略研究所の見解」の紹介で、日本がアジアでリーダー・シップを発揮するにはパートナーが必要で、教育レベルからいって韓国が最適だろうという趣旨だった。 韓国では学生革命で李承晩・反日政権が倒れ、日本国内は日米安保改定で大揺れの最中だったが、「イギリスは長いスタンスで外交を考えているなー」と感心したものだった。 そのイギリスに植民地支配のための基本原則があった。「支配地域に紛争の種を蒔く」ということである。江戸時代、日韓関係は良好だったが、明治に入ってギクシャクしだす。その当時、日本外交に一番影響力のあったのは英国である。 日韓関係をこじらせ、日中関係にひびを入れる。これが英国極東政策の基本原則と考えていい。 今回の韓国や中国の反日騒動に英国の影はない。しかし、過去に仕掛けた英国式時限爆弾が炸裂していると考えた方がいい。「イギリスは腹黒い」そのイギリスの手先として韓国人や中国人がいると思うと見えてくる世界がある。 明治維新以来、日本が戦ってきた日清、日露、日本がやらなければ、英清戦争、英露戦争になっていたかも知れない。云わば、日本が英国の手先となって、英国の代行でアジア支配をやっていたと見る事も出来る。 その手先から独立した日本に今度は中国を使って、日本を牽制する。日本が弱くなれば日本を支援して立ち直らせ、強くなりすぎると近隣を使って押さえ込む。
2005.04.24
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アウン・サン・スー・チーの父、アウン・サンを暗殺した黒幕ウ・ソーを処刑したのは英国である。そして、娘スー・チーを引き取って育て、成人した彼女を民主化運動の象徴としてビルマ・ミャンマーに送り返した。 腹黒い策士・野望家ウ・ソーは、1941年当時、英自治領ビルマの首相をしていた。彼はロンドンにチャーチルを訪ね、「英国のためにビルマ兵を戦場に送ります。その代わりに戦後にビルマの独立を認めて欲しい」と要望した。しかし、チャーチルからは拒絶される。 ウ・ソーはめげずに、大西洋を渡り、民族自決をうたう「大西洋憲章」を書いたルーズベルト米大統領に面会を求めた。しかし、3週間待っても会ってくれなかった。彼は帰途についた。西海岸からハワイ経由でマニラに行く予定だった。12月7日、ホノルルのホテルに居た。異様な轟音が聞こえた。窓の外には日本軍の無数の戦闘機が来襲していた。 大晦日、ポルトガル・リスボンの日本大使館に一人の来訪者があった。ウ・ソーである。日本がビルマの独立を認めてくれるなら日本に協力するという。1942/1/1ビルマ首相訪問の公電が暗号化されて、リスボンから東京に送られた。 ウ・ソーはレバノン経由でベイルートに着いた時、英軍の情報将校に逮捕されて、終戦までナイロビの監獄に留め置かれた。 ウ・ソーの裏切りは直にアメリカが知った。日本の暗号を全て解読していたのである。そして、英国に知らされ、スピード逮捕となった。英国はこの裏切り・ウ・ソーを直には処刑しなかった。一仕事させてからであった。 英国は日本に戦闘で負けた。彼等が誇る戦艦プリンス・オブ・ウェールズは日本軍の手で早々と轟沈させられた。シンガポールは日本軍の自転車部隊の速攻で落ちた。イギリスの威信はことごとく日本の手で葬りさられた。 ビルマは若きアウン・サンという指導者のもと、立派な新興国家になっていた。釈放されたウ・ソーに行き場所がなかった。英国は失意のウ・ソーに「彼が希望する」一台のジープと何丁かの軽機関銃を渡した。 アウン・サンは日本軍に協力していたが、日本の敗戦が濃厚になったとき、英国側に寝返り、日本軍を攻撃した。英国はアウン・サンを信用出来なかった。その始末をウ・ソーに押し付け、そのウ・ソーを英雄アウン・サン暗殺の首謀者として処刑し、腹黒策士・野望家の烙印を押した。 ビルマ・ミャンマーの軍事政権はこのウ・ソーの怨念を引きずっている。
2005.04.23
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高山正之著『世界は腹黒い』<日本人の忘れ物 今度は台湾の植民地になろう 2000・7・1>に「台湾には、よく知られる『黄文雄』氏が二人いる」とあった。 テロリストの黄文雄は陳水扁政権の国策顧問である。もう、一人は私がよく引用している拓殖大学客員教授である。
2005.04.22
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今年は「日本におけるドイツ年」とか。4/3にはケーラー独大統領がドイツ年オープニング式典に出席する為に来日。4/4には、大統領夫妻と皇太子夫妻、東宮御所で昼食。4/6、大統領夫妻帰国。4/12午前8時・ドイツ公共ラジオ放送『ARD』でARDラジオ東京支局長、マルティン・フィリッツ氏の話として「雅子さまに自殺の危機があった」と報じた。同日、独通信社『DPA』が配信。4/13『南ドイツ新聞』『Die Welt』夕方5時15分ARDテレビ『ブリザント~王室~』でフィリッツ支局長のインタビューを放映。 このフィリッツ氏、雅子さまの半生記『Prinzessin Masako Der gefangene Schmetterling(皇女雅子 捕らわれた蝶)』を書いていて、ドイツでは出版されて本屋に並んでいる。 「エリーザベト」というウィーン・ミュージカルがある。 バイエルンの王家の娘としてのびのびと育ったヒロインのエリーザベトは、ハプスブルグ帝国の皇太子フランツ・ヨーゼフに見初められて、皇妃に迎えられた。 皇妃には宮廷のしきたりに従う事を厳しく求める皇太后ゾフィーがいました。宮廷の人々は若い皇妃の自由を奪い、伝統的な皇妃の型にはめ込もうとしました。男子出産の対して向けられた大きな期待も、皇妃にとって重圧となり、こうした宮廷生活が息苦しくなり、耐えがたく、絶望し、いったんは死のうかとも思い詰めました。 しかし、ぎりぎりのところで思い直し、自分の生き方を果敢に貫こうと決意しました。ミュージカルですからその決意を歌います。「Ihe gehor nur mir」 NHKラジオ・ドイツ語講座(4/1)で、この歌が放送されていました。12年程前に作られたミュージカルで別に日本の雅子妃を念頭において作られたわけではありませんが、よく似た環境で同じような状況だったのでしょう。 ARD東京支局のフィリッツさん、このミュージカルによる思い込みがあったのではないのかなーと思ってしまいました。
2005.04.21
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イラク戦争、アメリカの本当の目的はサウジにあるようだ。サウジの革命保険と言う事か。9・11、テロ実行犯19人の内、15人がサウジ出身で、親玉のビンラーディンもサウジ出身である。彼等の資金源は駐米サウジ大使夫人が有力だそうだ。 アメリカは9・11の見舞金、サウジ・アブドラ皇太子からのものを拒絶している。次期国王になるこのアブドラ皇太子、民族派でサダムやアサドとも仲がいい。イラクを叩いておかないと反米の国がサウジ・イラク・シリアと出来る事になる。それが石油埋蔵量世界で1位と2位の国が反米で連結することになる。早めに手を打とうということらしい。(ここまで世界腹黒評論家・高山正之先生の説) そのアメリカにイギリスと日本が一緒に参戦している。イギリスはクェートの利権確保が明白だが、日本の場合、何処の利権を確保しにいったのだろうか。私の推論だが、イランの日本権益をアメリカやイギリスに認めさせたのだと思う。最初、ロシアの軍輸送機が日本の物資を運んでいた。裏ではロシアが絡んでいても不思議ではない。 外務省OBの松永プランなのだろうか。武見さんがその松永プランを実行しているのだが、現小泉政権との関係は今一はっきりしない。 外務省のワインの飲みすぎなのか、肝心なことに煙幕が張られている。
2005.04.20
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迫水さんは大蔵省の役人である。岳父の岡田総理が辞職した後は大蔵省にもどった。革新官僚として統制経済の要となった。そして、また、首相官邸で仕事をする事となった。 昭和20年4月5日の夜、海軍大将、枢密院議長鈴木貫太郎男爵に小磯内閣の後継として、内閣組織の大命がくだった。迫水さんはこの鈴木内閣の内閣書記官長(いまの内閣官房長官)になった。岳父の岡田大将の強い希望だった。 この内閣の使命は戦争を終わらせる事だったが、最後まで「一億玉砕」を主張する陸軍を騙さなければならなかった。2・26事件の時に官邸を襲撃した司令官・栗原中尉を騙したように、今度は帝国陸軍を騙すことになるのである。 2・26事件で九死に一生を得た鈴木貫太郎と、また、襲撃されたが無傷で生還した岡田啓介が組んで、戦争を終わらせる働きをするのだった。その要が迫水久常であった。 この迫水さんの本を読んで、旧日本軍に統制派と皇軍派という派閥が生じた理由とその実態がよく理解できた。今までいろいろな人の書いた昭和10年前後の軍隊の事情を読んだが、今一ピンと来なかった。それまでの長州閥、薩摩閥とどう違うのか? 軍縮条約を受け入れる軍人→統制派。軍縮条約無視、実力で皇威を輝かす→皇道派。 東条は統制派だったが、皇道派にも受けがよかった。当時の軍人をこの二派で色分けするのは難しい。ほとんど全ての軍人が、理性においては統制派であっても、心意気・感情は皇道派でなかったのか。 この皇道派が515事件、226事件を起こし、統制派を引きずって行った。 自分達の置かれている状況をどれだけ、客観視出来るか。 第二次大戦は日本人にとって莫大な授業料を払った学習であった。そこでの体験を何度も復習して、教訓とすべきである。
2005.04.19
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前夜、総選挙勝利の祝賀会があった。総理秘書官の福田耕が福井で出馬当選した。この選挙の勝利で岡田内閣が国民から信任を受けたことを意味した。福田秘書官の応援に岡田の義弟・松尾陸軍大佐が福井に行き、前夜、官邸に戻って来た。無給の内閣嘱託で岡田を補佐していた。61歳。 迫水は岡田の二女と結婚している。岡田の娘婿である。秘書官の官舎は官邸裏門を出てすぐのところにある。官邸の異常に気づいた迫水は直に警視庁・特別警備隊に電話で連絡した。「ただいま、首相官邸の非常ベルが鳴ったので既に一小隊出発しました。後続部隊すぐに出発します」という返事。 何時、暴徒が乱入するかもしれない社会状況だった。その対策として常駐の官邸警備、また、警視庁には特別警備隊が待機していた。新選組と呼ばれていた。警察でダメなら麻布の連隊が出動する手はずだった。 迫水は軍隊の組織的な侵入だとは思わなかった。兵隊がやってきたときも、流石は軍隊、警察よりも早くやって来たと思ったが、反乱軍だった。緊急に出動予定の麻布の連帯がその反乱に加わっていた。 迫水の従弟(母の妹の息子)に丹生誠忠中尉がいた。陸軍省、陸軍大臣官邸の襲撃の指揮をとった。この丹生が26日の午後、迫水宅に電話をしてきた。「万亀子(迫水の妻)さん、ずいぶん驚いたでしょう。しかし、もうこれ以上なにもおこりませんから安心してください。お父さんには、ほんとうに申し訳ないと思います」「あなたいまどこにいるの」「陸軍省にいる」迫水の妻はまさか彼が反乱軍にいるとは思わなかった。早く反乱軍を追っ払ってくれと彼に頼んだそうだ。 28日、岡田は参内した。その夜、迫水に「丹生が反乱軍のなかにいるんだな」「どうも申し訳のないことです」「懲戒免官が発令されてしまっては仕方がない」 7月、この丹生の死刑が決まった。迫水は代々木陸軍刑務所に面会に行った。「岡田の伯父さんが生きておられたことをずっとあとできいて、私はホッとしました。冥土の旅への道への隔たりが一つ減った感じです。どうぞ長生きしてくださるように伝えてください」 この時、官邸襲撃の指揮をとった栗原中尉にも面会している。「迫水秘書官、私はあなたにほんとうに見事にだまされました。このことをあなたに申し上げたいと思っていました。はじめ総理生存のことをきいたときは、あなたのことを思い出してある感じを禁じ得ませんでしたが、いまでは罪が一つでも少なかったことを喜んでいます」 この栗原から事件当日、福田と迫水は岡田総理の遺体を見せられて、首実検させられている。その遺体が岡田ではなく、松尾大佐であったのだが、岡田のものとウソをつき通した。そして、岡田の生存を確認して、迫水は次の行動に出たのだった。
2005.04.18
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迫水さんは総理秘書官だった。2・26事件の朝、銃弾の音で目が覚めた。岡田首相即死という報道がなされたが、実際は人違いだった。首相の義弟・松尾伝蔵陸軍大佐が前夜、福井から帰ってきていた。それを反乱軍が間違えて殺傷した。 迫水さんは首実検させられたが、岡田本人であるとウソをついた。首相は女中の部屋の押入れに隠れていた。サクと絹という二人の女中が襖を背に守っていた。迫水さんがこの二人に「けがはなかったか」と聞くと「おけがはありません」と応えた。首相の生存を確信した。 生きている岡田首相を反乱軍に気づかれずにどう脱出させるかが、迫水さんの課題となった。 岡田自身の証言がある。反乱軍の兵隊に気づかれたが、彼等の判断で上官に報告せず無事であったとの事だ。寝ていて大きないびきをかき、それをごまかすのに女中は苦労したようだ。 日本人の起こしたクーデタのドキュメント・実況中継は不思議な人々の登場で俄かに信じがたい。日本人である私がそうなのだから外国人には理解しがたいだろう。ルース・ベネディクトが『菊と刀』のなかで、「忠実な兵士が反乱を起こす?」と不思議がっていたが、この不思議な集団が日本を戦争へと引っ張っていったのである。 後日、「ドキュメント/2・26事件 迫水久常の証言」として詳しくレポートします。 迫水さんは選挙ポスターで知るだけだった。参議院議員だったと思う。誠実な顔であった。終戦の時に官邸で活躍したとは何かの本で読んだが、2・26事件のことはこの本で初めて知った。 日本人研究には必読の書だと思う。
2005.04.17
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30年程前だが、「カレント」という月刊情報誌を定期購読していた。賀屋興宣さんが出していた小冊子で新聞記者が自分の新聞に書けないことを書いていた。たとえば、サンケイの記者が「沖縄返還の目的の中にアメリカが中国に向けていた核弾頭を外す」という。今だと誰でもが言える事が当時は難しかった。 右の雑誌だが、その中に「朝日にもまともな記者がいる。松山幸雄だ」という情報である。しばらくして『日本診断』とか『「勉縮」のすすめ』という著書が出た。中野サンプラザで講演会があり、聞きに行ったこともあった。 昭和天皇にご進講したこともあり、「全体主義に勝てるのか?」という質問を天皇から受けて、返答に困ったという話をしていた。 賀屋さんが亡くなり、後を継ぐ人がいたが、「カレント」の購読はしばらくして止めてしまった。 この松山さんの本を読んでいて思う事はジャーナリストの予見は外れる方が正常であるという事である。予想・予見・予言はオカルト的なもので、まぐれ当りと思った方がいい。限られた情報を収集・分析して予測しても、現実は想定外が常に出現する、この想定外に対応するのは政治家の仕事であって、ジャーナリストの仕事ではない。 第四権力と自惚れるなというのが松山さんの一貫した主張である。 この本の帯に筑紫哲也がコメントをしている。・・・この道に入って以来、私にとって松山さんは自分もそうなれたらと仰ぎ見る「役割(ロール)モデル」だった。没個性になりがちなこの国のジャーナリズムのなかで、ひときわ光彩を放つ身近な先輩だった。学識・経験の深さ。洞察力。むずかしいこともやさしく、おもしろく読ませる達意の文章。どれをとってもついに私はお手本に追い付けなかった。それを最終的にお思い知らされるのが、この「回想録」である・・・ 筑紫さん、本気でこう思っているなら、見込みあるかも知れないけど、人生先短いからね、お互い!
2005.04.17
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週刊新潮を買うのはこの高山さんのコラムを読むためだった。他にくだらない記事があっても、このコラムでおつりが来る。早く一冊の本にならないかと思っていたのだが、古本で1000円引き、800円で手に入った。週刊新潮の読者サービスかな? 一つの話でも「頭に来る」のに3つも読むと発狂寸前になる。しかし、考えてみると高山さん、淡々と語る、よほど精神修養の出来た方とお見受けする。 今もABCD包囲網で日本はがんじがらめの様だ。何処で、こんな風になってしまったのだろうか? 問題は外国と呼応して日本人の中に外国人の仲間が居る事だ。その日本人を攻撃すれば仲間割れと外国から指摘されて、それこそ腹黒い外国人を喜ばせる事になる。 人を攻撃する前に、自分の中で情報・意見を整理する事だと思う。そういう観点でこの「楽天日記」は私にとって、よきパートナーとなっている。自分の頭の中だけでは出来ない事をいろいろな人たちから刺激を受けながら、勉強できる。 朝生で大谷明宏さんが「インターネットなんて、電話の出現に較べればチャチなものですよ」と発言していたそうだ(週刊文春・清野徹のTV語録) この発言で大谷さん、インターネット、やってない事が分かる。1年3か月、楽天日記を書いてきて言えることは、インターネットは電話の延長線上のもので、大枠では電話と言っていい。 電話に録音機のつき、FAXが出来た。テレックスもあった。ワープロが出来て、こうしてインターネットで自分個人のページが出来て、自分の頭の中の一部を公開できる。それに対して不特定多数の人たちから、コメントをもらって、自分の情報・意見を鍛えていくことが出来る。 インターネットとは多機能電話である。大谷さんの指摘は正しい。チャチが問題なのである。「チャチな問題」のコミュニケーションが出来ずに困っているのである。その「チャチな事」を毎日、日記に書く事で、その問題点を発見出来るのである。
2005.04.17
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仕事の帰り、白楽まで足をのばした。定番の蕎麦屋による。次に銭湯。しかし、休み。金曜日休みだというのを忘れていた。次に古本屋。3冊を買う。迫水久常『機関銃下の首相官邸 2・26事件から終戦まで』恒文社・1964/8/15 \1,000松山幸雄『自由と節度 ジャーナリストの見てきたアメリカと日本』岩波書店・2001/12/12 \1,000高山正之『世界は腹黒い 異見自在』高木書房・2004/11/9 \800
2005.04.16
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ハリソン・E・ソールズベリー『独ソ戦』早川書房・1980/11/15発行著者:1908年生。1944年UP通信モスクワ支局長。数千キロの戦線で赤軍を取材。1949年ニューヨーク・タイムズのモスクワ特派員以後5年。スターリン政権末期とフルシチョフ政権初期を取材。1955年ピュリッツァー賞。主な著書『ロシアのアメリカ人』『モスクワ日記ースターリンの最後』『中ソ戦争』『黒い夜、白い雪』『攻防900日ー包囲されたレニングラード』『ロシア革命1905~1907』『北パルミラ事件』など。 スターリンは疑念の人である。・ボルシェヴィキ革命当時(1918~1920)、英国反ソ政策・その中心人物がチャーチル。・英国首相チェンバレンがヒトラーの軍事強化を許した。・1939年8月の独ソ不可侵条約でヒトラーが第二次大戦を開始とは考えない 英/仏が協力してヒトラーをロシアにけしかけた。・・スターリンは英国からの提携要請を拒否・フィンランドに英国が義勇軍を送ろうとした。・「ヒトラーがソヴィエト攻撃準備」という情報、1941年春・英国がソ連に提供。不信。・1942年になっても英国・チャーチルを疑う。・チャーチルがソヴィエトに援助を約束。チャーチルの本音。イギリスの発言力を伸ばす。ロシアに犠牲をしいて勝たせる・戦後の発言力を牽制。・1942年春スターリンの願望。連合軍のヨーロッパ第二戦線(上陸作戦)しかし、日本が米英に与えた損失で動けず。・モロトフ外相、ロンドン・ワシントンへ。ローズヴェルト1942年に賛成、チャーチル1943年まで無理(英国軍出動・英国民反対)。しかし、モロトフ米英に第二戦線を約束させる。・モロトフ、クレムリンに帰り着く前にチャーチル、北アフリカに上陸をルーズヴェルトに承諾させる。・アメリカの援助物資は英国経由でなされたが、輸送路に問題があった。ノルウェー沖を通るのだがドイツ海軍の標的となった。・ドイツ軍1942年6月大輸送計画を察知。戦艦ティルピッツ、ポケット戦艦(1万トン)シェール、リュッツォー、ヒッパー、駆逐艦11隻、大魚雷艇3隻。爆撃機、偵察機、Uボート。・英・米・ソ三国の輸送船34隻、救助船3隻。15万7000トンの戦車、飛行機、軍事物資。1942/6/27アイスランド東方の集合点を出航。護衛:駆逐艦6隻、護送用コルヴェット艦4隻、掃海艇3隻、トロール船4隻、対空射撃艦2隻、潜水艦2隻。巡洋艦4隻。ノース・ケープ沖にソ連艦4隻、潜水艦13隻。・7/2ドイツ海軍、輸送船団を発見。独・駆逐艦3隻、戦艦1隻暗礁に座礁。・7/3輸送船団損失ナシ。・7/4空襲で船3隻撃沈。1隻大破。同・夜9時、船団に分散指令。これにより独軍に撃破、23隻撃沈。無事入港は輸送船11隻、救助船2隻。(この輸送作戦の是非、英国海軍史家の間で論争)・輸送作戦中止、7/18スターリンに通知。「1943年に第二戦線を構成」チャーチルは2つの約束(輸送・上陸作戦)を破る。・1942/8/12 チャーチル、モスクワへ。スターリンと毒舌の応酬。米人ハリマン(鉄道人)が同行。・ハリマン、イラン・ペルシャ経由の輸送計画立てる。6000トン/1日。1943/5までに1万トン/1日。鉄道とトラックで。・連合軍のソヴィエト援助1942 約170万トン(内・米国120万トン)1943 410万トン(内・食料200万トン)・1941/6/22~1944/4/30の間に援助した明細。・米国:飛行機6430機、戦車3734台、艦艇112隻、トラック・自動車20万台、対空高射砲3000門、高オクタン価航空燃料47万6000トン、アルミニューム10万トン、銅18万4000トン、亜鉛4万2000トン、鉄鋼120万トン、機具2万、野戦用電話24万5000、軍靴550万足。・英国:飛行機5800機、銅3万3000トン、戦車4292台、ゴム10万3100トン、機具6000。・戦争が終わるまで米国:1500万トン以上の物資、トラック42万7000台、軍用車1万3000台、ガソリン・潤滑油267万トン、食料447万8000トン、その他巨大な量の鉄道資材。・ソヴィエト統計:戦争中に生産した戦車約10万台、飛行機12万機、砲36万門、機関銃120万丁。小銃900万丁。(もしソヴィエトの統計に水増しがなければ、米英でソヴィエトの重装備・戦車/飛行機の約15%を供給)ローズヴェルト、チャーチル、スターリン この3人が引いた路線の上を21世紀を生きる今、我々も歩んでいる。
2005.04.15
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週刊新潮・永田町のブラックホール「郵政民営化」どうやら、政局がらみになってきたという説。スポーツ新聞に桝添さんのコラムがあるが、そこにもポスト小泉の動きがほのめかされていた。・「狂乱の反日暴動」警官はデモ隊を指導していた!20km歩いて、帰りはバス。・変見自在・・・高山正之ミャンマーの話。スーチーの勘違い。イギリスが作った多民族・多宗教国家。 週刊文春・日本人処女30人を凌辱した在日韓国人レイプ牧師の正体・朝日新聞が松下電器に「土下座」した日・アメリカ大使館 日本政府「タカリ」の現場・中国・韓国「歴史教科書」デタラメ部分を全公開
2005.04.14
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三国連太郎のデビュー映画「善魔」というのがある。正義感に溢れた青年新聞記者を三国は演じていた。作品中の主人公・三国連太郎がそのまま彼の芸名となった。相手役は淡島千影だった。彼の正義感に溢れる行動が周りの人々を不幸に追い詰めていくのである。 「新しい歴史をつくる会」の教科書検定問題が韓国や中国に反日行動をとる口実を与えている様を見て、三国の映画を思い出したのである。扶桑社で出版されている本には何時もお世話になっているので、私にとっては「善」である。この情報のお陰で今まで見えなかった世界が見えてきたのである。 しかし、日頃、スキあらば攻撃して何がしかの金品を日本から巻き上げようという国々の連中から見ると、カモネギそのものなのである。 韓国しかり、中国しかり、アメリカ・特に民主党しかり、連中はヤクザのヒモ同様で信義など通用しない。こういった連中に対する戦略をサンケイ・グループは持っているのだろうか? 日頃、国防の重要性を説いていたグループが自分達の企業防衛が等閑(なおざり)だったことが今回のホリエモン騒動で明らかになった。 南京大虐殺が中国のプロパガンダだったことがほぼ証明できた。これで分かる事が、中国の戦略によって、日本が徐々にABCD包囲網に嵌まっていったのである。中国が何度も歴史問題として南京大虐殺を持ち出すのはこのプロパガンダが歴史的事実として証明された時、彼等の国家としての存立が出来なくなるのである。日本人以上にその恐ろしさを中国政府幹部は自覚している。 今回の反日騒動はそのまま反政府騒動・内乱への予兆と見ていい。中国の公営企業は既に破綻している。日本のODAの金でやっと命をながらえている。そのODAがほぼ打ち切られる事になった。これは小泉内閣の実績である。橋本派の連中が中国要人とこのODAを食い物にして来た。その国賊の罪状も明らかになってきた。輸血で生き長らえていた病人の輸血を止める。それがこのODA停止なのである。 このことはゴードン・チャン『やがて中国の崩壊がはじまる』草思社・2001/11/1発行 に詳しい。このゴードン・チャンは米国議会の公聴会でも証言している。 狡猾なアドバイスというのはアメリカを敵に廻してはならないということである。「アメリカも被害者」というキャンペーンが必要である。それがサンケイ・グループの自己保身であるということが見え見えであってもやらなければならない。善魔・サンケイとして、潰されるか、日本をヤクザのヒモから救い出すか、その目標設定を見定めるべきである。 兼ねがね、東西冷戦は中華民国・台湾・蒋経国の仕掛けではないかと考えてきたが、今一決め手がなかった。しかし、黄文雄さんや東中野修道さんの本を読んで、中国の一連の謀略路線の一貫であったと分かる。1970年ニューヨークでの銃撃はこの謀略への銃撃でもあったのだ。 北伐の蒋介石軍と日本軍を衝突させる。その状況を侵略としてアメリカにPRする。その役割は宋三姉妹がやった。女の涙の演説である。この方法は湾岸戦争や天安門騒動でもやっている。彼等の定番である。そのポイントとして「南京大虐殺」は風化させられないのである。 当面の敵にもっと大きな勢力に攻撃させる。蒋介石軍に日本軍。日本に対しアメリカ。台湾に逃れた中華民国はソ連・中共、封じ込めとしてマッカシー旋風をバックアップした。在米チャイニーズ・ロビリストが動いたことは確かである。 三国志さながらの謀略合戦がなされている。日本の若者にとってはゲームでこういうシュミレーションはお手の物なのだが、頭の硬い善魔はサンケイだけでなく、他にも居る。特にジジイに多い。どうせ彼等は死に絶えるのだが、善魔ジジイが死に絶える前に日本国が死に絶えるかも知れない。ホリエモン同様、若者に奮起してもらって、21世紀を謳歌して欲しい。
2005.04.12
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徳川義親はシンガポールから戻ってきて、密かに東条内閣打倒の運動をしていた。クーデタか、天皇の言葉か、いずれかの方法だったが、武力を使おうという気概のある人がいなかった。天皇は「国政の担当者」からの進言しか取り合わなかった。弟君の高松宮の意見もきかなかった。 しかし、東条は自滅した。昭和19年7月である。 この昭和19年2月、首相と陸軍大臣を兼任する東条は参謀総長をも兼任した。同時に海軍大臣・嶋田繁太郎大将も軍令部総長を兼任した。参謀総長は陸軍、軍令部総長は海軍である。東条と嶋田は軍政・軍略の双方を掌握した。権力強化のつもりだったが、これは憲法違反だった。 第十一条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス 軍の統帥権は天皇に直属。政府にはなかった。陸・海軍大臣は政府機関で軍政を担当。軍の指揮命令をつかさどる統帥は陸軍は参謀総長、海軍は軍令部総長が担当して天皇に直結している。この天皇の命令系統に内閣が干渉した。「統帥権干犯」を東条はしてしまった。 昭和10年に陸軍教育総監の真崎甚三郎大将を、陸軍大臣林銑十郎大将が真崎の意に反して辞任させた。これが統帥権干犯となって大問題になり、226事件の原因のひとつともなった。 まず、海軍内部で問題となった。6月30日、海軍大臣官邸で、現役、予備の海軍大将を集めて戦況説明会があった。そこで嶋田が追求された。アメリカが6/15、サイパン島に上陸した。それまで大本営は「サイパン島は絶対防衛圏で死守する」と言っていた。嶋田には答弁できなかった。 このサイパンから日本本土へ空襲のB29が飛んできたのだから、この追求は当然のことである。この追求の急先鋒が岡田啓介海軍大将、226事件で反乱軍に殺されるところを奇跡的に助かった人だ。 これに勢いを得て、「憲法どうり天皇の統帥権を確立」を理由に東条内閣は7月18日総辞職した。次の小磯内閣の小磯首相と徳川義親は三月事件クーデタの同志である。しかし、この内閣は軍の完全な監視下にあって、戦争終結への動きは出来なかった。 終結へ向けての動きは次の鈴木貫太郎内閣でこの鈴木も226事件で命拾いした人だから、不思議なめぐり合わせである。 この東条倒閣運動に岸信介も関わっていた。この行動がGHQから評価されて、A級戦犯から首相への道筋が出来たという話である。
2005.04.11
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韓国の人たちは1910年から1945年まで、日本の統治時代を日帝36年といい、7つのものを奪われたといいます。それは、1.国王 2.主権 3.人命 4.土地 5.資源 6.国語 7.姓名 の7つです。 しかし、台湾人・黄文雄さんの著書『台湾 朝鮮 満州 日本の植民地の真実』扶桑社/2003年10月30日発行 に「七奪」ではなく「七恩」だといいます。(1)国王:朝鮮は有史以来、王朝の易姓に限らず、単に政権交替でさえ決まって国王は毒殺され、その一族も誅殺されました。日韓併合後、国王や一族は日本の皇族に列せられました。むしろ、大韓帝国を大韓民国にしたのは独立運動の人たちで「国王」を奪ったのは戦後の政権指導者だといえます。国王を奪った責任を日本に転嫁しているのです。(2)主権:李氏朝鮮は中国の明・清の属国で独立主権はありませんでした。その証拠は独自の元号・暦が作れなかったことです。中国の元号・暦を使っていました。日清戦争で日本が勝ち、朝鮮の独立が確保されてはじめて、大韓帝国を名乗り、独自の元号をつくる事が出来ました。 日韓合邦は当時の国際法にそった条約で日本/韓国のそれぞれの主権が合体したということで消滅したわけではありません。(3)人命:日露戦争の翌年1906年に韓国の人口は980万人でした。日本統治下に入って約30年たった1938年、朝鮮の人口は2400万人、急増しています。何処を見て人命が奪われたというのでしょうか。それとも韓国では算数を教えていないのかも知れません。(4)土地:農地改良や農政が確立して、利用出来る土地は増えました。「土地が奪われた」というのは、それまでの搾取階級だった両班たちが搾取していた土地が奪われたということです。人民を解放したのは日本統治の結果で反動・旧守派の泣き言だったわけです。(5)資源:開発には技術と資本が必要です。その技術・資本を提供したのが日本でした。赤字が続き、その補填は日本からなされていました。搾取・収奪の被害者はむしろ日本だということが出来ます。(6)国語:ハングルが普及したのは日本統治になってからです。それまでの公用語は漢文で漢字ハングル混じり文は日本語が手本になっています。むしろ、まだ、ハングルによる韓国語は発展途上で、今後の努力を期待するものです。日本語の場合、ひらがな文学は1000年も前に完成しています。明治になって原文一致運動が始まりますが、日記形式でやはり1000年前が手本になっています。 終戦時、日本語を読解できる朝鮮人は全体の20%以下だったといいます。奪われべき国語そのものがなかったと言うといいすぎでしょうか? (7)姓名:朝鮮人の伝統的な名前を奪ったのは日本人ではなく、中国人による賜姓です。日韓合邦前、人口の半数は奴婢階層で姓がありませんでした。合邦後、姓を持つようになり、創氏改名は満州にいる韓国人の要請から行われたもので、申告制でした。 お隣の台湾人だから見えてくる世界があるのだと思います。このテーマを書いていて、「裸の王様」の話を連想しました。こんなに、明白な話をどうして戦後60年も気がつかないでいたのでしょうか。 戦後、韓国の指導者になった人たちは皆外国で独立運動をしていた人たちで、韓国国内の実情を知らなかったといえます。金日成はロシア、李承晩はハワイ、金九は中国でした。それと6/25動乱で日本がつくった社会システムが壊されたこともあるのでしょう。 過去を償えというのなら、両班の子孫に税金を課して、過去の収奪を償わせしめるべきです。
2005.04.10
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徳川義親の邸宅は目白3丁目にあった。空襲で大型焼夷弾が落ちてきたが不発だった。焼け野原にポツリと殿様の邸宅が残った。そこに終戦の日、藤田勇、吉田一、鈴木茂三郎、所三男がいた。殿様は「革命のチャンス」と彼等をけしかけたようだが、「何もこんな時に」と意気消沈していたという。 藤田勇とは、陸軍からソ連へ和平の工作を依頼されていた人物である。藤田には実績があった。大正12年(1923)ソ連外務人民委員のヨッフェを日本に連れて、日ソ国交回復の基礎を作り、その功績がソ連政府に記録されている。 戦争を終わらせる仲介をソ連に依頼する公式ルートとして近衛秀麿が選ばれた。7/15外務省がソ連に申し込んだ。7/18にソ連が拒否。 次の手として陸軍が秘密計略として選んだのが藤田勇だった。藤田は軍に和平の条件を出した。「満州から全軍撤退し、満州の権益いっさいを満州に譲る」これでソ連が応じない時は「満州を譲るうえに、朝鮮もソ連に譲る」この条件には軍部で異論がでて結論がでたのが8月になってからだった。 殿様は外務大臣の東郷とは親しかった。当時、外務省は軍の監視下で自由に動けなかった。殿様が秘密に鈴木総理の手紙をモスクワに届けようという手はずだった。 しかし、広島の原爆、2日後にソ満国境をソ連軍が越えてきた。歴史に「もしも」はありえないのだが、この藤田案で和平が実現していたら、満州からの悲劇の引き上げもなかったし、朝鮮戦争も無かった。 吉田一とはクロポトキン派のアナーキストで過激派である。大正11年(1922)モスクワで極東民族大会が開かれた。日本から吉田一、高尾平兵衛、鈴木茂三郎、徳田球一が出席した。レーニンははったり的な徳田を信用せず、素朴な労働者の吉田や高尾を評価・信用した。 この大正11年7/15に日本共産党が創立された。当時、「共産主義者」を「ボル」(ボルシェビーキ)といい、アナーキストを「アナ」といった。日本では「アナ」に優秀な人材が多く、レーニンは吉田や高尾に「アナ」を「ボル」に転向させるように頼んだ。その運動資金8000円を上海の共産党ビューローに送った。ところが徳田が上海に先回りしてその資金を横取りした。 怒った吉田は徳田を泥棒よばわりして追いかけ回した。徳田は山崎今朝弥を仲裁にあやまった。しかし、以来「アナ」は「ボル」を信用せず、ますます、両者の仲が悪くなった。 金に汚いのは日本の共産主義者だけでなく韓国でもそうだった。金九の証言がある。1920年当時、上海の韓国臨時政府内部にソ連に通じる者がいた。李東輝といい総理をしていた。金九は警務局長でその警護にあたった。李から仲間にならないかとオルグされたが、「コミンテルンの指揮・命令なしで我々だけで革命が出来ますか?」と返事し誘いには応じなかった。 李は韓亨権をロシアに派遣、レーニンに会わせた。レーニンは「独立運動の資金はどれくらい必要か?」と聞いた。韓は口から出任せに「200万ルーブル」と言った。するとレーニンは笑って、「日本に対抗するのに、200万ルーブルばかりで足りるのか?」と反問。韓は余りにも少なく言いすぎたことを後悔しながら、「本国とアメリカにいる同胞たちが資金を出すので、当面それくらい有ればじゅうぶんだ」と釈明。レーニンは「自分の民族のことは自分でするのが当然」といい、即座に外国部に連絡して200万ルーブルを韓国臨時政府に支出するように命じた。 李は臨時政府閣議にレーニンからの資金のことを知らせず、腹心の金立をシベリアまで迎いにいかせ一時金40万ルーブルを受け取らせた。この使いの金立は自分の家族のために北間島(今の延辺)に土地を買い入れ、上海に戻って来た。そして、広東に妾をかこい、豪勢な享楽生活をはじめた。金九が一貫して反共なのはこの共産主義者の実態をよく知っているからだ。 吉田一の最後を看取ったのは殿様だった。昭和41年(1966)7月、恒例の梨狩りに出かけた。「アナ」の平岩巌が主催で左翼連中と殿様の研究所(生物学・林政史)の人たち十数名だった。途端の大雨で相模原の料亭に逃げ込んだ。 吉田は前年、病気をしてひと月入院していた。酒がまわり話に花がさいた。吉田は殿様の隣に座り、「あなたは最高の生活をしてきた人です。わたしは最低の生活をしてきた者です。それがこうして、いっしょに飯をたべているなんておもしろいことですね」とささやいた。 吉田は話をつづけ「終戦後まもない頃、東久邇宮様をあなたに御案内してもらって、渋谷の駅前のヤミ市でわたしがやっていた小屋がけのスイトン屋にきてもらい、スイトンをたべていただきました。そこで約束して、東久邇宮様にわたしの家にきていただいて、平岩巌さん、鈴木茂三郎くん、加藤勘十くんなんか集めて、牛肉のすき焼きをつくって、夜おそくまで自由に話をしましたね。総理大臣をした宮様と膝つめで勝手にお話をしたことなど、いままで考えもしなかったのに、そうしたことなど、たくさん書きのこしておきたいことがあるんです」 吉田は話を続けながら殿様にもたれかかるように倒れた。殿様は医者を手配。人口呼吸をし、手足をさすったが、医者が来た時、吉田には脈がなかった。 殿様は8/10、高松宮から電話があり、赤坂の御殿に行った。そこで「陛下が終戦の御決意をした」と高松宮から聞いた。朝10時に目白を出て帰ってきたのは午後2時だった。殿様は高松宮の相談相手だった。当然、お昼も一緒だった。 この話を聞いた吉田は殿様に質問している。「どんなご馳走でしたか?」「そう、菜っ葉のおつゆ、ハンペンの煮付けとか・・・」「それだけですか?」と吉田は不思議がった。殿様は「ぼくだって家で、豆の入った飯とイモのつると、カボチャの花を煮たのをたべていて、藤田くんが閉口したのを知ってるじゃないか」「でも徳川さん、宮様の話なんですよ」吉田はなかなか信じられなかった。「宮様だって同じだよ。ぼくたちはヤミで食料は買ってないよ。配給とほかに手にはいるだけだもの」吉田はすっかり考えこんで、「それなら、ぼくたちのほうが、よっぽどうまいものを食べてますなー」と言った。「ぼくは小学校にも行けず、文字も書けないから、自分で書くことが出来ません。誰かにぼくの話をして書き残したいですね」
2005.04.10
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陸奥宗光は紀州藩士である。江戸時代、日本には300余の国があった。55万石、紀州は御三家の一つ、権力闘争も激しかった。江戸詰の若き君主と国元の隠居、権力は国元の隠居が持っていた。宗光の父はその隠居の傘下にあり、栄達を極めた。しかし、その隠居が死に、江戸の若き君主が実権を握った。父は失脚、田辺に幽閉された。時にペリー来航の前年である。 家族は追放され、高野山麓、紀ノ川沿いの村々を流浪、宗光は天領・大和で食客となった。江戸にでた。坂本龍馬を知り、勝海舟の海軍操練所に入った。 鳥羽伏見の戦い、紀州藩は微妙な立場だった。「勤皇のために努力する」と表明しても藩主は人質として京都に留め置かれた。宗光は外交にその才能を発揮した。英パークス公使と図り岩倉に意見書を出した。「王政復古と開国政策」を大坂の各国公使に通知した。 藩主に藩改革案を認めさせて、岩倉と交渉した。 津田出(1832~1905)を起用。紀州藩・蘭学の先駆者。欧米兵制の権威。 勘定奉行にヤマサ醤油の醸造元・浜口梧稜(民間人) 侍の家禄を1/20にした。 兵制はプロシャ式を採用。2万人の精鋭を作った。 紀州藩の改革はその後の廃藩置県、国策の手本となった。 後に津田は「薩長の人たちは、天皇に仕えるために起ち、自分は、民生を安んじようとして起った。物の考え方が、もともと、ちがうのだ」と語ったという。 私が中学で「社会の政治・経済」を教えてくれた先生は和歌山・橋本の人で、何処か、超越した世界の人だった。私の母は「地主の息子で生活の心配のない先生だから」と言っていたが、この津田の持つ雰囲気を伝えてくれたのかもしれない。
2005.04.10
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1919年3月1日の独立万歳事件は有名であるが、このルーツは1891年の衆議院解散にある。前年、第一回の帝国議会召集がなされた。国会議員になる資格は多額納税者である。政府予算には厳しい。現在のように補助金よこせの議員ではない。政府予算案をズタズタにした。政府は解散をもって応じた。解散の宣告に議員達は「万歳」をもって抵抗を表明した。「選挙に勝ってまた、この議会に来るぞ」という決意表明である。 今はこの万歳の由来を知る人が少なくなり「何で、解散で万歳なの?」と皆が思っている。 日本で起こった事が30年、一世代を経て韓国で起こっている。金九達のテロ活動もルーツはこの来島達の活動が手本になっている。 韓国の動きと日本の動きが時間差で連動しているということが分かれば、現在の竹島騒動も日本の国内事情が反映していると思っていい。江戸時代、竹島は鳥取藩の領地だったという。島根ではない。
2005.04.09
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来島恒喜(1859~89)は安政6年、橋本左内、頼三樹三郎、吉田松陰らが処刑された安政の大獄の年に生まれている。1889年、明治22年10月、大隈重信を霞ヶ関・外務省門前にて爆弾を投げて、片足を吹き飛ばした。「その場で喉をついて自殺」とコンサイス人名辞典(三省堂)には書いてあるが、壮絶な自決だった。 短刀を耳の下に突き通して、下顎の骨に沿って首を切り裂いた。 筑前(福岡県)出身。幼時より教義塾(大久保正名・海妻甘蔵)に学ぶ。高場塾(頭山満と同じ)でも学ぶ。向浜塾・向陽義塾を経て、筑前共愛会の国会開設運動に参加。玄洋社社員となる。1883年上京、中江兆民の塾、朝鮮問題を研究。86年に小笠原に渡る。87年井上馨の条約改正案に反対運動。88年福岡に帰る。89年、大隈条約改正に着手すると上京。玄洋社を退社。10月大隈を襲撃。 コンサイス人名辞典の年代が間違っていた。大隈襲撃が90年になっている。89年に死んだ人が90年に大隈を襲うはずがない。山川の日本史総合図録を見ると、この年・1889年は2/11帝国憲法発布、森有礼文相暗殺、とあった。前年88年にメキシコと通商条約(最初の対等条約)が結ばれている。91年には大津事件(ロシア皇太子、大津で警備の警官から切りつけられる)がおこっている。 頭山満が政治家達に睨みがきいたのはこの来島の存在が大きかったと思う。
2005.04.08
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ソクラテスは「悪法も法なり」と言って毒杯を仰いだ。民主主義の限界と、また、民主主義に生きる覚悟の言葉として日本人は理解している。 下記に引用しているドイツ学者の見解を読んで、「竹島問題で韓国に妥協してはならない」という決意をますます強くした。韓国の本音がこのドイツ人学者の意見の中に見られるからである。 ドイツ人学者も「独島の国際問題化は不公平」 ドイツ人日本学教授が、独島(トクト、日本名:竹島)をめぐる日本の主張を激しく批判した。 批判者は、独デュースブルク大学東アジア研究所のフロリアン・クールマス教授(56)だ。 クールマス教授は今月2日、スイスの権威紙ノイエ・チュルヒャー・ツァイトゥング(NZZ)に「独島または竹島、大韓海峡内の権利と歴史」なる文を寄稿した。 同文でクールマス教授は「独島問題を国際法廷で争おう」とする日本の主張に対し「公平で意味のある提案だろうか」と問うた後、子細に反論した。 まず、独島が日本領土だとソウルで発言して物議を醸した駐韓日本大使を「外交官に極めて重要な資質たる礼儀を兼ね備えていない」と指摘した。 また、独島問題を歴史的な脈絡から探るべきだと主張した。 韓国が独島問題をオランダ・ハーグにある国際司法裁判所(ICRC)で争うことに反対していることについても「敗訴の恐れに注目するのは、この問題の歴史的背景をしっかり把握できていないからだ」と論じた。 クールマス教授は「過去の国際法は、韓国の正常な状態を失わせ、韓日併合をなし遂げる道具となった」とし「韓国でハーグは極めて苦痛の記憶と結び付いている」と指摘した。 また「高宗(コジョン)皇帝は、1907年にハーグで行われた第2回国際平和会議に3人の特使を派遣した。 1905年に日本が乙巳条約(第二次日韓協約)を結び、韓国の外交権を奪ったことに抗議するためだ。 しかし、日本は国際社会の同意の下、ハーグ会議での韓国代表を務めることで、韓国の主権はく奪が国際法によって適法とされた」と論じた。 さらに「露日戦争を終結させるため、セオドア・ルーズヴェルト米大統領の仲裁によって1905年に締結されたポーツマス条約のせいで、韓国は日本の被保護国になった」と指摘し「これがきっかけでルーズヴェルト大統領はノーベル平和賞を受賞したが、韓国は主権を喪失した」とルーズヴェルト大統領を批判した。 クールマス教授は「韓半島は沖縄や北海道の次に日本が求めた膨脹政策の目標地だった」とし「日本は1870年代以降、韓国の力を弱めるために体系的な工作を行い、国際法を極めて悪賢く利用した」と分析し、この時点で国際法は、強大国の命令に従って反映されていたと指摘した。 クールマス教授は1971年5月に日本に留学し、17年間日本で日本学を研究した。 大学では現代日本語と日本の文化・歴史を講義しており、ドイツでも屈指の日本通学者だ。 ベルリン=柳権夏(ユ・グォンハ)特派員 < khyou@joongang.co.kr >2005.04.06 17:42 日本は開国・明治維新以来、国際法を遵守する立場を一貫してとって来た。唯一、真珠湾攻撃の失態はその努力を無に帰してしまったが、国際法を遵守しようという方針に変化はないし、日本国民全体の意見としても「法に従う」というのが基本である。 国際法も時代と共に変化・発展するものだがら完璧ではないが、その時代・時代のよりどころとなるものだ。 韓国の態度は頭からこの国際法に不満を持っている。何故か、国際法に立てば、自分達が主張する「日帝36年の7奪」の根拠がなくなるからである。日韓併合の正当性が国際法によって証明されるからである。65年の日韓条約の時もこの日韓併合の正当性を韓国側は崩すことが出来なかった。韓国はこの国際法を無視しなければ自分達の正当性を主張できないのである。 「悪法も法なり」日本の戦犯で処刑された軍人達はソクラテスの心境で毒杯を仰いだ。『裁くなかれ、その基準で裁かれるからだ』とは西洋の古人の言葉だが、東京裁判以降、日本軍人を戦犯として処刑・執行した国々は『文明への罪』という『裁き』を受けているのである。 韓国に対して近隣として国際法を基準に付き合いをする。これが日本の、また、世界の文明国の基準である。韓国がこの国際法を無視、違反を続ける限り、韓国の未来はない。法によって過去は裁けない。法で裁けるのは未来のみである。この民主主義の原則を受け入れる覚悟のない限り、韓国の発展はない。 外相会談で今回の騒動に幕引きを韓国側はやろうとしているようだが、日本側は徹底的に決着がつくまで韓国を追求する。韓国側が国際法に基づいて「日帝36年の7恩」であったと認めるまで日本側は韓国を追求する。
2005.04.07
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文春から 片山善博/鳥取県知事/激白「竹島韓国領有に根拠なし」 島根県知事ではなかったんだ。てっきり島根県知事のコメントだと思って読んでいた。民間では限界だ。政府に出て欲しい。 ニュースの考古学 猪瀬直樹 強盗慶太 ピストル堤 渋沢秀雄(栄一の四男)が田園調布を造った。五島慶太は鉄道院総務課長。目蒲電鉄・東横電鉄が出来た。この鉄道会社の社長に五島、渋沢は追い出された。池上電鉄、玉川電鉄の株買占め。東急王国。小田急・京浜電鉄・京王電軌を買収。GHQによって解体。 1940年体制の解体とか。 清野徹のドッキリTV語録 このコーナー、1987年から続いている。18年読んでいるのか。 新潮から 今頃「ムルアカ」に民主党「原口議員」が謝罪したって 森昌子「悪妻説」を流した森進一の<親友>は「夜逃げした詐欺師」だった! 強盗慶太って本当に強盗だったんだ。ホリエモンや北尾吉孝、どういうニックネームがつくか?
2005.04.07
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大阪事件とは1885年(明治18)朝鮮独立党援助計画で藩閥政府を倒すために、朝鮮の独立党と協力して事大党の朝鮮政府を倒し、自由民権を東亜に打ち立てながら日本の国内を改革しようというもの。参加者に小林樟雄、新井章吾、景山英子がいる。 大井憲太郎 1843~1922(天保14~大正11)大分県出身・民権論者には武士階級が多いが彼は名主。本名は高並。後、大井憲太郎を名乗る。幼少、漢学を学ぶ20歳、長崎、蘭学・英学・仏学を学ぶ。 江戸で、幕府・洋学館開成所でフランスの政治・法律・経済思想を修める。明治維新後、明治6年 陸軍裁判所 明治8年 元老院書記官 幹事の陸奥宗光と意見の衝突・辞任。明治7年 在任中に「馬城台二郎」のペンネームで加藤弘之ら(明六社)と自由民権(板垣の建白書)について論争。明治17年 秩父困民党・借金党の政治的指導明治18年 大阪事件 禁固9年の判決明治22年 憲法発布の恩赦で出獄明治23年 「あづま新聞」創刊明治25年 自由党を脱党・東洋自由党を結成(普通選挙・労働・小作問題に関心) 政治的変革には必ず、不満分子が出る。明治維新をやったけど、薩長の藩閥政治だった。不平士族の反乱が続く。その最中に自由民権論争が出てきて、その裾野が日本だけでなく韓国や中国にまで広がっていく。 常に理想主義者は不満分子であり、次から次へと拡大、為政者はその後始末で収拾に乗り出すが、何時も利権に聡い人たちが、上手く立ち回る。 その全体を見据えるのが歴史学だが、隣国、韓国や中国の人はこの歴史が見えていない。
2005.04.06
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ミン妃殺害事件の収拾に当ったのは小村寿太郎だった。公使となり、事件に関係した疑いのある館員、壮士を日本に退去させた。その退去・送還させられた壮士の中に与謝野鉄幹がいた。鉄幹は事件当時腸チフスで入院中だったため、直に釈放され、ソウルに戻った。その時に創った「詩」が『友を恋うる歌』(『人を恋うる歌』として伝わった)で、甲申事件以来の朝鮮経略がことごとくラシアの手に奪われた無念を歌った。 妻を娶れば 才長けて 見目麗しく 情けあり 友を選ばば 書を読みて 六分の侠気 四分の熱(ここまではよく知られている) 玉(ぎょく)を飾れる大官は 皆北道の訛あり 慷慨よく飲む三南の 健児は散じて 影もなし(三南は忠清、慶尚、全羅の三道。親日派はことごとく虐殺、粛清され北方ロシアに抑えられている) 四度玄海の波を越え 韓の都に 来て見れば 秋の日悲し王城や 昔に変える 空の色 ああ我いかに 懐の剣は 鳴りをひそむとも 咽ぶ涙を手に受けて 悲しき歌のなからめや わが歌声の高ければ 酒に狂うと人のいう 我に過ぎたる望みをば 君ならでは誰か知る 私の情報は裏街道情報で面白いけれども、多数派を占めるのは難しい。民主主義の時代、多数派を占めなければ、唯の「負け犬の遠ぼえ」となる。そこで、岡崎さんの本を読んで「表街道」へ出ようというのだ。情報の裏付けである。 外交の現場を踏み、多くのブレーンによる検証を経た内容はやはりプロのものだと思う。「噂の真相」に何度か写真に撮られて、怪しい? これも、メディア界の勲章であろうと思う。
2005.04.06
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アーネスト・サトウには専任のマナー・アドバイザーがいた。日本の習慣について事細かにアドバイズを受けて、日本人との交流にあたった。そのアドバイザーは会津藩の武士で野口富蔵といった。サトウが6年半の日本滞在の後、イギリスへ帰るとき、野口も同伴している。その後、野口がどういうイギリス生活を送ったかは分からない。 土佐藩の後藤象二郎はサトウに「あの会津は幕府のスパイだから気をつけろ」と忠告している。サトウは軽く受け流して、そういう事は外交に長けたイギリス人には折込済みのことかも知れない。 各藩英語の出来る人を召抱えていて、中にアメリカ仕込みの侍がいて、やけにサトウに馴れ馴れしくするので、サトウは怒って、そのサムライを一喝した。 1900年の義和団事件の時、日本軍の指揮をとったのが会津出身の軍人で、北京在住のイギリス人に人気があった。何か気難しいイギリス人と生真面目な会津人とは波長が合うのかもしれない。 野口は時間にルーズで待ち合わせには必ずといっていいほど遅れた来た。船の出港に間に合わなかったことがあった。サトウは野口のために、路銀を用意し、次の船の手配までした。 論争した事のある幕府の侍を明治になってから、蔵書の目録係りとして雇っている。面倒見のいい通訳官、それがアーネスト・サトウであった。 彼が後年、日英同盟の推進者となった。
2005.04.05
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水野成夫とはニッポン放送をつくった人物である。彼がゾルゲ事件に関わっていたのか? 検挙された人物の中に水野成というフランス文学者がいて紛らわしいのだが、水野成夫は直接の関わりはない。 昭和16年10月、一斉検挙で捕まった中に川合貞吉がいる。『ゾルゲ事件獄中記』新人物往来社・に書かれているのだが、検挙されて25日目に、川合のところへ面会に来たのが水野成夫だった。「体はどうだ。希望をもて。5年がんばれば、、君がでてくるころには北海道の工場も煙突から煙を吐いている。社長と相談して見舞金として千円持ってきた」 川合が勤めて3か月、その会社の専務が水野だった。太平洋戦争直前、時局が厳しい、また、スパイという重罪を犯した人物への支援は勇気の要ることだった。 戦後、川合が出所してからも交友は続く。尾崎夫人の就職の世話までしている。これは結局、伊藤律の反対で実現しなかったが、人間としての暖かみのある人である。 私は川合貞吉を気に入っている。彼は1930年代、満州にいた。中国共産党員で身を隠す為、右翼の活動団体で広報の仕事をしていた。小柄だが柔道の有段者で乱闘があると真っ先に駆け出して、相手側を投げ飛ばした。後輩の青年達から兄貴分として慕われていた。 彼は満州での日本人になった朝鮮人が如何に中国人に対して威張り散らかしていたかを、よく知っている。朝鮮人に対してズケズケものを言う。戦後の日本では右も左も朝鮮人に対してはっきりしたことを言わない。そういう言論人の中で、川合貞吉は面白いほどはっきり本当のことを言う。 尾崎秀実とは盟友で、伊藤律に対しては「裏切りのユダ」と異母弟・尾崎秀樹と共に、キャンペーンをリードした。 伊藤は公安のスパイではなかったとなってしまったが、では、本当のスパイは誰か? 久津見房子は「高倉テル」が怪しいと言っている。検挙されて1週間くらいで釈放されているからだ。三木清はこの高倉テルを匿って検挙され、昭和20年9月18日、監獄のベットの上から転落して絶命した。戦争が終わって、思想犯が釈放されたのは10月10日だった。 ニッポン放送に何となく人間味というか、暖かみがあるのはこの水野成夫のキャラクターが何処かに残っているのだろうと思う。
2005.04.04
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私の住む団地には自治会があり、6年に一度の割で世話人の担当が廻ってくる。今年度が私の番で、月一、集まりがある。会費を集めたり、回覧板を廻したり、ゴミ・分別が厳しい、草刈・年二回ある。掃除は月2回でご近所との適度な交流になっている。付かず離れず、適度なものであれば、楽しいものだ。 韓国も近隣である。どういう訳か韓国人とは、50年近く、身近に付き合っている。周期的に今回のような騒動がやってくる。 昨年からの「冬ソナ」ブームは日韓の歴史始まって以来の現象である。ごく、部分的マニヤックな交流は有史以来ある。しかし、それはピン・ポイントであって、全国展開ではない。北海道から沖縄まで、全国平均的に日本人の普通の人たちが隣国・韓国に関心を示したのである。そんな中での竹島騒動。日本の反応が何時もと違うと韓国の反日活動家は不思議がっていることだろう。 李王朝末期から日韓併合の歴史を勉強したのが25年~30年程前で、今回、日記に書く機会が多くなって昔の読んだ本などを引っ張り出して、改めて読んでいる。 韓国でも李朝末期の歴史を役人達に勉強させているようだが、ノムヒョン政権にとっては薮蛇になると思う。ノムヒョンがフラフラしているのと同じ様に李王朝末期の政権担当者がやっていたのである。 アメリカ議会では日本との同盟は続けるが、韓国との同盟はどちらでもいい、完全に見捨てられいる。中国にしても、ロシアにしても、韓国・朝鮮には持ち出しばかりでお荷物になっている。ババ抜きゲームのババになっているのが現在の韓国・朝鮮である。一番の近隣さん面倒見てと言っているのが「6か国協議」なのか? 韓国にも『親日派の弁明』を書くような人物が登場してきた。日本人も明治維新以降、自分達の歴史を韓国を含めて見直すいい機会だと思う。
2005.04.03
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明治維新は薩長政権となった。不平士族の反乱が続発した。今度は自由民権運動となった。これらの反乱・運動に挫折した人たちは朝鮮の改革運動に合流した。 日韓両国が平等合併せよと主張した樽井藤吉。自由党の大井憲太郎は清国から朝鮮の独立を計画、大阪事件といわれている。この時、使用しなかった爆弾が来島恒喜によって大隈重信に投げられた。 韓国では1882年(明治15)任午の政変(韓国宮廷内の親日的開明派が兵制度を改革しようとしたが、守旧派軍隊によって、日本人/日本公使館が襲われた)1884年(明治17)甲申の事変(独立党の親日派・金玉均、朴泳孝らがクーデターをおこし、日本軍の援助によって王宮を占拠) 樽井藤吉 1860~1922(嘉永3~大正11)奈良県1868(明治元年)国学者井上頼圀に学ぶ西南戦争では西郷隆盛に味方自由民権運動左派1882(明治15)長崎県で没落農民層を基盤として東洋社会党を結成。一か月で禁止・投獄。出獄後、「佐賀日報」の編集に従事。末広重恭・中江兆民・平岡浩太郎らと「東洋学館」を設立。1885(明治18)大阪事件に連座。1892(明治25)衆院議員となり、大井憲太郎らと東洋自由党を結成。1893(明治26)「大東合邦論」を出版。大アジア主義を主張。韓国語を学び、朝鮮にもこの合邦論を広めた。
2005.04.03
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金素雲が「侵略の序章<竹島>」というテーマで文章を新聞か雑誌に寄稿している。1955年10月、初出の媒体の名称がないのだが、『こころの壁』サイマル出版会1980年以降の発行・に収録されている。 もう50年前に書かれた文章であるが、今、新聞に載せても通用する内容である。さすが、金素雲先生、50年後の今日の騒乱を予見して、手回しよく書いていた? この文章が虎の巻で韓国の皆さん記事書いてるのかな? 50年進歩してない、とも言える。 文芸春秋10月号(昭和30年)に砂田防衛長官を若い学生が囲む座談会の記事がでた。学生の出席者は大宅歩(壮一氏長男、23歳、東大教養)、近藤汎(日出造氏長男、21歳、東大英文)、猪俣浩(浩三氏長男、24歳、東大大学院)、堀江幸雄(薫雄氏次男、慶大政治)、茅陽一(誠司氏長男、21歳、東大電気)、司会は桶谷繁雄氏。 「1947年に米軍演習機が竹島に爆弾を落として出漁中の漁船数隻と十幾名の漁夫が犠牲になった。韓国山岳会がその慰霊祭を竹島でやって、私も行った事がある」そうだ。 金素雲は自分でも言っているが歴史の専門家ではない。しかし、何故、高麗が朝鮮になったのか? と、聞かれれば、ルル説明をするという。 彼はその前年、朝日新聞のインタビュー記事に韓国のエライ人からクレームがついて、ケンカの真っ最中で、韓国から追い出されていた状態だったのだが、愛国者ぶりを発揮している。 戦後、韓国・朝鮮を指導したのは、戦時中外国にいた人ばかりである。李承晩はハワイにいた。金九は中国。金日成はロシアだった。金素雲は政治家ではなかったが、日本にいた。日帝36年の実際を体験していない人たちによる、反日キャンペーン、その黒幕が誰なのか? アメリカも騙されて、日本タタキの実行犯にされてしまった。と見るのか? 情報戦争の時代である。 民間のNGOの先走りと同時に、当局の工作員の暗躍もある。宮崎滔天などは工作員に近いかもしれない。
2005.04.02
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『親日派の弁明2』p43に「1873年になると、台湾の植民地化に成功した日本では、この機会に朝鮮も手に入れようという意見が台頭した」これは著者・金完燮氏の認識だと思うが、具体的な誰が何処でどういう相談をしたのか? 私には分からない。西郷の征韓論のことなのか? また、「台湾の」というのは「沖縄の」の間違いだと思う。牡丹社事件(那覇から宮古島へ向かう食料運搬船が波浪に流され台湾南部海域で座礁。乗組員69名の内、3人溺死。54人現地人に馘首。12人逃亡)の解決を通じ、沖縄の日本による実効支配が認められた。 韓国の人は日本人の総意で朝鮮を植民地にしたと思っているが実際はそうではない。日本人が北海道から沖縄まで全国一斉に韓国に対して関心を持ったのは「冬ソナ」のヨン様のおかげで、これは有史始まって以来のことである。これまでは一部マニアックな日本人が関心を持ったに過ぎない。◆拉致事件、被害者家族だけである。◆日韓ワールド・カップ、サッカー・ファンのみ。◆ソウル・オリンピック、あれはオリンピックに関心があったので、韓国ブームはついで。 日本人の90%、韓国に関心もなければ興味もない。しかし、今回の竹島騒動、ヨン様まで巻き込んだが、新しいギャラリーは今までの韓国を知らない。今までと違う反応に戸惑っているのは、韓国の「反日」活動家である。 反日活動の日韓連帯は今に始まったわけではない。その起源は古い。頭山満。内田良平。樽井藤吉。大井憲太郎。来島恒喜。などの経歴から調べてみよう。 内田良平 1874~1937(明治7~昭和12)玄洋社幹部・内田良五郎の三男、平岡浩太郎の甥。福岡。東洋語学校。黒龍会の創立者。1894(明治27)東学党応援のため天佑侠に参加して朝鮮にわたる。三国干渉後、対露報復のためウラジオストックへ、シベリア横断。1898(明治31)宮崎と滔天の紹介で孫文に会い援助を約束。1901(明治34)大アジア主義と天皇主義を標榜して<黒龍会>を結成、主幹となる。1903(明治36)対露同志会に参加、対露開戦を主張。1905(明治38)孫文・黄興らの中国革命同盟会の結成を斡旋。日韓合邦運動を推進。日韓合邦後、小川平吉、宮崎滔天らと有隣会を組織、中国問題に取り組む。1918(大正7)米騒動鎮圧のため、「大阪朝日新聞」膺懲(征伐)運動をおこし、吉野作造と公開討論をして敗北。宮中某重大事件・ロシア飢餓救済運動・排日移民法反対で活躍。1925 加藤高明首相暗殺未遂事件で入獄。1931(昭和6)大日本生産党を結成・総裁。満蒙独立運動を推進。 維新から外された福岡の勤皇党の残党の系譜が長州閥を引っ張る。 韓国では東学党に参加した人たちが、維新を旗印に立ち上がる。 今でいうところの民間NGOが先走りするわけです。後、次回へ続く。
2005.04.02
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アーネスト・サトウは19歳で日本に通訳官として来た。一週間目にあの生麦事件が起った。その後の日本の政治を観察して、江戸のタイクーン(大君)は薩摩を支配していない。京のミカド(天皇)が日本全体の支配者である事に気づく。そして、その発見がイギリスの政策を変えた。ミカドが取引相手である。フランスはそれに気づかず、相変わらずタイクーンの幕府を支援した。 サトウは結婚しなかったが、日本人女性との間に子供をもうけている。その子供とは武田久吉である。(たけだ・ひさよし)1883~1972(明治16~昭和47)登山家・植物学者。ロンドン大学、中学時代から植物と山に親しんだ。特に尾瀬を愛し、高山植物については牧野富太郎に学ぶ。日本山岳会創立発起人・初代日本山岳協会会長。1930年より京大・九大・北大で植物学を講じる。著作『尾瀬と鬼怒沼』1930、『民俗と植物』1948、『登山と植物』1969、『明治の山旅』1971 野口健は5つの民族の血が混じっている。エジプトで虐められた。しかし、彼の母親は敵(かたき)を討って来るまで戸を開けなかった。その母の教えを彼は忠実に守っている。 期せずして彼は山に導かれた。そして、環境問題に取り組んでいる。イギリスで育った野口である。この日英の縁は登山と言う事と、環境を守るということで、より深まっていくと思う。将来、アーネスト・サトウと息子・武田久吉父子の話を野口健が解説してくれるのではなかろうか?と期待している。
2005.04.02
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頭山満 1855~1944(安政2~昭和19)福岡藩・筒井亀策の子。興志塾に学ぶ。西郷隆盛の大陸政策に共鳴し、1875年(明治8)矯志社を結成、萩の乱に参加して入獄。(この萩の乱に田中義一が13歳で参加している)1879年(明治12)平岡浩太郎らと向陽塾を組織し、国会開設運動を推進。1881年(明治14)平岡・箱田・進藤嘉平太らと玄洋社を結成、大陸進出を主張する大アジア主義を唱える。井上馨・大隈重信両外相の条約改正反対運動を展開。1892年(明治25)総選挙で品川弥二郎内相の選挙干渉を助ける。日清戦争前、天佑侠に資金援助日露戦争前、内田良平の黒龍会結成を背後で助ける。対露同志会に加わる。対外強硬外交を主張。金玉均/孫文/ビハリ・ボーズを援助。 韓国の人は日本人の総意として韓国を侵略したと考えている。しかし、よく調べてみると一部熱心なNGOと一部政治家・軍人が結合して、両国にいて既成事実を積み重ねながら引き返せないところにまで追い詰めていった。 軍人・政治家として田中義一がその先頭で後ろに頭山満がいる。萩の乱の同志である。
2005.04.01
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