異論・極論・直言――マスコミが言わない解説、提言
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(SMAP解散騒動でマスコミは大騒ぎ) 週刊文春が取材をし、それに感ずいたスポーツ新聞が書いたことでSMAPの解散問題はマスコミが大きく取り上げる話題となり、NHKですらニュースで報道する事態となった。 この話の報道で筆者が気になったのは、新聞も雑誌もテレビも取り上げる度に、「国民的アイドル」という形容詞を必ずつけていることである。 確かに、SMAPは10本を越えるテレビ、ラジオの番組を持っていて、頻繁にマスコミに登場するし、100万人程の会員がいる。TVCMにも多く出ているが、広告業界の人の話では、SMAPをCMに起用すると、出演料は1人1億円、5人いるから、CM制作費を除いた彼らのキャラクター料金だけで、5億円だという。こうしたことから、SMAP関連の売上高は200億円を越えるという。 (多くの人にとって、グループの解散、存続は無関心事) しかし、筆者が周囲にいる50年代から70年代の人と話をすると、皆、テレビや新聞、雑誌の報道で騒動は知っているが、「SMAPが存続しようが、解散しようが、自分には関係ない。どちらでもどうぞ」という反応である。 20歳代、30歳代には、それなりのファンはいるようだが、10代の人に聞くと、ほとんどの人が、「存在は知っているが、特に、彼らが出ているテレビ番組を見ようとも思わない」という。 確かに、関連売上げが200億円というのは、少ない数字ではない。 でも、人気が高かった松田聖子が結婚した時、芸能記者が「結婚を機に芸能界を引退ということはないですか?」と質問した時に、松田聖子は「私の関連の売上げは、年間500億円あるの。500億円というのは、従業員が何百人といる、かなりの規模の中堅企業の売上高と同じくらいよね。同じように、私関連のビジネスで生活をしている人はたくさんいるわ。そうした人たちの生活を考えたら、簡単に引退などできないでしょ」と答えたという。 かつて、歌に芝居にと活躍し、流し目で中年女性を魅了した杉良太郎が全盛の時に、ファンクラブの人数は200~300万人いたという。 つまり、売上高でも、ファンクラブの会員の数でも、SMAPは全盛時の松田聖子にも、杉良太郎にも及ばない。そして、テレビにはいつも出ているが、SMAPの歌で、歌える歌があるかと聞くと、20歳代、30歳代の一部の人を除いて、ほとんどの人が彼らの歌をほとんど知らないし、歌えても、せいぜい1曲という感じである。(テレビに良く出ている事は人気がある事ではない) 上に書いた売上高でSMAPを上回っていた松田聖子も、ファンクラブの会員の数で上だった杉良太郎も、誰も「国民的アイドル」とか、「国民的スター」とは言わなかった。 杉良太郎は「中年女性殺し」と言われたし、松田聖子は単に「アイドル」と言われただけである。アイドルと呼ばれた若手歌手やタレントはそれこそ、千人を越えたいたのではないか。松田聖子はそれら「アイドル」の中で、トップクラスだっただけである。 レギュラー番組や出演CMが多い事は、人気が高いということには直結しない。 今の時代、タレントが所属するプロダクションが強い力を持っていると、そのタレントに人気があろうがなかろうが、また、才能の有無に関係なく、露出が増えるのである。 これも週刊文春の記事から、不倫騒動で騒ぎになったタレントのベッキーは出ていたCMは10本を越えていたし、レギュラーが番組も10本あまりあったという。でも、筆者の周囲で、ベッキーが良い、好きだと言う人はほとんど見当たらない。 今の時代、ファンがいようがいまいが、プロダクションが強いと、テレビの露出が増え、それとともに、知名度が高まり、いつの間にか、「スター」とか。「人気タレント」と言われるようになるだけのことであり、露出しているから、国民の多くが支持しているというのとは違うのだ。 だから、騒動のベッキーについて、芸能ジャーナリズムがつけた形容詞、「清純なイメージで人気がある」という言葉を読むと、筆者など噴出したしまう。(目が怖い人たち) 何十年という取材歴で、数千人の人の取材をし、企業の採用で、万を越える学生と面接して来た筆者からすると、会ったことがない人でも、テレビに出演して、10分くらい話を聞けば、その人がどんな性格で、どんな生活態度で過ごしているか、概ねわかる。そして、その後の、彼らの辿った道を見ると、筆者の感想に狂いはない。 ベッキーに直接、会ったことはないが、テレビなどに登場している彼女を見ると、「清純」とはおよそほど遠い人間である。少なくても、自分の周囲に彼女のような人がいても、絶対友達になろうと思わない人である。今回の不倫騒動が出て来て、筆者の感想は「やはり」である。 取材や面接などど万を越える人と接して来た筆者の、人を見て、どこをどう見て判断するかのチェックポイントはいくつかあるが、その内の1つ、誰にでもわかりやすいポイントを言うと、その人の目で、かなりも部分判断できる。 多くの企業のCMに出演している武井咲も、ベッキーも目が怖いのだ。これもテレビに良く出ている桐谷美玲もやはり目が怖い。テレビ東京のBSの朝の報道番組の中で、ニュースを読んでいる女子アナがいるが、彼女は顔の下半分、口の周辺で笑みを浮かべているが、目が怖く、直視したくない感じである。 こういうタイプの人は、誰も見ていなければ、平気で人を後ろからどつくような人なのだ。そして、どつかれた人が転んで、「誰がこんなことをしたの?」と言うと、近くを歩いている人を指さして、「あの人が押したのよ」と涼しい顔をして言うタイプなのだ。 目が怖いというのは、若かろうが、年をとっていようが、その人のこれまでの人生、今の生き方の象徴して表している。 人気のアパレル会社で、多くの直営店を持つ企業の創業経営者を取材した時、ビデオを回していたカメラマンが、取材後、「数多くの人のインタビューに付き合い、レンズから、その人を見て来たが、今日の彼程、冷徹で恐ろしい目を見たのは初めてだ」と話をしていた。 父が経営していた小さな繊維の企業を継いだ時、40歳を越える従業員全員を解雇したという彼の経営を見ていると、このカメラマンの観察に筆者は全く同感である。(森光子は大女優ではない) 話が少しそれたので、元に戻すと、最近のマスコミのタレントや俳優などにつける形容詞は、本当におかしなものが多い。 森光子が死んだ時、芸能マスコミは「国民的な人気の大女優」という形容詞をつけた。 冗談ではない。確かに彼女は舞台の「女の一生」で主役を長く演じたが、映画、テレビのドラマでは、彼女は主役の女優ではない。脇役タイプであり、少なくても「大女優」ではない。 彼女自身、記者のインタビューで、「自分は主役の女優を目指したが、主役女優に必要なものが自分にはなかった」と語っている。 好き嫌いではなく、大女優とか、大俳優と言われる人は、限られた人に贈られる形容詞である。品、格が必要であり、圧倒的な存在感、オーラがないといけないのだ。 女性なら、「大女優」とは、先頃亡くなった原節子とか、山本富士子のような人につける言葉であり、少し活躍し、主役を演じた人でも、大女優と言われる人はほんの一握りの人にしか使ったら、おかしい。 男優なら、高倉健、鶴田浩二、三船敏郎、市川雷蔵、古くは大河内伝次郎、片岡千恵蔵のようなような人でないと、大「俳優」と言うのはおかしいのだ。 今の若い記者だと、こうした人たちの事はあまり知らないだろうが、少なくても、記事をチェックする年配のデスクに言葉の使い方を指導してほしいものだ。
2016.01.25
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