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今から 20
年ほども前に、 「日刊ゲンダイ」
という夕刊紙に、毎週水曜日、 「新刊読みどころ」
という評判の書評コラムが載っていました。
書き手の匿名書評家は 「狐」
と名乗っていました。 「狐」
は 1980
年代のはじめ
ころに登場し、その書評が 「狐の書評」(本の雑誌社)
と題して単行本になったころから、知る人ぞ知る存在になりました。
2003
年
に新聞コラムから姿を消しましたが、この文庫は 「狐」
が 日刊ゲンダイ
に書いた、 終わりの 202
冊の書評
を集めたものです。
たいていの新聞書評がそうですが、一冊の本の紹介記事は 800
字から 1000
字程度、 400
字詰めの原稿用紙二枚から、二枚半の字数の制限の中で書かれています。それに加えて「誉める」という制限もあるようです。
読者は「一般市民」なわけですから、専門用語のひけらかしでヨイショするような文章はご法度です。そうなると、その本に関連した世界も知らないし知識もない人を説得する書き手の幅の広さと、納得させる奥行を、たった 1000
字の文章で描き出すことができるかどうかがコラムの面白さを支えるとこになるわけです。
面白くもない新聞書評が大手を振ってまかり通っていますが、論より証拠、 「狐」
の技をご紹介しましょう。
このブログで「案内」した 中井久夫
の 「いろいろずきん」
の書評が、偶然、本書に見つかりました。
「母国を持たない精神科医が残した贈り物」
と題された文章です。
童話絵本である。原作者の エランベルジェ は 1993 年に 87 歳で没した精神科医。孫たちから、「赤ずきん」の話はあるのに「青ずきん」がないのはおかしい、他にもたくさんの色のずきんがあるはずだと言われ、黄色ずきん、白ずきん、ばら色ずきん、青ずきん、緑ずきんの物語をつくった。それをやはり精神科医の 中井久夫 が再話し、自ら絵も描き、絵本仕立てにしたのが本書である。 ここまではぼくでも書けます。ここからがさすが、 プロの書評家「狐」 の本領発揮、面目躍如なのです。
きっと評判になるだろう。このファンタジーには「自分以外の人間に心があることの発見」(中井久夫)や、夢や無意識や性や差別といったことがらが織り込まれながら、その扱いが独断的でなく、幾重もの読み方ができるような深みのある筋立てになっている。登場する動物たちが、人間にとって容易には理解しがたい世界に属していることをさまざまに暗示しているのも絵本としてめずらしい。また中井久夫の絵がシロウトとは思えぬ出来栄えだ。美しい。
しかし実は、この 「いろいろずきん」 にはもう一つのバージョンが存在する。
本書と同時に、同じ版元から 「エランベルジェ著作集」(中井久夫編訳) の第二巻が出ている。その本にも、精神科医学史にかかわる論文と並んで「いろいろずきん」が収録されているのだが、それがこの絵本版とは別物なのだ、
絵本版が簡略化された再話であるのに対し、著作集版は翻訳(共訳)である。文章の両ははるかに増えるし、その分、物語はいっそう重層的になる。さらに、物語について訳者の 中井久夫 と 稲川美也子 がそれぞれ委曲をつくして語ったエッセイも付く。 中井久夫の絵 は、絵本版から少し選ばれ、モノクロームにして載っている。
絵本を読み、著作集に向かうと、この知られざる精神科医への興味が湧く、スイス系フランス人として南アフリカに生まれ、ヨーロッパで教育を受け、アメリカに渡り、最後にカナダ人として逝去したエランベルジェは、母国を持たぬ越境の人であった。
日本を訪れたときに向かえた中井久夫の印象では長身白皙「ひょっこりひょうたん島」の「博士」のようだったという。
(「母国を持たない精神科医が残した贈り物」エランベルジェ原作・中井久夫文・絵「いろいろずきん」(みすず書房) 1999 ・ 9 ・ 8 )
いかがでしょうか、残念ながら評判にはなりませんでしたが、 エランベルジェ
の著作集に手を伸ばしながら、一つの絵本ができていく過程と、無名の著者に対する読者の興味を喚起してゆく、落ち着いた「奥行」の深さの披歴には目を瞠りますね。これぞ、プロの仕事というものではないでしょうか。
本書には 「読み手それぞれの思いで味わう小説の厚み」
と題した 夏目漱石
著 「こころ」(ワイド版岩波文庫)
の書評もあります。そこでは 高橋留美子
のマンガ 「めぞん一刻」
からの引用で話を始めています。その軽みもまた鮮やかなものですよ。
2006
年に出版された 「〈狐〉が選んだ入門書」(ちくま新書)
で初めて 山村修
という実名を名乗りましたが、その年の夏 56
歳という若さで世を去りました。 15
年近くの年月が流れましたが、紹介されている本は、今となっては、洞窟の奥に置き忘れられた宝箱の中の宝石の山です。その上、紹介する書評は年を取ることを忘れた浦島さん、少しも古びていません。
もっとも、問題はこの本そのものがどこで手に入るかですね。いや、はや・・・。
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