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ミゲル・ゴメス「グランドツアー」シネリーブル神戸 ポルトガルの鬼才だそうです。ミゲル・ゴメス監督の「グランドツアー」を見ました。 不思議な映画でした(笑)。 率直に言えばものすごくヨーロッパ的な視線で東南アジアから日本までの、アジアを見ている映像という印象でした。 多分、タイかベトナムあたりの人形芝居や影絵芝居、日本でいえば文楽ですが、こちらは温泉につかるおサルさんの仕草、まあ、そういうイメージを重ねることでドラマを展開しているのですが、ドラマそのものは逃げる男と、追う女という、もちろん、二人は白人の美男美女なわけで、1900年代の初頭というスーパーが出て、白黒画面を基調にして展開するにはするのですが、都市の映像とかには「これって、今でしょ!?」というカラーシーンまで使われていて、結局、逃げている男の行方は不明ですし、追いかけている女は死んでしまうし、なのですが、女の、何とも夢のような復活のシーンが映し出されて、見ているこっちには、筋なんて通らなくても「よかった!よかった!」なわけで、「なんじゃ、これは?」映画全編に漂う、そういう不可解は、まったく解決しなかったのですが、なんだかおもしろかった!でした(笑)。 最後に映るのが「モーレンへ」という、多分、モーレン・ファゼンデイロという、これまた映画作家でもあるパートナーに対する献辞なのですが、凡人には鬼才のすることはわかりませんね(笑)。わからないけど拍手!監督・脚本 ミゲル・ゴメス脚本 マリアナ・リカルド テルモ・シューロ モーレン・ファゼンデイロ 撮影 ルイ・ポッサス サヨムプー・ムックディプローム グオ・リャン美術 タレス・ジュンケイラ マルコス・ペドローゾ衣装 シルビア・グラボウスキ編集 テルモ・シューロ ペドロ・フィリペ・マルケスキャストゴンサロ・ワディントン(エドワード逃げる男)クリスタ・アルファイアチ(モリー追う女)クラウディオ・ダ・シルバ(サンダース)ラン=ケー・トラン(ゴック)ジョルジュ・アンドラーデ(レジナルド)ジョアン・ペドロ・バス(カーペンター牧師)ジョアン・ペドロ・ベーナル(シーグレイヴ)テレーザ・マドルーガ(スパイ)ジョアナ・バルシア(レディー・ドラゴン)ディオゴ・ドリア(ブラウン少佐)ジャニ・チャオ(中国の花嫁)マヌエラ・コウト(クーパー)アメリコ・シルバ(英国司令官)2024年・129分・G・ポルトガル・イタリア・フランス・ドイツ・日本・中国合作原題「Grand Tour」2025・10・24・no151・シネリーブル神戸no334追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.10.31
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降旗康男「少年H」OSシネマズハーバーランド 天気予報は午後から大雨で、夕方から30年来の友人たちと会う約束がありました。「雨になる前に出て、映画でも見て時間をつぶそう。」まあ、そういう目論見で、日頃あんまり行くことのない映画館も含めて日程を調べていると、おや?という映画をやっていました。今は亡き名監督降旗康男の「少年H」、2013年の作品です。確か、水谷豊と伊藤蘭ちゃんがご夫婦で、ご夫婦を演じた映画です。約束の時刻にもぴったりです。というわけで、久々にOSハーバーランドで見ました。 神戸を舞台にした作品の人気投票で選ばられた作品の一つということで、特別上映でしたが、会場は、ほぼ、満席でした。まあ、1940年代の神戸の風景が映る映画をハーバーランドでやるのですからね。 地震のあとの神戸で評判になった妹尾河童の「少年H」(講談社文庫)の映画化ですが、昭和10年代、1940年代の鷹取町から長田あたりの神戸の町が舞台で、もちろん、町の風景はセットですが、須磨の海風景が実写シーンとして映りました。 小学生のH君、妹尾肇君が、戦争末期、旧制の二中、今の兵庫高校に進んだあたりの生活が描かれていて、水谷豊と伊藤蘭はご両親ですね。原作も、一応、読んだことがあるので筋書きに驚きはありませんでしたが、1945年3月の神戸空襲のシーンとその後の焼け野原のシーンに揺さぶられました。 実は、この日に出会う約束をしていたのは、1995年ですから、この映画のシーンから50年後、シーンに映っている同じところが焼け野原になった阪神大震災を20歳で体験した人たちとの30年ぶりの集まりだということもあってのことなのですが、やはり、神戸の人たちには忘れられない映画なんだということを実感しました。 ボク自身は、20歳で学生生活をはじめて、そのまま暮らし続けている町です。戦災のことは、当時、但馬の生野女学校の生徒で、明石の西、土山の軍需工場に学徒動員でやって来ていたという母親が「神戸の空が真っ赤になるのを、友達と抱き合って、泣きながら見たで。」と語ってくれたことがあることで知っているだけですが、震災は、職場が被災地のど真ん中、この映画の二中の、すぐ隣の学校だったこともあって、それなりのリアル体験でした。焼け跡で、親族の御遺骨を探していらっしゃる方の姿を見たこともあります。 映画に出てくる、市電の姿も懐かしいですね。ボクが神戸に来た1975年にはすでに廃止されていたのですが、地元の友達は知っていましたね。六甲道あたりから、板宿、須磨まで、東西の街路が独特にまっすぐに走っているのは、多分、もともとが市電が走っていたルートだったからでしょうね。 なんだか取り留めのない感想ですが、見てよかったですね。 まあ、ボクも神戸の人になったのかもです(笑)。監督 降旗康男原作 妹尾河童脚本 古沢良太撮影 会田正裕美術 中澤克巳編集 阿部亙英キャスト水谷豊(妹尾盛夫 父)伊藤蘭(妹尾敏子 母)吉岡竜輝(妹尾肇 少年H)花田優里音(妹尾好子)小栗旬(うどん屋の兄ちゃん)早乙女太一(オトコ姉ちゃん)原田泰造(田森教官)佐々木蔵之介(久門教官)國村隼(吉村さん)岸部一徳(柴田さん)2013年・122分・G・日本・東宝2025・10・25・no152・OSシネマズハーバーランドno12追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.10.30
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石垣りん「女」他(「石垣りん詩集 略歴」より) こうして詩とか紹介するのを読んでいただいているようで、便りを下さったりする友達がいらっしゃいます。写真はHさんという、ボクより、もうひとまり年上の女性ですが、神出の雌岡山(めっこさん)の金棒池にお出かけになって、お撮りになった「やまらっきょう」の花です。 で、今日の案内は石垣りんの第三詩集「略歴」を読みながら印象に残った二つの詩です。一つ目が「女」です。 女 石垣りんそれでもまだ信じていた。戦いが終わったあとも。役所を公団を銀私たちの国を。あくどい家主でも高利貸でも詐欺師でもない。おおやけというひとつの人格を。「信じていました」とひとこといって立ちあがる。もういいです、私がおろかだったのですから。 で、二つ目が「遥拝」。 「遥拝」 石垣りんいつか一度と思う。前にさんざんやったことを今やれないはずはない、と。犬をけしかける要領で魂をけしかけてみる。道端でいいんだ職場でいいんだどこにいても。ひとつの場所、遠いひとりの人の方角にふかぶかと頭を下げてみる。いちどやって見れば事態はもう少し明瞭になるかも知れない。 ひとりの女性が生きてきた社会の核心を串刺しにしようとする気迫をボクは感じます。いかがでしょうか?2025-no116-1189 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.10.29
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ロブ・エプスタイン&ジェフリー・フリードマン「セルロイド・クローゼット」元町映画館 なんとなくチラシを見ていて、「なに?この映画?」だったのですが、ちょっと読んでい見ると、ハリウッド映画における同性愛の描写の歴史をたどったフィルムという作品だということなので見ました。 ロブ・エプスタインとジェフリー・フリードマンという監督の「セルロイド・クローゼット」、1995年の作品でした。 ハリウッドに限らず、映像表現というのは常に「差別」との闘い!ですね。 人種、性別、年齢、宗教、職業、身体状況、社会的立場、経済状態、数え上げていけばきりがないということですが、映像的表象は、あたかも自然に「差別」を正当化、あるいは、当然の前提化することで成り立つ場合がよくありますね。映画というメディアが大衆文化の象徴のような表現形式だということによって、批判よりも同調することが多くなる傾向があるとボクは思います。 で、今回のこの作品は、ハリウッド映画の中で、歴史的名画とされる映像が語っている性的志向のカミングアウトに対する考察フィルムという趣でした。 「ふーん、そうか?!」まあ、そういう感想で見ましたが、感じたのはあらゆる意味で「平等で自由」な人間存在という認識を普遍的に定立させることのむずかしさですね。 まあ、こういう言い方にも問題はありますが、ベンキョーになりましたね。監督・製作・脚本 ロブ・エプスタイン ジェフリー・フリードマン原作 ビット・ルッソ脚本 シャロン・ウッド撮影 ナンシー・シュライバー編集 ジェフリー・フリードマン アーノルド・グラスマン音楽 カーター・バーウェルナレーター リリー・トムリンキャストトム・ハンクスウーピー・ゴールドバーグハーベイ・ファイアスタインゴア・ビダルシャーリー・マクレーンスーザン・サランドン1995年・102分・アメリカ原題「The Celluloid Closet」2025・10・10・no143・元町映画館no319追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.10.28
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ソ・ユミン「シークレット・メロディ」キノシネマ神戸国際 おお、ひょっとして韓国製・音楽・ラブストーリィーかと勝手に想像して見に行きました。ソ・ユミン監督の「シークレット・メロディ」です。 とてもかわいい「ピアノ少年とピアノ少女のラブストーリー」でした。 少年はキム君、お父さんが音大の先生でお母さんがピアニストという、まあ、離婚しちゃっているようですが、音楽エリートカップルの坊ちゃんで、本人もショパンコンクールに出るとか出ないとかいう設定そのものがマンガなのですが、演じているド・ギョンス君というのが、韓国ではチョー人気のアイドルらしくて、これが、嫌みなく、まあ、70を超えたジジイがいうのもなんですがかわいい! で、コンクールに失敗して帰国した、失意のキム君の前に現れるのがジョンアちゃん。彼女もピアノ少女なんだけど、どっかヘン?という展開です。 ボクが見ていて楽しかった理由の一つは、主役のド・ギョンス君がボクの若いお友達で先ごろ結婚したS君という青年と、それから、もう一人の主役のジョンアちゃんがこずえちゃんというこれまた若いお友達と、もちろん、実物のお二人とは何の関係もありませんが、とてもよく似ていたことですね。 要するに、映画の出来事を知り合いの方が演じていらっしゃるという錯覚ですが、お話が夢物語だったこともあって楽しかったですね(笑)。拍手! この映画は2007年に台湾で作られた「言えない秘密」という作品があって、2024年、日本で同名の作品としてリメイクされたらしいのですが、その作品の韓国版リメイクだそうです。ボクは2本とも見ていませんから勝手な言い草ですが、台湾の原作も、日本製リメイクも好評だったらしくて、柳の下の三匹目のドジョウ!なわけですからお話の展開は受けること間違いなしなわけですね。 台湾映画ということを知って思ったのですが、先日見た「赤い糸」というお話もそうでしたが、時空を超えるところ、だから、あの世とこの世をどう出合わせるか?というところに映画としての面白さがあるのですね。 ショパンとかのピアノ曲が実にいい音で聴こえてきて、まあ、それだけでもこの映画はよかったんですが、そこから、時を超えるんですね。うまいもんですよ。拍手! ギョンス君とジョアンちゃんに拍手!でした。監督・脚本 ソ・ユミン製作 キム・ウォングク原案 ジェイ・チョウ脚本 ユ・スンヒ シン・ウンギョン撮影 ヤン・ヒョンソク美術 キム・ミネ衣装 チョン・イジン編集 キム・ヒョンジュ音楽 キム・ジュンソンキャストド・ギョンス(キム・ユジュン ピアノ青年)ウォン・ジナ(ユ・ジョンア ピアノ少女)シン・イェウン(イニ 同級生)ペ・ソンウ(スンホ 父)カン・マルグム(ミンスク)カン・ギョンホン(ヨンソ)ム・ソンジェ(ゴテイ)アン・スンギュン(ギョンボン)2023年・103分・G・韓国英題「Secret Untold Melody」2025・10・11・no144・キノシネマ神戸国際no46追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.10.27
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キム・ヨンジン「非常戒厳前夜」元町映画館 戒厳令とか題名につくとドラマであれ、ドキュメンタリーであれ、ちょっとワクワクして、みんな見ようと決めています。アジア諸国に限らず、南アメリカあたりにもありそうですし、とか、なんとか思っているとこの映画のチラシでした。 韓国で戒厳令といえば李承晩以来の軍事政権の十八番ですが、そういえば最近、戒厳令を振り回して失脚した大統領がいたな!と思い出しながら見ました。 キム・ヨンジン監督のドキュメンタリィー「非常戒厳前夜」です。 ユン・ソンニョルという人の大統領就任以前からの汚職疑惑の追及と、就任後に始まる「名誉棄損」、「国家反逆罪」を罪状にしたジャーナリストたちに対する攻撃、それに対する反撃、抵抗の経過を、実に丹念に映像化した、見事ともいうべき出来上がりのニュース・ドキュメンタリィーでした。 大統領が非常戒厳令を出し、全国民的規模での批判にさらされ失脚したのが2024年から2025年にかけてですが、この映画が、その半年後には、公開されているのは、韓国のメディアの凄みさえ感じさせる快挙!だと思いました。 つい先日、香港のジャーナリスト、アラン・ラウの「灰となっても」という傑作を見たばかりですが、韓国にもいましたね。「ニュース打破(タパ)」という独立メディのジャーナリストたちです。この映画の監督であるキム・ヨンジンという方も、その一員らしいのですが、映画の中で死刑の可能性もある「国家反逆罪」で国から訴えられ、家宅捜索を受け、国家との裁判を闘わざる得ない状況の中、まさにドラマの主人公のように、命がけで闘うジャーナリストが、韓国とか、香港、いや、世界のどこかには実在するのですね。 国家の最高権力者である大統領が、私欲にまみれ、国家権力を私物化した姿を、ここまで、赤裸々に暴いて見せることが韓国のジャーナリズムにはできるのですね。拍手! と、まあ、ため息交じりに感動するのは、日本のジャーナリズムに、そのリアリティを全く感じないからでしょうね。監督 キム・ヨンジン製作 チャン・グァンヨン脚本 チョン・ジェホン撮影 シン・ヨンチョル編集 ユン・ソクミンキャストユン・ソンニョルキム・ヨンジンハン・サンジンポン・ジウク2025年・111分・G・韓国原題「Search and Seizure: The Rise of an Insurrection」2025・10・08・no142・元町映画館no318追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.10.26
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笑福亭鶴瓶落語会「妾馬」「悋気の火の玉」 森ノ宮ピロティホール 先日、マンガ便を届けてくれたトラキチ君がついでの顔でチッチキ夫人に差し出しました。「これ、もうすぐ誕生日やろ。二人で行っといで。チケットのサイトあけたら、最後の2枚やった。」「なに?、チケット?だれ?」「鶴瓶や。」「へー、鶴瓶さん?高いんちゃうの。」「まあ、そこそこ。でも、まあ、こんなもんやろ(笑)。オモロイかどうかは知らんで。」「ありがとう。へー、森之宮やねんな。大阪行くの久しぶり。」 ということで、今日、2025年10月23日は大阪、森之宮のピロティ―ホールで「笑福亭鶴瓶2025落語会」の同伴鑑賞会(笑)でした。 笑福亭鶴瓶、その昔、50年ほどですけど、「あのねのね」という、一応、フォーク・ソングの二人組が登場して、ナカナカ人気があったんですけど、清水国明と原田伸郎といえば、今の若い人にでもわかるのかな?まあ、そのバンドの周辺で登場したアフロヘアのにーちゃんが鶴瓶だったんですね。 京都産業大学の落研のバンドだったと思いますが、それ以来、50年ですね。今や、大御所(?)、1000人を超える森ノ宮ピロティホール、満員!でした。 最初は緞帳のこちら側で、ジャージ姿のままの立ち話でした。小一時間、喋り続ける、まあ、鶴瓶、得意の牛のヨダレしゃべりですが、お客さんたちにはウケてましたね。落語会なんて生まれて初めてで、こんなことを言うのもなんですが、鶴瓶も老けましたね・・・それが、50年を振り返ってしまう感想でしたね。 で、落語家の格好にお着替えになっての一席が「悋気の火の玉」でした。「なんか、女の執念、というようなもんは何にも感じひんね。いろいろ、遊んでハル雰囲気やけど、ホントは怖い目に合ってないんちゃう?」 同席のチッチキ夫人の一言感想ですが、ボクには、彼女の感想の方が、確かに怖かったですね(笑) で、中入り。立派な着物でもう一席です。 「妾馬(めかうま)」ですね。妹が殿さんに見初められて、後継ぎを産んで、長屋暮らしの兄ーちゃん八五郎がお屋敷にお祝いに伺うという、ボクでも知っている、多分、古典ですが、こっちは、思わずもらい泣きするいい舞台でした。鶴瓶さん、ヤッパリ八五郎とかが似合いますね。というのが、ボクの感想。 大きな会場で、満席、その上最後列でしたが面白かったですね。今どきのオン協力と、舞台の映像化はスゴイですね。 最後はお囃子4人組で送り囃子を、お客さんがみんないなくなるまで聞きました。とどのつまりには70年の万博の歌まで聞こえていましたが、納得の一曲は「六甲おろし」でしたね。文句なしですね(笑)。トラチキ君、ありがとう!の夜でした。2025・10・23追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.10.25
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川上泰徳「壁の外側と内側」元町映画館 川上泰徳というジャーナリストがパレスチナを取材し始めて、もう、20年以上になると思います。もとは朝日新聞の記者で、中東特派員になられたのが1990年代だったと思いますが、ボクが、そのお名前に出会ったのは数年前に読んだ「シャティーラの記憶」(岩波書店)という、まあ、ルポルタージュででした。確か、1956年生まれですから、もう、70歳ですね。2015年に新聞社を退職されて、以来10年間、フリー・ランサーとして、所謂、中東、アラブ、パレスチナの取材を続けてこられたジャーナリストです。 そのジャーナリストが2023年10月7日以降のイスラエルのパレスチナ地域を取材した記録を映画化し、劇場公開したのが「壁の外側と内側」です。元町映画館の公開初日、10月18日には満員で見ることができなかったのですが、10月20日の月曜日に無事見終えました。 映画の題名にある「壁」というのは、ヨルダン川西域分離壁と呼ばれているもので、イスラエルが国家的事業として、ユダヤ人地域の安全を確保するためという名目で建設を続け、今や、全長500キロを超える、長大なコンクリートの壁です。 今、攻撃にさらされているガザ地区とかも、この壁の外にあります。ただ、ガザ地区は、川上さんが取材した時期には、すでに軍事的に封鎖されているために、この映画で川上さんが訪れるのはほかの地域でした。 映画は壁を越え、検問所を通過して外側に出るところから始まります。川上さんの取材は「人と会うこと」が特徴だと思いますが、カメラに映る風景は、ボクのように日本の風景しか知らない眼には石と砂の荒野です。映画は、その荒野でテント暮らしをしながら羊を飼う人たちと出会い、話しかけていくドキュメンタリィーでした。壁の外側に入植地を広げるために小学校や民家を公然と破壊していくシーンも映ります。 後半では、壁の内側の人たちとも出会います。対パレスチナに対する情報操作によって「彼らは敵だ!」という人もいますし、イスラエルがパレスチナの人たちに対して何をしているか全く知らない人もたくさんいます。そんな中で、事実を知り徴兵制を拒否する青年の姿や、彼を支持する人たちが、イスラエルのシミ人の中に存在することが印象的でした。 壁の外と内について、すでに、「ノー・アザー・ランド」という、パレスチナの青年たちが撮って、2025年に全世界に公開されたフィルムもあります。イスラエルの警察や軍の蛮行の現場を撮ったフィルムとしては、この映画以上に凄絶です。 何はともあれ、見ていただく他に言葉はありません。70歳になろうかという川上さんが、訪ねる村々で、子どもたちの姿を必ず撮っていらっしゃるのが胸を打ちます。おそらく、命がけの取材だと思うのですが、アラビア語で話しかける日本人に、現地の人々は穏やか微笑みながら「平和」を訴えていらっしゃいます。 どうか、是非、ご覧になっていただきたいと思います。監督・製作・撮影・編集・字幕・ナレーション 川上泰徳編集協力 大重裕二整音 小川武2025年・104分・G・日本配給きろくびと2025・10・20・no149・元町映画館no321追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.10.24
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団塚唯我「見はらし世代」シネリーブル神戸 カンヌで評判になった、日本の若い監督という触れ込みに、ちょっと興味がわいてみました。団塚唯我という、名前もちょっと凄い監督の「見はらし世代」です。 見終えてロビーに出てくると、いつもおしゃべりの相手をしていただいている映画館の若い支配人の方が笑顔で手を振って下さっていました。「いかがでしたか?」「映像が独特やった印象やね。どうなん、これ?見た?」「はい。ボクは一押しなんです。公園の再開発と追い払われるホームレス。設計者の人間性とその家族。都市の景観の変化を社会性と歴史性を掛け合わせた視点で捉えているあたりもヤルナ!ですよね。」「なるほどなあ。主役の男の子、たしか、昨日見た春樹のアフターザクエイクにも出てたけどいいね。」「はい、黒崎煌代ですよね。彼はたぶん主役は初めてですね。」 というわけで、納得の解説でした。 実は見終えてボクが思ったのは「東京の風景の映画やなあ!」でした。 それと、父親に対する姉と弟の意識のギャップの描き方に対する、ほとんど驚きに近い印象ですね。両方に共通しているのは現代という時代を描いているという印象です。 東京の景観については、本物を知りませんからホントは実感からは遠いのですが、上滑りする印象のウソ臭さを、とりあえず映像としてとっているところがすごいと思いました。 姉弟の描き方では、最後に出てきた母の姿を見たねーちゃんが「私たちを見てないよ。」と母の視線を指摘するセリフが印象的でしたね。近代以後の家族の崩壊は70年代から80年代の社会現象だったのですが、今、新しい崩壊が始まっているのかもしれませんね。 最後のシーンだったでしょうか、歩道橋に立っている主人公の少年は、ひょっとしたら、ボクなんかが、わかったつもりでいる街や家族の崩壊をこそ、眺めているのかもしれませんね。ドラマの仕立て方が新しいという印象は持ちませんでしたが、主人公が見ている風景は、多分、ボクの知らない世界なのかもしれないという、妙に迫ってくるものを感じた作品でした。 25歳だという若い監督が20年後にどんな「世界」を描くのか、ボクには、ちょっとさみしい気もしますが、もう、想像すらできません。しかし、確かに可能性は感じました。ああ、それから、黒崎煌代君、人気のタレントとかにならずにいい役者になってほしいですね。拍手!監督・脚本 団塚唯我撮影 古屋幸一編集 真島宇一音楽 寺西涼キャスト黒崎煌代(青年)遠藤憲一(父)井川遥(母)木竜麻生(姉)菊池亜希子中村蒼中山慎悟吉岡睦雄蘇鈺淳服部樹咲石田莉子荒生凛太郎2025年・115分・G・日本 英題「BRAND NEW LANDSCAPE」2025・10・14・no146・シネリーブル神戸no332追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.10.23
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タウフィーク・サーレフ「太陽の男たち」元町映画館 今日見たのは、タウフィーク・サーレフ監督の「太陽の男」です。1971年に制作された古い映画です。元町映画館が2025年の10月18日、「壁の外側と内側」というジャーナリストの川上泰徳のドキュメンタリィーとの併映で一日だけやる企画上映です。1972年、イスラエルによって暗殺された、今や伝説(?)の、パレスチナ人の作家ガッサン・カナファーニーの原作の映画化作品です。これを見逃すわけにはいきません(笑)。 ここからは原作の紹介なのか、映画の感想なのか、自分でもよくわかりませんが、まあ、こういうこともあるということですね。 映画も小説も、舞台は1970年代くらいのヨルダンです。パレスチナ難民キャンプと砂漠の風景、たぶん、中東戦争でイスラエルが圧勝した直後の時代です。 中年男のアブー・カイース(モハマンド・ベイル・ヘルワーニー)、抵抗運動で逮捕されたことがありヨルダンにいては危険な青年アスアド(バッサーム・ルトウフィ・アブー・ガザーラ)、家族の面倒を見なければならない少年マルワーン(サラーハ・ハルキー)の三人が、難民キャンプを抜け出し、イラク経由でクウェートに行こうと、カイースと同郷の、給水車の運転手アブー・ハイズラーン(サナーア・デブシー)の給水車で出発します。二つの国境を給水車のタンクに潜んで通過しようという目論見です。 三人のクウェート行の動機が、当時、多くの人が知らなかった、パレスチナ難民キャンプの実情、国際情勢を描いています。そこに、この映画の歴史的価値の一つがあると思います。 で、三人を乗せた給水トラックは、ヨルダンのパレスチナ難民キャンプからイラク、イラクからクウェートへと二つの国を横断し、二つの国境を、密入国で越えようという計画です。その先に、自由がある!というわけです。 トラックが二つの国境管理事務所を通過するために、砂漠の灼熱の太陽に焼き上げられながら、音と気配を殺して潜んでいる給水車のタンクが、パレスチナの人たちが土地を奪われ、難民キャンプに閉じ込められていた、当時の状況を比喩している表象であることは明らかです。 で、まあ、ネタバレですが、原作でも映画でも、彼らはこのタンクから生きて出ること、自由な空気を胸いっぱい吸い込むことはできません。 ただ、映画と原作で一つだけ違う描写がありました。 原作では、著者であるカナファーニーは「なぜ、壁を叩かなかったんだ!」と作品の最後に叫びますが、映画では、閉じ込められた男たちは給水車の壁を叩くのです。 この映画をはじめ、関西でイスラム映画上映会を企画していらしゃる藤本高之さんとおっしゃる方が上映後解説していらっしゃいましたが、「小説が書かれた時期と映画化された時期におけるパレスチナ情勢の変化を反映している。」ということだそうですが、この映画から50年経った今、パレスチナの人たちが壁を叩く音はどうなったんでしょうね。 原作小説の結末の、作家の叫びもこたえますが、映画のラスト、タンクの壁を叩きながら死んでいく姿は、やはり、こたえましたね。 映画も小説も、とどのつまりは灼熱の太陽の下、自由を求めた三人は給水車のタンクの中に閉じ込められたまま死んでしまい、運転手のハイズラーンは、彼等を砂漠のゴミ捨て場に捨てて去るというお話です。 映画から50年、イスラエルでは、いわばタンクに閉じ込め続けた人々に対する無差別の殺戮行為が横行しているようです。壁を叩く音は極東の島国の老人の耳にも届き始めています。どうしたらいいんでしょうね。イスラエルの権力者たちは「壁を叩く音」がイスラエルの市民たちに聞こえることを最も警戒しているそうです。 映画を見るしか能のない老人は、歯噛みをしながら見守るしかないのでしょうか?原作は河出文庫で読むことができます。皆さん是非読んでみてください。 監督・脚本 タウフィーク・サーレフ原作 ガッサン・カナファーニー「リジャール・ファツ=シャムス」(邦訳「太陽の男たち」撮影 バハジャト・ハイダル音楽 サルヒー・アルワーディキャストモハマンド・ベイル・ヘルワーニー(アブー・カイース)バッサーム・ルトウフィ・アブー・ガザーラ(アスアド)サラーハ・ハルキー(マルワーン)サナーア・デブシー(アブー・ハイズラーン)1971年・シリア英題「The Dupes Al makhuduoun」2025・10・18・no148・元町映画館no320追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.10.22
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ルイーズ・クルボワジエ「HOLY COW」シネリーブル神戸 予告編を見ていて、フランスの田舎を映している映画っぽいので見ました。パリとかじゃなくて、田舎町、いや、村を映している映画、そんな誘惑です。 見たのはルイーズ・クルボワジエという監督の「HOLY COW」です。 チラシによれば「ホーリー・カウ」というのは「マジかよ!」という意味の田舎言葉というか、言い回しだそうですです。上のチラシの写真を見ると少年と少女のラブストーリィーぽいですが、ちょっと違いました。 じゃあ、なんだ?なのですが、題名の通り、HOLY COW!でした。見ているこっちは、いろいろ小うるさいジジーなんですけど、久々にバカボンのパパにでもなった気分で言い切ります。「それで、いいのだ!」の映画でした。 フランスの田舎の「へえー、フランスの田舎って、こうなん?」という風景がまずいいんです(笑)。 で、そこで暮らす少年少女たちの不良ぶり、チーズを作る工程とその苦労、牛が出産するシーン、次々とスクリーンに出てくるシーン、シーン、みんながよかったですね。 で、中でも、一番いいのは、まだ10歳にもなっていないんじゃないかという妹のクレールです。下のチラシの女の子ですけど、少年のトトンヌが見つめているのは、恋人なんかじゃなくて、妹なんですよね。これが、何ともいえずいいんです。 お母ちゃんは、映画の始めからいないし、お父ちゃんもなぜか、あっという間にいなくなっちゃって、残されたのは兄ちゃんのトトンヌと妹のイレーヌなんです。 で、兄ちゃんのトトンヌは、お年ごろということもあってやたら色気づいているし、まあ、なんというか、極めつけのアホなんです。 で、妹の登場です。「しっかりしてね!」 とか、口では言わないけど、彼女がいることが、アホ兄ちゃんを支えるんですね。原付乗り回す能しかない、兄ーちゃんのトトンヌももちろんですが、自動車すっころばしている友達のジャンも、トトンヌが仲良くなった彼女のマリー・ルイーズも、皆さん、同じようにアホなんですけど、大丈夫! この映画にはイレーヌがいたんです。 見ているジージが、思わず「ヨシ!ガンバレ!」って言いたくてたまらないラストまであって、サイコーでした。拍手! ルイーズ・クルボワジエという監督は、「見はらし世代」という作品の日本の若い監督が褒められたらしい、同じカンヌで褒められた31歳の女性監督らしいですが、アホで幼い子供たちをこれだけ積極的に描いて見せたこの作品もスゴイ!ですね。 というわけで、あっちもよかったんですけど、こっちに1票でしたね。拍手!監督・脚本 ルイーズ・クルボワジエ製作 ミュリエル・メナール脚本 テオ・アバディ撮影 エリオ・バレゾー美術 エラ・クルボワジエ衣装 ペリーヌ・リッター編集 サラ・グロセ音楽 リンダ・クルボワジエ シャルリ・クルボワジエキャストクレマン・ファボー(トトンヌ 少年)ルナ・ガレ(クレール 妹)マティス・ベルナール(ジャン=イヴ 友達)ディミトリ・ボードリ(フランシス)マイウェン・バルテレミ(マリー=リーズ 友達)アルマン・サンセ・リシャール(シリル)リュカ・マリリエ(シリル)イザベル・クラジョー(ナディーヌ)2024年・92分・PG12・フランス原題「Holy Cow」2025・10・17・no147・シネリーブル神戸no333追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.10.22
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ギデンズ・コー「赤い糸」元町映画館 台湾映画らしいというだけで見ました。ギデンズ・コー監督の「赤い糸」です。 あの世とこの世が交錯して、あの子とこの子が結ばれるという、考えてみればアホらしいような話ですが、それでどうなるの?という興味は失せることなく、最後まで楽しく見ました。 「月下氷人」という言葉がありますね。ああ、日本では月下氷人というのは、結婚式の仲人さんのことを言うのですが、中国では「月下老人」、あるいは「月老ユエラオ」というということを初めて知りました。やっぱり「縁結びの神さん」で、邦題の「赤い糸」はそこから来ていました。運命の赤い糸というあれですね。 あの世とこの世のドタバタぶりが、「ふーん、そうなん?!」という展開で、あの世の描き方とか、まあ、ちょっとポカーン???もありましたが、そういうところが余計に面白かったですね。拍手! 台湾の映画とか、あんまり見たことがなかったのですが、これからは見そうですね。アジアの映画、面白いです(笑)監督・脚本・原作 ギデンズ・コーキャストクー・チェンドン(孝綸シャオルン)ビビアン・ソン(小咪シャオミー)ワン・ジン(ピンキー)マー・ジーシアン(鬼頭成グイトゥチェン)2021年・128分・G・台湾原題「月老」・英題「Till We Meet Again」2025・09・28・no136・元町映画館no317追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.10.21
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ユン・ソクホ「夏の終わりのクラシック」キノシネマ神戸国際 「冬のソナタ」のユン・ソクホ監督の新作だからなのでしょうかね、まあ、この題名ではお客は来ないでしょう。そう思って出かけてきたキノシネマでしたが、ホントにお客はいませんでした(笑)。 韓流って。もう、終わったんですかね。広い劇場にいたのは冬ソナなんて見たことのない老人と、あと、お二人でした。コロナ騒ぎが収まってからは初めてですね、でも、この雰囲気の映画館、ボクは好きですね(笑)。 見たのはユン・ソクホ「夏の終わりのクラシック」です。もう一度言うと、韓国の原題「Adagio」でもいいし、原作の「風待ちのひと」でもいいのですが、「夏の終わりのクラシック」という邦題の付け方は、やっぱり、あんまりやんな!でした。でも、映画は面白かったですね。これでどうだ!とでもいわんばかりの、極めつけのメロドラマなんですが、そのダサさにシラケることなく、涙なんか流したりして見終えました。 ボクを泣かせたポイントは二つです。 一つは舞台が済州島なんですね。朝鮮半島の一番南の島で、今やリゾートとして有名らしいですが、済州島なんです。日本列島の側から見れば遣唐使だかの歴史にさかのぼって出てくる島ですが、韓国現代史を振りかえれば、在日の朝鮮の方たちにとっては、故郷の島として繰り返し出てくる島です。独特の火山島という印象ですが、美しい島の風景が繰り返し映し出されるのは、ボクにとってはこの作品の肝でしたね。 原作では尾鷲の風景で、補陀落渡海伝説の紀州の海ですが、映画では済州島の海でした。海の向こうは対馬でしょうか。 で、もう一つは、バッハですね。映画ではグリーンとかいう、聞いたことのない名前のピアニストになっていましたが、バッハのアダージョが聴こえてきて、主人公のヨンヒが演奏と一緒に聞こえてくる唸り声に亡くなった息子の声を重ねるというシーンを見ながら「ああ、グールドや!」と気づいて涙がこぼれました。 そうです、この映画でピアニストを目指しながら死んでしまった息子を忘れられない母親であるヨンヒを慰めるのが、あの、グレン・グールドの唸り声同時録音のバッハ!なんです。ボクにとっては、それで充分ですね。ピアノの音は時空を限定しませんが、グールドの鼻歌はあの世から聞こえる、もう、その解釈だけでドキドキしてしまいましたよ(笑)。このCD、うちにもあるんですからね。 伊吹有喜の原作「風待ちのひと」(ポプラ文庫)も読みましたが、映画の方がいいですね。ただ、邦題の付け方はちょっとひどいですね。韓国映画をまじめに扱っていないんじゃないかという気さえしましたね。 まあ、ボクだって「冬のソナタ」なんて、ちょっとバカにしていて見ていませんが、ユン・ソクホという監督、やっぱり、ただものじゃないことはよくわかった気がします。拍手!でした。 監督・脚本 ユン・ソクホ製作 アン・ビョンレ原作 伊吹有喜「風待ちのひと」脚本 シン・ミンンジェ撮影 キム・ヒョング編集 胃・四巡音楽 イ・ジスキャストキム・ジヨン(ヨンヒ)ペ・スビン(ジュヌ)2024年・115分・G・韓国英題「Adagio」2025・10・07・no141・キノシネマ神戸国際no45追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.10.20
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鈴ノ木ユウ「竜馬がゆく 13 」(文藝春秋社) ゆかいな仲間のトラキチ君が、8月以来2か月ぶりのマンガ便を届けてくれました。2025年10月のマンガ便の1冊です。 鈴ノ木ユウ「竜馬がゆく」(文藝春秋社)、第13巻です。 本巻の読みどころは、勝海舟の弟子を名乗り、開国、開化の道を歩み始めた竜馬君の、まあ、表紙には仲良し三人組のように描かれていますが、かつての盟友、土佐勤皇党の領袖、武市半平太との確執。そして、人切り以蔵という哀しい名を歴史に残すことになった岡田以蔵との友情ですね。維新史の悲劇的成り行きを、マンガでは、気楽な笑顔の青年として描かれていますが、竜馬君も生きていくほかないのですね。 しかし、この巻のエポックは、ボクのような竜馬好きにとっては若き日の浅丘ルリ子の姿が忘れられないおりょう、登場!です。 調べると1968年だそうですから、今から50年ほど前にNHKの大河ドラマが北大路欣也主演で「竜馬がゆく」を放映したのですが、そのとき「お竜」を演じたのが彼女だったわけで、その時14歳くらいだったシマクマくんの竜馬好き、いや、浅丘ルリ子好きが始まったんですね。 振りかえれば、司馬遼太郎の原作を読んで、まあ、今度はしばらく司馬遼太郎にかぶれたのは受験浪人生活のころのことですが、竜馬君の彼女、おりょうさんといえば浅丘ルリ子なわけで、このページを見ながらあれこれ思い出してしまいましたね。 まあ、このマンガの登場人物は鈴ノ木ユウさんのキャラクターなので、あの頃の浅丘ルリ子に似てるかどうかなんてことを思い起こす人はいないのでしょうが、三つ子じゃなくて、中学生の魂も、なかなか消えるものではないようですね。 そういえば、その後、寅さんシリーズにリリーとして登場した浅丘ルリ子さんも、あのシリーズのヒロインの中では、忘れられないキャラクターですね。 というわけで、「竜馬がゆく」、ここから大変ですが、楽しみです(笑)。2025-no114-1187 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.10.19
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金井真紀「酒場学校の日々」(ちくま文庫)その2 先日、その1でご案内した金井真紀「酒場学校の日々」(ちくま文庫)なのですが、読み終えて「これは!」と思ったところがもう一つあります。 それは、巻末でドリアン助川さんが「新宿ゴールデン街の月」と題された「解説」で愛を告白!していらっしゃることですね。ドリアン助川という人については、「アン」(ポプラ社)という小説を読んだことのあるという程度の知識しかありませんが、この本の愛の告白は読ませますね(笑)。 というわけで、その一節を引用します。 台風が関東をかすめた夜、ボクは再び「學校」を訪れた。強い雨風が新宿を洗っていた。カウンターのなかには真紀さんしかおらず、嵐で興奮したもじゃもじゃが、「あめ!わははは」「かぜ!わははは」と店を出たり入ったりしていた。 ボクはこの夜初めて、真紀さんとじっくり話をした。本書にもちりばめられている真紀さんのウイットとユーモアを宝石の豪雨のごとく浴び続けたのだ。「見つけた」とボクは全身で思った。「お会いした」でも「知った」でもなく、見つけたのだ。 それは、真紀さんが新聞記事で「學校」の存在を知ったとき、あるいは禮子さんが心平さんの記事をきっかけに「安保反対、本日開店」のお店まで行ってしまった、その逸話の根幹にあるものと極めて近い「見つけた」なのではないかと思う。 生涯、この人の言葉を聞こう、この人の書いたものを読もう、この人の絵を観ようと思った。しかしそれは同時に、ボクだけの特異な感慨ではないであろうこともわかった。いつか自分の本を出せたらいいなと語る真紀さんに、だからボクは自信たっぷりにこう言った。「あなたはたくさんの人から愛される国民的な物書きになりますよ。いや、世界的かな。このまま、書くことと描くことを続けていればいいだけです。」と。 この夜のことは忘れない。嵐の音が聞こえなくなった頃、ボクは真紀さんと再会を約束し、スツールに貼りついていたお尻を引き上げた。扉を開け、一歩踏み出し、「あーっ!」と感嘆符になった。 嵐は一掃されていた。空には眩しいほどの満月があった。新宿ゴールデン街のなにもかもに、青白い月の光が届いていた。真紀さんも「學校」から出てきて、路面でともに月の光のなかに溶けた。あのとき、ボクの中で新宿ゴールデン街は一新されたのだった。(P253) いかがですか?文中のもじゃもじゃさんとかは「學校」の常連さんで、禮子さんというのはママさんです。 で、本の方ですが、五章立てで、第一章は入学したての一年生の見聞録で、金井さんが「學校」に入学して、いろんな人と出会う話。第二章は水曜日のスケッチですが、金井さんが、週に一度、水曜日にママを務める経緯と出会った人について語る話。第三章が昔の男ども、第四章が禮子さんの恋となっていて、それぞれ、金井さんがママから聞いた昔話。で、第五章が閉校の記で、2013年の閉店前後のお話という内容です。 で、ちょっとだけ金井さんの文章を紹介してみますね。若い彼女が學校で最初に親しくなった清水さんという男性の話です。 清水さんの太い指がゆで卵をむく 清水さんスーツにネクタイ、五十代後半のおじさんで、私に目を留めると少し驚いた顔をした。常連中の常連である清水さんはほぼすべての學校のお客さんを知っているので、見慣れない顔を見て、おや、と思ったのだろう。くぐもった声で 「初めて?」 「ひとりできたの?」などと話しかけてくれる。 そのときまで、「草野心平の詩が好きなんです」なんてミーハーな発言はするまいと決めていた。心平さんがつくったお店に来ている人は、みな心平ファンに決まっている。もしかしたら、みな詩人かもしれぬ。安易な知ったかぶりは恥ずかしい。でも、清水さんの質問に答えるうちにおずおずと言った。「昔、卒論で草野心平さんを・・・・・」すると清水さんと禮子さんが「まぁ、珍しい」「へぇ、心平さんが好きなの」 と喜んでくれた。もう最近は、心平さんが開いたお店であることを知って學校にやってくる人はほとんどいないという。心平さんが世を去ってから、二十年以上経っていた。 まあ、こういう雰囲気です。いかがですか?「フムフム」とか、一緒に頷いてしまいそうでしょ。うっとうしくない空気の作り方がヤルナ!なんです。2025-no115-1188 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.10.18
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石垣りん「石垣りん詩集 略歴」(童話屋) 市民図書館の棚は便利です。まあ、図書館ですから当たり前といえば当たり前ですが、ひとりの詩人を読んでみようと眺めると、ちゃんと時代順に借り出すことができます。 で、今日は、ここの所、読み返し始めた石垣りんの三冊目の詩集「石垣りん詩集 略歴」(童話屋)です。1979年に花神社から出されています。というわけで、やっぱり「あとがき」からの紹介です。あとがき二冊目の詩集「表札など」を出したのが一九六九年にがつだったので、ちょうど十年を過ぎたことになります。 その間に、少女のころ採用された職場を定年退職しております。長いとも短いともいえない不思議な歳月をかえりみるとき、ただ自分が生きるのに精一杯で、他者のしあわせに加担することなく、そればかりかりか反対の方に加担してきたのではないかと、あまりに遅く気付かされています。何に向かってか、ゆるしを乞わずにはいられません。「表札など」ん装幀を引き受けて下さった吉岡さんは、ふだん往き来もない私の願いをこの度も聞き入れて下さいました。大久保さんに詩集を出してもらう約束をした日から八年は経っております。 私は夢中でした。夢中で働いてきたのか、夢中で怠けてきたのかわかりません。詩はその余のこと。その余のことがわずかに私を証明してくれているようでもあります。 この、手に乗るほどの証明書を差し出すことで、ご覧下さる方のこころの門を通していただけるでしょうか。一九七九年四月 石垣りんで、童話屋による復刻版に付けられた「付記」がこうです。付記「略歴」は一九七九年花神社から発行されました。今回、付記ひとつにも行き詰っている私に、童話屋の田中和雄さんは電話の向こうから「割り箸のような一行を書くといいです。」復刻には「新しい箸を添えて」ということになるのでしょうか。賞味期限が気がかりです。二〇〇一年四月 石垣りん 初版から20年後、詩人自身が心配している「賞味期限」ですが、この復刻版から25年後の今、詩人が2004年に世を去って20年後の今、「賞味期限」はどうでしょうね。 戦前から、戦中、戦後の80年間を「夢中でした」と述懐なさる詩人の眼が見すえてきたもの それがなんだったのかを、今だからこそ、鮮やかに浮かび上がってくる、今だからこそ「賞味」するべき詩だと感じる作品を一つ紹介しますね。 儀式 石垣りん母親は白い割烹着の紐をうしろで結び板敷の台所におりて流しの前に娘を連れてゆくがいい。洗い桶に木の香のする新しいまないたを渡し鰹でも鯛でも鰈でもよい。丸ごと一匹の姿をのせよく研いだ包丁をしっかり握りしめて力を手もとに集め頭をブスリと落とすことから教えなければならない。その骨の手応えを血のぬめりを成長した女に伝えるのが母の役目だ。パッケージされた肉の片々を材料と呼び料理は愛情です、などとやさしく諭すまえに。長い間私たちがどうやって生きてきたか。どうやってこれから生きてゆくか。 通販で届いたり、コンビニから持ち帰ったパッケージを、「チン」とかして愛情や幸せを嚙みしめることが「生活」であることに疑問を持つことが、なんか、ヘンなこだわりであるかの世の中です。明石の魚の棚の魚屋さんが「こうせんと、売れへんねん。」と綺麗にさばいて、おつくりにして、パックしたお魚を店先に並べてさみしそうに笑っていらっしゃるのを、丸ごと持ち帰っても三枚におろせるわけではないのですが、さみしく思う老人には身に染みる詩ですね。 他の詩も、おいおい紹介したいと思いますが、今日はここまでです。2025-no112-1185 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.10.17
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徘徊日記 2025年10月5日(日)「東京駅!」 東京あたり 2025年の10月3日から5日まで東京に行きました。目的は結婚式参列です。5月にやってきた理由と同じです。式に集まっていたメンバーも、ほぼ、同じでしたが正面に座っているカップルが別人でした。 で、二日間の旅程を終えて神戸に帰る朝に、東京駅で旧友と再会です。 実はこの写真を撮る前に皇居前広場の道端で、50年前の同窓生とおしゃべりでした。「中に入ることもできるわよ。」「でも、あっこの入り口で持ち物検査とかしてるし。」「じゃあ、まあ、その辺の日影に座ってってことにしましょうか。」「うん、ボクはそれがいいけど。」「あのね、私、またまたギックリ腰やっちゃって、時々立ち上がらないとダメなのよ。それでもいい?」「だって、ボクは右肩折れていて、とにかく荷物を置きたいから。」 というわけで、右肩骨折とギックリ腰の二人は、もっと大きな木はないのかといいたい小ぶりな松の木陰で、立ったり座ったりしながらのおしゃべりタイムを過ごしました。東京に暮らす旧友と皇居前で再会! いつの時代の話やねんという感じですが、50年ほど昔に神戸の映画館で「スーパーマン」を見た二人には、ひょっとしたらお似合いの場所だったかも、ですね(笑)。 写真がないのは単なる撮り忘れです。しかし、まあ、それにしても皇居前の広場の写真を撮り忘れているのは、神戸に帰ってきて振りかえると不思議です。 で、まあ、神戸に帰る新幹線の時刻もそろそろというわけで、東京駅です。またね! 再会を約束して帰途につきました。 入線してきたのぞみ号です。喜んで写真を撮っていたら駅員さんがやってきて「あぶないですよ。」 叱られました(笑)。 安全柵の内側でも足元の黄色い点字ブロックよりホーム側にからだがあるとカメラが監視しているのだそうです(笑)。とどのつまりは、お調子者を叱られる結末でしたが、たのしい旅でした。お世話をかけたみなさま、ありがとう!、またね!(笑) にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです。
2025.10.16
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井上剛「アフター・ザ・クエイク」シネリーブル神戸 二十代の半ばごろ、1979年、村上春樹が「風の歌を聴け」(講談社文庫)でデビューして以来、2023年の「街とその不確かな壁」(新潮社)まで、ずーっと、村上春樹フェチです(笑)。 ノーベル賞の噂とか何の関係もなく50年、ずっとです。どこが好きとか、どの作品が優れているとか、村上ワールドの特徴はとか、何の関係もなく好きです。読んで、浸る、ただそれだけです(笑)。 なにに浸っているのかの自覚もあまりありません(笑)。 だから、映画とかでも、原作が村上春樹だと聞けば見ちゃうんです。大森一樹監督が1981年に「風の歌を聴け」を映画にして以来、「ノルウェーの森」、「バーニング」、「トニー滝谷」、そういえば「めくらやなぎと眠る女」というアニメや「ドリーミング村上春樹」とかいうドキュメンタリィーもありましたね。 というわけで、見ました。井上剛監督の「アフター・ザ・クエイク」です。 神戸の地震のあと、だから1995年以降に村上春樹が書いた、それぞれ別の、四つの短編作品に対する、映像による統一解釈映画とでもいうべき作品でした。キーワードは「からっぽ」でした。 監督の井上剛という人は、もともとNHKの人だったらしいですが、「その街の子ども」の監督ですね。1968年生まれですから、ボクより15歳ほど若い方です。 この映画の題名の「クエイク」というのを最初に目にしたときにカエルの鳴き声かな?とか思いましたが、地震のことでした(笑)「ああ、このくらいの年齢の方は、こんなふうに春樹を読むんだ!」 で、まあ、そこが、面白かったですね。 井上監督よりも、もう10歳若い浜口竜介という監督が「ドライブマイカー」という短編を映画化したのを見たことがありますが、その時の面白さの理由の一つもそこのところだった気がします。 もっとも、二つの作品の脚本は、たしか1981年生まれの大江崇允という同じ人ですから、大体、そのあたりの方たちの読みということでもありますね。 多分、ボクは自分が村上春樹の作品のどこを面白がってきたのかが知りたいんでしょうね。長年読み続けてきた、直接の理由は、彼の文章が読みやすかったからです。もちろん、それはボクにとってであって、「村上春樹の作品は読みやすい!」と一般化する気は毛頭ありません。なにしろ、我が家においても、次の世代であるゆかいな仲間たちの中で手に取った仲間もいるのですが、感想はたいてい「なんだかなあ???」だったわけですからね。にもかかわらず、ボクにはスラスラ読めちゃうんですね。 で、その観点からの感想でいえば、この作品「アフター・ザ・クエイク」の、一つ目のエピソードは、ちょっとシンドかったですね。まあ、よく知りませんが、登場する小村さん(岡田将生)とか、未名さん(橋本愛)、シマオさん(唐田えりか)とかを演じているのは、人気の俳優さんらしいのですが、沈黙と間で人間という存在の「からっぽ」の様相を描こうとしているかの展開は、ボクにとっては小説を読んでいるときと真反対のイメージで、まあ、「からっぽ」などということを演じるのはただでさえ難しい気がしますが、ちょっとついて行けませんでしたね。 その点、焚火のエピソードに登場する順子さん(鳴海唯)と三宅さん(堤真一)とか、カエルくんと葛藤する片桐さん(佐藤浩市)のテンポにはそこそこ付いていくことができて悪くなかったですね(笑)。 ああ、それから、ノンという俳優さんがどんなふうに出てくるのかと期待していたんですがカエルくんの声だけだったのは残念でした(笑)。下のチラシのカエルくんがのんちゃんだと言われても困りますよね(笑)。 最後に付け加えれば、日常のドアを開けた先にある、暗く、ほの赤いランプの光の廊下に影のようにうごめく人間(?)の描写に、この監督の、村上春樹作品に対する読みの肝があるのでしょうが、なんだか、疲れましたね(笑)。 世間がいう、村上ワールドって、こういうイメージなんでしょうか。監督 井上剛原作 村上春樹脚本 大江崇允撮影 渡邉寿岳編集 大庭弘之音楽 大友良英キャストエピソード1 岡田将生(小村 夫)橋本愛(未名 妻)唐田えりか(シマオ 友人)吹越満(神栖 叔父)泉澤祐希(佐々木 同僚)北香耶(ケイコ 佐々木の妹)エピソード2 鳴海唯(順子 家出娘)堤真一(三宅 ホームレス)黒崎煌代(啓介 順子の彼氏)エピソード3 渡辺大知(善也 神の子)黒川想矢(2001年の善也)井川遥(善也の母)渋川清彦(田端 教団の人)エピソード4 佐藤浩市(片桐 ホームレス)のん(かえるくん 声)錦戸亮(クシロ 介護士)2025年・132分・G・日本2025・10・13・no145・シネリーブル神戸no331追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.10.15
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石垣りん「崖」・「弔詞」(「表札など」より) 石垣りんの第2詩集「表札など」を持ち出したかぎりは、この詩を案内しないわけにはいきませんね。彼女がひとりの女性として戦後という社会を生きた人であることは、ある時代、例えば高等学校の国語の教科書にまで載せられて語られたことが、2025年の今、果たして記憶されているのでしょうか? たとえばの話、今、20代の「日本文学科」の女子大生が50名いらっしゃるとして、ボクがこの詩を差し出して、知っていると答える方が何名いらっしゃるか、ボクの予想は、一人もいないということなのですが、いかがでしょうね。 いかがでしょう、小さな声でイイですから、声に出して読んでみてください。戦争とは何だったのか?、日本の近代社会とはどういう社会だったのか?、まあ、そういう難しいことを考える前に、戦争で命を落とした人たちはどこに行ったのかという素朴な問いから思い浮かべてほしいと思いますね。 崖 石垣りん戦争の終わり、サイパン島の崖の上から次々に身を投げた女たち。美徳やら義理やら体裁やら何やら火だの男だのに追いつめられて。とばなければならないからとびこんだ。ゆき場のないゆき場所。(崖はいつも女をまつさかさまにする)それがねえまだ一人も海にとどかないのだ。十五年もたつというのにどうしたんだろう。あの、女。 最近、女性政治家の方が、大日本帝国の行った戦争で亡くなった兵士の方たちが祀られている施設にお参りするのしないのということが話題になっていますが、あの施設にはサイパンや沖縄で亡くなった人たちは祀られているのでしょうか? 次の詩に出てくる海老原寿美子さんとそのお母様は祀られているのでしょうか。石垣りんの詩を読むということは、そういうことを問いかけられることだという気がするのですが、できれば、若い人たちに、そういう問いと出会ってほしいと思います。 弔詞 石垣りん 職場新聞に掲載された一〇五名の 戦没者名簿に寄せてここに書かれたひとつの名前から、ひとりの人が立ちあがる。ああ あなたでしたね。あなたも死んだのでしたね。活字にすれば四つか五つ。その向こうにあるひとつのいのち。 悲惨にとぢられたひとりの人生。たとえば海老原寿美子さん。長身で陽気な若い女性。一九四五年三月十日の大空襲に、母親と抱き合って、ドブの中死んでいた、私の仲間。あなたはいま、どのような眠りを、眠っているだろうか。そして私はどのように、さめているというのか?死者の記憶が遠ざかるとき、同じ速度で、死は私たちに近づく。戦争が終わって二十年。もうここに並んだ死者たちのことを、 覚えている人も職場には少ない。死者は静かに立ちあがる。さみしい笑顔でこの紙面から立ち去ろうとしている。忘却の方へ発(た)とうとしている私は呼びかける。西脇さん、水町さん、みんな、ここへ戻って下さい。どのようにして戦争にまきこまれ、どのようにして死なねばならなかつかた。語って下さい。戦争の記憶が遠ざかるとき、戦争がまた私たちに近づく。そうでなければ良い。八月十五日。眠っているのは私たち苦しさにさめているのはあなたたち。行かないで下さい。 皆さん どうかここに居て下さい。 詩人が「皆さん どうかここに居て下さい。」と呼びかけたのは50年以上も昔のことですが、詩人に対しても、詩人が声をかけたかった人たちにも「皆さん どうかここに戻って来て下さい。」呼びかけたい時代ですね。 写真は30年ほど前に同僚だったお友達が送って下さった秋の野のアゲハです。花はフジバカマのようですね。2025-no110-1183 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.10.14
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「結婚式です!乾杯です!」 徘徊日記 2025年10月4日(土) 東京・赤坂あたり 東京徘徊二日目は結婚式です。乃木神社です。この本殿の中に座りました。カメラは禁止です。で、本殿で笛とか、笙とか、鳴り物が鳴って、ウォーン、ピー、シャン♪ ウェーン!ウェーン!厳かなそのもので始まったのですが、新婦の、多分、姪っ子ちゃんが鳴り物に怯えて、声をあげて泣き始めて、実に、シマクマ君ごのみの展開で、とても思い出に残る良い式でしたね(笑)。 で、乃木会館とやらで披露宴です。席に着くとこんなカードです。 実は、ここに書かれている8組の仲間の結婚式参列は3人目です。担任でも主任でもありません。ただの図書館のおっちゃんでした。「腹減った。」「チキンラーメンならあるで。」という出会いです。それが、10数年たって「センセー」とかお声を掛けていただけるのですから、まあ、教員冥利に尽きる話です。 で、出番は乾杯!でした。話始めると止まらない老人の繰り言を皆さんで聞いて、笑いや、拍手なのですから、まあ、至福の時でしたね。 Oくんとカナちゃんのグッド・ウィル・ハンティングの旅の旅立ちに乾杯!です。 司書室のチキンラーメンの味が忘れられないことをボツ・カードで伝えてくれたOくんは、高校時代から、すでにして、グッド・ウイル・ガイだと思っていましたが、この日初めて出会ったカナちゃんも素敵でした。まあ、ボツ・カードを捨てずにテーブルに置いていてくれたことが、とにかくサイコー!でした(笑)。 にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです。
2025.10.13
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「オッ!さんぽ リハビリ帰りの彼岸花。」 徘徊日記 2025年10月7日(火)団地あたり 今日は10日ぶりのリハビリの日でした。若い療法士さんが老人のおしゃべりに耳を傾け、時折、相槌をうったり、ご自身の経験を語ったりしながら右腕から背中の動きを促すようにリードしてくれます。一人でやるのは痛くて怖いのですが、「こうしたら痛いですか?」 そういうふうに声を掛けていただきながら動かすのは、むしろ楽しい気分です。30分ほどの時間があっというまで、さて、帰り道です。 住んでいる棟はこんな様子ですが、内側の壁面やベランダは修繕が進んでいます。8月から2か月の暑い夏でしたが、住んでいる住民も暑かったのですが、作業する人たちも大変でしたね。 部屋の南の柵沿いの芝生には今年も彼岸花が咲きました。 で、夕方には月です。今日は、今年の「中秋の名月」の日ですね。ご近所の方がスマホを構えていら者るのに、偶然、出くわして思い出しました。秋なんですね(笑)。 スマホで撮りましたが、なんだか嵐の前の月のようになってしまいました(笑)。実は、空の方の写真を撮ろうと差し上げたがスマホの画面タッチが、ようやく、右手の指でできるようになったんです。当分、楽しいリハビリ通いが続きますね。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです。
2025.10.12
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アラン・ラウ「灰となっても」元町映画館 10月の始めに東京旅行を控えて、あれもこれもと焦る気分で見た映画の1本がこの映画でした。アラン・ラウ「灰となっても」です。 忘れられないドキュメンタリィーの傑作「時代革命」でカメラマンを務めたアラン・ラウが、それ以来撮り続けてきたフィルムを集大成したというべき作品で、弾圧のすさまじさと、闘い続ける学生や市民の姿に息をのむシーンの連発です。 見る前に「灰となっても」という題名に、ちょっと腰が引けました。「理大囲城」、「乱世備忘 僕らの雨傘運動」、「少年たちの時代革命」などの1997年のイギリスによる租借地返還に始まった、資本主義のイギリスによって培われてきた香港の民主的制度、共産主義を標榜する全体主義国家にすれば、許すべからざる一国二制度に対する、なし崩し的弾圧と抵抗の記録の作品群をボクは見てきました。で、今回の作品名が、あきらかに暗示している「敗北」を直視することが不安だったんですね。 で、見始めて、くぎ付けでした。題名は香港の民主化闘争の行く末について、「Rather Be Ashes Than Dust」(たとえ灰になっても埃にはならない)、という、見ながら気づいたのはアンジェイ・ワイダの名前でしたが、誰かの詩のことばが引用されていて、そのことばは命がけで民主化闘争を撮り続け、今ではイギリスに亡命する境遇であるアラン・ラウというジャーナリストの決意の宣言!だったことを納得して、やっぱり、涙がこぼれました。 ボクたちが暮らしている、目の前の社会でも唾棄すべき現実が広がっている気がしますが、世界には闘い続けている人がいるんです。拍手!ですね。 なんにもできないですが、映画館でガンバレ!と呟くことはできますからね。 もしも、香港の民主化の歴史と未来に、少しでも関心のある方がいらっしゃれば、必見だと思います。これほど迫ってくるドキュメンタリィーはそうないんじゃないでしょうか。監督・撮影・編集 アラン・ラウ2023年・118分・G・香港・イギリス・カナダ合作原題「寧化飛灰」・英題「Rather Be Ashes Than Dust」2025・09・27・no135・元町映画館no316追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.10.11
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ウェス・アンダーソン「ザ・ザ・コルダのフェニキア計画」シネリーブル神戸 映画館を徘徊し始めて、まだ、数年ですが、2025年現在、すでに、何本か見ているのがこの監督です。そういうと、ファンのようですが、ドレモ、コレモ、ポカーン!の連発の、あの、ウェス・アンダーソン監督の新作だというので見ました。どうせ、また、ポカーンだろう・・・とは思いながらも、やっぱり見てしまう不思議な魅力が、ボクにとっては捨て難い監督なのですが、見たのは「ザ・ザ・コルダのフェニキア計画」です。 まあ、独特な映画手法について、あれこれいう気は、ボクにはあまりにないのですが、ザ・ザ・コルダとかいう主人公の命名から、フェニキアという、なんだか大昔にはあったような国名の持ち出し方といいい、やっぱり、ポカーンだったのですが、気になったことはフェニキアですね。多分、普通に思い浮かぶのは古代地中海世界なのですが、映画は20世紀後半のヨーロッパ世界を想起させる利権争いの顛末で、やたらキリスト教的死後世界の戯画が出てきて、そのうえ、ザ・ザ・コルダなんて名前は、イギリスとかフランスというより、今、戦場化しているウクライナからドイツあたりの中部ヨーロッパのヤバイ地域を連想させるんですよね。 まあ、いつものことですが、この監督は現実世界について、微妙にかすっては見せるけれど、だから、まあ、ふーん、ポカーン、ニヤ、ニヤという感じで見終えてきたのですが、今回はキリスト教の描き方なんかにも、何かが露出している印象を受けて、そこが面白かったですね。 ウェス・アンダーソンが何を考えて、この作品を作っているのというようなことについては、もちろん、サッパリわからないのですが、ヨーロッパ全域に広がるフェニキア帝国(?)という発想は意味深ですね。21世紀の世界に対する皮肉っぽい戯画が描かれようとしていたかも???なんて、帰り道に思い浮かべたのですが、こっちも先が見えないわけで、やっぱりポカーンですね(笑)。 監督・原案・脚本・製作 ウェス・アンダーソン原案 ロマン・コッポラ撮影 ブリュノ・デルボネル編集 バーニー・ピリング アンドリュー・ワイスブラム音楽 アレクサンドル・デスプラキャストベニチオ・デル・トロ(ザ・ザ・コルダ 大金持ち)ミア・スレアプレトン(リーズル 娘・修道院帰り)マイケル・セラ(ビョルン)リズ・アーメッド(ファルーク王子)トム・ハンクス(リーランド)ブライアン・クランストン(レーガン)マルセイユ・ボブマチュー・アマルリックリチャード・アイオアディ(セルヒオ)ジェフリー・ライト(マーティ)スカーレット・ヨハンソン(いとこのヒルダ・サスマン=コルダ)ベネディクト・カンバーバッチ(ヌバルおじさん)“エクスカリバー”ルパート・フレンドホープ・デイビス(修道院長)ウィレム・デフォービル・マーレイシャルロット・ゲンズブール2025年・102分・G・アメリカ・ドイツ合作原題「The Phoenician Scheme」2025・09・30・no138・シネリーブル神戸no328追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.10.10
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徘徊日記 2025年10月3日(金)「東京 築地」 東京あたり 2025年の10月、徘徊老人は今年2度目の東京です。5月の連休だった前回同様、10年以上前、最後の勤め先で出会ったO君という友人の結婚式に招待していただいての上京です。ただのお上りさんであるシマクマくんにとって問題は、大都市東京の交通網です。地図見るだけで気が遠くなります。「さあ、どうしよう・・・・?」 前回はS君という、同じ式に同席予定の青年が新幹線のホームからエスコートしてくれて、東大とか、上野とか、いろいろ案内してくれて安心スタートだったのですが、さて、今回は?ですが「夏に骨折って、まだ、治ってないんでしょ!ホームまで迎えに行きますからね。」 なんと、30年も昔に教室で「さとこ、さとこ!」と呼び捨てにしていたMさんにホテルまでのエスコートを申し出ていただいて、とりあえず到着したのが隅田川にそった築地の高層マンションでした。 高校時代も天使のような少女でしたが、今でも救いの神でした。東京駅から築地の御自宅までお連れ頂いて、目の前にこの風景です。「夜は月島でもんじゃね。」「月島って、この向こう?」「うん、歩いて行けるよ。」「たしか、友達、住んでる。」「学生時代の?」「そうそう、5日に会う人。ボク、この島に憧れてたことあって、昔、そこの渡し場とか見に来たことがある。」「そう、すぐそこに渡し場の跡地があるわよ。」 というわけで、もんじゃ屋さんでビールを飲んで、なんと、ボクの出た学校の後輩だとかいう彼女のすてきなパートナーさんとも合流して、実に幸せな一晩でした。いや、ほんと、Mご夫妻にこころから、ありがとう!の夜でした。 というわけで、徘徊日記はこれで終わりなのですが、実は、この夜、さとこさんがこんなことを言ったんです。「センセー、田中小実昌とか知ってる?」 もちろん、知ってます、ある時期、愛読してたこともあります。でも、この夜、彼女がその名前を口にしたことが、なんだかとても印象的で心に残ったのです。まあ、予想だにしなかった名前が出たことが、なんだかとても嬉しくて、こうして忘れないようにしておきたいという気持ちです。 東京から帰ってきて引っ張り出してきたのがこの本です。で、ここの所、彼のエッセイにハマっています。そのうち読書案内に登場するでしょう。読み返したい本がどんどん増えますね(笑)。 というわけで、東京初日は無事終了!です。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです。
2025.10.09
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ポール・トーマス・アンダーソン「ワン・バトル・アフター・アナザー」シネリーブル神戸 今年の7月頃だったと思いますが、トム・クルーズ63歳の「ファイナル・レコニング」と、ブラッド・ピット61歳の「F1」という二つの新作を見て喜んでいると、いつもお声を掛けて下さる支配人さんから「じゃあ、次は秋のデカプリオですね(笑)。」 と、おっしゃっていただいていた作品が封切られたので、早速、見ました。ポール・トーマス・アンダーソンという監督の「One Battle After Another」です。 トム・クルーズとブラピは、それぞれ還暦をこえていて、まあ、老骨に鞭打ってと笑ってもいいかもですが、デカプリオはまだ50歳です。アクションだって、お顔だって、まだまだお若いでしょと思ってみていると、映画は若き過激派デカプリオ君が、まだ、赤ん坊の娘を連れて逃げるという展開ではじまりますが、あっという間に、まあ、映画ですから、シーンが変わると時間が経っていて、娘は15歳、まわりの大人たちもそれ相応の年齢、だって15年が過ぎているのですから、という展開で、若かった爆弾犯が逃亡生活に疲れてという展開ではあるのですが、今どきの50歳なんて目じゃないおじさん化して! これがまたよくお似合いでした(笑)。 まあ、お話は、トランプとかが喚きたてているアメリカの移民政策の現実に対して、いわば、真っ向からの戦いという、アメリカ事情とかにうとい老人には「こういう運動って、ホントにあるの?」という、結構、過激なシチュエーションなのですが、結局のところ、デカプリオが演じているのは、父と娘の出会いというか、大人になっていく娘によって発見される父親というかの物語で、そのあたりは、さすがに、まあ、年の功というか、お上手でしたね。拍手! で、この映画の中で、ボクが面白かったのはショーン・ペンですね。彼は、爆弾犯とかを追いかけたり、不法移民を取り締まる側の軍人だか、警察官だかの役なのですが、奇妙奇天烈なキャラクターなんです。チラシにはヘンタイ軍人と表現されていますが、「ヘンタイってなんやねん!?」なわけで、要するに移民排斥思想の裏にある、まあ、カルト的とでもいうべき、白人至上主義を描くための狂言回し的な役柄を演じていて、妙な迫力があって拍手でした。 映画全体としては、まあ、アメリカ社会の裏に触れたい意図は面白いのですが、ちょっとチグハグな印象で残念でしたね(笑)。監督・製作・脚本・撮影 ポール・トーマス・アンダーソン製作 アダム・ソムナー サラ・マーフィ製作総指揮 ウィル・ワイスク撮影 マイケル・バウマン 美術 フローレンシア・マーティン衣装 コリーン・アトウッド編集 アンディ・ユルゲンセン音楽 ジョニー・グリーンウッドキャストレオナルド・ディカプリオ(パット・カルフーン ボブ・ファーガソン 父)ショーン・ペン(スティーブン・J・ロックジョー 追跡者・軍人)ベニチオ・デル・トロ(センセイ/セルヒオ・サン=カルロス)レジーナ・ホール(デアンドラ)テヤナ・テイラー(パーフィディア・ビバリーヒルズ 母)チェイス・インフィニティ(ウィラ・ファーガソン 娘)ウッド・ハリス(ラレド)アラナ・ハイム(メイ・ウェスト)2025年・162分・PG12・アメリカ原題「One Battle After Another」2025・10・06・no140・シネリーブル神戸no330追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.10.08
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相馬庸郎「日野啓三 意識と身体の作家」(和泉書院) 2024年の秋口、何気なく手に取った日野啓三という作家の「落葉 神の小さな庭で」(集英社) という、2002年に亡くなった作家の最後の短編集にはまり込んで、誰かが何か言っていないかを探したところこの本が見つかりました。 相馬庸郎先生の、これまた、おそらく最後のお仕事である日野啓三論集、「日野啓三 意識と身体の作家」(和泉書院)です。 先生と敬称をつけたのには理由があります。ボクにとって相馬先生は大学生だった頃、近代文学の教授として5年間お世話になり、卒業後、神戸で震災があったころから、お仲間に加えていただいた「現代小説を読む会」という読書会で同席させていただく機会があり、先生の最晩年、10年余りの年月、「せんせい」と呼び続けさせていただいた方です。 日野啓三の短編集の出版が2002年、この論考が出版されたのは2010年、その間に8年の間隔がありますが、日野啓三の晩年の作品群が出版されていた当時です。 考えてみれば20年も昔のことなのですが、ボクは相馬先生が読書会の席でこの作品集をはじめ、作家の晩年の「天池」(講談社)、「梯の立つ都市 冥府と永遠の花」(集英社)などに収められた作品について語られていた場所に十数人の皆さんと同席していたのです。 もちろん、「落葉 神の小さな庭で」(集英社)も、その中にあって、ボクは先生の感想を直接聞いたはずなのですが、お顔は思い浮かぶのですが、声は聴こえてきません。 先生が2015年にお亡くなりになって10年の年月が流れたのですね。今回、本書を手に取り、 1 もう一つの戦後文学 まことに単純なことだが、「われとは何か」、「自我のレーゾンデートルは何処にあるか」、「おのがアイデンティティーは何処に求めるべきか」等々の問いは、必然的に、「ひとは如何に生くべきか」という問いと隣り合っている。これらは、近・現代に生を受けた人間の意識に課せられた宿命的な問いであり、近・現代文学そのものに課せられた宿命的な問いでもある。(P11) という書き出しの文章を読みながら、先生のお声が吶々と、しかし、力強く聴こえてくることを実感しました。 その言葉づかいもさることながら、「ひとは如何に生くべきか」という問いこそが、近・現代文学そのものに課せられた宿命的な問いだ。と喝破されている、その文学的態度の宣言にこそ、相馬先生の声の響きが聴こえてきました。こみあげてくる懐かしさの中で、この書き出しを読みながら、もう、50年ほども昔のことなので定かではありませんが、確か、石川啄木の評論の購読授業だったと思います。同席の生真面目な学生の発言に対してからかいの発言をした学生だったボクに対して「シマクマ君、そういういい方はダメですよ。」と穏やかに窘められた経験がありありと思いだされたのでした。 本書は相馬先生の最後のお仕事で、下に貼った目次を御覧になればおわかりだと思いますが、1975年、「あの夕陽」で芥川賞をとった日野啓三の、1992年の作品「断崖の年」以降の作品について、一作、一作、丁寧に読みこまれた論文集です。 日野啓三は読売新聞社の外報部の特派員としての軍政下の韓国、戦争最中のベトナムでの経験を文学化した作家ですが、肝臓癌が発見された後の「断崖の年」以降、「台風の眼」から最晩年の「落葉」にいたるまで、闘病生活での自己凝視が作品の特徴ですが、本書において相馬先生は、それぞれの作品について一作、一作、噛みしめるように丹念に論じていらっしゃって、ボクの中では、あの、相馬先生の「声」が響き始める読書でした。 と、まあ、ここまで書いてきて下の目次にある作品論からの引用を思いついたのですが、実は、某女子大の図書館からの借り出し本で、すでに返却してしまったというわけで、本書が手元にありません。とりあえず、目次は載せておきます。興味を感じられた方は、どこかの図書館で借りだしてお読みください。目次1 日野啓三序説2 『断崖の年』3 『梯の立つ都市 冥府と永遠の花』4 『聖岩』5 晩年の長編小説6 『落葉 神の小さな庭で』 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.10.07
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石垣りん詩集「表札など」(童話屋) 久しぶりの市民図書館で借りてきたのは石垣りんの「表札など」という第2詩集です。1968年、詩人が48歳だった時に思潮社から出されて、その後、花神社から再刊された詩集ですが、ボクが借りたのは詩人が80歳で、まだ存命だった2000年に童話屋から復刊された本です。 ボクが、いかにも石垣りんだとボクが感じるのはこの詩です。 シジミ 石垣りん夜中に目をさましたゆうべ買ったシジミたちが台所のすみで口をあけて生きていた「夜が明けたらドレモコレモミンナクツテヤル」鬼ババの笑いを私は笑った。それから先はうつすら口をあけて寝るよりほかに私の夜はなかつた。 いかがでしょう。これが石垣りんのユーモアですね。 で、詩集の書名にもなっている「表札」がこれです。 表札 石垣りん自分の住むところには自分で表札を出すにかぎる。自分の寝泊まりする場所に他人がかけてくれる表札はいつもろくなことはない。病院へ入院したら病室の名札には石垣りん様と様が付いた。旅館に泊まっても部屋の外に名前は出ないがやがて焼場の罐(かま)にはいるととじた扉の上に石垣りん殿と札が下がるだろうそのとき私はこばめるか?様も殿も付いてはいけない、自分の住む所には自分の手で表札をかけるに限る精神の在り場所もハタから表札をかけられてはならない石垣りんそれでよい。 この第2詩集を出された時の詩人のあとがきがこれです。 あとがき 伊豆の五郎は私と同じ年のはとこ。四十を越して、遠くたずねてゆくとムスメが三人顔をそろえる。ひとり者だからと言つて、私が何もこしらえないのは申しわけない。 借金を勤め先にわずかばかり。それはいいとして、借情、借交、借手紙、そんあ言葉があろうかと思うような、身にふりつもるもので齢も心も重たくかしいできた。 これは私の、九年前に出した一冊に続く二冊目の詩集。はずかしいけれど精いつぱいでほんの少々の返済。それに価格をつけるのはどういう了簡だ、面白くもない。と言われたら。だって、働いてきた。お金ではまだあなたに借りていない。 一九六八年八月 石垣りん 思えば、半世紀以上昔のことですが、ボクは70年代に読みました。ボクにとっては母親の世代の詩人ですが、激動の時代を、一人の生活者として生き抜き、女性として、人間としての誇りを自ら育ててきた「リン」とした言葉が響いていることにうたれた記憶があります。この詩集には教科書にも載せられていて、授業で解説したりしたこともある「崖」とかも入っていますが、そのあたりの作品は、いずれ案内するつもりですが、今日のところは、まず「シジミ」ですね(笑)。2025-no106-1179 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.10.06
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ジェフ・スタイン「The Who The Kids Are Alright」シネリーブル神戸 The Whoとか、今どき見に来る人ってどんな人なんだろうとか、自分のことを棚に上げて、映画館にやってきてみると案外な観客数で驚きました。 ボクは50年前に友達の部屋で聞いた記憶があるだけですが、ビートルズ、ストーンズの次世代のバンドだと思い込んでいて「My Generation (1965年)」という曲以外で知っていることといえば舞台で暴れてエレキ・ギターとか、とどのつまりはドラム・セットまでぶっ壊すというイカレ・バンドだったことですが、70年代の日本でも、舞台でギターを壊すシンガーはいた気がしますが、そういうのの元祖ですね。実際は、もろに同時代バンドでしたが、「ぶっ壊す!」だけが印象的なバンドでした。で、まあ、それがうれしかったんですね(笑)。なんでも、みんな、ぶっ壊したかったんですよね、あの頃は。 で、見たのは「The Kids Are Alright」という70年代のThe Whoを撮った1979年のドキュメンタリィーでした。 映画に漂っているムードが、何とも言えず、なつかしかったですね。ほとんどしゃべっているところなんて見たことがなかったリンゴ・スターがキース・ムーンという、この映画のあと、死んでしまったドラムスとはしゃいでいるのが印象的でした。 海の彼方でこういうのをやっているときに大学生だったんだなあという感慨に浸る作品で、映画のシーンによりも、記憶のシーンとのあれこれが、妙に、今の自分を揺さぶるのに、ちょっと困りましたね。彼らが歌っている音楽が、思いのほか素直だったことに、ちょっとびっくりでした(笑)。 何はともあれ。今このフィルムを見せてくれた映画館に拍手!でした。監督・脚本 ジェフ・スタイン編集 エド・ロスコウィッツ音楽 ザ・フー音楽監督 ジョン・エントウィッスルキャストザ・フーロジャー・ダルトリー(ヴォーカル)ジョン・エントウィッスル(ベース)キース・ムーン(ドラムス)ピート・タウンゼント(ギター)リンゴ・スタースティーブ・マーティントミー・スマサーズラッセル・ハートリーメルビン・ブラッグ1979年・110分・イギリス原題「The Kids Are Alright」2025・09・26・no134・シネリーブル神戸no327追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.10.05
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吉野耕平「沈黙の艦隊 北極海大海戦」109シネマズハット かわぐちかいじの原作が出た頃を振り返ると、もう、20年以上も昔なんですね。面白く読んだ記憶はありますが、結末は忘れています。 で、艦長の海江田四郎を大沢たかおが演じて映画になったのが2年前ですかね。「そういえば、海江田艦長って、あのキャラやったか?」 マンガを思い出しながら、納得なような、笑えるような印象です。なぜと問われると困るのですが、「キングダム」という、これまたマンガを実写映画にした作品で王騎という秦の武将の役をやっていた大沢たかおがのマンガのデフォルメをそのまま実物化したような雰囲気が、ちょっと、気に入っていて、109で今回の映画の予告編を見ていると彼が、こっちのマンガ原作映画でも主役で出ているのが目にとまって「見てみようか。」という気分になって見ました。見たのは吉野耕平監督の「沈黙の艦隊 北極海大海戦」です。 大沢たかおが秦の武将を演じる時と同じような顔で出てきたのが面白かったですね。 ただ、このお話の難しいところは、確か原作では数か月の出来事だったと思うのですが、こうして続編が出たり、場所が北極海だったりすればするほど、単独で世界の海を自由に移動できるという、原子力潜水艦を主役にした物語を支える、その特徴こそが、物語のリアリティを壊してしまうんですよね。 潜水艦を動かす動力が続く限り、この潜水艦が航行可能かといえばダメですよね。乗組員の食料とか魚雷の補給なしに「やまと」であること継続することは不可能なわけで、結局、陸にいる人間の物語になってしまうのですが、今回の作品も、そのあたりを描き始めると「面白いけど、アホらしい話」になってしまう印象を拭うことはできなかったですね。 ニューヨークを目指すはずの「やまと」が、なんで北極海にいるのかとか、海江田艦長による命令系統を支えているのは何で、乗組員との意思疎通はどうなっているのかとか、ジャーナリストの上戸彩は何がしたいのかとか、よくわからないことの山だったんですけど、潜水艦での戦いのシーンや、艦が空を飛ぶシーン、本物(?)の北極クジラのシーンはよかったですね(笑)。 ああ、それから、大沢たかおの「顔」の演技も拍手!でした(笑)。 「キングダム」とか、「ゴールデンカムイ」とかでもそうですが、こういう柄の大きなマンガの、ほとんど無茶苦茶な映画、ボク、キライじゃないですねえ(笑)。 笹野高史の総理大臣には何のリアリティもありませんでしたが、風吹ジュンが保守党の政治家の役で出てましたが、ナカナカよく似合っていて笑えました。 まあ、対象化している現実がアホらしいので、戯画化の山なのです。で、戯画というのは、その戯画が現実に対してどれくらいな批評性を持ち得ているか勝負なのですが、そのあたりが希薄な印象なんですよね。監督 吉野耕平原作 かわぐちかいじ脚本 髙井光撮影 小宮山充編集 今井剛 室谷沙絵子音楽 池頼広主題歌 Adoキャスト大沢たかお(海江田四郎 艦長)上戸彩(市谷裕美 ジャーナリスト)津田健次郎(大滝淳 ヤマト保険)中村蒼(山中栄治 副長)松岡広大(入江覚士)前原滉(溝口拓男 乗組員・ソナー)渡邊圭祐(森山健介)風吹ジュン(海渡真知子 幹事長)トーリアン・トーマス(ボブ・マッケイ)ブライアン・ガルシア(ジョン・A・ベイツ)ドミニク・パワーリック・アムスバリー(ニコラス・ベネット 大統領)岡本多緒(舟尾亮子)酒向芳(影山誠司)夏川結衣(曽根崎仁美 防衛大臣)笹野高史(竹上登志雄 総理大臣)江口洋介(海原渉 官房長官)2025年・132分・G・日本 東宝追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.10.04
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アンドレア・アーノルド「バード ここから羽ばたく」シネリーブル神戸 なんとなく「なんなんこれ?」という気分で見ました。 アンドレア・アーノルドという、イギリスでは評判の監督らしいですが、ボクは知らない監督の「Bird」です。 少女がアホウドリですかね、白い海鳥をスマホで撮っていて、なんとはなしに「オッ、これは!」と思っていると、上半身裸で、その全面が落書きのような入れ墨、タトゥーっていうんですかね、そういうヘンなニーチャンがスケートボードのようなスクーターのような面白い乗り物で登場して、少女を後ろに載せてスイスイ町を走り抜けてお話が始まりました。 少女が、最後まで取り損ねたアホウドリの眼が印象的に光ったような気がしましたが、あれが、この映画のキモだったんですね。 「バード」と名乗る男がフランツ・ロゴフスキという、ヒイキの俳優さんで、彼が登場したの見て、思わず「ヨシ!」と掛け声をかけそうでしたが、期待通り、最後の最後まで切ない存在感で納得!でした。 主人公の少女ベイリーの描き方は、日本とかいううざい社会の片隅で世間には無関心を貫いてに暮らしているつもりの老人には、あまりにけなげで、一方で、実は彼女の父親だった入れ墨男をはじめとする大人たちは、もう、ポカンとするしかない人物たちの大集合ですが、なんだか、そういう大人たちの中で、子どもたちが、なんとか人間として生きているということが、今の世界には、普通に存在するんだという、やるせない実感を励ますように登場するのがバードことフランツ・ロゴフスキでした。 彼は見た目には大人なのですが、大人ではないし、だからと言って子供なのかというと、そうでもない。「なんだ、こいつは?」 まあ、そういう感じの訝しさに振り回されるように見入っていて、最後に気付きました。バードなんです! 最初のシーンで、スマホを構えたベイリーをじっと見ていた、あの目の持ち主なんですね。だから、どうなんだ、という問いには、だから、そうなんだ!とでも答えるほかに思いつきませんが、いしょに、この映画はいい映画だ!という納得がわいてくるのですから、やっぱり、拍手!ですね。 もう一枚のチラシです。ナルホド、バードは救い主なのですね。でも、宗教映画ではなかったと思いますね。 さて、動かすと激痛の右肩のせいというだけではなくて、今や、思うようにはばたくことの出来ない老人は、なんとなく、どうでもいいやと思っているはずの世間からも見捨てられたようなさみしい気分で、肩とか気にしながら、トボトボ歩く帰り道の向こうに聳え立っているビルのてっぺんを見上げてバードの姿を探しますが、夕闇の迫るそこにはカラスの影さえ見えません。せわしなく行き過ぎる、夕暮れの人影の中に立ちどまって、少女とバードの姿を思い浮かべながら、何とも言えないやるせなさに、ボーっとするのでした。 ザンネンながらこの世界には救い主はいないようですね。監督・脚本 アンドレア・アーノルド撮影 ロビー・ライアン美術 マキシーン・カーリエ衣装 アレックス・ボーベアード編集 ジョー・ビニ音楽 ブリアルキャストニキヤ・アダムズ(ベイリー)フランツ・ロゴフスキ(バード)バリー・コーガン(バグ)ジェイソン・ブダ(ハンター)ジャスミン・ジョブソン(ベイトン)フランキー・ボックス(ケイリー)ジェームズ・ネルソン・ジョイス(スケート)2023年・119分・G・イギリス原題「Bird」2025・09・24・no133・シネリーブル神戸no327追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.10.03
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ジョージ・ロイ・ヒル「スティング」シネリーブル神戸 アメリカの人気俳優ロバート・レッドフォードが9月16日に亡くなりました。89歳だったそうです。さっそく、ゆかいな仲間のピーチ姫から「ロバート・レッドフォードがついに死んでしまったよ。」というメッセージが来たりしてしみじみしていたらシネリーブル神戸で「ロバート・レッドフォード追悼」と銘打って「スティング」と「愛と哀しみの果て」の2本を日替わりで1週間やるというので、とびつきました(笑)。 見たのはジョージ・ロイ・ヒル監督、ポール・ニューマン、ロバート・レッドフォードのトリオの第2作、「スティング」ですね。 ストーリーとか、今さら触れるまでもない人気映画ですがシマクマくんにとっては忘れられない作品ですね。 兵庫県の北部、但馬地方で育って、まあ、和田山とか八鹿とかいう田舎町にも映画館があった時代ではあるのですが、高校時代に見たのは「忍ぶ川」だけという田舎者が映画狂い大学生になってしまった始まりが「明日に向かって撃て」と「スティング」の2本立てだったことは50年以上たった今でも忘れられません。もっとも、映画館がどこだったかは、まったくわからないのですが、1975年のことです。 映画のラストシーンで、完全に騙されていたことの驚きというか、快感というか、唖然とした体験が、映画館と学生会館には行くけれど教室には足が向かないまま7年半に渡って落第を続けた、まあ、何とか卒業はしましたけれど、始まりというか、因縁の作品ですね。「スティングやるらしいで。タタ、タタッタ、タッタター♪やんな。」「うーん、ちょっと違うけど、シネリーブル?」「うん、木曜まで。混んでるみたいやけど。」「私も行こかなあ。」 というわけで、休日は避けたにもかからずなかなか盛況な様子で、何とか前から4列目の席に座り込み、テーマが聴こえてくると涙が浮かび「さすがに、今回は騙されへんやろ!」とたかをくくっていたのですが、やっぱり機嫌よく騙されて(笑)、ご帰宅でした。「混んでたけど、やっぱ、よかったで。チンピラ、レッドフォード。ボクはポール・ニューマンやけどね。」「えー、やっぱり、わたしもいこ。」 というわけで、同居人は最終日に出かける決心をしたようですよ(笑)。 今考えると、ジョージ・ロイ・ヒルが1921年生まれ、ポール・ニューマンが1925年、二人とも戦争帰りで、一番若いロバート・レッドフォードが1936年生まれで、三人とも戦前生まれなんですね。この作品以来、ずっと贔屓だったポール・ニューマンなんて、ボクの父親と同い年で、生きていれば100歳ですが、あの二十歳の時にそれに気づいていたらどう感じていたか、感慨深いですね。 ビリー役のアイリーン・ブレナンとか、ロネガンのロバート・ショウはじめ、懐かしい俳優さんたちに拍手! で、まあ、なんといっても、今回上映してくれたシネリーブル神戸に拍手!です(笑)監督 ジョージ・ロイ・ヒル脚本 デビッド・S・ウォード美術 ヘンリー・バムステッド編集 ウィリアム・レイノルズ衣装 エディス・ヘッド音楽 マービン・ハムリッシュキャストポール・ニューマン(ヘンリー・ゴンドーフ 詐欺師)ロバート・レッドフォード(ジョニー・フッカー チンピラ詐欺師)ロバート・ショウ(ドイル・ロネガン ギャング)チャールズ・ダーニング(スナイダー 警部補)レイ・ウォルストン(J・J・シングルトン 詐欺師)アイリーン・ブレナン(ビリー 女詐欺師・スリ)ハロルド・グールド(キッド・ツイスト 詐欺師)ディミトラ・アーリス(ロレッタ 食堂のメイド)1973年・129分・G・アメリカ原題「The Sting」2025・09・30・no139・シネリーブル神戸no329追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.10.02
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吉本隆明「現代日本の詩歌」(毎日新聞社) 今日の案内は、すでにご案内している「近代日本文学の名作」(新潮文庫)の続編にあたる吉本隆明「現代日本の詩歌」(毎日新聞社)です。前作に続いて、おなじ編集者によって「聞き書き」されて二〇〇二年4月から1年間「吉本隆明が読む現代日本の詩歌」という新聞連載の記事が単行本にされた本ですが、あちらは新潮文庫で文庫されていますがこちらは単行本でしか読めません。上の写真は発行当時に購入した本です。 とりあえず「はじめに」の冒頭にはじめに 戦後の現代詩を主軸にして詩歌の全般を取り上げて短い解釈を試みた。本稿は、現代の詩歌を表現としての特徴をもとにして出来るかぎり類別し、それぞれの共通点を読解しようとするものである。当然のことながら、類似性が目立つ作品の方から取り出すことになるので、必ずしも詩史の新旧は問題としていない。また何を特徴として類似の基準とするかも、同質かどうかにこだわることもしなかった。新聞連載という性格から、どこまでも詳細にわたることができるし、どこで中断されてもそれなりの完結感を保てるよう工夫したつもりだといえる。そして、距離感をおなじにするために、はじめて個々の詩人に「さん」という敬称を用いた。訊ねられたり、吉本さんも紳士的になりましたねとからかわれたりしたので特記しておきたい。 中略小説作品が着飾った盛装姿だとすれば、詩は身体の骨格であり、その身体にやや古風な伝統的な衣装をじかに身につけたのが古典詩の世界と言うべきかもしれない。それが朔太郎の順序の本意かもしれない。わたしはまず朔太郎かもしれない。わたしはまず朔太郎からはじめられた「現代詩」について短い説明を試みてから、多様な個々のブロックの読解に入ってゆこうと思う。 二〇〇三年四月 吉本隆明 文中に朔太郎の順序とあるのは「中略」の文中で萩原朔太郎が「文芸ジャンルを順序として詩、批評、小説、その他の散文」と考えていたという記述に基づいています。 取り上げられている詩人や歌人、俳人、ああ、それから歌手や作詞家のラインアップは、下に目次を貼っておきますが、今回は毎日新聞の重里徹也という、この本を構成された方の後記が面白かったので引用します。 たとえば成熟ということ たとえば成熟ということでもいい。 日本の文学者は年を取るごとに洗練され、技術的にもうまくなっていくのだけれど、逆に当初持っていた魅力は失っていく。詩人も小説家も、ほとんどがそうではないか。表現者として成熟するということがなかなか難しくて、ある程度のところで、まとまってしまう。と吉本さんは言う。 内容ぜそんなふうになるのか。いろいろなふうに言い換えてもらった。 つまり、ワキが甘くなるからだという。ワキを締めたまま表現を深めていくのが、日本の文学者にはとても難しい。ドストエフスキーなら「甘いもヘチマもない」。夏目漱石は日本ではまったく例外的な作家で、年を追うごとに世界が深まっていく。ずっとワキが締まったままだったという。 ワキが甘くなるのは文学以外の世界とのつながりが弱くなるからだとも説明できる。自分の世界の中で技術的に固まっていって、その外とのやりとりがなくなってしまうと、作品が瘦せていくということだろうか。 それを吉本さんの言葉を借りれば、床板の上で仕事をするようになるということだ。ドストエフスキーや夏目漱石は、たえず床の下のことを考えていて、しばしば、床板を踏み抜いてしまう。ところが、多くの日本人の文学者は床の下のことなどわすれてしまって、床の上で作品を洗練させていく。 この問題について説明しながら、川久保玲さんのことにも触れて下さった。彼女もワキが甘くならない。ワキが甘くなると、日本のファッションデザイナーの場合、日本人の体形から遊離してしまうのだという。なにか日本人の体形に合わせようとしてしまうのだ。川久保さんのデザインは絶えず床の下との交通ができているので、そんな無理が起こらない。 いたって散文的な私が、一年間、吉本さんの自宅に通い続けながらうかがったのは、たとえばこんな話だった。(以下略)(P204~P205) 2025年の今、コムデギャルソン=少年のようにというブランドで一世を風靡した川久保玲の話とか懐かしい限りですが、「床下」との交通を忘れた日本の現在というふうな言葉がふと浮かんできますね。ここでは文学者の成熟の話題ですが、この文章が書かれてから20年、例えば映画館に通いながら「日本映画」とか見ていて、共通して感じる底の浅さには、個人の好みを越えた原因というか理由というかが、つくり手自身にも気づかれないままあるのかもしれませんね。 話がそれていますが、本書での、吉本隆明によるそれぞの批評については、また、別の機会ということで、今日はこれで失礼しますね。 目次のラインアップはこれです。谷川俊太郎 田村隆一 塚本邦雄 岡井隆 俳句という表現 夏石番矢 吉増剛造歌詞という表現 中島みゆきと松任谷由実 宇多田ヒカル優れた詩の条件 俵万智 佐々木幸綱と寺山修司 角川春樹暗喩の詩人、直喩の詩人 野村喜和夫 城戸朱理「戦後派」の表現 鮎川信夫 近藤芳美 西藤三鬼 吉岡実 谷川雁入沢康夫と天沢退二郎 茨木のり子 永瀬清子 清岡卓行 大岡信構成者後記2025-no101-1174 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.10.01
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