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上田城から鼠宿まで上田城跡公園を西口から出て、道なりに進むと右に緩くカーブする。その角に「左松本街道」「歴史の散歩道」と書かれた石碑が示すとおりに左折し、滑らかな坂道を下り路地にはいると坂下地区。歴史の散歩道あたりには屋敷の塀が長く延び、まるで時代劇の世界に入りこんだよう。そこから通りに出ると延命地蔵尊、芳泉寺。北上すると北国街道と松本街道が交差する角に出る。その道標には「道しるべ明治28年、上田橋が完成するまで、上田と別所あるいは中南信を結ぶのは、この道だけであり、茶店や商店がならびにぎわった。この道しるべは『この道を行くと北向観音ですよ』と教えており、古くからの重要な道路であったことをしのばせてくれる。」とある。 道なりに歩くと矢出沢川に架けられた高橋にでる。河川敷は、映画「たそがれ清兵衛」の決闘場面のロケ地。ここがあの…とひとり感慨にふけっていた。たそがれ清兵衛 決闘の地 そばや 車屋中盛り実は私、そばには目がなくて、毎日昼にはおそばの大盛りを食べている。車屋でも大盛りを頼んだが、混み合っていたため中盛りと相成った。親父さんとお母さんのご夫婦(たぶん)でやっている店。当日は大忙しだったけど、お客さん一人ひとりへの目配りが行き届いている。次回も上田に行ったらきっとこの店に行くだろう。おそばもこしがしっかりしていてわたし好みの味だった。ハナマル。北国街道道祖神●川の浸食力のものすごさを語る岩鼻生塚(うぶつか)で国道18号と合流。そこから上塩尻東で上田バイパスと交差するまで国道を歩く。町の横には太郎山に連なる虚空蔵山が迫っている。先に進むと小岩井紬工房の案内板が目をひいたので路地へ。こちらは、300年以上の歴史のある絹織物「上田紬」を、今も織り続けている会社で見学や体験もできるが、あいにく土日は休みで見学することはできなかった。小岩井紬工房沓掛酒造すぐ北には千曲川の谷が急に狭まって、千曲川の浸食によってできた岩鼻が東岸と西岸にある。 千曲川のほど近くにある岩鼻は、北国街道の最も難所で、加賀の殿様が参勤交代でこの地を通過すると「無事通過した」と飛脚を出して国に知らせたという記録が残っているとのこと。現在でも「国道18号線」と「しなの鉄道」が走るすぐそばを千曲川が流れている。 半過 岩鼻上田市と坂城町との境界 標高は415m。手元の時計では420m、まずまずといったところ。●松代藩が独自につくった私宿、鼠宿上田宿と坂城宿は幕府公認の本宿だが、鼠宿は真田氏が上田から松代に移ったときに設けた私宿。ここは上田藩と松代藩の境として厳しく品物や人の出入りを見張った所で、寝ずの見張りがいたので「寝ず見」が「ねずみ」になったという逸話が残っている。鼠宿の案内板には真田氏は、元和8年(1622)上田から松代に移ると、当時南条村と称していた金井村以南の地を鼠宿村と改め、翌9年に鼠宿村の北部と金井村南部を合わせて新地村を作るとともに、鼠宿と新地両村の共同経営とする鼠宿の宿場造成に着手した。とある。ねずみに似た形の「ねずみ大根」も当地の特産品。鼠宿看板鼠宿看板裏 善光寺道
2009.08.30
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信州大学繊維学部~上田城跡公園信濃国分寺駅から千曲川堤防に出ると、河川敷の広大な敷地のあちこちでゲートボールをする年配者が目に付いた。千曲川にかかる小牧橋と交差する上堀信号から上田市街地を目ざすとすぐに国道141号(佐久甲州街道)にでる。国道を突っ切って直進するとやがて信州大学繊維学部の入口に到着。外国人を含んだ学生がなにやら楽しげにはしゃいでいた。そのまま国道と並行に進めば科野大宮社に行き当たる。信濃国府の総社だったとも言われる科野大宮社は古くから上田地方の名社として信仰を集め、上田城を築城した真田氏は、上田城の鎮守として崇敬した。境内にはケヤキを中心に樹木が鬱蒼と茂り、上田市は社叢全体を天然記念物に指定している。科野大宮社●おすすめは池波正太郎真田太平記館科野大宮社から続く常田の通りの突き当たりを右に、次の横町交差点で左に道をとれば海野町商店街通り。オオムラ衣料品店前に上田宿本陣問屋跡の石碑が建っている。このあたりは宿場の中心地だったはずだが全くその面影はない。上田駅前から続く道と交差。ここを右折するとすぐに池波正太郎真田太平記館が現れる。館内には真田太平記関連の資料や、猿飛佐助や霧隠才蔵など真田十勇士の映像もあり、家族で楽しめる企画となっている。また池波正太郎さんの原稿や創作ノート、スケッチなども展示されていて、文筆家としてばかりか池波昭太郎さんの多彩な面をうかがい知ることが出来てこちらもお勧め。●宿場の面影を残す旧北国街道柳町北国街道、宿場町の面影が色濃く残る柳町中央3丁目信号で左折し、一筋目を右に入れば柳町。ここは旧上田市内でも江戸時代の家並みを最も良く残している通り。柳の木が多かったこの通りには旅籠屋や商家が軒を連ね、一時は呉服屋だけでも25軒もあったとのこと。柳町通りは古い時代の面影を残していることから、「青い山脈」(河崎義祐監督)や「姿三四郎」(岡本喜八監督)など数々の名作映画のロケ地としても有名だ。保命水保命水が湧く矢出沢川の手前を左折。川と並行に続く北国街道を上田城跡公園を回り込むように歩き、高橋の手前で左折。延命地蔵尊から円覚院へ、そして上田城へと趣のある町並みを歩いた。上田城跡公園では猿回しをやっていた。
2009.08.30
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海野宿から上田宿へ白鳥神社田中宿を後に上田宿方面に向かうと、途中、田中小学校を越したあたりから千曲川の堤防が姿を表す。堤防の小径を行くと道は大きく左にカーブしてしなの鉄道と交差。大きなケヤキの古木を目印に歩けば海野宿入口の白鳥神社にたどり着く。白鳥神社は後に真田氏などの祖となる平安時代の豪族、海野氏の氏神だ。また木曽義仲の挙兵に関わる神社としても知られる。その白鳥神社から北西に「日本の道百選」に数えられる海野宿の歴史の町並みが続く。街道沿いに流れる用水路や石橋、柳や松の並木、「海野格子」、「卯建(うだつ)」の上がる白壁の民家など、かつて賑わった当時の様子がよく保存されており、古い民家を活かした土産物屋や雑貨店、飲食店などが道行く人の興味をひく。海野格子卯建中でも見物は、寛政年間(1789~1801)に旅籠として建てられたという「海野宿歴史民族資料館」。明治になって宿場の機能が失われた後には養蚕農家として使われた建物だ。馬屋、帳場、座敷、味噌部屋、土蔵、桑屋、井戸などが当時の姿そのままで残されており、住民から寄贈された民俗資料が多数展示されている。奥には明治の養蚕、蚕種、製紙にまつわる資料室があり、カイコから絹織物になるまでの工程を学ぶことができる。海野塾歴史民俗資料館の中庭おなかも空いてきたので何か食べるものはと探せば「くるみおはぎ すいとんセット」の看板。地元産の胡桃を使ったおはぎと10種類の具材入りすいとんセットで1000円。横にはスミレの花が添えられていた。野菜がたっぷりのすいとん、くるみおはぎももちもちしていて大満足(^u^)。くるみおはぎ すいとんセット●太古の時間がゆっくりと流れる資料館海野宿で時間がつきた。街道を進めば次第に宿場の面影が薄れてその内に大屋駅へ。大屋駅から細い道を歩いていくとやがて国道18号に行き当たりすぐに国分寺史跡公園に到着する。ここにある資料館には信濃国分寺跡から発掘された瓦や須恵器、土師器などの土器類、硯などの遺物が展示されており、足を踏み入れると、太古の時間がゆっくりと流れていく。海野宿→ http://www.tomikan.jp/unno/index.html信濃国分寺資料館→ http://museum.umic.ueda.nagano.jp/kokubunji/
2009.08.30
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小諸宿から海野宿へと至る北国街道は時に国道18号と交わりながら、ほぼ並行に進んでいく。その西側にはしなの鉄道が走り、さらにその西に千曲川が流れている。北国街道を歩けば小諸宿と海野宿との中ほどに江戸時代の名大関と謳われた雷電為右衛門の碑や生家跡があるが、北国街道をはずれて布引観音を目ざすことにした。小諸城は、先年大河ドラマ「風林火山」で脚光を浴びた山本勘助築城と言われている。現在も残る豪壮な山門や天守閣跡、島崎藤村記念館などが、訪れる人びとを堪能させる。懐古園の南に接する道路を千曲川に向かって下ると信州・小諸の温泉宿、島崎藤村ゆかりの中棚荘がある。作家、島崎藤村は小諸義塾の教師として6年間をここ小諸の地で過ごしたという。千曲川いざよふ波の岸近き宿にのぼりつにごり酒にごれるのみて草枕しばしなぐさむと「千曲川旅情」の中に出てくる“岸近き宿”がこの中棚荘だ。ヤギもいました浅間山を北東に見やりながら千曲川対岸にある布引山の麓の県道40号を歩くと途中に出てくるのが、牛に引かれて善光寺の伝説で出てくる有名なお寺布引観音(釈尊寺)。信心の薄い老婆が川で布を晒していたところ、一頭の牛がその布を角にかけて走り出した。老婆は布を取り戻そうと牛を追って、野越え山越えたどり着いたのが善光寺。老婆はありがたさに思わず手を合わせというお話。その布引観音は行基創建の天台宗の名刹。断崖絶壁にかかる観音堂(重文)に安置されているのが伝説の布引観音。眼下に千曲川が流れ、小諸の城下町から、湯の丸高原、高峰高原、そして浅間山まで見渡す展望は見事だ。度重なる悲劇の宿場「田中宿」布引観音を後にして、千曲川沿いを下っていて見つけた「布下」という地名。布引観音の麓にあることが地名のいわれなんだろうとひとり納得。滋野駅を越えたあたりの橋で千曲川を渡り、しなの鉄道を越した。しなの鉄道に沿って歩けばやがて整備された田中の町並みへ。そしてそこから少しで田中駅に到着する。田中宿は海野宿とともに2つでひとつの合宿として慶長年間(1596年~1614年)に設置され、寛保2年(1742年)8月1日「戌の満水」と呼ばれる大水害に直撃され壊滅状態に。その為、半月交代で伝馬役のみ勤めていた海野宿に宿機能を譲らざるを得なくなった。さらに慶応3年(1867年)の大火で宿場の殆どが燃え去った悲劇の宿場。近年、道路の拡幅を伴う町の整備事業が行われた為、かつての宿場町としての面影を見つけるのは困難だ。
2009.08.30
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