殿上人日記

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2010年07月07日
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カテゴリ: 東京の旅

江戸城19

  昨年11月7日の東京見物日記

  さて前日の話に戻る。娘がビックサイトで中に入るの
  さえも1時間半も並ばなきゃいけない就活イベントに
  人にもまれて汗だくで参加をしている頃、私といえば
  数年ぶりで三度目の「皇居」、そうかつての「江戸城
  (別名を千代田城)」の見物に出かけていた


江戸城1

  ここは初めてだった。水戸浪士らが「安政の大獄」に怒り
  幕府の権力者であった大老の井伊直弼(いいなおすけ)を
  暗殺をした桜田門外の変の舞台。桜田門の「高麗門」だ

  この近くで事件は起こった


江戸城2

  「桜田門」とは、四角形の広場を設けた右折れの桝形の
  構造をしており、その外側の入口としては「高麗門」と
  内側の入口の「櫓門」の二つで形成をしており、国の
  重要文化財に指定をされている


江戸城3

  そして忘れてならないのは「二重橋」で、本来の名称は
  「正門鉄橋」という。かつて江戸城の木造の西丸下乗橋は
  橋桁が上下二段に架けられていた為、二重橋と呼ばれる
  ようになった。今の鉄橋は昭和39年に架け替えられた


江戸城4

  その手前側、土で出来た「土橋」の江戸城の西丸大手橋が
  あった位置に、明治20年に建造をされた「正門石橋」は
  二重アーチ構造であるので、二重橋と誤解をされやすい


江戸城5

  さて江戸城は、隅田川河口付近の麹町(こうじまち)台地の
  北に、扇谷上杉氏の家臣であった太田道灌(どうかん)が
  長禄元(1457)年に築いた平山城である

  その後には扇谷上杉氏から、後北条氏の手に渡ったのだが
  豊臣秀吉の小田原攻めによって、後北条氏が滅び去って
  徳川家康が、後北条氏の旧領の「関八州」(相模、武蔵、安房
  上総、下総、常陸、上野、下野)が与えられた


江戸城6

  本拠地であった駿府(静岡)から、江戸に移った権大納言
  徳川家康が、天正18(1590)年8月朔日(1日)に江戸城に
  公式に入城をして居城としたので、旧暦の8月1日の「八朔
  (はっさく)」を、幕府は正月に次ぐ祝日とした


江戸城7

  「桜田櫓(巽櫓)」は江戸城に残る唯一の隅櫓で、有事に
  備え鉄砲や弓、長柄、持筒などが保管をされ、出窓状の
  突き出しが石落としで、弓や鉄砲を撃つ狭間も持っている

  江戸城には同様の二重もしくは、三重の櫓が20基もあった
  そうで、他には富士見櫓、伏見櫓が残っているだけだ


江戸城8

  慶長12(1607)年に、藤堂高虎によって一年以上をかけ
  完成をしたのが江戸城の正門である「大手門」で、その
  警備は鉄砲30、弓10、長柄20、持筒2で、譜代十万石
  以上の大名がこれを勤めたそうである


江戸城9

  昭和20年4月、戦災で焼失をした「旧大手門渡櫓」の屋根に
  飾られていたシャチで、頭部には「明暦三丁酉」と刻んであり
  1657年の明暦の大火の焼失による再建時に製作をされた


江戸城10

  「三の丸尚蔵館(しょうぞうかん)」は、昭和天皇の崩御後
  皇室から寄贈をされて国庫に帰属した美術品を保存
  研究公開するための施設として、開館をされたものだ


江戸城11

  大手三の丸(大手下乗門)を警固をする与力や同心が詰めて
  いた「同心番所」を、駕籠や乗馬のままで通る事が出来たのは
  尾張、紀伊、水戸の御三家だけで、それ以外の大名は駕籠や
  馬から降ろされて検問を受けたそうだ

  お供の者どもは主人の帰りをここで待っており、彼らが
  色んな情報の交換をしていた事が「下馬評」の語源だとか


江戸城12

  本丸、二の丸へと続く大手三之門の警護所「百人番所」
  鉄砲百人組と呼ばれていた甲賀組、伊賀組、二十五騎組
  根来組の同心百人が、昼夜交代で詰めて警護にあたった

  同心(どうしん)とは、江戸幕府の下級役人のひとつで
  与力の下で庶務、警察などの公務に就いたそうで、徳川家
  直参の足軽は全て同心となって、特に「譜代」と呼ばれ
  無役となっても俸禄を受ける事ができ、子孫にもこれを
  受け継がせる事が出来たそうだ


江戸城14

  「松之大廊下(まつのおおろうか)」は、江戸城内にあった
  大廊下の一つで、本丸御殿の大広間から将軍との対面所で
  あった白書院に至る全長約50メートル、幅4メートルの
  四畳敷の廊下で、廊下に沿った襖(ふすま)に、松と千鳥の
  絵が描かれていたことから、松之大廊下と呼ばれた


江戸城16

  元禄14(1701)年、3月14日の午前10時頃の事だ
  勅使饗応役であった若き赤穂藩主、浅野内匠頭長矩が
  高家肝煎の吉良上野介義央に、この廊下で斬りつけた


江戸城15

  「冬桜」は冬11月から1月と春4月と、2度咲く花で
  マメザクラとヤマザクラあるいは、サトザクラとの雑種と
  いわれているそうだ。このあたりは大奥だった


江戸城18

  天守台(江戸城天守跡)は、本丸の北端に位置をしており
  最初の天守は少し南にあったそうで、三代将軍徳川家光が
  大改修を行い、外観五層内部は六階建ての天守が完成した

  天守台を含めた高さは58メートルもあり、房総半島からも
  天気が良い日には見れたのが、明暦の大火で焼失してしまい
  直ぐに再建も図られて、前田綱紀によって今も残る御影石の
  天守台が築かれたのだが、太平な世の中ゆえに、天守は建設を
  されず三重の「富士見櫓」がそれにかわったそうだ


江戸城17

  香淳皇后のご還暦を記念して昭和41年建てられた音楽堂は
  香淳皇后のお印である「桃」や、画号の「桃苑」にちなんで
  「桃華楽堂」という

  江戸城の本丸、二の丸、三の丸跡は、「皇居東御苑(こうきょ
  ひがしぎょえん)」となり、戦後には「特別史跡」の指定を受け
  一般公開もされて、都民や観光客の憩いの場となっている


江戸城21

  江戸幕府は崩壊し、明治維新となった明治元(1868)年に
  江戸が東京と改められ、明治天皇が東京に行幸し江戸城の
  西の丸に入った際に、「東京城(とうけいじょう)城」と改称し
  天皇の東幸中の仮皇居となり、天皇は一旦京都に戻られた

  翌年に再びの東京行幸では、天皇の東京滞在が発表をされ
  東京城は「皇城(こうじょう)」と称された。西の丸に新宮殿の
  造営が決まり、明治21(1888)年に明治宮殿が落成して
  以後は「宮城(きゅうじょう)」と称された


江戸城20

  第二次大戦後宮城の名称は廃止されて、「皇居」と呼ばれる
  ようになり、日本の復興も一段落をした昭和30年代に入り
  昭和天皇及び香淳皇后の住居として吹上御所が完成した

  昭和天皇の崩御後に、皇太后(香淳皇后)のお住まいとして
  吹上大宮御所と改称された。今上天皇、皇后は、即位後は
  赤坂御所(東宮御所)から、皇居宮殿に通われていたのを
  平成5年に新御所が吹上御苑内に完成をした


江戸城13

        平成21年11月7日に皇居、江戸城で撮影






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最終更新日  2010年07月08日 18時37分29秒
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