殿上人日記

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2010年09月16日
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テーマ: 京都。(6125)
カテゴリ: 京都の旅

御所車の上に、色鮮やかな食べられる花

  あの猛暑は嘘のように、ここにきて一日、一日
  日増しに秋らしくなってきて、今朝は部屋の中は
  22度で、ハムスター(以前、飼っていた)の適温
  ではないか。これくらいがちょうど良いのにな


整然とされた老舗の店構え

  さて、京都の夏の旅の続き。午後にバスが横付けを
  したのは、享和3(1803)年に、京都西陣において
  初代伊兵衛によって創業した、老舗「鶴屋吉信」だ


京の老舗はのれんが命

  バスガイドさんいわく老舗は、暖簾(のれん)が命
  火事などでは、暖簾を抱えて逃げると言われており
  四季折々に変えたりもして、まさに店の顔でもある


鶴屋吉信で、菊華という和菓子を

  近代的なビルの上階で喫茶が出来て、茶室も誂えてあり
  ツアーの方の為に、特別に用意をされたという「菊華」を
  頂戴をした


鶴屋吉信で、京観世など

  無論、お買いものタイムも用意されてあるので、お店自慢の
  「京観世」「柚餅」など伝統のお菓子や、新作のお菓子も
  試食も自由で、あれやこれやと一口ずつ食べ比べも出来た

  (観光バスで来店のみの、試食サービスかもしれません)


お祝いのお配り饅頭

  京都では「お配り饅頭」といって、花嫁を知人に紹介する
  時に、腰高のお饅頭に花嫁の名を添えるそうで、純白の
  饅頭はお嫁に来た家の家風に染まって、家を護る決意を
  示しているといわれる

  更に饅頭のようにまるく和やかで、円満な家庭の幸せを
  築くという心構えを込めるとか。最近は紅白の饅頭も多い


秋らしく華やかな、食べられる菊

  その始まりは、江戸時代の元禄享保の頃に大奥で鑑賞された
  献上菓子であるそうで、明治になって、白砂糖が輸入されて
  生砂糖(雲平生地)の細工菓子の製法がて、特に京都の
  飾り菓子が有名になった

  と言うわけで、この大輪の菊はお菓子です


御所車の上にあでやかに

  更に御所車をあでやかに飾る花も、菓子で出来てます

  有職故実(朝廷や公家の礼式・年中行事などの先例や
  典故による儀式典礼)や、有名社寺の伝統の祭礼や
  儀式の為の供餞菓子、茶の湯に使う茶菓子などという
  ように、京都の和菓子は磨きぬかれてきたそうだ


日本初のセーラー服、平安女学院

  明治8(1875)年に、米国聖公会から派遣をされた
  米国人教師が大阪で始めた女学校がその始まりだそうで
  明治28(1895)年に京都移転をして、平安女学院と
  して開校し、大正9(1920)年には日本で初めて
  制服としてのセーラー服を採用したそうである


聖アグネス教会(平安女学院)

  京都御苑の真横に、明治31(1898)年に平安女学院の
  チャペルとして建設された、レトロな聖アグネス教会があり
  平安女学院の守護聖人で、ローマ皇帝ディオクレティアヌス
  統治の時代にローマで殉教した聖アグネスにちなんだ名前だ


平安女学院の制服の変遷

  教会のある平安女学院京都キャンパスは、後期の室町幕府の
  政庁が置かれ、第14代足利義輝、第15代足利義昭らが
  旧二条城を築いて幕府を運営していたという

  そのお隣にあった古いお屋敷は、長らく裁判所の官庁宿舎で
  あったのを、平安女学院が買い取って「有栖(ありす)館」と
  命名をされ、茶道など女学生の授業に利用をされている


小川治兵衞氏によるお庭(有栖館)

  そのお屋敷も夏の旅で特別公開をされており、お邪魔をしたが
  なにゆえ「有栖(ありす)」であるかというと、そのお屋敷は
  幕末のヒロインの和宮親子内親王の元の許嫁(いいなずけ)で
  十五代将軍徳川慶喜の追討軍の総帥であった、有栖川宮
  熾仁親王で有名な「有栖川(ありすがわ)宮」の邸宅だからだ


有栖川宮邸宅長屋門

  十五代将軍徳川慶喜の生母の登美宮吉子は、この有栖川宮家の
  出身で、熾仁親王は吉子の甥にあたり熾仁親王と慶喜は従姉妹
  同士でもあった

  官軍の軍歌であるトコトンヤレ節で歌われた「宮さん宮さん
  お馬の前でひらひらするのはなんじゃいな」の宮さんとは
  この有栖川宮熾仁親王でもある。


有栖川宮邸宅

  前述の閑院宮や伏見宮、桂宮と並ぶ世襲親王家の一つである
  有栖川宮は歴代、書道・歌道の師範を勤めて皇室の信任も
  篤かったのだが、大正12(1923)年に後継ぎが無くて
  廃絶となった。ところが近年になって有栖川宮の継承者と
  勝手に名乗る人物が現れた、有栖川宮詐称事件で騒がれた


有栖川宮邸付書院

  初代の好仁親王の時代から京都御所の北東部分にあたる
  猿ヶ辻と呼ばれた場所に屋敷があったが、幟仁親王の頃
  慶応元(1865)年に、御所の拡張で召し上げられて
  今の京都御苑内で、直前まで松平容保が宿舎としてした
  凝華洞(御花畑)跡に、明治2(1869)年に新御殿が
  落成をした


有栖川宮邸宅の中庭

  ところが明治5(1872)年に、明治天皇からのお呼び
  寄せによって、幟仁親王も東京へ転住をされる事となって
  宮邸の土地と家屋は、京都府に引き渡し裁判所として使用を
  され、この建物の一部を移築したのが「有栖(ありす)館」だ


有栖川宮邸客間棟の造作

  さすがに宮家のお屋敷。その造作は素晴らしく釘を隠す装飾の
  「釘隠し」や、天井を高く見せる為の幅の狭い「蟻壁」とか
  菊の紋が入った襖の引き手など見どころも多い


有栖川宮邸板張りの間(能舞台)

  能舞台として使われた「板張りの間」があり、裁判所の所長が
  住んでいた時代には、知り合いの歌舞伎役者や芸能人などと
  板張りの間宴を催していた事も。能舞台の床下には音響効果を
  上げる為に甕(かめ)が埋められているそうだ


有栖川宮邸客間棟からお庭拝見

  平安女学院が購入した時には、庭の草木も荒れ果てていたので
  平安女学院の客員教授で、江宝暦年間から250年もの間
  平安神宮や円山公園などを作庭してきた造園業「植治」の
  11代目当主の小川治兵衞氏によって、現代の名庭が出来た


アリス館(有栖川宮邸)青天門

  烏丸通りに面した門は、明治45(1912)年に三井財閥の
  総長の三井高保氏が邸宅の表門として築いたもので、後に
  裁判所が購入し、昭和27(1952)年に裁判所所長宿舎の
  表門として現在地に移築をされた。当時の所長と親交のある
  歌人の吉井勇が、李白の詩から「青天門」と命名をしたそうだ


醍醐三宝院の実生の桜の孫木

  その門の脇の見事なしだれ桜は、昭和27(1952)年に
  画家の堂本印象のアイデアにより、豊臣秀吉が醍醐の宴をした
  醍醐三宝院の「実生(みしょう)の桜」を分譲移植したもの


阿闍梨餅と若竹

  そんな訳で京都のお土産には、京都駅で購入した「阿闍梨餅」
  (満月)と、「嵯峨野若竹」(京菓匠鶴屋長生)と、もちろん
  お邪魔させていただいた鶴屋吉信の「御所氷室」もお土産に


鶴屋吉信の氷室


           平成22年9月5日に京都で撮影





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最終更新日  2010年09月16日 13時48分49秒
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