殿上人日記

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2016年12月15日
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行ったの?と言われそうですが、今日の日記に関係する
ニュースを知ったので、ぜひこの機会に掲載ておきたい
ネタだと思いまして先に紹介します。今秋の10月8日に
出かけた地底世界です




うちのあたりは、名古屋の局が制作した地方番組を
見ているんですが、近場行楽などは東海三県の愛知
岐阜、三重。それに南信州や静岡県西部あたりが
プラスされるんですけど、最近の話題は新東名です





延長されて、今春に開通をしたというので、新たに出来た
サービスエリアの特集を、地方番組でよく取り上げるので
行ってみたいな新東名って事で、最初にやってきたのは
東海三県で最大規模となる「NEOPASA岡崎」




上下線それぞれにコンセプトを設定し、同じ商業施設であり
ながら行きと帰りで趣が全く異なる、2つのコンセプトを共存
させた初めてのサービスエリアなんだとか。オカザえもんも
もちろんいた。上り線の岡崎宿側から入った




お土産の他に手軽なグルメも楽しめるので、娘が買って
きたのは全国チェーンの「包宝PAOPAO」の肉まんで
私は京都祇園の人気店が経営しているという「きっちん





娘が一口くれたんで、朝からもぐもぐ。稲荷はいらない模様
旦那にも一口やろうと思ったが携帯にも出ないし、なんでも
外で涼んでいたらしい




出来たばかりの新東名の区間なので、カーナビにも
のってないし。山の中を走る





言えない景色だ




次に立ち寄ったのは「長篠・設楽原の戦い」をコンセプトに
本陣に見立てた建物外観に加え、歴史的観光資源を活かした
火縄銃の展示や馬防柵を再現した「長篠設楽原PA」である




上り線は、武田軍の赤備えである朱塗りを配色した外観で
武田軍の本陣を彷彿させ、反対側の下り線は、物見櫓や
のぼり旗・馬防柵を再現するなど長篠・設楽原の戦いに
おける織田・徳川連合軍に見立てているんだとか




そう、ここは歴史上において名高い「長篠・設楽原の戦い」の
跡地に隣接しているのだ。長篠PA下り(織田PA)の駐車場から
織田信長の陣跡だった茶臼山(旗のあるあたり)にも行けちゃう
そうだが、帰りは暗くなってたので下りは寄らなかった。残念




こちらの山は陣跡ではない。この山の地底には最初の
写真の鍾乳洞があるのだ。2憶5千万年の時間が育んだ
東海地方最大の鍾乳洞の「竜ヶ岩洞」だ



その全長1kmのうちの400mが見学コースだそうで
無数の鍾乳石や落差30mの「黄金の滝」など見どころも
多い。以前にも1度来たことがあるが、娘はまだだった
ので、ついでに立ち寄った




もはや、このあたりは来年の大河ドラマである「女城主
直虎」一色という感じ。知ってました? 井伊直虎。井伊と
言えば大老の井伊直弼や、井伊の赤備え、ゆるキャラの
ひこにゃん位なものでしたが




世界のトヨタの豊田佐吉(湖西市)や、世界のホンダの
本田宗一郎(浜松市)、スズキ、一条工務店、ヤマハ
発動機、河合楽器の創業者も、浜名湖周辺で生まれた
そうだが、戦国時代において何せお隣の三河出の徳川
家康が天下を取って




家康が浜松城主だったんで、浜松生まれの徳川秀忠公
そして井伊直虎。いまやひこにゃんが一番有名な彦根の
城主であった井伊家は、ここ浜名湖の北東に位置をした
遠江井伊谷が発祥だったそうだ



なんて事など全く知らず、浜松と言えばスズキだヤマハだ
ってレベルの家族なんで、妙に直虎ののぼり旗があるなぁ~
って現地で初めて知った訳で、それをもし先に知ってたら
やれ直虎の墓のある寺だ、井伊家の井戸だとまわったのに




ある意味で娘とか旦那、ラッキー。お寺<<鍾乳洞だろうし
それに今回のメインの観光地は全く別にあり、ジャンルも
全く別。そこだけじゃなんだしと立ち寄った鍾乳洞な訳で
そのメインの観光については次回、紹介をします




鍾乳洞はこんなものにも見えますよって事で、ワニらしい




附近一帯は、秩父中古生層という古い岩石(石灰岩)で
形成をされており、大正時代には夕暮にコウモリが飛び
出してくる洞窟の存在は知られており、地元の子供たちの
探険遊びの場でもあったそうだ




その小さな洞窟の一番奥に幅50cm 高さ10cmの小さな窓が
あって、そこから吹き出してくる風などから、その先にも
空洞が続いているのではないかと、昭和56年6月より地主の
戸田貞雄さんの理解を得た二人の洞窟愛好家が、一輪車に
粘土を積んでは運び出し、手掘りでの拡張作業を始めた




数々の難所を突破し、様々な発見で洞内地図はどんどんと
その距離を伸ばし、同年12月に調査隊は落差30メートルの
「黄金の大滝」発見したそうだが、その滝、撮影禁止となって
いたんで写真がない。見たい人は現地行って見て下さい




約2年半の歳月をかけて調査と共に開発も進められ、昭和58年
秋には一般公開となった。更にその後の調査により、総延長が
1000mにも及ぶ大鍾乳洞であることが判ったそうだ




やっぱ鍾乳洞は楽しい。直虎の寺だか井戸見るよりも
こっちの方が楽しかったかな。とは言ってもせっかく
大河のゆかりの地に行きながら、その関連の寺社仏閣
何一つ行かなかったとは! 何かやらかしちゃった感も
半端ないし




そんな気持ちに、もしかしたら浸っているのではないかと
思うのがNHK。かつての婚約者の息子を立派な後継者に
育てあげた女城主の井伊直虎。実は男じゃなかったのか?と
いう資料が最近になって発見されたんだってニュースに
なっている

「直虎は男だった!? 京都で新史料」中日新聞記事




大河にでもならなきゃ一部のコアなファン以外には、誰
それ?レベルだった井伊直虎だが、江戸時代前期の「雑秘説
写記」という文書に、直虎とされてきた女性のいとこに
「井伊次郎」という男性が存在しており、彼こそ直虎では
ないかって話だそうで




岩村城の女城主のおつやの方、立花誾千代、寿桂尼に甲斐姫
吉岡妙林尼のように領国を采配し、戦う女たちも実際にいた
けども、いくら戦国時代に女だからとなめられてはいけない
とは言えど次郎とか直虎とか勇ましい名前を付けるか?とか
思ってはいたけど真相はいかに?




男女逆転疑惑と言えば、上杉謙信も妻子もおらず、来日を
していた宣教師が上杉景勝の叔母と書いていたとか、男も
およばぬ大力無双と、瞽女の歌があったりとかするそうだ
流石に女とはいかないが、細面のイケメンの俳優さんとか
起用をしますよね




もともとマイナーな直虎は戦国武将のゲームで人気なので
若い世代に大河を見てもらいたいから選ばれたなんて事も
ネットなどに書かれてるし。そんな訳で綺麗な柴咲さんが
演じる勇ましい名前の直虎が、どのように語られているのか
その生涯を簡単にネットの「ウィキペディア」で見てみます




>遠江井伊谷城主(国人)の井伊直盛の娘として誕生。
>母は新野親矩の妹(祐椿尼)。生年は定かではないが
>天文5年(1536年)前後に誕生したのではないかと
>推測される。幼名は不明。父・直盛に男子がいなかった
>ため、直盛の従兄弟にあたる井伊直親を婿養子に迎える
>予定であった




>ところが、天文13年(1544年)に今川氏与力の小野道高
>(政直)の讒言により、直親の父・直満がその弟の直義と
>共に今川義元への謀反の疑いをかけられて自害させられ
>直親も井伊家の領地から脱出、信濃に逃亡した。井伊家では
>直親の命を守るため所在も生死も秘密となっていた




>許嫁であった直虎は龍潭寺で出家し、次郎法師(次郎と
>法師は井伊氏の2つの惣領名を繋ぎ合わせたもの)という
>出家名を名乗った。直親はのちの弘治元年(1555年)に
>今川氏に復帰するが、信濃にいる間に奥山親朝の娘を正室に
>迎えていたため、直虎は婚期を逸すことになったとされる




>その後、井伊氏には不運が続き、永禄3年(1560年)の
>桶狭間の戦いにおいて父・直盛が戦死し、その跡を継いだ
>直親は永禄5年(1562年)に小野道好(道高の子)の讒言に
>よって今川氏真に殺された。直虎ら一族に累が及びかけた
>ところを母・祐椿尼の兄で伯父にあたる新野親矩の擁護に
>救われた




>永禄6年(1563年)、曽祖父の井伊直平が今川氏真の命令で
>天野氏の犬居城攻めの最中に急死したため、永禄7年(1564年)
>には井伊氏は今川氏に従い、引間城を攻めて新野親矩や重臣の
>中野直由らが討死し、家中を支えていた者たちも失った
>そのため、龍潭寺の住職の南渓瑞聞により、幼年であった
>直親の子・虎松(後の井伊直政)は鳳来寺に移された




>以上のような経緯を経て、永禄8年(1565年)、次郎法師は
>還俗して、直虎と名を変えて井伊氏の当主となった。「直虎」は
>仮名であって、本当の名前ではない。『井伊家伝記』によると
>「次郎法師は女こそあれ井伊家惣領に生候間」とあり直親の死去
>により、この次郎法師しか後継者がいなかった




>具体的には直盛の未亡人と龍潭寺の南溪和尚が相談の上、女性
>地頭を誕生させた。 なお、この時代の「地頭」は鎌倉時代の意味
>ではなく領主の意味として使用されている。  (中途・略)
>小野道好の専横は続き、永禄11年(1568年)には居城・井伊谷
>城を奪われてしまうが、小野の専横に反旗を翻した井伊谷三人衆
>(近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久)に三河国の徳川家康が加担し
>家康の力により実権を回復した




>元亀元年(1570年)には家康に嘆願し、道好の直親への讒言を
>咎め処刑する。しかし、元亀3年(1572年)秋、信濃から武田氏が
>侵攻し、居城・井伊谷城は武田家臣・山県昌景に明け渡し、井平城の
>井伊直成も仏坂の戦いで敗死すると徳川氏の浜松城に逃れた。その後
>武田氏と対した徳川・織田連合軍は三方ヶ原の戦いや野田城の戦い
>まで敗戦を重ねたが、武田勢は当主・武田信玄が病に倒れたため
>元亀4年(1573年)4月にようやく撤退し、直虎は三度井伊谷城を
>奪還した




>その間、直虎は許嫁の直親の遺児・虎松(直政)を養子として
>育て、天正3年(1575年)、直政が15歳の時に徳川氏に出仕させ
>その際に直政は300石を与えられる(『井伊家伝記』)。天正10年
>(1582年)8月26日、死去。家督は直政が継いだ。墓は井伊家の
>菩提寺である龍潭寺に、直親の隣にある




以上、「ウィキぺディア」より転載をさせていただきました。まっ
もともとが直政みたいに派手に活躍した人でもないので、資料も
さほどないのかもしれません。所説だっていろいろあるだろうし
それを大河ドラマでどう演出するのかも楽しみです。江とかも
かなりフィクションでしたしね。そこらじゅうの重要場面に突如
現れ、ホントかよ~?と思いましたもん

こうもりも飼育されてました。こんな近くで見るのは初めてかも
洞内に飛んでるのも見ました




といった訳でお昼も近くになったので、浜松と言えば
浜松餃子~。浜松の事を殆ど知らず(4回は遊びに来た
事もあるが)現地入りをしたので、急きょコンビニで
買ったガイドブックで浜松餃子特集のページを見て




一番でかい写真の(笑)というか、一番近そうだったんで
駐車場もあるし、やってきたお店は「浜太郎」。やっぱり
人気店だけに30分位は待ったかな。地元っぽいファミリー
なども利用していました




待っているうちに(椅子あり)注文を取っていたので
席に着いたらすぐに餃子もやってきて、この定食で
780円はお得だと思うし、美味しいと旦那も娘も
喜んでた。また浜松行ったらここ食べに行きたいな




先ほどヤマハ発動機(オートバイとか)の創業者は浜名湖周辺の
出身だと書いたけど、じゃヤマハは?と調べたら、こちらは山葉
寅楠といい紀州藩の天文係の息子だそうで、長崎に出て英国人の
もとで時計の修繕法を学び、浜松尋常小学校のオルガンの修理を
手がけたことから、日本で初めてオルガン製造をしたんだとか




てな訳で周囲は真っ暗です。午後のメインの観光先は、次回
紹介します。最後に立ち寄ったのは新東名の「NEOPASA浜松」




娘が富士にいた時によく利用した「天神屋」のおでん
静岡おでんもB級グルメでは欠かせない存在だ。その
特徴は鶏ガラ(か牛すじ)のでだしを取った醤油つゆを
使用し、だし粉と呼ばれるイワシの削り節や、鰹節
青海苔をかけて食べるもの。黒はんぺんも有名だし




あと全国チェーンの「ハースブラウン」の、このSAでの
看板メニューと思われる「プレミアムメロンパン」をぱくっ




       平成28年10月8日に静岡県で撮影

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最終更新日  2016年12月16日 12時40分13秒
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