カテゴリ未分類 0
黒川博行 0
染井為人 0
全34件 (34件中 1-34件目)
1
歩くだけで不調が消える 歩行禅のすすめ【電子書籍】[ 塩沼 亮潤 ] 本書における歩行禅は、著者が千日回峰行を完遂した人ゆえ、歩行しながら、懺悔と感謝をするというもの。 その後、坐禅を組む。 このことをルーティン化しなさいということだ。 翻って私自身、毎日今15分の坐禅を組んでいるので、ここに歩行禅という概念が入るということは、一体どういうことなのかということを期待して読んだ。 しかし、残念ながら、歩きながら往きは、懺悔の言葉を唱え、帰りは感謝の言葉を唱えるということなので、果たしてこんなこと私にできるのだろうかと、単純に疑問に思った。 そもそも、坐禅は、何も考えないということがコンセプトでしょう、だから、歩行禅においては、雑念入りまくりになるし、本書から感じることは本来無功徳であるはずの仏教、坐禅が歩行禅で懺悔し感謝の念をのべるということで、なんとご利益があるような事が書いており、それはちょっと違うんじゃないのかななんて考えた。 ただし、歩行つまりウォーキングをルーティン化することには私も賛成だ。 さてどこに組み込むべきなのだろうか。 さしあたって、月曜日、帰宅後、挑戦してみようか、などと考えたところだ。 夕方が暗くなる前の季節は十分使えそうじゃないか。 このブログを開始し始めた頃は、朝ウォーキングをしていましたな。 朝、真っ暗な季節も続けていたものだ。 そのようなときの星星のなんときれいだったことよ。 まさに奇瑞だった。(2/10記)
2024.05.11
コメント(0)
【中古】図解早わかり!道元と曹洞宗 /三笠書房/中野東禅(文庫) 日本における代表的な禅宗は、臨済宗と曹洞宗である。 道元禅師はまず臨済宗建仁寺で栄西の指示を受け中国にわたる。 そして天童如浄禅師に巡り合い、禅をものにする。 日本に帰り、禅宗を広めたのだが、曹洞宗の開祖だということは意識していなかったということが本書に書いてあった。 今曹洞宗の本山は、永平寺と総持寺があるが、なぜ二つなのかということも本書に書いてある。 それはともかく、なぜ道元禅師なのかということについていうと、私の今の課題が、終活であり、それは、私は何者というというところからきている。 私は、気づきであり、サティであり、認知であり、自覚であるところまで行ったが、そこから先になかなかいきつけなかった。 そんなある日突然坐禅したくなった。 そして、サティその他も結局脳の作りしまやかしに過ぎないというところに行きつき、まるで坐禅病みたいなことになったのだが、さらに坐っていたら、悟り、が出たり入ったりしている事に気付いた。 つまり、坐禅をした結果、私は自分が悟りではないかという仮定を得た。 さらに坐ったら、今度は私の本当の元に行きついた。 それは遠い過去の話、生命として生まれついたもの、それが分化し進化して現在の私と思われる者がいるのだというところまで行きつき、とすると、それこそ蜻蛉だって螻蛄だって水黽だってみんなみんなでどこは同じ生命体よ、という事に気付いた。 今の私はその分化し進化していきついたものであり、本当の私は、大元の生命体なのだなと、やっとやっとそこまで行きついた。 表見的な私をすべて無にすると、残るのは、生命の大元。 それが本物の私なのだと直感したのだった。(2/8記)
2024.05.09
コメント(0)
自分をみつめる禅問答【電子書籍】[ 南 直哉 ] さて、 本当の自分は不可知なのだそうだ。 つまり今私が躍起になって求めている私は何者?という課題は、 なぜ生まれてきたのか。 なぜ死ぬのか。 どこから生まれてきて、死んだらどこにいくのか。 そのすべてに答えが出ない。 つまり、我々の存在にさしたる根拠も意味も見いだせない。 この耐え難い状況を、耐え難いゆえに「絶対神」や「霊魂」や「理念」で埋め合わせるよりも、この状況をあくまで直視して、なおかつ充実した生を求めていくのが仏教だと、ぼくは思う。 この姿勢は、ある意味で最もシビアだろう。 だから、ブッダは我々の存在をまず「苦」だと言い切るのだ。ということだ。 答えは出ない。 けれども仏教は、絶対神や霊魂や理念に私を委ねず、答えはわからんけれども生ききろうよ、と言っている。 ようするに、 自己とは何か、といった「根源的な問い」があるからこそ、「神」や「死後」が問われるのだと言うのだな。 そういうことだ。 しかし、さらに付け加えれば、この問いには答えられない。 それは人間の知恵や知識が今のところ足りないから答えられないのではない。 原理的に回答不可能なのだ。 死んだらどうなるのか、どうして生まれてきたのか、自分とは何かという三つの問いは、実は同じ問いの三つのバリエーションにすぎない。 その問いとは、「自分が自分である根拠とは何か」、言葉を換えれば「本当の自分とは何か」ということで、これはいかなる現実的な回答もナンセンスになる以外にない問いなのだ。ということでどうやら私は何者?という問いに対する解はないとするのが本書のスタンスだった。 ただ私は、自分は気付きでありサティであり認知であり自覚であるというところまで発展し、更に坐禅により心身脱落することで、その私がつまり真の我が出たり入ったりしているのを感じることができている。 わからん、そんなものあるかないかもわからんでほっておかないで、坐禅で休んでいる私、坐禅で出たり入ったりしている私についてのもう少し深い見解が本書では欲しかったなと私は思う。(1/5記)
2024.03.26
コメント(0)
やさしい禅の教科書【電子書籍】松原信樹 私は何者という課題に対し、 赤 肉 団 上 に 一 無位 の 真人 有って、常に汝等諸人の 面 門 より 出入 す。 未だ証拠せざる者は 看よ看よなどという禅語とか、常におーい主人公と問いかけては、はーいと答える、 自分とその主人公である仏性はひとつのもの。となれば、仏性は師彦の主人であるとともに、師彦のほうもまたおのが仏性の主人だと言えるでしょう。そのように、自身とその仏性が、互いに主人となって自らを成長させていくことが大切であるなどという話が参考になりそうなのだが、なかなか私自身理解しきれていない。 主人公というのは、小説やドラマなどのヒーローやヒロインを思い浮かべますが、ここでの意味は人それぞれが本来もっている 仏性 のことなのであり、それが真の自己、そしてそれは、私が考えている、気づき、サティ、自覚、認知のことということになる。 そうすると、やはり真の自己は脳という臓器の働き、せっかく追い求めていたものがパーになってしまう。 まあね、本当に難しい問題ではある。 この際なので、仏教とは縁遠い問題ではあるが、霊ということも考えてみよう。 霊感が強いとか、何かの霊を見たとか言う話をよく聞くが、よくよく考えてみると、霊が見えたとか言う場合、そんな人は、霊が見えて見えて仕方がない状態になるんじゃないのかな。 たった一つしか見えないのなら、それはそれでおかしなことだ。 本書に戻るが、著者はあの松原泰道師のお孫さん、泰道師は100歳で大往生されたが、著者のお父上は70代で亡くなられた。 その松原禅がとうとうと著者信樹師にも繋がれていることに何より感銘した。 結局、 大切なのは一念、ひたすら(只管)という生のあり方。坐る、お経を読む、考える、食べる、眠る、働く……あらゆることに、その時々のすべてを捨てて打ち込むことです。ということになりましょうなあ。(1/2記)
2024.03.23
コメント(0)
構築された仏教思想 道元 仏であるがゆえに坐す【電子書籍】[ 石井清純 ] まずもって私の終活の課題、私は何者?の話から始めなければならない。 まず私は、気付きでありサティであり認知であり自覚であるというところまできた。 ところがこの私ではないのかと思えるものも、頂いた命のうちの脳の部分から派生しているのではないかとまた迷いはじめた。 その結果、いつの間にか私は坐禅に向かっていた。 そこで、文章ではうまく書ききれない何者かを感じ、これこそが真の私ではないのかというところまで至った。 そして道元禅こそ私の感覚にフィットするものと本書を読んで、その思いを強くした。 私が坐禅で見た風景は、 道元は、自らの修行によって獲得したものを、「悟り」ではなく「 身心脱落」と表現した。 この言葉は、一般に言う「悟り」と極めて近い状態を示している。 ここのポイントは、心身脱落≒悟り、ということである。 坐禅をすることによって心身脱落すなわち真の私が出てくるんですな。 それは先に書いた気づき等とも違うものだと思う。 それは世尊が、 菩提樹下における七日七晩の禅定の後、八日目の明星を見て発言した、「私と世界全体の生きとし生けるものが成道した(我と大地の有情と同時に成道せり)」という言葉である。 すなわち、釈尊は自らの成道によって、「この世界は、すべて仏としてある」と宣言したということに通ずる(なんと尊大な私…)。 そしてその、心身脱落≒悟りは、 ひとたび灯りが点いて「仏であること」を認識して(悟って) も、その「灯り(悟り)」は、ダイナモを回すという「修行」を継続しなければ消えてしまう、自分が仏であるという状態を維持し続けるためには、ダイナモを回すという、「継続的実践」が必要不可欠であり、その永続的実践こそが自己実現、すなわち「悟り」であるとする、それが道元禅なのである。というものである。 そして、 仏道の実践は、それを導く師の正と邪によるに違いない。 才能は良い材料のようなもので、師は、それを加工する 匠(技術者) のようなものである。 どのような良い材料であっても、良い匠を得なければ、そのすばらしさは表れてこない。 たとえ曲がった材木であっても、もしも優れた技術にあったならば、そのすばらしさがすぐさま表れる。 師の正邪によって、悟りが偽物であるか真実であるかが決まることを、これで理解すべきである。と、仏教は師につかなければならないものである。 私は、本書を読んで、これだと感銘した。 石井清純師こそ我が師になっていただきたい先生だ。(12/23記)
2024.03.12
コメント(0)
安泰寺禅僧対談【電子書籍】[ 藤田一照 ] まずね、俺のとは違うなあ、と感じたこと。無方 そうですね。 初めてこの体も自分なんだという発見をしました。 ずっと頭だけが自分だと思っていましたので。 呼吸するのも自分なんだと。 思索にふけって座っているのと、こうして坐禅しているのと、三十分でもやったらその違いが自ずとわかるんですね。 どんな姿勢で坐っていようが関係ないじゃないか、とそれまで思っていたのです──大事なのは頭で何を考えているかだと。 それが私なんだからと。 しかし、実は部屋に籠って考えていることと、こうしてじっと坐禅しているのとは違うんだと初めて気づいて、それで毎回毎回参禅するようになって、はまっちゃったという感じですね。 やっとね、脳や内臓、骨格、筋肉という体はいただいている命だという事に気付いたのに、この禅僧は体が自分だ、などという話をする。 ここに違和感があるわけです。 だが次の比喩、無方 私がいつも使っている譬えでは、自分の内面が羊の群れのようであれば、一番問題なのは暴れている羊たちではなくそれを整理しようとする羊飼いではないかと。 ヴィパッサナーの方ではこの羊飼いの仕事を否定するどころか、たくましくしています。 あちらでは羊飼いを起こすのであって、休ませようとは絶対にしないんです。 この羊飼いはもう絶対になくてはならない。 羊を羊飼いに従わせるというのがヴィパッサナーの目標ですから。一照 うまい表現だね。無方 禅はむしろこの羊飼いを休ませて、自分は羊が遊ぶあの広い芝生になろうとか、あるいはその上で広がる空のようなもの。 その状態になって、とにかく見守ってあげようと。というのは言いえて妙。 私は何者という段になって、明らかにヴィッパサナーも無方も私は羊飼いだということになって、ここにおいて私はその通りだと思ったわけです。 その羊飼いつまり私というものを使うだけ使うのがヴィッパサナー、休ませるのが禅、というその解釈には私は賛成です。 ここにおいて只管打坐とは、無方 一番問題なのはそういう羊飼い。 それにまず休み時間を与えるのが只管打坐だと私は解釈しているのです。という結論にも私は賛成です。 で、とこうなる。 羊飼いつまり私が休んでいる状態の禅において、その羊飼いが、あたしゃあ休んでいるわけにはいかんよ、という瞬間が来て浮遊するんですよね。 体から出でて、言葉では言い表せないすっきり状態になる。 私は、こういうのが私、つまり禅によってのみ、私が開発され出でるのだと思うのです。 私とは気づき、サティ、自覚、認知、しかし突き詰めれば、それもまたいただいた命の一部である脳の働きではないのかという壁にぶち当たった時、坐禅を組んで初めて真の私が見えてきたというわけなのです。 つまり、先の無方の見解、ヴィッパサナーと禅が異なるという見解は、羊飼いを激務につかせるか休ませるかの問題ではなくて、真の私は羊飼いであり、その羊飼いの完全休業によって羊飼いは空中浮遊するのだということであります。(12/14記)
2024.03.02
コメント(0)
現代「只管打坐」講義 そこに到る坐禅ではなく、そこから始める坐禅【電子書籍】[ 藤田一照 ] さて仏教以前の精神修行とは、 興味深いことにここに「歯に歯を置き、舌で顎を圧し、心で心を抑え、押さえつけ、砕く」という表現や「力のある人が力の弱い人の頭を捉まえ、あるいは肩を捉まえて、抑え、押さえつけて、砕く」というたとえが使われていただったが、 このような表現で示される「力づく」で「無理強い」の修行は釈尊によって最終的に捨てられることになった それは、 たとえ攻撃されても、それに対して逃げもしないし、反撃もしない、ただ静かに端然と坐っているのである。 しかしその坐りは、釈尊自身はなにもしないのに、炭火が蓮の花に変わり、石が美しい花に変わり、悪魔の軍勢の側が「苦労が報いられず、喜びを失」って勝手に逃げ去っていくという、奇跡のようなことを起こす、そういう力を持った坐りだったということだ。ということだった。 その結果、 一 ブッダに呼吸してもらい ブッダに歩んでもらう 私が呼吸することはない 私が歩むこともない 二 ブッダが呼吸している ブッダが歩んでいる 私は呼吸を楽しむだけ 私は歩みを楽しむだけ 三 ブッダは呼吸 ブッダは歩み 私は呼吸 私は歩み 四 ここにあるのは呼吸だけ ここにあるのは歩みだけ 呼吸している人はいない 歩いている人はいない 五 呼吸しながら安らいでいる 歩みながら安らいでいる 安らぎは呼吸 安らぎは歩みという坐禅の基本形に行き着くのだった。 この辺の理屈をわからずに坐禅をただただ瞑想法の一つだと誤解しているもののなんと多いことよ。 冒頭に抜書きした部分は、降魔に対し肉体的に対抗すること。 そして世尊はその愚かさを知った。 降魔はうちにある。 そのことを達磨大師は、面壁九年の修行を持ってなしとげた。 だからダルマには足がないという。 バーカ、そんなふうに理解しているから坐禅の凄さが我々末端にうまく伝わらなかったのだ。 面壁九年というのは、自己の周りにバリアをめぐらしたというたとえだ。 現に降魔は自己のうちにある。 それらの降魔から離れたときに坐禅はまさに、ブッダに呼吸してもらい歩いてもらうもの、私はそれを楽しむものということになろう。 今ひとつ私は何者論の真相に近づいてきたように思う。(12/7記)
2024.02.26
コメント(0)
こころの坐禅堂 危機・不安への静かなる挑戦【電子書籍】[ 松野宗純 ] ここにきて、坐禅こそ、私は何者?の課題に明確に答えてくれるものという信念に達した。 そこで、まるで囚人のような今の事務所での仕事柄、さて、椅子坐禅の要領ですが、 なるべく固い椅子に、 背をもたれさせずに坐り、 腰を立て、腰椎を前に出す感じで、 背筋を伸ばして坐り、 両足は揃えて手前に引きます。というように、椅子坐禅もできることに気づいた。 で、実際にやってみると、たしかに坐禅っぽくはなる。 ただ周囲の目があることでもあるので、いつもできることではないけれど。 たった10数えるだけでも心は落ち着き、変性できる。 坐禅というのは、 非思量というのは、からだも頭も自然体になって、そのまま周囲に溶け込んでいるような状態のことです。 私たちは宇宙創世いらい百五十億年のもろもろの恵みによって、いまこうして生かされているのですが、それを忘れて、ちっぽけな自分の殻に閉じこもり、それぞれの悩みに四苦八苦しているわけです。 そこで小賢しい理屈や固定観念から自分を解放して、素直な、さわやかな身になってみるのが坐禅です。 ということである。 この状態というのは実に不思議な状態である。 私は最近やっとこの状態に進むことができた。 仏壇の前でも、水泳後のジャグジーでも、職場の椅子坐禅でも、非思量の状態に入れる。 私は終活の課題として、私は、何者?の解明に挑んでいる。 そして私とは、気づき、サティ、認知、自覚だというところまで行ったのだが、この気付きというものもどうやら脳の働きではないのかという疑念、それが合わさって疑団になってしまった。 そんなとき、坐禅を組んだらなんと上記非思量に出会ったわけだ。 この非思量こそが私ではないのか、という仮定に今挑んでいる。 もう、競争だね。 私が何者であるか悟るのが早いか死ぬのが早いかの。(12/6記)
2024.02.25
コメント(0)
幸せになる坐禅 誰でも5分でできる脱ストレス禅セラピー【電子書籍】[ 藤井隆英 ] 毎日毎日坐禅を組んでいるがそれは何かを得たいためではない。 そもそも坐禅で何かを得ることはできない。 無功徳である。 しかしながら本書のテーマは、坐禅で健康になるということだ。 坐禅の方法論は数多出版されているので、今回その抜き書きはしない。 しかしながら坐禅には、上虚下実と上実下虚の考えがあって、 上虚下実のカラダは樹木に例えることができます。 腰から下が根のように安定している状態。 上半身が幹と葉のようにしなやかで柔軟性のある状態。 この上虚下実状態を、効果的に長時間行い続けることができる姿勢。 それが坐禅です。(略) ちなみに「上虚下実」の反対は「上実下虚」の状態。 これは禅病とも呼ばれ、禅宗臨済宗の中興の祖、白隠禅師も罹った病だといわれています。 熱心に禅の修行を行った人に表れる、頑張りすぎによる症状です。 のぼせ、手足の冷え、首肩こり、焦燥感、鬱的症状などが表れます。というもの。 白隠禅師の話は有名な話ですな。 この文を読めば、坐禅とは頭でするものではないということと、まず姿勢やら呼吸を調えなさいということがわかる。 さて翻って私の終活報告。 私は何者?について、それは、気づき、サティ、認知まで行って、そこで、結局赤ちゃんになる、とまた突き放されて、よくよく考えてみたら、その気付き、立った、歩行、走行、のほか排泄もあったなあ、なんてまたまたかなり古い記憶を呼び戻したところ、結局あたしゃあ、認知症で終わるのか、と思いつつ、それはそれで理想的なのかもしれんなあ、なんても考えたりして…。 気づき、サティ、認知もまた脳という臓器が作り出したもの。 幻。 それがなくなりゃ赤ちゃんになれる。 一貫の終わり。(11/17記)
2024.02.05
コメント(0)
明日へ続く道元禅 高橋全隆 私は道元禅師という人は実に素敵な人だと思う。 道元禅師の本を読めば読むほどそう思えてくる。 その考えに微塵のぶれも見られない。 たしかに著書は難しいけれども、だからこそ様々な解釈者が出てきて解釈してくれるわけだが、その解釈に触れると、なるほどそういうことかと納得することがしばしばある。 まず坐禅の方法、 両耳と両肩を水平とし、鼻と臍とを垂直にする。 舌は、上の歯の後ろにつけ、唇と歯が離れないようにし、目はつねに開く。 呼吸は、鼻から静かにし、身体が整ったならば、大きく一度息を吐き出し、左右に身体を揺すり、身体の中心で止める。そのようにして不動な巌のように坐禅し、ことばをもって成り立つ世界を超脱し、非言語の世界に没入するである。 生死については、 『修証義』の御文の中で「生死の中に佛あれば生死なし」というところにある、「佛あれば」というのは、「もし佛があるとすれば」というように、仮定のすがたで述べてあるのではなくて、「佛があるから」として、すでにそうなっているというのである。 天地一切の森羅万象(生死)は佛のおすがたであるから、佛というべきであって、生死という呼び名はないのだというのである。とする。 このへんは弘法大師の哲学にも通じる。 この辺の消息を理解せずして、私は何者?の解には到達しない。 道元禅師はきっぱりしている。 この人は真に悟った人であると私は感じる。 時について、 あるときが時の全体であり、自己の全存在である。 時というとき、生きている事実を伴わないときはなく、あるということは時と同時であろうという。と説く。 これは、アインシュタインの相対性理論にも弘法大師の六大にも通じる。 両者ともに時空は相対的だと説いているのだ! 道元禅師ほど本を深く読んだ者はいない。 道元禅師は、大いに独創的なことばの解釈を行う。 ふつうのことばは、「一切の衆生は、悉く仏性有り、如来常住にして、変易有ることなし」と読むのである。 しかし、道元禅師は、「一切は衆生なり、悉有は仏性なり、如来は常住にして、無にして、有にして変易なり」と読むのである。 道元禅師は漢文をそのまま読んだという。 つまりレ点をつけず、番号もつけず、自然に中国の言葉のままに読み理解したらしい。 だから、一切衆生悉有仏性について、普通の日本人が、一切の衆生にことごとく仏性あり、と漢文を知った顔して読むところ、そのまま自然に道元禅師は一切は衆生なり、悉有は仏性なりと読み、その深淵に迫ったというわけだ。 この辺の中国語の理解力が他の祖師方と違ったのでしょうなあ。 同様弘法大師も中国語を理解しておられたから、正しい解釈をしておられたというわけだ。 ちなみに、上記、如来常住無有変易しかり。 なぜ日本人は、如来常住にして、変異あることなし、などと難しくしてしまったのだろうか。 道元禅師が読み方を変えているなどという仏書をたびたび目にしたが、そうじゃないじゃないか。 この文も素直に読めば、如来は常住にして、無にして有にして変異なり、でいいじゃないか。 本当に日本人はなぜ漢文を難しくしてしまったのだろう。(10/10記)
2023.12.26
コメント(0)
ヨガの教えと瞑想 岡本直人 私は終活で、私は何者?の命題を解くことを課している。 そしてその解の一部として、私は気づき、サティである、というところまで到達した。 しかるに本書を読んで驚いたのは、 しかしヨガの教えでは、この二つは私ではないと考えるのです。 では何が私かと言えば、心や体を認識している「意識」が私なのです。 一般的な心理学では、意識は心の一つの状態だと考えられています。 しかし、ヨガの教えでは心や体を見ている意識が私の本質であり、心がその中で働いていると考えます。 この心や体を見ている意識を、特に心と関わりのない純粋な意識状態を純粋意識と呼びます。とする考え、つまり私の解と同一だったのだ! そして、 意識とは言わば映画館の観客のようなものです。 私たちが映画を見るとき、映画館のスクリーンに様々な情景が映し出されます。 日常生活でも、このスクリーンに様々なものを映し出して、それを意識が見ていると考えてみましょう。 例えば、本を呼んでいるときは本をスクリーンに映し出し、コーヒーを飲んでいるときはコーヒーを映し出しているのです。 これは思考についても同じで、私たちが「考えている」と言うとき、それは思考がスクリーンに映っている状態であると考えることができます。 また、他の感覚も同様に、音楽を聞いているときは音がスクリーン映っており、食事をしているときは味が、香水の匂いがするときは匂いが、というように、それぞれの感覚対象をスクリーンに映しているのです。 このスクリーンを意識のスクリーンと呼び、スクリーンに映す対象の変化を意識のチャンネルと呼びます。とする。 私は、この点について、私は視聴者、とした。 同一である。 そして、 心は自分の本質ではなく勝手に動いているもの、そして、心の作用の一つである自我意識が様々な対象を私と同一化して悩んだり悲しんでいるということを考えれば、私たちの苦しみの原因は心にあり、心の働きそのものを制御することで私たちは苦しみから解放されるということが理解できるでしょう。ために瞑想をする。 私の場合は坐禅だ。 本書によれば、心には、欲望、と、思考、があるそうだ。 これらをサティするものが、私、ということになる。 体も然り。 むしろ体の方がわかりやすい。 なにしろ心臓を私が動かしているわけではないのだから。 心然り。(10/6記)
2023.12.21
コメント(0)
現代坐禅講義 只管打坐への道【電子書籍】[ 藤田 一照 ] 著者は,次のパスカルの言を引用して 人間のさまざまな立ち騒ぎ、宮廷や戦争で身をさらす危険や苦労、そこから生ずるかくも多くの争いや、情念や、大胆でしばしばよこしまな企て等々について、ときたま考えたときに、わたしがよく言ったことは、人間の不幸というものは、みなただ一つのこと、すなわち、部屋の中に静かに休んでいられないことから起こるのだということである。ブレーズ・パスカル著『パンセ』前田陽一・由木康訳(中央公論社)坐禅を寛ぎと結論している。 だから型にとらわれるべきでないという。 如浄禅師道元禅師の線の坐禅そのものが悟りであるということを考えると上記パスカルの言は禅につながると言えよう。 つまり著者は,曹洞禅を拠り所にしているわけだ。 近頃私も,次の それはわれわれが夜ぐっすり眠っているときにも息をさせ心臓を動かしているような生命的自己です。 それはからだやこころを生み出し、働かせているいのちの地盤ですが、それ自体はからだでもなくこころでもありません。 そのどちらでもありながらそれを超えているとしか言いようのない何かです。 道元禅師はそれを「おんいのち」と呼びました(「おん」は敬意を示す接頭語)。 われわれは何がどう起きようとこの本来の自己、「おんいのち」の地盤から落ちこぼれることは決してありませんし、それをどこか自己の外側にあらためて求める必要もありません。 われわれがなすべきことは安心してそこに落ち着き、くつろぐことだけ、そこに向かってどこまでも深まっていくだけです。 このようなおんいのちに関しては、それより他にわれわれは何もしようがないのです。という現象を感じている。 だから道元禅師は,一切衆生悉有仏性の悉有仏性を悉有は,仏性と読んだのだ。 ゆえに悟りとは坐禅そのものだというロジックが完成するのである。 ここまで徹底して道元禅師に帰依しながら著者は,なぜ本書の後半において坐禅の型にこだわったのだろうか。 本書の不思議である。 著者は,坐禅の正当性を他者に求めたんだな。
2023.09.07
コメント(0)
正法眼蔵入門【電子書籍】[ 頼住 光子 ] それにしても仏書は難しい。 その仏書の中でも道元禅師の著書は難解なのだそうだ。 けれども多くの仏教研究家が道元禅師の書いたものの解釈に勤しんでいる。 それでも私には難解で歯が立たない。 けれども今回私が感じたことは道元禅師の語録の中でずっと気になっていた悉有仏性ということについて『正法眼蔵』において、道元は『涅槃経』の一節「(一切衆生)悉有仏性」を通常のように「(一切衆生に)悉く仏性あり」ではなくて「悉有は仏性なり」と読み換え、「諸悪莫作」という言葉を「諸悪作るなかれ」ではなくて「諸悪は莫作なり」と読み換える。 前者の読み換えによって、「悉有仏性」は、「生きとし生けるものすべてに仏性(仏の本質、仏になる可能性)がある」ではなくて「全存在は仏性そのものである」と読まれることになる。 また、後者によって、「もろもろの悪をなしてはならない」ではなく「もろもろの悪はなされない」となる。 このような文法的には破格としか言いようのない読み換えを通じて、道元は自分なりに真理を言い取ろうとしていたのである。との読み替えがあるということを知っていたけれども理解し切れなかったところ,今回 本書を読んでそうか そういうことかと腑に落ちた。 悉有は仏性 なりである。 悉有に仏性があるということではなくて世の中の全てが仏であるということつまりそのことによって私は私でなくなり全体に組み込まれるのではないのか。 逆に言うとこの世の中の全ては自分であるとも言えるのではないか。 あれもこれも仏性のある私である。 だからこそ誰も知らない世尊の悟りを感性で感じることができるのではないのか。 世尊が悟った時に見た星は自分自身だったという逸話が道元禅師の悉有仏性の解釈で氷解するのではないのか。 などと考えていたら, つまりはこの世の中全てが私であり私ではないということが腑に落ちたのである。
2023.09.06
コメント(0)
坐禅ひとすじ 永平寺の礎をつくった禅僧たち【電子書籍】[ 角田 泰隆 ] 更に道元禅を学ぼうと思って本書を選んだのだが,残念な我らそれは叶わなかった。 道元後の日本曹洞禅の系譜の説明だった。 日本曹洞禅を引っ張ってきた師匠筋の説明が主で道元禅の真髄を知り得ることはできなかった。 そうは言いつつもこうして本を繋いでいかなければ道元禅の真髄に迫り得ないわけで,引き続き道元禅師がおっしゃる居間を大切にした生き様をしていかなければならない。 本書における道元禅師の教えは, 三度考えて、自分のためにも他人のためにも利益のあることならば言うのがよい。というもの,続いて同様のこと, 必ず三回考えて、その後に言ったり行ったりしなさい。との教えが続く。 そして,〈学道の人は、後日を待って修行をしようと思ってはならない。ただ今日、この時を、むなしく過ごさないようにして、毎日毎日、一瞬一瞬を努めなければいけない〉続いて, 〈学道の人は、明日を期待してはいけない。今日、いまだけ、と思って、仏の教えに随って修行しなければいけない〉として道元禅師イズムに入る。 而今とはこういうことなんだなと具体的に思った。 ただこのイズムによって余裕がなくなるようではいけない。 尤もこのイズムによって道元禅師が生き急いだ感がしないわけでもない。 よくよく道元禅師が言われたことを解釈すると今を必死に生きること当たり前のことを当たり前にやること言うことになりましょうな。 とにかく今しかないという刹那感,切迫感が道元イズムの特徴なのかもしれない。(6/24記)
2023.08.30
コメント(0)
禅のすすめ 道元のことば【電子書籍】[ 角田 泰隆 ] 道元禅師の考えは実に難しいのだが,一生懸命理解しようとすることで,何かがわかってきたような気もする。 たとえば, 仏教の一般的な考え方では、修行の功徳が熟すと内なる仏性(仏の本質)が現れるとされ、確かにそのように言うこともできるのですが、道元禅師は、修行(参師問法・弁道功夫)の時節を仏性が現前している時節であるとするのです。 修行してゆくと、いつか仏性が現れるときがある、と考えるのは誤りである……、そして、今がまさに修行の時節であり、そう思って修行すれば、すでに仏性は現れているではないかと言われるのです。というようなこと,これは修行即悟りということですな。 このことは天童如浄師が坐禅について言われていたことだ。 さて道元禅師において因果とは, 道元禅師においては、因果は超越されているのであると私は受けとっております。 ここで「超越」とはどのような意味かと言いますと、これを修行と悟りの関係について言えば、修行において、果としての悟りを求めることなく、ただひたすら仏の行いとしての修行を行ずること。 つまり、修行の功(効果・功徳)としての悟りがあろうがなかろうが、そのような結果を問題とせず、因なる修行において、果なる悟りを期待せず、ただ而今(今しかないという今)の修行あるのみでよしとする。 そのとき、その人にとって、その修行は因果を超越していることになるわけです。 ということらしい。 仏教は因果を大事にしているところ,道元禅師はその因果を坐禅によって超越しているということだ。 この著者の一文を解釈しなおせば,修行即悟り,つまり坐禅即悟りに行きつくことになる。 結局坐禅は因果を超越していると言う事にもとれるし,また坐禅は坐禅,坐禅という因であり果でもあるととったらそれは行き過ぎの議論か。 いずれにしろ坐ることが悟りであり仏であるとすると,我々は坐らなければならないと言う事になろう。 それにしてもこんなに大事なことを私は通りいっぺんにしか読まないで理解せず過ごしてきたんだな。 本当にいったい今まで何の勉強をしてきたものだろうか。 いまさらながらもう一度道元禅を理解しなければならんな。 道元禅師は,世尊,法然上人,親鸞聖人に比べたら早世した方だ。 そんな禅師が厳しい坐禅についてとにかくわしは坐る,それで死ぬのは本望だ的なことをおっしゃったとも言われている。 すごい覚悟の方である。(6/22記)
2023.08.28
コメント(0)
道元入門【電子書籍】[ 角田 泰隆 ] なぜ今更道元禅師なのかということはさておきとにかく道元禅師だということ。 道元禅師が只管打坐をとなえるわけは先師天童如浄師が 先師天童如浄は「結跏趺坐は古仏の法である。参禅は身心脱落である。焼香・礼拝・念仏・修懺・看経をもちいず、ただ打坐すればよい」と言われていた。と只管打坐を主張していたこと, 如浄は、「坐禅(参禅)は身心脱落である」と説いていた。 つまり「坐禅」そのものが「身心脱落」、いわゆる「悟り」であると教えていた。のだそうだ。 つまり道元禅師は宋の国から只管打坐を持ち帰ったのである。 天童如浄師が徹底して坐禅をすることを説いたことが今頃になって私の心の中にぐさりと突き刺さるなんて,一体私は今まで何をしてきたのだろうか。 そういう話は今まで何度も何度も読んだろうに全然頭に残っていなかったのだ。 この只管打坐の教えにより日本仏教は,行として,称名念仏,南無妙法蓮華経,そして,只管打坐とそろったわけだ。 只管打坐においては何も欲しない。 ご利益はないのだ。 そういうものと割り切って姿勢をたしかにしてしっかり座ることが大事な行でありそれが悟りだというのだけれど,なかなか理解しきれるものではない。 わからないうちにわかったふりをするのが一番怖いことである。 ただ坐ればいいと言われてはいそうですかとなっていいのか。 でもとにかく坐ること。 道元はどんなに厳しい活況でもしっかり坐ったそうだ。 それで死んでもいいという覚悟があったと言う事だ。(6/20記)
2023.08.27
コメント(0)
絶望しそうになったら道元を読め!〜『正法眼蔵』の「現成公案」だけを熟読する〜【電子書籍】[ 山田史生 ] 私は道元が言う 薪が灰になったら、ふたたび薪にもどることはありえない。 だから灰が後で薪が先だと、つまり灰になるのは薪だといいたくなるが、そのように見てはならない。 薪は薪であって、そのあり方には前があり後がある。 だが前後があるとはいっても、その前後は断絶している。 灰もまた灰であって、そのあり方には前があり後がある。 薪についていえば、灰になったら薪となることがないように、人も死んだら生き返ることはない。 そうではあるが、生が死になるとは仏法ではいわない。 だから不生というのである。 また死が生とならないことも仏法によって定められている。 だから不滅というのである。 生は今のあり方であり、死も今のあり方である。 譬えてみれば、冬や春のようなものである。 冬が春となるのではないし、春が夏となるのでもない。という部分が理解できないのだが, なんとかくらいついて理解してみたいな, と思っていた。 生死というものを薪と灰に例えた話である。 そこがどうも私自身ピンと来なくて, つまり現象としての薪,灰はわかるのだけれども,同じ薪が燃えて灰になったら, それは燃えているどこかの段階で,裁断されるものなのかということ,このことがなかなか理解できなかったのだった。 それがもう一度本書を最初から読み始めたのであるけれども, そうすることによって道元禅の真髄がほんのり見えてきたのだった。 どういうことかと言うと, 生死について,生は不生,死は不滅 という大前提 があって, その結果生と死は別のもの, つまり上記のとおりまさに薪と灰の関係, 本書において著者はそのことを生は不生死は不滅だから, 今を 一生懸命生きることを提唱しているのだ。 その前提として而今がある。 つまりこの世には今しかない という前提である。 今, 今, 今,の 連続の中に私は生きていて, その私がこの今に融合することで 迷うこともなく生きることができる, それが不生であり, その結果死というものが訪れるのであろうけれども, それはそれで死という法位に座するものだから, とにかく生きなはれ!ということ なんだろうなと今回は理解したことである。( 6月 18日 記)
2023.08.26
コメント(0)
比べず、とらわれず、生きる【電子書籍】[ 枡野俊明 ] 道元禅師は,生死を明らめるはこれ仏家の云々として,生死について考えることも仏教信者の仕事なのだと言う事をおっしゃられた。 本書においては,その生死についてきちんと考え始末をつけないと大変なことになるぞという教えがそちこちに書かれている。 人は死ぬものだということを自覚したうえで今与えられた命を大事に育めというのだ。 まずもって, 何百年、何千年も前から、多くのご先祖様がご縁を結び、そして一つの命を授かった。 そしてその命は、いずれお返ししなくてはいけません。 その命をお返しする場所を仏教では「仏国土」と呼ぶのです。との覚悟が必要だ。 大事に育みお返しするときにお返しするということ。 そもそも禅には, 禅の世界においては、過去と未来は存在しません。 ただあるのは「現在」という時間だけです。というのだ。 もっと極端に言うと,生と死しかないともいう。 だから, 「日日是好日」という有名な禅語があります。 「毎日が良き一日」という意味ではありません。 一年の中で晴れの日もあれば、大雨の日もある。 晴れの日が良い日で、雨の日が悪い日ということではない。 晴れの日には晴れの良さがあるし、雨の日には雨の良さがある。 そう思うことで、毎日が自分にとって良い一日になるという教えなのです。というような心構えが必要なのであり, まわりに落ちている、たくさんの幸せをかき集めて、それを心に感じてください。 小さな幸せをたくさん感じながら生きてください。 その積み重ねこそが、幸福な人生への道筋になっていくのです。として生きているうちは幸福をかき集めて感じろ!というのだ。 なかなか難しい問題ではあるが,生死に関して一歩進んだような気にはなった。(6/15記)
2023.08.24
コメント(0)
禅脳 初めての禅入門 菩提樹研鑽会 しばらく坐禅を組んでいなかった。 6月1日からまた坐禅を組み始めた。 私は平成30年から主夫をしている。 私は定年退職後一年の再任用を経てほぼボランティア的な今は会計年度任用職員と言っている,仕事に就いた。 結果厨房に立ち毎朝コーヒーか紅茶を出し掃除をしている。 掃除機は3台目だ。 その3台目の掃除機,緑色の斜光線を出して埃を浮き出してくれるのだ。 それを吸うとなくなったこともわかる。 埃が,毎日毎日同じように床に落ちているのがわかるわけだ。 そしてふと思った。 私の心もこんな風に毎日毎日埃まみれになっているに違いないと。 とすると私は毎日坐禅を組んで心を掃除しなければならないのではないかと。 それでまた坐禅を組み始めた。 さて本書であるが,ぜんぶで6つの禅脳を紹介している。 1 あれこれ考えるな 莫妄想 流れに身を任せる覚悟 2 仏の物差しで見る 3 己を信じよ 4 もっと自由に生きる 5 がんばらない 6 あるがままでいいのですというもの。 この中に有名な禅語が散りばめられて解説されている。 まさに入門書と言えよう。 私自身今まで何度も何度も読んだのだが,本書を読んでまた新たな禅の世界を感じる事が出来た。 やはり禅は大切だと思う。(6/2記)
2023.08.16
コメント(0)
金剛経の禅・禅への道 [ 鈴木大拙 ] またも難解な本を読んだものだとほとほと自分に感心する。 多分書いてあることの半分も理解できない。 自分の力量はそんなものだ。 それでも本に印をつけてなんとか食らいつこうという気持ちはある。 「応無所住而生其心」――雲は無心で岫を出るともいう。 しかし映す鏡の本来の性格に徹しないで、鏡は映すべきであるといって、そこに自我の念をさしはさむようになると、鏡には無心に映すということがなくなる。 鏡には、ああしよう、こうしようというように、すべきはからいをもたないところに鏡そのものがある。 何らの計画性をもたないところに、鏡の受動性の本質がある。 またこれを「自然法爾」の姿ともいうのである。 まあとにかく、禅は、無、である。 鏡の無を理解しなければなるまい。 ここで著者はいきなり浄土教系の教えを出して、 浄土系では「南無阿弥陀仏」の一念で助かるというが、この南無阿弥陀仏と自分とが一つになってその間に他念の入る余地がなければ、莫妄想の心境に入る。 それが直ちに往生決定である。 それで『歎異抄』に、念仏は一ぺんでたくさんである、一ぺんの念仏で助けられるので、たくさんの念仏を繰り返すことによって助かるのではない、と書いてある。 が、これを自力的に見ると、莫妄想、正受、三昧の意味と相違せぬのである。 「南無阿弥陀仏の一声」というのは、自分と南無阿弥陀仏とが一になるとき、初めて出る声である。 そのとき自分というものはない、ただ南無阿弥陀仏がある。 「自分」があるかぎりは、南無阿弥陀仏と自分とは分かれる。 自分が名号を唱えるということになって、唱える者と唱えられる名号とが二元的になる。 二元的になる間は正受ではない。 正受というのは、受ける者もなく受けられる者もないときの心境をいうのである。 受ける者と受けられる者とが分かれては、もはや正受ではない、三昧ではない。 真宗と禅宗とは、よほどちがうように見られているけれども、煎じつめてみれば、こういうようなところで両両手を相携えて行くということになる。として浄土教系の正鵠を貫く。 見事である。 無というものをもっと突き詰めていかなければなるまい。
2022.11.23
コメント(0)
道元禅師の言葉ー一言一言に救いがある【電子書籍】[ 公方俊良 ] さて道元禅師の厳しさ、峻烈さであるが、「道を求める者は、世を捨て、家を捨て、身を捨て、心を捨てることである。 世を疎い、出家をして山林に入っても、家のこと、家族のことや財産のことが気にかかるようでは、世を捨てたことにはならない。 また、本当に家や家族や財産を捨てても、自分の身体を惜しんで修行に打ち込むことができない者は、家を捨て、身を捨てたことにはならない。 身を惜しまず、難行苦行に励んでも、自分で納得できないことはやらないというように、我見の強い人は、心を捨てたとはいえない」というほどのもので、そうなると私など歯牙にもかからないことから、他力に逃げ込んでしまうのだけれど、それで思い切り毎日続けていた坐禅も放り投げ、ただひたすら他力に頼ろうとしたのだけれど、坐禅をしないと座りが悪くてだめでしたな。 4日間坐らなかった。 けれど5日目に再び坐り始めた。 だからといってなにかが変わったわけではない。 そう、「坐禅は、直ちに心地を開明し、本分に安住せしめる。これを本来面目という。また、本地風光ともいい、身心脱落す」とある、つまり、坐禅を行えば、すぐ心の居所を見つけることができ、そこにやすらぐことができるというわけである。ではあるが、 ところが禅の世界は、坐禅をやっても効果は何もない。 参禅料を支払っても、得るものは何もないのであるから、経済的価値観で頭の中を充たされている人には、とても理解できないだろう。というもの、それが坐禅の本質だ。 人によっては坐禅により幸福感を得た人がいて、うつ病から救われた人もおられるようだ。 人は人、吾は吾、私は坐禅をやっても効果はなにもない、でよろしいと思う。 ただ毎日の自分の有り様に関し一旦リセットしてその日を乗り越えたいということ、リセットとは自己のことであり、いつまでも引きずらないことが重要だということ、そしてなにより道元禅師がおっしゃるとおり、坐禅にこそ仏の姿があること、それを信ずることができる吾、そりゃあ自力の一欠片だと他力側はおっしゃるでしょうけれど、やはり私はその他力の教えをきちんと聞くために心のリセットをしたいのだ。 坐禅をしている吾は仏でありその仏が南無阿弥陀仏という仏の音声を聞くという構図になるのではなかろうか。
2022.11.18
コメント(0)
禅の心で生きる 12歳から小僧になった、ある僧の細道【電子書籍】[ 金嶽宗信 ] ようするに本書は僧侶の一代記。 ただひたすら僧侶の道を歩んできた著者は、12歳の小僧の時代に仏門に入り、途中二松学舎で勉強し、その後臨済宗寺院の副住職、住職を歴任した。 つまり仏書として得るところはない。 しかしその生き様を通じて仏門の否仏道の厳しさを十分知ることができた。 その修行に耐えられたのは、若かったからである。 今更自分にストレスの負荷をかけることなどできない。 然れば僧侶の道を諦めるのか。 それこそかなり前からつまり現役時代から僧侶になる希望を持ち続けていたが、あっという間に定年退職を過ぎその後も僧侶への道とは程遠い仕事をし続けている。 つい最近まで真宗本を読んでいた。 阿弥陀様は音声の仏様、阿弥陀様の声を聞いて往相回向し、そして還相回向した(気になっていた)。 自力、他力を深くわきまえず、それまで続けていた坐禅をそれは自力であるからという理由で斥けた(ただしたった4日間)。 坐禅をやめた途端座りが悪くて困ってしまった。 坐禅は私に必要な行法だった。 さて著者は、 「坐禅坊主になれよ」とお師匠様に言われたという。 たしかに社会人になるとその道のお師匠筋から、どのような道を進むか、多くの道があるぞよ、と教えられたけれど、このお師匠様のように明確な答えを述べた人はいなかった。 その道は自分で選択せよ、という教えだったに違いない。 しかし著者のお師匠様は、はっきり坐禅坊主ということばをだしておられる。 これは重要なことだ。 次、 頭で理解して判断する世界を徹底的に否定し、生きるのは理屈ではないことを体感させられたのです。 こうしてくり返し導いてくださる師に、私は恵まれました。 そして心の悩み、苦しみという枝、葉をそぎおとす訓練をしたのです。 悩み、苦しみなどというものは、実体があるものではなく、心の幽霊だと体感したのです。という修行の激しさですな、こういうイメージが自力なのですよねえ、それでも他力の方から見れば、自力では救われぬ、ということになる。この辺が実に難しいところなのだが、やはり、私は坐したくなるのである。
2022.11.11
コメント(0)
道元 正法眼蔵 わからないことがわかるということが悟り (NHK「100分de名著」ブックス) [ ひろさちや ] 著者の書いた、道元を読む、は実にわかりやすい本だった。 その道元を読むと本書はかなり重なるのだけれど、本書のほうが難しい。 その道元は仏性について、 道元は言います。 「仏性は生きているあいだだけあって、死ねばなくなると思うのは、まったく認識不足である」。 生きているという状態も仏性であり、死んでいるという状態も仏性です。 「生のときも有仏性なり、無仏性なり。死のときも有仏性なり、無仏性なり」。 そしてこう述べます。 仏性は動不動によりて在不在し、識不識によりて神不神なり、知不知に性不性なるべきと邪執せるは、外道なり。 要するに、人間が認識できるか否かによって仏性が仏性であったりなかったりするといった考えに固執するのは、外道のすることだ、というのです。 認識主体がいる/いないにかかわらず、あるいは認識主体が人間である/なしにかかわらず、仏性は仏性であり続けるのです。という。 ところで悉有仏性であるが すると、〝悉有〟は副詞+動詞ではないことになります。「悉有」は名詞であって、──全存在・全世界・全宇宙・宇宙そのもの── を意味します。 そしてその全存在・全宇宙が仏性なのだ、と結論したのです。つまり、衆生にことごとく仏性があるということではなく全存在・全世界・全宇宙・宇宙そのものが仏性であるということ、この辺の読み方ですなあ、道元禅師独特の読みで、それはレ点を変えて意味を変えて読む親鸞聖人の読みと似ていることですなあ。 その読みはすなわち深読みしているからできることなのである。
2022.11.10
コメント(0)
道元を生きる【電子書籍】[ ひろさちや ] ひろさちや先生にはもう少し長生きしていただきたかった。 ひろさちや先生のような教えがなければ、私のような仏教なまくら刀にとっては前に進むことができない。 私は、これまで読んだ道元禅、曹洞禅に関し本書ほどわかりやすい本はなかったと思う。 本書においては道元禅師の、人間にはみんな仏性があるのに、なぜ修行しないといけないのですか?という単純極まりない問を実にわかりやすく読み解いていく。 そのとおりですな、これが一番の疑問なのであります。 それ以上でも以下でもない。 禅宗において、瓦を磨く逸話がある。 瓦をいくら磨いても鏡にはならない。 しかあれど鏡を磨けば光る。 そうなんですな、つまり、 仏だからこそ修行ができる── のです。 われわれは、優等生になるために猛烈な勉強をすると考えますが、そうではありません。 優等生だからこそ猛烈な勉強ができるのです。ということなのだ。 だとすると、 われわれにとって大事なことは、仏になるそのことよりも、仏に向かって歩む姿そのものです。 修行して仏になるのではなく、仏が修行している姿勢そのものが大事なのだということになる。 もはや自力他力ということではなくて我々に備わった仏性をいかに磨き通すかということですなあ、これが大事なことで、阿弥陀様の救済の力で救われたなら我々はその仏性を余すことなく衆生のために発揮しなければならないということだ。 生死をあからめるは仏家の一大事、[薪は燃えて灰となるが、もう一度元に戻って薪になるわけがない。 ところがわれわれは、灰は薪が燃えたのちの姿、薪は灰になる前の姿と見るが、とんでもない誤りである。 薪は薪としてのあり方において、先があり後がある。前後があるといっても、その前後は断ち切れていて、あるのは現在ばかりである。 灰は灰のあり方において後があり先がある。 薪が灰となったのち、再び薪とならないように、人は死んだのち再び生にならない。 だから仏教的な表現においては、生が死となったと言ってはいけないのである。 その故に不生と言う。 死が生になると言わないのが仏教の表現だ。 それ故に不滅と言う。 生は一時のあり方であり、死も一時のあり方だ。 たとえば冬と春のようなもの。 世間の人は、冬が去って春が来たと思い、春が去って夏になったと思うであろうが、仏教の考え方からすれば、それはまちがっている]である。 この言葉は本当に味わい深い。
2022.11.06
コメント(0)
心を癒す禅の教え【電子書籍】[ 嶺 興嶽 ] 真宗本をずっと読んでいて少しわかった気分になって、阿弥陀様はすべての人を救ってくださるということや、阿弥陀様そのものは南無阿弥陀仏という仏様すなわち音声なのだ、ということそれに、そうやって往相回向したら次は還相回向だと言うことに納得し、それまで続けていた坐禅は、途中で必ず集中力が途切れることがわかり、それこそが阿弥陀様から照らし出されたどうしようもない私ということに合点した。 そして一念義多念義などということも考えずひたすら南無阿弥陀仏を称えた。 称えればそれは仏の喚び声。 ところがこれがだめなんでしたね、あたしゃあ。 私的にそれはだめだったんです。 3日くらい坐禅をやめましたかな。 またもとに戻しました。 坐禅をしないと心が調わないのです。 たしかに阿弥陀様はわたしをすくってくださる仏様だし、他力ということをを考えれば自力の権化的な坐禅をして一体何になるという決意のもとやめたのだったが、そもそもその駄目な私はこの世で生きていかなければならず、心調わなければスムースに生ききれない、んでしょうな、とにかく坐禅をしなくっちゃという気持ちになり、もう一度坐禅の勉強をし直しながらきちんと坐禅することにしたのだ。 その坐禅、まず体を調えること。 つまり、まず調えるべきは「体」なのです。体の動きを止めて、静かに坐ってみる。 これだったら、場所さえ確保できればすぐにできます。 体を調えたら、次に「呼吸」です。体が調っていれば、呼吸は調えやすくなるものです。 体と呼吸が調うと、不思議と「心」も落ち着いてきます。あとはその状態を維持できるように、自分の体と呼吸と心を見つめ、調え続けるようにすればいいだけです。 なのですな。 体、呼吸、心であります。 その呼吸、 自分の呼吸に意識を向け、息を吐きながら心のなかで「ひとーーー」と唱え、次に息を吸いながら「つーーー」唱えます。 同じように「二つ」「三つ」「四つ」と続けて「十」までいったら、再び「ひとつ」に戻ります。 あるいは、息を数えている途中で雑念に邪魔され、数を忘れてしまった場合も、「ひとつ」に戻ります。そうやって、ひたすら息を数えることに集中できるまで何度もくり返すのです。 すると、再び心が落ち着いてきます。というコツがあります。 邪念に邪魔されたらもう一度ひとつに戻る、これですな。 これが必要なことなのでありました。
2022.11.05
コメント(0)
禅とタオ板橋興宗 私にとっての事実は「今、ここ」なのです。 見えている、感じる、腹減った、そういう事実が「今、ここ」なのです。 ところが頭では、言葉で「今日家へ帰ったらあれをしよう、これもしなければ・・・」などと考えていて、事実と頭の世界とがずれています。 人間はもっともっとという思いで絶えず足元が浮いてしまっているのです。 だから言葉であまり考えないで「今、ここ」の現実というものに目を向けて体で実感しながら生きようとするのが私の修行の態度であり心がけでもあります。非常に哲学的である。しかしこのようなしっかりした考えがなければ、禅は立ち行かない。又時間的に存在すると思われるのは、著者の言う、今、ここ、の、今、である。しかしこれすら存在するものなのかは、甚だ疑問である。ただ、高速で今が過去になっているという実感はある。未来は、概念的なものであって、存在するとは言えない。過去すら消え去れば、存在はしない物なのだろう。すなわち、時間とは存在しないものなのではなかろうか。だから、時間を軸に考えると、すべては存在しないものとなるのである。難しいものである。【楽天ブックスならいつでも送料無料】禅とタオ [ 加島祥造 ]
2015.10.14
コメント(0)
心に美しい庭をつくりなさい。 / 枡野俊明 【単行本】枡野俊明 墨に五彩あり。 五彩の意味は無限の色ということです。 赤や青、緑や黄色といった具体的な色では表現できない色をも墨の濃淡は表現し得てしまうまうとこの言葉は言っています。 良く知られる禅画に墨の濃淡で六つの柿を描いた作品があります。 ここにおいて水墨画が禅とつながる。 禅はいかに削るかということかな。 そんな大したことを言ってもダメだな。 また禅臭くなる。 禅の臭くなったのって最悪だ。 この頃坐禅していて感じるのは何もなくなった時の心地よさだ。 無という。 なんてね書いている矢先から禅臭くなる。 それじゃあだめっだってえの。 坐禅はねえ、心を休めることなんだって。 何も考えないことの重要性、わかるかなあ。 だからすっきりするんだよ。 そうなんだ。
2015.08.29
コメント(0)
【楽天ブックスならいつでも送料無料】人間関係がシンプルになる禅のすすめ [ 枡野俊明 ]枡野俊明 行雲流水 雲は悠々自適として大空を行き、水はどんな地形をもものともせず自在に流れています、 これが理想の姿。 「いつだってこっちからそっぽを向いてやる」。 群れとのお付き合いもそれくらいに考えたら心がずっと自在で軽くなる。 昔職場の上司から肩に力を入れるなと言われたことがある。 まさにこのことなのだなと思った。 人の行為の基準を雲と水に例える。 ただ、「 群れとのお付き合いもそれくらいに考えたら心がずっと自在で軽くなる」なんて肩肘張ったら私は禅でなくなるような気がする。 また、こんなことを書いて、批判する私も、雲でも水でもないと言うことになろう。 行雲流水は、かくも難しい。 行雲流水とは結局なんの考えもなく極めて自然に行動するということなんだろうな。
2015.08.28
コメント(0)
【中古】 きょうの禅語 心が元気になる30の禅メッセージ かに心書/マツバラリエ(著者) 【中古】afb マツバラリエ 紅炉一点雪 ここでの雪は禅者の雑念を表しています。 いかに禅の修行をしているものであっても人間だから次々に煩悩は湧き上がってくる。 けれどそれを瞬時に跡形もなく消してしまおうということでしょうか。 最近禅にはまっている。 私にとって何回目かの禅ブームだ。 上記の禅語なんて、本当に私にぴったりくる言葉だ。 何回目かの禅と書いたが、これまではどうも禅臭くなって駄目だった。 それがこの言葉でしょう、同じような言葉や禅の教えが続き、理解すると、つまり、紅炉一点の雪なんですよねえ。 つまり、跡形を残さない、禅臭くならない。 こだわらない。 ここ一週間くらい坐禅を欠かさない。 心がすっきりする。 坐禅は休むことだという。 そのつもりで始めたら、全くそのとおりだとわかってきた。 ただし5分ではだめだ。 最低10分ないと心は休まらない。 最初の5分は雑念がふつふつと沸いてくる。 そこを越えるとゆっくりしてくる。 坐禅はこれからの私のライフワークになろうとしている。
2015.08.27
コメント(0)
「手放す」生き方 心を晴ればれと軽くする 新講社ワイド新書 / 枡野俊明 【新書】 「雨にぬれてしまえば、もはや雨に濡れることを心配する必要はない」 雨の中に飛び込んで行けばいい。 屋根の下から「ああ雨だ。濡れたら嫌だなあ」と考えているから、一歩も踏み出せないのだ。 柳生宗矩に対し沢庵禅師が語ったとされる言葉だ。 覚悟の度胸とでも言うのだろうか。 その前柳生宗矩は、雨に濡れるのが嫌だから、徹底して雨粒を斬ってやると息巻いている。 火中に飛び込めということですな。 考え事をしている暇はない。 ところで禅家はどうしてこうも理屈っぽいんだろうか。 禅臭いと言うところですかね。 生き方とか生き様というのは、難しい。 かっこよくない。 でも特別なものでもない。 ただ私は、昨日この本を読んで、単純に感動したのだ。 だからこうしてブログに残しているのだ。
2015.02.17
コメント(0)
【送料無料】人間関係がシンプルになる禅のすすめ [ 枡野俊明 ]茶室の入口は狭く躙り口と呼ばれます。脇差しを差したままでは突っかかって入れません。たとえ武士であってもその立場の象徴、もっといえば魂である刀を外して入るべき空間が茶室なのです。家族が一緒に暮らす空間、家も同じです。茶、禅同源と言います。茶と禅は切っても切れない関係です。先に禅宗である曹洞宗を抹香臭いなどと書きました。それはこの間の義弟の葬式のときにも感じたことでした。しかし茶は間違いなく禅の影響を受けているのです。だから抹香臭いなどと言っていられません。簡単に言うと眼横鼻直、花は紅、柳は緑なんですけど、つまり見たまま、そのままということなんですよね。それが小理屈がつくことでなにがなんだかわからなくなるのです。小理屈がなんでもシンプルてなくしてしまうんですよね。
2013.11.18
コメント(0)
【送料無料選択可!】責めず、比べず、思い出さず 苦しまない生き方 禅と大脳生理学に学ぶ知恵 (単行本・ムック) / 高田明和/著1責めず、比べず、思い出さず 2困ったことは起こらない 3全ては良くなる 4嫌な過去は思い出さない、考えない5困難は悪魔の嫉妬―後で大きな幸運に恵まれる 6念を継がない―何かを思っても発展させない 7陰徳は耳鳴りのごとし―人の知らないところで功徳を 81寸の線香 1寸の仏ということだそうです。昨日曹洞宗の葬式に行ってまいりました。妻の弟、52歳、ガンでなくなりました。曹洞宗はかなり抹香臭いですね。一つ一つなるほどと思いつつ仏教の臭さを感じてしまうのは私だけでしょうか?
2013.11.16
コメント(0)
【送料無料】道元という生き方 [ 立松和平 ]価格:1,890円(税込、送料込)仏が 人間と同じ姿形をしてこの世に出現するのは同事である。釈迦は人間の姿でこの世に生まれ人間と同じように生き人間が死ぬように死んでみせた。これが同事である。妻の弟が昨日なくなりました。52歳でした。知らせを聞いて駆けつけましたが、病院から葬祭会館に運ばれていました。葬式は明日です。昨日枕経を唱えてくれた僧侶は曹洞宗の方でした。修証義を唱えてくれました。道元禅師の教えは日本人の心の奥に深く刻まれています。ですがそのことのわかる日本人は少ないです。昨日の枕経で曹洞宗とわかった人はどれくらいいたのでしょうか。義弟も生きて死んで同事を体現してくれたのでしょうか。明日の葬式で又私は某かの宗教的経験を得ることでしょう。
2013.11.14
コメント(0)
一日10分の坐禅入門著者:高田明和 何でいまさらこの人が座禅なのか。 瞑想の迷走の果て、座禅に行き着いたのだろうが、座禅の入門編にもならないということを、もしこの本に座禅の入門を期待して読もうとするのなら、私は、あらかじめ警告を発する。 つまり、座禅をしたいのなら、別の本を読みなさいということ。 そういう忠告である。 座禅というと、無理やり無の世界に入り込もうとするのだが、そこに無理が出る。それを野狐禅という。 本書をそのとおり読むと、間違いなく野狐禅に陥る。 読む進むうちにきっと座禅がイヤになるに違いない。 私は、座禅というのは、むしろ、無に行き着くのではなく、生命の輝きを感じることなのだと思う。 その喜びを感じずして、何の人生か。 無にこだわらないことが無ではないのか。自分を無にがんじがらめにしないことが重要だ。 本書で、十句観音経を私は、このように解釈したなどと言っているが、私は、自分勝手な解釈は厳に慎むべきだと考える。 自分勝手な解釈を持ち込むのなら、通常の解釈もまた同様に紹介して、対論として表現すべきだろう。
2008.05.10
コメント(0)
全34件 (34件中 1-34件目)
1