仏教の一般的な考え方では、修行の功徳が熟すと内なる仏性(仏の本質)が現れるとされ、確かにそのように言うこともできるのですが、道元禅師は、修行(参師問法・弁道功夫)の時節を仏性が現前している時節であるとするのです。
修行してゆくと、いつか仏性が現れるときがある、と考えるのは誤りである……、そして、今がまさに修行の時節であり、そう思って修行すれば、すでに仏性は現れているではないかと言われるのです。
というようなこと,これは修行即悟りということですな。
このことは天童如浄師が坐禅について言われていたことだ。
さて道元禅師において因果とは,
道元禅師においては、因果は超越されているのであると私は受けとっております。
ここで「超越」とはどのような意味かと言いますと、これを修行と悟りの関係について言えば、修行において、果としての悟りを求めることなく、ただひたすら仏の行いとしての修行を行ずること。
つまり、修行の功(効果・功徳)としての悟りがあろうがなかろうが、そのような結果を問題とせず、因なる修行において、果なる悟りを期待せず、ただ而今(今しかないという今)の修行あるのみでよしとする。
そのとき、その人にとって、その修行は因果を超越していることになるわけです。