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さて、「勝ち組、負け組」が愚劣なことばだとは書いたが、勝ち負けを問題にすること自体が愚劣なわけではない。人生は勝ち負けはつきものであり、勝ち負けを意識することなく大人になった者は、肝心なときに創意工夫によって道を切り開くことができない。スポーツをする者たちは、試合での勝ち負けが人間の価値とは何の関係もないことをわかっているからこそ、勝負にあれだけ執着し、あれだけの情熱を燃やすことができるのだ。だれがいったいどれほど声を上げようとも、英語を拒む者はいる。ぼく自身、英語よりドイツ語の方ができる日本人を少なくとも7人は知っている。いずれはぼくもその仲間入りをしたいと思っている。当然、そこには勝ち負けではない何かがある。アングロサクソンの文化より、ドイツの文化に強く引かれる人がいるのは当たり前のことで、ドイツ語の方ができる日本人にしても7人「も」ではなく、7人「しか」と言うべきである。アメリカは論外として、イギリスとドイツを単に好き嫌いの点で比較すれば、1対9くらいにはなる。なのに、ぼくの語学力は、英語を5とすればドイツ語は4くらいで、明らかに好き嫌いの差を正確に反映していない。ぼくにとっては、ただそのことがひたすら悲しいだけのことである。英語に力を入れた方が高収入が得られることはわかっていても、人生のどの瞬間にも英語の音楽が鳴っているような人生は苦痛以外の何物でもなく、スペイン語の音楽、フランス語の音楽、イタリア語の音楽、ポーランド語の音楽に浸っている時間を確保できてこそ、生まれてきた甲斐があるというものである。この事実だけをとっても、「勝ち組、負け組」ということばがいかに虚しいものであるかがわかる。英語を拒否して、20年間、ひたすらドイツ語に「入れ込んできた」女性がいる。オランダ語も、その普及度を考慮に入れればかなりのものである。英語よりよくできる言語が2つある。そういう人にはなかなかお目にかかれない。その点でもたいしたものである。ところが、この人はどうも、人生のあらゆる要素をドイツ語に注いできたようなきらいがある。価値観の問題として結婚しないのなら、それはそれで、他人がとやかく言う問題ではない。しかし、ドイツ語の学習に差し障りのあることは須らく拒否するというかたちで、この人の人生は進んできている。もちろん、それも人生。別に否定するつもりはない。むしろ、拍手を送りたい。ただ、悲しいことに、ドイツ語やオランダ語で生活費をたたき出すレベルに行き着くことができなかった。英語以外の言語に入れ込んで、それだけで食べていけないことがわかったとき、だれもが考えることは、「それじゃあ、英語をやろうか」である。ところが、その人は「英語をやったら、負けたことになる」という科白を吐いた。その瞬間、しら~~とした空気が流れた。親父ギャグよりも寒い。ぼくも英語なんかやりたくはなかった。だけど、英語を拒否した場合の生活、収入など、あらゆる観点から吟味して、自分の人生、これでやっていけるという結論が出た時点で、英語は基本的に無視するという方針を決めたわけだ。それでも、所詮、ヨーロッパの言語はみな親戚同士、そのうえ英語そのものが格式ある諸々の言語のかなりいい加減な寄せ集めであるから、ある程度ほかの言語をやっておれば、そのおこぼれで、英語で翻訳の仕事をするくらいの力は自ずとついてしまうものである。人間やはり、いくらきれいごとを並べても、食べていけてなんぼである。「人はパンのみで生きるのではない」と言っても、あくまで「のみ」であって、パンがなければ、あとは死だけが待っている。たまたま親の家があるからいいものの、年老いた親の厄介になり、貯金を切り崩しながら、それでもなお「英語をやったら、負けたことになる」と言うのは、いったい何にどれだけこだわってのことなのか。そう言いながら、今まで学習した言語は英語と同じゲルマン系のドイツ語、さらにはドイツ語よりも英語に近いオランダ語。そればかりではない。次にやろうとしているのが、そのオランダ語と英語のほぼ中間に位置するフリージア語だと言う。しかも、翻訳で食べていきたいといいながら、自分のきらいな分野、たとえば理系の分野はいっさいする気がない。かといって、文芸で勝負するだけの圧倒的な読書量もない。趣味だけで生きていければ、人生こんな楽なことはない。それでもなお、「英語をやったら、負けたことになる」ということばは魅力的である。 ただ、このことばは、それこそ死に物狂いで格闘してきた人の口から聞きたかったと思う。←ランキングに登録しています。何かちょっとでも得るものがあったと思われたら、ぜひクリックをお願いします。
2007年07月26日
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「勝ち組、負け組」という失言 勝ち組、負け組ということばがある。 だれが最初に使ったか知らないが、アホの一言に尽きる。政治家の失言が頻繁に取りざたされるなか、このことばが失言として槍玉に上がらないのは不思議なことだ。 だいたい、世の人たちは表面的なことには敏感だけれども、たとえばあることばが人びとの意識下でどのようにその人たちの思考や人生観を操っていくかに関してはまるで無頓着である。 婦人の婦という漢字と、「男同士の約束」ということばとでは、男女平等という観点からどちらが罪が深いか。 婦人の婦は、女性が箒を持っている姿を文字にしたもので、男女の役割を決めつけるものだという人がいる。 確かに、そういう歴史を物語っている文字ではあるが、この文字を見て「女性は掃除をするべき存在」などと思う人がいったいいるだろうか。 一方、「男同士の約束」はどうか。ちなみに「女同士の約束」、「男と女の約束」ということばは、少なくとも成句にはなっていない。 中学生のとき、ある場所に来ることを強要するやつがいて、しぶしぶ首を縦に振ったときにそいつがこの「男同士の約束」ということばを口にした。その瞬間、すご~くいやな思いがして、逆に絶対行ってやるものかと思った。これって、男の方が女より優れているという前提がなければ成り立たない科白じゃないのか。 こんなことばを聞かされていると、知らず知らずのうちに男性優位という感覚を植えつけられてしまう。 あるフランス人女性の息子が皿洗いをしているのを見た日本女性が「男なのにえらいねえ」と言った。それを聞いて、その女性がキーっとなったのは言うまでもない。 話は戻って「勝ち組、負け組」、もう一度言うが、アホの一言に尽きる。 金と金との勝負である経済でさえ、単に勝つか負けるかではない要素がある。儲かるか儲からないかだけではなく、どんな生活がしたいかが経済の根底にあることは、ホリエモンの事件を機にあちこちで言われたことではないのか。 経済ですらそうなのに、まして人生。 もちろん、人生にも勝つか負けるかという冷徹な要素があることは否定しない。しかし、そうではない面もあることもまた事実である。 本来、そのうちのどれをどれだけ重視するかは個人の自由であるはずだ。 ところが、その自由さえあざ笑うかのように、いくらきれいごとを並べても要するに人生とはこういうものなのだと、意識の底から支配してしまおうとするのが、この「勝ち組、負け組」ということばである。下品で卑劣、やくざだって、もう少し仁義をわきまえている。「成功者」ということばには、目標を達成した者を褒め称えながらも、人生はけっしてそれだけに終始するものでないという考え方を受け入れており、つつましく、ただ目の前にある仕事をこなしてきただけの者には暖かい視線を注ぐ余裕がある。「勝ち組、負け組」、この愚劣なことばの前には、政治家の失言が「色褪せて」みえる。 ←ランキングに登録しています。何かちょっとでも得るものがあったと思われたら、ぜひクリックをお願いします。
2007年07月23日
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近頃、翻訳ブログにあまりにも単純で幼稚な書き込みが頻繁にみられるので、もう少しお暇をいただきたかったところ、出てきた次第である。 そもそも、翻訳者、エージェント、クライアントなどという単純な図式は存在せず、エージェントにしても、社内に技術や言語、翻訳理論のわかった人間がいる会社と、単に丸投げしている会社とでは、天と地ほどの違いがある。 もちろん、それはクライアントについても言えることで、業界の内情に通じたエージェントほど、「クライアントほどあてにならないものはない」と考えている。もちろん、そんなことはよほどのことがなければ口に出すことがないのは当然のことで、そういうことをエージェントから聞いたことのない翻訳者は所詮、それだけの者であるということになる。 翻訳者がクライアントの話をするとき、翻訳に関して何か絶対的な存在であるかのように言う者がいるが、とんでもない誤りである。別に何もクライアントだけが絶対的な答えを握っていて、翻訳者が知恵を絞った結果の審判を仰ぐなどという性質のものではない。 SOHO・・・のブログに「翻訳会社はヒマではない」(だから、フィードバックなど返してられない)などという書き込みがあったが、とんでもない暴言である。忙しかろうが、何であろうが、やらなきゃならないことはやるっきゃないんであって、とても納品できない訳文が返ってきた日には、徹夜してでも休日返上してでも、それこそ健康と引き換えにメチャクチャに修正して納品するほかない。 フィードバックに費やす時間なんて、それに比べればわずかなものである。 ただ、とんでもない訳文はとにもかくにも直すしかない。ところが、フィードバックは必ずしも必要ではないし、第一それを次に生かしてくれる翻訳者が少ないことも事実である。フィードバックを次回に生かせるような翻訳者にはフィードバックなどしなくても、たった一言感触を伝えればそれで事足りる。 要するに、現在SOHO・・・に書いてあるようなことを書かなければならなくなったのは、素人会社があまりにも増えすぎたためである。 (つづく)←ランキングに登録しています。何かちょっとでも得るものがあったと思われたら、ぜひクリックをお願いします。
2007年07月23日
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休日はいつも、牢獄の中にいるような気がする。こんな仕事をしていると曜日の感覚がなくなる。それでも、休日だけは特別で、朝目を覚ました瞬間から世間の空気が違うのを感じる。家の外には何か得体の知れないものがあって、よほどの決意をしなければ一歩たりとも踏み出すことができない。 休日だからといって、旅行にでも出かけるのでないかぎり、ふだんと違う生活をするわけではない。ふだんとまったく同じ仕事が待ち構えていて、ふだんと同じ時間が流れ、ふだんと同じだけ疲れる。それなのに世間だけがいつになく異様な佇まいで、ぼくたちが家の戸を開けるのを待っている。 たちまちぼくたちは、そこにただよっている空気の餌食になる。 休日はただの恐怖、ただの拘束、ただの苦痛なのだ。 祝日が増えると、日曜日が二度繰り返される。ということは、恐怖が二度繰り返されるということだ。 いいことは何もない。 今年また、詐欺に等しい祝日がぼくを襲った。 いったいどの政党が膿の日なる祝日を新たに作ることを公約に掲げ、どの政党がそれに反対の声を上げたのだろうか。寡聞にしてぼくは何も知らない。ぼくだけが政治音痴で知らないのなら仕方がないが、だれに聞いても明確な答えは返ってこない。 祝日を増えたことを喜ぶ人は多い。それ自体はおめでたいが、祝日が増えたことによって、自分たちより恵まれた人たちはその何倍もの恩恵を享受し、自分たちより恵まれない人たちは逆に苦しい状況に追い込まれる。それだけのことでしかない。 それが現実なのだ。 膿の日ができたことを喜べる人は、自分が日本のなかで恵まれた階層に属しているというだけのことで、膿の日ができたことが日本国民にとっていいことであるわけでは断じてない。 なかでも月曜祝日は弱者へのいじめ以外の何物でもない。 何らかの持病をかかえていて、月曜しか治療を受けれらない人がいる。もちろん火曜しか受けられない人も、水曜、木曜だけの人もいるが、今日のように月曜が必然的に祝日になる制度になれば、月曜しか治療を受けられない人は大きな打撃を受ける。 治療を受ける機会が削られたからといって保険料が割引になるわけではない。 非常に逆説的な言い方になるが、政権政党である自民党は自分たちの政権を維持するのに必死なのだから、そういうところに目がいかないのは、ある程度納得ができる。だが、ひとり自分たちだけが国民の味方だと言わんばかりの主張をする共産党がそういうことをまるでわかっていないのは許しがたい。 まあ、とりあえず、膿の日は生き延びた。 今後、次々に襲いかかる脅威をどうやって凌ごうか、今思案しているところである。 ←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007年07月17日
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学校で英語を強制的に学習させられたことは、未だに忌々しく思っているが、内容そのものはいろいろ面白いものがあった。 そのなかに、「若いうちにお金を貯めることよりも、自分に投資することを考えなければいけない。私もお金を貯め出したのは40を過ぎてからである」なんてのがあった。 ぼくもぼんやりそういうことを思っていたが、堂々と口に出す自信がなかった。学校の教科書に自分の考えを支持してくれる件があるのはとてもうれしいことだった。 この考え方は、現行の年金制度とは相容れないものである。 この英語の教科書によって、年金制度に反対する考えが固まったのは事実である。 そうだとすれば、国のやってる教科書検定ってのはなんと間抜けな制度なのだろう。国がいちばん重要な課題として推し進めている年金制度に、真っ向から反対する考え方を助長してしまったのだから、こういう記述は検定で削除しておくべであったはずである。 中学のとき、クラスでいちばん成績のよかったやつが「大蔵省の役人になる。退職後の恩給が目当てだ」と言っていた。 それがいったい中学生の考えることかよ。 そうしたいやつは勝手にそうすればいいのだけれど、この社会には人間力学みたいなものがあって、そういうやつがいると、こちらも有形無形の圧力を受ける。 老後のことなどどうでもいいと言うつもりはない。 しかし、人生というものは老後の生活から逆算するものではない。 老後の生活はあくまで結果であって、目的として追い求めるものではない。 若いころは、夢の実現に向けて邁進し、自分の人生ほぼくれくらいということがわかるようになってから考えてもけっして遅くはない。 その意味で、お金を貯め始める時期を40歳前後に設定するのは、なかなか塩梅のよい計らいである。 この社会には、レールが敷かれていない職業や生き方がいっぱいある。「いい学校なんか行かなくったって、自分の好きな道を歩めばいい」という考えに対して「自分の好きな道に進むためにこそ、いい学校に行く必要がある」と反論した人がいるが、それはどの職業にも、どのような人生にもきちんとレールが敷かれているという前提がなければ成り立たない。実にお粗末な反論である。 現実には老後のことを考えるどころか、ただただ働くのがいやで定職に就くのを先延ばしにしている者もなかにはいるが、自分の夢に賭けている者が一人でもいるかぎり、年金なんか徴収しないで、少しでも多くのお金を自分のために使えるようにしてやれないものだろうか。 少なくとも40歳から年金を納める選択肢があってもいいはずだ。もちろん、納付額が単純計算したものよりも多くなり、受け取る額も少なくなるように設定すればよい。 現にぼくが40歳前後に加入した民間の貯蓄型保険は、確かに毎月の保険料は年金よりかなり高いが、疾病保険もついていて入院費も下りる。満期時に受け取る額は、80歳まで国民年金を受け取ったのとほぼ同じ額である。 ぼくも最低限の準備はしている。 だから、若者が自身の夢に賭けるお金をへつってまで、それ以上老後の家計を潤したいとは思わない。 翻訳がまだ手書きだった時代、翻訳会社が経費を浮かすために独立した経理をやとっておらず、そのために原稿料の振込みが遅れることがあった。銀行に行っても振り込まれていない。明日納期の原稿が速達なら確実に間に合うが、普通なら間に合うかどうかわからない。その速達代がなかった。 怨みたらたら、「振込み日なのに振り込まれていないので、速達代が出せません。普通で送りますがあしからず」と書いて送った。 そういう苦しい経験を経て、この仕事ができるようになっただけに、若い者からお金をへつる年金制度が許せないのである。←ランキングに登録しています。何かちょっとでも得るものがあったと思われたら、ぜひクリックをお願いします。
2007年07月11日
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英語脳のお粗末 英語脳ということばを初めて聞いたとき、全身が震えるような感動を味わった。そんな凄いことを考えていた人がいたなんて。 英語脳ということばを聞いてまず思ったのは、「英語と日本語とでは現実の切り取り方が違う。単に単語を覚え、文の構造を覚えるだけでは英語がわかるようにはならない。だからこそ、英語による現実の切り取り方ができる脳が必要なのだ」ということだった。 英語と日本語とは当然のことながら、1対1で対応しない。たとえば、applicationなどは複数形も含めて、実に多くの日本語と対応する。応用にもなれば、貼付薬にもなり、申込書にもなるのだから、尋常のやり方ではついていけない。 もちろん、これくらいのことはやまとことばの力を借りれば、簡単に理解できる。「あてがい」である。方法としてあてがうのだから応用であり、傷にあてがえば貼付薬になり、応募してきた人が書き込みために用紙をあてがうのだから、申込書である。 英語を理解するということは、そういうことをやまとことばの力を借りずにやってのけることである。 そういうものを英語脳と名づけたとは、実にあっぱれ。そう思っていた。ついに、日本人の理解もそういう深いところにまで達したか。 ところが、どうもそうではないらしい。 単に英語の構文を理解し、英語を聴いて理解することができる頭を英語脳と呼んでいるらしい。 ああ、アホらしと思っていると、英語耳ということばまで現れた。 フランス語やドイツ語が聞き取れる者ならだれでもイギリス英語は聞き取れるのだから、もう少し正確に米語耳とでもしてほしいものだ。←ランキングに登録しています。何かちょっとでも得るものがあったと思われたら、ぜひクリックをお願いします。
2007年07月10日
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外国語には常に発音の問題がつきまとう。なかでも、英語と格闘している人たちは、語学学習の大半をその発音の問題に費やしているかのように思える。 アメリカ人のような発音、アメリカ人のような発音と、毎日呪文のように唱えながら、それでも聞き取れないもどかしさ、うまく発音できないくやしさを味わっている人がいかに多いことか。 ところが、このぼくにはアメリカ人、何するものぞと言える体験がある。 実際には違う音であるのに、意味の区別には関与しない音がある。日本語でも、「そうですが」の「が」と「学校」の「が」とは違う音であるが、このふたつを聞き分けることができなければ、意味の区別ができないわけではない。 スペイン語では、dedo(ゆび)の語頭のdと、eとoにはさまれたdとは実は同じ音ではない。わかりやすく言うと、後ろのdはいわゆる弱い音で声帯が震えない。bにも同じ現象があって、母音のあとに来るbは弱い音になる。 意味の区別には何ら関与しないけれど、いわゆるスペイン語らしく聞こえるかどうかという点では、このdとbの発音をそれぞれ区別できるかどうかで大きくちがってくる。 言語学の授業では、ひとりひとり発音をチェックされるので、これはえらいことになったと思った。 そんな微妙な音の区別をいったいどうやってやればいいんだ。 できるわきゃあねえだろ。 案の定、ぼくより先に当てられたアメリカ人たちはだれひとりとしてこの区別ができなかった。何度も言い直しをさせられるが、それでもできない。 いよいよ、ぼくの順番が回ってきた。だれもできていないのだから、ぼくもできなくてもともとと腹をくくって、特に意識しないようにいつも通りの発音をした。 何と、ぼくだけが一発で合格してしまったのだ。 そのあと、自分がdとbをどう発音しているかを意識するようになってわかったことだが、ぼく自身まったく無意識のうちにこのふたつを区別していたことがわかった。 もちろん、それはぼくの音感が優れていたというよりも、日本語を母語とする人間にとっては、この区別はけっしてむずかしいものではなく、リズムを追っているうちに自然に身につくものであるということらしい。 アメリカ人に対する引け目など、いっぺんに吹っ飛んでしまった。 自分の強いところで勝負すればいいのだ。 それ以来、発音のことはあまり深刻に考えないことにしている。←ランキングに登録しています。何かちょっとでも得るものがあったと思われたら、ぜひクリックをお願いします。
2007年07月08日
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アメリカの見えない影 新しい家族がともに1キロを超えた。オスの名がタリン、メスがくのいち。 タリンはエストニアの首都にあやかったもので、くのいちとつけたのは、ちょうどツキノワグマにある月の模様の代わりに、手裏剣を思わせる模様があったからだ。 こうして家族が増えると、子どものころに飼っていた猫のことを思い出すことが多くなった。 初めて飼った猫がラフティ、たった1年で車にはねられて死んだ。そのあとに来たのがピッキー。9年いて、何度も出産したが、育ったのは3匹だけだった。ラッキーはよそにやり、タイガーが半年で死んだ。ロッキーは3年いたが、ピッキーが死んで半年後、出て行ったまま帰ってこなかった。 今になって気がついたことだが、昔飼っていた猫の名はどれも英語っぽい。 それが、ばくが大学に入ってからは、ボン次郎、チー子など、日本的な名前になった。以後、今に至るまで、英語っぽい名をつけたことはない。 思えば、子どものころは何もわからず、動物に名前をつけるときには、英語っぽい名前しか浮かんでこなかった。 ある意味で、あたかも英語圏が世界の全体であるかのように思いこまされていた。 英語圏以外に目を向けることを、直接権力で押さえつけられていたわけではない。英語以外の言語を学ぶことを禁じられていたわけではない。 現に、中学2年のとき同じクラスにフランス語講座を聞いているやつがいて、テキストを見せてもらった。どんなにかやりたがったが、「席次を管理されている」身で、学年順位を落とさないようにしながら、フランス語を学ぶことなど不可能に近かった。中国語をやろうと思ったこともあったが、それも同じ理由でやはりどうすることもできなかった。 事実上、英語圏の外を覗くことは不可能だった。 そう思うと、子どもの頃の猫の名がどれも英語っぽいことに、腹立たしい思いがする。かといって、今さらピッキーを別の名に変えようなどとはもちろん思わない。ぼくが小学校のときから大学に入るまでずっといっしょにいてくれて、いわばぼくの成長を見守ってくれた。死後34年たった今も、その記憶は薄れてはいない。 それだけに、3匹の子どもも含めて、あの英語の響きに複雑な思いがつきまとう。 アメリカと英語の見えない影。その影にそこまで支配されていたとは、今さらながらにすごいことだと思う。 アメリカと英語の呪縛から自らを解き放つ戦い。それが大学に入ってからのぼくの人生だった。その戦いに突入しようとするとき、ピッキーが死んだ。 独りさびしく、床下に姿を消した。 病床にあって、たまたまぼくが手を高く振り上げたのを見て、叱られていると思って怯えた。なんで、こんなときにお前を叱らなきゃならないんだよ。 そのことが未だに悔やまれてならない。 家を改築したとき、骨が見つかった。 その小さな頭蓋骨を何度も撫でながら、あのときのことを謝った。 今うちには、アフリカ的な名前の猫、漢字二文字の純日本的な名前の猫もいて、昔よりはずっと視界が明るくなっている。←ランキングに登録しています。何かちょっとでも得るものがあったと思われたら、ぜひクリックをお願いします。
2007年07月07日
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「その偽装の牛肉ミンチを作る際に混ぜるのは、豚の心臓や舌、羊のクズ肉、鶏肉などで、様々に混ぜた肉をさらに別に肉に投入することで原料の判断が難しくなっていることさえあったといいます」「また、「ミートホープ」が、これまでに認めたミンチ肉の偽装以外に、ダイアカットと呼ばれていた肉を、牛肉100%としながら、実際は豚肉を混ぜていたり、取引のあった鶏肉業者の袋を勝手に複製し、別の鶏肉を入れて販売していた疑惑なども浮上しています」 とまあ、こういう記事があった。 要するに、悪徳翻訳者というのは、いったん「~のない、または~のある」という混ぜ物を作ってしまうと、今度は原文も何も関係なく、その混ぜ物をまた別のところに流用する。そういうことだったか。それでナゾが解けた。 悪徳翻訳者が作り出した混ぜ物が、いったいどんな経路を経てだれの手に渡っているか。 いやはや、おそろしい現実が見えてきた。(つづく) この前、ここまでを「豚を牛と偽る悪徳翻訳者」と題して書いた。これには続きがある。「様々に混ぜた肉をさらに別に肉に投入することで原料の判断が難しくなっている」の部分をよくみてほしい。ぼくが常々言っているように「さまざま」はかなで書けというような瑣末な問題ではない。「様々に混ぜた肉をさらに別に肉に投入することで」と「原料の判断が難しくなっている」とが合っていない。英語の試験でこんな分詞構文の使い方をすれば確実に×になる。 それが日本人の日本語では許されていて、しかもほとんどだれも気がつかないなんて、明らかに英尊和卑である。「様々に混ぜた肉をさらに別に肉に投入したために原料の判断が難しくなっている」ならさっと読める。 近頃、「~ことで」を妙なかたちで使う人が増えてきた。アナウンサーまでおかしくなっている。 前後のつながりも何もおかまいなしに、一律「~ことで」ですまそうとする傾向が強くなっている。 これももしかしたら、悪徳翻訳者らが最初に「豚を牛と偽った」混ぜ物を作り、その「英語を日本語と偽った」混ぜ物が、日本人がはじめから日本語で書く文にも流用されたためではなかろうか。 ひとつ疑い出すと、次から次へと疑惑が浮上してくる。「別の鶏肉を入れて販売していた疑惑」、これだって、こんな「疑惑」の使い方はない。「別の鶏肉を入れて販売していた疑い」なら何ら問題はない。疑惑を使うのであれば、「別の鶏肉を入れて販売していたのではないかという疑惑」でなければならない。 英語を書くときには、that節をとるか、動詞にing形を続けるか、to不定詞をとれるかなど、慎重に考えるくせに、日本語になると実にいい加減。 ミートホープを糾弾する文のなかにこれだけの混ぜ物がある。これにはミートホープもびっくりだろう。「ことばの詐欺という点では、われわれより上を行っている」←ランキングに登録しています。何かちょっとでも得るものがあったと思われたら、ぜひクリックをお願いします。
2007年07月06日
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年金の一面性 安心のための保険料が家計の負担に 民間保険の広告の一部である。あまりにも当然すぎることだ。将来の安心はほしいけれども、現在の負担とも天秤にかけなければならない。 保険会社が他人からお金を取って将来の安心を売るかぎりは、第一に計算に入れることである。 ところが、年金の負担額は経済状態に関係なく一律になっている。 税金、健康保険から公立保育所の費用まで、経済状態に応じた額を支払うようになっているのに、なぜ年金だけが一律なのか。 なぜ年金だけが将来の安心をこれほどまでに強調するのか。それなら税金だって、健康保険だって同じであるはずだ。 税金を納めていただければ、この町で健康で文化的な生活が営めますよ。 病気になったときの安心のために健康保険を納めましょう。 そういうことはあまり言われない。 だいたい、食べ物でもそうだろう。何度も「おししいですよ、おいしいですよ」といわれたら、底が見えてしまう。英語だってそう。楽しくなけりゃあとか、あまりにも、科白がわざとらしい。 本当においしいものなら、ほおっておいても客が嗅ぎつけてくる。英語が本当に楽しいものなら、みんなこんなに困るはずがない。 年金もそれと同じ。 国民から将来の人生設計に対する選択肢をことごとく奪い去り、払う時の負担をいっさい考慮せず、安心ばかりを強調する。 立て直しなど無用。 破綻の危機に瀕した銀行と同じで、希望者の解約を認めるのが筋である。 ←ランキングに登録しています。何かちょっとでも得るものがあったと思われたら、ぜひクリックをお願いします。
2007年07月03日
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