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翻訳学校の経営原則にことごとく反するやり方 トライアリストは単にこれまでどの翻訳学校も採らなかった方法を次々に採用したというだけではない。明らかに経営原則に反することを次々に実行に移してきた。 山岡洋一さんは『翻訳とは何か』のなかで、翻訳学校では翻訳という仕事の厳しさを教えないと書いている。そんなことをしたら、生徒が逃げてしまう。とにかく、「あなたにもできる」と誘い、常に「なかなかよくできていますよ」とおだて、永久に「もう少しですよ」を繰り返す。 ところが、トライアリストには「医薬翻訳ハンドブック」というのがあって、翻訳という仕事の厳しさがえんえんと書いてある。 極論すれば、「日本語のできない者は翻訳の仕事をするな」、「考えの甘い者は翻訳の仕事をするな」、「思考力のない者は翻訳の仕事をするな」とも受け取れる内容である。 最初から最後まで、仕事をするうえでの心構えのことが書かれている。 そのため、案内書を取り寄せた者の半数以上はその時点で受講を諦める。 ただ、ひとつ、翻訳学校ならどこでも口やかましく言っていることには、それほど重点を置いていない。 英語の力は関係ありません。 これこそが「歩く辞書」ならではの哲学であり、優れた翻訳者を育てる鍵でもある。 ←ランキングに登録しています。何かちょっとでも得るものがあったと思われたら、ぜひクリックをお願いします。
2007年01月31日
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相互乗り入れ制 翻訳講座というと、すぐに思い浮かぶのが通学か通信かの別である。 これを、トライアリストは相互乗り入れという制度を打ち出した。通学、通信、どちらにも利点と欠点がある。どちらのコースも設けている学校でも、受講を希望する者はふつう、どちらかを選択しなければならない。トライアリストは通信を基本としながらも、時間が空いたときにはいつでも通学に切り換えることができるようにした。通学と通信にまったく同じ課題を使い、通学コースの授業がある日と、通信の締切日とが同じになるようにする。ふだんは通学コースに通っていても、その日にたまたま用事ができて行けなくなれば、その分を通信の課題として提出すればよい。 遠方に住んでいる受講生でも、たまたま出てくることがあれば、その日だけ通学で受講することができる。スクーリングなどとちがって、直接授業を受けることができるチャンスが常にある。 現在、この相互乗り入れはやっていないが、それに変わって東京、名古屋、大阪で直接授業をしており、通信講座を補うことができるようになっている。 それが単なるスクーリングと一線を画しているのは、最初相互乗り入れという制度から出発し、その延長線上にあるからである。 ←ランキングに登録しています。何かちょっとでも得るものがあったと思われたら、ぜひクリックをお願いします。
2007年01月30日
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来る者は招かず、去る者は追わず トライアリストの利点は1ヵ月単位の支払いができること。他の翻訳学校では基本的に前払いとして、ローンを組むなどしているが、トライアリストでは1ヵ月ずつ支払い、気に入らなければそのままやめてしまえばよい。 万一、講座の選択をまちがったと思っても、被害を最小限に抑えることができる。もちろん、3ヵ月分、6ヵ月分を一括して納入することもできるが、その場合には割引が適用される。 もうひとつ、トライアリストが受講者の立場からモノを考えている点は、しつこい勧誘をしないことである。 翻訳学校をはじめ、各種講座に一度問い合わせをしてそのあと何がいちばん嫌かというと、これでもかこれでもかという具合に何度でも案内が来ることである。いい加減うんざりする。 しかも、その案内の費用はどこから出ているかは明らかだ。当然、受講料に上乗せされる。 つまり、何度もしつこく案内を送ってくる学校では、その経費が受講生へのツケとなって回ってくる。入ろうかやめようか迷いながら、グダグダしている者にかかる費用を負担させられることほど、バカバカしいことはない。 途中何らかの事情で連絡を絶った者にも催促はしない。やる気をなくしたにせよ、何らかの事情で続けられなくなったにせよ、ムリヤリ繋ぎ止めることには何の意味もない。 だが、このやり方は歴史的にみて目新しいやり方でも何でもない。 その証拠に紀元前にすでに「北風と太陽」の話が書かれている。旅人にムリヤリマントを脱がすことはしない。そんなことをしなくても、ぽかぽか暖かくなれば、人は自然にマントを脱ぐのである。 ←ランキングに登録しています。何かちょっとでも得るものがあったと思われたら、ぜひクリックをお願いします。
2007年01月29日
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嬉しい「逆」料金体系 トライアリストの制度は何から何までほかとはちがう。料金体系も例外ではない。ふつうは入門、初級は安くても、上にいくと高くなる。 ところが、トライアリストでは昇級して上に上がるほど受講料が安くなる仕組みになっている。わずか数千円でもがんばって上に上がれば安くなると思えば、それだけ勉強にも熱が入る。 何もかもが習う者の立場から、お金を払う者の立場から考えられている。 翻訳学校では受講料一年前納なんていうところが多いが、トライアリストではどうだろうか。今までのことから考えて、これももしかしたらと期待を抱かせてくれる。←ランキングに登録しています。何かちょっとでも得るものがあったと思われたら、ぜひクリックをお願いします。
2007年01月28日
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向上心に火をつけるランク制 トライアリストはほかの講座にない制度をいくつも取り入れている。 そのひとつがランク制である。 珠算塾に通った人や、囲碁、将棋をやった人のなかには、道場に名札がかけられているのを見た記憶のある人もいるだろう。 いちばん下の級から開始して、力がつくと自分の名札が上に上がっていく。動機づけという点では、これ以上のものはない。単に初級を終了したとか、何年受講したとかいうのではなく、今自分のいる位置がはっきりわかるようになっている。 開始級は途中何度か変更があったが、現在は9級から開始し、3級、2級、1級と上がっていっても、その上に段位がある。 しかも、仕事ができるレベルは3級前後という明確な基準があり、3級に到達した人のほとんどが仕事を獲得しているとあっては、受講生の心に火がつかないはずがない。 いくつか講座を受講してみたけど、結局何にもならなかったという歯科医師は、トライアリストで才能を開花させた。現在初段、医薬専門の大手翻訳会社からの注文がひっきりなしにくる。 それでもまだ会に籍を置いて勉強を続けているのは、さらにその上を見据えているからだ。 仕事をとれるようになって満足しているのは、プロ野球で二軍に入れて喜んでいるようなものである。 野球選手で二軍でもういいと思う選手はいない。あきらめる人はいても、満足する人はいない。翻訳だって同じではないのか。 トライアリストの二段、三段という段位が、仕事が来るようになった人にも、さらにその先の目標をもたせてくれるのである。←ランキングに登録しています。何かちょっとでも得るものがあったと思われたら、ぜひクリックをお願いします。
2007年01月26日
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全国的に名を広めた「ナゾのスペイン語講師」 当時、バベルの「翻訳の世界」には毎月、翻訳懸賞があった。英日が毎月あるほか、仏日、独日、西日、韓日、中日が月交代であった。 その翻訳懸賞の上位に毎月のように「歩く辞書」の名が載った。職業はスペイン語講師。 ドイツ語翻訳者の○田○さんはのちにこう述懐している。「何語の懸賞にも姿を現すこの人いったい何。ナゾのスペイン語講師」「歩く辞書」が出てくるまでただ一人の翻訳奨励賞二言語二部門受賞者だった○岡○男さんも、「歩く辞書」の存在に注目していたと語る。 私はせいぜいドイツ語、フランス語まででしたけど、あの人はスペイン語から韓国語、中国語まで、六部門全部に名前を載せた。 結局、英日と西日で次席代表(音楽コンクールの一位なしの二位のようなもの)を獲得。翻訳奨励賞でも、独日、英日産業経済で受賞。史上二人目の二言語二部門受賞を達成した。当時、全国医学翻訳勉強会、カレント、パストラルのような会に所属していたから、当然その事実は会員の間に知れ渡る。それを機にトライアリストの講座に申し込む者も少なからずいた。 さらにはアメリアの経済分野のトライアルにも200人中1位で合格。 これがきっかけで講演の要請を受け、その場で「即決」、5人の受講生を獲得している。 翻訳だけではない。エッセイでも佳作に入選している。 医学という専門分野をもちながら、幅広い分野にいわば二軍の選手だけで駒落ちで勝負し、これだけの成績を上げた。 ただひとつの汚点は、すばる文学賞を取れなかったこと。この時の受賞者が辻仁成である。←ランキングに登録しています。何かちょっとでも得るものがあったと思われたら、ぜひクリックをお願いします。
2007年01月25日
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男と女のすれちがいはなまやさしい(2) さて、この前の話の後日談に入ろう。 日本舞踊の喩えを読んで、ようやく英語との関係から日本語を学ぶのではなく、日本語は日本語として学ぶ必要性を理解してくれたようである。 ただ、これでようやく出発点に立てたというだけで、これからが大変なのだと思う。 すれちがいがなくなったかと言えば、そんなことはまったくない。 どうやって勉強していけばいいかがわかりません。 まずどこから始めればいいかがわかりません。 男と女の問題にだってこんなすれちがいはないだろう。 だって「ぼく(私)、彼女(彼氏)ができないんですけど、どこから始めればいいでしょうか」という問いに対して「まず、確認しておきたいんだけど、お前、女(男)の子が好きか。だれが、どの子がという以前に、女(男)の子、女(男)性、女(男)というものが好きか」とまあ、こんなことを言う人はいないでしょう。 ところが、日本語、日本語と言われた日にはそれが必要になるから困ったものである。 まず、日本語が好きか。頭に浮かんだことをそのまま出すんじゃなくて、他人にもわかりやすいように体裁を整えていく。そういうなかで、日本語が美しいと思う瞬間があるか。こんな日本語を書きたいという思いがあるか。こういうものはきたなくて、こういうものがきれいだという思いはあるか。 本当は日本語なんか別にどうでもよくて、たまたま英語を勉強して、それで仕事をしようと思ったら、日本語もきちんとできていないといけないから、勉強したいと思ってんじゃないか。 それって、別に好きでもなんでもないんだけど、彼女(彼氏)の一人でもいないとみっともないから彼女をつくるようなもの、いい年をして肩身の狭い思いをするから、こんな相手でもいいかと思って結婚するようなもの。 そんな思いでつきあうっていやでしょ。結婚するっていやでしょ。 日本語だって同じなのだ。 だからこそ、もう一度問いたい。本当に日本語が好きか。←ランキングに登録しています。何かちょっとでも得るものがあったと思われたら、ぜひクリックをお願いします。
2007年01月25日
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TOEIC 909よりすごい合格率 .909 わがトライアリストの講師「歩く辞書」は道修町の翻訳会社で育った。独立後の戦績は22戦して20勝2敗。合格率実に .909 である。この2敗は当時文科系出身者を採用しなかった翻訳センター系列の会社であるので、事実上、取りこぼしをしていないことになる。 ところが、これだけのトライアルを本当に受けて全部合格したかというと、実際にトライアルを受けたのはわずか1社だけで、あとはみな推薦ないし紹介で仕事をもらっている。 すでに、それだけの人脈も築いていたわけで、それなくしてはとうてい不可能な数字である。人のツテがなかった○○社からは、履歴書を出した次の日に初仕事を受注している。履歴書を送ったものの、待てど暮らせど来ぬ返事、宵待ち草のやるせなさとなるのが常のこの世界、うらやましいかぎりである。 いったいどんな履歴書を書けば、そんなことが可能になるのか、在宅での起業をめざす者ならだれもが知りたいところだ。 別にむずかしいことは何もない。徹底して医学薬学という専門分野を作り、医学薬学を専門にする会社を狙い討ちするだけのことである。その時、どうしても手薄になるスペイン語、イタリア語を前面に打ち出し、秘密兵器のポーランド語をそっと添えておく。 まだインターネットもなかった時代。専門分野を作るとはどういうことか。用語ひとつにつき、5000円かけること。つまり、わからない用語をひとつ調べるのに5000円の本を1冊買うということである。それぐらい金をかければ、相手はぐうの音も出ない。「歩く辞書」は講座を起こす前に医学薬学を専門とする翻訳会社、専門とはしないまでも、かなりの比重を置く会社数社とつながっている。これがまず大きな武器である。←ランキングに登録しています。何かちょっとでも得るものがあったと思われたら、ぜひクリックをお願いします。
2007年01月24日
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圧倒的なコスト安 トライアリストの経営で最も注目されるのがこの「圧倒的なコスト安」である。 受講生一人当たり1万~数万の宣伝費を投じる大手翻訳学校とは、この時点で大きな差がついている。 したがって、受講生は自身が納める受講料のなかから広告費にもっていかれる部分がほとんどない。 講師にとっても、受講生にとっても幸せなことである。 もともとは、「翻訳の世界」、「通訳翻訳ジャーナル」、「時事英語」などの勉強仲間を募るページの無料広告を利用して受講生を募っている。 それは反則ではないかと思われるかもしれないが、そうではない。1回分の費用は有志の勉強会とそれほど変わらない。しかも、有志の勉強会とちがって、きっちり教えてくれる人がついている。 有志の勉強会なら参加費も安いので人が集まるということは言われている。しかし、それではビジネスとしては成り立たない。だから、ある程度講座らしい真似事まではできるが、それ以上のことをやりたいと思えば、どこかの翻訳学校の講師になるしかない。トライアリストはそれをビジネスとしても成功させた。 いったいそんなことがどうして可能になったのか。 コスト安だけでは、トライアリストの成功の秘密はわからない。 講師の名がある程度売れていなければ、人は集まらない。次回は、その「名前」の秘密に迫る。←ランキングに登録しています。何かちょっとでも得るものがあったと思われたら、ぜひクリックをお願いします。
2007年01月23日
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翻訳を教える者はほぼ例外なく、大手翻訳学校の講師になる。 理由は簡単、自分で集客ができないからだ。 逆に、大手翻訳学校にはほとんどの場合、翻訳指導のノウハウがない。 その意味でも、大手翻訳学校と翻訳の講師との間には、地衣類を思わせる共生関係がある。 まるで世間の常識など頓着しませんと言わんばかりに、腕一本で大手に対抗しうる翻訳講座を立ち上げた者がいる。 あきらめずについてきた者の「就業率」、実に70%強。 これから何回かにわたって、そのトライアリストの秘密に迫る。 ←ランキングに登録しています。何かちょっとでも得るものがあったと思われたら、ぜひクリックをお願いします。
2007年01月22日
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情報量理論の科学と技術 170度で揚げればカラッと揚がる。 理屈はそうでも、常にその条件が作り出せるとはかぎらない。厨房にお金をかけることができる飲食店ならともかく、それぞれの家庭の事情があるなかで、この条件を満たせるようにするのも、技術の範疇に属するものである。 ぼくは、スペイン料理のトルティーリャを自分の台所の条件で、本場に負けないものに仕上げる技術を開発した。もちろん、これは「企業秘密」なので、教えるわけにはいかない。トルティーリャばかりではない。パエーリャもアリーニョも、日本の条件でできるかぎりのことは試みた。もちろん、逆もやってみた。スペインにいるときも、現地で手に入る材料でおでんを作って出したら、日本人旅行者が涙を流して喜んだ。ちらし寿司も、茶碗蒸しも作った。レシピなんてものは理論にすぎないもので、条件が変われば、それなりに応用がきかなければならない。それが技術というものだ。スペインで日本料理に挑戦したことが、日本でスペイン料理を作るのに生きている。 翻訳なんて明日をも知れない仕事をしていられるのも、いざとなれば、スペイン料理店に鞍替えすれば生きていけるからだ。 その自信作、トルティーリャ・デ・パタータスは、仮に理屈を教えたとしても、たぶん同じものを作れる者はいないだろう。 翻訳もそれと同じことと言ってしまえば、実も蓋もないが、そういうことがあることもあながち否定できない。 理論はよくわかるんですが、実際にやってみると、どうもうまく応用できないんですと言う人がいる。そうかと思えば、どうしてもぎこちない文が残ってしまうと嘆く人がいる。どちらも本来、理論とは関係のないことである。うまく応用できるかどうかは、それぞれが自身の規格に合わせて調整しなければならない問題である。いくら「塩少々」、「塩ひとつまみ」ということがわかっても、指の腹が異常に大きい人がいれば、当然料理の味はちがったものになる。 外国の珍しい料理が食べたくて、レシピから自分で作る人がいる。本人は本物を食べたことがない。それでも、作れてしまうのが不思議でならない。まず味わう。いろんなものを味わってみてはじめて、味わう姿勢ができあがる。味わう姿勢ができていないのに、理屈だけで料理を作っても、よしあしを判断できるわけがない。 翻訳でもそうで、外国語から日本語への翻訳を目指すのであれば、まず日本語を読まなければならない。万一、やったことのない分野の仕事を請けてしまったら、受注した分量の100倍、その分野の日本語を読むことから始めるしかない。英訳でも同じこと。10枚の仕事が入ったら、その分野の英語を1000枚読んだことのある人でなければ、本当の意味で翻訳することはできない。「うまく応用できない」のも、「ぎこちない文が残ってしまう」のも当然である。自分で文を書いたことがないのに、原文が与えられただけでこなれた文が書ける道理がない。そこで「理論はわかるんですが」と、取りようによっては理論に不備があるかのように訴えてこられても困る。それとも、未だにどこかで理論にすがりつきたいところがあるのだろうか。 これからは、レシピも料理教室もそこそこに、食べ歩き会に力を入れるのがいいかもしれない。←ランキングに登録しています。何かちょっとでも得るものがあったと思われたら、ぜひクリックをお願いします。
2007年01月22日
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男の女のすれ違いはなまやさしい(1) 男と女のすれ違いは、これまで歌謡曲の歌詞にも、小説のネタにもなってきた。しかし、そんなものは、翻訳を学ぶ者と教える者とのすれ違いに比べれば、はるかに生易しいものである。 あまりのすれ違いに、もう書かずにはおられない。解決せずにはおられない。叶わぬ夢と知りながら。一応、本人に断ったうえで、すれ違いの実態を書かせてもらうことにする。 とにかく、日本語が書けていない。 少しずつでもこちらの指示を守ってもらえれば、前に進めるのだが、どうもその様子がない。 この前、別の用事のついでに「日本語に磨きをかけたいと思っております」と書いてきた。それは違うだろう。磨きというものはちゃんと形ができあがったあとの作業ではないのか。 そこで、「日本語に磨きをかけるなど、私でもおこがましく言えません」と書いたら、それには何ら言及がない。 つい、身の程をわきまえない発言をしてしまいました。 これくらいのことばが出てきてもおかしくないと思うのだけれど、要するに、日本舞踊や体操競技で言えば、まず指先をまっすぐに伸ばすことから始めよと言っているのに、本人は鮮やかな技にばかり目を奪われている。 いったいどうすれば、そのことをわかってもらえるのか。 そんなに日本語、日本語と言うからには、いったいどういうことをしているのか。それを訊いてみた。すると、返ってきたのは、次の返事だった。日本語に関しては、和訳なので、まず、英語の文章をみて、日本語で言うなら、どう言うのか考えながら訳すようにしてます。 ・・・どうも話がおかしい。翻訳するときにだれもがすることを訊いているのではない。翻訳とは関係のないところで、どうやって自分の日本語を確立していくかという話をしているのに、それがまるで伝わっていない。←ランキングに登録しています。何かちょっとでも得るものがあったと思われたら、ぜひクリックをお願いします。
2007年01月21日
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「教わった」の不思議「以前、他の通信講座で『だ』は粗雑な感じを与えるので、実務翻訳では使わないと教わったのですが、『だ』をまぜてはいけないのでしょうか」という質問を受けた。 これを読んで複雑な気持ちになった。 そういうことはいったい「教わる」ものなのだろうか。母語話者として無意識のうちにある程度の感覚が身についていて、自分が漠然と心に思っていたことを改めて確認したというのなら、それはそれでわからなくはない。しかしもし、本人が本当に「教わった」という意識をもっているのだとすれば、これはちょっと問題なのではないかと思う。 そもそも「教わる」以前に、自分自身が「~だ」に対してどのような思いを抱いてきたのであろうか。たとえば、ひとつ前の段落で「~ものなのだろうか」と書くのと、「~ものなのであろうか」と書くのと、他人に与える印象はどれだけちがうか。ここでも、「~抱いてきたのであろうか」と書くのと「~抱いてきたのだろうか」と書くのとどれだけちがうか。いったいそういうことが、これまで一度も脳裡をかすめることがなかったのか。 もしなかったのだとすれば、翻訳の仕事をするのは潔くあきらめてほしい。「だ」が粗雑な印象を与えるという表現が果たして適切であるかどうかはいささか疑問である。しかし、そうでも言わなければ受講生がなかなか指示を守ってくれないのであれば、そのような表現を用いるのもあながち悪いことではないのかもしれない。「だ」はどちらかと言えば、個人の思いを強くだすことができ、感情を乗せやすい。そのため、ノンフィクションなどでは力強い感じを出すのに適しており、文のスピードを出すのにも向いている。「である」の方が事務的な感じが強く、当然よそよそしい。格式ばった感じもする。「だ」と「である」について、これ以上何を書いても、「教わった」としか思えないようでは、何もかもがむなしい。 文章とはまず、自分が美しいと思うか、きたないと思うか、好きだと思うか、嫌いだと思うか、そこから出発するべきものであるのに、その肝心の部分が失われてしまっている。 そうなればもはや、他人から聞いたことは思考という回路を通ることなく、何もかもがただ「知識」の羅列として入ってくる。羅列にすぎないものはさぞ使い辛かろう。
2007年01月19日
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NHKと文部科学省 教育とは教え育てることよりも、教わり育つことから出発するべきものである。 まず自分が何を学びたいか。 学校はその出発点を奪う。 日本人の語学教育の問題に関して文部科学省が何やらよろしくないことを考えているが、ぼくの言いたいことはただ一言。「頼むから、じゃまをしないでほしい」 社会にはさまざまな学習の機会がある。HNKでもさまざまな講座をやっている。なかでも語学講座は非常に充実していると思う。 まったくの初歩から高度なものまで、10以上の講座がある英語はもちろんのこと、イタリア語、ロシア語などでもラジオ講座だけで相当なレベルまで到達できる。 ラジオを聴くだけならまったくお金はかからない。 テキストとCDを買っても1ヵ月の「授業料」は約2000円。 CDがあっても、CDプレーヤーもパソコンも買う金がないとなれば話は別だが、教育の機会均等を言うのであれば、機会均等の条件はほぼ100%満たされていると言ってよい。 もし、その機会均等の条件を妨害するものがあるとすれば、ほぼ次のようなものであろうと思われる。□ ラジオ講座で英語を勉強しても、高校入試、大学入試には直接つながらないので、同じ時間をかけるのであれば、それまでは学校の勉強に集中させようとする親、学校からの横槍。□ 英語以外の言語を勉強したいと思っても、大学の入試にはないからとか、英語の方が将来出世につながるなどという親、学校、友人、世間からの横槍。□ 学習時間の確保をはばむ家庭環境 NHKの語学講座はどれも、実用的であると同時に、文法的な説明などもきちっと入っており、日本人全体が外国語を教わり学ぶことを考えたときに、現時点でこれ以上のものは考えられない。もちろん、白水社をはじめ語学教材を専門とする出版社のものにはすぐれたものがたくさんあるが、それはひとりひとりが自分の意思で判断すればよいことである。 日本人全体の語学教育を考えるときに、なぜNHK講座のような優れた講座の存在が話題にすら上らないのか。偏狭な縄張り主義が介在しているとは思いたくはないが、それ以外の理由が浮かんでこないのも事実である。 ←ランキングに登録しています。何かちょっとでも得るものがあっっと思われたら、ぜひクリックをお願いします。
2007年01月17日
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教育とは教わり育つもの 教育とは学校に邪魔されないで身につけるべきもののことである。 (マーク・トウェーン) 教育には文字通り、「教え育てる」だけではなく、「教わり育つ」という意味が含まれている。 国、文部科学省、教育委員会の立場から見れば教育はひとつであっても、自ら学ぶ立場からすれば、学ぼうとする人の数だけ教育がある。 本来、教育というものは、これから成長しようとする者の立場から出発すべきものである。自分が何を身につけ、何になりたいか。極論を言えば、本人がやりたいことだけをやればよい。ただ、生まれてから10年にもならない者にとっては、自分が何を身につけ、いったい何になればよいのかを判断できないことが多い。親にせよ、国にせよ、そのための手助けをしたり、目指すもののために勉強の内容が偏ってしまうことにないように、常に見守り、軌道修正してやるのが本来の役目であるはずだ。 自分自身のことを振り返るに、小学校時代から実にいろんなものにのめりこんだ。それができなくなったのは、中学に入って全校規模の席次なるものが現れたからだ。 親も教師もひたすらその席次を監視する。 数字のつじつまを合わせておかなければ、なかなか好きなことをさせてもらえなかった。 では、もしそういうものがなく、学校の成績など気にせず自分のやりたいことをすることができれば、今の自分がどうなっていただろうか。 ひとつは、今と同じことができていたか。 もうひとつは、今以上に偏った分野の勉強をすることになりはしなかったか。 ひとつ。学校の制約さえなければ、今までに成し遂げたことをあと十年は早く成し遂げていたと思っている。その意味で上からの教育は非常に迷惑な話である。 ふたつ。人間はある時期だけに限定すれば偏った勉強をするのが当たり前で、いつもいつも満遍なく勉強していては身につくものも身につかない。 ありとあらゆる食べ物を用意して子どもに好きなものだけを食べさせると、最初は偏ったものを食べるが、最終的には栄養のバランスがとれた食事をするようになる。そういうことは体が知っているのだ。偏食を作り出すのは親であって、子どものわがままではない。 勉強にも同じことが言える。 最後にもう一度、教育とは何か。 教育とは、学校で習ったことを何もかも忘れてしまったのちに残るもののことである。 (アルベルト・アインシュタイン)←ランキングに登録しています。面白かったとか、役に立ったと思われたらぜひクリックしてください。よろしくおねがいいたします。
2007年01月16日
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小学校からアラビア語 3年前、カリブ海の島、プエルトリコに行ったとき、だれもがとるアメリカ経由ではなく、スペイン経由を選んだ。そもそも地球は丸いのだし、歴史的にもこの経路の方が正統なのだから、他人に後ろ指を指されることなど何もないはずだった。ところが、どうして、そんな妙なことをしたのですかと、会う人ごとに聞かれた。くどくど説明するのも面倒なので、「ぼくはビンラディンの本を訳したことがあるから、ブラックリストに載っていて、アメリカ本国には入国できない」と答えることにした。 それがまた、意外な反響を呼んだ。「へえ、そんなもんですかねえ(テロに対する警戒心ってすごいですね)」と感心する人が相次いだ。 それがごくふつうの人の反応とあれば、冗談ですむけれども、そういうことを本気でやった公的機関がある。つい最近、日本に住むマレーシア人が本国に送金しようと思ったら、相手の名にムハンマドだかビンだかは知らないが、テロリストと共通の名があるというので、もしやテロ資金ではないかと疑われて、送金が一時足止めを食った事件があった。 そういう名前がイスラム圏にいったいどれくらいあると思っているのだろうか。日本で言えば、姓に山、田、本、中、木などがついていたら、みなテロリストと疑えというようなものだ。もちろん、それ以前にイスラムイコールテロという図式がまちがっていることは言うまでもない。 そもそも、ぼくたちはイスラムについて、ほとんど何も知らされていない。 世界の半分とまではいかないまでも、相当大きな部分についてほとんど何も知らないことになる。たとえばカリブ海に浮かぶ人口4万人の国のことを何も知らないのとはわけがちがう。 一方、アメリカのことや英語のことは、その何十倍、何百倍も知っている。 ごくごくふつうに考えて、ある程度知っていることはさておいて、ほとんど知らないことをせめてもう少しは知るようにしなければと、危機感を募らせるのが正常な反応ではないかと思う。 イスラム世界がそっくりそのままアラビア語圏というわけではないが、まずはことばを知らなければ始まらない。これだけみんながよく知っている英語を小学校で教えるというのなら、アラビア語を教える選択肢だってあっていいはずではないかと思う。 中立な世界観を養うのに、そこから得られる効果ははかり知れない。 アラビア語を教えることのできる人材がいないなどとたわけたことを言うなかれ。そもそも、教育とは犬山市長も言うように、知識を教えるものではなく、自ら学ぶ力を授けるものであるはず。NHKの講座をはじめ、まったく教材がないわけではない。今の日本でアラビア語を学ぶのにどのような方法があるか。まさにその何もないところから、教師と生徒がいっしょになって考え、工夫していくことこそ、本当の教育なのではあるまいか。 小学校からアラビア語 何と美しい響きのあることばであることか。 ←ランキングに登録しています。クリックおねがいします。
2007年01月15日
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近ごろのいわゆる日本語本、英語本の書名や触れ込みには目を覆いたくなるものが多い。「知らないと恥をかく日本語」などと書くこと自体、己の恥を晒していることに気がつかないのだろうか。義務教育を受けてきちんと勉強してきたのに知らないことがあったとすれば、それは本人の恥ではなく、カリキュラムの組み方に不備があった文部科学省や教育委員会の恥であるはずだ。まして「知らないと恥をかく英語」など言語道断。外国語にすぎない言語に知らないことがあったからといって、なぜそれが恥になるのか、その理由がわからない。 もちろん、英語圏に行くのに何も準備をせずにドカドカと土足で乗り込んでいくようなことは許せないが、それはまた別の問題である。「和製英語は恥ずかしい」と言うが、まず出発点がわからない。そもそも、日本人が英語を作ることは不可能である。したがって、和製英語なるものは存在しない。本来、存在しないものを「和製英語」と命名されても困る。 英語の単語とそっくり同じか、ごく一部が異なるだけの単語はヨーロッパの言語にいくらでもある。だからといって、それをスペイン製英語だの、フランス製英語だのとバカなことを言う人はいない。もちろん、歴史的経緯の問題もあるが、逆輸入されたものでも、そんなことは問題にもなりはしない。スペイン語に mitin (後ろのiにアクセント記号)という政治的集会を意味する単語がある。英語の meeting からは入ったものだが、今ではスペイン語独自の意味で使われ、だれもスペイン製英語だなどとは思っていない。 ある事件で「犯人は中国語をしゃべっていた」という証言を聞いて、警察は中国人に絞って捜査を進めたという話があるが、何とマヌケな警察であることか。外国語の知識のない者にはベトナム語もタイ語もラオス語も中国語に聞こえる。その点をきっちり検証することが捜査にとって絶対不可欠であるはずなのに。 日本人が「英語」と言うとき、「アメリカ人」と言うとき、単に(主として欧米の)外国語、外国人というくらいの「軽い」意味で使うことが多い。ぼくもスペインにいるとき、「チノ、チノ(中国人)」と言われて、「チノじゃない。ハポネスだ」と言うと、「ほら、やっぱりチノじゃないか」と言われたことがある。東洋のことをよく知らない者にとって、日本は所詮、中国の一部にすぎなかったのである。 だから、「和製英語」というものは本来、「日本で作られたヨーロッパ語まがいの言語」というくらいの意味であって、日本人が英語を作ったわけではない。昨今の「これらの」、「より~」、「さらなる」、「すべての」などといっしょに「西ハワイ語」という名でひとくくりにしてしまうのがいちばんわかりやすい。日本語ではないけれども、もちろん英語でもない。マンションがもともと大邸宅という意味であろうが、ヨットが豪華客船という意味であろうが、西ハワイ語のなかでは別の意味を獲得しているのだから、そんなことは関係のないことである。 もともと同じものであったものがヨーロッパを流れ流れて、ドイツに行っては「カルテ」に姿を変え、スペインでは手紙やメニューに、ルーマニアでは本になったりしたようなものはいくらでもある。 ヨーロッパ各国の間では、自分の知っている言語を頼りに意思疎通を図ろうとする。フランス語では一種のというのを une sorte de と言うが、スペインでは una clase de と言う。フランス人がスペインに来て、その言い方を知らなければ、自分のことばをもじってとりあえず una sorta de と言ってみる以外に方法がないではないか。いったい、そのどこが恥ずかしいことなのか。ぼくもそれを聞いて「ああ、あんた、フランス人」ということになり、逆に話が盛り上がったこともある。 日本人だって、日本で英語で話しかけられたら、英語がよくわからない以上、西ハワイ語を頼りに意思の疎通を図ろうとするわけで、通じるときもあれば通じないときもあるのが当たり前。国境を越えれば、元の意味が変化するのは当たり前。日本へ来るかぎり、日本語や西ハワイ語も少しは勉強して来い。元の英語をおかしな意味で使ってると、われわれを非難するなんて、逆ギレもいいところ。少しは国際感覚を学べ。それが西ハワイ語なんだから仕方がない。 その代わり、自分の国にやってきた日本人には、他人の国の言語もきちんと勉強せずにドカドカ乗り込んで来るなと一喝してやればいい。「金を落としてくれれば、まあいいか」なんて妥協するな。 話は戻って、あちらを見てもこちらを見ても、学校で教えられることに素直に従ってきた者に対して、その知識はまちがっているとのたまう本ばかり。同じことを言うにしても、「教育とは、学校教育に邪魔されないで身につけなければならないもののことである」というマーク・トウェインのことばを引用してくれたら、「あんたの英語はまちがっている」と言われても少しは素直になれる。そうか。バカ正直に学校の言うことを鵜呑みにした私が愚かだった。 それにして、「きみの英語じゃ通じない」なんて、どれほどの傲慢さがあれば言えるのだろうか。通じなくてけっこう。こちらから願い下げ。 たかが外国語にすぎないものを知らないとはどういうことなのか。知らなければどうすればよいのか。そういう原点に戻ってもう一度考え直す時が来ている。←ランキングに登録しています。クリックおねがいします。
2007年01月13日
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翻訳を学ぶ者には深刻な悩みがある。 どうやって誤訳をなくすかという悩みである。思いあまって年賀状に書いてくる者もいる。 今年の目標は誤訳をなくすことです。 もちろん、目標にすること自体は悪いことではない。 問題は本人が、本来結果であるはずのものを行動目標とごっちゃにしていることである。車を運転する者が無事故を目標にするのはもちろんいいことであるが、無事故はあくまで結果である。□ 酒を飲んだら運転しない。□ 運転中に携帯をかけない。 このような目標なら、だれでもやろうと思えばできる。 翻訳でも「誤訳をなくす」なんて、自分の意志ではどうにもならないことだ。ぼくにもできない。目標とするかぎり、自分にできることを考えなければならない。□ 単語を引くときは、必ず辞書の隅から隅まで読む。□ 知っていると思う単語でも必ずもう一度辞書を引く。□ 少しでも疑問があるものは絶対にそのままにしない。 誤訳をなくすというのは、その積み重ねのうえに始めて見えてくる「結果」なのではないだろうか。 それに、何も誤訳を奨励するわけではないが、偶発的に犯してしまう誤訳を咎めるつもりは毛頭ない。 問題はシステムであり、プロセスである。 勉強中の人たちのやり方をみていると、一定の割合で確実に誤訳するようなプロセスを採用している。プロセスだから当然変動がある。誤訳が少なくなったと言っては喜び、多くなったと言っては落胆する。プロセスの変動にすぎないものに一喜一憂するなんて、翻訳者でよかった。工場の経営者だったら、経営破綻→借金→一家離散という経路をまっしぐら。 年の初めにあたって、まずは翻訳者であることの幸せをかみしめてほしい。←ランキングに登録しています。クリックおねがいします。
2007年01月11日
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某スポーツクラブの放送で「本日の体調はいかかがですか。体調がすぐれないときは休養をとるようお勧めします」と言っている。 そもそもまず体調とは何か。それがわからなければ話のしようがない。近頃、二言目には「体調を崩す」ということばを使う人がいるが、「体調を崩した」くらいで1ヵ月も休む人がいるのだから、せめて「体の具合が悪くて」と言ってもらわないとわからない。 年末、仕事の関係もあって、2週間近く練習を休んだ。 体のなかに、なにかこう、重油のようなものがたまっているような感じがする。しかも、ちょうど時を同じくして寒さが厳しくなってきた。続けて練習しているときでも、これだけ一気に寒くなると、練習に出かけるのがおっくうになる。 どうも体が重い。今日はやっぱりやめにしよう。どうせ長い間休んでしまったのだから、明日からでもいいや。毎日、そんなことを考えているうちに、とうとう大晦日。新しい年を迎えれば、また気持ちも新たになるかもしれないが、ここは大晦日に一度練習に出ておかないと、新年から始めることもできないかもしれない。 それで重い体をひきずりながら練習に出た。 正月は毎年、お酒の量も増えて、体調を崩すことが多い。ところが、今年はどうだろう。朝起きても、前の晩に少し飲みすぎたという感じ、食べすぎたという感じが残っているものの、昨年の暮れに比べれば、体のなかにつかえているものがかなりのところまで外に出てしまった気がする。 どうも体調がすぐれないと思っていたが、原因がはっきりした。「エネルギー」の便秘である。 ぼくがスポーツクラブを作れば、「体調のすぐれないときは、ぜひ軽い運動をお勧めします」という放送が流れることだろう。←ランキングに登録しています。クリックおねがいします。
2007年01月09日
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テーマパークが倒産して数百匹の犬が餓死するという痛ましい事件が起きた。 死亡した犬500匹。 人はすぐ、このような事件だけをみて、本来失われないですんだ命が500匹分失われたと考える。 本当にそうだろうか。もちろん、この犬たちを救えるものなら救ってやりたかったと思うのは、必死になって行方を探していた人たちだけではない。 そもそも、テーマパークが倒産する遠因となったものは何か。ペットを飼えるマンションが増えて、わざわざテーマパークに行かなくても、犬や猫に触れることができる機会が増えた。 ペットを飼えるマンションが増えたということは、それがなければ捨てられたままだった犬や猫が何百匹も、自分たちを大切にしてくれる家族に巡り会えたことになる。 もちろん、そのことで安易に動物を飼い始めた家族が、いとも簡単にペットを捨ててしまうということもなかったとは言えないが、全体として動物たちは救われたのではないだろうか。 それにまた、マンションでペットを飼えるようになったからといって、血統書付の犬や猫を飼いたがる人ばかりだと、いっこうに捨て犬や捨て猫が救われるようにはならない。 ただ、死んだ犬がいた裏には、その原因となった社会の変化のおかげで、逆に救われた動物もいたことだけは確かである。 でも、なぜそういうことを、もっと早く逆の視点から見ることはできなかったのだろうか。 マンションで動物を飼えるようになれば、その影響でどんなことが起きるか。ある程度の予測は人間の力でできないことではないはずだ。世の中はみな底の方でつながっている。深刻な事態に至らないうちに手を打つことができるのは、行政をおいてほかにないのではないか。また、そういうことができないのであれば、いったい何のための行政なのか。 行政には縦のつながりばかりで横のつながりがまるでない。 週休二日制にしても、保育所などの問題で窮地に陥った人は多いはずだ。週休二日制を考えるのであれば、核家族化が加速する前に何か方策を打っておくべきであったが、お役人にとっては、週休二日制は週休二日制、核家族は核家族、まったく別の問題であるらしい。 世の中がみな連通管であることを踏まえて問題解決に当たらないかぎり、テーマパークの悲劇は次にその姿を変えて、さらに大きな悲劇となってわれわれに襲いかかってくるであろう。←ランキングに登録しています。クリックおねがいします。
2007年01月08日
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学生時代にひもじい思いをする。それはある意味では、将来のためにお金を預けるのにも似た行為ではなかろうか。 だれだって、一生そんな生活をしたいとは思っていない。 大学のとき、自分が使えるお金を計算したら、昼は素うどんしか食べられないことがわかった。それも毎日食べていたのではお金がもたない。仕方なく2日に一度にした。 ユースホステルを使って旅行すると、とんでもない目にあうことがある。 夕食に出るタンパク系のものと言えばいわしくらいのもので、ごはんのおかわりもなし。おなかがすいて眠れない。 いちばんひどかったのは、お寺のユースに泊まったとき。 雪の中をようやくたどりついたところは、どうもシーズンだけ合宿に使うようなところで、宿泊客はぼく一人。大きな部屋に火鉢ひとつだけの寒いところで長い間待たされて出てきた夕食のおかずがなんと3つだけ。ゴムのような鶏の皮と、縁が固くなった昆布巻きと、ぼくがただひとつ食べれないらっきょ。 縁が固くなるほど古くなった昆布巻きを客に出すのも、仏の道だと思っているのか、いくらなんでもあんまりだ。そのあんまりな食べ物がその夜唯一ぼくが食べることができるものだった。らっきょはアレルギーで受けつけない。鶏の皮はいくら噛んでも噛み切れない。 お寺で食べ物を残したら叱られるかもしれないと思って、わからないようにゴミといっしょにくるんで捨てた。 まあしかし、それもこれも、学生時代のお金のなかったころのこと、今では笑って話せる思い出になっている。 そんなことが食い物の怨みになっているわけではない。 人はみな、そういうひもじい学生時代を過ごして大人になり、少しばかりお金ができなら、年に何回かはちょっと贅沢をしようと旅に出る。 それなりの料金も支払い、隣の割烹と同じ経営者がやってる旅館とあれば、夕食にそれなりの期待をもっても当然だろう。 何も質素なものがいけないというわけではない。質素なものは質素なものなりに、すごくいいものを食べたという思いが残る。東北の団子汁なんかは、確かに団子と近くで採れる野菜しか入っていないかもしれないが、ぼくなんかにはなかなかのご馳走に映る。 じらすのはこれくらいにして、先を急ごう。ずばり夕食のいちばん真ん中のお皿に陣取っていたのは、何と(何の変哲もない)さんまの塩焼きだったのである。 ただこの日のために、毎日毎日ひもじい思いをしてきたぼくの学生時代はいったい何のためにあったのか。←ランキングに登録しています。クリックおねがいします。
2007年01月04日
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