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三浦雄一郎さんにパクられた。三浦さんが「歩けば歩くほど人は若返る」という本を出した。これって、ボクの「人も歩けば若くなる」のパクリじゃないの。 許せん、けしからん、なんて野暮なことは申しません。三浦さんにパクられたら本望です。 ボクにも世に訴えたいことがある。でも、ボクの知名度じゃ何もできない。そこを三浦さん、力を貸してください。
2012年11月21日
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老兵は去るのみという。 しかるに老兵は去れない。 老兵は去りたい。 されど、若芽は育たず。 育つ気もなし。 老兵はアルツの妄想をつづるよりほかなし。
2012年11月21日
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バルガス・リョサがノーベル文学賞を受賞した。 感無量。
2010年10月07日
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翻訳の勉強を始めるときに、専門書を最初から一字一句完璧に理解できないと気がすまない人がいる。 それが無意味なことは、球技を考えてみればすぐにわかる。 たとえば、バドミントンで、相手から来たシャトルを最初から全部取ろうと思う人がいるだろうか。 最初は取れるものだけを取っていくしかない。 あとは練習を積むうちに、取れる範囲が広くなる。 取れないものは取れなくても、どんな球が飛んでくるかを体感できればそれでよい。 バドミントンなのに、バレーボールみたいに回転レシーブをする人がいて、「回転レシーブくん」と揶揄されているが、専門書を最初から全部頭にたたきこもうなんてのは、まさにバドミントンで回転レシーブをするようなもの。ファイトは買うが、そういうのを匹夫の勇と言う。 翻訳で大切なことは、まずことばの使い方に慣れること、専門用語の「空気」に慣れること。 できるだけ早いうちに、ありとあらゆる表現に接して、その全体像をつかむことが大切だ。最初から完璧に理解しようとしたら、その作業に支障が生じる。 ことばに慣れようとして多読する人は必ず成功し、最初から意味を追う人はことごとく失敗している。 例外はない。 ←ランキングに登録しています。クリックおねがいします。
2008年11月07日
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何度トライアルを受けても通らないという人がいるが、自分のトライアルには通っているのだろうか。 たとえば、目の前にある文を訳してみて、一点の曇りもなく理解でき、納得のいく訳ができただろうか。 それができないとすれば、自分のトライアル不合格である。 ぼく自身、この自分のトライアルがいちばんむずかしい。 自分のトライアルに合格しないということは、欠陥商品ではないにしても、絶対的な自信をもって出せるものではない。 まして、添削指導を受けていて、毎回必ず直されて返ってくるのに、トライアルを受けてみようという気持ちになるのがまず理解できない。 トライアル云々と言う前に、まず自分のトライアルに合格することを考えてもらいたい。 ←ランキングに登録しています。クリックおねがいします。
2008年11月07日
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21世紀に入って早や数年が過ぎようとするのに、未だにトライアルに通らないなどと嘆いている人がいる。 絶対トライアルに落ちない方法が、ただひとつだけある。 教えてほしい人は、[ランキングに登録しています] ←ここをクリックなんて、くだらないことは言わない。 トライアルなんてものは、受けるから落ちるんであって、受けなければ絶対に落ちない。 この理屈は小学生でもわかるはずだ。 トライアルなんてろくなことはない。 ぼく自身、ある時期まで(それ以後は数えるのをやめてしまった)仕事をもらった翻訳会社は20社、落とされた会社は2社。22戦2敗だが、その2敗はいわば門前払いで、トライアルすら受けさせてもらえなかった。 トライアルで落とされたことは1度もない。 ただ、トライアルを受けたのは1度しかない。トライアルには合格したが、仕事はもられなかった。 トライアルなんてろくなことはないのだ。 トライアルを受けずに、なぜ仕事がもらえるのか。トライアルに合格したのになぜ仕事がもらえないか。 ここにも、小学生でもわかる理屈がある。 山村に魚を持っていけば売れるけれども、山菜を持っていっても売れない。 逆に漁村に山菜を持っていけば売れる。 珍しいものや、ある土地で不足しているものを持っていけば売れる。 そういう経済の基本をわきまえずに、やみくもにトライアルを受けても通るはずがない。 (つづく) ←ランキングに登録しています。クリックおねがいします。
2008年11月04日
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ぼくはかねがね、日本の食糧自給率38%に何の問題もないと言ってきた。 だいたいやな、きみら、食べ過ぎや。 竹本健一でなくても、そう言いたくなるだろう。昼間その辺の中華に入ったら、たいしてカロリーを消費する仕事でもないのにサラリーマンが、いい歳をしたらやら、いろんなのやらが、たいていラーメンを定食にして、よくて半ちゃん、下手をすると一人前のチャーハンをつけている。 そのくせ、つき合わせの野菜は手つかずのまま残す。 日本では、こうして残した野菜をはじめ、1年間に1900万トンの食糧が捨てられているという。この量はアフリカ諸国に対する国際援助の実に3倍にのぼる。 これだけでも、自給率38%でも十分にやっていけると思うのだが、さらに新しい証拠が得られた。 消化吸収やグリコーゲン貯蔵にかかわるわれわれの遺伝子は旧石器時代のままだそうだ。 当時は1日に平均19キロ歩くくらいのエネルギーを消費していたので、食糧にありついたときには食べれるだけ食べて、それに見合うだけのエネルギーを貯蔵しておく必要があった。 それが今ではカロリー消費が当時の38%にまで減っているという。 遺伝子だけは昔のまま、腹いっぱい食べてエネルギー消費が38%になれば、めちゃぼ(めっちゃぼってり。メタボは代謝の意味だから、メダボ体型というのは代謝が問題ない人の体型を意味するのでないとおかしい)体型になるのは当たり前。 この38%という数字、日本の自給率とピタリと一致している。 輸入をいっさいやめれば、めちゃぼの問題は解決する。 ところで、毎日それなりの練習を積んでいるこのぼくでも、以前より少しお腹がでてきている。 いったいなぜだと思っていたら、そのナゾも解けた。 ぼくの遺伝子はみんなと同じ、1日19キロ歩いてもエネルギーが賄えるようになっている遺伝子。そう言えば、練習量が19キロを超えると確かに体重が減る。 1日10~15キロ程度のへぼい練習では、なかなか体重が減らないのは当たり前。 だけど、それ以上練習したら、今度は収入の方が減ってしまう。 旧石器時代は歩けば歩くほど獲物の収穫が増えたのに、それと比べて現代は何と不条理な時代なのだろう。 ←ランキングに登録しています。クリックおねがいします。
2008年10月31日
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どこかに書いた話をもう一度というのは恐縮だが、相変わらず「どれくらいでプロになれますか。仕事ができるようになれますか」という質問が多いので、この辺でもう一度書いておこう。 ロシアの小噺 あの、すみません、駅まで何分くらいかかりますか。 まあ、歩いてみなさい。 私はただ、どれくらいかかるか尋ねているんですが、、。 まあ、いいから歩いてみなさい。 (仕方なく歩きだす) その速さなら10分じゃ。 ←ランキングに登録しています。クリックおねがいします。
2008年10月22日
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相撲の八百長で世間が騒がしいが、講談社さんも他人の八百長を云々するのなら、自分の八百長のことを少しでも考えた方がいいのではないだろうか。 そもそも、「さらなる」や「より~」、「すべての」、「これらの」を日本語に持ち込むなんて、庶民から自然発生的に出てきたものではない。 学者のはしくれか、マスコミか、はたまたどういう馬の骨かは知らないが、要するに上から勝手に「決めて」、音声としてマスコミで垂れ流し、活字として出版して庶民を洗脳してきたことは否定できない事実である。 講談社はまだしも、このたび文芸社と経営統合した草思社など、くだらない本をさも価値のあるように宣伝して、安い翻訳料で翻訳させて、それを出版して儲けてきた会社である。 そもそも、出版社をはじめ、産業翻訳の世界全体を含めて、やつらが必要とする翻訳を全部まともに翻訳しようとしたら、当然翻訳者が足りなくなる。 そこで、質の低い翻訳者も動員しなければならなくなる。 そこで問題になるのが、そういうやつらに翻訳させたら、theseはあほのひとつ覚えみたいに「これら」、「これらの」と訳す。allはこれまたアホのひとつ覚えみたいに「すべての」と訳す。比較級はまともに訳せない。furtherもアホのひとつ覚えみたいに「さらなる」と訳す。 本来、天地開闢以来、未来永劫にわたって、そんな日本語はありえない。 ありえない日本語を連ねても、不良商品になるだけだ。 このままでは商売にならない。 そこで思いついたのが、そういうものを日本語にしてしまう方法である。新聞やマスコミをまきこんで、そういうものをどんどん垂れ流していけば、日本人全体がそういうおかしな日本語をおかしいと感じなくなる。 そうすれば、多少質の低い翻訳者を使っても、どうにか商品として出版できる。 それも400字数百円、本来なら生活できないような単価で、「出版書に名前が載る」ことをエサに、翻訳志望者の足元をみて低賃金でこき使う。 つまり、出版社は本当にいい日本語とはどういうものかを追求せずに、翻訳書を出版して儲けるにはどんな日本語がよいかという観点からモノを考えている。 そのために、他のマスコミや政府とも結託している。 自民党のテレビコマーシャル「さらなら景気対策」、あれは何だ。ふざけるな。 そんな政府に税金が払えるか。 とにもかくにも、これが八百長でなくていったい何だというのだろうか。 相撲界の八百長など、仮に事実だとしても、ささいなことである。 ←ランキングに登録しています。クリックおねがいします。
2008年10月21日
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どの言語も、初めて学ぶ人にとっては(知的生産に必要な)約2万語の未知数から成る壮大な方程式である。まさに二万元方程式。 方程式であるからには、解く方法がある。 別に学校でなど教えてもらう必要はない。 というよりはむしろ、その解き方を教えるべきなのである。もちろん、それ以前に、言語というものが方程式であることを教える必要がある。 方程式だからこそ、子どもが母語を覚える過程で、そこに潜む文法も解いてしまう。 数学で二元方程式や三元方程式を習ったとき、未知数の分だけ式がいると教わったはずだ。そうなると、二万元方程式を解くには少なくとも式が二万は必要になる。言語の場合、数学より複雑な面があるので、式はもっと必要になる。さしずめ20万ページくらいは覚悟した方がよい。 何をするにも、それくらいの数字は必要で、マラソン選手として大成しようと思っても、1年で最低1万キロ、選手によっては引退するまでに地球から月までの距離を走ることになる者もいるはずだ。 数学の時間に何らかの方程式を解くように言われ、必要な式がまだ全部揃っていないなどという話は聞いたことがない。 ある意味、ばかばかしすぎる。 そのばかばかしいことがまかり通っているのが、学校英語をはじめとする語学教育の世界である。 何らかの言語を習得しろということは方程式を解けというのに等しい。それなのに、必要な式を全部用意していない。 それで式が解けるわけがない。 むかしは何語を勉強するにも、必要な式が手に入らなかった。 しかし、時代が変わった。今はそれが手に入るようになった。 これで式が解けなければウソである。 ただ、今の若い人がむかしと比べて見違えるほどできるようになったようには思えない。 式の解き方を教える人がいないからだ。そして、それ以前に言語が方程式であることを教える人がいないからだ。 ←ランキングに登録しています。クリックおねがいします。
2008年10月19日
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ぼくがこれまで英訳講座に手を染めなかったのは、翻訳なんてのはもともと母語話者がよるものだと思っていたからでもあるが、それ以上にこれからやろうとする分野の英文をまったく読んだことのない人間に、文法の理屈だけで英訳を教えようとする馬鹿らしさにいい加減辟易していたからだ。 それが最近、外国人にも部分的には母語話者を超えられることがあちこちでにわかに話題になってきて、しかるべき方法でなら英訳講座も「ありかな」と思えるようになった。 ただし、その辺の翻訳学校でやっているような方法はダメ。 まずは徹底的に(ひたすら)英文を読み、そのなかから必要なものを吸収していく訓練をする。この過程を経ないものには一文たりとも教えない。 その話をしたとき、翻訳者のひとりから「インターネットでも、英訳をしようと思ったらワードの標準ページで1万ページくらいの文例を集めないとダメと書いている人がいます」という声があがった。 なるほど、ぼくと同じことを考えている人がやはりいたかと、少しは安堵したのも束の間、その翻訳者から「ええ、そんなにやんなきゃいけないのかと思いました」という否定的きわまりない溜息を聞かされた。 これで、場の空気がたちまち白けた。 同じことを問題にしても、ええ、1万ページもやらなきゃいけないのかと思うのと、そうか、1万ページやりゃあ、自分にも英訳ができるようになるのかと思うのでは大違いである。 こちらの陣営から、そのような発言が出たことにショックを受け、しばらくは立ち直れそうにない。 ←ランキングに登録しています。クリックおねがいします。
2008年10月18日
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仕事が減れば受注が増える。 これ、翻訳の世界ではきわめて常識的な経済法則である。 その前に、もう少しわかりやすい話をしておこう。 その昔、中南米の経済がガタガタになったとき、関西のスペイン語通訳ガイドの仕事はむしろ増えた。 なぜかというと、中南米からまず東京に着くお金持ちたちは、不景気なので少しでも節約しようと、東京のガイドをそのまま関西まで連れてこないで、関西は関西で地元の通訳を雇うようになったからだ。 さて、肝心の話。翻訳には下手な翻訳者でも安ければいい案件と、多少高くてもいい翻訳者に頼まなければならない案件がある。 ろくでもない翻訳者は、この安ければいい案件を漁っているわけで、ハイエナみたいなもの。 失言。こんなことを言うと動物愛護団体からハイエナを侮辱するなと集中攻撃を受けるので撤回しておく。翻訳者側からの攻撃は受けてたつ。裁判でも何でもやるがいい。 そういう案件を漁って月10万の翻訳者もいれば、20万、30万の翻訳者もいる。 仮に経済が落ち込み、仕事が半分になったとしよう。単純計算で、どの翻訳者も収入が50%減になる。 すると、月10万の者は5万に、20万のものは10万になる。 人によるが、それでは食べていけない者は翻訳の仕事そのものをやめてほかの仕事を探さざるをえない。その残った分だけをやって、新たな仕事を見つけるなど虫のいい話はそうそうはない。 そうすると、やめるしかないので、もともと10万円分の仕事が半分に減ったようにみえても、その5万円分については、多少翻訳量を高めにしても、できる翻訳者に依頼しないと消化できないことになる。 前世紀末、バブルがはじけたとき、この現象が起こった。 多少株価の反発は起きているが、今回もこれに近い現象が起きることはまずまちがいない。 ←ランキングに登録しています。クリックおねがいします。
2008年10月15日
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「英語がまだまだなのに、フランス語なんて」というのは、単に英語とフランス語を差別化した点で理屈としておかしいだけではなく、現実的にも決定的にまちがっている。 ひとつの言語をモノにするのに必要な労力を100とすると、ひとつモノにしたあと、2番目の外国語をモノにするのに必要な労力は、どんな言語でも最低必要な労力20を差し引いて、20+(100-20)×0.6 = 68ですむ。 ただし、英語のように学校英語で妙な癖をつけられてしまうと、その癖をとるのに時間がかかってしまう。仮に100のうち80を学校英語の理屈で学んで身につけていたとすれば、その分、2倍の労力がかかるから、その人が英語をモノにするのに必要な労力は20+80×2 = 180となる。 語学で何かやろうというほどの人はたいてい、英語で80くらいのことはしてきているはずだから、このまま英語をやってモノにするまでには180の労力が必要となる。 一方、一からフランス語をやれば、何の制約もしがらみもないので、100の労力ですむ。 仮にそのあとで英語をやろうとすれば、さきほどの計算とおり68でよいので、計168の労力ですむ。 ところが、作り損ねたマヨネーズみたいになっている英語をあれこれいじくると、労力ばかりがかかり、それだけで180の労力を必要とすることになる。 これだけを比較しても、(最終目標を英語に絞ったとしても)いったんフランス語に迂回した方が近道である。 しかも、いつまでも英語に固執して、そのあとでフランス語をやりたいと思っても、最初の外国語に要した労力が基準となるので、次にフランス語をモノにするのに必要な労力は30+150×0.6 = 120となり、最初の英語と合わせると300になる。 以後、第三、第四、、、の言語となると、次のような差になる。 フランス語に迂回 作り損ねたマヨネーズに固執 第三 220.8 384 第四 264.5 446.4 第五 302.7 495.8 これを見てわかるように、作り損ねたマヨネーズを捨てて、フランス語にかぎらず、いったん何か別の言語を迂回すれば、このまま英語に固執して英語をモノにするのに必要な労力で、3つまで外国語をモノにすることができ、英語から次にもうひとつ言語ヲモノにする労力があれば、それで早くも5つめの言語をモノにしていることになる。 ウソだと思う人は、一度卵とサラダ油でマヨネーズを作ってみるとよい。 いったん失敗したら、それを捨てて新たに作り直す方がどれだけ簡単か、自分の目で確かめてみればよい。そのときは、いくらやってもなかな元どおりにならないできそこないのマヨネーズを見つめながら、これが自分の英語の本当の姿なのだということをじっとかみしめてみるがいい。 日本のような英語教育をしている国では、皮肉なことにこうして英語絶対の論理は崩れるのである。 ←ランキングに登録しています。クリックおねがいします。
2008年10月13日
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世の中、英語、英語と騒いでいるが、その昔、日本史で習ったように、ウイリアム・アダムスが徳川家康に謁見していたとき、どうやって意思の疎通をはかったか、考えたことがあるのだろうか。 ウイリアム・アダムスはイギリス人、いきなり日本に来て、いったいどうやって時の将軍と話ができたのか。 日本史でそれを習ったとき、疑問に思わなかった人間は、漫画の世界に生きている人間である。 そんなことは漫画の世界にしか通用しない。対馬と朝鮮半島の交渉でも、お互いに漢字がわかっていたから、漢文のようなもので意思の疎通をはかることができた。 ウイリアム・アダムスが英語しかできない人間であったとしたら、徳川家康との交渉は絶対に不可能であったわけで、実はアダムス氏は当時、航海の世界では有力だったポルトガル語が話せた。 日本には当時、ポルトガル語-日本語辞典もできており、徳川方にはポルトガル語の通訳もいた。 だから、ウイリアム・アダムスはポルトガル語を介して徳川家康と話をしたのである。 日本にとって、こんな大事な歴史的経緯をないがしろにして、今の日本、ポルトガル語に対して冷たすぎるのではないだろうか。 しかし、歴史というか、社会というものは面白いもので、その日本の中心からきっちりはずされているところにそ、大事なことはちゃんと守られているもので、岩手県の北上駅ではちゃんとポルトガル語の新聞が買える。これ、余談なので、関係ないと思う人は読み飛ばすべし。 要するに、英語なんてものは、ほんの束の間、歴史の表舞台に出てきた言語にすぎないのであって、それ以上のものでもなければ、まして絶対的なもの、唯一無二のものなんかではない。 ←ランキングに登録しています。クリックおねがいします。
2008年10月12日
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× 英語も満足にできないのに、フランス語なんて。 こう言うと、だれもがごく自然になるほどと思う。 冗談じゃない。 そういうおかしなことをそのままにしているから、政府や権力者が自分たちの思いのまま、勝手なことをしでかすのがわかららないのだろうか。 試しにこれをほかのものに置き換えてみる。 × 電気が満足にできないのに、化学なんて。 × 野球がろくにできないのに、サッカーなんて。 これなら、絶対におかしいと思うのに、「英語も満足にできないのに、フランス語なんて」をおかしいと思えないのは、明らかに何物かに洗脳されている証拠である。 いったい、問題はどこにあるのだろうか。もう少し、近いところで考えてみる。 △ 韓国語もろくにできないのに、英語なんて。 △ 北京語もろくにできないのに、英語なんて。 これなら、それなりに納得できる。 同じアジアの人間なら近隣諸国の言語を先に学ぶのが筋というのが一応納得できるからだ。 しかし、英語とフランス語を並べて、英語が先という理屈は納得できない。 歴史的にはフランスの方がはるかに歴史がある国だし、市民革命もフランスが先に起きている。 医学をはじめ、もろもろの科学もフランスの方を先に学んでいる。 もちろん、英語が先であると主張する人たちにもそれなりの言い分はあろうけれども、無条件で決められる筋合いのものではない。 学習段階として、英語を習得しなければフランス語を習得できないというものでもない。英語の方が易しいというわけでもない。 たまたま、中学のときに国家権力によって英語の学習を強要され、たまたま英語の方がフランス語よりなじみがあるものになってしまっただけのことだ。 本当にそれでよかったのか、自分の頭で考えなかった自分が悪い。 親や学校がそうしたから、従っただけのことだと言うのなら、じゃあ、ダメだと言われたから、タバコを吸わなかったというのか。 タバコだけはダメだと言われても勝手に隠れて吸っていながら、英語だけは素直に従っていたというのか。 反抗するなら反抗するで、徹底的に反抗すればよい。 今は勉強する時間が取れないとか、気分転換にフランス語を勉強するとかくだらないことを言っている連中に教えるつもりはない。そういう人は。○メ○○とかバ○○とか、適当に受講生をおだてて、お茶を濁そうとするところを受講すればよい。 トライアリストは客に媚びて商売をするつもりはない。 ときには、お互い険悪な空気になるかもしれないが、それでも真剣勝負を挑んでくる人だけを待っている。 そういうかたちで、英語とフランス語とに差をつける人間とまともに話をする気はない。 ←ランキングに登録しています。クリックおねがいします。
2008年10月12日
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1.受けてもどうせ130くらいしか取れない。 2.本来、結果であるはずのものを目的にしてしまっている。 3.単なる「検査値」にすぎないものに、傾向と対策まで出てきている。 明日、肝機能検査を受けるからということで、いい値を出すための対策本などがあったら滑稽。それと同じ。 4.学歴と同じで、その学歴や資格、点数に価値を置く人にしか通用しない。 会社で受けるように言われて点数を取っても、その会社をやめて一歩外に出たら、その会社が評価するほどには、その点数を評価してもらえない。 5.いきなり985点を取った人を何人も知っているが、この人たちの実力では翻訳では通用しない。 ←ランキングに登録しています。クリックおねがいします。
2008年10月10日
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お金でひっくり返ると言ったって、何もきたない話をしているわけではない。 出して当然のお金、出てきて当然のお金の話をしているのである。 ぼくが昔いた翻訳会社で顧問の先生が嘆いておられたことがある。 この会社は本を買いなさすぎますよ。 確かにそうだろうと思った。 社員になってからも本には不自由した。経費で落とすとなると、交渉が面倒なので、いつかは独立することを前提に自腹で買った本も多い。 当時、手取り12万円の社員が、ハンガリー語の仕事が入ったときには5万円分を自分で捻出した。 あのノーベル賞の下村脩さんだって、アメリカを拠点にしたのには研究費が圧倒的に違うという事情があったことを挙げている。 その点、ぼくのように「渇えても盗泉の水は飲まん」(「巨人の星」大洋ホエールズ、左門豊作のことば。小林誠さん、益川敏英さんの後輩、○○さんは知ってますよね)と思っている人間には辛いところで、必要な資金は全部、自分で稼いで自分で捻出し、自分で投資しなければならない。 それでも、専門文献に1000万円以上を投資したことは、ちょうどインターネットの普及によって大きく威力をそがれはしたものの、あらゆるところに生きている。 メディカプラスなど、そのほんの一部で、少しずつ蓄積してきたデータやノウハウが、今や革命的な武器を生み出しつつある。 そのひとつが情報子辞典。 英語に限って言えば、 英和でもない。 和英でもない。 英英でもない。 そんな辞書が今、地下でひそかに「製造」されている。 これで、翻訳業界はもちろん、、語学教育業界もひっくり返る。 TOEICの10点、20点に一喜一憂している場合ではない。 ←ランキングに登録しています。クリックおねがいします。
2008年10月09日
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翻訳や通訳とは実に面白い仕事で、世界から自らを閉ざしてもうけ主義だけに走っていると見えないことも、少しばかり仲間との連絡を取っていると意外なことが見えてくる。 かれこれ20年前、フランス経済が傾いたとき、フランス語の通訳や翻訳者の証言を総合すると、やはりその時にフランス語の仕事が激減した事実がくっきりと浮かび上がった。 ぼくが駆け出しのとき、イタリア経済が上り調子だった。面白いようにイタリア語の仕事が来た。単価は英語の2倍。あの時期を乗り切れたのも、歴史の偶然によるところが大きいとも言える。 株が暴落した。ユーロが暴落した。 それが翻訳の仕事に影を落とさないわけはない。 そういうことにかけては、ぼくは金融専門の翻訳者よりはるかに敏感なのだ。 案の定、かなり信頼できる筋から、仕事が減っている気がするという感触を得た。ただし、その翻訳者の仕事が減っているわけではない。もともと、自分の処理能力をはるかに超える問い合わせがあるので、ぼやっとしていると気がつかないが、問い合わせそのものは「確実に」減っているという。 TOEICで何点取ったと騒いでいる気楽な連中がうらやましくなるのも、このときである。 そんなことを言っている場合ではない。TOEICで990点取ろうが、1100点取ろうが、後退する景気は止めようがない。 なかでも、ドイツの金融がかなり危ない状況にある。 春先から、受注状況に妙な胸騒ぎを覚えていたが、やはり現実になってしまったか。 EU経済の主役が周辺に移行しつつあるような雲行きである。 このところ、イベリア、スカンジナビア、バルカンの景気がよい。 もちろん、これは経済学者の観測とは異なっているが、翻訳の受注動向には、1年先、2年先を見越した読みが反映されている。 英語しかやってこなかった翻訳者の大失業時代は、もちろん目に見えている。 ←ランキングに登録しています。クリックおねがいします。
2008年10月07日
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厚みというのは勢力である。 味方の大軍でもある。 敵に対して、味方の大軍がいる方向から攻撃を仕掛けるなど、兵法でもありえないことである。 そうではなくて、敵を味方の大軍がいる方向に追い込めば、敵の軍隊は退路を断たれる。 翻訳では、こんな簡単なことがわかっていない者が多すぎる。武士の時代なら、待っているのは死あるのみである。 理系の専門知識のある者は、その知識を頼りに原文を読もうとする。 これ、武士の時代にはありえない。 原文はあくまでも、原文に書かれていることを無心に読まねばならない。 ただ、無心に読み取ったとしても、その読み取リ方が正しいかどうか、自信が持てないことがあるのは仕方がない。 そのときこそ、味方の援軍が待ち構えている方向に敵を追い込むのである。 読み取ったことが正しいかどうか、それほど自分の専門知識に自信があるのであれば、どんどんどんその方向に追い込めばよい。 それまでは専門知識のことは忘れて、ひたすら原文に書かれている情報と格闘し、読み取ったことを自らの知識と照合する。少しでも矛盾することやあいまいなことがあれば、読み取ったことが間違っているか、どこかにごまかしがあるかである。 専門知識はそのためにあるのであって、自らの語学力のなさを適当にごまかすために専門知識があるのではない。 味方の援軍は絶対にウソをつかない。ごまかしはしない。 ところが今日、そういう殊勝なことをする人が少なくなっている。 原文と格闘するのが苦痛なものだから、いやそもそも原文と格闘する力がないものだから最初から、味方の大軍に軍を出してもらって敵をけちらそうとする。甘えるな。 そんなものだから、すぐに勝手読みをする。 味方の大軍のすることだから、親方日の丸、何の疑問も持たない。 こんなところにも、囲碁の格言は見事に生きている。 ←ランキングに登録しています。クリックおねがいします。 ←ランキングに登録しています。クリックおねがいします。
2008年10月05日
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囲碁の格言のひとつに「厚みを囲うな」というのがある。 囲碁は厚みと実利のバランスから成り立っている。 実利は要するに現ナマ、厚みはこれまでに身につけた知識や技術、資格、人脈などすぐには収入につながらないけれども、将来大きな見返りを期待できるものである。 厚みを囲うというのは、これまで身につけたものをてっとり早く現金収入に結びつけようとすることだと思えばよい。 技術翻訳では、理系の資格のある人のなかに、これまで身につけた知識や技術を切り売りしながら、いちばん効率のよい現金収入の道を模索する人がいる。 もちろん、文系の人でも同じで、ちょっとドイツ語ができるというだけで、もうそれを即現金に替えようとする人がいる。 厚みは囲ってはならない。厚みは敵を追い込んで、戦いを有利に導くためのものである。ここで言う敵とは、自らの前に立ちはだかる現実であると思えばよい。 理系の資格があれば、ない人よりも仕事にありつく確率ははるかに高くなる。 それはしかし、収入を得るチャンスではなくて、仕事をさせてもらうことによって、今よりもはるかに高い地点、それほど次々に仕事をこなすのでなければけっして到達しえない地点に到達するチャンスであるわけだ。 厚みを生かすというのは本来、そういうことでなければならない。 ←ランキングに登録しています。クリックおねがいします。
2008年10月03日
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安めぐみがNHK囲碁講座の司会をやっていることは、我が家では周知の事実である。 もちろん、それは本人ではない。 この囲碁講座の司会者、我が家ではとかく話題になる。数年前、妻と北陸に旅行したとき、目の前にいたのはなんと元司会者の原幸子さんと依田紀基のお二人。 もしや、お忍びの旅行では、、。これはスクープと思いきや、ほどなくお二人が結婚されたことを知る。要するにそういうことだったのか。週刊誌の記者にならなくてよかった。ぼくにはそういう才能はなかったということだ。 話は戻って、囲碁講座司会者の中島美絵子さんが安めぐみにそっくりなのは、我が家だけの「秘密」かと思っていたら、ネット上で「美恵子さんは安めぐみより美人だ」などと書いてある記事が見つかる。 囲碁もそれだけ大衆化したということか。 ところで、翻訳の勉強をしている人に、今後の経営戦略の話をするにも、勉強のやり方を教えるにも、囲碁を少しでも知っていてくれたら、どんなに話がしやすいだろうかと思うことしばしばである。(「しばしば」というのはこういうふうに使うのであって、oftenがあるから「しばしば」とする京大流のやり方はみなまちがいである) 囲碁には人生訓が詰まっている。 初段のことを1段と書くなどは論外としても、世界的にこれだけ注目されている「ゲーム」のことを知らなさすぎる。 囲碁をやれば、普遍的な力学の理屈を学ぶことができる。 力学というのは、物理学の一分野のことではなく、人生を歩むうえで行く手を阻む障害と、目標を達成しようとする自らのエネルギーとの力関係、さまざまな要因の間に生じる相互作用、複雑な人間関係によって生じる力のバランスなど、あらゆるものについて言える。 翻訳をめざす人が、それぞれ目標を掲げることはけっして悪いことではないのだが、ほとんどの場合、その目標を達成するにあたって、ごり押しで前に進もうとする。 しかし、ごり押しで人生は開けてこない。 打つ人の意志や願望などでは、思いを実現することができない。囲碁の世界では石の理屈によってしか、未来は開けてこない。 名人が打っても、素人が打っても、石の理屈が変わるわけではない。 逆に言えば、素人でも名人と同じ手を打てば、その手の威力は名人が打った場合とまったく同じである。 現実の世界も、実はまったく同じ理屈で動いている。 未だに「この私がやりたいと思っているのだから」などと考えている人は、しばし碁盤の前に正坐して、その冷徹な世界の洗礼を受けるがいい。 とはいっても、ミーハーにはなかなか入って行きにくい世界であるのもまた事実である。 そんなミーハーにも、今一度機会を与えようと、NHKも粋なことをするものだ。 なかなか囲碁に興味を持てない人は、まずミーハーでもいいから、安めぐみの横顔(横顔は美絵子さんが勝っている。正面は負けている)を2時間たっぷり観賞するつもりでチャンネルをひねってもらえばと思う。 ←ランキングに登録しています。クリックおねがいします。
2008年10月02日
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第29回全日本マスターズ陸上競技大会が終わった。 わが登録県の「エース」がM65(65~69歳)の部で、100m 13秒23を記録した。 65歳で13秒台なんて信じられない人もいるだろう。 うら若き乙女も、体力に自信のある男性諸氏も、この(戸籍上の)「老人」にはまったく歯が立たない。 ところが、さらに驚くことがある。 この記録でなんと、全日本で5位にしかなれないのだ。優勝は12秒台。 65歳のご老体で、日本みたいなちっぽけな国、オリンピックの陸上は惨敗した国で、13秒台を記録してもなお、5位にしかなれない。60代、50代、40代と年齢が若くなるにつれて、記録はよくなる。 それじゃあ、50代なら11秒台か、40代ではもう10秒台に突入するのではないか。 こうして、記録を「逆に」辿っていくと、世界は、しかも世界の若者はもっと速くてもいいのではないかという気がしてくる。 90代の人でも19秒台で走っている。 してみると、ボルトの100メートル9秒69なんてのは、90代男性のたかが2倍の速さでしかないのだ。 あれだけのDNAを授かり、ジャマイカという絶好の練習環境に恵まれながら、出した記録9秒69はおそまつにすぎるのではないか。 そんなことを本気で考えることができるほどすごい「むかし」青年たちの戦いであった。 ←ランキングに登録しています。クリックおねがいします。
2008年10月01日
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医学翻訳の勉強を始める人(正確には、医学のことば遣いを学ぼうとする人)に専門書を勧めると、「ちんぷんかんぷんです」とか「用語がよくわかりません」、「ひとつひとつ意味を調べて読むとなかなか前に進めません」とか言ってくる人がいる。 なるほど、伸びない人はもうこの時点でつまづいている。 意味を考えてよむのは、英語の勉強を始めるときに、いちいちその構造を解析して日本語で便宜的な訳をつけるのと同じで、そんなことをしては新たな神経ネットワークは形成されない。 最初は意味を考えるではなく、とにかくことばの使い方を覚える。覚える以前に慣れる。医学という世界のことばにどっぷり浸かってしまう。 そうして、どの名子とどの動子が結びつくかを体で覚える。 意味を考えてしまうと、日本人が頭で考えた英語が英米人に通じないのと同じで、医学の日本語を書くときにただ頭で考えてつくった医学日本語になってしまう。そんな日本語は医学の世界では使わない。 医学日本語と日常日本語とは別の言語であると考えてみる。 医学日本語が身に着くかどうかは、外国語が身に着くかどうかに通じるものがあって、まず医学の表現にどっぷり浸かることができた者が将来大きく伸びる。このことは、理論的にも経験的にも自信をもって言える。医学日本語の神経ネットワーク、換言すれば、医学のことばで思考できる神経ネットワークを作ることができれば、医学の用語や内容は簡単に理解できるようになる。要はそのネットワークを作ることができるかどうかである。 医学以外の理系の分野を専攻していた人は、開始当初は文系の人より圧倒的にできることが多いが、いつまでたっても医学日本語の神経ネットワークを作れなければ、そのネットワークを作ることに成功した文系の人に追い抜かれる。 脳科学的に言うとそういうことになる。 成人教育論の観点から言うと、最初の「知識」段階で、医学日本語を学習するということはは、医学日本語の神経ネットワークを形成することであるということを教えられる必要がある。 その辺りの徹底に関しては、ぼくも不十分であったことを認めざるをえない。 まず、そのことを徹底して意識させ、「了解」の段階にまでもっていかないかぎり、その次の「応用」はありえない。 まず指示を守らせるなんてのは、非常に古い考え方だと思われがちだが、実はこれこそ最新の脳科学と成人教育論に裏づけられたものなのだ。 面白い時代がやってくる予感がする。 ←ランキングに登録しています。クリックおねがいします。
2008年09月28日
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「こんな田舎町で」の続きです。 そのベルギー人、日本語も上手だけれど、話がややこしくなるとスペイン語に切り替える。地質学者で世界をまたにかけて回っているそうな。 かなり世界中回っただろうと言われて、37ヵ国と言うと、「ぼくは80」と返してくる。 言った国の話になるたびに、で、その国のことばはできるかと訊いてくる。 片言を入れると、この居酒屋で二人で使った言語、実に10ヵ国語を超える。 そのうち、ぼくがわかって相手がわからなかったのはフィンランド語とケチュア語だけだった。 トルコ語の話になったときには、同じウラルアルタイ語だけど、日本語の方がはるかにむずかしいと「非難」してきた。だいたい、音読み、訓読み、ややこしすぎる。 最後はインドネシア語がいちばんすぐれた言語だと、熱弁をふるってきた。 まあ、しかし、よく話した。 別れる前、ベルギー人は「いやあ、今日はよかった。ぼくのように10ヵ国もできるなんて、ふつうは口に出せない。出すと loco(crazy)だと思われる。同じくらいの数のことばができる人に会えてよかった」「でも、やっぱり、ぼくの方が負けてますよ」 次の一言がショックだった。「うん、たぶん、、、」 くそう、 ←ランキングに登録しています。クリックおねがいします。
2008年09月24日
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この前、上野駅で少し時間があったので、そばのお店に入った。 新幹線のなかで小さな駅弁を食べていたので、おなかがすいているわけではなかったが、おいしそうだったので、軽く一杯と思って入ることにした。 すると、のれんをくぐるや、「禁煙ですか。喫煙ですか」とくる。 あほか、お前は。禁煙に決まっとるやないか。 とも言えないので、というか、いやな予感がしたので、訊かれる前に自ら「禁煙」と「宣言」しようと思ったら、先に言われてしまった。 喫煙席は、奥の方にくつろげるようになった席が「豊富に」用意してあるが、禁煙席は入口の落ち着かない席、何やら寄せ集めの集合席、カウンター席ばかり。 そういう差別には慣れているぼく。つい1年ほど前も、新大阪でそういう差別を受けたので出るときに抗議したら、なんとその店は数ヵ月もしないうちにつぶれた。 まあ、所詮は時間つぶしと思っていると、実に客の出入りの激しい店。 客が入るたびに「おタバコ、吸われますか」、 おタバコ吸われますか。 おタバコ吸われますか。 おタバコ吸われますか。 奥の喫煙席だと気にならないが、入口に近い禁煙席だと、客の吐き出す無神経な煙以上にそのことばが耳につく。 そんなことばを数秒間隔で浴びせられるくらいなら、隣の客が吐き出す副煙流の方がずっとましというものだ。 何というか、奇妙きてれつな社会になったものだ。 で、そのあとウナギを食べに土浦に向かったものの、その店で食べたそばの種類がまるで思い出せなかった。 ←ランキングに登録しています。クリックおねがいします。
2008年09月23日
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すでに混入しているかもしれないのに、「混入の恐れ」はないだろう。 いくら朝日新聞に抗議しても、頑として受けつけない。 いくら調べてみても、国語辞典には「恐れ」はこれから起こることに対する不安としか書いていない。 そこで、日本に15年いるタイ料理店のマスターに聞いてみた。「混入の恐れ」と言ったら、どういうことを想像しますか。マスターは間髪を入れずに答えてくれた。そりゃあ、今後そういうことがおこるかもしれないということで、すでに混入しているかもしれないのだったら、疑いでないとおかしいですよね。 そう答えるのに迷いもない。 その意味ではぼくよりすごい。ぼくよりよく日本語をわかっている。 やはりそうなのだ。庶民の感覚は正しい。高校時代にやってきて、まわりの日本人のいじめに遭いながら日本の文化を学び、日本語を学んだ外国人の感覚は正しい。 独り朝日新聞の記者の感覚がおかしい。だいたい、特派員の間には英語汚染が広まっていて、この前なんか「繁栄を楽しんでいる」と書いてある。おいおい、「繁栄を享受している」だろ。この恐れだって、英語の感覚なら、すでに起きてしまったことにも使える。 だとしたら、英語汚染ってそれほどまでに深刻なのか。 そのむかし、文芸賞を受賞した外岡くん、なんとかしろよ。 TOEIC世界第何位、TOFEL世界第何位って騒いでいるけど、これじゃあ、どんなにひいきめにみても、日本語世界4位。 国際○○が発表した日本人の日本語力は世界4位。ちなみに、1位はエジプト、2位スリランカ、3位タイ。 おいおい、柔道じゃあるまいし、本家本元の日本が日本語世界4位じゃ洒落にならない。 まあしかし、朝日新聞の日本語をみるかぎり、その日もそう遠い未来ではあるまい。 ぼくが「翻訳の原点」に書いた「その意味では外国人の方が日本語がよくわかったいるとも言える」の部分をよく読みもしないで「新しいタイプの白人崇拝ですね」、「笑ろた」なんて書いて喜んでいるやつがいる。 あそこにはイギリス人と書いているけれど、イギリスが必ずしも白人とはかぎらない。 それにしても、朝日新聞関西版9月20日夕刊の一面に、大きな活字で「混入の恐れ」とある。こんなものを謝罪広告も出さずにいつまでも放っておいたら、日本語の世界順位が10位以下に陥落しないともかぎらない。 今日は応援クリックはいりません。代わりに朝日新聞への抗議をお願いします。
2008年09月23日
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苫米地さんの英語脳という概念(ほかにも名称だけを拝借したインチキが多いので気をつけるように)を知り、自分が医学論文を難なく、しかも脳を作った覚えもない英語で読めるようになった理由を考えてみた。 ヨーロッパの言語は互いに深層でつながっている。 英語の母語話者でも学校でラテン語を勉強してはじめてむずかしい論文が読めるようになる。 そうすると、その深層にあって、日常会話はともかく、ヨーロッパ語の学術論文を理解できるようになるための共通の神経ネットワークがあるのではないか。 ここに浮かびあがってきたのが、ヨーロッパ語脳の存在である。 苫米地さんが何と言おうが、ぼくは医学英語が読める。日本語を介在せずに、辞書など引かなくても意味がわかる。 苫米地さんの言うように、英語脳を作らないかぎり英語を理解できるようにならないのであれば、ずっと英語を避けてきたぼくが医学英語を読める理由が説明できない。 スペイン語脳などを利用して読んでいるだけだとしたら、もっとあっちこっちで躓くはずだが、どう控え目にみても、かなりよく読めている。書き手によって微妙に異なる手のうちまで見えている。 そうすると、スペイン語脳やフランス語脳を利用しながら、それだけにとどまらないヨーロッパ語脳なるものを作ることに成功したのではないか。 そう考えないと、説明がつかない。 少しは英会話も勉強したくちゃと思ってNHKの講座を聴こうとしても、たいていがアメリカ英語で、あの発音を聴くと頭が痛くなるという生徒もけっこういる。 そうなると、もっとイギリス英語を聴ける機会がないかぎり、そもそも英語脳を作ることなど不可能であることになる。 受講生のほとんどは未だに日本語の神経ネットワークを利用して医学論文を読み解こうとしている。もちろんそれにはムリがある。 しかし、英語脳を作るにもいろいろ制約がある。 そこで、これを迂回してぼくのようにヨーロッパ語脳を作ることができれば、もしかして道が開けてくるのではないか。 そう言えば、英語の発音、かなり勉強したのか、上手に発音する人がいたけれど、医学英語の解釈がかなり上面だけだった。ふつうのアメリカ人が医学英語を読んでもたぶん、その程度なのだろうな。 ヨーロッパ語脳、実にいい響きだ。 ←ランキングに登録しています。クリックおねがいします。
2008年09月21日
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二言目にはNative、Nativeと言うが、日本人はみな日本語のnative、アメリカ人は最近の移民を除いてみな、英語のNativeって、馬鹿げているというか、なんというか。 これまでぼくは、そういうNative神話を打ち崩すことを考えてきた。 でも、そういうことって、わかっている人はちゃんとわかっているのだから、打ち崩す意味がまるでない。 スポーツで言うと、5000メートル20分が、体育会系の大学生の平均的なレベルだそうだ。 なるほど、ふつうの人間は走れない。ある程度、マラソンにのめりこんでいる女の子でも、5000メートル25分で走れれば、かなり速い部類に入る。 だけど、25分はもちろん、20分でも陸上長距離ではお話にならない。 それでも、一応これだけの走力があって、あとは技術を身に着ければ、サッカー選手として一流になれる可能性は十分にある。 要するに、5000メートル20分というのは、スポーツをする人間とそうでない人間とを隔てる境界線のようなもので、そのうえに何かをしようとしている者には、こんな境界などなんの意味もない。 Native(母語話者)のレベルというも、所詮その程度のもので、陸上で勝負しようとしている者に、5000メートル20分はどうでもよい。 語学で勝負しようとしている人間、語学で食べていこうとしている人間には、母語話者のレベルなど問題にもならない。 医学翻訳をやろうとする者が母語話者のレベルなどを最終目標にしていては始まらない。ぼく自身もヨーロッパの数ヵ国語で医学論文はすらすら読める。母語話者には絶対に負けない。さしずめ英語なら、アメリカ人の上位10パーセントには入っていると思う。 どの国の母語話者も、その大半は日常の卑近なこと、ごくごく狭い範囲のことしか話題にできない。だから、政治のこと、経済のこと、歴史のこと、文化のことを話題にすれば、外人にもつけいるすきはいくらでもある。 アラビア語を習っていたとき、エジプト人の先生は日本語のボキャブラリーが貧困な生徒をつかまえては、「ボキャブラリーが貧困だなあ、何なら私といっしょにもう一度日本語を習いに行こうか」と言っていた。 アラビア語には胸の奥から、臓腑を絞りだすようにして悲しみを表現することばがある。ぼくなんかは聞いた瞬間に「日本語ならさしずめ、慟哭の念をしぼりだすかのように」とでも表現するほかないですかねと言えるが、たいていの日本人はそれができない。できなければ、その瞬間にエジプト人に負ける。 そもそも、翻訳者たる者、スポーツ選手で言えば、実業団。 5000メートル20分のレベルにこだわる理由が理解できない。 もちろん、スポーツにもいろいろある。だから5000メートルは20分でもよい。よいけれども、何かで母語話者に勝てるものがなくてはならない。 医学を目指す者なら、医学用語では勝っているとか、医学文献のある特定の動詞の使い方、さもなければ、アイルランドの研究者の癖なんてものでもよい。 要するに、母語話者を上回っているものがどれだけあるかが勝負になるわけで、届くはずがないけれども、どこまで近づけるかということで、母語話者を目標、基準にするなんて馬鹿げている。 座右の銘 他人にモノを習うかぎり、たとえ相手が母語話者であっても、いつか追い抜くつもりで勉強せよ。それが教えてくれる人に対する礼儀である。 そのさい、 百里を行く者は五十里をもって半ばとする。 そう、当たり前のことを当たり前に考えてこそ、道が開ける。 ←ランキングに登録しています。クリックおねがいします。
2008年09月20日
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語学学習の話をすると、きまって発音の話になる。 発音は大切か、どうえもよいか。当然、大切だという人もいれば、どうでもよいという人もいる。 ばかばかしいこと、このうえない。 発音に限らず、世の中のありとあらゆることに、大切な部分とどうでもよい部分がある。 同じ考えを持ている人でも、相手を考えて大切であるということもあれば、どうでもいいということもある。要するに、大切だという人も、どうでもいいという人も、考えているところはほぼ同じだということだ。 ぼく自身、「発音は大切ですか」と訊かれれば、「ええ年した大の大人がそんなこと、自分で考えることもできないのか」と答える。 第一、通じなければ話にならない。 ただ、発音なんてものは相対的なもので、それを絶対化してしまうと滑稽なことになる。 ペルー人がスペインに来てperiodico(新聞)はあるかと聞いたら、スペイン人が「ここにはbicicleta(自転車)はない」と言った場面に遭遇したことがある。ぼくが「通訳」して事なきを得たが、そもそも同じスペイン語を話す人たちの間で、いったいなぜこんなことが起きるのか。 大阪でも、ホハヘハハホカと言っても、それなりのイントネーションで言えば通じる(おまえははあほか)。 ぼく自身も、現地の人間は音なんかでは判断していないことがよくわかるようになった。着いたころは、これだけ正確に発音しているつもりなのになぜ通じないのかと思ったが、慣れてくると、やばい、まちがったと思っても通じる。要するに雰囲気なのだ。 こんなことを延々と書き連ねると、お茶を濁すことになるのでこの辺でやめておくが、発音には、意味の区別にかかわる部分とそうでない部分とがある。 音そのものは違うは、意味の区別に関与しないものがある。たとえば、高等学校の「が」と、そうですがの「が」。明らかに違う音だけれども、意味を区別するためのものではない。 スペイン語でも、dedo(指)の最初のdとあとのdは微妙に発音が違う。 わかりやすく言うと、前のdは強く、声帯が強く震えるが、あとのdにはそれがない。 区別しなくても意味は通じる。 ただし、一発で外人だということがわかる。 もちろん、ぼくにはそんなことは朝飯前である。 これができないと外人のスペイン語になってしまう。 ただ、スペイン語を操るうえで、そんなことが本当に大切なことなのか。外人のスペイン語であることが一発でわかっても、大切なことを堂々と発言できることが、それよりどれだけ大切なことであるか。 それがわかっているからこそ、ぼくはこのdの微妙な音を区別できる「特技」をめったなことでは自慢しないわけだ。 lとrの区別はすごく大切で、bacalao(たら)なんてのは、bacaraoと発音しては通じない。 ついこの間も、フランスとの国境にあるアンドラでbacalaoを注文したさいに、ちょっとした気の緩みで、lの発音をするとき、舌をはじいてしまった。やばいと思った瞬間、てきめんに聞き返された。「こいつ、耳ええな」 要するにアアアオでも通じるときは通じる。だけど、ちゃんとしないと通じないときは通じない。どうでもいいけど、押さえるところはしっかりおさえておけ。そういうことだ。 くだらないことを考える暇があったら、発音はきちんと勉強しろ。 勉強してもうまくいかなかったら、どこを押さえておくべきか、ちゃんと勉強しろ。 それと、通じるのが目的なのか、現地人と思われたいのが目的なのか、現地人と変わらない発音をしている自分に酔いたいのか、その点をはっきり意識しておく必要があるのではないか。 それなくして、発音は大切か、どうでもよいかという議論はありえない。 ←ランキングに登録しています。クリックおねがいします。
2008年09月20日
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ゴルフ用語に「下手を固める」ということばがある。練習すればするほど悪い癖が固まるという意味だ。だから、「ゴルフは型にはめなさい」とか、「ゴルフほど型が大切なスポーツはない」と言う。上達の極意は、球を打たないことである。 これだけ普遍的な真理を、自分たちのやっていることだけに言えると思っているところがすごい。いや、それ以上に、自分たちのやっていることが特別なことだと思っている人たちにも、普遍的な真理はちゃんとわかっているところがすごい。 それなのに、複数の言語にかかわり、普遍的なことがわかっていなければならないはずの翻訳者に、そういうことがわかっていない者が多い。 上達の極意は球を打たないことなのであるから、翻訳ならさしずめ、訳さないことが肝要なのだ。 何もしないでじっとしていろというのではない。 球を打ってはいけないのだ。 バドミントンやテニス(NHKではバドミントンのこともテニスと呼ぶようにアナウンサーを教育しているらしい)なら徹底的に素振りの練習をする。 さて、その素振りとはデジタルである。 アナログを排するということである。 まず、球を見て当てにいこうとすると、動きがアナログになる。 スポーツの動きはデジタルでなければならない。 あらかじめ許された動き以外の動きを使って、球に当てにいってはならない。 翻訳もデジタルでなければならない。 あらかじめ許された範囲を超える日本語で訳文を作ってはならない。 球技も翻訳も、最初も不自由なことこのうえない。 こうやれば「当たる」ことがわかっているのに、その動きをしてはならない。 翻訳でも、本来の日本語にない語法を使えば、意味のわからない文でも日本語にすることができる。 そりゃあ、下手が固まるはずだわいな。 ←ランキングに登録しています。クリックおねがいします。
2008年09月19日
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日本人を英語下手にした責任は吉田茂にある。 実はこれにはちょっと説明が必要である。 日本人はなぜ英語ができないか。よく引き合いに出されるのが次のふたつである。 1 そもそも日本人に英語が必要ないから。 2 科学的に正しい方法で学習していないから。 1は社会科学的に正しい。2は言語学的、脳生理学的に正しい。 ところが、本当はもうひとつある。 3 本当にそうなったらアメリカが困るから。 政治的にはこれが正しい。 だってそうだろう。日本人がみな、特に政治家がアメリカ人と遜色のない英語を喋って言いたいことをずけずけ言うようになったら、アメリカが思うような政策を展開できなくなる。 ぼくらは小学生のころ、親にだまされて、いやというほどアメリカ製のドラマを見せられた。世界には約200の国や地域があるのに、その200分の1にしかすぎない国のドラマだけを、あたかもそれが世界の全体であるかのように見せられた。 これ以上の洗脳はない。 実はこれこそがアメリカの戦後経済政策の下で、最も優先的に意識的に行われたことなのだ。 アメリカはドラマの放映権をいっさい取らなかった。日本人にアメリカという国に対する憧れを植え付け、それを自分たちに有利なように利用するためである。 考えてもみるがいい。それだけのことをできる国がその気になれば、教師の派遣をはじめ、巨額の予算をつきこんで日本を英語のできる国にすることなどわけなかったはずだ。 要するに、日本人の英語力をこれくらいにしておく方が有利であると判断したからだ。 では、なぜそれが吉田茂の責任になるのか。 吉田茂はみなさんご存知のように、英語そのものも、英語の発音もそんなに上手な人ではなかった。しかし、その英語で言いたいことだけははっきりと主張した。 何かに関して出せと言われて出した統計を、アメリカ側がデタラメだと言ってきたとき、吉田茂の一言でアメリカはそれ以上追及するのをやめたという。 当たり前だ。そんなきちんとした統計を出せる国だったら、あの戦争で負けることなどなかった。 この程度の英語で、これだけをことを主張するやつがいるのだから、もしも日本人がわれわれ並に英語ができるようになったら、えらいことになる。 だから、日本の戦後復興にあれだけ力を貸したアメリカが、英語に関しては知らぬ存ぜぬを決め込んだのだ。 もちろん、英語がまったくわからなくては困るから、少しだけはわかるようにする。特にほかの言語ができるようになってヨーロッパで変な知恵をつけられても困るので、義務教育は世界的にも珍しく英語しか学習できないようにしておく。 TOEICやTOFELで統計を出して、自尊心だけはくすぐる。 実にうまい具合に飼いならされている。 これだけ馬鹿にされて、まだアメリカに留学したいと思うなんて、日本人はいったいどこまでお人よしにできているんだろう。 ←ランキングに登録しています。クリックおねがいします。
2008年09月16日
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英語というやつは本当にやっかいなもので、中学校から勝手に教えられ、勝手に大学入試の科目に加えられ、勝手に話せないようにされ、勝手に劣等感を植えつけられ、勝手に袋小路に追い込まれる。 英語なんて要するに親が勝手に決めた結婚相手みたいなもので、「政略」上、いっしょに住んでいるけれど、いくら努力しても好きになれない。好きでもない相手と一生仮面の夫婦を演じるなんて最悪である。 ところが、若気の至りというか、いくら嫌いでも英検の1級くらいはとっておかないと、ろくな就職口もないんじゃないかと思ってしまう。 それに海外には強烈なあこがれがある。 日本から一歩外に出れば、日本語はいっさい通用しない。 英語ができない。話せない。英語のテープを聴くと気分が悪くなる。それでも海外には行きたい。こういうとき、ぼくは現実的にモノを考えることはしないで、いつも数学的に考える。それなら、英語以外のありとあらゆる言語を身につけてしまえば、英語を省略することができる。しかも、この方法なら、他の文化に多少なりとも関心をもつ英米人とも話をすることができ、英語さえできれば世界中どこでも行けると思っている傲慢なアメリカ人とだけは話をせずにすむ。まさにいいことずくめである。バイキンマンじゃないけれど「オレ様、なんて頭がいいんだろう」 そこで、まず独学でスペイン語に取りかかった。話せるようになった。腕試しに習いに行ったときには、キツイ冗談を連発して先生を困らせることもできるようになっていた。 当時ぼくは、英語ができなかったのは嫌いだからで、スペイン語ができるようになったのは好きだからだと思っていた。 ところが、あれから30年たって、それがまちがいであることがわかった。それもほんのつい最近のことである。 スペイン語をやったらできるようになったのは、ちゃんと脳科学的に根拠のあることだった。 人間はだれでもある年齢までに母語の神経ネットワークができあがってしまう。外国語を勉強するときに、その神経ネットワークの上に新しい知識を積み重ねようとするのでうまくいかないのだそうだ。 若いうちにやっておかないと身につかないというのはまったくの邪説で、歳をとってからでも、もうひとつ別の神経ネットワークを作れば、外国語も母語並みに身につくというのが、脳科学が辿りついた結論である。 当時、ぼくはそんなことはもちろん知るよしもなかった。知らなかったけれども、無意識のうちに別の神経ネットワークを作ろうと必死で格闘していたのだと思う。 スペイン語ができるようになって、人格的にも今までとは違う人間になりたいと思った。これこそがまさに、もうひとつ別の神経ネットワークを作ること、精神医学の観点から見て二重人格になることにほかならない。 このことは脳科学で証明されている。 そうなると、フランス語は比較的簡単に成功したけれども、イタリア語が案外苦戦した理由も説明できる。フランス語は日本語やスペイン語とは発音がなりちがうので、ここでももうひとつ別の神経ネットワークを作ろうとしたにちがいない。ところが、イタリア語はちょっとズルをした。ここまでスペイン語をやったらには、もうこれ以上しんどいことはしたくなかった。イタリア語はよく似ているので、スペイン語のネットワークを利用して学習しようとした。 ヨーロッパの人たちは何ヵ国語もできると言われるが、あれはウソで、人によりけり。めちゃくちゃすごいやつもおれば、これだけ似てる言語がどうして身につかないのかと思える人もいる。それもみな、神経ネットワークの考え方で説明がつく。新たに別の神経ネットワークを作った人は上達し、母語のネットワークの上に外国語の知識を積み重ねようとする人はうまくいかない。ただ、日本人とちがうのは、相互によく似た言語が多いので、母語のネットワークそのままでも、ある程度のことはできるということだ。 これですっきりした。 次は、情報量理論と成人教育論と脳科学の合体だ。これで革命を起こせる。 ←ランキングに登録しています。クリックおねがいします。
2008年09月16日
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とある田舎町の居酒屋で一人飲んでいると、店長らしき人が「○○くん、英会話の腕の見せ所、頼むよ」と言うのが聞こえた。見ると、すぐそばに外人さんがやってきた。 店員はさっそく注文を聞いて、厨房に消えていった。「さすが、○○くん、見事なお手際」 といっても、これは店長の演出で、○○くんも外人さんも英語なんて一言もしゃべっていない。 外人さんの日本語はたいしたもの。日本語の発音から、英語のネイティブスピーカーである可能性は消えた。横顔を見ると、出自はほぼ絞られる。ドイツの可能性も捨てきれない。デンマークか、オランダか、ほぼそのあたりにほぼまちがいない。 すると、何やら辞書らしきものをとりだした。 見慣れない辞書だったので、思わず「何語の辞書ですか」と聞いてしまった。「これは英語ですけど」 ぼくにとっては、いちばんがっかりする答えだったが、当の本人にとっても、そう答えるしかないのは不満だったらしい。 要するに、「アメリカ人ですか」なんて常套句を浴びせられでもしようものなら、せっかくの酒がまずくなる。 もちろん、ぼくがそんなことをする人間でないことは、サルコジ大統領も知っている。「ベルギー人です」と言うのを受けて「母語はオランダ語ですか。フランス語ではないですよね」「ヨーロッパ、行ったことありますか」「何回もあります。スペインには2年間住んでしましたし、、」 その瞬間、二人の共通語はスペイン語になる。なんでも、その人はペルーに2年間住んでいたということで、堰を切ったようにスペイン語で話しだした。 (つづく) ←ランキングに登録しています。クリックおねがいします。
2008年09月14日
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その昔、睡眠学習法というのが流行ったことがある。 語学教材を流しておけば、寝ている間に覚えるというやつだ。 いつの間にか廃れ、ぼく自身もしなくなった。 ただ、効果があるのかないのか、肝心な検証をすることはできなかった。確かにスペイン語を学習するときには毎晩、テープをかけて寝た。ほかにもさまざまなことをやったので、睡眠学習法そのものに効果があるかどうかはわからないままになってしまった。 それでも、興味の尽きないことはいっぱいある。 あれから何年かしてラジオを目覚ましがわりにしてNHKのラジオ講座を聞くようにしていた。20分ごとにロシア語、ドイツ語、フランス語と、ころころ言語が変る。 すると、不思議な夢を見る。 どうも自分がロシア語の授業を受けていて、先生に当てられて、何か答えるように言われている。 そのうち、自分が劇中人物になっている。フランス語講座では当時「三銃士」を題材にしていた。 こんな面白い学習法がなぜ廃れたのか、理由はよくわからない。 ただ、「手っ取り早くモノになる」、「楽をしてモノになる」というような学習法は、熱しやすく醒めやすいのかもしてない。 何らかの能力、回路を開発してくれるかもしれないが、そこで終わってしまっては何にもならない。そのうえに何かを築いてこそ、語学は本当にモノになる。 音源を活用して、(新たな言語を習得するための)新たな神経ネットワークを作るなんてことを耳にしたので、まあ試しにと思ってやってみた。 フランス語のニュースを聞いたあと、ポルトガル語に切り換えたら、さすがにほとんど音で聞いたことのない言語、あまりよく聞き取れない。同じ鼻母音のある言語とはいえ、フランス語の神経ネットワークはそのままでは通用しない。 隣の部屋の迷惑もあるので、音も小さくしなければならない。 かすかに何か言っていることがわかるくらいになって、そのまま寝入ってしまった。 その夜、列車事故の夢をみた。列車が炎上している。 なんでまた、こんな怖ろしい夢をみたのだろうか。もしかして、列車事故が本当に起きていたとしたら、寝ている間にポルトガルを理解していた可能性がある。 果たして、列車事故は本当に起きていた。しかも、単なる衝突ではなく、火災が発生しているところまで合っている。 ところが、ぼくの夢ではガソリンのような揮発性の液体に引火したことになっているが、実際のニュースを見ると「ガソリンの高騰で利用客が増えていた」と書いてある。 ニュースを聞いて、そのまま夢を見たのだとしたら、この部分は明らかに「解釈」が間違っている。 所詮、一夜漬けのポルトガル語ではこの程度かと思わせる「悔しい誤訳」であった。 ←ランキングに登録しています。クリックおねがいします。
2008年09月14日
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最近、「英語は逆から学べ」という本が出た。著者は「英語脳」ということばを初めて使った苫米地英人さん。 著者に言わせれば、そのあとに「英語脳」ということばを使った本が何冊か出たが、同じ英語脳をいうことばを使ってはいても「似て非なるもの」がいくつかあるという。 なるほど、ぼくが「英語脳」って、そんなお粗末なことを指していたのかと落胆したのも、無理からぬことだ。 亜流というか、二番煎じというか、偽装というか、レッテルはなんでもよいが、要するに本物でないやつは、まさに毒にも薬にもならない。 一方、本物にはさすがに強力な有効成分が含まれていて、正しく服用すれば不治の病も治るけれども、ひとたび匙加減を間違えば、一巻の終わりとなる。「翻訳は英語がネイティブに運用できるようになってから、挑戦してください」という一節を真に受ければ、われわれ翻訳者は「再就職訓練所」行きのトラックに放り込まれるくらいが落ちである。 英和辞典、和英辞典は捨てろと書いてある。 学習時に日本語はいっさい介入させてはならないと書いてある。 これでは日本から翻訳者がほとんどいなくなる。そこまで書いている本はおそらくほかにないだろう。 それでもなお、この本に書かれていることは情報量理論といっさい矛盾しない。 (つづく) ←ランキングに登録しています。クリックおねがいします。
2008年09月14日
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偽装が発覚するたびに、「部下が勝手にやったこと」と弁解する経営者がテレビの画面を汚す。 本当にそんな弁解が通るのなら、「食べ物関係とは気楽な商売ときたもんだ」と言うほかない。 知ってようが、知るまいが、部下がやったことは全部、上司の責任なのである。 知らなかったではすまされない。雇った人間が悪い。 私は翻訳講座を主宰しており、常々、「これらの」、「すべての」(強調する場合を除く)、「~より」、「さらなる」などという日本語はないと言っているが、受講生がどこかでそういうものを使うことがあれば、全部自分の責任だと思っている。 受講生がブログをやっていると、「ソレイアという名称の起源」(由来でないとおかしい)、「多くの選手がオリンピックに輩出されている」(「多くのオリンピック選手を輩出している」でないとおかしい)などをいちいちチェックしているわけにはいかない。 体がひとつしかないかぎり、物理的に不可能である。それでも、そういうものは自分の責任であると受けとめるしかない。 翻訳者のかかえる最大の問題は、ことばとことばのむすびつきにある。 その問題を解決するために、日々ない知恵を絞っているが、なかなかこれといった名案が浮かんでこない。 しかも、マスコミや新聞社、教育委員会が力を貸してくれるどころか、時にはそういうぼくの思いに水を差し、時にあざ笑い、時にあからさまに嫌がらせをする。 たかが、数年前の世界記録が破られただけで「最古の世界記録が破られた」とのたまうマスコミ。予選で敗れた選手のことばに「がっかりしている」という「日本人を愚弄した」訳をつけるマスコミ。「がっかりした」は他人に対する期待が裏切られたときにつかうことばだろうが、、。なぜ、せめて「がっくりきている」とか「落ち込んでいる」とかいうことばが出てこないのか。 このように、明らかに四面楚歌の状況にあっても、受講生がおかしな言い方をすると、それを未然に防げなかった自分の至らなさに思いが及ぶ。 それを、よくもぬけぬけと、自分の会社で起こった偽装事件に、「部下が勝手にやったこと」と言ってのけられることに、憤りを超えて、ぞの何事にも動じない「ずうずうしさ」に羨望すら覚える。 ←ランキングに登録しています。クリックおねがいします。
2008年09月12日
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このブログの余白にも「スペイン語が上達しない人には共通点がある」などのフレコミで、語学教材の広告が出没する。 ページに行ってみると、ながながと思わせぶりな内容で引っ張った揚句、わかるのは要は学習方法が大切であるということくらいで、肝心なことは教材を注文しないとわからない。 ひっかかるところはたくさんあるが、「ありとあらゆる教材を試したけれど、さっぱり理解できなかった。身につかなかった」と書いてある。 ここがまずひとつ。ぼくもいろんな教材を試したけれども、それはひとつが駄目だから、別のものを試したのではなくて、それぞれ違った観点からつくってあるので、いろいろやっていた方が応用がきくだろうと思ったまでのことだ。 どの教材も、学校英語のばかげた教え方に比べれば、すぐれたものばかりで、これでは身に着かないなんて思ったことはない。独学だけで、もう少しうまくなりたいと思って習いに行った時にはもうかなりのことが言えるようになっていた。もちろん、日本での話である。 自分は不自由しないと書いてある。 ぼくもスペインにいるときにはそう思ったけれども、日本に帰ってきて、まわりが日本語ばかりになると、やはりスペイン語に訳しにくいものがたくさんあることを痛感した。 そもそも、ことばに不自由しない人間なんていないのではないか。作家だって不自由しないと思っている人はいない。読者の目には自由自在に映っても、当の本人は毎日苦しみながら、ことばを絞り出している。 3ヵ月でどうにかやっていけるようになることは可能だろう。ぼくもルーマニアに行く前には、ルーマニア語は何とか3ヵ月で間に合わせ、基本的には全部ルーマニア語で通した(相手が英語で来たとき、それに合わせてしまうと、失敗した)が、たいしたことにかかわりあわなければ、それくらいのことはできる。その程度のことでしかない。3ヵ月でできることなど、多寡が知れている。だから、「3ヵ月ですごいことができるようになった」のではなくて、できるようになったことが「多寡がそれだけのことだった」にすぎない。 そんなことはだれでも考えればすぐにわかる。 3ヵ月でスペイン語にいちばん大事な基盤を作ることができると言うのなら、それはそれでなるほどと思うが、それまでまったくだめだったものが3ヵ月で完璧になるなんて、ありえない話である。 その昔、マラソンの一流選手には共通点があった。ある一定以上の距離を踏んでいる選手はみな一流選手だった。逆に言えば、弱い選手には「練習量が少ない」という共通点があった。 語学はある意味、マラソンと同じ。量的なものがどうしても必要である。量的なものを消化できてはじめて質的なものが問題になる。 ただ、そのマラソンも世界的にレベルがあがり、練習量だけでは勝負することができなくなった。それまでは「練習量が少ない」というのが弱い選手の共通点だったものが、練習量が多くても強くない選手が増えてきた。 トルストイが「幸福な家庭はみな似通っているが、不幸な家庭はさまざまに異なっている」と言っている。翻訳もまさにそうで「できる人の訳文はみな似通っているが、できない人の訳文はそれぞれに異なっている」。語学も「できる人の話すスペイン語はみな似通っているが、、」である。 そもそも、できない人に共通点があれば、教育ほど楽な仕事はない。できない者がそれぞれに固有の問題をかかえているからこそ、教育というものはむずかしいのである。 もちろん、そんな常識に挑戦するのがいけないとは言わない。 しかし、常識に挑戦する人はみな、挑戦する前にその常識をいやというほど知り尽くしている人ばかりである。 ←ランキングに登録しています。クリックおねがいします。
2008年09月04日
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ぼくには実は、ぼやっとしていると気づかないことを気づかせてくれる「ご意見番」がいる。権威を振りかざす学者先生のように、意味がずれていると言うなかれ。そのためにわざわざ「 」をつけている。 本当は反省していない人ほど「反省しています」ということばを口にするというのも、そのご意見番から教わったこと。 言われてみれば、ぼくが「気をつけます」ということばが嫌いな理由が、論理的に説明できる。 最近聞いた名言のひとつに「できない人ほど、がんばらなくちゃということばを口にする」というのがある。 がんばるというのは、そう簡単にできることではない。ふだん9時にしか起きれない人間が8時半に起きるのも、がんばることはにはちがいないが、いざ仕事の話となったときに、そんなものは何の意味ももたない。 その気になればだれでもできることをするのは、がんばるうちに入らない。 そんなことは本来、人間として当たり前のことを毎日こなすことでしかない。 あの人がこんなことをした。だから、私もがんばらなくちゃなんてのは、ことばのうえだけ「がんばらなくちゃ」と言っているが、これまでしてきたことをこれまで通りにしていこうという以外の何物でもない。 それでは、平穏な状況が続けば生き延びれるが、ひとたび嵐になれば万事休すである。 口ではがんばらなくちゃと言ってはいても、そこには自らの創意工夫によって未来を切り開いていこうとする意気込みがこれっぽちもない。 ←ランキングに登録しています。クリックおねがいします。
2008年08月28日
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日本マラソンが惨敗した。 今までのぼくならめちゃショック、最低1週間は自分のめしは食べても飼い猫には餌をやる気にならないほどの大ショックのはずだった。 それなのに、今度の惨敗は実に心地よい。 ざまあみろなんて、下品で邪なものじゃなくて、実に心地よい。 ひとつは、ついにというべきか、いつかは来るべきというべきか、競歩がマラソンを超えたことだ。50キロ競歩7位入賞、マラソン男女とも最高が13位。女子20キロ競歩14位。この流れは今後、想像を絶する速さで加速する。2012年のロンドン、2016年のマドリー(でなくてもよいが、シカゴだけは絶対にやめてほしい)では逆転する。 日経新聞に中山竹通が書いている。いや、日経も頼もしいし、中山も頼もしい。さすが、経済を売り物にする新聞だけあって、本物の意見を求めている。近頃の選手はみな、そこそこを目指す。これがだめなら、自分の人生はないという悲壮感がない。 87年の福岡、「ぼくなら這ってでも参加する」と言った中山の真意は悪辣なマスコミによって「這ってでも出て来い」と改竄され、当の瀬古にも伝わった。救われるのは、瀬古自身が「中山くんがそんなことを言う青年じゃない」と思ってくれたことだ。 中山曰く。みんなそこそこしかめざしていない。 翻訳だって同じこと。 日本語がそこそこ、日本語がそこそ、専門知識がそこそこ、語学力がそこそこ、そうやって、これまで培った知識や教養だけでこれからの人生をやっていけるなどと、甘ったれた考えをもつやつらを、あのワンジルが仕掛けた先行逃げ切りの戦術で、徹底的に打ち砕いてやればいい。 身に覚えのある翻訳者や翻訳会社は、その貧困な想像力をせいぜい逞しくして、終焉の地をできるだけ恥ずかしくないかたちで迎えることができるよう、心の準備をするがいい。←ランキングに登録しています。何かちょっとでも得るものがあったと思われたら、ぜひクリックをお願いします。
2008年08月26日
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その昔、サラエボオリンピックのスピードスケート、500メートルで金メダルを期待された黒岩選手は、惨敗したのちマスコミの態度が掌を返したように変わったと述懐している。次のカルガリでは銅とはいえ、かつてめざしていた金に劣らぬ喜びを感じることができたのは、そのことがあったからである。 スポーツの世界は苛酷である以上に理不尽である。 サラエボオリンピック金メダル期待選手では肩書きにならない。 まして、オリンピック予選初戦敗退選手ではだれも相手にしてくれない。 ぼくのように、ソウルオリンピック20キロ競歩最終選考会38位などと堂々と口にするのは、それで勝負しようとは思っていないからできることであって、スポーツの世界で身を立てようとする者にとって、オリンピック最終選考会参加選手では肩書きにはならない。 作家でも同じことで、仮に群像新人賞1次予選通過作家などというふれこみがあったとしたら、いったいその本を読む気がするだろうか。 ところが、どうもこの理屈がわかっていない世界がある。 語学の世界、翻訳の世界である。 TOEIC9××、英検1級、ほんやく検定1級なんてものは、小説で言えばせいぜい群像新人賞1次予選通過程度のもの、もしかするとそれ以下かもしれない。 資格や肩書きが無意味だと言っているのではない。それはそれですごいことで、だれにでもできることではない。 1級建築士や弁護士資格、医師資格、○○大卒なども含めて、あくまで「就職」の際にモノを言うもの、言い方を変えれば、その世界の一員になるためのものであって、それ以上のものでは断じてない。 なかでも、ほんやく関連の検定などは、会社で言えば、ある部署で曲がりなりにも仕事ができるようになった程度のもので、人事で配置転換されて別の部署に配属されれば、そこではまたまったくの新米として再出発しなければならない。 翻訳者が「○○検定1級です」を謳い文句にするのなら、サラリーマンだって○○会社○○部○○課バリバリ社員として売り出せるはず。そんなことをしないのは、それがいかに愚かしいことであるかがわかっているからで、サラリーマンは翻訳者に対してもっと怒らなければならない。 もちろん、実際に怒っている。 自分の懐が傷むわけではないけれども、高いお金を出して翻訳を頼んでも、わけのわからないものが返ってくる。 その仕事にかかわった者のなかに、○○検定1級の者も少なからず含まれていることも、紛れもない事実である。 ←ランキングに登録しています。何かちょっとでも得るものがあったと思われたら、ぜひクリックをお願いします。
2008年03月30日
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KLMでヨーロッパに行くと、いつも2回の食事の間に不思議な選択を迫られる。 ヌードルにしますか、アイスクリームにしますか。 そもそも、カップヌードルとアイスクリームなんてまったく質の違うものではないか。ヌードルかおにぎりか、アイスクリームかプリンか、そういう選択なら、好きな方を選べるのだが、これでは、その時点で自分がどういう状態にあるかを「申告」する行為に等しい。お腹がへっているという感覚の方が強いか、それはもういいから、ちょっとさっぱりとした甘いものを口にする方がいいか。 ところが、いざ乗務員がやってくると、自分のなかに相反するふたつの気持があるのに気がつく。 お腹もへっているけど、カップヌードルだけじゃあ、後口が今ひとつよくない。かといって、アイスクリームでは、何か物足りなさが残る。 往路、妻はたった一音節の英語でこの問題を見事に解決した。(さて、どうしたでしょう。解答は、のちほど) 復路、(往路で赤ワインをいっしょに飲んでいる人がいたので)、よしそれなら、赤ワインがもらえるなら、ヌードル、だめならいらない。そもそも、こんな疲れた状態でワインもなしに、カップヌードルが食べられるか。 赤ワインがもらえるなら、ヌードルをと言いかけると、どうも様子がおかしい。復路が到着が朝になるということで、ワインは出してくれないらしい。 わかった。それならそれで、こちらにも覚悟がある。意地でもヌードルなんかつっかえしてやる。 そのときだった。それまでほかの客に相手していた日本人乗務員が「水だけになっております」と一言、拒む間もなくテーブルの上にヌードルが置かれていた。 なんたって、機内日本語会話はぼくの苦手中の苦手。まともに通じたためしがない。いつぞやは「ウォッカ」と言って注文したら、何度も聞き直された挙句、水をもってこられたことがある。それ以来、暇を惜しんでは日本語の発音に取り組んでいるが、未だに自信がない。日本人乗務員には「ウオッカ」と発音しなければ通じないらしい。 ←ランキングに登録しています。何かちょっとでも得るものがあったと思われたら、ぜひクリックをお願いします。 解答 Both
2008年03月28日
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近ごろのホテルは禁煙部屋と喫煙部屋が別になっている。前日までに泊まっていた客のものは、匂いたりとも残さないというわけだ。 だからもちろん、忘れ物は言うに及ばず、メモに使った紙切れなどが残っているはずがない。 ところが昨日、ただひとつ残っているものがあった。 宿泊客用の案内に MORNING CALL とあるのを消して手書きで WAKE-UP CALL と書き直している。ずいぶんと汚い字だから、ホテルの人が直したとは思えない。 なるほど、やはり気になる人は直さずにはおられないのだなと思って、よく見ると、この WAKE-UPの文字、どこか見覚えのある字ではないか。 そう言えば、1ヵ月ほど前、同じホテルに泊まっている。そのときも同じ4階だったから、部屋番号は覚えていないけれども、同じ40×号室だったような気もする。 理由はどうあれ、これは落書きである。紙切れ1枚をケースに入れてあるだけのものだから、器物損傷の罪に問われたり、損害賠償を求められたりすることはないにしても、落書きであることに変わりはない。 壁に書いたものなら、そう簡単に消せないけれども、紙切れ1枚、取り替えればすむことである。それなのに、その落書きが1ヵ月近くもそのまま放置されている。 ブログの書き込みでも、ちょっと気にいらなければ即削除される昨今、ホテルの部屋で1ヵ月も消されないで残るものがあるとはすごいことだ。 でも、ちょっと待て。本当に残ったのはその紙切れなんかではない。消されなかったのは落書きなんかではない。WAKE-UPと書き直された事実は見向きもされず、MORNING CALLという偽装英語だけがいつまでも残ることだろう。 消されずに残っていたのはむしろ、MORNING CALL という偽装英語の方である。 ←ランキングに登録しています。何かちょっとでも得るものがあったと思われたら、ぜひクリックをお願いします。
2008年01月20日
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いわゆる日本語関連本には、実にくだないことがえんえんと並べられている。「課長は馬齢を重ねられ」がおかしいことは字を見れば一目瞭然であって、逆にそんなことを知らずにサラリーマンになるなと言いたくなる。 そのくせ、上京がおかしいということはどこにも書いていない。 こちらが自ら上京すると言うのは、もちろん何ら問題がない。 しかし、いやしくもことばを仕事にしているはずの翻訳会社の社長が「今度はいつ上京されますか」と言うとは、まさに「馬齢を重ねられ」に劣らず無礼ではないか。 しかも、馬なら走る速さでは歯が立たないから一目置いているが、大阪が東京に負けているものと言えば物価の高さくらいのもの。 新しい知事が大阪から東京に向うときには「これから下阪します」と堂々と言ってもらいたい。 いやいや、本当はこれもダメ。下阪はあくまで相手に言わせるもの。 石原都知事に「今度、いつ下阪されますか」と言わせるような骨のある人に、次の大阪府知事になってもらいたい。 ←ランキングに登録しています。何かちょっとでも得るものがあったと思われたら、ぜひクリックをお願いします。
2008年01月19日
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今日ばかりは笑いが止まらない。 日本政府が長期滞在する外国人に「日本語能力」を課すことを考えていることがわかった。 そんなことをしたら、日本におれなくなるのはアンタたちだぜ。 それととんでもない翻訳者たち。 ←ランキングに登録しています。何かちょっとでも得るものがあったと思われたら、ぜひクリックをお願いします。
2008年01月15日
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競争社会という偽装(1) 近ごろ、何かにつけて偽装が話題になっているが、偽装なんてものは人類の歴史、いや生物の歴史が始まったときからあるもので、今さら騒いでみたところでどうなるものでもない。 枯葉と見まがう昆虫がいる。周囲の環境に合わせて七色に変化する爬虫類がいる。これが偽装でなくていったい何だと言うのか。 ところで、競争社会というけれども、あれも一種の偽装だと思う。 その昔、大学受験や通訳ガイド試験の競争率の高さにしばし呆然となったとき、勇気を与えてくれたことばがある。 どんなに競争率が高くても、合否を争う人数は定員のせいぜい2倍である。 ということは、その2倍までに入らない人たちとは競争なんかしていないということである。 中学生のとき、よく考えてみれば、成績で勝ったことも負けたこともある生徒はせいぜいクラスで3人か4人しかいない。それ以外の生徒とは競争なんかしていなかったことになる。 体育の先生が、こんなことを言った。アル中で有名だった先生だが、これだけは名言だと思った。ある程度勉強のできる生徒はもう勉強なんかしないで、体育に力をいれて、体を鍛えるべきだ。(それでこそ、バランスがとれる)なるほど、これはいいことを聞いたと思って父に言ったら、「ただな、そうすると、抜かれる可能性がある」と、父独特の理屈が返ってきた。本当に競争社会なら、抜かれることがあるのは当たり前。抜かれることがいけないのであれば、これはもう競争ではなくて、「固定」である。テストとなれば、必ず出題範囲が決まっていて、それ以上のことを勉強しても点数につながらない。入試でも「これ以上のことを出題してはならない」という約束事がある。競争というより、親や先生がお膳立てをして、「だいたい、お前はこの程度の人間だから、常にこの辺の位置におれ」と、「配置」を決めているだけのことだ。ぼくたちが中学以来続けてきた反抗が空回りに終わったのはきっとそのためだ。競争でもないものを、競争がいけないとか、受験戦争なんかなくなれとか叫んでもうまくいくはずなんかなかったのだ。今頃になって、そんなことに気づくなんて、いったい何を「勉強」してきたのだろう。その点、そろばん学校には本当の競争があった。小学生だって、高校生に負けるものかと思って本気でがんばった。そしたら勝てた。でも、そろばんでは勝っても高校生はやっぱり高校生、それだけの人生を歩んでいる分、小学生ではとうてい及ばないものをもっていることがわかった。だから、尊敬もできた。 競争のあるところにこそ、真実があるような気がする。 だから、本当は競争がいけないんではなくて、本当の競争ができないことがいけないんではないか。 ←ランキングに登録しています。何かちょっとでも得るものがあったと思われたら、ぜひクリックをお願いします。
2008年01月13日
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多言語の効用 先月、ドイツ語、イタリア語、フランス語の翻訳講座を1日でやってしまおうという懸案の構想が実現した。 受講者を募った当初は、大きな教室を借りて2~3人で細々とやることになりはしないか、不安だった。もっとも、受講者はそれ以上に不安だったようで、万一「指し」になったらどうしようかと生きた心地がしなかったようだ。 幸い、受講者は予想をはるかに上回り、ドイツ語9人、イタリア語6人、フランス語7人の参加があった。 なかには、この講座に向けて一から参考書と辞書を注文した者までいた。 自信があるから受講しようと思ったわけではない。 多くは、こんな機会はめったにないから、ぜひともこの機会に受講してみようと思ったそうだ。 今回、実はこの各国語講座には「裏番組」を用意した。医薬翻訳者に必要な化学の基礎を固めてもらおうと、化学講座を初級、中級と実施した。 それがなければ、受講者はさらに増えたであろうことは想像にかたくない。 これだけの受講者があったことはもちろん、機会さえあれば英語以外の言語を勉強したいと思っている人が意外に多いことがわかったのは、実に大きな収穫であったと言える。 では、それほどやりたいと思っているのに、これまでなぜ二の足を踏んできたのか。 身につけたところで、それが収入につながるのだろうか。もしも、そう思わせているのだとしたら、それは政治が悪いと言うほかない。「英語ですら、四苦八苦しているのに、ましてそれ以外の外国語なんて」と、野暮なことを言うのはやめにしよう。受講者の動機や感想を聞いてみると、「英語の行き詰まりを打開するのに、もうひとつ別の言語をやってみるのがいいと思ったからです」というのもあった。「フランス語をやってみると、英語だけでは理解できなかった翻訳の原理というか、本質的なものがおぼろげながらわかるようになってきた」という発言もあった。 それこそがまさに、今回の「3言語講座」の目的でもあった。 生物学者の大半が、自分たちの種のほかに、イヌとネコしか知らなかったとしたら、いったいそこからどれだけのことを導き出すことができただろうか。 本当はそれは言語についても言えることなのだ。 英語だけをもって、英語の理屈を基準にして翻訳を語る人があまりにも多い。白人を見たらアメリカ人だと思う人の言うことだと思って聞き流してはおくが、翻訳の世界ももう少し風通しがよくなるように、来年もぜひ、この多言語講座をやらなくてはなるまい。←ランキングに登録しています。何かちょっとでも得るものがあったと思われたら、ぜひクリックをお願いします。
2007年12月28日
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翻訳者のほとんどが、行き当たりばったりの訳語を選択していることは言わずとしれた事実であるが、日常生活の場でも、ことばの選択がままならないことは「案外知られていない」 以前、自転車操業をしていて、なかなか翻訳料を払ってくれないアルコンという某翻訳会社に、「いついつまでに支払わなければ、法的手段に訴える」と書いて送ったところ、「なにやら脅迫めいた文面があって」などと言ってきた。 さいわい、翻訳料そのものは支払ってもらったが、脅迫というものは不当なことを不当な手段で要求することを言うものであって、正当なことを正当な手段で要求することは、脅迫とは対極にあるものである。一応「めいた」をつけているとはいえ、いやしくもことばを仕事とする人間が、そんないい加減なことばの使い方をするべきではない。 いい加減といえば、上には上がある。天は人の上に人をつくらずと言うが、卑しさ、あさましさという点では、天は福沢諭吉の理解をはるかに超えたことをする。 現在、日本中の翻訳者が注目し、行方を見守っているブログがある。有志が集まって「顰蹙まんじゅう」まで用意し、このブログを読んだ人はぜひともこの「顰蹙饅頭」を買ってくださいと、大声で呼びかけている。 なにしろ、ある会社から試用期間を設定して仕事をもらっていたのに、そのあと本格的に仕事が出るようになったら、自分のやりたいことができなくなるから、「試用」のうちにさっさとやめてしまったという話が「堂々と」書かれている。使う側にすれば、「試用」期間中はいわば掃き出し、現時点では戦力にならないが、そこは育てていこうという親心。まさに、恩義も義理も、何もあったものではない。 ところが、このブログの主、cara dura(厚顔)というかなんというか、そのことを指摘した書き込みに対して、自分も別の翻訳会社から不当な理由で突然仕事を切られたことがあるから(あんたの日本語じゃ、仕事を切られるのは当たり前)、弱い立場の翻訳者が自分を守るために、「やられたからやり返す」のは当たり前だと主張する。 それって、自転車を盗まれたから、他人の自転車に乗って帰るという理屈と同じではないのか。 しかも、この主、大切なことを教えてくれて本来感謝するべき書き込みに対して、「誹謗中傷は許しませんよ」と来た。 書き込みには少なくとも、次のような段階がある。 感想 意見 苦言 注意 説教 批判 警告 抗議 非難 誹謗中傷というのはさらにその上にあるもので、先に書いた書き込みの内容など、せいぜい意見程度のもの、辛くみても苦言にしかならない。それを一挙に「批判」、「抗議」、「非難」を通り越して「誹謗中傷」でくくってしまうのだから、現実を掬う網の目の粗さは半端ではない。 いつまでも、こんなことを続けていると、そのうちに顰蹙まんじゅうではすまなくなる。 日本全国津々浦々で顰蹙みかんが売られる日が来ないうちに、自分の足元を見つめなおしてもらいたい。←ランキングに登録しています。何かちょっとでも得るものがあったと思われたら、ぜひクリックをお願いします。
2007年12月23日
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久々に東京に来て、山の手線に乗ると、車内の画面に何やら怪しげな英語講座が映る。 何なに、英語の形容詞にはちゃんと決まった順番がある。 それで、、。 数量 → 大小 → 色 なるほど、 だから、たとえば、four big red balls となる。 これを「知識」と捉えれば、実に陳腐。バカバカしい。 ところが、「モノの考え方」と捉えれば、アインシュタインの相対性理論に匹敵する大発見だ。 なぜって、このことは、英米人がたとえどのような順序でモノを考えようと、言い方を変えれば、最初に赤いボールが頭に浮かんで、その大きなやつというのが次に浮かび、最後にそれを4つほしいと思ったとしても、red big four balls とすることはできないことを証明することになるからだ。 これは「英米人は前から考える。だから前から訳せ」という理屈と矛盾する。 それなのに、英語を教えている人間というのは実に不思議な人種で、「英語では、数量、大小、色の順ですよ」と言った舌の根が乾かないうちに、上の英語を「赤いボールの大きなやつを4つ(ほしい)」と訳すと、「英語はその順番になってないでしょう」とたしなめる。 まさに、政治家よりもウソつき。吉兆よりも偽善。社会保険庁よりもいい加減。 英語の偽装をそのまま放置して、世の偽装に口出しすることなかれ←ランキングに登録しています。何かちょっとでも得るものがあったと思われたら、ぜひクリックをお願いします。
2007年12月21日
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改竄期間の改竄 赤福が34年間、賞味期限を改竄していたという。 その34年という期間そのものが改竄ではないのか。 ぼくは小学校のとき、学校から伊勢に行って赤福を食べたあと気分が悪くなって一人別室で寝かされていた記憶がある。あれは43年前、もう一度、改竄期間を調べなおしてほしい。←ランキングに登録しています。何かちょっとでも得るものがあったと思われたら、ぜひクリックをお願いします。
2007年10月14日
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JRの運転手が停車中にお絵かきロジックをやっていて問題になった。勤務中にやるのはさておき、このお絵かきロジック、10年ほど前に流行ってすっかりすたれてしまったと思っていたら、どうもそうではないらしい。 パズルを解いていくと、絵が現れるようになっている。パズルであるからには、それなりの手続きを踏まないと前に進めないが、おぼろげながら「正体」が見えてきたころに、どこかで間違っていることに気づかされる。複雑なものになると、なかなか最後まで完璧に仕上げるのはむずかしい。当然、途中で矛盾に気がつくが、後戻りはできない。仕方なく、ごまかしながら続けても、絵の正体はわかる。 先日、講座のときに、時々翻訳を頼まれて仕方なく引き受けるけれど、いやでしょうがないと心情を吐露した人がいた。断っておくが、この人は翻訳の仕事をすること自体がいやでそんなことを言っているのではない。どうやっても、いい加減なもの、言ってみればきたない日本語、本来ありえない日本語を並べたものにしかならず、その程度のものを納品しなければならないことが、自分にとって限りなく苦痛なのである。 そう言えば、翻訳の勉強をあきらめる人のなかに、こんないい加減な気持ちではとても続けていけないという理由でやめていく人がいる。自分がいかにずさんで、緻密な思考ができない人間であるかを思い知らされ、自ら翻訳者失格の烙印を押してやめていく。 そういう人はけっして恨まない。むしろ、そういう現実をきっちりとわからせてくれたことに感謝してやめていく。 恨む人は、いつまでたっても指示ひとつ満足に守れないくせに、自分の訳文を評価してくれないと不満を募らせる人である。それでも、外国語を満足に読めない人口がこれだけの割合を占めている国だから、どこかに仕事を出すところはある。日本語としておかしくても、意味がわからなくとも、ちんぷんかんぷんの横文字で書いてあるよりは、とりあえず日本語になっていれば、それでお金を払ってくれる人がいる。 下手な人がやめていき、上手な人が仕事に手を出すのではない。 いい加減な気持ちでは続けていけないと思ってやめていく人の方が、稼ぎまくっている人よりも上手であることも珍しくはない。 してみると、翻訳とはお絵かきロジックのようなものではないか。途中で間違えても、それなりの絵は浮かんでくる。すこしくらい間違えても、とりあえず答えがわかれば別に気にならない人は、やみつきになっていつまでも続けていく。ところが、何度挑戦しても、やはりどこかで矛盾に行き当たってしまうのが、気になってしょうがない人は、せっかくそこに面白いパズルがあるのに、もうこれ以上やろうとは思わない。 JRの運転手が勤務中にお絵かきロジックをやっても、処分すればそれですむ。 しかし、ゆがんだ絵を浮かび上がらせて、それをお金に換えている人をどうすればいいか。 今のところ、これといった名案はない。←ランキングに登録しています。何かちょっとでも得るものがあったと思われたら、ぜひクリックをお願いします。
2007年10月06日
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