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ビンラーディン殺害事件とパキスタン (1)5月2日の米軍によるビンラーディン殺害事件以後、パキスタンが揺れています。5月22日の夜10時半過ぎ、パキスタン最大の都市カラチの海軍基地に6名のゲリラが侵入し、格納庫内の対潜哨戒機P3Cを破壊する事件が起きました。この事件については、日本ではその日小さく扱われただけで続報もなく、「フクシマ」や政局の報道に埋もれてしまいました。しかし、事件のおよそを辿ってみますと、大変衝撃的な事件であることが分ります。「事実は小説よりも奇なり」を地で行くような出来事なので、しばし事件の概要を記します。まるでスパイ小説に出てくるような出来事です。事件翌日、「パキスタンのタリバン運動(略称TTP)」を名乗る過激派が、実行声明を出しています。TTPは、今までにも何度も、基地や軍の施設を襲撃し、「自爆テロ」を繰り返していますので、今回の襲撃事件がTTPによるものであることは、間違いないようです。大都市の海軍基地に侵入したTTPの戦闘員は6名。その後の調べで、この6名は、排水溝近くの監視カメラの死角を選んで、ロープを伝って基地内に侵入、同時にロケット砲wも運び入れています。まんまと基地に侵入した6名は、基地内の監視を巧みに避けて、短時間でP3Cの格納庫に近付き、見事にP3Cを破壊、炎上させることに成功します。さてその後です。作戦成功後6名は、事態に気付き、メンツを傷つけられて怒り心頭に発した海軍兵士と銃撃戦を演じながら、基地内をあちこちと逃げ回ったのです。その間なんと16時間。多勢に無勢、僅か6名で大勢の海軍兵士の追撃を受けながら、しかも海軍側のホームグラウンドの中です。どうやって逃げ回れたのでしょうね。その挙句に、16時間の銃撃戦、逃げ回り大作戦の果てに、3名のゲリラ兵士が射殺され、1名は自爆したのですが、残りの2名はまんまと脱出に成功し、基地外に姿を消してしまったのです。海軍側治安部隊の死者は12名、負傷者は15名以上と言いますから、戦闘としては、TTPの大勝利と宣伝されても、致し方のないものでした。およそ事件の概要は、以上の通りなのですが、なぜTTPは、これ以上ないほどの大きな成果をあげることが出来たのか? この点が問題になります。 続く
2011.05.31
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クロニクル 川上選手2千本安打1956(昭和31)年5月31日55年前のことです。この日巨人軍の川上哲治選手が、日本のプロ野球選手として初めて、2千本安打を達成しました。その後2千本安打を達成する選手は次第に増え、今年も小笠原選手が達成しました。しかし、3千本となると日本では大変少なく、張本選手とイチロー選手の2人だけになります。米大リーグでは、4千本安打が何人もですから、やはり選手寿命の長さは、米大リーグに1日の長があるようです。
2011.05.31
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チュニジアからエジプトへ…(74)アラウィ派の将校の中には、都市部の富裕層に反感を抱く者も多く、政権幹部は彼らをなだめるために、都市富裕層の嫌がる不動産や企業の一部国有化を実施したりもしていました。しかし最近になって、2000年以降に経済自由化が進んだ結果として、軍人らの所得が増加し、彼らのの暮らしも以前に比べ、格段に豊かになったのです。当然、軍人らもまた、今の暮らしを手放したくありません。その結果、絶対的貧困に陥っている貧困層の抗議や反政府行動は、彼らにとっても認めがたく、許しがたいものとして写ります。 旱魃や食糧危機に苦しむ貧農が期待する現体制の変革、即ち既存の政治同盟をぶち壊そうとする革命運動は、なんとしても封じ込めなければならない暴挙にしか、見えないのです。スンニー派の貧困農民や都市貧民層の支持を得た反政府派を中心に、新たな政治階級が出現することは、既得権の防衛したいシリアの現支配層にとって、耐え難い悪夢なのです。こうした事情が、反政府派に対する苛烈な弾圧に繋がっているようです。こうした身勝手な弾圧は、果たして成功しうるのどうか。その点が、今後の注目点です。 ザビ
2011.05.30
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クロニクル 米国原潜横須賀へ…1966(昭和41)年5月30日45年前のこの日、米国の原子力潜水艦スヌック号が横須賀港へ姿を現しました。米国の原子力潜水艦が、始めて首都に近い横須賀に入港したのです。後に原子力空母エンタープライズの佐世保入港が大きな反響を呼びますが、この原潜騒動も大きな反対運動を呼びました。それは、原潜は動く核基地とされ、核ミサイルを常時搭載して、いつでも発射しうる準備を整えながら世界の海を巡航している存在だったからです。当然、唯一の被爆国として、核兵器アレルギーの強い日本で、大きな反対運動が起きないはずがありません。当時の佐藤内閣は、原潜は日本帰港時には、核兵器を取り外して携行することを米国が了承したと強弁しましたが、国民への説得力はほとんどありませんでした。原潜は核燃料を動力とするため、長期間潜水したままの航海が可能です。そのため相手国からすると、極めて捕捉するのが難しい,厄介な相手です。それ故に予測不能の地点から核ミサイルを発射することができます。 それ故に軍事人工衛星に積み込んだ大気圏外からの攻撃の次に、現在でも防御が困難な攻撃方法として警戒されているのです。その貴重な兵器を、わざわざ使用不能の状態にして、入港してくるはずがないことは、容易に想像できる事柄でした。それゆえ、いかに日米安保があるからといって、核戦争の可能性を高めるような協力はすべきではない。 これが当時の庶民感情の最大公約数だったのです。今とはだいぶ違ってい増すが、私には当時の感覚の方が、健全だったように思えてなりません。
2011.05.30
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チュニジアからエジプトへ…(73) 2代にわたるシリアのアサド政権は、イスラム教少数派のアラウィ派の政権です。アラウィ派は、シリアの北西部の山岳地帯に住む部族を中心とした信仰であり、人口の12%を占めるに過ぎません。宗教的少数派のキリスト教徒の13%よりも少ないのです。対するスンニー派は、人口の65%を占めています。先代のハーフェズ・アサドの時代から、政権は宗教的には世俗主義を掲げ、アラウィ派とキリスト教徒の少数は連合を形成して、多数派であるスンニー派の影響力を排除してきました。アサド政権の蚊帳の外に置かれて不満を募らせたスンニー派は、80年代以降、折々に民主化要求を掲げて、政権への不満を表明してきました。こうした中、ハーフェズ・アサドの政権末期から、シリアにも経済成長の波が訪れます。この波に乗って、スンニー派に属する都市部のアラブ商人の一部が、巨額の富を蓄積して、政商化し、政権との関係を強めることになりました。ここにアサド政権を支えるアラウィ派が握る軍・治安機構と、スンニー派の有力商人層との新しい同盟関係が成立しました。2000年に政権を継いだバッシャールは、政権幹部の教えに従い、経済自由化を推進して、同盟関係に変化のないことを示したのです。しかし、経済自由化は、貧富の差の拡大に繋がります。とりわけ民主主義の錬度の低い国々では、社会的弱者である貧困層に対するセーフティネットの構築を欠いています。こうして、同盟の受益者である一部の有力商人とその取り巻きと、多数のスンニー派との矛盾は、極限まで高まることになります。スンニー派からなる都市部の有力商人層は、アラウィ派の軍や治安部隊の幹部による支配を。知性の低い将校による「農村独裁」と侮蔑的に表現してきたことも事実です。もし、両者の確執が高まり、政治同盟の2大パートナーが決裂するなら、体制変革あるいは政治革命の可能性が日程に上ります。果たしてどうなのでしょう。 続く
2011.05.29
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クロニクル 住友銀行、平和相互銀行との合併契約に調印1986(昭和61)5月29日25年前のことです。当時平和相互銀行という、異色の銀行があったことを覚えている方も多いと思います。当時銀行の中でただ1行だけ、午後7時まで、窓口を開けている銀行でした。 この銀行は、小宮山グループという政商の経営する銀行であり、竹下登(当時自民党幹事長)派の資金源の一つと噂されていました。この平和相互銀行が、乱脈経営のツケなのですが、過剰融資先の倒産で、巨額の不良債権を抱え、倒産の危機に陥ったのです。今なら当然のことに1時国有化なのでしょうが、当時は、バブルの助走期です。午後7時まで営業可能な東京など首都圏での店舗が多数手に入るのですから、大銀行のほとんどが、同行救済に関心を示したのは、当然といえば当然でした。そうした中で、同行を射止めたのは、これまた竹下グループとの因縁浅からぬ住友銀行でした。25年前のこの日、住銀と平和相銀は合併契約を結び、やがて、平和相銀の名は、消えていったのです。小渕首相や宮沢蔵相に直接口説かれても、長銀救済に手をあげる銀行は1行もなかったこと(1998年)を考えると、幸せな時代だったのだなぁと、懐かしく思い出されます。
2011.05.29
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チュニジアからエジプトへ…(72) シリアへ戻ります。バッシャール・アサド現大統領は、父時代の政権幹部が脇を固めることで、今まで政権を維持してきました。2000年の父の死と同時に政権を引き継ぎ、当初矢継ぎ早に汚職疑惑のあった閣僚を更迭、何人かを自殺に追いやっていますが、これは、母方の長老がバッシャールに振付けた政権掌握術だったようです。2003年にイラク戦争が始まると、イラクからの難民がシリアに流れ、イラクに潜入する武装勢力の前進拠点の役割も果たしたことから、対米関係が悪化したのですが、そのことが米国とイスラエルの言いなりにならないシリアという評価を生み、辛うじて国民の支持をつなぎとめる役割を果たしました。しかし彼には、ほぼ同じ時期に政権を担当することになった、ヨルダンのアブドゥラ2世国王(就任1999年でバッシャールが大統領を継ぐ、1年前でした)のような国民的人気はありません。アブドゥッラー2世には、タクシー運転手や新聞記者などの市井の人々に変装して、国民のナマの声を直接聞きだし、内政改革に腐心して、大きな国民的な人気を保っています。それがアラブの王政の国で、唯一政権批判が拡大しない、原因となっています。シリアでは、このところ金曜礼拝の日ごとに、大きな反政府デモが起きており、それを治安部隊が無差別発砲など、力で抑え込む構図が続いています。こうした情勢の背後には、次のようなシリアの事情があります。 続く
2011.05.28
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クロニクル 山一特融1965(昭和40)年5月28日この日、田中角栄蔵相は、深夜になって突然の緊急記者会見を開き、証券緊急対策として、倒産の危機が噂されていた山一証券の危機が現実であることを認め、同社に対して日本銀行が無制限、無期限の特別融資を行うことを決定したと発表しました。世にいう山一救済劇、日銀特融の幕は、こうしてあがりました。1960(昭和35)年の池田内閣の所得倍増政策の発表で、株式市場は活況を呈し、この年初めて日経ダウ平均は1000円を突破、大納会には、1356円の高値まで、年間で60%を越える上昇を記録し、翌61(昭和36)年7月に1829円で天井を打ちます。その後は急反落で1258円まで、33%の下落を経験、その後は高値1600円、安値1200円の往来相場に終始するのですが、64年10月の東京オリンピックの開幕が近づくと、オリンピック需要の息切れから、急激に不況感が強まり、強気の経営拡大路線を走り、無理な投信販売と運用の失敗から、山一証券の株価や設定投信の基準価格が暴落、65年に入ると、山一危機が噂されるようになりました。田中蔵相の思いきった措置が効いたのか、証券市場の株価は、1ヶ月半後の7月12日の安値1020円(本当に1000円スレスレまで下げました)を底に反転し、赤字国債の発行解禁が国会で承認される秋以降、大きく値を戻し1400円台を回復するまでになったのです。山一証券も日銀特融で生きかえり、やがて特融は利子付きで返済されます。この時は息を吹き返した山一証券でしたが、何をどうとち狂ってしまったのか、バブル時に再び無茶苦茶な拡大路線を繰り返した結果、バブルの崩壊と共に、再び大きな傷を負い、今度は救世主も呼び込むことが出来ず、1997(平成9)年の11月に、遂に自主廃業に至るのです。再建後僅か30年足らずでの,野垂れ死にでした。過去の教訓に学ぶことも出来なかった山一の倒産、やはり経営陣に人材がなかったということなのでしょう。失敗の教訓を社訓として守ることも出来なかった山一は、滅ぶべくして滅んだと、私は大変冷ややかにみています。
2011.05.28
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チュニジアからエジプトへ…(71) 2日ほど間隔が空いてしまいました。体調が悪かったわけではなく、別の仕事に忙殺されていたためです。シリアの話が途中ですが、昨夕エジプトから飛び込んできたニュースを先に記すことにします。エジプトの国営通信社の「中東通信」は、25日付けで、「エジプト政府は、28日(土曜日)から、ラファ検問所を常時開放し、ガザの封鎖を緩和すると発表した」と報じました。エジプト政府直接の報道ではありませんが、アラブ世界では、国営通信社は実質的に政府のスポークスマン役をも果たしており、報道がかなり踏み込んだ、具体的内容を含んでいることからしても、中東通信のフライングの可能性は、ないように思います。ところで、ラファは、パレスティナ自治区ガザとエジプトとの境界に位置する、唯一のエジプト側都市です。ですからガザからエジプトへ出国する際の、唯一の出入り口にあたります。ラファ検問所の常時開放は、2007年にハマスがガザを実効支配するようになった後では、初めてのことになります。中東通信によれば、検問所(入国審査所)はイスラム教の休日である金曜日と祝日を除く、毎日午前9時から午後5時まで開かれ、女性は誰でも、男性は18歳未満と40歳以上であれば、パスポートさえ所持していれば、ビザなしで出入国できるというのです。18~40歳の男性でも、エジプトの大学在籍者と医療を受ける必要のあるたは、制限の対象外とされました。エジプト新政権は、4月27日にパレスティナ自治政府のハマス(ガザを実効支配)とファタハ(ヨルダン川西岸を実効支配)の若いを仲介することに成功しています。その際に約束していたラファ検問所の開放を、1ヶ月後に実現するというわけです。この措置に対し、イスラエルは反発を強めていますが、検問所の開放はエジプトの主権に関わる問題であり、イスラエルの権限の及ぶ所ではありません。そして、イスラエルの後ろ盾である米政府は、世界各地に民主化を押し売りしていた事実から、中東民主化を歓迎する姿勢をとらざるを得ず、ムバラク辞任を支持してきた実績からして、ラファの開放に反対するわけに行かないジレンマに陥っています。1歩1歩、少しづつイスラエルの嫌がることを実現して行く、エジプト新政権の手並み、なかなか鮮やかです。 続く
2011.05.27
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クロニクル ネルー首相死す1964(昭和39)年5月27日47年前、東京オリンピックの年でした。この日、独立インド(1947年独立)の初代首相、ジャワハルラル・ネルーが、心臓発作で現職首相のまま急死しました。75歳になる直前でした。ネルー首相は、ガンジーと共にインド独立運動に身を投じ、インドの独立と被抑圧諸民族の団結に政治行動の原点を置いて、心血を注ぎました。独立時、パキスタンの分離独立の責任を感じたガンジーが、どうしても首相就任を引きうけず、ネルーが初代首相に就任しました。冷戦に組せず、非同盟外交を推進して、新生日本の平和憲法を高く評価、日本の子ども達にと、上野動物園にインド象を寄贈。日本もその友誼に答えて、贈られたインド象にネルー首相の娘インディラの名をいただいたことも、当時大きな話題となりました。新生中国の周恩来首相と共にアジア・アフリカ会議を提唱、その中心的指導者としても活躍しました。反英独立運動の指導者として、何度か不当に投獄されて、獄中で過ごしましたが、獄中から娘のインディラに向け、インドを中心に置いた世界史を、書き綴った手紙を毎週のように書き送ったものが、『父が子に語る世界歴史』(みすず書房全6巻)という大きな著作になっています。この娘御が、後の首相インディラ・ガンディ夫人その人です。
2011.05.27
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クロニクル 東名高速全通 1969(昭和44)年5月26日42年前になるのですね。東名高速道路、全長346,7kmがこの日全面開通しました。 名神高速は既に全通しており、ここに東京から神戸までが高速道路で結ばれたことになります。東海道新幹線の開業が1964(昭和39)年10月でしたから、新幹線に遅れる事4年と約8ヶ月にして、高速道路があとを追ったことになります。 当時、日本のモータリゼーションは、猛スピードで整備されつつありましたが、なお外車との差は大きく、石油ショックで小型低燃費の日本車が海外でもてはやされる日が来るとは、誰も夢想すらしない日々の中での出来事でした。
2011.05.26
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クロニクル 『広辞苑』初版刊行1955(昭和30)年5月25日現在から56年前にあたるこの年は、歴史的な敗戦から間もなく10年という節目の年でした。その56年前のこの日、中型国語辞典として、現在まで版を重ね、この頃は携帯機器に「電子辞書」のかたちで収録されることも多い、岩波書店発行の『広辞苑』の初版が刊行されました。戦後10年の節目にあたる日本社会は、戦後の混乱期をようやく抜け出し、世相も落ち着きを見せ始めていた頃でしたから、久し振りの重厚な国語辞典の登場は歓迎されました。そのため『広辞苑』は、収録語数の多い分厚い書物にしては珍しく、とても良く売れました。こうして『広辞苑』は、次々と版を重ね、現在は収録語数2,4000語の『第6版』が、書店に置かれていますね。
2011.05.25
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チュニジアからエジプトへ…(70) シリアが揺れています。バッシャール・アサド大統領と政権幹部は、デモ隊の武力鎮圧を支持し、多くの死者が出ています。デモ隊も、数多くの犠牲者を出しながらも、屈服する気配を見せず、デモ参加者も減少の気配を見せません。いわば、シリアは第2のリビアになる可能性も出てきました。しかし、シリアのアサド大統領は、父から権力を受け継いだ2世の大統領であり、リビアのカダフィ大佐のような強力なリーダーではなく、父のハーフィズ・アサド大統領時代の政権幹部の支えで、政権を維持していると指摘されている点で、リビアとは大きな違いがあります。そこで、先ずシリアのアサド政権の成り立ちを垣間見ることにしましょう。シリアでは1963年のクーデタで、世俗主義に立つバース党政権が誕生しました。ここで、ハーフィズ・アサドは国防相に就任します。66年からは空軍司令官を兼任しますが、67年の第3次中東戦争では、イスラエル空軍の先制奇襲攻撃で、エジプトと共に空軍機の大半と飛行場を破壊され、イスラエルに制空権を握られて大敗します。その結果、ゴラン高原を奪われ、現在も占領されたままとなっています。この大敗後、バース党は、イスラエルへの復讐を急ぐべきだとする急進派と、宿敵に打ち勝つだけの国力と軍事力を養うのが先決で、今は穏忍自重の時だとする穏健派に分裂します。アサドは穏健派のリーダーとなり、1970年にクーデタを敢行して急進派を一掃します。こうして政権を握ったアサドは、翌71年に国民投票を経て、大統領に就任しました。彼の権力は、エジプトのサダト大統領と組んでの第4次中東戦争で、イスラエルの不敗神話を崩したことで安定します。その後は、国内の不満を抑え、独裁権力を確立したのですが、80年代に入ると健康不安に悩まされるようになり、その都度不穏な動きを見せた幹部を更迭するなどして、凌ぐようになりました。彼は、健康不安に悩まされると共に、長男バーセルを後継者と定め、英才教育を施していたのですが、その長男が1994年に事故死したため、慌てて次男のバッシャールをロンドンから呼び戻して後継教育を施すようになったのです。なんだか、長男でも次男でもなく、まだ20数歳と政治経験に乏しい3男の金正恩を、後継者にせざるを得なかった、金正日を思い出させますね。 続く
2011.05.24
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クロニクル 売春防止法公布1956(昭和31)年5月24日55年前の今日、売春防止法が官報に公布され、翌57年の4月1日から施行されることとなりました。ここに、売買春は共に違法行為とされ、共に処罰の対象とされることになりました。このため、各地の赤線地帯は表面的には消滅しましたが、次第に様々な抜け道が用意され、有名無実の存在と堕した。今日では、「援助交際」なる言葉まで登場し、罪悪感の全くない状況が生じており、「性の商品化」は新段階に入っていますが、この状況の続く限り、人間の解放は、なお道半ばで留まってしまっています。
2011.05.24
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チュニジアからエジプトへ…(69) オバマ大統領が、イスラエルに対して、ヨルダン川西岸からの撤退を促した背景には、エジプト革命によるムバラク大統領の失脚があります。イスラエル寄りだったムバラクの失脚は、イスラエルの足元を掬いました。イスラエルにとってハマスは脅威です。ハマスがが支配するガザを経済封鎖によって追い詰め、ガザの住民に反ハマスのクーデタを起こさせようというイスラエルの戦略は、結局失敗に終りました。イスラエルの設けた壁に囲まれたガザは、経済封鎖に耐え抜きました。エジプトの暫定政府は、間もなくハマス封じ込めのためのエジプト側ゲートを解放するでしょう。ゲートが解放されれば、ハマスは一気に勢いづきます。シリアとハマスで、南北からイスラエルを挟み撃ちすることも可能になります。イスラエルにとって、レバノンのヒズボラを追い詰めようと出兵した末に、成果なく撤退した2006年のレバノン戦争の悪夢が甦るかもしれません。おそらく、オバマ大統領はそこを見透かしたのでしょう。一見強気に振舞っているように見えますが、ネタニヤフ首相は剣ヶ峰に立たされているように見えます。彼はどこまで突っ張り続けることが出来るでしょうか。アラブ世界が、米・イスラエル連合の力に屈し、屈辱的な譲歩を続けざるを得なかった状況は、かなりのスピードで過去のものとなりつつあります。それが現在進行中のアラブ世界の革命の真実です。サウジアラビアの親イスラエル政府が倒れた後では、イスラエルが中東の地で存続することは、おそらく難しいでしょう。イスラエルが方針を転換し、アラブ世界との共存を本気で希求しない限り、中東の地で平和的にイスラエル国家を存続させることは難しい。オバマ大統領の勧告は、こう語っているように、私は受け止めています。 続く
2011.05.23
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クロニクル 個人情報保護法成立2003(平成15)年5月23日8年前のこの日、参院本会議で、個人情報保護法案が可決成立しました。しかし、ネット社会の現実の中で、例えば住基ネットの情報すら,外部からアクセスして、情報を盗み出せるといったことや、お店の端末から顧客のカード情報が流出するとか(私のカードも2度ほど、カード会社からの連絡で、ナンバーが替わりました)、子ども達の年齢に合わせてのしつこ過ぎる電話等での勧誘(ランドセルだ、塾だ、リクルートルックだ、振袖だと、いった公害電話がやっと終って、ヤレヤレと思いましたら、今度は私が60歳を過ぎた途端に、やたらとお墓を買わないかという電話が増えて……)などその筋の業者には、しっかり情報が漏れていますね。面白いのは、そうした公害を攻撃しないで、学校や地域のスポーツクラブの電話連絡網や地域団体の名簿に、自宅や個人の住所やケータイ番号を記載することを、個人情報を盾に拒否する方が増えていることです。人の権利意識がいかに捻じ曲げられているかが、垣間見えますね。権利を主張するところがずれているように感じられてなりません。学校の場合、学校中にに配れば問題でも、クラスや学年内の連絡網は、個人情報保護の対象外、町内会やサークルの名簿や連絡網も対象外です。 そして何よりも、遠い親戚よりも近くの他人。隠したところでたかの知れている家庭内の事ぐらい、堂々オープンで近所付き合いする方がいかに気楽か、不意の災害に備える意味でも程よく近い近隣関係を築くことの大切さは、この度の大震災を経て、多くの方が感じられているのではないでしょうか。皆さんのお近くは如何ですか。
2011.05.23
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チュニジアからエジプトへ…(68) ヨルダン川西岸を、入植地を含めて全て変換せよという、オバマ大統領の勧告を、ネタニヤフイスラエル首相は、ただちに拒否する声明を発表しました。何故そこまでイスラエルが強硬なのか考えて見ましょう。イスラエルの国土は、占領中のヨルダン川西岸やゴラン高原を加えても、日本の四国ほどの面積しかありません。南北に細長い国土で、一応友好条約を結んでいるヨルダンとエジプトを加えると、八方を敵方のアラブ諸国に囲まれています。西岸を手放してしまうと、細い所では、国土の東西の幅は、わずか10数キロになってしまいます。国防上、このうえなく危険に映ります。東と西から挟み撃ちされれば、お終いです。周辺国は敵ばかりですから、逃げ出すこともできません。オバマ大統領が返還を勧告した西岸は、ヨルダン川の西岸に位置することからこう呼ばれるのですが、愛媛県とほぼ同じ面積です。この西岸を、イスラエルは第三次中東戦争の際に、軍事占領したのですが、そこに入植地を建設して、自国民を住まわせているのですが、このことは、国際法違反として、国際社会からの批判にさらされています。ユダヤ人の国土への執着は、異常なほどに強く、我々の理解を超えているように思われます。イスラエル政府の要人や外交官は、西岸の返還について、尋ねられると、「西岸を失うことは右腕を失うのに等しい」「とても考えられない」などと、異口同音に答えると聞きます。イスラエルが、国土防衛上手放せないとする西岸に、彼らは次々と入植地を建設し、今や約30万人が住むに至っています。彼らは、国際的な非難にもかかわらず、西岸を国土としてしまおうと、ひたすら既成事実化する路線をひた走っているのです。 続く
2011.05.22
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クロニクル 鎌倉幕府滅亡1333(元弘3;正慶2)年5月22日678年前ですか(元号の前は南朝、後は北朝の元号です)、この日、鎌倉の北条氏の政権が倒れ、源頼朝が樹立した鎌倉幕府は141年目にして、倒れました。下野の国の幕府の有力御家人足利高氏は、この年4月、北条氏の度重なる無理強いの出陣命令に怒り、反幕府の姿勢を鮮明にし、京都の天皇監視機関である六波羅探題を攻撃、5月上旬、これを陥落させました。こうした中、上野の国の有力御家人新田義貞は、3月まで反幕府派の討伐に加わっていましたが、幕府の戦費調達名目での、立て続けの資金提供の強制に怒り、反幕府の陣に加わる事を決意し、5月8日に倒幕の兵を上げました。新田軍は破竹の進撃を続け、17日には鎌倉附近に進出、総攻撃の準備を整えました。この日義貞の本隊は、稲村ガ崎から海沿いに鎌倉に侵入、執権北条高時らは、東勝寺で自刃し、ここに鎌倉幕府は滅亡しました。この後2年は、後醍醐天皇らによる公卿政治となりますが、時代錯誤の守旧派支配は、武力の担い手である御家人層の離反を招き、僅か2年足らずで、権力の座を追われることになります。現実社会の変化を見定め、現実に適合的な支配を実現する事の重要性を、遂に理解できなかった政府は、国民と社会に混乱を残したまま、再び武家の支配にバトンを譲って、退場するしかなかったというのが、歴史の真実でした。
2011.05.22
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チュニジアからエジプトへ…(67)米国のオバマ大統領が、イスラエルに対し、「ヨルダン川西岸の入植地を放棄し、第三次中東戦争前の国境線を確定せよ」という主張を、明快に述べ話題を呼んでいます。国連では、ヨルダン川西岸のみでなく、ガザ並びにゴラン高原(シリア領です)からも撤退すべきであるという国連決議が、早くから採択されています。それゆえ、これらの占領地から撤退しないイスラエルの行為は、明白な国連決議違反でした。このイスラエルの居直りを支えてきたのが、歴代のアメリカ政府でした。こうした代々の米政府の方針を、オバマ大統領は部分的とはいえ(ゴラン高原からの撤退には触れていません)ひっくり返したのです。米国にとって、これは歴史的転換でした。同時に、それはイスラエルにとって、青天の霹靂でした。慌てたネタニヤフ首相は、すぐに米国に飛び、米国の親イスラエル派のツテを頼って、巻き返しを図ろうとしています。私は、こうした一連の流れの中に、米国の国力の避けようのない衰えを見ています。リーマンショック後の財政の大盤振る舞いで、売国の財政危機が進行し、これ以上の財政規模の拡大がもはや不可能となったのです。そのため、軍事ミッションの縮小を図らざるを得ないところに追い込まれています。そのため、従来のように、世界各地に大軍を派遣し、世界の憲兵の役割を果たすことが、もはや出来なくなっているのです。 続く
2011.05.21
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クロニクル 長篠の戦い1575(天正3)年5月21日この日、戦国時代史に名高い長篠の戦いが行われました。場所は長篠城の西方に位置した設楽が原。対するは織田・徳川連合軍対武田軍。織田方は、この戦いで、各隊にまたがる鉄砲を一同に集めて、3千挺と言われた鉄砲隊を組織、馬防柵を3段に構えて、交互に鉄砲を撃つことで、鉄砲の連射を行うという、優れた戦術を披露、それまで連戦連勝を繰り返していた武田の騎馬隊を、完膚なきまでに打ちのめしました。織田信長の戦術眼、鉄砲と言う新兵器の利用法を思いついた凄さが見てとれます。ところで、鉄砲はヨーロッパから日本に伝えられたものですが、この時期のヨーロッパでは、まだ3段の陣を敷いて、鉄砲を連射するという新機軸は実行に移されておりません。 威力はあっても連射能力では、弓矢に到底及ばないのが、この時代の鉄砲でした。鉄砲のこうした技術的弱点を克服したのは、実は信長だったのです。鉄砲の連射という作戦は、信長が開発し、宣教師たちを通じてヨーロッパに伝えられた,日本発の軍事革命だったのです。 ヨーロッパ世界で、信長型の鉄砲の連射を始めて実行に移したのは、30年戦争に介入したスウェーデン王ギュスターヴ・アドルフその人でした。当時のスウェーデンは、ヨーロッパ世界の北の大国でした。 30年戦争は、1618年~1648年までに及んだヨーロッパの国際戦争だったのですが、この長い戦争の中盤、スウェーデン軍がオーストリア軍に圧勝した1631年のブライテンフェルトの戦いがその舞台でした。長篠の戦いの56年後のことです。 戦国の日本は、何時の間にか鉄砲先進国になっていたのです。
2011.05.21
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チュニジアからエジプトへ…(66)従来の考え方では、「ムスリム同胞団はスンニー派の組織であるから、シーア派のイランとは相容れず、同じイスラム主義といっても、両者は水と油である」とする見解が、広く流布していました。しかし、この5月1日の米軍によるビン・ラーディン殺害に関する論評を見ると、エジプト新政権とイラン政府の反応は、驚くほど似ています。エジプトもイランも、「ビンラディンが亡くなった以上、米国や同盟国の軍隊が、イラクやアフガニスタンを占領し続ける意味な無くなったのだから、米軍や同盟軍は速やかに撤退すべきだ」と、ほとんど同じ内容のコメントを発表しているのです。米欧イスラエルによる中東支配を終わらせ、中東の国々を自立させることが、エジプトとイランの共通目標化しているように見えるのです。エジプトとイランは、スンニー派とシーア派の対立を超克して、協調していく可能性が見えてきたように思えます。ムスリム同胞団は、シリアやバーレーンでも活動しています。シリアでは同胞団がアサド政権の打倒を目指す勢力の一翼を担っています。バーレーンでは同胞団が議会で3番目の政治勢力であり、王室による民主化運動の弾圧を批判しています。イランとエジプトのムスリム同胞団は、シリアでアサド政権が打倒され、その後を巡って情勢が混沌とした場合、仲裁役となる資格を持っています。バーレーンでも、サウジによる軍事介入を牽制する役割を果たすべく、介入のタイミングを計っているように見えます。 続く
2011.05.20
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クロニクル 成田空港開港1978(昭和53)年5月20日33年前のこの日、午前10時半過ぎから、新東京国際空港(成田空港)の開港式が厳戒体制の中、ひっそりと行われました。建設決定から12年を経ての難産の開港でした。しかも横風用滑走路も、第2滑走路もない、日本の顔としてのハブ空港を目指しての開港としては、極めて中途半端な出発でした。 当日、空港周辺では、三里塚・芝山空港反対期成新東京国際空港同盟が動員した約6300余名が、空港反対を叫んで、集会を開いていました。過激派による実力行使も続き、成田空港の情報ケーブルが切断されたりとか、羽田空港の管制機能が麻痺に陥るなど、反対派との攻めぎ合いが続く中で、この日辛うじて新空港としてのスタートをきりました。
2011.05.20
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チュニジアからエジプトへ…(65)エジプトはムスリムが90%を占める国です(残り10%がコブト教徒と呼ばれるキリスト教徒です)。米国がテロ戦争と称して、強引にイラクを攻撃したことに対して、ムスリムの国々では、どこでも民衆の反米感情が、強まりました。当然エジプトもまた、例外ではありませんでした。その結果、イラク戦争の開戦後、エジプトでも民衆のイスラム信仰は、非常に強まりました。さて、エジプト軍部の役割の1つは、エジプト社会の安定を維持することにあります。そのため軍部は、今まで持っていたリベラル主義(欧米化への道)へのこだわりを捨て、イスラム的な政治体制をも、緩やかに容認していく方向に、カジ取りせざるを得なくなったのです。そのイスラム主義の諸勢力の中で、ムスリム同胞団は最も多元的で現実的な指針を示しており、、しかもエジプトで最大の勢力です。軍部が、ムバラク以後のエジプトのあり方として、ムスリム同胞団を中心とするイスラム勢力と手を組むのは、自然な流れのように思えます。エジプトの政治体制が、軍部とムスリム同胞団の協調を軸に展開するとなると、第3次中東戦争で、ナセルのエジプトがイスラエルに大敗後、下火になっていたアラブ民族主義の動きが、30年の40年の時を経て、復活する可能性が出てきます。アラブ世界には、王政や首長政をとる、サウジアラビア、クウェート、バーレーン、アラブ首長国連邦(UAE)といった国々がありますが、バーレーンの民主化運動を、サウジ軍が介入して、力で抑え込んだものの、その後は親米、親イスラエルの動きは、民衆を刺激することを畏れてか、慎重に控えられています。イランイスラム革命以後、反米を貫いてきたシーア派のイラン、政教分離を国是として、親西欧政策を続けてきたものの、ここに来て親西欧政策を転換して、反イスラエルの姿勢を鮮明にしたトルコ、そしてハマスの庇護者としての姿勢をみせつつあるエジプトと、イスラエルを包囲する三つの環が、姿を見せたといえましょうか。 続く
2011.05.19
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クロニクル 雲仙普賢岳の火砕流1991(平成3)年5月19日もう20年になるのですね。数日前から、噴煙を上げ続けていた長崎県の雲仙普賢岳で、この日大火砕流が発生。報道関係者やカメラマン、火山学者らを含む死者及び行方不明者43名を出す大惨事となりました。地元住民には数日前から避難勧告が出されていましたので、犠牲者の大半は地元の消防団等警戒にあたっていた人々と、報道関係者や火山関係者といった人々でした。火砕流が非常な高温だったため、火砕流の本流に飲み込まれた人々は、骨までも溶かされてしまったらしく、行方不明で、遺体さえ見つけられなかったケースが大半を占める、珍しい災害となりました。この後も、普賢岳の活発な火山活動が続き、9月15日には、最大規模の火砕流が発生し、家屋170棟以上が焼失しました。
2011.05.19
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チュニジアからエジプトへ…(64)ムスリム同胞団は、イスラム主義を掲げていますが、決して急進的な原理主義を奉じる勢力ではありません。エジプトのムスリムは、スンニー派に属します。もしムスリム同胞団が、原理主義を奉じる勢力ならば、シーア派の勢力であるイランとの関係改善が、僅か数ヶ月の間に、劇的に改善されることは、ありえなかったでしょう。ムスリム同胞団は、イスラム主義を掲げていますが、同胞団の規範として特筆大書されているのは、以下の4点です。(1)イスラムの教えは、あらゆる制度・システムを含む(2)政治改革における暴力の否定(3)民主主義の肯定(4)複数政党制・政治多様性の容認この規範を見る限り、「ムスリム同胞団は原理主義の組織であり、同胞団が政権に加わると、異教徒や他宗派に対する宗教弾圧が激化する」とする主張は、的を射た批判ではなく、誹謗中傷の類であると、考えざるを得ません。先日報道された、エジプトに古くから存在するキリスト教コブト派の信者(人口の約1割とされています)への暴行事件は、ムスリム同胞団の仕業と見せかけることで、同胞団=宗教弾圧のイメージを植えつけようとした、旧体制派の仕掛けだったことが、次第に明らかになってきています。今回の革命の結果、現在のエジプトでは、暫定政権を任された軍部が権力を握っています。エジプトの軍は、ナセルの時代から、政教分離(リベラル主義もしくは社会主義)を重んじ、イスラム主義の政治勢力の台頭を嫌ってきました。この立場からすると、軍部は同胞団の台頭を嫌っていることになります。事実エジプト革命が進行中だった、今年2月の欧米の報道には、そのような分析が目立ちました。事実、あの段階でのムスリム同胞団は、慎重に表舞台に出ることを避け、革命の黒子に徹する姿勢をとってきました。黒子に徹する同胞団の背中を押し、表舞台への登場を促したのは、ほかならぬ軍部でした。軍部は革命の早い段階から、組織力がある同胞団が民衆運動に加わることを歓迎し、民衆運動の暴走を抑止する役割を、同胞団に委ねたのではないかと、私は見ています。軍部と民衆運動家の対話集会に、革命後の大統領職に色気を見せたエルバラダイ氏は、招待されなかったのですが、同胞団の代表は招かれています。軍部がムバラクの政党だった国家民主党を解体したことも、同胞団に有利に働いています。これで同胞団がエジプトで唯一の大規模政治勢力となったからです。エジプト新政権が、ハマスの面倒を見るようになったことも、同胞団と軍部の親密な関係を補強しているように見えます。 続く
2011.05.18
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クロニクル 阿部 定事件1936(昭和11)年5月18日75年前の出来事です。この日東京深川区(当時)尾久町の待合「満佐喜」で、局部を切り取られた男の絞殺死体が発見されました。ほどなく男は、東京中野区で料理屋を営なむ石田吉蔵42歳と判明しました。犯行は1週間前の5月11日から、石田と共に「満佐喜」に投宿していた愛人の阿部定32歳によるものと断定され、同女は指名手配されました。定女は、前年2月に石田の営む料理屋に女中として住み込み、ほどなく石田の愛人となったのですが、家人に知られ、4月末に2人で家を出て、行方をくらましていました。「満佐喜」へ投宿後、2人は前途を悲観、定は現世で添い遂げられない吉蔵を、永遠に自分1人のものにするためには、吉蔵を殺して自分も死ぬしかないと思い詰め、この日午前2時過ぎに、眠っている吉蔵を腰紐で絞殺、最も愛しいものだった局部を牛刀で切り取り、懐紙に包んでフトコロに入れ、夜明けを待って死に場所を求めて、姿を消したのでした。しかし定は死にきれず、2日後の20日、品川駅前の旅館にいるところを逮捕されました。以上は定の供述と、家人からの聞き取りの結果から明かにされた事柄です。定は、12月に懲役6年の刑に処されました。
2011.05.18
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チュニジアからエジプトへ…(63)現在のエジプトは、新憲法による新大統領、並びに新議会選出までの暫定政権です。しかし、現在の軍部とムスリム同胞団の関係を見ると、両者の蜜月は当分の間、続きそうに見えます。そうでなければ、軍部中心の暫定政権は、パレスティナのハマスとファタハの和解を推進したり、イランとの関係改善に動くといった、ムバラク政権時代の外交方針の大転換を、いともスムーズに成し遂げることなど、とてものことに不可能です。今後もエジプト軍は、国家安定の要の役割を果たし続けるでしょうし、最大の政治勢力に躍り出たムスリム同胞団は、軍部との親密な関係を崩さず、急進的な原理主義とは距離を置くものと思われます。ガザのハマスを説得して、ファタハの和解に道を開いたことは、エジプト軍に対する穏健路線継続のサインでもあったと、私は考えています。エジプトのムスリム同胞団は、ムバラク政権下では、政党活動を禁じられていました。ムバラク追放後、その禁が解かれ、4月末に「自由公正党」という政党を創設しました。創価学会が公明党を創設したケースを連想すると、理解はしやすいと思います。両者の最大の違いは、組織の規模にあるとお考え下さい。こうしてムスリム同胞団は、9月の議会選挙に向けて、全議席(508議席)の半分をとるという、些か大きすぎる目標を掲げました。同胞団はそれまで、全議席の3分の1議席を確保することを目標として板のですから、大幅に目標の上方修正をしたことになります。この目標が達成されるかどうかは、今後の動静にかかるわけですが、ここで大切なことは、今まで弾圧を恐れて、控え目に控え目に、目立たぬように勢力の維持を目指してきたムスリム同胞団が、従来の姿勢を転換して、白日の下でノビノビと、自派の目標を広言するようになったことです。ここには、弾圧を恐れて、言うべきことを控えるといった、従来の姿勢は、影を潜めています。獲得議席数は分りませんが、ムスリム同胞団系の「自由公正党」がエジプト議会の最大勢力になり、軍部との蜜月を背景に、政権運営に関わっていくことは、ほぼ間違いのないところでしょう。 続く
2011.05.17
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クロニクル りそなグループに公的資金投入2003(平成15)年5月17日8年前のことです。この年4月末、りそな銀行グループに公的資金の投入を決定していた政府は、この日投入額を約2兆円と決定、即日投入しました。長銀や日債銀のように、1時国有化もせず、経営責任も問わないという、まるで二重基準の最たるものだったことは、同年秋に足利銀行を破綻認定して、1時国有化した時点で明瞭になりました。 りそなは破綻状態にあらずというのが、政府と金融庁の公式見解でしたが、破綻状態にないとすれば、2兆円もの公的資金を投入する必要性を明確にすることは出来ず、いつも簡潔明瞭な答弁をしてうた竹中大臣が、極めて歯切れの悪い答弁をしていたのが、印象的でした。 しかし、この年4月末を底に、13年間下げ続けてきた日本の株式市場に転機が訪れたことは確かでした。それは、りそなの経営責任を問わずに、大量の公的資金を投入するという事実に、形振り構わず金融危機を収束させるのだという、日本政府の強いメッセージを感じとった世界の経済界が、挙げてその措置を支持したからでした。日本経済がなお緩やかながら、復活への道を歩み出すきっかけとなった出来事でした。
2011.05.16
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クロニクル 第1回アカデミー賞授賞式1929(昭和4)年5月16日今から82年前、10月に始まる世界大恐慌の開幕まで5ヶ月少々という時期でした。この日、カリフォルニア州ハリウッドのローズヴェルトホテルで、今や大変有名なアカデミー賞の、第1回授賞式が行われたのです。司会はダグラス・フェアバンクス。1927年から1928年7月31日までに公開された映画がノミネートの対象とされました。作品賞は『ツバサ』、監督賞は『第七天国』のフランク・ボーゼイジ 。我々に馴染みのある名前では、特別賞受賞者欄に「チャールズ・チャップリン』の名があります。
2011.05.16
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チュニジアからエジプトへ…(62)ところで、エジプト新政権は、イランとの関係改善も進めています。ムバラク失脚直後に、イラン艦船のスエズ運河通過を認めたのが、その兆候でした。米国からの援助に頼り、私腹を肥やすことに熱心だったムバラク政権には、出来なかったことです。新生イラクとの関係も改善しようとしているように見えます。アメリカのイラク占領が実質的に失敗している状況や、リーマンショックによる財政破綻によって、米国の覇権は衰退に向かい、変って中東にはイスラム主義の高揚などの変化が起きました。それを受けて、エジプト軍や政界、世論の中に、米国やイスラエルの傀儡から脱して、かつてのような中東のオピニオンリーダー役を、演じるべきだという考え方が強まリました。しかし、エジプトの権力がムバラクに握られている間は、国是の転換ができなかったのです。 続く
2011.05.15
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続・チェルノブイリと福島と…4月26日~28日にかけ、文部科学省は」福島県の学校における園児・児童・生徒が受容しうる放射線量の限度について。年間20ミリシーベルトという数字を発表しましたこのことについて、日本医師会が、5月12日付けで再考を求める見解を発表しました。以下に全文をコピペしました。http://dl.med.or.jp/dl-med/teireikaiken/20110512_31 pdf 平成23 年5 月12 日 文部科学省「福島県内の学校・校庭等の利用判断における暫定的な考え方」 に対する日本医師会の見解 社団法人 日本医師会文部科学省は、4 月19 日付けで、福島県内の学校の校庭利用等に係る限界放射線量を示す通知を福島県知事、福島県教育委員会等に対して発出した。この通知では、幼児、児童、生徒が受ける放射線量の限界を年間20 ミリシーベルトと暫定的に規定している。そこから16 時間が屋内(木造)、8 時間が屋外という生活パターンを想定して、1 時間当たりの限界空間線量率を屋外3.8 マイクロシーベルト、屋内1.52 マイクロシーベルトとし、これを下回る学校では年間20 ミリシーベルトを超えることはないとしている。しかし、そもそもこの数値の根拠としている国際放射線防護委員会(ICRP)が3 月21 日に発表した声明では「今回のような非常事態が収束した後の一般公衆における参考レベルとして、1~20 ミリシーベルト/年の範囲で考えることも可能」としているにすぎない。この1~20 ミリシーベルトを最大値の20 ミリシーベルトとして扱った科学的根拠が不明確である。また成人と比較し、成長期にある子どもたちの放射線感受性の高さを考慮すると、国の対応はより慎重であるべきと考える。成人についてももちろんであるが、とくに小児については、可能な限り放射線被曝量を減らすことに最大限の努力をすることが国の責務であり、これにより子どもたちの生命と健康を守ることこそが求められている。国は幼稚園・保育園の園庭、学校の校庭、公園等の表面の土を入れ替えるなど環境の改善方法について、福島県下の学校等の設置者に対して検討を進めるよう通知を出したが、国として責任をもって対応することが必要である。国ができうる最速・最大の方法で、子どもたちの放射線被曝量の減少に努めることを強く求めるものである。
2011.05.15
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クロニクル マクドナルド事始 1940(昭和15)年5月15日71年前の今日のことです。アメリカ合衆国カリフォルニア州南部のサンバーナーディーノで、マクドナルドの1号店が、ひっそりと開店しました。ただし、マクドナルドの快進撃が始まるのは、戦後の1948年頃からのことになります。
2011.05.15
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チュニジアからエジプトへ…(61)パレスティナで、ハマスとファタハの和解が定着し、連立政権が平穏にスタートするなら、9月の国連総会で、パレスティナ国家が昇進されることは、先ず間違いのないところのように思えます。パレスティナ国家が成立すれば、西岸やガザに入植地を抱えるイスラエルは、他国の土地を占領している侵略国家だとみなされることになります。国連総会では、「ただちにパレスティナに返還すべし」という勧告が、間違いなく圧倒的多数で可決されるでしょう。イスラエルに対する経済制裁を実行するには、軍事力の行使が許されている安保理の決議が必要で、それはアメリカの拒否権で否決されるでしょうが、イスラエルの立場は、従来に比べて格段に悪くなり、リーマンショック後落ち目になっているアメリカの威信も、さらに傷つくでしょう。エジプトがハマストファタハの和解を仲介し、パレスティナ統一政府の実現に道を開いたことは、エジプト暫定政権のアラブ世界での権威を高め、イスラエルを窮地に追い込んだことになりますが、同時にイスラエル政府をして、ファタハと和解したハマスとの関係改善を計ることが、エジプトに仲介を依頼すれば、可能となることを意味します。それには、イスラエルの和平派=柔軟派が、強硬派を抑えて政権を担当することが必要ですが、もしそうした変化が、パレスティナ情勢の急変のなかで、実現する可能性も僅かながら生まれつつあるようにも思えます。今後の情勢から、目が離せません。 続く
2011.05.14
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クロニクル 紀尾井坂の変 大久保利通暗殺1978(明治11)年5月14日この日、参議兼内務卿大久保利通が、東京紀尾井坂下で、西郷シンパの6名の旧士族に襲われ、斬殺されました。この日大久保は、霞ヶ関の自宅を出て、赤坂仮御所で行われる、陸・海軍将校への勲章授与式に向かう途中でした。犯人らはその足で自首しましたが、かねて木戸・大久保ら内治優先派の政権独占に反感を抱き、西郷らの征韓派と気脈を通じていたのですが、木戸は病死し(1877年5月26日)、西郷ら征韓派は戦いに敗れ、政権内での大久保の立場が揺るぎ無いものになっていたことに焦り、この日の凶行に及んだのでした。この時大久保は49才、生きていれば、その後の自由民権運動の隆盛に、どのように対処したのかを見たかった気のする、初期明治政府のバランスのとれた政権運営を主導した人物だけに、惜しまれる最期だったと、私は受けとめています。ここに明治政府は、西郷・木戸・大久保に岩倉具視ら、維新の功臣第1世代から、伊藤博文、山形有朋ら第2世代の時代に大きく転換していきます。私は、彼等維新の元勲と呼ばれる日本史の巨星たちの凄さの一つは、政治を私物化せず、自らの子ども達を誰1人として後継者にしなかったことにあると受けとめています。岩倉や三条ら公卿出身の功臣も皆同様です。後継者は後事を託すに足る最も優れた人物とする。その意志は終生変わらなかったこと、私利私欲よりも広く国家に奉仕する、その姿勢がぶれなかった点にあると、受けとめています。教育事業の整備を急ぎ、次代を担う人材の育成に心を砕き、適材を配して、その事業を委ねた姿勢を、特に昨今の内外の情勢との対比で、高く評価しています。ところで、大久保暗殺の後日談を一つ。自首した暗殺犯6名は、所持していた斬かん状(犯行声明)を提出、新聞社にも送っていたのです。翌日の「朝野新聞」が、その全文を掲載したので、その事実が明らかになりました。「朝野新聞」は、ただちに政府によって、発行停止処分を受けました。この後、自由民権運動が活発になるに連れ、民権派の新聞の発行停止処分は増えて行きますが、「朝野新聞」の発行停止処分は、日刊新聞の発効停止第1号の栄誉を担ったのです。最近の大新聞には、こうした気概は感じとれませんね。
2011.05.14
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チュニジアからエジプトへ…(60)パレスティナのハマスとファタハは、エジプト新政府の調停を受け入れ、和解しました。チュニジアやエジプトの革命を目撃して、ファタハのアッバスは、米・イスラエルの言うことを聞いていたのでは、西岸における権力すら維持できないことを悟ったのです。そんなアッバスにとって、ハマスとの関係修復に手を差し伸べてくれた、エジプト新政権の仲介は、まさに渡りに船だったのです。イスラエルでは、対パレスティナ強硬派の右派の勢力が強く、パレスティナとの和平を目指す勢力は、右派の推進する西岸での入植地の拡大を阻止できないでいます。この事実は、アッバスらファタハのメンバーも知るところです。そこでファタハのアッバスらは、イスラエルの顔色を覗うことをやめ、エジプト新政権の仲裁を受け入れて、ハマスと手を組み、秋の国連総会の席で、パレスティナ国家の承認を取り付ける道に踏み出したのです。米国や英国が拒否権を持つのは、そして拒否権が有効なのは、安全保障理事会のみです。総会には拒否権は効きません。ですから、西岸とガザをパレスティナ国家として承認し、パレスティナ自治政府がその血を実効支配していると、総会が認めれば、パレスティナは正式に国家として承認されたことになります。エジプト新政府は、他のアラブ諸国を誘って、9月の国連総会にパレスティナ国家の承認を共に同提案することを、ファタハとハマスに伝え、両者の和解を促したのです。パレスティナが正式の国家として承認されると、イスラエルの立場ははなはだ悪くなります。ですから、イスラエルとアメリカは全力でそれを阻止しようとするはずです。しかし、パレスティナ問題でのイスラエルの行動の悪辣さについては、国際的に広く知られています。それゆえ、パレスティナの国家承認に反対票を投じる国は、国連加盟国192ヶ国のうち、せいぜい10数カ国に留まるだろうと、予測されているのが現状です。日本政府がどう対応するのか、見ものですが、米国の要請を無視できず、かといって世界を気にすると反対票を投じることもできず、せいぜい棄権に回るのが良いところでしょうか。そうだとすると、なんとも情けないですね。 続く
2011.05.13
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クロニクル 五月革命始まる1968(昭和43)年5月13日43年前になりますね。43年前のこの日、パリ大学のナンテール分校の学生を中心とした、パリの学生と労働者がゼネストを決行しました。きっかけは、3月22日に、ナンテール分校で学内の待遇改善を要求する学生のグループが、大学当局の禁止令を無視して集会を決行、大学側が導入した警官隊と衝突して、流血の惨事が引き起こされたことでした。この事件に反発した学生たちは、5月2日に至って校舎を占拠し、これに対抗いた大学側は、翌3日に大学を封鎖する挙に出たからたまりません。伝統的にフランスの学生は、反権威、反権力の色彩が濃く、労働運動とも近しい関係にありましたから、ナンテール分校当局の警官隊を導入しての学生の排除は、呆れるほどの愚行でした。問題の根は、当時フランス病とも言われた、フランス経済の不振を、高等教育を受けた質の高い労働力の不足にあると考えたドゴール政権が、大学拡充政策を取り、学生数の急拡大に踏みきったことにありました。パリ大学のナンテール分校も、この一環として新設されたものでした。この学生数の急増に、施設の整備が追いつかず、施設面での学生の待遇が極端に悪化していたのです。学生たちはこの点と、ドゴール政権による集権化の動き、社会的な管理強化の進行にも関わらず、いっこうに改善しない経済不振などに不満を募らせ、異議申立てに立ちあがったというのが、真相でした。こうした学生によるノンの動きに、彼等の行動の背景を分析することもせず、施設面の待遇の悪化の改善策の説明もせず、警察の力まで借りて抑えこもうとした大学当局の姿勢は、完全に裏目に出ました。抗議の声は、パリ大学の本拠ソルボンヌに波及、同じく経済不振に悩まされている労働階級にも広がり、この日のゼネストとなったのです。この動きは、ほぼ1週間程で、全フランスに波及し、およそ1年近くに及ぶ、ロングランの運動となって、ドゴール政権の屋台骨を揺さぶり、翌年4月、遂に権勢を誇ったドゴール大統領を辞任に追い込むことに成功するに至ります。こうしてこの運動は五月革命と呼ばれることになりました。五月革命で特筆されることは、この革命の結果として、当時のフランス社会において、最も大きく変化したことが、女性の社会進出を可能とする諸改革が一挙に実現した事でした。五月革命は、女性の社会進出を大いに促進する役割を果たしたのです。同じ時期、日本では東大と日大の学生闘争が次第に広がりつつありました。日本とフランスの怒れる学生たちの異議申し立ては脚光を浴び、駿河台はソルボンヌ地区をもじって、日本のカルティエ・ラタンと呼ばれました。
2011.05.13
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チュニジアからエジプトへ…(59)親米・親イスラエルのムバラク政権は、イスラエルの意に添ってガザの封鎖を続けましたが、エジプトの世論は同胞であるパレスティナ人の側にあり、圧倒的に反イスラエルの立場をとり、次第にイスラエル寄りのムバラク政権への批判を強めました。ここに至って、エジプト政府内からもも、ガザに対する人道支援を強めるべきだという見解が強まりました。そこでムバラクは、ハマスが国境の壁を自ら壊すなら、しばらくの間それを黙認するという手に出たのです。もう3年以上前のことになりましたが、2008年1月23日、ハマスはエジプト軍の黙認の下に、ガザとエジプトとの国境の壁の一部を破壊し、エジプトとの自由通行を実現しました。その期間は僅か1週間で終わり、再び壁によって通行は遮られてしまったのですが…。イスラエルは、ガザとエジプトの通行が自由になると、エジプトのイスラム過激派によって、ガザに武器が送り込まれ、自国にに対する砲撃が強まることをと懸念しています。実際にガザには、統治者のハマスの外に、中小のイスラム武装勢力が複数あり、そうした勢力の多くは、ハマスよりも過激で、ハマスの制止を無視してイスラエルに砲弾を撃ち込む存在なのです。イスラエルは、そのことを知っているのです。エジプトの暫定政権は、イスラエルの懸念に応えるため、ガザに治安当局者を派遣し、ハマスの治安維持部隊を訓練し、ハマスが中小の武装諸勢力に対する取り締まりを強化できるように協力もしています。エジプトの暫定政権は、パレスチナ人が実質的な国家運営を行なうことができるよう、後見人の機能を果たし始めているのです。 続く
2011.05.12
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クロニクル 四川省大地震発生2008(平成20)年5月12日東日本題震災の記憶が、生々しい昨今ですが、最近は世界各地で災害の頻度が高いようですね。今年に入っても、オーストラリアの水害、ニュージーランドはクライストチャーチの震災、そして3,11の東日本大震災です。そして3年前の今日、中国はパンダのふるさと、四川省で大震災が発生しました。北京五輪の開幕を4ヵ月後に控えてのことでした。地震によって道路や電力・水道・通信などライフラインが広い地域で寸断されました。同年7月22日の中国民政部の報告では、前日21日正午現在の、この地震による死者は6万9197人、負傷者は37万4176人に達し、1万8222人がなお行方不明ということでした。家屋の倒壊は21万6千棟、損壊家屋は415万棟に達しました。中でも学校校舎の倒壊が四川省だけで6898棟に上り、校舎倒壊による教師と生徒の被害が犠牲者全体の1割以上を数えたため、学校建築における耐震基準の甘さと手抜き工事の横行が指摘されました。被害数値は、その後も何度も修正され、11月21日の四川省の発表では、生徒の死亡者数を1万9065人とされ、9万人以上とされる死者、行方不明者全体の2割を超えていました。地震により避難した人は約1514万7400人、被災者は累計で4616万0865人に達したとされています。
2011.05.12
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チュニジアからエジプトへ…(58)選挙に勝利したハマスに対し、米国とイスラエルの後押しを受けて、政権を譲ることを拒み、ガザからは追われたものの、ヨルダン川西岸の地を支配し続けるファタハは、当然ハマスに対して敵対的な姿勢をとり続けます。しかも、そうしたファタハとアッバス議長の後ろ盾になっているのが、アメリカとイスラエルですから、当然ファタハとアッバスは、イスラエルに対して強い姿勢をとることなど、できません。ウィキリークスの暴露で明らかになりましたが、アッバスの政府は、西岸即ちパレスティナの支配領域の中に、イスラエルが入植地を拡大することを認める譲歩まで、こっそりとしていたのです。こんな状態でしたから、ファタハとハマスとの和解など、考えられない状態が続き、そのことがイスラエルにとって、都合の良い事態を生んでいました。ところが、エジプトの政変により、米国とイスラエルに協力的だったムバラク政権が崩壊しました。エジプトの暫定政権が成立して、僅かに2ヶ月しか経過していません。その2ヶ月でエジプト新政権は、ファタハとハマスの仲裁に成功し、両者の和解を纏め上げました。ファタハのアッバス議長(兼大統領)と、ハマスの指導者マシャール氏が、カイロに招かれ、5月3日に和解合意文書に署名したのです。この合意を受けて、エジプトの暫定政権は、近いうちにガザとエジプトの間の国境を恒久的に開放すると、発表しました。イスラエルの要請を受けて、ムバラク政権が続けてきた、ガザ封鎖が終わりを告げ、エジプトとガザの国境が開放されることが明らかにされたのです。実は、1979年にイスラエルがシナイ半島を返還してエジプトと和解し、国交を結んだ際に、イスラエルはエジプトとガザのパレスチナ人が結託することを恐れ、ガザにパレスティナ自治政府の存在を認めた後も、エジプトとの国境線に数百メートル幅のイスラエルの占領地を残すことを認めさせ、エジプトとガザを分断してきたのです。イラク戦争後、中東全域におけるイスラム主義の高まりを見て、ガザを封じ込めておくことの無理を痛感したイスラエルは、2005年にガザとエジプトの国境線を自ら警備することを放棄し、全てをエジプトのムバラク政権に押し付けたのです。ムバラク政権は、イスラエル同様イスラム主義の台頭を懸念していましたから、ガザとエジプトとの国境を開放することをせず、イスラエル同様、ガザを封じ込めてきたのです。その封鎖が、いよいよ本格的に壊されようとしているのです。これは大きな変化です。 続く
2011.05.11
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クロニクル 小沢一郎、民主党代表を辞任2009(平成21)年5月11日2年前のことです。この日小沢一郎民主党代表が、公設秘書の逮捕を受けて、民主党代表の座を辞任しました。後任には、鳩山由紀夫幹事長が、就任。8月30日の衆院選に勝利して、民主党内閣を作りました。
2011.05.11
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チュニジアからエジプトへ…(57) 4月17日から、このシリーズと御無沙汰しておりました。日本の震災やアジアのことに気をとられているうちに、中東と北アフリカでも、随分と動きがありました。その筆頭に上げられるのが、パレスティナにおけるハマスとファタハの和解です。これはイスラエルにとって、大きなショックであり、衝撃だったろうと思います。ファタハは、PLO(パレスティナ解放機構)の中核として、アラファト議長が長く指導者の座にありましたが、彼の死後アッバス議長が、その座を次いで今日に至っています。そのファタハは、パレスティナ自治政府の誕生後、自治区の権力を握ったアラファト1派が汚職にまみれ、自治区のパレスティナ人の支持を失いました。その間隙を突いたのがハマスでした。ハマスは、貧しい住民に対する医療や教育の提供などによって、支持を集め、2006年のパレスティナ議会選挙では、ファタハに圧勝しました。対イスラエル強硬派のハマスの台頭は、そのままパレスティナ人の気分を反映したものでした。しかし、それはイスラエルとイスラエルを支援するアメリカ政府にとって、好ましからざる事態でした。そこで、アメリカとイスラエルは、アッバスを焚き付け、選挙結果を無視して、パレスティナ自治政府大統領の座に、留まり続けるように仕向けたのです。アッバスは、開催すると票決で敗れることから、議会を1度も開くことなく、任期はとっくに切れているにも関わらず、いまだに大統領に居座り続けているのです。こういう議会政治を無視した非民主的なやり方は、常日頃アメリカが非難してやまない、非民主的国家のやり方そのものです。それを、ことパレスティナについては、何も言わずに認めてしまっているのです。ところで、選挙に勝利したにも関わらず、アメリカとイスラエルの横やりで、政権に就くことを妨害されたハマスは、07年の夏、実力でガザ地区の権力を掌握し、ファタハを追い出したのです。それ以来、パレスティナでは、ヨルダン川西岸地域をファタハが統治、ガザ地域をハマスが統治するという分裂状態が続いているのです。中東和平を進めたくないイスラエルは、パレスティナの分裂状態が続くことを、ひそかに望んでいるように見えます 続く。
2011.05.10
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クロニクル 怪人21面相の脅迫状登場1984(昭和59)年5月10日この日、怪人21面相と名乗った人物からの脅迫状が、一斉に報道機関に送りつけられ、大騒ぎとなりました。グリコ社長の誘拐に始まった世に聞こえた未解決事件、グリコ・森永事件は、この日から本格化しました。脅迫状は「グリコ製品に毒物を混入した」という内容でした。報道を見て、消費者はグリコ製品をかわなくなり、スーパーなどは棚からグリコ製品を撤去する騒ぎとなりました。この騒ぎは、6月に犯人側の「グリコ許したる」の声明で、突然終止符を打ちましたが、9月に森永製菓へターゲットを替えて、再び表舞台に登場します。10月には、「毒入り危険」と記した紙をつけた菓子が、スーパーの棚に置かれるなど、消費者心理を冷え込ませる、巧みな脅しを展開しました。脅された会社は、他に丸大食品、ハウス食品、不二家と5社にのぼりました。被害が突出したのが、グリコと森永だったために、グリコ・森永事件と称されます。大手菓子メーカーでは、明治製菓とロッテがターゲットにされなかったですね。
2011.05.10
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続・ウサマ・ビンラーディンの死ビンラーディンの死。色々と続報が入ってきました。米軍兵士に射殺されたのが、本物のビンラーディンだったのかどうかは、少々怪しげな雰囲気も出てきました。しかし、射殺された人物が本物か否かは、現在に政治状況の中では、ほとんど意味を持ちません。仮にビンラーディンが生きていたとしても、今の彼は、政治的な影響力を失って久しく、既に過去の人だからです。2007年以降、彼の映像や肉声は全く流れず、死亡説も色濃く流れていました。そこを今回、米国とオバマ大統領は、大々的に彼の射殺を報じました。これは、おそらくアフガンからの撤退をスムーズに運び、軍事費を大幅に削減することで、財政赤字の削減を進めることを狙ってのものでしょう。そのために、9,11の首謀者と米政府が認定し、米国民の多くがそう信じているビンラーディンを、米国民の納得する形で、亡き者にすることが必要だった。こういう政治ショーの筋書きに沿って、軍の急襲と彼の射殺が発表されたのでしょう。この場合、大統領と軍部が彼の死を認定し、もはやビンラーディンはこの世に存在しないと、断言し、米国民の多くがそれを信じることが大事なのです。そして、大成功の宣伝は、見事に功を奏し、アフガンからの撤退を念頭に、派遣米軍を縮小する話が、早速進行しそうな雰囲気になっています。歴史的にもいくつもあることなのですが、例えば豊臣秀頼は、本当に秀吉の息子であったか否かではなく、本人と周囲がそう信じていたがゆえに、彼は秀吉の息子あり、豊臣家の跡取りだったのです。家康はその事実に脅威を感じ、彼を亡き者にせざるを得なかった。こういうことなのです。その意味で、確かにビンラーディンは、あの日殺されたのです。これも国際政治なのですね。
2011.05.09
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クロニクル 原水爆禁止杉並アピール発表1954(昭和29)年5月9日この日、東京杉並区の主婦達が、「日本の全国民の署名を集める運動で、原水爆禁止を世界に訴えましょう」という「杉並アピール」を発表、原水爆禁止署名運動杉並協議会を結成しました。原水爆禁止運動が、多くの日本国民のみならず、広く世界各地に支持を広げていくきっかけになったのは、この年3月1日に起きた、ビキニ環礁での第五福竜丸の被爆と久保山愛吉さんの犠牲でした。この事件は原水爆の恐ろしさだけではなく、その実験が与える人類への影響の大きさに、世界が気づくきっかけにもなったのです。国内では、第五福竜丸が所属した焼津市議会を皮きりに、各地の地方議会、漁業団体、婦人団体、労働組合等が相次いで原水爆禁止の決議やアピールを採択して発表する動きが続きました。杉並の主婦達は、このような動きと連動しながら、原水爆禁止運動を国民1人1人のものにしていこうと、署名運動を思い立ち、その実践に立ち上がりました。見事な主婦パワーでした。 署名運動は、あらゆる立場の人々を結ぶ、全国民の運動に成長し、8月には、原水爆禁止署名運動全国協議会が結成されるまでに、急成長を遂げました。第1回原水爆禁止世界大会が3日間の予定で、広島で開幕するのは、翌年の8月6日のことでした。 特撮怪獣の傑作ゴジラが誕生するのも、1955年のことでした。ゴジラ、ラドン、モスラらの怪獣はいずれも、原水爆実験の影響で生まれた怪獣という設定で登場したことを、当時の中学生はしっかりと覚えています。福島の原発事故は、いったい何を生み出すのでしょうね。今のところ先が見えませんね。
2011.05.09
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タイ・カンボジア国境紛争(10) ジレンマに陥った守旧派の民主市民連合(PAD)は、「アビシット政権は、カンボジアに対して寛容すぎる、」と非難するようになり、それゆえ「次の選挙ではアビシットを支持しないこともある」と仄めかすようになっています。他方では、「政治安定のため、今後数年は選挙をすべきではない」との幹部発言もあります。これは選挙をやると、どちらが勝っても民意を背景にした強い指導者が登場することにつながり、既得権派の権限剥奪の動きが再び起きかねないので、選挙をしないよう、圧力をかけ始めたということでしょう。現在タイの政界では、アビシット首相の狙う7月選挙を巡って、守旧派との間の綱引きが激しくなっています。守旧派に連なる軍部は、この時とばかりに、カンボジアとの国境紛争地域で、適度の騒乱を作り出しています。タイの政局に利用されるカンボジアこそ、良い迷惑なのですが、タイの反対でASEANの調停も、国際司法裁判所への提訴も、うまく進んでいないのが現状です。しばらくタイの政局にも、注目が必要です。
2011.05.08
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クロニクル WHO天然痘の根絶を宣言1980(昭和55)年5月8日31年前になります。この日WHO(世界保健機関)は、天然痘の根絶を宣言しました。ここに紀元前の時代から長期に渡って、人類を苦しめてきた強力な感染症である天然痘は、地上から姿を消しました。天然痘は、致死率40%を超える恐ろしい感染症です。天然痘に関する記録は、紀元前1350年頃から存在しますが、天然痘による死亡が確認される最古の例は、紀元前1100年代に没したエジプト王朝のラムゼス5世になります。ラムゼス5世のミイラを調べた所、天然痘の痘痕が認められた事から、王の死が天然痘に依ることが証明されたのです。天然痘の撲滅には、エドワード・ジェンナーが開発した天然痘ワクチンの果たした役割が大きく、ワクチンの普及によって、天然痘の流行は、急速になりを潜めました。
2011.05.08
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タイ・カンボジア国境紛争(9)ところで、現首相のアビシットをどう評価するかも、一考を要します。彼も議会人です。その点では、立法府の上に君臨するような王室官僚や枢密院、軍部などを快く思わない一面を持っているように見えます。しかし、彼は1度も選挙で勝利したことのない、少数政党タイ民主党(DPP)の党首に過ぎません。だからこそ、議会から首相を選び憲法を尊重している姿勢を貫きたい、軍部や枢密院のオメガネに適い、首相の座に就くことができたのです。できたのですが、議会人のアビシットは、そこで屈折した感情を持ったはずです。このチャンスを生かして、首相として実績を挙げ、国民的支持を得て選挙で勝利し、後ろ指を指されない首相になりたいと思っても、不思議ではありません。実は、首相の座についてから今日までの2年間、彼の内閣が実行した政策を検討すると、必ずしも枢密院や王室官僚の思い通りに動いていない実態が、透けて見えるのです。アビシットは、地方の貧困を撲滅するというスローガンを掲げ、タクシン政権がやりかけた政策と類似した政策を展開することで、そこそこの人気を得てきました。そうした政策の展開について、枢密院や軍部には、「タクシン派を再び権力の座に就かせないための方便」であると説明し、横槍の入ることを防いでいるのです。これは、王室官僚や枢密院などの既得権派には、難題です。建前としての議会政治は崩せません。崩せば国民の不満が自分達に向かい、収拾がつかなくなる事が分っているからです。アビシットはやっと見つけた玉ですから、簡単に替えはききません。そのアビシットは、本気で次の選挙での勝利を目指しているように見えます。確かにタクシン派の政党PTPに勝利されては困るのですが、守旧派連合の民主市民連合(PAD)は不人気で、勝利の芽のないことは分っています。ですから選挙があるなら、次善の策としてアビシットのDPPに勝利してもらうしかないのです。もしアビシットが勝利した場合、彼は民意に支持された首相として、5年前のタクシン同様、王室派の権力を削ぎ落とそうとするかもしれません。それは悪夢です。既得権派もまた、こうしたジレンマに陥っているのです。 続く
2011.05.07
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クロニクル ダービー始まる1780年5月7日1780年というと、日本史では、田沼時代にあたります。アメリカでは独立戦争の最中、フランス革命はまだ始まっていない。そんな時期でした。なにしろ、現在から231年も前のことでした。この日イギリスはロンドン郊外のダービー伯爵領、エプソムで最初のダービーレースが開かれました。そうなのです。ダービーはイギリスの1人の名門貴族が自らの所領で始め、今も彼の姓をそのまま冠しているのです。名門ダービー伯爵家の第12代当主、スタンリーは無類の馬好きでした。彼は貴族同士が自分の持ち馬自慢に賭けレース(競馬)をすることが流行っていたことから、自らの所領に、競馬用のコースをしつらえ、サラブレッド4歳馬、牡馬、牝馬混合のレースをダービー杯と称して始めたのでした。彼自身、まさか今日まで続く超ビッグレースに育つとは想像もしていなかったでしょう。しかし国王まで観戦に訪れたレースは、貴賓たちの重要な社交の場となり、また馬好きたちの功名心をくすぐり、毎年初夏に繰り返し行われるようになったのです。そうなると、上昇志向のブルジョワたちの関心も集め、何とかダービーレースを観戦できる(当時はダービー伯の招待者のみが入場できたのです)身分になりたいと、それは大変な関心を集めたのです。何しろ、国王以下王族も大挙出席される催しです。イギリス中の貴族が贅を凝らした服装で観戦席に陣取るのですから、遠くからでも眺めてみたいと考えるのも、人情として分かります。こうして、ダービーはイギリスの国民的行事に成長していったのです。このダービー現在は、6月の第1水曜日に行われています。教会に通う日である日曜日に、競馬のレースを行うような不謹慎なことは、イギリスの紳士・淑女は潔しとしないのですね。ダービーの行われる日は、ダービーデーとして、諸官庁や一流企業はどこも休業とする粋な計らいが行われているのです。この辺が何でも日曜日の日本とは違うところですね。ところで、このレース、2度の世界大戦中だけは、エプソムを避けて、別の場所で行われました(それでも実施され続けたのです)が、現在もなおエプソムで行われ続けています。国王臨席の伝統もなお守られており、王室所有のサラブレッドが出場することもあります。開かれた王室の好例の一つというべきなのでしょうね。日本の皇室も、もう少しオープンで良いようにおもうのですが…。
2011.05.06
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タイ・カンボジア国境紛争(8)守旧派=既得権派が拠り所にしている王室は、高齢の国王が信頼するプレム元将軍が、議長として権勢を誇っている枢密院です。プレム議長は枢密院を通じて、国王の意向を仄めかすことで、軍部や裁判所、官界などに影響力を行使しているのです。ですから、改革を進めるには、王室と枢密院との親密な関係に終止符を打ち、枢密院を無力化する必要があるわけです。しかし、タイ国民の多くは、王室とりわけブミポン国王に対する尊崇の念を、捨てておりません。ですから、改革派もまた、王室を否定したり、共和政体を希求したりすることは、不可能なのです。既得権派は、「タクシン一派は王室を潰そうとしている」とか、「王室を守る者は、我々しかいない」と主張して、タクシン派を攻撃し、王室を敬愛する国民を、タクシン派から引き離す戦略をとって、一定の成功を収めているのです。ですから、改革派は、王室へ敬意を払いつつ、国王の信頼するブレム議長らの枢密院を無力化するという困難な作戦を展開しなければならないのです。この試みは、今のところ成功しているとは言えない状況にあり、王室にぶら下がり、枢密院と結託する既得権派が、アビシット首相を全面に出すことで権力を握っています。一方で、既得権派にも弱点があります。それは、国際政治の現実の中では、議会政治を否定したり、軍部独裁に移行したりはできないことです。それは王室傷つけ、王室に対する国際的信用を失墜させることに繋がるからです。そのため立法府に、国民の支持の厚い強力な指導者が出てくる度に、民意をバックに既得権派の利権を削ごうとする、改革の波に襲われることになるのです。既得権派=守旧派にとって、国民的人気を持つ議会指導者の登場は、この上もなく望ましくないのです。 続く
2011.05.06
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クロニクル フランス宮廷ヴェルサイユに移転1682年5月6日日本で言うと、江戸時代中期に入る頃、間もなく元禄時代に入ろうという頃の話です。この日ルイ14世は、宮廷を上げて」ヴェルサイユに移転したのです。これ以後がヴェルサイユでの様々な歴史や物語の舞台となるのです。ルイ15世は、ヴェルサイユを嫌うというより、パリを愛し、彼の時代にフランス宮廷は一時パリに戻ったのですが、ルイ16世時代には、再びヴェルサイユに帰り、彼とと妃のマリー・アントワネットが、革命の報を聞いたのも、ここヴェルサイユ宮殿でした。
2011.05.06
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