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『古事記』ではオオヤビコがスサノオの息子であることがわざと隠されています。オオヤビコは、「兄弟たち」から命を狙われたオオナムジを助ける紀伊国の神として登場しますが、スサノオの子供とは書かれていません。ではなぜ、オオヤビコがスサノオの息子だとわかるかと言うと、『日本書紀』にはスサノオの息子であるイソタケル(イタケル)が紀伊国の神となったと書かれているからです。オオヤビコもイタケルも樹木や植物と非常に関係の深い神として描かれています。またオオヤビコも、スサノオと深い関係があることが示唆されているんですね。だから二人は、同一人物であることはまず間違いありません。ただし『古事記』にも『日本書紀』にも、オオヤビコ(イソタケル)の母親が誰であるのか記されていません。スサノオが「高天原」から下り、朝鮮半島を経由して日本に上陸(もしくは再上陸)した際には既に同行していましたから、后は外国の人なのかなとも思いますが、なんら手がかりはないんですね。では、オオヤビコの次は誰か。記紀にはオオヤビコの後の三人の王子について明確に名前とその母親が記されています。「次男」はヤシマジヌミ。母親はスサノオが越の八岐大蛇を退治する「条件」としてもらい受けたクシナダヒメですね。「三男」は大年(オオトシ)。母親はオオヤマツミの娘カムオオイチヒメ。「四男」はウカノミタマ。母親はカムオオイチヒメとなっています。と、ここまでで四人の王子が出てきましたが、あと四人足りません。どうしてかというと、記紀ではそれ以外の王子についての言及が全くないんですね。それでも記紀と同じころ編纂された『出雲国風土記』を読むと、別の子供の名前が出てきます。青旗佐久佐日子命(アオハタサクサヒコノミコト)都留伎日子命(ツルギヒコノミコト)衡鉾等乎而留比古命(ツキホコトオテルヒコノミコト)磐坂日子命(イワサカヒコノミコト)国忍別命(クニオシワケノミコト)王子が五人いることになっているんですね。(続く)
2015.02.28
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日向族の「特殊部隊」による出雲襲撃事件、すなわち記紀に記された「国譲り神話」の話をする前に、当時の日向族、出雲族がどのような系図になっていたかについて紹介しておきましょう。日向族には、アマテラスと高木神の間に5人の王子が生まれたことは既に述べました。そのアマテラス、もしくはアマテラスの娘とスサノオの間には3人の王女(宗像3女神)が生まれました。では、出雲族のスサノオの子供は何人いたのでしょうか。その答えは、8人の王子、八王子です。実はスサノオの8王子は巧妙に隠されています。現在、八王子神社に行くと、八王子とは宗像三女神とアマテラスの五王子のことであると説明されている場合もあります。だけど八王子がそのように解釈されるのようになったのは、明治維新以降なんですね。神仏分離の際、牛頭天王の八王子が、スサノオと天照大神との誓約(うけい)で化生した五男三女神に意図的に変えられたというのが真相です。もうご存知のように、『古事記』を正しく読めば、そのオシホミミら五人の王子は高木神の子供であり、決してスサノオの子ではありません。たまたま数は合っていますが、そもそも五人の王子と三人の王女を足して八王子とするのは乱暴です。七人の王子と一人の王女を八王子にするぐらいならまだ許せますが、まあ明治政府の方針であり仕方のない面もあったのでしょう。明治政府自体が新しい体制をつくるために真実を隠すことに血眼になっていましたから、ある意味当然の結果でした。では牛頭天王とは誰か。仏教におけるインドの祇園精舎の守護神であるとも、薬師如来の垂迹(すいじゃく:仏・菩薩が衆生済度のために仮の姿をとって現れること)とも言われる防疫神です。もともとは出雲の祖神であるスサノオが仏教伝来後、牛頭天王と習合したと考えられています。つまり牛頭天王は、元はスサノオであった可能性が高いんですね。そのスサノオの8王子を祀ったのが本来の八王子神社と思われます。『古事記』編纂者にとって、この八王子は出雲国の正統な継承者でもありますから、あまり大々的に取り上げたくなかったと推察されます。それはそうですよね。日向族の神武(のちの大和王朝)にとっては敵の一族ですから。だけど記紀でも八王子に触れないわけにはいかなかった。そのため丹念に読み解くと、スサノオの八王子が誰であったかが浮かび上がって来ます。ます、長男はオオヤヒコことイソタケルです。(続く)
2015.02.27
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出雲懐柔策の失敗とアメノワカヒコ暗殺により、日向族と出雲族の和議によってもたらされた平和は風前の灯となりました。和平合意はもう、事実上反故にされたわけです。そして実際にこの後、日向族が出雲国に対して武力行使を開始するのですが、その前に『古事記』では、アメノワカヒコの盛大な葬儀について破格の扱いで取り上げています。実はこの破格の扱いも、アメノワカヒコが日向族アマテラスの孫であり、すなわちアヂスキタカヒコネと双子であったことの傍証になっています。そうでなければ、高天原(日向族)の命令に背いて寝返った裏切り者を、まるで偉大な功労者のように持ち上げる必要は全く見当たりません。アマテラスとスサノオの実の孫であったことを知らないと、この破格の扱いは説明がつかないんですね。葬儀では八日八夜の間、歌舞して弔ったと書かれています。おそらく養父母でしょう。アメノワカヒコの父アマツクニタマとその妻子も葬儀に駆けつけました。そこで出会ったのが、死んだ息子と瓜二つのアヂスキタカヒコネであったわけです。息子が生き返ったと勘違いして、養父母は抱きつきます。一方「死者扱い」されたことに怒ったアヂスキタカヒコネは喪屋を切り倒して蹴飛ばす場面が出てきます。このエピソードから推察されることは、アメノワカヒコの養父母にも双子であったことが伏せられていたこと、それにアヂスキタカヒコネと妹のシタテルヒメもアヂスキタカヒコネに双子の兄弟がいることを知らされていなかったことです。事実を伏せられたことによって起きた近親婚や悲劇的な恋愛は、現代のメロドラマでも時々使われるプロットですね。昔からそういうことはよくあったのではないかと思われます。アメノワカヒコ暗殺は、日向族内部にも不協和音を引き起こした可能性もあります。その点に関して、『古事記』では非常に巧みに書かれています。暗殺命令の前までは、高天原(日向国)が命令を下す時は、必ずタカミムスビこと高木神とアマテラスの二人の神が主語になっていました。ところが、アメノワカヒコ暗殺を命じたのは高木神だけです。その後の、出雲武力行使を命じたのはアマテラスだけになっているんですね。ここには『古事記』編纂者の明確な意図が介在しています。本来、日向国が何か決定をする際、必ずアマテラスと夫の高木神が最終決断をした。ところがアメノワカヒコ暗殺は高木神の単独判断であった(アマテラスは自分の実の孫を殺す命令は下せなかったとも解釈できます)。仮にも暗殺したのはアマテラスの孫(注:ひ孫であった可能性もあります)ですから、そのためその責任を取らされて、次の武力行使の決断の際には高木神は外された--と、このような意図を私は読み取ります。ただし高木神が外されたのは、一時的な人事であったことが後にわかります。出雲国(葦原中国)の武力平定が成功した後、オシホミミを葦原中国に派遣する際には高木神とアマテラスが再び連名で命令を出しているからです。もっとも高木神の名前が外された葦原中国平定命令には、高木神の息子であるオモヒカネが深く絡んでいますから、実質的には高木神も命令に参加していたけれど、アマテラスの孫の暗殺を命じた責任者であった手前、形式的に蟄居していたとみるのが妥当だと思われます。次は葦原国平定、つまり出雲国への一方的な先制攻撃である「国譲り神話」に隠された古代日本の王たちの系図を取り挙げましょう。(続く)
2015.02.26
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『古事記』を読むと、暗殺や破壊活動、情報戦を含むCIAやモサド、KGBなどの現在の諜報活動が、近代において始まったものではないことがよくわかります。タキリビメの息子であるアメノワカヒコを派遣して出雲国を懐柔しようという高木神の作戦は失敗します。シタテルヒメを娶れば出雲国の王になれるとの野心を持ったアメノワカヒコが命令された作戦を遂行しなかったからだと『古事記』には書かれています。そのいきさつは次の通りです。アメノワカヒコが一向に破壊工作を実行しないのは、完全な裏切りか、それとも出雲族を欺くための見せかけだけなのかーーその真意を探るために日向国の高木神は諜報部員を出雲国に差し向けるんですね。その名も「雉(きじ)の鳴女(なきめ)」です。記紀を読んでいるとすぐに気づきますが、鳥とか、猿とか、犬とか、魚とか、動物の名前が付けられている登場人物はほとんど場合、諜報部員です。桃太郎(吉備彦)のお伽噺で、女装して油断させ「鬼ヶ島の鬼」こと温羅(うら)を暗殺した雉も「殺しのライセンス」を持つスパイでした。海彦山彦の話に出てくるタイやヒラメも同様。後に「猿女君(さるめのきみ)」と称されることになるアメノウズメも腕利き女性諜報部員です。さて、高木神の命令で出雲国の情勢を秘密裏に探りに来た「雉の鳴女」ですが、出雲国の諜報部員によって正体を暴かれてしまいます。この時「雉」の正体を見破ったのが、出雲国きっての腕利き女諜報部員であるアメノサグメです。『日本書紀』には「天探女」と書かれていますから、誰がどう読んでも、女間諜(女スパイ)です。捕えられた「雉」は、アメノワカヒコによって殺されたと『古事記』には書かれています。自分が派遣した諜報部員がなかなか帰って来ないことを心配した高木神は、「雉」がどうなったかを探らせます。すると、その諜報活動によって「雉」がアメノワカヒコによって殺された「証拠」がもたらされます。それが「雉」の血が羽に付いた矢でした。その矢は高木神がアメノワカヒコに与えた矢とまったく同じものです。アメノワカヒコが寝返ったことは明白でした。この裏切りに怒った高木神は刺客を差し向けます。刺客は寝ているアメノワカヒコの胸を矢で刺して暗殺に成功。これが「返し矢(敵から射て来た矢で射かえすこと)」の起こりであると『古事記』には書かれています。また、行ったきりで戻って来ない使者のことを「雉の頓使い(きぎしのひたづかい)」と呼ぶのもこのためだそうです。(続く)
2015.02.25
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宗像三女神の長女タキリビメとオオナムジの間に生まれた子供たちについて詳しく触れておきましょう。長男のアヂスキタカヒコネは、後に日向族の神武を助けたことにより、タケツノミ(八咫烏)あるいは迦毛大御神とされ賀茂氏の始祖となったと思われることは既に述べました。ところが面白いことに、アヂスキタカヒコネには双子(たぶん一卵性双生児)の兄か弟がいた可能性が高いんですね。それがアメノワカヒコです。古代の日本においては、双子は忌み嫌われ、生まれた後に分けるという風習があったそうなんですね。中立系のタキリビメとオオナムジの間に生まれた双子ですから、一人は出雲族系に、もう一人は日向族系に分けられたと見るのが妥当です。どちらがどっちだったかは、『古事記』に書かれています。本当かどうかは知りませんが、アメノワカヒコが日向系で、アヂスキタカヒコネは出雲系として描かれているんですね。アメノワカヒコは、タカミムスビこと日向族の高木神に、出雲攻略を申し付かります。ところが、攻略するつもりが逆に出雲族に取り込まれて、何とタキリビメとオオナムジの間に生まれたアヂスキタカヒコネの妹シタテルヒメと懇ろになって結ばれてしまうんです。それを聞いて、「えっ」と思われますよね。もしアヂスキタカヒコネとアメノワカヒコが双子だったら、それって兄と妹の結婚となってしまいます。どう考えても、近親婚です。しかしおかしなことに『古事記』では、この段階でアヂスキタカヒコネとアメノワカヒコが容姿が瓜二つであることは全く触れられていないんですね。二人の容姿が全く同じであることは、アメノワカヒコの葬儀の場面でようやく明かされます。妹の夫が死んだので葬儀に参列したアヂスキタカヒコネが、死んだアメノワカヒコと間違われてしまう場面があるんですね。ということは、『古事記』編纂者は、アヂスキタカヒコネとアメノワカヒコが双子であることを伏せておきたかったということが推察されるわけです。だから「何と、シタテルヒメが結婚した相手は兄のアヂスキタカヒコネと同じ容姿の男性でした。そんな偶然ってあるのね」という感じで、わざととぼけて読者を煙に巻いているんですね。ところが、二人が双子であることを知っていると、なぜ突如アメノワカヒコが出雲攻略に選ばれたかがよくわかるんですね。高木神はもちろん、日向族の子として育てられたアメノワカヒコが、タキリビメとオオナムジの子であることを知っていたわけです。利用価値は大きいです。アメノワカヒコを出雲族の元へ派遣すれば、出雲国を日向族の都合のいいように操作できるかもしれないと考えたとしても不思議ではありませんね。しかしながら、その作戦は見事に失敗します。(続く)
2015.02.24
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思うに、もし出雲族の王スサノオと日向族の女王(あるいは王女)アマテラスの間に王子が生まれていたら、その男の子が統一王になっていたのではないでしょうか。ところが女の子しか生まれませんでした。ここで歴史をさらに面白くしたのは、日向族が長子相続で出雲族が末子相続だったことです。あくまでも推測ですが、宗像3女神のうち長女と末の三女がオオナムジと婚姻した背景にも、日向族、出雲族双方のそうした相続慣習の思惑が働いているように思われるんですね。長女タキリビメとオオナムジとの間に生まれたのが、八咫烏ことアヂスキタカヒコネとシタテルヒメです。そして末女タキツヒメとオオナムジの間に生まれたのが、コトシロヌシ。ここまで聞いて何となくわかってきたでしょう?出雲族と日向族の双方に中立な立場にある姫が3人いて、そのうちの長子と末子が、出雲族と関係が深いけれどほぼ中立的な古代ユダヤ人と思われる異国人・オオナムジと結婚したわけです。彼らから生まれた子の中で長女の子であるアヂスキタカヒコネは、日向族にとって非常に意味のある王子です。一方、末女の子であるコトシロヌシは出雲族にとって非常に意味のある王子ということになります。二人とも日向族と出雲族の血がそれぞれ4分の1入ったクウォーターなわけですが、それぞれ日向族と出雲族側に色が付いていたと考えることができます。すると、なぜ同じオオナムジと宗像3女神の間に生まれた子でありながら、アヂスキタカヒコネが神武東征の際に神武側に付き、コトシロヌシは日向族が出雲に攻めて来たときに屈辱的な国譲りをしなければならなかったかが、記紀に隠された系図から読み解けるんですね。(続く)
2015.02.23
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アマテラスとスサノオの誓約が、日向族と出雲族の間の和議(誓約)による政略結婚であったことは間違いないのですが、これにはまだわからない問題があります。日向族の女王と出雲族の王が結婚したのか、それとも出雲族の王と日向族の女王の娘が結婚したのかという問題です。政略的に多部族間の王と女王同士が結婚したケースは古くからあります。たとえば古代イスラエルの王ソロモンとシバの女王。ソロモンはエジプトのファラオの娘と結婚するなど近隣王国と条約を交わし、政略結婚を重ねて自国を強国に育てあげたユダ族の王です。これによってイスラエル王国の領土はユーフラテス川からガザにまで及び、政治は安定、ソロモンはエルサレムに初めて神殿を築くことができました。その政略結婚の中に、シバ(エチオピア地方とみられる)の女王との結婚もあったわけです。その二人の間に生まれたメネリク1世が、エチオピア初代王になったとされています。出雲王スサノオと結婚したのは、女王なのか女王の娘なのか。まあ、どちらでもいいのですが、女王本人だとしたらアマテラスはタカミムスビこと高木神との間で5人の王子を生み、スサノオとの間に3人の王女を生んだことになります。可能な数ではあります。女王の娘との結婚だったなら、娘3人というのは、政略結婚的には妥当な線なのかもしれません。しかしながら、ここで重要なのは、日向族と出雲族の和議により、その和議の象徴といえる女の子が三人生まれたということです。つまり日向族と出雲族の双方にとって中立的な王女3人が誕生したわけです。これは政治的にかなり利用価値がありますよね。この三人をだれが娶るのかは、両部族に取って重大事項になったはずです。そしてこの三人の王女のうち二人を娶った人物が、古代ユダヤ人の可能性が高い大国主ことオオナムジだったんですね。オオナムジはほかにもたくさんの王女様たちと結婚しています。スサノオの娘で出雲国の実質的な女王(出雲国は末子相続であるため)であったスセリビメも妻の一人です。ある意味、オオナムジと宗像3女神との結婚は、政治的な妥協の産物としては納得のいくものであったと言うこともできます。たとえば3女神と日向族の王子が結婚したら、日向族が王朝の正統性を掲げて出雲族打倒に動くかもしれませんよね。スサノオの8王子の一人が三女神を娶った場合も同様です。均衡が崩れます。だからどちらの部族の王子も、あえて宗像3女神の一人とは結婚せずに、よそ者であったオオナムジが消去法的にお婿さん候補に担ぎあげられたわけです。何はともあれ、出雲族と日向族の勢力争いの再顕在化は、大国主ことオオナムジの登場によって、ひとまず先送りされることになったわけですね。(続く)
2015.02.22
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『古事記』と『日本書紀』には古代日本の王たちの系図が隠されています。その中で最も巧妙に隠されたのが、日向族の女王アマテラスと出雲族の王スサノオの系図です。記紀では姉のアマテラスと弟のスサノオによる「誓約(うけい)」により、子供が生まれます。近親婚ではないかと解釈する人もいるかもしれませんが、アマテラスとスサノオはどう読んでも姉と弟ではありません。九州を支配していた日向族の女王と、出雲から近畿地方を支配していた出雲族の王との政略結婚のことを記紀では誓約と呼んだだけなんですね。おそらく主導権争いが高じて、日向族と出雲族の間で戦いが起きたのでしょう。何度かの攻防戦を経て、とうとう出雲族のスサノオが日向地方の高千穂へ攻め上がります。これにより日向族側が和議に応じて、誓約が成立するわけです。この誓約により子供が生まれます。アマテラス側にオシホミミ、アメノホヒ、アマツヒコネ、イクツヒコ、クマノクスビの5王子、スサノオ側にタキリビメ、イチキシマヒメ、タキツヒメの3王女が生まれたと記紀に書かれています。実はこの5王子はスサノオの子ではありません。アマテラスが別の旦那との間にもうけた子です。その夫はだれかというとタカミムスビの称号を持つ高木神です。この五王子はあくまでも日向族の血を引く者たちです。宗像3女神として知られる3王女は、スサノオと「アマテラス」の間に生まれた日向族と出雲族のハイブリッドです。そう解釈しないと、日本の古代史は理解できないんですね。(続く)
2015.02.21
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前回は太陽とカラスがテーマでしたが、今回ご紹介するのは月とスズメです。午前8時ごろ、いつものように大賑わいのスズメたちの頭上に月が見えたので、ツーショットの撮影を試みました。スズメたちはせわしなく飛び回るので、なかなか月と一緒にフレームに収まりませんが、ようやく何枚か一緒に撮ることができました。そのうちの一枚です。2月13日の撮影で、もうすぐ二十六夜という感じの月ですね。鳥も舟形の白い月も西の空もすべて易の兌(沢)を表します。数字で言うと2。コミュニケーションの湖です。これを2と2の卦と読めば、兌為沢、楽しいものという意味になります。ちなみに昨日の太陽とカラスを易で読み解くと、太陽は乾(天)。リーダーシップを表します。数字は1。鳥は兌で数字の2。太陽の火は熱意の離(火)。数字は3です。火の勢いがあまりない夕陽なので、1と2の卦とみて、沢天かい、決断の時という意味であると解釈することができます。仮に火が強調されれば、3と2の卦とみて沢火革、変革と読めます。このように偶然切り取った写真から、易占いをすることもできます。偶然は神ですから、こうした何気ない占いにも意味があるのかもしれませんね。
2015.02.20
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おそらく世界で初めて、太陽に棲むという三本足の八咫烏の撮影に成功しました!こちらがその写真です。太陽の中心付近に何やら黒い物体が蠢いています。もうちょっと拡大して見てみましょう。そう、これが中国の古代説話で太陽の中にいるとされる三本足の赤色カラスです。本当に太陽の中に八咫烏はいたんですね!!・・・というのはもちろん冗談で、ここに写っている黒い影はカラスですらありません。実はトンビが夕陽の前を横切る瞬間を捉えた写真でした。高速で飛んでいますから、撮影するのは結構難しかったです。昨日は八咫烏はアヂスキタカヒコネであり、タケツノミであるとの説を紹介したので、その「証拠写真」として「太陽と八咫烏」の写真を掲載しました(笑)。
2015.02.19
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大国主ことオオナムジから賀茂氏、秦氏に引き継がれた「古代ユダヤの血脈」がわかりづらかったかもしれないので、ちょっと捕捉しておきましょう。賀茂氏や秦氏が古代ユダヤと何らかの関係があるのではないかとの説は既に紹介しましたが、実は現在知られている系図からもある程度はたどれるんですね。賀茂氏のご先祖さま(始祖)は賀茂建角身(カモタケツノミ)であるとされています。この人の別名は八咫烏。神武東征の際、神武軍を先導したことで知られていますね。で、実はその同じ八咫烏の「称号」をもっていたのが、大国主ことオオナムジとスサノオの娘タキリビメとの間に生まれたアヂスキタカヒコネです。この同じ八咫烏の称号を持っているカモタケツノミとアヂスキタカヒコネは、実は同一人物である可能性が極めて高いんですね。出雲族としての名前がアヂスキタカヒコネで、日向族の神武天皇に加勢した後の名前がカモタケツノミであると私は解釈しています。そのことはアヂスキタカヒコネが 迦毛大御神(カモノオオミカミ)と呼ばれていることからもわかります。賀茂の大御神とは、どう考えても賀茂氏の始祖タケツノミのことですよね。つまり実質的に(あるいは半分)出雲族でありながら日向族側についたことを秘する(あるいは、あまり公にしたくない)ために名前を変えたと私は見ます。賀茂氏の始祖の父親がオオナムジですから、本当はオオナムジこそ賀茂氏の始祖ではないかと思いますが、日向族に降伏した出雲族の「王」を始祖にすることはできません。神武東征を期にリセットして、始祖を八咫烏ことタケツノミとすることにしたのではないでしょうか。そしてこのグループに後から来た同じ古代ユダヤの血を引く秦氏が合流して、平安京造営に一役買ったと私は考えています。しかしながらこの説の一番難しいところは、大国主ことオオナムジが古代ユダヤと何らかの関係があることを証明しなければならないことです。『「竹内文書」の謎を解く2―古代日本の王たちの秘密』を読まれた方には説明しましたが、根拠は四つあります。一つは、オオナムジの息子タケミナカタが祀られている諏訪大社の御柱祭とソロモン王の神殿建造物語の相似性です。二つ目は、諏訪大社の御頭祭とイサク奉献伝承の相似性。三つ目は、旧約聖書ヨシュア記に出てくる巨大神殿と、国譲り神話の際にオオナムジがこだわった巨大神殿建造との相似性。四つ目は、おそらく年に一回カナンの中心地シケムにイスラエル12氏族が集まったであろう定例会議と、年に一回諏訪大社と出雲大社だけにすべての神が集まるという神在祭の相似性です。もちろんこれだけでは、完全に証明したことになりませんが、そのように考えると、すべてが納得いくのも事実なんですね。後の判断は読者にゆだねたいと思います。
2015.02.18
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今日も鳥の話題。トンビとカラスはよく空中で縄張り争いをします。争いといっても、複数のカラスにトンビが一方的に追いかけられている場面が多いです。カラスのほうが強いんですね。ところが一対一の時は、トンビのほうが強い時があります。この日は、いつも追われているトンビが逆にカラスを追いかけまわしていました。ご覧ください。左がカラスで右がトンビ。珍しくトンビがカラスの後ろを捉えています。相模湾上空での空中戦で、左奥に見えている丸い山が以前ご紹介した矢倉岳です。次の写真はもっとはっきりしています。もう少しでカラスを捉えるところでした。と言っても、カラスの方が小回りが利きますから、最後まで捕まることはありませんでした。一対一ではトンビのほうが強いのかもしれませんね。
2015.02.17
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歴史物がずいぶん続きましたが、このままでは延々と歴史を語らなければならなくなるので、ここで一休みです。今日ご紹介するのは、ノスリです。最近散歩をしていると、トンビではなくノスリを見かけるようになりました。こちらがそのノスリ。大きく翼を広げています。そしてこちらが、いつもご紹介しているトンビ。どこが違うか一目瞭然ですね。特徴的なのは尻尾(尾羽)です。トンビが魚の尻尾のような形、あるいは三味線のビクのような形の尾羽を持っていますが、ノスリの尾羽は扇形です。翼もトンビはへの字形に見えますが、ノスリはほぼ真っすぐ。そしてもう一つの大きな特徴は、初列風切(翼角より先の羽根)の尖端部分の羽根の数がトンビが六枚であるのに対してノスリは五枚です。上の写真はノスリですが、翼の尖端が五枚に分かれているように見えます。トンビはこれが六枚に見えます。また、ノスリの翼角(翼の曲がる部分)の裏には黒い大きな斑点があります。逆光気味に撮影した上の写真だと、よく斑点がわかりますね。行動を見ていても、違いはわかります。ノスリの方がより高く、しかも直線的に飛ぶ傾向があります。ノスリは肉食系で主に小動物などを狩って食べますが、トンビはどちらかというと雑食系でのろまな人間からお弁当の中身などをかっさらって食べます。かく言う私も、手に持って食べようとしていたミカンひと粒をトンビに取られた経験があります。背後から急降下して接近して、私の指を傷つけることもなく見事にひと粒だけをさらって行った技に驚きました。ただ見ていると、やはりノスリの方が小回りが利いて機敏です。獲物を狙ったときの急降下はものすごい速さです。しばらくはノスリの観察をしようと思っています。
2015.02.16
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ここでは全部は説明しませんが、古代の日本の都はすべて同じ測量・土木技術を持つ集団が造営しています。その証拠が山と山を結ぶタカミムスビの法則により見事な三角形や五芒星、それに垂直二等分線などの幾何学図形が浮かび上がることです。藤原京だけ説明しましょう。藤原京は、耳成山、畝傍山、天香久山の大和三山を利用して造られたことは誰の目にも明らかです。藤原京の大極殿は耳成山と天香久山を結んだ線分に対する畝傍山から引いた垂直二等分線上に築かれました。しかもこの垂直二等分線は夏至の日の出ラインと一致します。かつ葛城山と三輪山を結んだ直線と水平線になっています。藤原京の大極殿の北に耳成山があることも、耳は北のアイテムであるとする易の考えに適っています。こうした易の考えや測量技術は、平安京が造られるはるか前から、ごく当たり前に使われていたんですね。実はそのことはちゃんと万葉集のある歌にも記されています。この歌の解説は別の機会にするつもりですが、簡単に言うと”人工の測量山”が神代(神武天皇以前の時代)にオオナムジとスクナヒコナによって造られたとことが示唆されているんですね。オオナムジは既に述べましたが、古代ユダヤの技術を継承していたとみられる国作りのエキスパートです。万葉集の時代にはそのことが当たり前のように知られていた、と私は読みます。つまりここには、大国主ことオオナムジから賀茂氏、秦氏へと続く古代ユダヤの測量・土木技術の”血脈”があるように思えるわけです。その血脈については、いずれもっと詳しくお話ししたいと思っています。
2015.02.15
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歴史研究家・大和岩雄氏が見つけた木嶋坐天照御魂神社三柱鳥居と測量山の関係は次のようになっています。三角形の三つの頂点から対辺に下ろした垂直二等分線が、夏至や冬至の日の出・日の入りライン、それに測量に使った山々を見事に示していることがわかります。愛宕山と比叡山を結んだ直線に対する垂直二等分線が甘南備山と船山を結んだ直線であることが偶然ではないことの傍証ともなっています。自然の山を結んだだけではこのような配置にはなりませんから、船岡山だけでなく船山も極めて人工的な、少なくとも測量上人為的に選ばれた山(五山送り火の山)であることがはっきりします。三柱鳥居は山と山を結ぶタカミムスビのミニチュア版(モデル)であると考えることもできます。山と山を結び三角形を作り、垂直二等分線を引いて都を造るというエッセンスが小さな鳥居の中に隠されていると言ってもいいでしょう。と、ここまでの話を聞いてすぐに藤原京を思い浮かべた人はかなりの歴史通です。平安京造営から遡ること約100年前に造営された藤原京もまた垂直二等分線を使うことによって計画・造営された都だからです。(続く)
2015.02.14
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木嶋坐天照御魂神社は、境内社として蚕養神社を祀ることから、一般には「蚕ノ社」(カイコノヤシロ)として知られています。秦氏とは切っても切れない関係の神社です。そもそも神社の地名の「太秦(うずまさ)」は、秦氏が大和政権に税を納める際、絹を「うず高く積んだ」ことに由来するともされています。境内に蚕養神社があるはずですね。面白いのは神社の正式名称です。コノシマニマスアマテルミムスビあるいはコノシマニマス アマテルミタマと呼ばれています。一般的には、原野に茂る木々の様が「木の島」のようであったから木嶋(このしま)になったとされていますが、私は古代ユダヤの知恵と知識を継承した秦氏が渡って来た日本列島のことを「この島」と言っているように思われます。彼らはこの日本で絶対的な太陽神である「ヤハウェ」の魂を見つけ、それを祀った。だからこのような名前になったのではないでしょうか。同じユダヤの知恵と知識を受け継いだとみられるオオクニヌシが祭神となっているのも偶然ではないはずです。アマテルミムスヒについても説明しておきましょう。アマテルは太陽(神)ですね。ミは美称でムスは「魂」「産」とも書きますから、「生成すること」「生み出すこと」です。ヒは霊力や生命力を意味します。簡単に言うと、生命を生み出す太陽神の霊力みたいなものです。古代においても現代においても太陽の力は、あらゆる生命を維持、繁栄させるには必要不可欠なエネルギーであることは言うまでもありません。つまり太陽の運行で夏至や冬至といった季節の節目を知ることも為政者にとって非常に重要なことであったはずです。太陽がどの方角から昇り、どの方角に沈んで行くかを観察し、農耕の開始時期などを決めたのでしょう。秦氏もその知恵を引き継いでいた氏族に違いありません。その証拠が木嶋坐天照御魂神社の境内にある三柱鳥居です。最初にこの三柱鳥居を見たときに、古代ユダヤの儀式と関係するのだろうぐらいにしか思っていませんでしたが、一つの明確な答えを出した人もいました。秦氏の研究でしられる歴史研究家の大和岩雄氏です。大和氏は、三柱鳥居を三角形の測量点に見立て、それぞれの垂直二等分線がどちらの方角を向いているのか調べました。その結果、一本は北東にある比叡山の次鋒である四明岳と南西にある松尾大社のある松尾山を、別の一本は北西にある愛宕山と南東にある伏見稲荷大社のある稲荷山を、そしてもう一本は真北にある秦氏関連の群集墳がある双:ヶ丘(ナラビオカ)を指していることがわかったんですね。そして冬至の日には太陽が稲荷山から昇り愛宕山に沈むこと、夏至の日には太陽は四明岳から昇り、松尾山に落ちることを確認したんですね。三柱鳥居は、一種の観測点であったわけです。三角測量には欠かせない三角点のようなものです。そして彼らは山と山を結ぶことで測量したわけです。これこそまさにタカミムスビの神髄です。私が4年ほど前に撮影した三柱鳥居の写真。(続く)
2015.02.13
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平安京にはほかにも、陰陽師によってある仕掛けが施されています。それは、天皇陵もちゃんとタカミムスビの法則を利用して場所が決められている可能性が高いことです。たとえば、後宇多天皇陵は愛宕山と平安京の中心を結んだ直線上にあります。天智天皇陵は嵐山と平安京の中心を結んだ直線と、比叡山・四明岳と甘南備山を結んだ直線の交点にあります。つまり少なくとも平安京の中心に立って四方の山を見渡した時に、どの方角にどの天皇陵があるのかわかるようになっているんですね。天皇陵も大きな丘のようなものですから、高みと高みを結んだエネルギーの通り道になるという仕掛けです。このように、おそらくすべての構造物がタカミムスビの法則で説明できる場所に意図的に位置しています。こちらの地図をご覧ください。小さいのでわかりづらいかもしれませんが、国土地理院の地図を使って測量に使われた山々の位置に正確に点を打ち、平安京との関係を示したものです。正確に点を打ちさえすれば、誰が何度やっても同じ図を描くことができます。タカミムスビの山を使うことで、平安京を地図上で何度でも再現できるわけですね。その結果、比叡山の最高峰である大比叡と次鋒の四明岳を区別して使っていたこともわかってしまいます。まあ、これは細かい話なのでここでは触れません。いずれにせよ、意味のある山を結ぶと平安京は地図上に何度でも浮かび上がって来ます。さらにその決定的な証拠は、京都市右京区太秦森ヶ東町にある秦氏ゆかりの木嶋坐天照御魂(コノシマニマスアマテルミムスビあるいはコノシマニマスアマテルミタマ)神社にあります。(続く)
2015.02.12
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五山送り火の字跡の意味についても考察してみましょう。字跡は、大文字山と左大文字山の「大」と、東山の「法」、西山の「妙」、船山の舟形、それに曼荼羅山の鳥居形です。「大」は既に説明したように五芒星、すなわち五行でいう万物の五種類の元素である木火土金水の象徴でもありますね。平安京造営にはその五種類のエネルギーを使っていることを表しているようです。そのエネルギーは山と山を結ぶタカミムスビの法則によって、平安京に集められます。このタカミムスビの妙なる法則が「妙」と「法」であると私は解釈します。舟形が象徴するのは、航海にも必要な測量術。京を守る東西の守護神である比叡山と愛宕山を結んだ直線に対する甘南備山から引いた垂直二等分線がちょうどこの船山を通るのは偶然とは思えません。まさに船山は重要な測量地点であったわけです。同じ意味で、「船」の字の付く船岡山も極めて重要な測量点となります。最後に鳥居が示すのは、縦と横の直線です。比叡山と愛宕山、嵐山と大文字山をそれぞれ結んだ直線が二本の横木に相当します。平安宮がその二本の横木の中央に飾られる額束(がくつか:神社名の額が掲げられる部分)です。縦の二本の柱は平安京の東西を走る二本の南北線と見ました。船岡山と甘南備山を結んだ直線を中軸にすることによって出来上がった平安京の南北線ですね。このように山と山を結ぶ完璧な測量によって平安京が造営されたことが、五山送り火に込められているのではないでしょうか。(続く)
2015.02.11
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和気清麻呂の建議などにより桓武天皇によって長岡京からの遷都が決まった平安京ですが、その真の造営者は秦氏と賀茂氏だったのではないかと私はみています。賀茂氏と言えば、大国主ことオオナムジの直系とされる氏族(アヂスキタカヒコネ・八咫烏系)。秦氏と言えば、秦の帝室の後裔ともいわれている弓月君を祖とする渡来系の氏族です。正統竹内文書の口伝継承者竹内氏によるとオオナムジは古代ユダヤ人であった可能性があり、弓月君も古代ユダヤ人説があるいわくつきの人物です。つまりどちらも古代ユダヤとかかわりのある氏族であった可能性があるんですね。後にその賀茂氏から古代ユダヤの数秘術を彷彿とさせる陰陽道が生まれ、陰陽道の流れから平安時代に安倍晴明が登場します。この陰陽師たちこそ、平安京にタカミムスビに基づくエネルギーの導線を引いたシャーマン的な技術者であったと私は考えています。その証拠はたくさんあります。例えば、平安京造営に利用されたとみられる比叡山、愛宕山、大文字山、嵐山、船山を結ぶと、綺麗な五芒星が出来上がります。五芒星と言えば、安倍晴明のトレードマークでしたね。船岡山や甘南備山を使った綺麗な五芒星や六芒星も浮かび上がります。そしてその秘密は、おそらく大文字焼きで有名な五山送り火に隠されました。(続く)
2015.02.09
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平安京造営者が作った仕掛けとは、エネルギーの導線のようなラインです。その”導線”はおそらく次のようなものです。南の甘南備山からは火と土のエネルギーを、北の船岡山からは水と金のエネルギーを、それぞれこの平安京の中軸である”導線”を使って引き込みます。東の大文字山からは主に木のエネルギーを、西の嵐山からは金のエネルギーをそれぞれ朱雀門の辺りに持って来ます。ここまでが基本的な枠組みです。これに加えて、実は近江富士(三上山)から火のエネルギーを、比叡山越しに東山に集め、東山の木のエネルギーと混ぜて、さらに西山の金のエネルギーとブレンドし、土のエネルギーを持つ愛宕山に集めたとみられます。その裏付けとなる証拠は、近江富士、東山、西山、愛宕山が見事に一直線上にならんでいることです。意図的であるとしか思えない配置になっています。また愛宕山からは船岡山と大文字山へとエネルギーが分配されます。なぜ東山と西山が重要かというと、実は大文字焼きで有名な五山送り火の山だからです。五山送り火の五山には秘密が隠されていますが、それは追々説明します。一方比叡山から東山に流れたエネルギーは、大文字山、船岡山、船山に分配されます。比叡山、大文字山、船岡山、船山は、東山から等距離にあることがその決め手です。西山、左大文字山、曼荼羅山という五山送り火の山々は一直線上に並んでいますから、これらも導線であることは間違いないと思われます。おそらく金と土のエネルギーをブレンドして左大文字山から船岡山に流したのではないでしょうか。このように五行のエネルギーを使って、ある種の結界を縦横無尽に張り巡らせて、平安京をパワースポット化したのだと私は考えています。(続く)
2015.02.08
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中央の軸を決めた後、平安宮(宮城)の規模を決めるため、南限を決めるのに嵐山と大文字山、北限を決めるのに曼荼羅山をそれぞれ使ったとみられます。既に前回指摘したように、京の西と東にそびえる嵐山と大文字山を結んだ直線上に平安宮の朱雀門があります。北限の緯度はまさに曼荼羅山と同じです。これにより、ほぼ平安宮の大きさが決定されたはずです。次に平安京全体の規模を決めるために、愛宕山と曼荼羅山、東山と嵐山、愛宕山と大文字山がそれぞれ使われたとみられます。愛宕山と曼荼羅山を結んだ直線は平安京の南西角を指しています。東山と嵐山を結んだ直線は平安京の北西角、愛宕山と大文字山を結んだ直線は平安京の北東角をそれぞれ指しています。船岡山と平安京の羅城門を結んだ距離が嵐山と大文字山を結んだ距離の半分に設定したことは既に述べた通りです。こちらが羅城門跡の写真。こちらが船岡山の山頂にある「磐座」とみられる写真です。この二つの点を結んだ直線上に甘南備山やタカミムスビの交点が並んでいます。こうして物理的な規模が決められた後、平安京を造営した人たちは、さらにある仕掛けを施した形跡が見られます。(続く)
2015.02.07
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言葉で説明してもわかりずらいと思いますので、簡単な図で説明しましょう。平安京と高み結びの関係は次のようになっています。平安京は真ん中の長方形部分で、宮城(平安宮)はその中の斜線部分です。数字が小さいですが、1は比叡山、2は愛宕山、3は甘南備山、4は嵐山、5は大文字山、6は船岡山、7は羅城門です。Pは愛宕山と嵐山を結んだ直線と比叡山と大文字山を結んだ直線の交点で、船岡山と甘南備山を結んだ直線上にあります。嵐山と大文字山を結んだ直線は宮城の朱雀門を通り、この直線の距離のちょうど二分の一が船岡山と7の羅城門を結んだ距離と等しくなります。8は五山送り火で有名な船山で、3の甘南備山と8の船山を結んだ直線は宮城の西端を通るとともに、比叡山と愛宕山を結んだ直線に対する垂直二等分線となります。(続く)
2015.02.05
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タカミムスビの法則の基本は山と山、高みと高みを結んで、そこにエネルギーを通したり分配したりすることです。元々、山の稜線は植物の生育が良いことが知られていました。谷ではなく、尾根のような高みに何か生命に関係する力が宿ると古代人が考えたとしても不思議ではありません。おそらく彼らは経験的に、あるいは直感的に、高みにはパワーやエネルギーが蓄積されることを知っていたんですね。現代人の我々も何となく高みが宿す力を感じているはずです。たとえば山の上。見晴らしが良いこともあるのでしょうが、仮に見晴らしが悪くても、そこには何かすがすがしさがあります。吹き溜まりがない場所、よどみのない空気のような気が山にはあります。つまり山は、エネルギーが蓄積されるパワースポットだからであると考えることもできます。それでは、平安京造営者がどのような「タカミムスビ」を使って都の位置と規模を決めたかを見て行きましょう。北東の比叡山と北西の愛宕山を結びます。次に比叡山と大文字山、愛宕山と嵐山をそれぞれ結び、その二つの直線の交点と南の甘南備山を結んだ直線上に船岡山を造営します。これで船岡山と甘南備山を結んだ平安京の南北軸(中軸)が出来上がります。ここで面白いのは、船岡山が限りなく人工の山に近いということです。その証拠に甘南備山と船岡山を結んだ平安京の中軸となる直線には、愛宕山と嵐山を結んだ直線と比叡山と大文字山を結んだ直線の交点があるだけでなく、比叡山と嵐山を結んだ直線と愛宕山と大文字山を結んだ直線の交点もあります。このような幾何学的図形がすべて自然の山を結んだ結果出来上がるというのは不自然です。比叡山、愛宕山、嵐山、大文字山、甘南備山、船岡山のうちどれか一つは意図的に造られた山であると考えたほうが理に適っています。標高112メートルとその中で一番低い船岡山は、古代測量土木技術者が人工的に造った山である可能性が極めて高いと私はみています。平安京の中軸がこれで決まりました。ではどの程度の規模にするかは、嵐山と大文字山を結んだ直線を基線として使いました。嵐山と大文字山を結んだ直線の距離は約13・2キロですが、その半分の約6・6キロを船岡山から平安京の中軸南限である羅城門までの距離に設定したわけです。たまたま偶然そうなっただけではないかと訝る方もいると思いますが、そうではありません。嵐山と大文字山を結んだ直線は平城宮の中軸南限である朱雀門を通るからです。この二つの事実からわかることは、平安京造営者は間違いなく、嵐山と大文字山を結んだ直線を平安京の位置と規模を決めるための基線として利用しているということです。(続)
2015.02.05
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昨年のムー12月号で発表しましたので、ご存知の方もいると思いますが、1200年以上前の日本の都である平安京も、方角とエネルギーの関係を綿密に計算したうえで造営されています。北には鞍馬や貴船に続く深い谷、北東にはずっしりとした存在感のある比叡山、東には樹木が生い茂る青き山々があり、南東の風通しは良く、南には火の山の替わりの甘南備山があります。さらに南西には畑や田んぼなど穀倉地帯が広がり、西には渡月橋で知られる嵐山と桂川がなす湿地帯、北西には天に通じる山岳信仰のメッカ愛宕山が鎮座しています。それぞれの方角に、その方角のエネルギーを強める自然が配置されています。まさにパワースポット。1000年以上にわたり日本の都であったこともうなずけます。しかしそれにもまして凄いのは、古代測量土木技術士たちが山と山を結ぶタカミムスビの法則を駆使して、距離と方角を決めて完璧な測量を基に平安京を築いたことです。(続く)
2015.02.03
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自宅にパワースポットを作る基本的な考え方は以上です。時間も手間もお金もそれほどかかりません。高額な料金を払って、誰かに診てもらう必要もないんですね。そもそも巷に氾濫している風水は、必ずしも日本に当てはまるものばかりではないことに注意する必要があるでしょう。基本的な考え方を抑え、後は実験と研究を繰り返せば自分に合ったパワースポットを自宅に作れるはずです。まだ細かい方法はたくさんありますが、ここでは紹介いたしません。ご興味のある方は秋山氏との共著である『あなたの自宅をパワースポットにする方法』(成甲書房刊)を参考にしてください。さて、問題はここからです。方角に色や形、性質が備わっているという”基礎知識”を基にして、これを都つくりや国作りに応用することです。つまり、次の段階として、あなたの町や国をパワースポットにする方法があるということです。方角に色や形、性質が普遍的に備わっているのなら、それは都にも応用できることになります。北には滝や洞窟、北東には大きな山、東には森、南東からは風が入り、南は火山か三角形の山、南西は畑、西が湖、北西は宇宙や天(たとえば円形の天体観測所や拝殿)をそれぞれ配置すればかなり強力なパワーを持った都が出来上がるはずです。ただ、なかなかそのような地形に巡り合うことはありませんから、既存の山々などの自然を加工しながら工夫して都つくりを進めればいいわけです。そして方角とエネルギーの関係とは別に、考慮しなければならないのが、高い山と山、目立つ山と山を結ぶタカミムスビの法則です。(続く)
2015.02.02
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昨日書き忘れましたが、干支とは「え(兄)」と「と(弟)」で兄弟、つまり本来は陽と陰のエネルギーのことを言います。西暦で言えば、偶数年が陽のエネルギー、奇数年が陰のエネルギーの年となります。ちなみに2015年は奇数ですから陰の年となりますが、これはあくまでも便宜上そうなるだけで、毎年陰と陽の年が交互にやって来るとは、私は考えておりません。ただし陰と陽のエネルギーは振り子のように触れながら、陽に傾けば陰、陰に傾けば陽へと、バランスを取っているのは間違いないように思います。そう考えると、毎年陽と陰を繰り返す干支は、宇宙に存在する現象を非常に象徴的に表している思想であると言えるのではないでしょうか。さて方角に色や形、性質があるとして、自宅をパワースポットにすることは非常に簡単です。自分の家に欠けている、あるいは必要だと思う性質の方角を強めればいいだけなんですね。例えば父性やリーダーシップを強めたければ、その性質を持つ方角(北西)を強めることです。つまりこの場合、北西に相当する色や形を家の中心から見て北西の場所に置けばいいのです。北西は天、宇宙、円形、丸いもの、灰色などですから、宇宙の写真やグレーっぽいもの、それに丸いものを家の北西に置けばいいだけです。また北東は数字の1ですから、「1」と書いた紙を壁に貼るだけでも効果があることになります。逆にもっとカカア天下にしたければ、南西の性質を強めることです。南西は大地ですから、陶器を含む土のモノを南西に置きます。形は正方形で、色はオレンジやピンクのもの。数字は8ですから、「8」に関係するものを南西に据えます。しかし何事もバランスですから、どこかの方角に特化してしまうのもほどほどにしなければいけません。できれば、一カ月に一回ぐらい診断をするといいです。どこか欠けている方角がないかどうかを調べます。この方法も簡単で、もちろん直感でわかればそれに従えばいいのですが、トランプやタロットカードでその直感が正しいかどうか占う(裏付ける)こともできます。例えば北にはそのシンボルである剣かスペードのカードの山を、東は杖とクローバー、南は聖杯かハート、西は硬貨かダイヤのカードの山をそれぞれ置いて、心を整えたうえで、剣・スペードの山から北、北東用に一枚ずつ引き、杖・クローバーの山から東と南東用にそれぞれ一枚ずつ、同様に聖杯・ハートの山から南と南西用、硬貨・ダイヤの山から西と北西用に一枚ずつ引きます。偶数は陽、奇数は陰とすれば、引いたカードの偶数の大きい数字ならその方角は強く、逆に引いたカードが奇数の大きい数字ならその方角が弱いと設定して、占えばいいわけです。それである程度はどの方角のバランスが崩れているかを確認できるはずです。このぐらいのことならお金はほとんどかかりませんから、試しに実験をしてみることをお勧めします。少なくとも家の雰囲気はガラッと変わります。気に入ったら、それを続けてみることです。一応、おさらいを兼ねて、それぞれの方角の性質や形を記しておきますので、参考にしてください。北(集中力):黒、滝、洞窟や穴など割れ目の入った形、水、耳、ネズミ、6北東(継続・続行力):藍色、山、凸形、螺旋階段、牛と虎、7東(人間関係力):青と緑、木、長方形または円柱、雷、足、森、ウサギと猫、4南東(自由になる力):紫、風、波打つ形(波形)、布、旗、龍と蛇、5南(熱意・情熱の力):赤、火、三角形、仮面、目、馬、3南西(受容力):オレンジとピンク、大地、正方形、土、羊と猿、8西(コミュニケーション力):白と金、湖、三日月の形、金属、口、鳥、2北西(リーダーシップ力):グレー、天、円形(丸いもの)、宇宙や空、犬と猪、1
2015.02.01
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