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神代植物公園に戻る前に、深大寺の門前のお店で草餅をいただきました。お焼きやみたらし団子を食べる時もあります。上の写真は門前市と紅葉ですね。右の角の店を左に曲がると、水木しげるの漫画で有名な鬼太郎の茶屋があります。鬼太郎茶屋で、一反木綿のお匙でアイスを食べることもできます。深大寺にも詣でます。階段を上ったところが深大寺の正門。本堂にお参りします。境内の紅葉も見事でした。(続く)
2019.01.31
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水生植物園の続きです。美しい日本の田舎が都会に蘇ったような風景ですね。すすきと晩秋の空です。しばらく水生植物園を散歩した後、再び神代植物公園に戻ることにしました。ちょうど下校時間と重なって、大勢の子供が深大寺の参道を歩いておりました。歩きながら空を見上げると・・・ところどころ、紅葉の鮮やかな赤が目に飛び込んできます。空も高く青いです。その大空を、タツノオトシゴのような雲が飛び回っておりました。(続く)
2019.01.30
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バラ園の会談で丹後旅行が決まった後、いつものように深大寺でおそばをいただきました。この日は、神代植物公園から少し離れたところにあるお蕎麦屋さんを選びました。お蕎麦屋さんのそばは紅葉が進んでおり、なかなかの景色でした。おそばをいただいた後、すぐそばの水生植物園へ。ここも神代植物公園が管理していますが、入場無料で、開放されています。きれいな風景が広がります。非常によく整備されており、しかも自然が豊かでお勧めの場所でもあります。特に初夏の菖蒲は見ごたえがあります。美しい庭園のような植物園です。(続く)
2019.01.29
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高尾山に詣でる一日前の昨年11月28日。久しぶりに神代植物公園にバラを愛でに出かけました。バラがきれいに咲いていますね。四季咲きのバラを多いので、一月でも咲いているバラもあります。この日はたまたま公園の近くに住んでいる友人に電話をしたら、御一緒することができました。そうしたあれよあれよといううちに丹後旅行の話がまとまり、その人と12月に丹後を旅することになったんですね。これもすべて法隆寺・聖徳太子のご縁です。澄み渡るような秋の空ですね。
2019.01.28
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この日はモミジ平から先へは進まず、下山することにしました。帰りはリフトもケーブルも使いません。一番よく使う下山ルートは稲荷山コースです。尾根伝いの道です。木の根が露出して凸凹していますが、コンクリートの道ではないので私は好きです。稲荷山の展望台に到着。展望台から見た都心です。ここから登山口まではわずかです。この階段を下れば、コースの執着点です。山頂から1時間15分ほどで下りてこられます。これで高尾山詣でのブログはおしまいです。こちらはおまけ。その日の帰り道に見た夕景です。
2019.01.27
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高尾山の山頂に着いたらそれでお仕舞かというと、私に関してはそういうことはありません。高尾山ハイキングで面白いのは、ここからなんですね。私はほぼ必ず、奥高尾の方まで足を運びます。大体小仏・城山まで行って戻って来るのが、普通のルートです。というのも、景色がどんどん良くなるからですね。奥高尾・モミジ平。ここは陽当たりが良いので紅葉も他より進んでいます。真っ赤になっていますね。遠くを見渡せば・・・相模の霊峰・大山が見えていますね。道も自然の中を行く、土の道が多く、足にも優しいです。何より、人も少なくなります。自然を大いに満喫できるんですね。巨木と空の競演も見どころです。(続く)
2019.01.26
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まだまだ急な登りが続きます。ふと下を見ると、枯れたモミジが・・・かなり登ってきました。頂上まであとわずかです。頂上付近の紅葉。緑と赤と黄色が混在していますね。そしてようやく頂上に到着。頂上は、紅葉を見に来た人たちでにぎわっておりました。(続く)
2019.01.25
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四号路は吊り橋を渡った後から、だんだん急な坂になります。上の写真は後ろを振り返った時に撮影したものです。結構きつい傾斜の階段でした。そして疲れた時にふと上を見上げると・・・紅葉と青空が疲れを吹き飛ばします。しばらくすると、再び倒木が行く手を塞ぎます。くぐり抜けて、前進。奥山を行く登山路です。木漏れ日がきれいですね。(続く)
2019.01.24
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リフトの終点付近の紅葉はこのような感じでした。緑が黄色に変わってきていますね。赤くなるのはもう少し先のようでした。リフトやケーブルの終点から高尾山の山頂へのハイキングルートの中で、私が一番気に入っているのは4号路です。その四号路を進んでいくと、行く手に倒壊した巨木が現れます。昨年10月1日の台風で倒れたんですね。うちも屋根の一部が壊れました。で、さらに四号路を進むと、吊り橋が現れます。吊り橋ですから、結構揺れます。吊り橋を渡って谷を越えたところで見つけた紅葉です。陽当たりのいい場所の紅葉は、山の上のほうでは見ごろになっておりました。さらに先を進みます。(続く)
2019.01.23
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リフトの終点付近の紅葉はこのような感じでした。緑が黄色に変わってきていますね。赤くなるのはもう少し先のようでした。リフトやケーブルの終点から高尾山の山頂へのハイキングルートの中で、私が一番気に入っているのは4号路です。その四号路を進んでいくと、行く手に倒壊した巨木が現れます。昨年10月1日の台風で倒れたんですね。うちも屋根の一部が壊れました。で、さらに四号路を進むと、吊り橋が現れます。吊り橋ですから、結構揺れます。吊り橋を渡って谷を越えたところで見つけた紅葉です。陽当たりのいい場所の紅葉は、山の上のほうでは見ごろになっておりました。さらに先を進みます。(続く)
2019.01.23
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昨日はリフトに乗って伊豆半島の大室山に登ってきましたが、リストを使った山登りも景色が楽しめていいですね。さて高尾山のリフトから眺めた紅葉の続きです。見事な紅葉が続きます。しかし、紅葉がきれいだったのは途中まで。実は登れば登るほど、まだ紅葉の時期には早かったんですね。高尾山の山頂付近が紅葉するのは12月の上旬です。上のほうはまだ緑のもみじが多かったです。リフトの終点に到着しました。ここから山頂まで少し歩きます。(続く)
2019.01.22
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リフトに乗り込んだ後、針葉樹の森の陰の中を進みます。しばらくは常緑樹のトンネルが続きます。そのトンネルを抜けて、開けた場所に出ると・・・そこには紅葉のトンネルが待っていました。今日は錦織戦を見ていて遅くなったので、ここまでです。(続く)
2019.01.22
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昨秋は京都の紅葉だけではなく、11月30日には高尾山にも紅葉を愛でに参りました。見てください、この鮮やかな紅葉を!燃えるような紅葉ですね。昔は下から歩いて高尾山に登ったのですが、最近はケーブルかリフトで上がるようになりました。この日はケーブルが混んでいたので、リフトを使って登ります。(続く)
2019.01.20
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京都市右京区太秦。ここには、603年秦河勝が聖徳太子から授かった仏像を祀るために建立した広隆寺があります。太秦寺とも呼ばれます。境内にはモーゼの十戒を思わせる「十善戒」の案内板が設置されておりました 殺すなかれ、盗むなかれなど、まさに十戒ですね。参拝客も後を絶ちません。奥の霊宝殿には国宝の弥勒菩薩の彫刻など飛鳥~鎌倉時代を代表する仏像が安置されています。鞍馬の火祭、今宮神社のやすらい祭とともに京の三大奇祭の一つである牛祭も有名です。寺院に祭があるのは珍しく、仮面や飾りつけをしたまだら神が牛にまたがり、仮面をつけた四天王が松明を持って従い、境内と周辺を一巡するなどの祭祀が行われるそうです。このときは紅葉がきれいでした。11月19日に訪れました。
2019.01.19
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松尾の大神である大山咋は別名で山末之大主神と呼ばれる山の神です。山王祭の祭神としても知られていますね。そして同時に酒の神でもあります。お酒の資料館です。松尾大明神は酒奉行だそうです。こちらは大山咋.の肖像画。山の神らしい風貌に描かれていますね。別の庭園にあったカメと鯉。休憩所にも立ち寄ります。最後はみたらし団子を食べて、参拝を締めました。(了)
2019.01.18
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松尾大社の石庭からは御神体山の松尾山へと登る参道が続いています。なかなか風情のある鳥居と登山道ですね。ただしこの日は、これ以上上には登りませんでした。その代わりお参りしたのはこちらです。三宮社のご祭神の玉依姫は大山咋のお后ですね。四大神社の四柱のご祭神は四季の神で、大山咋の弟・羽山戸とオオゲツヒメとの間に生まれた子供であるとみられます。滝御前のご祭神ミヅハノメは代表的な水の神ですが、ここでは大山咋の母親・アメチカルミヅヒメ(イチキシマヒメ)、もしくは瀬織津姫ではないかと思われます。上の写真は滝御前。その後方には滝が流れています。カメの御手洗。水と縁の深い神社であることがよくわかりますね。(続く)
2019.01.17
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昨日はパソコンの大引っ越しで、ブログどころではありませんでした。さて、松尾大社でしたね。上の写真は楼門です。楼門をくぐると、拝殿と本殿が現れます。中央が拝殿で、左側の建物は、祭器庫と書かれています。拝殿から本殿を見たところです。背後の岩山がご神体山の松尾山になります。我々が行けるのは、この本殿の前までです。ここには庭園があります。石の庭園ですね。次回はこの庭園の奥を紹介しましょう。(続く)
2019.01.16
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伏見稲荷大社に参拝した後、京都駅からバスに乗って松尾大社に行きました。京都の西・西京区嵐山宮町にある神社です。嵐山の南隣にある松尾山をご神体山としています。上の地図で言うと、一番上に描かれているのが嵐山。その下に描かれているのが松尾山で、白い「現在地」のところに松尾大社があります。で、その松尾大社の全景が次の絵です。松尾大社の案内板。正式には「まつのおたいしゃ」と読むようですが、一般的には「まつおたいしゃ」と呼んでいますね。御祭神はオオヤマクイとイチキシマヒメ。イチキシマヒメはスサノオとアマテラスの間に生まれた宗像三女神の次女です。中津島姫、サヨリヒメとも呼ばれています。水の神です。では、なぜオオドシの息子オオヤマクイと一緒に祀られているかというと、おそらくそれはオオヤマクイの母親だからです。つまり、イチキシマヒメはオオドシことニギハヤヒと結婚したアメチカルミズヒメであることがわかるわけです。オオヤマクイは鏑矢(丹塗り矢)となって松尾から桂川を下って賀茂川(鴨川)や宇治川と合流、淀川に至り、大阪・三嶋にいたミゾクイミミことタケツノミの女タマヨリビメと結婚します。生まれた子が、鴨王こと賀茂別雷神。天日方奇日方とも呼ばれています。賀茂川のそばの上賀茂神社のご祭神ですね。そして上賀茂神社で、鴨王と一緒に祀られているのが神武天皇であるというのが、竹内氏の口伝です。(続く)
2019.01.14
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参道のお店に並んでいたキツネ人形。お土産にいいかもしれませんね。さらに下って行くと・・・竹でできた千本鳥居も現れます。次はカエルの”狛犬”。末広大神を祀っているようです。伏見稲荷大社は摂社もユニークで、まるで神社のテーマパークです。外国人観光客が大勢訪れるわけですね。最後に伏見稲荷大社の千本鳥居の上を見上げると・・・曇り空でしたが、ほのかな紅葉が垣間見えておりました。これで「伏見稲荷大社に詣でる」は終わりです。次回は「松尾大社に詣でる」が始まります。
2019.01.13
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11月の19日は紅葉の最盛期とは言えませんでしたが、かなり色づいておりました。足下を見ると・・・紅葉の落ち葉と緑の苔のコントラストが鮮やかです。登るときは立ち寄らなかった休憩所で、少し休憩します。二股に分かれたところでは、登りとは違うルートを選択。千本鳥居を抜けてひたすら下ります。いい感じですね。何かジェットコースターに乗っているような気分になります。(続く)
2019.01.12
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末広大神をお参りした後、下山します。今度はひたすら千本鳥居をくぐりながら下ります。下りながらも、次から次へと末社が現れて、結構面白いです。こちらは長者社。社殿の後ろに御神体の剱石があります。御祭神は加茂玉依姫。鴨王とイスズヒメの母ですが、最初のオオヤマクイ(火雷神・丹塗り矢)との結婚で鴨王を、次のタケツノミとの結婚でイスズヒメを儲けたと推測されます。元々は琉球の王女ですが、タケツノミとの関係で賀茂氏(ある意味で秦氏)になったのだと思われます。竹内氏によると、神武の乳母でもあったとか。この時代のキーパーソンであったことは間違いありませんね。さらに下って行きます。次は御膳谷。七神蹟地の一つで、往古に三ヶ峰に神供をした所と伝えられています。菊花紋の衣装を身に付けた眷属神のキツネが番をしていますね。次は玉を頭に載せたキツネさん。玉や鍵、巻物などを持っているキツネがよく彫られています。秦氏が秘密を握っているということを示しているように思われます。(続く)
2019.01.11
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千本鳥居をくぐりながら、ご神体山である稲荷山をドンドン登って行きます。景色も遠くを見渡せるようになりますね。さらに険しい階段の参道を進むと・・・視界の開けた休憩所のような場所に到着。京都の街並みや京の町を囲む山々がよく見渡せます。上の写真は山頂付近の急峻な階段を上から撮影したものです。そしてとうとう、一ノ峰にある上之社神蹟・末広大神を祀った神社に到着。末広大神とは商売繁盛の神様とされ、大宮能売大神(おおみやめのおおかみ)と同一神だとの説がありますが、よくわかっていません。秦氏のみが正体を知る神様ということでしょうか。(続く)
2019.01.10
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11月の法隆寺と京都ツアーでは初めて全国の稲荷社の総本宮である伏見稲荷大社に参拝してきました。11月19日のことです。紅葉のシーズンが始まったこともあり、かなり混んでいました。人を写すことなしに、写真は撮れない状態です。それでも、なるべく人が写らないように撮影します。これが精いっぱい。稲荷神社の鳥居は鳥居は奥の宮がある山の上のほうに向かって、ずっと続きます。途中、台風の被害で倒木した木々があちこちに見受けられました。ところどころにお店があり、疲れた人はそうしたお店で休憩しながら登ります。神社に参拝というより、高尾山に登るハイキングの感覚に近いです。さて、稲荷神社のご祭神と言えば、スサノオの子ウカノミタマ(宇迦之御魂神、稲倉魂神)です。ただし秦氏は稲荷という言葉の底にキリストを隠したことは既に話した通りです。キリストとは猿田彦のことだそうですから、伏見稲荷大社にも猿田彦の神が祀られているはずですね。さて、どこに祀られているかというと、中社の佐田彦大神です。サルタヒコではなくサタヒコと一字隠しているところが奥ゆかしいです。ここの神様は一字隠しか二字隠しされている場合が多いです。三ノ峰(下之社神蹟) で祀られている白菊大神も、白山菊理姫(竹内氏によるとイザナミの霊界での名前)が隠されているのではないかと思っています。(続く)
2019.01.09
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「森の中の家 安野光雅館」はこのようなところです。京都の高級料亭として知られる和久傳(わくでん)が、2007年より創業の地である丹後に「和久傳ノ森」をつくり、お米や野菜などの栽培を行っていたのですが、その和久傳ノ森に2017年オープンした美術館です。併設するレストランの食事もおいしかったです。和久傳ノ森の後、天岩戸神社を訪れました。天岩戸神社といっても、宮崎ではなく、京都・福知山市大江町の山の中にあります。近くには岩戸山(日室ヶ嶽)と呼ばれる神の降臨を伝えるピラミッド型の神体山があり、頂上付近には岩の祭祀跡があるとされています。大江地域にある元伊勢三社のうちの一社。元伊勢というのが意味深いですね。で、その日は京都市内に泊まって、翌日(12月6日)地元の山に帰ります。その途中、立ち寄ったのは浜名湖。ウナギで有名ですね。特大ひつまぶし。久しぶりにウナギを堪能いたしました。これで「丹後半島をめぐるの旅」のレポートは終わりです。
2019.01.08
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これまで『先代旧事本紀』の説明をあまりしてきませんでしたが、聖徳太子との絡みもあり、御紹介しましょう。『先代旧事本紀』は、推古天皇の時代(在位592~628年)、聖徳太子と蘇我馬子が撰修したと序文に記さている史書・神典です。蘇我馬子らの序文は偽作である可能性はありますが、それ以外はおおむね9~10世紀ごろ成立した古代伝承を記した真面目な書ではないかとみられています。この本が編纂された背景には、その約100年以上前の8世紀に編纂された『古事記』『日本書紀』の存在があります。記紀の編纂は天武天皇(在位673~686年)の時代に皇威高揚のために編纂が始まったとされていますが、その編纂の過程で、当時の権力者・藤原不比等(659~720年)が自らの氏族(中臣家)の権勢を高めるために、他の豪族の権威を貶めるなど改ざんを行った可能性が強いのです。具体的には、朝廷の祭司権や軍事権を掌握していた物部氏や、その祖神であるニギハヤヒの神威を低下させたわけです。そこが大きな禍根を残したわけですね。その改竄に大いに不満だったのは、物部、大伴、忌部といった大和朝廷誕生当時からの豪族たちです。このまま新興氏族の藤原氏が作った歴史が幅を利かせることになったら大変だという危機感がありました。おそらくその危機感から編纂されたのが『先代旧事本紀』というわけです。で、伴氏といえば、軍事を掌握した古代豪族・大伴氏の末裔である可能性が高いですね。ご本人に確認したわけではありませんが、大伴氏の末裔でいらっしゃるなら、歴史におけるニギハヤヒの復権を望むのは至極当然なことなんですね。アプローチの仕方こそ違いますが、記紀によって改ざんされた古代の歴史を、なるべく真の歴史に近づけようとする気持ちや意味において、伴さんも私も意見が一致したわけです。(続く)
2019.01.07
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「森の中の家 安野光雅館」に立ち寄ったのは、絵本作家安野光雅の作品を見に行くためだったのですが、同時に同館副館長の伴とし子さんに会うためでもありました。伴さんは『ヤマト政権誕生と大丹波王国』など、古代丹波の歴史本や古代大和朝廷の歴史本を何冊も書かれている方です。運よくお会いすることができて、楽しく興味深い話を聞かせていただきました。天火明ことニギハヤヒが歴史からほぼ消されている事実。そして、古代においては女系の血統かどうかが祭祀王や祭主を決める際に非常に重視されたことなどで意見が一致して、うれしかったです。伴さんのおかげで、私は再度『海部氏勘注系図』を読み返すことになって、宗像三女神の末子タギツヒメの別名がカムヤタテヒメであることを確認させてもらいました(『先代旧事本紀』でもカムヤタテヒメは高津姫ということになっています)。竹内氏からカムヤタテヒメはスセリビメのことであると以前から聞いていましたから、スセリビメはタギツヒメであったことになるわけです。あとは、天火明がスサノオの子オオドシと同一人物であることが証明できれば、”消された古代史”の謎の究明がかなり進むことになりますね。何かいい説明ができないかなと思って、私が持っている『先代旧事本紀(訓註)』(大野七三編著)を読んでいると、巻末の概説に「ニギハヤヒはスサノオの御子オオドシ神である」と明確に書かれていました。竹内氏のヒントなしに、この結論に辿り着いたとは、すごい洞察力です。大野氏はその根拠として、原田常治の『古代日本正史』に、出雲の須我神社を訪ねたらスサノオの五王子を祀った摂社があり「琴平 大歳命」となっていた、ことを挙げています。面白いですね。四国の琴平にある金刀比羅宮のご祭神は大物主ですから、三輪の大物主神がオオドシであることの一つの証拠になりますね。オオドシが大物主であることは『古事記』のオオナムジによる国作り神話で「海上を照らす三輪山大神」の活躍のすぐ後に出てくるオオドシの神裔からして明らかです。で、大物主は、倭大物主櫛甕魂命(やまとおおものぬしくしみかたまのみこと)とも呼ばれます。クシミカタマとは櫛玉のことにほかなりませんね。天照国照彦天火明櫛玉はニギハヤヒノミコトの形容詞ですから、ニギハヤヒ=大物主=オオドシとなるわけです。面白いことに、『先代旧事本紀』、聖徳太子、それに伴さんは深く関係しています。次回はそのことについてご説明しましょう。(続く)
2019.01.06
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丹後の旅からかなり脱線しましたが(もちろん関係も大いにあるのですが)、脱線ついでに神武政権誕生の際にウマシマジ、天香山、タケツノミ(スエツミミ)らがどのような役職を担ったかについても触れておきましょう。ウマシマジは「美間(うま)し」「熱(うまし)」からわかるように、食糧大臣・農水大臣です。そもそも母親のミカシキヤヒメが「御炊屋(みかしきや)」と呼ばれたぐらいですから、食料を調達・調理する最高責任者であったことが推察されます。天香山は、宝刀「フツ」と関係があることや、高倉下(食糧庫や武器庫を管理する人)の別名があることからわかるように、防衛・運輸大臣あるいは軍事王です。海神族と手を結んでいましたから海軍王であったのかもしれませんね。そしてタケツノミことスエツミミは大蔵大臣です。なぜならタケツノミは「耳」になったからですね(耳成山)。耳と言えば、大判、小判の縁のことです。よく金額を不足なくとり揃えることを「耳を揃えて」とか「耳が欠けてもならぬ」などと形容します。耳はきちっと決まった国家予算の大判・小判を象徴するものなんですね。だから大蔵大臣のことを指すわけです。軍事、財務、食料の三つの大臣職に加えて、祭祀大臣・宮内庁長官職があり、それぞれをウマシマジ系、天香山系、タケツノミ系、鴨王系などで分担していたと思われます。それぞれどの役職についてかは、ある程度名前から類推することができます。で、丹後の国はもともと、それらの系列の大本にいたニギハヤヒの故郷のようなところですから、物部氏と蘇我氏が争うような事態になると、聖徳太子の母親が逃げてくるなど避難所にもなっていたわけですね。おそらく初心に帰るという意味もあったのではないでしょうか。聖徳太子の話から丹後の旅の話に戻りましょう。12月5日。丹後古代の里資料館を後にして、京丹後市久美浜町にある「森の中の家 安野光雄館」に向かいました。(続く)
2019.01.04
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守屋、布都、馬古、鎌足、馬子、蝦夷、入鹿ーー。非常に意味深な名前が、物部・蘇我が争った時代から大化改新までの時代にかけて歴史を彩っています。まず、物部守屋。ここから類推されるのは、タケミナカタが国譲りの際に逃れたとされる諏訪の守屋氏と守屋山ですね。モリヤ山からわかるように、古代ユダヤ人と関係があるように思われます。秦の徐福とオオナムジが古代ユダヤと関係があるのなら、物部もまた大いに関係があったことが推察されます。布都姫のフツも凄い名前です。軍神を表わすとともに、まさに宝刀を表わす神器の名前でもあるからです。国譲りの際にタケミカヅチとともに、オオナムジを屈服させた神の名であり、神武東征の際に神武を助けたのもこの宝刀でした。宝刀は高倉下こと天香山から神武に手渡されたことになっていますね。その神器のフツは、蘇我馬子に渡ったことが、布都姫かその娘(鎌足姫)を馬子が娶ったことからわかるわけです。次にウマコ。ほぼ同じ時代に蘇我馬子と物部馬古の二人がいます。蘇我馬子は物部守屋を殺し、物部からフツを手に入れました。一方、物部馬古は、蘇我馬子が亡くなり、その子と孫の蝦夷、入鹿が滅ばされた年(645年)に中臣鎌足の推挙があって即位した孝徳天皇の護衛をする任に当たっています。主導権が蘇我から物部に移ったことをいみじくも語っていますね。ではこの「馬」が何を意味するかとというと、物部馬古を物部宇麻子と書くことからもわかるように、ニギハヤヒとミカシキヤヒメの間に生まれたウマシマジの「ウマ」から来ています。つまり、ウマシマジの正統な後継者が誰なのかということを、同族の蘇我氏と物部氏の間で争ったということになるわけですね。面白いのは、蘇我蝦夷です。蝦夷というと、熊襲と同様に朝廷に刃向う一族のことですよね。なぜ、そのような名前をわざと付けたのか、という疑問が生じます。「蝦夷」というと強そうだからではないかとの説もありますが、私はそうは思いません。実はナガスネヒコこと日ノ本(日下)将軍(ひのもとしょうぐん)は生き延びて、東北に逃れ蝦夷になったという説があるんですね。竹内氏の「帝皇日嗣」ではそうなっているそうです。青森県に「日本中央」と彫られた石碑があるのはそのためであると、竹内氏は『古事記の邪馬台国』の中で書いています。ナガスネヒコが蝦夷ならば、その妹ミカシキヤヒメの直系の子孫である蘇我氏が蝦夷と付けても矛盾はありませんね。入鹿にも何か意味があるはずですが、鹿島神宮に祀られているタケミカズチやフツヌシの神と関係があることが推察されます。そして、「鎌足」です。蘇我馬子の妻になった物部鎌足姫の「鎌足」が中臣氏こと藤原氏に渡っていることは注目に値しますね。というのも、中臣鎌足こそ、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)を助けて蘇我家(蝦夷、入鹿)を滅ぼし、大化改新に大功を立て、その後権力の中枢を担うことになった藤原鎌足だからです。名前にはこのような歴史的な意味が含まれているのです。(続く)
2019.01.03
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蘇我馬子と物部守屋との間の争いは、反仏教派(廃仏派)の物部氏と仏教推進派(崇仏派)の蘇我氏の間の権力闘争とは思えないだけの血縁的な複雑さが存在します。一番の問題は、蘇我馬子ー蝦夷―入鹿と続く蘇我一族には物部氏の血が入っていることです。というのも、馬子は政敵物部守屋の妹・布都媛(フツヒメ)を娶って、蝦夷が生まれているからです。異説もあり、馬子の妻はフツヒメの娘・鎌足姫との説もありますが、いずれにしても物部一族の娘を妻にしたことは間違いありません。競争相手、あるいは敵将の妹を娶るという政略結婚は、前にもありましたね。そうナガスネヒコの妹ミカシキヤヒメを娶ったニギハヤヒのケースです。物部家の祖先はニギハヤヒとミカシキヤヒメの血統ですから、当然このような政略結婚は当たり前のようにあったわけです。面白いのは、蘇我氏もニギハヤヒの血が流れていることです。蘇我氏の祖先は武内宿禰です。武内宿禰ということは、ヒコフツオシノマコトの直系ということですね。で、ヒコフツオシノマコトの母親はイカガシコメですから、ニギハヤヒとミカシキヤヒメの直系ということです。つまりどちらもニギハヤヒとミカシキヤヒメの政略結婚から生まれた血統で、違うのは父系が物部氏であり、どちらかというと母系から派生しているのが蘇我氏であるというだけなんですね。同族同士の争いであったと見ることもできます。しかも登場人物の名前も意味深ですよね。守屋、馬子、蝦夷、入鹿、布都、鎌足ーー。次回はこの名前について検証していきましょう。(続く)
2019.01.02
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元日。前夜、日の出の少し前に起きるように潜在意識に頼んでおいたので、例によって日の出の3分ほど前に自然に目が覚めました。カメラを持ってきて、撮影したのが次の写真です。生憎雲が出ておりましたが、雲間から2019年の太陽が顔を出します。まばゆい光が暗雲を吹き払うように差し込んできますね。秋山眞人氏によると、今年は植物や人間関係、そして東の方位を象徴する「震」の年だそうです。詳しくはこちらのYOUTUBEをご覧ください。賑やかな年になりそうですね。本年もよろしくお願いいたします。
2019.01.01
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