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2000年4月からは編集者としての人生が始まりました。ケネディ暗殺事件の一連の原稿を書くときに役に立ったのは、SAISで勉強したアメリカ外交史を中心とした国際関係論でしたが、「ニューズウィーク日本版」編集部で特に役に立ったのは、ハーバード・ケネディ行政大学院(ケネディ・スクール)で学んだ経済でした。 ハインズのミクロ経済、クーパーのマクロ経済、ロバーツの貿易論、それにドミンゲスの国際金融論です。 というのも、2001年から2004年まで、年一回の「世界経済」の特集と、毎週掲載される「USビジネストレンド」(見開き2ページ)というコーナーは私が担当していたからです。そこに掲載するコラムを書くときや企画編集するときに、とても役立ったんですね。 同誌の2001年版の「世界経済入門」で、私が書いたコラムはこちらです。 経済の専門記者らしい記事でしょ。国の経済規模を測る尺度となる国内総生産(GDP)を示す恒等式の説明です。どうやればGDPを増やすことができるのか、景況を判断できるのか、わかりやすく説明したつもりです。このときはまさにクーパーのマクロ経済論を学んだことをふんだんに使わせてもらいました。ハーバードで経済を勉強していなかったらこういう記事は書けなかったでしょうね。 ついでに「ニューズウィーク日本版」の編集者が何をするかも紹介しましょう。 基本的には、アメリカの「ニューズウィーク誌」が書いた英語の記事を日本語に翻訳して雑誌にします。しかしそれだけだと、日本の読者から遠い話ばかりになってしまうので、独自に企画して日本の読者向けに日本に関係する記事を随所に入れるんですね。当然、カバーも状況に応じて差し替えます。たとえば私が担当した世界経済入門シリーズは、日本の新入生や新入社員が読んでおくべき基礎知識的な情報といった面があり、毎年4月に発行される号に掲載されました。 「2001年版 世界経済入門」で説明すると、企画担当者としては、チャート付きリード2ページ、市場経済の総論2ページ、株と為替1ページ、経済理論1ページ、ビジネス2ページ、景気2ページ、自由貿易1ページ、日本経済2ページ、コラム1ページなどと企画のページ数(この場合は計14ページ)とその割り振りと構成を決めます。 で、それぞれのテーマを面白く書いてくれそうな専門家を探します。私が依頼した書き手は、当時の私の愛読書の一つだった『経済学TODAY』を書いたトッド・バックホルツ(Todd Buchholz | Economist, Keynote Speaker, & Best Selling Author)と、ワシントンDCのSAISでお世話になったエドワード・リンカーン(Edward J. Lincoln · Conference on Cultural and Educational Interchange (CULCON))。直接メールでやりとりして、ワード数や内容、原稿料などの条件を伝えて、書いてもらいました。もちろん英語で書いてもらい、それをこちらで訳すわけです。最後のコラムは自分で書くことにしました。 (続く)
2025.01.31
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こうして、1996年から99年まで3年間にわたるアメリカ滞在を華やかに彩った大学院での勉強の日々と、テニス三昧の日々と、あちこちへの旅行の日々、カリブ海ダイビングの日々、そして取材や執筆の日々も終わりに近づきました。 だけど、いつまでものほほんとしているわけにもいかなかったんですね。 職を探さなければなりませんでした。 実は米国滞在中に一度だけ、ある外資系メディア会社から内定をもらったのですが、肌に合わないことがわかったので辞退しました。無職になりましたが、たかが3年間、されど3年間という感じでした。1999年夏前に帰国後、すぐにとりかかったのは、職探しとケネディ暗殺事件で取材したことを原稿にして発表することでした。知り合いの記者から文芸春秋『諸君!』の編集者を紹介してもらって、掲載してもらったのが1999年9月号に掲載された「呪われた一族 J・F・K暗殺のナゾを解く」でした。それを加筆して、ケネディ暗殺の背後にある動機を詳細に明らかにしたのが、近代文芸社から出版した『ジョン・F・ケネディ暗殺の動機』だったわけです。原稿は1999年12月にはできていたのですが、出版されたのは2000年5月でした。 そうこうしているうちに、『ニューズウィーク日本版』編集部の中途採用試験を受けたら採用が決まり、2000年4月1日から編集者として働くことになりました。新聞記者から雑誌編集者に転職です。 それまで少し時間があったので、2000年3月中旬に与那国島の海底遺跡に潜りに行きました。私は「冬でも暖かい南の島専門のリゾートダイバー」で、2・5ミリのウェットスーツしかもっていなかったのですが、3月は寒そうだったので5ミリのスーツを購入。加えて、海底遺跡の写真を撮るために20万円くらいする広角レンズを購入して水中写真撮影に挑みました。 その時の写真が、のちに拙著『竹内文書の謎を解く』にも掲載された与那国海底遺跡の写真ですね。いいレンズだったのできれいに撮れました。その時のレポートはこちらをお読みください。https://plaza.rakuten.co.jp/yfuse/4001/ (続く)
2025.01.30
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このほかにもテニスはよくやりました。 ボストンの時と同様、テニスクラブに入っていましたからね。 ワシントンDC郊外のメリーランド州シルバー・スプリングにある総合スポーツクラブ「アスペン・ヒル・クラブ(The Aspen Hill Club)」で、何面あったか覚えていませんが、クレーコートでした。プール付きだったので、テニスの後はよく泳ぎました。丸二年間所属していたと思います。 同クラブに関する記事はこちら。 Aspen Hill Club Honored For 46 Years Of Keeping Silver Spring Healthy | Silver Spring, MD Patch請求書の束は今でも持っていて、一例を挙げると、1998年2月1日の請求金額は前月の会費が94ドルで、利用ごとに10ドル70セント、1月4,11,18日の三回利用したので、合計126ドル10セント請求されていますね。どうやらサンデー・ダブルスといって、決められた時間に来れば、同じようなレーティングの人が集まってダブルスができたみたいです。私はこのテニスクラブでも強くて、シングルスではそのクラブの55歳以上のクラブ・チャンピオンに申し込まれた練習試合(注:私はダブルスのほうが好きなので、申し込まれない限りシングルスの試合はしません)で勝ったことを覚えています。当時私は40歳くらいだったので、年齢のアドバンテージがありましたけれどね。 クラブのダブルスの公式トーナメントでは、年齢制限のない一般の部に出場。たまたまその日出会った、カリフォルニアから引っ越してきたばかりのライアンと組んで、前年の3位だった第三シードのペアを準々決勝で、第一シードの前年優勝ペアを準決勝で破って決勝まで進みました。ライアンは本当にうまかったです。その日は日没になってしまって、決勝戦は後日改めて行われることになったのですが、決勝戦の当日はあいにく「外出危険警報」が出るほどの寒気団に襲われ、結局その年は中止に。ダブルスでは幻のクラブ・チャンピオンとなりました。 (続く)
2025.01.29
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ケネディでずいぶん足止めを食ってしまいましたが、先に進みましょう。私がSAISを卒業(1998年5月)してから日本に帰るまで(1999年夏前ごろ)の約1年間、ほかに特筆すべきイベントは、1999年1月にペルーの天空都市マチュピチュやクスコ、地上絵で有名なナスカ、それにエクアドルの首都キトとガラパゴス諸島をめぐった南米旅行と、同4月のダイビング三昧で過ごしたタヒチ旅行でしょうか。当時、私が撮影した写真がこちらです。ガラパゴス諸島の写真ですね。多分エスパニョーラ島のガードナー湾だったと思います。アシカと人間が妙に共存していますね。沖の岩場でスノーケリングもしました。次はナスカの地上絵。有名なハチドリです。そして次は宇宙飛行士。この時使っていたカメラは水陸両用のニコン水中カメラ「ニコノスV」。当然、フィルムを使う銀塩アナログ写真です。今のように便利なデジカメがなかった時代でした。距離も絞りもマニュアルでしたが、まあうまく撮れたほうだと思います。マチュピチュの写真もどこかにあるのですが、見つかりませんでした。今度見つけたらアップします。タヒチ諸島モーレア島のグレーシャーク。体長1・5~2・5メートルあります。次はレモンシャーク。体長4メートルくらいある大物です。そして、こちらは潜っているときに撮ってもらったウツボとのツーショット。手に持っているのが、二コノスVです。水陸両用で大活躍でした。1998~99年の冬には、コロラド州のスキーリゾートであるベイル(Vail)にスキーをしに行っています。こちらです。スキーアメリカ|ベイル&ウィスラー公式代理店サンデーリバーのほうが面白かったですが、ここもまずまずでした。(続く)
2025.01.28
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ダウニングが心情を吐露したように、あくまでもCIAの支援を受けた反カストロ亡命キューバ人の犯行であり、CIAの直接関与はなかったと信じたいというのが、当時を経験したアメリカ人の心情だったのではないかと思われます。まさかCIAが、自国の大統領を殺すはずがない、と。しかし、その反カスロト亡命キューバ人の背後にCIAがいたのは紛れもない事実です。ロバート・ケネディも、兄の殺害直後から亡命キューバ人グループの存在があることはわかっていたようです。その背後でCIAが糸を引いていたことが暴露されてしまうのも時間の問題でした。だからこそ、1968年の米大統領選の最中に、ロバートは暗殺されたわけです。このCIA右派(ダレス派)の流れは、1972年に発覚したウォーターゲート事件に向かいました。ハワード・ハント、フランク・スタージス、反カストロ亡命キューバ人らが逮捕され、ニクソン大統領は辞任へと追い込まれました。それが、一連の事件の、いわば「落とし前」と呼ばれるものでもありました。しかしニクソンがホワイトハウスから追放されても、暗殺も辞さないCIA右派グループの暴挙が止まることはありませんでした。口を割りそうなマフィアの始末だけでなく、チリのアジェンデ政権下で外交官だった元外相オルランド・レテリエルをワシントンDCで爆殺した事件(1976年9月21日)や、キューバの民間航空機を爆破して乗客・乗員73人を死亡させたテロ事件(同年10月6日)などにCIAや、オーランド・ボッシュ、ノボ兄弟といった反カストロ亡命キューバ人たちが関与していたとみられています。こうして何か月にもわたり、公文書館で膨大な資料を集めながら、可能な限り関係者に取材したことによって完成したのが、『諸君』の1999年9月号に掲載された「JFK暗殺のナゾを解く」であり、2000年5月に出版された『ジョン・F・ケネディ暗殺の動機』(近代文芸社)であり、2006年10月に出版された『カストロが愛した女スパイ』(成甲書房)であったわけです。「諸君」の目次。掲載された論文。ノンフィクション作家としての処女作「ジョン・F・ケネディ暗殺の動機」。米公文書館で入手したマリタ・ロレンツの下院特別調査委員会での証言録を基に書いた『カストロが愛した女スパイ』。ケネディ暗殺事件の前後に起こったあらゆる事象・事件を矛盾なく説明できるのは、私が主張するこの説しかまずありえませんから、やがて暗殺の真相が本当に明かされる時がきても、私の主張に沿った内容になるはずです。その時は、ぜひこのブログを読み返してみてください。まあ、そのようなことすら、今の私にとってはどうでもいいことなのですけれどね。時折UFOが夜空を飛び交うこの宇宙の謎を解きながら、その神秘を体験して「真理」に近づくことのほうが、はるかに雄大で、面白く、楽しく、そして有意義だからです。(続く)
2025.01.27
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証人も証拠も徹底的に隠滅するというCIA右派(ダレス派)グループの方針は、1970年代になっても継承されていきます。シカゴのマフィアのボス、サム・ジアンカーナは75年6月、連邦政府の証人保護計画実施中であったにもかかわらず、自宅の地下室で射殺されました。ジアンカーナはこの時、カストロ暗殺計画でのCIAとマフィアの関係について議会で証言することになっていました。CIAによるカストロ暗殺計画で中心的役割を果たしたラスベガスのマフィアであるジョン・ロゼッリ(ジャック・アンダーソン氏の情報源)も翌76年7月、マイアミ沖に浮いていたドラム缶の中で、足を切断された死体の状態で発見されます。ロゼッリは議会で二度目の証言が予定されていました。ダラスでオズワルドと交友関係にあったジョージ・ド・モーレンスチャイルドは、議会調査団に証言する前の77年3月、自殺体で発見。それから48時間後には、CIAと関係しマフィアによる殺しを請け負っていたとみられるチャールズ・ニコレッティが、シカゴのショッピングセンター駐車場で後ろから3発の銃弾を浴び、殺されました。ジャック・ルビーや反カストロ分子と関係があったとみられるカルロス・プリオ・ソカラスも、ニコレッティが殺されてから6日後の77年4月、銃殺体で発見、"自殺"と断定されます。関係者に対する殺しや不審死が次から次へと発生しました。マローが警戒するわけです。ダウニングが初代委員長となった下院特別委員会が開催されている最中、CIAが慌てふためいて、いろいろな工作を再開したのは明白です。1977年にはスタージスが、下手な証言をしないように、自分の指示でカストロ暗殺未遂事件を起こしたマリタ・ロレンツを脅したり、記者会見でジョンソン大統領がケネディ暗殺事件の真相を隠蔽したと主張したり、情報攪乱作戦を展開します。ロレンツは無事、調査特別委員会でハワード・ハントが絡む「オペレーション40」について証言しますが、委員を説得させる決定打とはならなかったようです。だからこそ、ロレンツは殺されずに済んだのだと考えることもできます。(続く)
2025.01.26
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二人の怪しげなCIA工作員(マロー)と諜報員(バーンズ)を取り上げたついでに、マローと、ニクソンとつながりがあるワシントンDCの弁護士マーシャル・ディッグスとの間で交わされたという緊迫の会話をご紹介しておきましょう。オズワルドの単独犯であるとするウォーレン委員会の最終報告書が出た(1964年9月24日)直後の9月末頃です。この時はまだ、マローはケネディ暗殺の真犯人を知らされていなかったという前提でお読みください。ディッグス:ところで、ロバート・ケネディがお前のキューバ通貨偽造作戦をつぶした直後、ケネディ大統領が暗殺されたのを覚えているな。 マロー:ああ、覚えているが、キューバ人が関与しているって? どういうことだ。それはもう終わった話だろう? 実際、ウォーレン委員会の報告書にはそのような可能性のことは何も書かれていないではないか。ディッグス:(苛立たしく手を振って否定しながら)あんなのはどうでもいい。委員会だって疑念を抱いているんだ。もし、ある手がかりをつかまれたら・・・おそらく我々はここに座っていることはできないんだ。マロー:ちくしょう、脅かすなよ、マーシャル。あれは終わったことだ。キューバやキューバ人、それにCIAのことは何も(ウォーレン報告書に)書かれていなかったんだ。オズワルドがある朝起きて、ケネディが気に食わないからやってやると決めたということ以外、何の陰謀もなかったはずだ。 ディッグス:やつの弟もそう思ってくれたらよかったんだが・・・。 マロー:やつの弟って、ロバート・ケネディのことか? ディッグス:そうだ。ロバート・ケネディだ。★★★この時初めてマローは、ケネディ暗殺には、自分が属していたグループ(反カストロ亡命キューバ人とCIA)が絡んでいることを知るわけですね。 しかも、この会話の後、ケネディ暗殺の陰謀に気づいたと思われるメアリー・メイヤー(CIAのベテラン局員コード・メイヤーの元妻。ケネディ大統領とは不倫関係にあった)がロバート・ケネディに真相をばらす前に口封じしなければならないことが示唆され、マローはディッグスから、メイヤーのことを地下に潜っているコーリーに伝えるように頼まれます。マローはディッグスの要請通り、メイヤーのことをニューヨークに潜伏していたコーリーに伝えると、コーリーは「自分が何とかする」とマローに告げます。その2、3週間後、10月のさわやかな秋晴れの午後、メアリー・メイヤーが首都ワシントンDCのジョージタウンの自宅そばの運河沿いの散歩道をジョギング中に、何者かにつかまれ、押し倒され、頬骨のやや下のところを一発撃たれ、即死します。 ケネディ暗殺当初から、コーリーら反カストロ亡命キューバ人が絡んでいると疑っていたロバート・ケネディも4年後の1968年6月5日、カリフォルニア州の民主党大統領予備選に勝利した直後、暗殺されます。複数犯であった可能性があるにもかかわらず、一人のパレスチナ移民サーハンの単独犯行であるとされました。しかし、単独犯行説に疑問を持ったロバート・ケネディの友人でニューヨークの弁護士アラード・ローウェンスタインは独自に調査を開始、現場にサーハン以外の暗殺者がいたことを証明しようとした矢先に事務所で殺されます。 (続く)
2025.01.25
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ケネディ暗殺事件に関する「下院暗殺調査特別委員会」の初代委員長トマス・ダウニングとの一問一答は次の通りです。――特別委員会設置のいきさつは? 事件の一部始終をとらえたアマチュア写真家エイブラハム・ザプルーダーのフィルムを詳しく調べたところ、ケネディに向けて実は3発ではなく、4発の銃弾が浴びせられていることを確信したからです。しかもうち一発は、明らかにオズワルドがいた(ケネディの)後方からではなく、前方から撃たれていました。オズワルド一人の犯行とは到底考えられなかったわけです。そこでケネディ暗殺事件の再調査を議会に働きかけるために、(CIA秘密工作員)ロバート・マローの供述を基にしてレポートを書きました。 ――どのようなレポートだったのですか。 マローの証言では、CIAが支援していた反カストロの亡命キューバ人グループが暴走、オズワルドを使ってカストロの犯行のように見せかけ、ケネディを暗殺した。カストロがケネディ暗殺の背後にいるとわかれば、タカ派のジョンソンならキューバ侵攻を実行に移すと計算したのではないか、という内容です。――議会の反応はどうでしたか? 当時、ケネディ暗殺の再調査などは金の無駄遣いだとする批判の声が強かった。あのままでは、おそらく議会調査委員会を結成することはできなかったでしょう。しかし、同様に陰謀の疑いがあったマーチン・ルーサー・キングの暗殺も再調査するということで議会内の雰囲気がガラッと変わり、調査委員会が結成され、私が初代委員長になったのです。 ――複数の射撃者がいるなど陰謀があったと思われるが、人物の特定はできなかったと結論づけた同特別委員会の調査結果についてはどう思いますか。 私が途中、議員を引退したため委員長職を降りなければならなくなるなど人事でごたごたがありましたが、特別委員会はきっと陰謀を解明してくれると思っていました。事実、調査団のほとんどが陰謀の可能性を信じていたのです。にもかかわらず、79年の報告書は、今一つ踏み込みが足らず、失望しました。はぐらかされた感じがしました。 ――今でもCIAとコーリーの非合法活動グループがやったと思いますか。CIAが支援していた亡命キューバ人の反カストロ分子の誰かが関与したのは間違いないと思っています。おそらくコーリーと密接に関係する者の仕業でしょう。ただ、CIAがケネディ暗殺に直接関与したなどとは考えられないし、考えたくもないというのが本音です。 以上がインタビューの要旨です。 ダウニングはこの後、CIAの秘密工作員ロバート・マローの住所と電話番号まで教えてくれました。その電話番号に電話して、取材を申し込んだのですが、その答えはある意味衝撃的でした。 丁寧にこちらが何者でどのような取材をしたいのかを伝えたのですが、向こうはこちらの意図がわかるや、受話器の向こうでののしり始め、一方的に電話を切られてしまいました。ダメ元取材だったので仕方ない部分もあるのですが、かなり警戒しているというのが伝わってきました。ダウニングは、このインタビューの二年半後の2001年10月23日に亡くなりました。彼の履歴はこちら↓Thomas N. Downing取材を拒否したマローの履歴はこちら↓Robert D. Morrowそのマローが加わった極秘作戦の上司トレイシー・バーンズの経歴はこちら↓Tracy Barnesマローもバーンズも亡くなったと思われますが、詳細は不明です。 ネットの検索にかかりにくいのも、スパイらしいといえばスパイらしいですね。歴史の闇にうごめく影、もしくは魑魅魍魎のようで、漆黒の闇に溶けて消えてしまいました。 (続く)
2025.01.24
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私が幸運だったのが、ケネディ暗殺事件を調べるきっかけがジャック・アンダーソン氏に取材したことでした。事件の背後にある作戦の一番の肝となる核心部分の真実を教えてくれたからです。だからいい加減な憶測情報から入るのではなく、すんなりと真実からケネディ暗殺事件を俯瞰することができました。「CIAの暗殺作戦を知ったカストロが仕返しとしてケネディを殺したのだとジョンソン大統領が本当に信じていたこと」を頭に入れて私は、連日のようにアメリカの公文書館に通い、資料を漁(あさ)りました。こうした確実な手がかりとなる前提条件があると、実は資料集めもスムーズに進みます。逆に、マフィアがやったのだ、カストロがやったのだなどと思い込んで資料を集めると、そのような資料しか集まりません。前提条件が偏っていると、泥沼に陥ってしまうのです。しかしながら、一つだけでも確実な真実を前提にして探せば、非常に有力かつ有効な情報が詰まった資料を次々と見つけることができます。たとえば、資料を読んでいると、「ジャック・アンダーソンは我々(CIA)の暗殺の対象になっていた」「ジャック・アンダーソンは我々(CIA)のPRマン」だという相矛盾する証言が出てきます。偏った情報を思い込んでいる人には何がなんだかわからないわけです。あるいはどっちかの自分に都合のいい情報だけを見てしまいます。ところが、「確かな前提条件」を知りながら読むと、「ああ、アンダーソンはキューバのカストロがケネディを殺したと吹聴してくれるからCIAのPRマンなのだな」とか、「真相を知るマフィア(特にロゼッリ)に迫りすぎているから暗殺の対象になるのだな」ということがすぐ察知できるわけです。あるいは、スタージスが「PRマン」として利用価値があると説得したから、CIA内部で渦巻く「アンダーソンの暗殺」を思いとどまらせたのではないか、との筋書きも浮上してきます。だとしたらスタージスのおかげで私はケネディの本を書けたようなものです。アンダーソンが殺されていたら、私が後年アンダーソン氏に自宅でインタビューすることもなかったし、そうなれば当然、ケネディ暗殺の本を書く気にもならなかったはずだからです。また、ウォーレン委員会の報告を疑ってネディ暗殺事件を再調査するという目的で、1976年に米下院で発足した「下院暗殺調査特別委員会」の初代委員長トマス・ダウニングに取材できたのも幸運でした。1999年4月のある日、ワシントンDCから3時間ほど車を飛ばして、私はダウニングが住むヴァージニア州の港町ニューポート・ニューズに彼を訪ねました。(続く)
2025.01.23
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オズワルドを射殺したルビーは動機について「義憤にかられてやった」とか「未亡人の苦しみを少しでも和らげるためにやった」などとうそぶいていたようですが、だれもそんな供述を信じる人はいませんね。ルビーはカストロを殺したいほど憎んでいただけでなく、反カストロ亡命キューバ人と同じくらい、同じような理由で、ケネディを殺したいほど憎んでいたグループのメンバーだったことは間違いないと思います。カストロを排除するためにケネディが暗殺されたことがばれてしまったら、作戦の根底が崩れてしまいます。そうならないためにも、必ずオズワルドの口を封じなければなりませんでした。ルビーは逮捕後、オズワルドが死んだと聞いて安堵の表情を浮かべたといわれています。ルビーは自分の役割を果たしたわけです。通貨偽造で逮捕された工作員マローによると、ルビーとコーリーはキューバ利権絡みでお互いをよく知る仲だったそうです。また、ニクソンも、ジミー・ホッファ絡みでルビーとは旧知の仲です。少なくとも1947年からニクソンはルビーのことを知っており、ニクソンの下院議員時代にはルビーが下院の反アメリカ的活動に関する委員会で証言しなくて済むように画策したとされています。ニクソンはまた、通貨偽造でマローとともに逮捕されたコーリーについても、刑が軽くなるように嘆願書を裁判所に提出していることが分かっています。しかし、そのルビーも64年3月、オズワルド殺害で有罪となり死刑の判決を受けます。生前、何者かに命を狙われていることを臭わせて、「ワシントンDCの刑務所へ移送してくれたら真実を話す」と面会者らにしきりに懇願していたそうです。66年10月にはテキサスの上訴審で最初の判決には不備があったとして覆されましたが、新たな裁判が始まろうとした矢先の67年1月3日、肺がんで死亡しました。死刑怖さに本当のことをしゃべられたら大変ですからね。ルビーが示唆したように毒殺だったのかはわかりません。ただ、あまりにも都合よく亡くなったように感じます。ある意味、CIAの右派グループの作戦は、成功したのです。邪魔者のケネディを殺して、ジョンソンにカストロが殺したと信じ込ませた。まさに作戦の筋書き通りです。カストロがケネディを殺したことを知れば、民主党内でタカ派のジョンソンなら必ずキューバ侵攻にゴーサインを出してくれるはずだった。ところが、ジョンソンがそれを隠したのが大誤算でした。 カストロ政権打倒はできなかったものの、ケネディを殺すことによって、ケネディがCIAの解体を目論んで設立した国防情報局(DIA)がCIAにとってかわられるような事態は阻止したという痕跡だけは歴史に残されました。CIAの恨み、残された禍根はそれほどまでに大きかったのです。ケネディが暗殺された1963年の11月22日は、CIAのダレス長官解任(1961年11月29日)の屈辱2周年を迎えるちょうどその1週間前に殺されたというのは、単なる偶然でしょうか。そこには首謀者のケネディに対する復讐の念、意趣返しがあったように思えてなりません。ケネディ暗殺の翌日大統領に就任したジョンソンは同29日、事件の真相を明らかにするため、ダレス元長官をメンバーに含むウォーレン委員会を設置しますが、それは奇しくもダレス長官解任2周年となるその日でした。(続く)
2025.01.22
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Xデーがやってきました。11月22日午後12時半過ぎ。遊説先のテキサス州ダラスで、オープンカーに乗って行進中のケネディ大統領が何者かによって撃たれ暗殺されます。 ケネディが撃たれた直後の午後0時44分、「容疑者は名前不詳の白人の男。推定年齢20歳。体重165ポンド。痩せ型。ライフル携行」というオズワルドを想起させる犯人像が警察無線で流されました。しかし、一体誰から警察がこの犯人像の情報を手に入れたか、今日に至るまではっきりとはわかっていません。 犯人がケネディを撃ったとされるテキサス教科書倉庫の建物に駆け付けた警察官が従業員を点呼したところオズワルドがいなかったからだとか、オズワルドが足早に建物から立ち去るのを目撃したからだとか、いろいろな憶測に近い説明がなされていますが、どれも事実と矛盾しています。 たとえば、点呼でいなかったのはオズワルドだけではなかったのに、なぜオズワルドだけが犯人にされるのか説明がつきません。それに警察官が駆け付けたとき、オズワルドは建物のマネージャーと二階にいて、コーラ販売機で買ったコーラを飲んでいるところでした。これではまるで、暗殺の陰謀者がオズワルドをはめるために、オズワルドの情報を警察にたれ込んだとしか思えませんね。実際、ウォーレン委員会の法律顧問の一人ウェスリー・レイベラーによると、この謎の無線は委員会をひどく苛立たせたそうです。なぜなら暗殺が起きる前にオズワルドがすでに「かも」として選ばれていたことを示唆するからだ、としています。この謎の警察無線の犯人像にそって、警察はオズワルドを追い詰めていきます。そして映画館にいたオズワルドを午後1時40分に逮捕します。所要時間は40分。何というスピード逮捕でしょう。最初からオズワルドを犯人として仕立て上げていなければ、こううまくは進まないでしょうね。 オズワルドに対する尋問はその日の深夜まで続けられましたが、オズワルドは捕まる少し前にオズワルドに似た人物が警官を射殺した容疑も、ケネディ大統領を殺した容疑も頑強に否定しました。 オズワルドはようやく、自分がカモにされたことに気づきます。自分はCIAの隠密作戦に参加していると思ったら、その役割は真犯人のスケープゴート(身代わり)でしかなかったわけです。オズワルドは逮捕直後から記者団の前で「過去の(ソ連への)亡命につけこまれた」「自分は嵌められた」「私はパッツィー(patsy=簡単にだまされたり、誰かが間違ったことをしたことの責任を取らざるを得なくなったりする弱い人)だ」と主張し続けました。 全部本当のことだったわけですね。 この事件に絡んだ人物で真実を話す可能性がある人間はみな殺されます。逮捕から2日後の11月24日午前11時21分、オズワルドはダラス警察の地下駐車場で、郡刑務所へ移送される車に乗る直前に、あのカジノ利権でカストロに恨みを持つジャック・ルビーによって銃撃され、殺されます。(続く)
2025.01.21
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ケネディがなぜCIAにこれほど憎まれたのか――朧気ながらですが、全体像が見えてきたのではないでしょうか。 CIAによるカストロ政権転覆計画をことごとく邪魔して失敗させ、ミサイル危機も政治的活力を得るための道具にされたと感じていたからですね。それに関連してCIAのピッグス湾事件担当部員ハワード・ハントがのちにニクソン大統領の部下チャールズ・コルソンに「(キューバの件に関して)もし真実が知られたら、ケネディの名声は地に落ちるだろう」と語っているのは、ミサイル危機が見せかけだけの政治的勝利だったとCIAが考えて、あるいは見抜いていたからではないでしょうか。しかも、こともあろうに「あの若造(Little Kennedy)」は、生え抜きのダレスらが苦労して作り上げたCIAを解体しようとすらしていたわけです。 だからこそ、政治的な一大イベントとしての「ミサイル危機」が海上から消え去っても、水面下ではケネディ対CIAの抗争が熾烈さを増していったのです。1962年11月以降の両者の動きを追っていきましょう。 反カストロの亡命キューバ人のリーダーであるコーリーの地下組織は、ソ連のミサイルは常設基地に移されただけで、大半が手つかずの状態になっているとの報告を受けたバーンズらCIAのダレス派は、コーリーとCIA工作員マローに通貨偽造作戦の更新を命じ、作戦遂行を急がせます。これに対しケネディは、亡命キューバ人に対する取り締まりを一層進めます。故意か偶然か、コーリーの地下組織に資金を提供していた国際資本家が登場した飛行機が破壊され死亡します。 63年になるとCIAは、元米海兵隊員リー・ハーヴィー・オズワルドを共産主義にかぶれ、カストロとも関係がある怪しげな人物であることをにおわせる偽装工作を展開させます。同時にオズワルドをカストロ政権が送り込んだスパイだと思わせるために、反カストロキューバ人の組織にも潜り込ませ、わざと問題を起こさせます。すなわち、オズワルドは気づいていなかったと思いますが、オズワルドをカストロが放った刺客にみせかけて、ケネディ殺しの犯人に仕立て上げようとしていたというわけです。63年8月、ケネディ政権は反カストロ活動を止めさせるために全国的に取り締まりを強化します。そのさなかの9月7日、相次ぐCIAによる暗殺計画の発覚に激怒したカストロが、米国首脳への報復を示唆します。これを受けてケネディ司法長官は9月16日、CIA工作員で国際反共主義部隊部隊長のフランク・スタージスに激しく警告します。元FBIでのちにCIAの秘密工作員となったガイ・バニスターらが、背後の首謀者にカストロがいることを臭わせる架空の「ワシントンDCでの暗殺計画」が流布されたのもこのころです。 コーリーによるペソ偽造作戦の準備が完了すると、9月22日ケネディ司法長官は偽造作戦を直ちに中止し、すべての反カストロ活動を力ずくでつぶすよう指示します。 10月1日、ケネディ大統領もペソ偽造計画の中止を命令。コーリーとマローは通貨偽造容疑で逮捕されます。これに対し、コーリーの地下組織グループとCIAのダレス派工作員(以下CIA右派グループとする)は、ケネディが生きている限りキューバ奪還は不可能だと判断、ケネディ暗殺作戦を決断したのではないかとマローがのちに述懐しています。 10月16日、CIA右派グループはオズワルドをテキサス教科書倉庫の仕事に従事させます。 11月になると、CIA右派グループはオズワルドをこれから実行するケネディ暗殺の犯人に仕立て上げるため、セイモアという「オズワルドのなりすまし」を使って、ライフルの購入や射撃場での射撃練習をやらせて「怪しげな男」の足跡をわざと残させます。事件発生3日前の11月19日までには、ハワード・ハント、フランク・スタージス、ガイ・バニスター、それにキューバのカジノ利権絡みのジャック・ルビーら「札付きの悪人たち」が続々とテキサス州のダラスに集結します。 (続く)
2025.01.20
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ミサイル危機の表面上の決着とは裏腹に、実はかなり大きな問題が残っていたことが後になってからわかってきます。 そもそも合意があってからソ連のミサイルがすぐさま撤去されたわけでもなければ、ケネディ政権が出した三つの条件(キューバのミサイル基地建設の中止、攻撃型ミサイルの撤去、国連の査察団受け入れ)のうち、三番目の査察団受け入れはカストロが抵抗して最後まで認められなかったからです。 確かに表向きは、ミサイルは撤去されたことになっていますが、撤去したミサイルを積んだとされる船の重さが計算上軽すぎると思われるなど怪しい点も多々あり、かなりの数のミサイルが取り除かれないままキューバに残っていた可能性があるわけです。まあ、査察が認められなかった以上、キューバとしてはなんでもできるわけです。そもそもキューバにとっては、ソ連と米国がキューバ抜きで、その場の思い付きで勝手に決めた「政治的な口約束の合意」だったことになりますからね。完全な言いなりになったとは思えません。検証ができない、あいまいな合意だったということもできます。 ミサイル危機に際してカストロは、慎重に交渉を進めるフルシチョフを叱咤激励する意味で、アメリカを核攻撃するように迫っているとも解釈できる書簡を送っていたことが知られていますし、事前の通告もなく決定された米ソの合意にもかなり憤っていました。フルシチョフはカストロに、「ケネディによるキューバ不侵攻の確約は大きな勝利である」ことや、「これ以上アメリカの要求に応じることはない」と伝え、なだめなければならなかったこともわかっています。 ソ連陣営同様に、ケネディ政権内も実は米ソ合意には不満を表明している人物は参謀内におりました。カーチス・ルメイ空軍参謀やジョージ・アンダーソン海軍参謀らは合意内容に不服で、最後までミサイル基地の空爆や即時侵攻が必要であると主張していたそうです。 当然、そのように考えていた人たちが、CIAの内部にもいたわけです。 とくにミサイル危機が起きる1年半前に、「ケネディは、キューバにミサイル基地が存在する事実を隠して、(62年11月の)中間選挙に利用しようとしている」と考えるバーンズのような幹部がCIAにすでにいたことは注目すべきポイントだと思います。 実際ケネディがそのように考えたかどうかは別にして、結果的にミサイル危機を解決したケネディ大統領は、勇敢な決断力によって核戦争という地球の危機を救ったとして一躍ヒーローとなり、中間選挙を有利に戦うことができたわけです。確かに中間選挙一か月前からの駆け込み的な盛り上げ方は尋常ではありませんでした。これが本当に盛り上げ作戦だったとしたら、すごい演出であり大した役者であるとしかほかに言いようがありません。 これに対して、カスロトやソ連軍の内部からは、米国に大幅譲歩したとして激しい非難の声がフルシチョフに浴びせられました。米国に弱腰であるとみなされたフルシチョフは、二年後の1964年10月14日に失脚します。 ある意味、ニクソンもミサイル危機のトバッチリを受けた一人だったのかもしれません。実績を買われて62年11月、生まれ故郷であるカリフォルニア州知事選挙に出馬しますが、対立候補のパット・ブラウンに大差で敗れ落選します。 選挙翌日の11月7日にビバリーヒルズのヒルトンホテルで行われた記者会見で、失意のどん底にあるニクソンは、詰め掛けたマスコミの記者団を批判しながら「君たちがニクソンを虐待するのはこれで終わりだ。何故なら、これが私の最後の記者会見だからだ」と捨て台詞を吐く始末。 そのため、多くの国民は彼の政治生命は終わったと感じ、同年11月11日のハワード・K・スミスのABCニュースの番組では「リチャード・ニクソンの政治人生の終わりを悼んで(The Political Obituary of Richard M. Nixon)」と題した特集も組まれたほどでした。 しかし、人間万事塞翁が馬。若くして副大統領にまでなった人物をメディアがこき下ろしたせいで、逆にニクソンへの同情票が集まり始めるんですね。ニクソンは不死鳥のようによみがえり、1968年と72年の米大統領選挙に勝利。CIAのハワード・ハントや工作員フランク・スタージス、それに反カストロの亡命キューバ人のグループが起こしたウォーターゲート事件によって辞任に追い込まれるまでの5年半、大統領の職に君臨し続けました。 (続く)
2025.01.19
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ソ連によるキューバのミサイル基地建設は、反カストロの亡命キューバ人の地下組織が指摘していたように、60年には始まっていたと思われます。62年はそれが最終段階に入っていました。7月かれ8月にかけて、ソ連の貨物船が集中的にキューバの港に出入りするようになりました。ソ連はこの動きに対して「キューバの安全を守る防衛目的であり、アメリカの安全に脅威をあたえるものではない」と説明します。これに対してケネディ大統領は、「キューバがソ連に軍事基地を提供した場合、断固した措置を取る」と声明を出します。段々きな臭くなってきましたね。ケネディ対CIAという水面下の対立の図式に、今度はケネディ対ソ連のフルシチョフという水面上の対立の図式が加わります。1962年10月14日、米軍のU―2偵察機がキューバ上空で偵察飛行をした結果、アメリカ本土を射程内とするソ連製中距離弾道ミサイルが存在することがわかります。これを受けてケネディ大統領は16日、国家安全保障会議執行委員会(エクスコム)を開催、徹底的な調査を命じます。その結果、明らかに防衛目的とはいえない、攻撃用の中距離ミサイルの基地であることが判明。海上封鎖を実行し、事態が進まなければキューバへの空爆を実施する方針を19日までに固めます。そして10月22日午後7時(米東部標準時)、ケネディ大統領はテレビとラジオを通じて演説し、キューバにソ連の攻撃用ミサイルが持ち込まれていることを明らかにしたうえで、攻撃用ミサイルを持ち込ませないように海上封鎖(海上隔離措置)を実施すると発表しました。これに対してフルシチョフは、海上封鎖は国際法違反であり、キューバのミサイル基地建設は続けると表明します。ここから米ソ間の緊張した駆け引きが始まります。25日の緊急国連安全保障理事会で、ソ連のミサイルがキューバ基地に配備などされていないと言い張るソ連に対して、米国が航空写真という動かぬ証拠を提示、ソ連がキューバに攻撃用ミサイルを配備していることを世界中に知らしめます。お互い腹の内を探りながら、緊張が高まり、「全面核戦争」の可能性をはらみながら、駆け引きが続きました。キューバ上空での米軍の偵察機の撃墜や、ソ連海軍の潜水艦への爆雷投下などが起きて、全面核戦争が起きかねない一触即発の事態が次々と発生します。米国、ソ連の双方とも、軍部は強硬策を打ち出すようそれぞれの首脳に迫ります。しかし、ケネディもフルシチョフも、全面核戦争だけは何としても避けたいと思っていました。両首脳による緊張感ある何回かの書簡のやり取りを経て、ソ連がキューバのミサイル基地建設を中止し、攻撃型ミサイルの撤去、国連の査察団の受け入れを了解すれば、米国は海上封鎖を解き、キューバを攻撃・侵攻しないと確約するという米国の書簡の内容を受け入れる形で、ソ連のフルシチョフがモスクワ放送で「ミサイル撤去の決定」を公表します。ワシントン時間で10月28日午前9時でした。劇的な決着――。「世界が最も核戦争に近づいた13日間」とも呼ばれるキューバ・ミサイル危機は、表面上はこれで解決したのでした。(続く)
2025.01.18
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ここまで話したら、大体どのようなことが当時起きていたかお分かりになったと思います。ピッグス湾事件の後、作戦の失敗を問う形でCIAを解体しようとするケネディと、キューバのカストロを何とかして排除しようとするCIAの間で、壮絶な打ち合いやしのぎ合いが始まったのです。1959年にCIAのダレス長官によって発令されたカストロ暗殺作戦は、ケネディ政権の承認を得ないまま継続されていましたし、ケネディ司法長官が認めなかったペソ偽造作戦もマローとコーリーらによって進められていました。1961年6月には、CIAはケネディ大統領に対してキューバのミサイル攻撃の危険性増大について説明しますが、ケネディ大統領はなんら具体的な対策を講じようとしません。逆に7月、弟のロバート・ケネディ司法長官を通じて、カストロ政権に対してペソの偽造計画が亡命キューバ人によって進行中であると警告します。同時に米国内における反カストロ亡命キューバ人グループに対する取り締まりを開始しますが、CIAは逆に、極秘裏に同グループへの支援を続けます。同年8月、カストロ政権はケネディ司法長官の忠告(警告)を受けて、亡命キューバ人による偽造通貨作戦の裏をかき、通貨を変更。コーリーらはそれにめげることなく、翌年9月には偽造ペソを使ってカストロの軍隊を買収する新たな侵攻計画を発案します。このケネディ政権とCIAによる熾烈なつば競り合いが行われている最中の同年11月29日に、ダレス長官が突如解任され、翌62年2月までにキャベルとビッセルの二人の副長官も首になったわけです。しかしCIAのトップ3人の首を切っただけで、この問題が終わったわけではありませんでした。カストロ暗殺計画は続いていましたし、キューバもミサイル基地の建設を続けていました。CIAにはバーンズやハントなどすぐにもミサイル基地を叩くべきだと考えていた人物がいる一方、ケネディ政権はミサイル基地の存在を知りつつも、慎重な姿勢を取っていました。このケネディ政権の慎重姿勢が、CIAのバーンズが指摘するように中間選挙対策上の盛り上げ作戦だったのかどうかははっきりとはわかりません。確実な証拠をつかむのを待っていたのかもしれません。ただ、わかっているのは、次々と現れるCIAの刺客をかわしながら、CIAの訓練を受けた亡命キューバ人の侵攻を食い止めるには、もはやソ連の中距離核ミサイルに頼るしかないとカストロが考えたとしても不思議はないということです。(続く)
2025.01.17
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大失敗に終わったピッグス湾事件からほどなくして、リンドン・ジョンソン副大統領からキャベル副長官に送られたメモには、ケネディ大統領が極秘にロバート・マクマナラ国防長官に対して、どのような手段を使ってもいいからCIAの権力を骨抜きにし、最終的にはCIAに替わる新しい情報機関を設立するよう命じたということが書かれていたのです。同時に、大統領のシークレットサービスの一人が手に入れた、ロバート・ケネディ司法長官に宛てたケネディ大統領のメモには、CIAが大統領の命令に反してキューバペソの偽造計画を進めていることを憂慮したうえで、キューバ政府にこのことを漏らしてみたらどうかと勧めている内容が書かれていました。この二つのメモについて、少し説明しておきましょう。CIAは諜報機関ですから、当然政府部内にも情報ネットワークを張り巡らしているわけです。そのうちの一人がジョンソン副大統領で、彼はケネディ大統領がCIAの解体を狙っていることをCIAの副長官にこっそり知らせていたということがここからわかります。当然、ケネディ大統領は極秘裏にCIA解体を狙っていたはずですから、まさか副大統領がCIAと通じてその情報を流していたことは知らなかったと思われます。その意味で、ジョンソン副大統領は、ケネディ政権にとって獅子身中の虫であったとみることもできますね。同様に大統領警護のシークレットサービスの中にもCIAの情報屋がいて、ケネディ大統領のメモを盗み見て、その内容をCIAに伝えていたということになります。また、二つ目のメモからは、キューバのカストロ政権を弱体化させるためCIAの支援でキューバペソの偽造作戦が進められていたこともわかります。同時にケネディ大統領はそのCIAの計画をカストロにばらしてしまえと言っていることになり、CIAにとってみれば、利敵行為にほかならないわけです。マローはこの二つ目のメモを読んで、憤慨します。これに対してキャベルは、「外交戦略上、正当化されることもある」とマローをなだめる一幕もありました。キャベル、ビッセル、バーンズ、マローによるCIAの秘密会談は1961年4月24日の午前にあったのですが、この日の午後、ロバート・ケネディ司法長官と、前年のニクソンとCIAの密約で次期キューバ大統領が確約されていた亡命キューバ人の右派系リーダーであるマリオ・ガルシア・コーリーの会談がありました。その場でコーリーがキューバのミサイル基地の写真などの証拠を見せることや、もしその時の司法長官の反応が否定的だった場合は、コーリーがテレビに出て、ミサイル基地の存在を暴露するという段取りでした。ところが、司法長官はコーリーの話はでっち上げだと激怒、キャベルにコーリーを捕まるよう命令します。キャベルは命令に従うふりをして、マローと一緒にコーリーの逃亡を手助けします。こうしてマローとコーリーは、CIAの支援を受けながら、ケネディ政権の意向を全く無視してキューバの通貨偽造計画を進めていくわけです。(続く)
2025.01.16
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その情報が最初にもたらされたのは1960年1月、イギリス諜報部からでした。 当初(1959年5月ごろまで)は親米的だったカストロが、ニクソンに袖にされたことから、次第にソ連に傾倒していったころです。59年12月にはダレスCIA長官がカストロ暗殺計画を承認していましたから、キューバのカストロ政権とアメリカ政府の関係は、すでに修復できないほど険悪になっていたわけです。 そのような最中の60年1月のある日、英軍の偵察機が上空からキューバに奇妙な施設が建設中であること発見します。その後の偵察と分析から英国は同年3月までに、キューバに攻撃用ミサイル基地が建設中であるとの結論に到達します。同4月、反カストロキューバ人の地下組織が、キューバのミサイル基地が米国も射程に入る中長距離ミサイル基地であると米政府に報告。これにより亡命キューバ人によるキューバ侵攻作戦が具体化し、前回お話ししたピッグス湾事件につながったわけです。 つまり当然、ケネディ大統領もキューバにミサイル基地が建設中であることを1961年4月までに知っていた可能性が高いんですね。 ところが私たちが知っている歴史では、ケネディがキューバにミサイル基地があることを知ったのは62年10月に発生したミサイル危機のときだったということになっています。 もちろん、ケネディには知らされていなかったという可能性もありますが、ピッグス湾侵攻作戦を正当化する口実として、必ずCIAはそのことを説明したはずです。CIAとしては、とにかくなんとしてもケネディを説得して、キューバ侵攻作戦を成功させたかったからです。 それなのになぜケネディは、62年10月までそのことを秘密にしていたのでしょうか。 その謎を解くカギが、CIA秘密工作員のロバート・マローとCIAの国内秘密作戦部門のトップであるとされるトレイシー・バーンズ(Tracy Barnes)との間で交わされた会話にあります。ピッグス湾事件から約1週間後の1961年4月24日のことです。マロー自身が自著『First Hand Knowledge』の中で明らかにしています。 マロー:大統領は、米国の目と鼻の先のキューバにミサイル基地があることを知っておきながら、我々にキューバを侵攻するなと命令し、しかも、そのミサイル情報を秘密にしろと命じたのか。なぜだ? バーンズ:おそらくケネディは、このミサイル基地情報を政治的推進力のテコの力として応用できるまで、具体的に言えば、62年の中間選挙の結果に影響を与えることができるまで、取っておきたいのだ。この種の策略は、他の政治でもよく使われた。フランクリン・ルーズベルトがこの種の策略の天才だったのは、ロバート、お前も知っているだろう。 この会話の後、二人はチャールズ・キャベルCIA副長官とリチャード・ビッセル計画担当副長官の二人にCIA本部のキャベルの部屋で会います。 その席でマローは、リンドン・ジョンソン副大統領からキャベル副長官に宛てられたメモを見せられます。そこには、なんとCIAが総力を挙げてケネディと全面対決しなければならない理由が書かれていたんですね。 (続く)
2025.01.15
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1961年4月15日。 キューバ機に偽装してニカラグアから飛び立った米軍のB―26爆撃機がキューバの空軍基地を爆撃。 これを受けて17日には、CIAによって訓練された1500人のカストロ政権打倒軍がピッグス湾からキューバ上陸を開始しました。 ところがケネディ大統領は、空爆が米軍によるものだとわかると国際的な非難にさらされるのではないかと恐れて、予定していた二度目の空爆に踏み切れず、最終的には中止します。 これにより、ピッグス湾に上陸した反カストロ亡命キューバ人の部隊は孤立無援となり、壊滅。多くはカストロの部隊に殺されたり、捕まったりして、作戦は大失敗に終わりました。 この二度目の空爆の中止をめぐっては、ケネディ政権内部でかなり激しい意見対立があったことがわかっています。ケネディの側近には、キューバ侵攻への米国の軍事的支援が明らかになれば、ソ連の介入を誘発し第三次世界大戦へと発展しかねないと、空爆に反対する人が多かったのです。これに対して、ダレス長官らCIA幹部は、国際世論など無視して徹底的にカストロ軍を空爆で叩くべきだと強硬に主張したんですね。 CIAのピッグス湾上陸作戦担当の諜報部員ハワード・ハントらは、ケネディが第二次空爆を躊躇しているとき、CIAの戦争会議室で早く空爆するよう、激しいののしりの言葉を発していたといわれています。このハントも、ケネディ暗殺に関わったとされる重要な人物です。スタージスにハント――だんだん核心に近づいてきますね。 大失敗したこの作戦は、「The Bay of Pigs fiasco(ピッグス湾の完全なる失敗」と呼ばれ、愚かな作戦の代名詞として今でもアメリカ外交史の語り草になっています。 大失態を目撃し、うなだれて肩を落としたダレスは、思わずニクソンにこう漏らします。 「ああ、彼(ケネディ大統領)には失敗は絶対に許されないと言っておくべきだった。もうちょっとで説得できたのだが、できなかった。私の人生で最大の失敗だ」 ダレスが吐露した「人生最大の失敗」はほどなく、「人生最大の汚点」に変わります。 ピッグス湾事件失敗の責任を取らされて首になるからです。 1961年11月29日、前日にケネディ大統領から「国家安全保障メダル」を受け取ったばかりのダレス長官は、体よく解任されます。生涯最大の屈辱の日でもあったでしょう。腹心のキャベル副長官とリチャード・ビッセル計画担当副長官も翌62年の2月までに解任されました。彼ら、特にダレスが「いつかケネディに復讐してやる」とつぶやいたとしても、不思議ではありませんね。実際ダレスは後に、あるジャーナリストの質問に答えてケネディのことを「あの小生意気なケネディめ。奴は自分のことを神だと思っていやがった(that little Kennedy, he thought he was god)」とののしっていたそうです。しかし、CIAがケネディを殺したいほど嫌う理由はまだあるんですね。 それがこれからお話しする1962年のキューバ危機です。 (続く)
2025.01.14
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1960年の10月、ニクソン、キャベル、コーリーという三者の密談によって、次のことが合意されたといわれています。(1)CIAの支援・訓練を受けた亡命キューバ人の武装部隊が近々、カストロ打倒のためにキューバに上陸する。(2)上陸作戦が成功した暁には、反カストロキューバ人部隊の中の左派系指導者は排除し、米国は右派系のコーリーをキューバ大統領と認める。少し説明を加えましょう。実は反カストロ亡命キューバ人といっても、一枚岩ではなかったんですね。CIAの考えに近い右派のコーリーもいれば、途中からカストロと袂を分かったホセ・ミロ・カルドナや左翼の「キューバ革命前線」のリーダーらも亡命キューバ人として米国に逃れてきていたわけです。CIAとしては、せっかくカストロを追い落としても、再び左派系指導者がトップに座ったら意味がありません。そこでコーリーを新しいキューバのトップにするために、上陸作戦に加わったグループのうち左派系の亡命キューバ人は始末してしまうという密約が交わされたわけです。さらにこの上陸作戦が遂行される際には、アメリカは少なくとも三回の大規模な空からの援護爆撃を実施する計画があったことがニクソンの自伝からわかっています。この密約が成立したことで、カストロ政権を転覆させるキューバ侵攻作戦まで秒読みに入りました。ところが、ここで不測の事態が発生します。同年11月の大統領選挙で、新大統領に選ばれると目されていたニクソンが、ぽっと出の若造であるケネディに敗れてしまったんですね。ケネディの勝因の一つには、私に手紙をくれたハワード・K・スミス氏が司会をして米大統領選で初めて行われたテレビ討論会で、ケネディのイメージがニクソンを上回ったからだとされていますね。慌てふためいたのは、ダレスCIA長官です。すぐさまキューバ侵攻作戦の重要性を新大統領のケネディに説明します。CIAの幹部たちが連日のようにケネディ大統領の執務室に押しかけて、カストロがアメリカの安全保障にとっていかに危険であるかということを説き続けました。CIAは、すでに亡命キューバ人のグループが戦闘態勢を整えているとケネディに説明。カストロ政権打倒軍がキューバに上陸さえすれば、“独裁者カストロ”の“圧政”に苦しめられている国民が蜂起し、容易にカストロ政権を駆逐できると主張しました。当初、作戦は1961年2月に予定されていましたが、ケネディは国際世論の動向を懸念して侵攻をなかなか認めようとしません。しかし、CIAが絶対にうまくいくと請け負ったことなどから、ケネディはとうとうゴーサインを出します。1961年4月15日。米軍機であることを隠すためキューバ国籍を装った米軍爆撃機「B-26」8機がニカラグアの秘密基地からキューバへと飛び立ちました。(続く)
2025.01.13
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このカストロ新政権の誕生をめぐって、米国では意見が二つに割れます。米国務省のラテンアメリカ担当者の多くはすぐに承認すべきだとする一方、CIAのダレス長官やニクソン副大統領はソ連の影がちらつくカストロ政権承認に反対でした。当時のアイゼンハワー大統領は、翌60年にはダレスとニクソンの意見を聞き入れ、カストロ政権は米国にとって脅威となりうると判断。キューバ国内外で反カストロ活動を支援することを容認します。この方針に従って、ニクソンとダレス、それに反カストロの亡命キューバ人は急接近。CIAはカストロ政権を打倒するためのキューバ侵攻に向けて、反カストロ亡命キューバ人に武器を支給したり、訓練を施したりするなど支援を開始します。これがのちのピッグス湾事件につながります。同時にCIAは、キューバにカジノ利権を持っていたマフィアに目を付けます。したたかなマフィアは、カストロ革命軍がバティスタ政権軍と戦っている最中から、カストロ革命軍が勝っても利権を損なうことがないよう、カストロに武器を調達して恩を売り、いわば保険をかけていました。この保険は役に立ち、カストロ政権発足後もしばらくの間、マフィアは賭博場の運営を認められていたんですね。カストロは武器調達などで革命戦争勝利に貢献したフランク・フィオリーニこと、後に改めフランク・スタージスを事実上の賭博大臣に指名しました。このスタージスこそ、CIAの秘密工作員としてケネディ暗殺事件やウォーターゲート事件で暗躍する中心人物の一人です。スタージスが「賭博大臣」をしていた時代のキューバの賭博場のマフィアの親分がサント・トラフィカンテらで、その関係者に後にオズワルドを射殺するジャック・ルビーがいるわけです。CIA工作員でもあるスタージスは、カストロ政権が共産主義のほうに流れるのかどうかを探る役目を担っていました。1959年8月には、ニクソン副大統領に邪見にされたカストロは次第に反米色を強め、ソ連寄りの路線を鮮明に打ち出します。そして、腐敗した資本主義の象徴である賭博やマフィアを締め出し始めました。スタージスや、トラフィカンテ、ジャック・ルビーらは、目の前で取り壊されていくカジノを見て、カストロを激しくののしったにちがいありませんね。スタージスがカストロ政権を見限って、反カストロの亡命キューバ人側に乗り換えたのはこのころです。スタージスは、「賭博大臣」のほかに、カストロの下で革命キューバ軍の諜報活動にもかかわっていましたから、いわば二重スパイであったことにもなります。それにしても、カストロの反米路線が明確になったことにより、多大な打撃を受けたのは、トラフィカンテらのアメリカのマフィアでした。ニューヨークタイムズ紙によると、当時マフィアがキューバの賭博場から得ていた収益は年間3億5000万~7億ドルだったと言います。CIAが不満を持つマフィアをカストロ政権つぶしに使わない手はないわけです。反カストロの亡命キューバ人、カストロと敵対するマフィア、それにカストロを安全保障上の敵とみなしたCIA――これで駒が出そろいました。カストロ暗殺を含む、カストロ政権打倒作戦の火ぶたが切られました。これを受けて、米大統領選のさなかの1960年10月中旬ごろ、次期大統領が確実視されていたニクソン副大統領とCIAのキャベル副長官、それに反カストロの亡命キューバ人の右派系リーダーであるマリオ・ガルシア・コーリーの三人は、ワシントンDC郊外のゴルフ場で密談、カストロ打倒のためのキューバ侵攻作戦とその後の政権について密約を交わします。(続く)
2025.01.12
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CIAの内部では全く蚊帳の外だったマコーン長官がケネディ暗殺直後、中止されていたはずのカストロ暗殺計画が自分の知らないところで極秘裏に進められていたことや、暗殺の容疑者オズワルドの背後にカストロがいたのだという報告を部下から受け取って、腰を抜かさんばかりに仰天したにちがいありません。ですから暗殺の翌日慌てふためいて、就任したばかりのジョンソン新大統領の執務室に息を切らして駆け付け、マコーン以上に何も知らされていなかったジョンソン大統領に「ケネディがカストロを殺そうとしたが、カストロがケネディを最初に殺したのです」と知らせたというわけです。幸か不幸か、CIAのカストロ排除作戦は、まったく事情を知らないマコーンとジョンソンの「英断」によって妨害され、あえなく失敗に終わりました。おそらく首謀者は「共和党のニクソンが大統領になっていれば、こんなことにはならなかったのに」と地団太を踏んだにちがいありません。あとでまた説明しますが、カストロ暗殺は、1960年にニクソン副大統領とダレスCIA長官が大統領選挙期間中に決めたことだったからです。ケネディは排除されたが、肝心のカストロは排除されなかった――この厳然たる事実を前にしてCIAは、今度は作戦に関係する重要証拠や、真相をしゃべりそうな証人を次から次へと抹消・抹殺するという、極めて長期にわたる血も凍るような徹底的な証拠隠滅作戦に乗り出すわけです。それはCIAの存亡をかけた「生きるか死ぬかの作戦」でもありました。とにかく、もしばれたら、国中驚天動地の大騒ぎになるのは目に見えていたからです。それにしても、なぜCIAはここまでケネディを憎んでいたのでしょうか。それを説明するには、ケネディ大統領暗殺と深く密接に関係する、ケネディ大統領就任後三か月目(1961年4月)に起こったピッグス湾事件について説明しなければなりません。次に語られる話は、すべて米国の公文書館に保存されているCIA関係者の証言などによっても確認されています。まず、事の起こりは1959年1月1日のキューバ革命政権の誕生です。その日、フィデル・カストロの革命軍が悪名高いバティスタ独裁政権を打倒、ハバナの目抜き通りを凱旋しました。(続く)
2025.01.11
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ということは、だれかがカストロに恨みがあるマフィアをうまく利用してカストロを殺そうとしたが、うまくいかなかったので、こうなれば世論を背景にして武力でカストロを排除しようと考えた人物なりグループがいたのではないか、ということになります。そんなことをできる人物がいるとしたら、ケネディ大統領本人か、CIAくらいしかいません。その当のケネディ本人が殺されているわけですから、もはやCIAしか首謀者は残っておりません。ここまで読んで、もう一つの大きな疑問が浮かぶかもしれませんね。カストロ政権打倒を目指すCIAがケネディ暗殺の背後にいるのだとしたら、なぜCIA長官がキューバには侵攻するなと大統領に提言したか、です。その答えは簡単です。ケネディ政権によって1961年に指名されたマコーン長官は新参の部外者(基本的にはビジネスマン)だったので、そのようにセンシティブで危険なCIAの極秘作戦についてはまったく知らされていなかったからです。おそらく前任者のアレン・ダレスCIA長官ならすべてを把握して知っていたでしょう。というのも、彼はCIA前身のOSS時代からの諜報機関生え抜きの、しかも外国の左翼政権の転覆工作(暗殺や破壊工作)で名を轟かせた、米国の安全保障のためなら手段を選ばない「札付き長官」だったからです。しかも彼は、ピッグス湾事件の責任を取らされて、ケネディ大統領によって解任させられていますから、首謀者の一人であった可能性が非常に高いです。実際にアレン・ダレスCIA長官は、1961年11月29日にケネディによって解任された際、主要な部局には自分の腹心を配置することで後任のジョン・マコーンの政治力を削るという政治工作によって、以後もCIAの活動に影響を与えたとされています。ダレスは「影のCIA長官」だったわけです。ですから、まだ就任して2年ほどのマコーン長官はまさか自分の部下がそのような作戦を密かに、いまだに続けているなどとは想像もしていなかったと思います。それでも、マコーン長官も、ケネディ大統領、ロバート・ケネディ司法長官も1962年5月ごろまでには、CIAが前政権から引き継いで密かにカストロ暗殺作戦を続行していたことに気が付いていました。そしてロバート・ケネディ司法長官は作戦中止を命令しました。ところがCIAの息のかかった亡命キューバ人の反カストロ・グループとCIAの工作員は、ケネディ司法長官の中止命令にもかかわらず、カストロ暗殺作戦を続けていたことが後から(1970年代になったようやく)判明します。解任された後も陰でCIAを操っていたダレス前長官の意思とその作戦が、時の政権の承認を得ないまま活き続けていたことになりますね。つまり、民主党政権には絶対知られては困る、共和党政権時代の秘密裏の暗殺作戦が綿々と受け継がれていたという、恐るべき実態が浮き彫りになってくるわけです。(続く)
2025.01.10
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アンダーソン氏は真相解明に肉薄していたのです。実際そのせいで、アンダーソン氏自身もCIA工作員による暗殺のターゲットになっていました。アンダーソン氏が命を狙われたのは、ケネディ暗殺の真相を知るマフィアに近づきすぎたからです。後で詳しく説明しますが、アンダーソン氏が気づいたように、マフィアもこの作戦に加担しています。ですから彼にとって、マフィアを取材するのは当然だったんですね。ただし、その作戦の首謀者はアンダーソン氏が推定したカストロではなく、ほかにいました。その首謀者を特定する前に、マフィアがなぜケネディ暗殺計画に加担したかという問題を整理しましょう。それは、カストロさえ排除すれば、つまりカストロ政権さえ打倒すれば、マフィアは再びキューバでのカジノ・賭博場利権を取り戻すことができるからにほかなりません。もちろん、マフィアに対する取り締まりを強めたケネディを葬ることもできますから一石二鳥ではあります。しかし、ちょっと待って下さい。マフィアがケネディ暗殺に加担する最大の動機がカストロ政権打倒であったのなら、ケネディ暗殺とカストロ政権打倒を結びつける理由がないといけませんよね。そう、これがこの作戦の肝なのです。ケネディ暗殺の翌日にジョンソン大統領にアドバイスしたCIAマコーン長官の発言を思い出してください。「国民がこれ(カストロがケネディを殺したこと)を知ったら、激怒してカストロに制裁を加えろと叫ぶでしょう。しかし、報復したら第三次世界大戦になりかねません。だから大統領、このことは国民の伏せておきましょう」というようなことを言っていましたよね。まさにマコーンが危惧したこの報復こそ、ケネディ暗殺の動機だった可能性が浮上してくるんですね。つまり、ケネディ暗殺をカストロの仕業にして、世論を煽ってキューバに侵攻、カストロを排除するというシナリオです。人類の歴史をみても、このような作戦があったとしても不思議ではありません。一人の重要人物の殺害が大戦争に発展することはしょっちゅうありました。たとえば、1914年6月28日にオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者であるオーストリア大公フランツ・フェルディナントと妻が、サラエボ(当時オーストリア領、現・ボスニア・ヘルツェゴビナの首都)を訪問中、ボスニア系セルビア人によって暗殺されたサラエボ事件。この事件をきっかけとしてオーストリア=ハンガリー帝国はセルビア王国に最後通牒を突きつけ、第一次世界大戦の勃発につながりました。一人の重要人物の殺害だけでなく、一つのきっかけとなる事件さえあれば、いとも簡単に戦争が引き起こされるのが、人類の歴史でもあります。しかもそれらはしばし、捏造すらされました。1898年2月、キューバのハバナに停泊中のアメリカ軍艦メイン号が謎の爆破沈没事件をおこし、多数の乗組員が死亡しました(メイン号爆沈事件)。アメリカのハースト系の新聞が証拠もないのにスペインの陰謀だと国民世論をあおるなか、4月にアメリカ=スペイン戦争が勃発しました。ほかにも、ヴェトナム戦争が始まるきっかけとなったトンキン湾事件や、イラク戦争につながったフセインの大量破壊兵器保有疑惑も、後になって捏造・でっち上げ・単なる口実であったことがその後わかっています。古来、意図的に誰かを殺させたり事件を起こさせたりして、人々の憎悪を煽り、戦争に突入するという作戦は何度も行われています。憎悪を煽る方向で暗殺を仕組めば、いとも簡単に戦争を引き起こせます。ですから、大いにあり得る話なんですね。(続く)
2025.01.09
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ジョンソン大統領はCIAによる暗殺作戦に激怒したカストロが、その報復としてケネディを暗殺したのだと本当に信じていた――この確実な情報がケネディ暗殺事件の謎を解く突破口になります。ハワード・K・スミス氏が手紙で指摘しているように、そうだとすると多くの疑問や矛盾点が浮き彫りになってきます。まず、大統領が命令したウォーレン委員会の結論ではオズワルド単独犯で決着しておいて、実はカストロがやったと言っていることが、第一の大きな矛盾です。その矛盾を解消するのが、アンダーソン氏の説明です。CIAのマコーン長官の報告を受けて仰天したジョンソン大統領は、「カストロが事件の背後にいることを国民が知ったら、キューバに対して武力行使に踏み切らないと国民は納得しない。しかし、そんなことをしたら第三次世界大戦になるかもしれない」という危惧から、フーバーFBI長官に命じてカストロが関与したという情報を封じ込めて、ウォーレン委員会にオズワルド単独犯説を結論付けさせたわけです。反面、アンダーソン氏の説では、ケネディがマフィアを使ってカストロを殺そうとしたが、マフィアがケネディの反マフィア政策に怒ってカストロの側に寝返り、カストロによるケネディ暗殺を手伝った、ということになってしまいます。それはそれである程度は説得力がありますが、この説にも大きな矛盾がありますね。100歩譲って、ケネディがマフィアを使ってカストロを暗殺しようとしたとしても、そのマフィアがケネディを殺すことにどれだけのメリットがあったかということです。そのようなことをしたら、アメリカの国民が黙っていないでしょうし、キューバ革命後のカストロの言動をつぶさに見ても、ケネディ暗殺を手伝ってくれたらマフィアのカジノ利権を復活させるという取引をするはずもありません。革命後、真っ先にマフィアのカジノを取り壊したのはカストロだからです。実はマフィアにとってケネディ暗殺は、リスクはとてつもなく大きくても、見返りがほとんどないのです。FBIやCIAがマフィアの利権を守ってくれると約束したのなら話は別でしょうが、マフィア退治に血眼になっているロバート・ケネディ司法長官がいる間はもちろん、だれが司法長官になっても、そのようなことをさせるわけがありませんね。つまり、ケネディを殺すこと自体によるマフィアの見返りはほとんどないわけです。それでもアンダーソン氏は暗殺の真相解明のあと一歩のところまで迫っていました。アンダーソン説の中にこの事件に関わるすべての要素が詰まっているからです。(続く)
2025.01.08
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これが、ハワード・K・スミス氏からの書簡です。布施泰和殿同様にこちらからもこんにちは。あなたの質問にお答えしましょう。1967年3月31日、私はホワイトハウスの大統領執務室の隣にある小さな個室でリンドン・ジョンソン大統領と向き合って座っていました。それは3時間にわたる私的な会話だったのです。会話というよりも、大統領があらゆることに関して一方的に発言したといったほうがいいかもしれません。もちろん時々私も質問したため、一連の発言は途中、遮られることもありました。前任者のケネディの話をしていたある時点で、大統領は私に「あなたが驚くような話をしてあげよう」と言ったのです。「ケネディはカストロを殺そうとしたが、カストロが先にケネディをやったのだ」というようなことを言ったのです。もちろん大統領が話している間、私はメモを取りませんでしたから、一言一句同じではありません。しかし、私はその懇談が終わり自由になるやいなやタイプライターに向かい、思い出せる限りのことを書き留めました。その発言には確かにびっくりしました。しかし、しばらくして大統領にケネディ暗殺についてもう一度話してくれないかと頼むと、今度は一転して、私を制しながら「あれらのことは話したくない」というようなことを言ったのです。そういうわけで、ジョンソンの発言は公のインタビューではなかったのです。それは、その後私が何度も同様に大統領との間でもった懇談の、最初の懇談でのことでした。私はジョンソンの発言をどう解釈していいか今でもわかりません。そのことは私の番組の中で何度か言及しました。ジョンソンはかつて、ケネディ暗殺は陰謀ではなく、異常者による単独犯行だと決めつけたウォーレン委員会の結論にお墨付きを与えておきながら、今度は私に、キューバ人による陰謀が存在したと信じていると言ったのです。彼はこうした衝撃的なことを会話に挟むことで、彼が話していることに私が全注意を傾けていることを確認したかったのだとしか思えません。私は今でも困惑したままです。これであなたの質問に答えることができたと思いますが。心を込めて、ハワード・K・スミス★★★ちょっとここで懇談の取材について解説しましょう。新聞記者なら誰でも知っていますが、これはある種のオフレコ懇談のようなものですね。より本音を聞きたい時、あるいは話したい時に、開かれる非公式の会談です。取材する側は録音は許されず、基本的にメモを取らず、取材される側は比較的自由に忌憚なく語ることができます。いろいろなレベルの懇談がありますが、取材される側の了解さえ取れれば、実名で報道することもできます。逆に名前は出すことはできなくても、政府首脳、政府筋など個人が特定されないという条件で、公にすることができる懇談もあります。完全オフレコの場合は原則的に一切何も明らかにできません。今回のスミス氏とジョンソン大統領のケースは、普通のオフレコ懇談で、書く場合は本人の了解を得たり条件を詰めたりする必要があります。もっと詳しく語ってくれというスミス氏の依頼に対してジョンソン大統領は拒みましたが、カストロが仕返しをしたという話については厳しいオフレコの縛りがなかったので(たぶんそれを暗黙の了解と解釈して)、しばらく経ってからスミス氏がテレビで言及したということになります。つまり何が言いたいかというと、スミス氏とジョンソン大統領のその後のやり取りを勘案しても、ジョンソン大統領が単なる冗談ではなく、本音レベルでカストロがケネディ暗殺に絡んでいたと思っていたということがはっきりとわかるわけです。(続く)
2025.01.07
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ハワード・K・スミス氏は1914年、米ルイジアナ州に生まれました。36年に地元のテュレーン大学を卒業(ドイツ語とジャーナリズム専攻)、37~39年にはローズ奨学制度を利用して英国オックスフォード大学のマートン・カレッジで経済を学んだようです。その後ジャーナリストを目指し、ユナイテッド・プレス社(UPI通信社の前身)やニューヨークタイムズのロンドン駐在員など記者として第二次大戦前夜のヨーロッパを取材したのをはじめ、CBSラジオでは、エドワード・マーロウの配下で、ベルリン特派員として働きました。米国人記者として最後まで戦時下のベルリンに残り、ドイツ降伏後は最初にベルリンに入ったといわれています。戦後はエドワード・マーロウの後継者として、CBSヨーロッパ総局長を11年務めます。米国に帰国してからは、初めてのテレビによる1960年の米大統領選挙討論会(ケネディ対ニクソン)の司会を務めるなど活躍しましたが、公民権運動の報道をめぐって会社と対立。CBSを辞めてABCに移り、1962年から79年まで解説者、ニュースキャスターとして名を馳せました。すごい経歴ですね。スミス氏もアンダーソン氏も私の大先輩ということになります。スミス氏の経歴はこちら。日本語はこちら。アンダーソン氏の経歴はこちら。日本語はこちら。その大先輩のスミス氏の住所(ワシントンDC郊外のメリーランド州ベセスダ)は、多分アンダーソン氏から聞いたのだと思いますが、手紙を書いて取材させてほしい旨とその目的、質問内容を簡潔に伝えました。スミス氏は当時、84歳とすでに高齢。わずらわしいと思えば返信しないことも十分に予想されたのですが、見ず知らずの、名もなき日本のフリーライターに対して、手紙で丁寧に私の質問に答えてくれました。それが次の書き出しから始まる書簡でした。布施泰和殿同様にこちらからもこんにちは。あなたの質問にお答えしましょう。(以下続く)
2025.01.06
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写真をアップし忘れていたようです。これがアンダーソン氏のインタビュー記事です。アンダーソン氏によると、ジョンソン大統領がカストロ首謀者説を信じるようになったのは、次のようなことがあったことが周辺取材からわかったからです。ケネディ暗殺の翌日、ジョンソン新大統領のところに当時のCIA長官マコーンが血相を変えてやってきました。マコーンはその場で、ジョンソンにも知らされていなかったCIAによる極秘カストロ暗殺作戦が進行中であったことを伝えます。その作戦とは、1959年のキューバ革命で誕生したカストロ政権によってキューバのカジノ利権を奪われたマフィアらを使って、米国の安全保障上、目の上のたんこぶであるカストロを葬ってしまおうというものでした。後の1970年代になって公式に明らかにされるのですが、暗殺作戦は複数回実行されましたが、いずれも未遂に終わりました。この話だけでもジョンソンにとっては衝撃的な話だったのですが、マコーンはさらに「カストロ暗殺作戦に利用されたマフィアが、ケネディによるマフィア取り締まり強化に激怒して、カストロに寝返ったうえに、ケネディ暗殺にも加担したようだ」との趣旨の報告をしました。あまりにもショッキングな報告に唖然としているジョンソンに対して、マコーンは続けます。「このことを国民に話したら、国民は激怒し、カストロに制裁を加えろと叫ぶでしょう。また、もしカストロに対して報復したら、すでに1年前に屈辱(キューバのミサイル危機のこと)を味わったフルシチョフはクレムリンで非常に苦しい立場にたたされることになります。今ここで我々がキューバに軍隊を派遣しようものなら、フルシチョフはもう妥協しないでしょう。核のボタンを押すことになるかもしれません。だから大統領、私のアドバイスは、カストロの件は伏せておくことです」このアドバイスに従ったジョンソンはマコーンのとの会合後、FBI長官のフーバーを呼び、ケネディ暗殺事件の捜査に当たっては、カストロは事件に関係がないことを前提に進めるよう命令。ジョンソンは「これは第三次世界大戦を防ぐためである」と説明しました。フーバーはこれに従いました。そのためこの事件を調査したウォーレン委員会の報告には、カストロの名前は一切上がらず、オズワルドの単独犯ということで決着したというわけです。いくつかの大きな疑問点はありますが、一応辻褄はあっていますね。しかも、ただの推論ではなく、取材による裏付けがあり、詳細かつ具体的です。アンダーソン氏は1960年代の後半に、ケネディ暗殺カストロ関与説を記事にして発表しました。「米上院は、私の記事の内容を調査しました。私が書いたことはおおよそ正しいとの結論を出しましたが、カストロがケネディ暗殺を謀ったことに関しては結論を出しませんでした」とアンダーソン氏はいいます。絶対的な自信をもっていますね。それでも何か直接的な証言がないかどうか私が聞いたときに教えてくれたのが、先述したジョンソン大統領自身による証言だったわけです。アンダーソン氏は言います。「嘘だと思うなら、ジョンソンから直接その話を聞いたハワード・K・スミス本人に聞いてみるといい。彼はまだ首都ワシントン近郊で暮らしているはずだ」私は何か一つでも確実な事実があれば、そこから謎を解いていくのが好きな性分なんですね。アンダーソン氏とのインタビュー後、さっそくハワード・K・スミス氏に連絡を取りました。(続く)
2025.01.05
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インタビュー記事についても解説しておきましょう。エドワード・リンカーン、マイケル・グリーン、マイク・モチヅキ、アダム・ポーゼン、マイケル・アマコストらそうそうたるメンバーがそろっています。当時、首都ワシントンに存在するシンクタンクやアカデミックな分野で日本問題を専門としていた研究者はほとんど網羅したと思います。それ以外の人では、世間を騒がせている経済問題や日米関係を中心にして研究者や学者を選んでインタビューしました。しかし、その中に唯一の例外の人がいます。それが、ジャック・アンダーソン氏です。日米関係や日本経済の問題とはほとんど関係がありません。それなのになぜ、インタビューしたかというと、まったくの偶然です。私が首都ワシントンD.C.で比較的暇を持て余しているということを聞きつけたメディア関係者から依頼があったからです。相手は日本の大手新聞社。FBI長官として権勢を振るったエドガー・フーバーを日曜版の特集で取り上げるので、ピューリッツァー賞受賞者で、フーバーのことを長年取材してきたアンダーソン氏にインタビューしてくれというものでした。1922年生まれのアンダーソン氏は、10代から新聞記者の仕事を始め、第二次世界大戦中は、中国を中心とするアジアで従軍記者を務めました。戦後、ジョージタウン大学などで学び、1947年からワシントン・メリーゴーラウンド社のコラムニストとして活躍。政府部内に太いパイプを持ち、独自の調査報道で次々と特ダネを書きました。69年には社主となり、72年にはニクソン政権がインド―パキスタン戦争で極秘にパキスタンを支援していたことをスクープした一連のコラムなどが評価され、国内報道部門でピューリッツァー賞を受賞しました。私が本人に電話でアポを取って、当時76歳で首都ワシントン郊外(確かメリーランド州)の田舎に住んでいたアンダーソン氏を訪ねると、フリーのジャーナリストでも快く取材に応じてくれました。最初の40分ほどでフーバーについての取材は順調に終わらすことができました。少し時間が余ったかなと思って、これほど政権内部に食い込んだジャーナリストなら、あのケネディ暗殺事件についてもかなり真相に迫ったのではないかと考え、話をそちらに振ってみました。すると彼は、「真相は分かっている。最初、CIAがキューバのカストロを殺そうとして、それを知ったカストロが先にケネディを殺したのだ」と断言するんですね。私が「まさか。アンダーソンともあろうものが、なぜそのような陰謀論を今でも信じているのか」と思って、その根拠をアンダーソンに質しました。すると彼は「CIAからも聞いたし、(カストロ政権誕生でキューバの利権を失って)カストロ暗殺計画にかかわったマフィアにも取材した。5年の歳月を費やしてやっと話してくれる人間に巡り合ったのだ」といいます。さらに細部を聞くと、アンダーソン氏の取材では、当時は少なくともCIAのジョン・マコーン長官とリンドン・ジョンソン大統領はそのように信じていたことが浮かび上がってきます。「ジョンソンは本当にそう信じていたのか」と私が聞くと、彼は「そうだ。ジョンソンは仲の良かった米放送局ABCのアンカーマンをしていたハワード・K・スミスに何年か後にそう打ち明けたのだ。スミスがテレビでそう話していた」と言います。元々ケネディ暗殺事件に首を突っ込むつもりは毛頭なかったのですが、ジョンソン大統領がカストロ首謀者説を信じていたという事実を知って、俄然として興味が湧いてきたわけです。(続く)
2025.01.04
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『U.S. FrontLine』についても少し説明しておきましょう。 多分、アメリカで暮らしたことがある人なら一度は目にしているのではないかと思います。 サイトはこちら。全米最大の発行規模を誇る日本語無料情報誌と書かれていますね。基本的に隔週で発刊され、日米間の最新ビジネス動向からアメリカ生活に役立つ教育、医療、法律関連情報から全米各地のコミュニティ情報やグルメ、旅行、エンタメ特集などを掲載しています。 日本人向けの情報を発信しているので、結構役に立ちました。 私の記事が初めて掲載されたのが1998年9月5日号で、以来1999年5月5日号まで毎号掲載され、インタビューシリーズは計14本、はかに特集記事を2本書かせてもらいました。以下がその内訳です。 1998年 09月05日号(第78号): キーパーソン・インタビュー第1回「ブルッキングス研究所エドワード・リンカーン上級研究員(日本経済の立て直しについて)」 09月20日号(第79号): キーパーソン・インタビュー第2回「外交問題評議会マイケル・グリーン主任研究員(日本の安全保障問題について)」 10月05日号(第80号): キーパーソン・インタビュー第3回「ケイトー研究所ブリンク・リンゼイ貿易政策研究部長(日本型経済システムについて)」 10月20日号(第81号) :キーパーソン・インタビュー第4回「国際経済研究所アダム・ポーゼン研究員(日本の経済政策について)」 11月05日号(第82号): 特集「民間向け衛星情報サービスで飛躍するオービタル・サイエンス社」 11月20日号(第83号): キーパーソン・インタビュー第5回「ブルッキングス研究所マイク・モチヅキ上級研究員(沖縄の米海兵隊問題について)」 12月10日号(第84号):キーパーソン・インタビュー第6回「ピューリッツァー賞受賞コラムニストのジャック・アンダーソン氏(政府内部の極秘情報について)」 1999年 01月10日号(第85号): キーパーソン・インタビュー第7回「米日財団ジョージ・パッカード理事長(日米関係について)」 02月05日号(第86号): エンタメ特集「コバルトブルーの楽園カリブ海でダイビング」。 キーパーソン・インタビュー第8回「ブルッキングス研究所所長マイケル・アマコスト元駐日米国大使(日米関係について)」 02月20日号(第87号): キーパーソン・インタビュー第9回「経済政策研究所ロバート・スコット国際問題担当エコノミスト(米国の貿易不均衡問題について)」 03月05日号(第88号): キーパーソン・インタビュー第10回「国際経済研究所キャサリン・マン上級研究員(欧州通貨統合について)」 03月20日号(第89号): キーパーソン・インタビュー第11回「ジョージタウン大学ロバート・ガルーチ外交学部長、朝鮮半島情勢について」 04月05日号(第90号): キーパーソン・インタビュー第12回「ブルッキングス研究所リンカーン・ゴードン客員研究員、ブラジルの金融危機について」 04月20日号(第91号): キーパーソン・インタビュー第13回「ハドソン研究所アラン・レイノルズ経済調査部長、アジア金融危機や世界経済情勢について」 05月05日号(第92号): キーパーソン・インタビュー第14回(最終回)「国際戦略研究所ブラッドレー・ベルト国際金融・経済政策部長、Y2K問題について」 このほかに「驚異のガラパゴス諸島」を特集用記事として用意してありましたが、帰国準備で忙しくなったので、幻の大作となってしまいました。 でもご安心ください。私の楽天のブログのほうにその幻の記事が掲載されていますので、ご興味をお持ちの方はそちらをご覧ください。 「驚異のガラパゴス1」「驚異のガラパゴス2」「驚異のガラパゴス3」(続く)
2025.01.03
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アメリカの大学における政治的側面の問題は脇に置いて、そもそも大学院で学んだことがどの程度役に立つのか、という問題についても触れておきましょう。 結論は、役立つと言えば役立つし、役立たないと言えば役立ちません。 簡単にいうと、その人次第です。 私の場合は著述家ですから、すべての体験は糧になるとともに実用的にも役立ちます。 それについて語る前に、SAISを卒業してから何をしていたかという、私の人生の大問題についても語りましょう。 私の立場は結構微妙でした。共同通信社を退社して留学しましたから、次の働き口を探さなければならない一方、アメリカで就職するのもなるべく避けなければいけないという一種の条件のようなものがあったわけです。 その理由は、あまりにもプライベートなことなので一切お話しできないのですが、とにかくベストは、一年間アメリカに滞在して、その後日本に帰国すると同時に再就職できればいいということでした。 そこで考え出したのが、フリーライターとして働くことです。 当時、日本の食材を売っている小売店に置いてあるのでよく読んでいた日本語無料情報誌「U.S. FrontLine」(当時の本社はニューヨークのマディソン街)の編集長・藤原龍さんに電話して、ワシントンD.C.のシンクタンクの専門家などキーパーソンのインタビュー記事を載せないかと提案します。藤原さんは確か毎日新聞の記者をしていたのですが、辞めて米国に来て情報誌を立ち上げた人です。電話だけで了解を取り付け、最初に書いたインタビュー記事が、SAISで私が習ったブルッキングス研究所のエドワード・リンカーン上級研究員の記事でした。1998年の9月5日号に掲載されました。 その時の記事がこちら。 そのときの『U.S. FrontLine』の表紙はこちら。ちゃんと新連載として名前入りで紹介されていますね。原稿料はスズメの涙ほどでしたが、とりあえず首都ワシントンのキーパーソンに取材するという当面の仕事ができたわけです。何もしないよりはましですよね。 実際、このインタビューシリーズを請け負ったことにより、結果的に本を書くという新たな道が開けたのでした。 (続く)
2025.01.02
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謹賀新年初日の出です。午前7時10分ごろ。そしてこちらは初詣の写真。すがすがしい朝でした。本年もよろしくお願いいたします。
2025.01.01
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