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リバウンドのように、また、ほんとうはまだまだ続いていたらしく、 私はまだ不調だ 失礼いたしました。 叫びを聞いていただいて。 ヨガをより日常的に、と思い書いていて、やっぱりヨガって難しいと感じさせているような気もしてきて、 私、少し考えました。 考えただけで、何も思いついてはいません。 そんな風に表現できる自分は、実は少しまた脱皮。 ヨーガ教師のまれな日常と、ふつうの日常、葛藤なども、ハッピーなども、そのまま書いてみようとしたんだったし。 また、いいもの、いいこといっぱい書こうと思ったのですが、技術も追いつかず、どうしたらいいのかはまだわからず。 とりあえず、素直にいつもいる事にしました。 アーユルヴェーダやヨーガでは、人の状態を、鈍性と激性と浄性にわけてとらえるんですが、それは日々、そして刻々も変わりますが おおまか、このごろは・・・とかで、特徴的なものもわかります。 ここ数年、少しずつ激性へ向かってきて、今激性だと思います。浄性であることをと思いますが、 一般社会で、社会人として生きて、また仕事の中でのある面を考えるとまぁ、激性になって。 クールダウンの時間がなかなか自分のためにとれなかったりしているからですね。 瞑想をそこここに、もう少しとりいれた方がいいなぁ。
July 31, 2006
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再生してきたよぉ~ から一日ですが、人間の力ってすごいですねぇ 身体はすこしずつ回復してきて、ずいぶんいい感じですが、 何がすごいかって、気力です。 気の力 ヨガでは、プラーナ(深くは宇宙を創り出した元の力でもある深遠な力ですが) ものすごい闇に包まれている時には、生きるって何?生きてる意味って何?全て、もう何? みたいな逆の力(二つの極がある、二元の一方)が、ガンガンきますが、 なのに、そこまで行っても、特にじゃあ今日、生きるってなんだろう なんて思ったからというわけではないけれど、 内側からおのずと、気力が動いてきているのを、感じています。 身体を動かす原動力(プラーナ) これがとどこおるから、ゆがみ、かたまり、ねじれる、もやけるのですねぇ、こころというエネルギーのありかたがねぇ。 再生してから、ちょっと「無理しない」が少し上手。 限界がわからなくなってしまう私にとっては、これは大事な日々の練習になります。ほんとに。 梅雨、明けたでしょ?ね?梅雨と一緒に、ちょっと晴れたわたし。 あっ、もやもやしているときって、やたら食べてしまうのってご存知でしたか? ふふふ。瞑想とかして、こころが安心落ち着いているときって、充分なエネルギー感があるしなんと、適当な分しか食べなくてもよくなるのですよー。 また、この辺のこともアップしよ
July 28, 2006
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ヨーガ合宿から帰ってきました。すさまじい事だった。 メニューがすさまじかったわけではないのです。私の身にこころに起こったことがでした。 気の強い場所に行く・・・と言っていましたが、やはり、前日から頭が痛くなって、当日の朝には気が降りなくてしまいには、考える、判断という事がちょっとクリアでなくなってきて気持ち悪くなってきて、たどり着くのにはいつも命がけか?と思うのです・・・ 着いたとたんに地面に座り込んでしまった。 気といっても、いろいろあるのです。 強さといっても、質があって・・・ そこは、いろんなものが奉ってもあるし、参拝も多いし、きっと願かけやすがる人も沢山来られるのですね。そして、行場でもあり、 また、さまざまな因縁のある場所でもあるようです。遠い遠い昔は古戦場だったとか、反対側は処刑場であったなどという事をあまり激しくいつも苦しいので調べるとそんなことも言われていました。 極論でいえば、私の中に、それらに反応する因子がなければ大丈夫なわけなんですが、未熟さか因果か体質か、ここはいつも苦労しています。 最近のこころの葛藤で自分の奥にあった、いろんなものも刺激を受けていることも手伝い、また、そんな風だからか参加していくと、誤解を招くような気を発してしまっていたのでしょう・・・教師間で激しい叱責にあい 結果的には、そのお蔭で、身体中のツボが全開になって、んもー、くすぶる影が全身から一気に出てきたようなことになってこころの闇と四日間対峙することとなったのでした。 しばしば訪れることなのですが、今回のは出やすくなっていたためかガンガン、ドンドンきて、自分の生きている意味、能力や存在の所以がことごとく悲しげにおろかにうつっていくこころの闇が、とぎれなくずっと押し寄せ ただ、息を繰り返し、ただそれらを感じ死と対面しているようなものでした。 不思議なもので、身体も機能を低下させていくのですよ。内臓の働きが、スィッチが切れたように固まってしまう。それを、じぃーっとこらえて、内側での聖戦をなるべく、ひどくなりすぎないようにじっとしている。 そんなことが、一年の間に何度かあります。 そして、身体の内の力、こころの力は、自然に何とかしていきます。 この時、とにかく保つことの力が大変ですが。 身体やこころの毒は、汗か排泄物か涙でしか、見える形でではでないのでこんなときには、内臓の働きがとどまろうとするからかやたら涙が出ます。 私の聖戦が、主にこころのものだからともいえますが。 泣いて泣いて、涙が出て出て、そして、昨日から再生に向かいました。生きる みたいな感じで。 再生の過程は、ものすごく苦しいのですが、その後、思いもしなかった新しい視野、視点、潔さ、身体とこころのさわやかさが訪れます。 外からの一撃、アーユルヴェーダのヘッドセラピーも手伝って 内面的に、まさに、すごーいヨーガ合宿になりました。 復活で、今日からまたヨチヨチまいります
July 27, 2006
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明日、あさってはヨーガ合宿に行ってきます。自分のヨーガ生活と勉強のために。生徒さんも参加されるので、一日目は、せんせ でもあります。 明日行く場所は、この季節に最近毎年合宿に参加しているところなのですが、実は、場の気が強いのか、古戦場の跡だからなのか、その跡に有名な寺院があって、願をかけられるからなのか はわかりませんが、 毎年、割れるように頭が痛くなるのでした。周りの人には隠して平気な顔をしつつ、もー、助けてーなんて時もあります。 こういつもだと、少し気にしてしまいますが、今年は果たしてどーだろうか? 気にしすぎずに行ってまいります 精進料理を頂いたりもしながら、アーユルヴェーダのヘット゜マッサージも勉強してきます。 帰ってきたら、また、アップさせていただきますので、みなさま、また、読んでやってください。よろしくお願いいたします
July 21, 2006
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今朝、すごい雨でした。出かけるときに、ぬれても大丈夫という事を一番に考えたんだと思うんですけど、 ミュールを履いて外に出ました。 自転車に乗って出かけることが多いのですが、さすがに・・・ バケツをひっくりかえしたようなって感じの雨でしたから、歩きで。 少し歩きはじめると、足は水の中を歩いているようになってうまく歩けなくなって、着地するたびに足が靴からズレる。 それを気にして歩いていたら、お能か狂言のような速度と歩き方になっている自分に気づきました えぇこれマズイよ・・・ ぜったいにマズイ・・・・ 私はいいけど、通りすがりの人はって思うから、それはいけないよね・・・・・ それに、私、実のところはギリギリに家を出たから時間ないんだと思って・・・・・ 足がズレながら、なんとか人通りのない公園を通り抜けることにして、そこで、 私は、ミュールをぬいで手に持って はだしで歩くことにしたのでした ずぅーっと、はだしで歩いて、アスファルトの道もはだしで歩いて、 そして、ここからは人が通りがかるなぁというところで もう一度、靴をはきました インドの寺院とかって、明らかに外というか、日本みたいな屋内とかでなくてもはだしにならないといけないんですよ。 砂ぼこりとかあっても、はだし平気平気でね。 それからすると、日本のアスファルトなんか、どこもはだしでOK感覚なんです・・・・・ 本当のことを言うとね、私てきにはね・・・・・ 久しぶりに足の裏を、よーく感じられた気がして すごく気持ちよかったです。 髪の毛もシャンプーしたのかというくらいベットリで服も着ているだけ不自然なくらい濡れて、 なんか可笑しくて、楽しくて みんなも、こっそり はだしで歩いてみてください。気持ちいいかもしれません
July 21, 2006
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わたし、ネイルケアしています きれいな爪を見ていると、なぜか、安らいだりして、なかなか癒し効果が期待できるものだと思っているのです。気に入っています。 ここ数日、こころがとっても疲れたぁ・・・と訴えていて、力強く自分を観る事ができなかったので、日記をお休みしました。 今のハードルはいつまで続くのかなぁ でもね、とってもいいテーマだとわかっているので、つきあっています。 多分ね、子供の頃からおこる反応と同じところからきてると思うしね。 私は以前、ヨーガどっぷり生活に入ろうと希望していました。生半可もんじゃなくて。 でも、それが本当に自分の生まれてきた理由なのかなぁーせっかく生まれてきたのなら、少しくらいは人様の役にたって生きていたいし、「しあわせ」のこの世的なものも味わってみて、この世も悪くないと思うのもいい(本当はもっと真摯な理由なので、またの機会にアップするとして) なんて思って、 よし!普通の世界にいて、生きる! と決めた。 実はまだ、5年ほどまえなの・・・覚悟を決めたのは で、 んじゃー、みんなが楽しそうにやっている事をやってみて、それがどんな風に楽しいのか、なんで、それが楽しいのか、一体どんなことに楽しいのか、素直に味わってみたいと、とっても思いました。 いろんな事、やってみる。一回で、 そっかー、ふーんって思えばもう終わりだったり、これって、楽しいなぁと思えば、適度に続けてみたり、やってみる事の範囲、種類は、いろいろで ネイルはその一つです。 マニアックに生きていこうが、外面の美しさを過剰に求めるのはヨーガでは、こころには毒となるとはいえ、 美しいこと、美しいものが嫌いなわけゃーないの 私は不思議なことに、ネイルケアをするようになって、逆に過度のこだわりがなくなった。 ネイルケアって、マニキュアを塗り塗りするとかって自分でやってると、はがれるのが気になって、お料理するにもはがれたりして・・・と気をつかったりするのです。私の場合。 最初のきっかけは、みんながとっても楽しそうにやってる。どんな気持ちがするかしらん?理解したいと思った。興味津々だったし。 ジェルネイル 一番最初にやってもらった人とジェルのメーカーが多分今から思えば、私にはぴったりではなかったみたいで、痛いし、違和感があったんです。 その次に、同じ店で違う人にやってもらったら大丈夫で、何度か続けたんだけど、どうも、爪がガンガン削られるのが嫌でした。 ジェルネイルしてて言うのもどうかとは思うのですが、私は本来、徹底自然派なので 今、行ってる店は、ジェルの質が軽いらしくて、ガンガンけずらないし、とれないマニキュア感覚が濃くて、ケア続けていくには、とっても安いので気持ちよく続けられる。 で、 本来自然派で、質実剛健なところのある私は、実際に爪はキラキラなんだけど、それを見て、周りの人は、気をつけてケアしているのねおしゃれなのね とおっしゃるのですが、 実は、めんどくさがりやだからです はげない 清潔 手間がいっさいかからない しかも、きれい 過度のケアが、実は要らないという、いーところがあるのでした。 2.3日疲れていたし、ちょうどケアの日が昨日だったし、ちょっとキラキラさせたいと思いました。 見ていると、きれいでほーってできたりします。 まだ、疲れているけど、疲れているなりに工夫している今日です。
July 20, 2006
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今日は疲れている! めんどうだし、やる気がバリバリでないし、できることなら何もしないで、休んでいたい! あー!やだやだ! こんなこと心から素直にいえるようになったのも、近年。 楽チンきれい生活のために、ヨーガやったり、他のことやったりしてると努力もするわけで、怠惰な自分とも真正面から見て、ただしたりもするわけですが、 そんなことばっかりつづくわけないんですよー バイオリズムってのがあるけど、こころもリズムあるんですよね。う・・・ん、 こころも呼吸してる感じかなぁ。 だから、それがわかってきてから、 いけない! それでもがんばらねば! こんな私・・・ と思わないようにしていくのも、むしろ有効的なことよねぇって思って。 今日みたいな日は、こんな風に開き直ったりもする あーそーさ!私は、なまけものー そんな日もあるのよー あー、嫌いさー がんばり屋さんは、こんな風に思えるようになるには『死』を意味したりするんですよね いや、ほんとですよ! だって、 なんのためにがんばってきたのよ! こんなに努力してるのに! 反対のこと認めてしまったら、普段の自分は正しいことにはならないじゃないの! みたいになって、自分の存在が死(価値観として)になるってどこかで思えたりするんだね。 死にゃしない。 自堕落にばかり生きるのは、賢くないし、智慧のないことだけど、自堕落になるときもある自分を知っていることは、逆に 智慧がキラリ なのに、今もよくこう思って苦しむけれど 私はダメなんだ・・・ 私ってできないんだ・・・ もー、ダメだ・・・ バカみたいなんですよね、そういうときって。周りから観ていたら絶対 爆笑すると思うんですよ。 はぁ・・・・・・でも、だからこそ、人間っていいのかも? しかし、今日は、疲れを感じる。やる気が出ない。やめたい。横になりたい。眠りたい。 そうこころが訴えつづけてるー。 そうか、そうかと、認めていると、なんか、こころがコウいい始めた。 いいよ・・・できることはやるよ・・・ わかったよ・・・少しはやるよ・・・ あとで、休んでよね、ちょっとはやるから・・・ あばれ馬をちょっとだけなだめた?ふふふ。
July 18, 2006
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ブッダは『自らを灯明とせよ』といわれていて、私はとっても好きな言葉なんです。 とてもとても苦しかったとき、何に答えを求めてもこころの奥の奥で癒されなかったことがありました。 しあわせって何だ?ほんとうのしあわせって何だ? と苦しかったことがありました。 アドヴァイスをくれる人はいます。『お金があれば楽しくなれるよ』『結婚すれば、楽しくなりよ』『時が解決するよ』 お金も結婚も時も、本当のしあわせを与えるとは思えないからむなしかったのにね・・・ 誰も答えをもっていなかった。 社会は、大人は、答えをもっているものなのかと思っていた、当時。 ない・・・誰が教えてくれるのだろう?どうすればわかるのだろう? 私はブッダの教えに、とても癒されました。この世は苦と心得れば、苦ではない本当の己に向かおうと潔くなれるだろうと思いました。 でもね、この世で幸せに生きたいんですよ。矛盾しているようだけど。 本当のしあわせをもたらさないものと、真の自己を知っていけば、この世もしあわせにいけるって事 って言い換えると、ちょっと納得がいきますよね。 自らを灯明とするしかなかった日々。誰も助けてはくれない、誰も答えをくれないと苦しんでいたときに、この言葉は、たった一人自分の存在だけでも、自らを照らして正しく生きる道をみつけることが、しあわせの道を見つけることができるよっていうめちゃくちゃ希望の言葉でした。 この言葉の意味って、「自分だけを照らせばいいさ」「自分だけの都合でいいさ」「自分の好きなように生きればいいさ」 というのとは、正反対で 自分の中には智慧が必ず誰にでもある。 曇ったこころ、傷ついたこころ、揺れるこころをコントロールできたとき、この智慧が光り始める。 他のだれに頼らなくても、依存しなくても、あなたはあなた1人存在するだけでその智慧を道しるべにして、強くしあわせに生きることができるのですよ という意味だと私は理解しています。 智慧って何だよー 昨日、また西国三十三所の一つ中山寺に行ったのですが、こんな言葉が掲示板にありました。 『智慧 近頃の子供たちに知識を求めても智慧を身につけることを求めません。 例えば、兄弟で七個の菓子を分けるのに、正確に二等分するのは知識です。 二人が納得するように、ゆずり合えるのが智慧であります。 知識と智慧は似ていますが少し違います。』 子供にわかるように、書いてありました。 普段にこそ、その智慧をよく覚える(体験する)ことが大事で、そうすることでしか何かのときに、智慧によって判断したりコントロールしたり道を誤らないようにすることができません・・・ 普段、気をつけていても、今の私のように、自分の弱点であるハードルが来たときに、容易に揺れ、傷つき、曇るこころだからです。 でもね・・・どこかで気づいてるんです。・・・確かに私の言っている、感じている事は正当的・・・でも、でも、だからといって、その人を目の敵のような反応をしていいの?その人だっていいところがあるのに、その一つ二つをとって、責めるようなことだけでいいの? 自分の言っていることは、正しいでも、前の日記で書いた中庸、『ちょうど適切』なのかなぁ?なんか、後味がわるくて、こころがモヤモヤすることで、不適切さを智慧の光が照らし始める。 昨日、寺から帰って、DVDを借りにいきました。借りたいものが全部出てて、観ていなかった『アレキサンダー』を観たんです。 はじめは普通に観ていたんだけど、後のほうは気持ち悪くて、気持ち悪くて。 彼は何のために戦いつづけているんだろう? 正義のためでもなく、人のためでもなく? 自分の恐れを払拭するために、その恐れの大きさゆえに、征服の度合いも大きく・・・ 地位と名声の欲のために、ここまで人を犠牲にするのか・・・ 気持ち悪くて・・・それは、自分のこころの奥に同じものを観たからです。 今の自分の内に、正義といいつつ、本当は暴力の気持ちを持っていたからに違いありません。 はずかしく、穴があったら入りたくなりました。 こころは、自分が正当化されなければ、自分の存在のしかたが間違っていることになる!と勘違いし、徹底的に自分を正当化するのです・・・ 智慧がくもるとき、こうしてまんまと、こころにしてやられるのです。 でも、ちょっと智慧の光が照らし始め、暗がりが、照らされ、暗闇が存在つづけることを、居心地わるく感じたようで、少し、いい傾向です。 認められないときには、自己嫌悪になりますが、認め始めたときには、自分が悪いんだ!って事のほうが、すごーくすがすがしくて明るくて、スーッキリするんですよね。 それが、『正解』の方向に近い証なんですよねぇ
July 17, 2006
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”喜怒哀楽もいっぱい。でも、巻き込まれない方法をしっている”とプロフィールにあったのですが、どういうテクニックなんでしょう?無責任な人に対する怒りをどう抑えたらいいか教えてくださいますか? こんな質問をしてくださるブログ仲間の方がいてくださいました。感謝 私が、今、同じような事で波立っているところなので、ちょっと曇っているはずですが、一緒に笑いとばせるようにいきましょう 難しそうに思えるけれどかなりよくおさまっていくのは何で怒るのか?何で怒らなければならないのか? を自分の本音に問いかけて、だんだんと本当の理由をわかっていくことだと思います。(内観)最近の私の葛藤は、新しいハードルがきて、今、ずぅーーーっと本音を探っていっているところだからです。 本音というところで、こころの性質でいうと、これは、万人に共通しているものなので誰にでもあてはまるのですが、こころは本音を隠します こころを観たり、コントロールするのをヨーガでは、あばれ馬の手綱を握ると表現しますが、その作業は小さな子供を育てるようなものというのが、とってもわかりやすいかもと思います。 時には、なだめ、時には褒め、時には強制して、時には言い聞かせて でも、子供の本音を理解しないと、その全ては的をはずすのと同じです。 いろんな方法はありますが、 当面、瞬間的にでもいいから、その怒りが爆発 して噴火しないようにするには、 息を意識的にながーーーーーーーーーく吐いてみるといいかもしれませんよ。 呼吸は、自律神経で行っているので、知らない間にでも呼吸を私たちはしていますが、自立神経をコントロールできるんです。 勝手にやってるはずの呼吸ですが、意識的にも呼吸はできますよねぇ だから、意識をして、わざとわかっていながらの呼吸をするんです。唯一、自律神経をコントロールできる道具は実は自分たちに備わっているんですよすごくないですか? バランスをとるには吸う息も吐く息もどっちも大事ですが、 怒りは、交感神経の作用が大いにかかわってもいますから、ゼロを基点として考えると交感神経が優勢になっているって事だから、吐く息の方をより意識して、長くして、副交感神経でいる時間を長くしてゼロのところまでまずもっていくって事になります。 ただし、落ち着いているからと言って、怒りがなくなるとか、能面のような顔になって喜怒哀楽のなくなる人になる、またそれが理想って事とは逆です。 これも勘違いされやすいみたいで。「私は感情が揺れないんですよね」と、表情一つ変えない、慈悲のないようなこころにご満悦でなっていく人を観たこともありますが・・・ こころがどんなことを考えてもいいんです。 怒り上等!!なんですよ。 悲しみや、憎しみ、嫉妬、すねる、欲望、愛欲、物欲でも。 ただ、映画を見るように、そのままを自覚できるか。それに飲み込まれて、炎のようになって、自分が焼かれないかって事なだけなんです。 火事の映画を観ていても自分は熱くないですよね。でも、コントロールを失っている場合は、映画だという客観性を失っているこころなんです。だから、熱いし、焼けちゃう。 いくら嫉妬しても、怒ってもいいんだけど、怒っている自分と、なぜなのかを自覚しているか、巻き込まれないてことだけが大切なんです。 ちなみに私を例にとると、 私の反応している「無責任な人」が、どう無責任だろうがそれほど本当は影響はないんです・・・・生き死ににかかわるほどのこともなく、今日のごはんが食べられないようなこともなく、、、、、、 ただ、許せないんですね。 自分の本音のところの「何か」が満たされないからなんです。反応しているときって。 こころは満たされると、おとなしいんです。ミルクを飲んだ赤ちゃんが、しあわせそうにスヤスヤ眠るのと同じです。 だからといって、欲をかなえていればいいんだっていうのは、賢くはないし。 ブッダは中庸という状態を説きましたが、ちょうど適切って事だと思えばいいように思います。 怒りっていうのは、愛の反対っていう事も言われますが、それぞれの「何か」が過剰になっている場合に起こる反応ですから、 私の場合だと、(1)さっさとやるべき(2)工夫してやるべき(3)チームでやっているなら、周りをよく見るべき(4)逃げるな!知らないふりして通りすぎれると思うな!(5)誤魔化すな!(6)お金に汚い!貪るな!みたいなことが過剰に反応して、その逆でありすぎる人に反応しているわけです。 私はこれらのことを過剰に守ろう、守るべき、やるべきと思いすぎている人間だからです。 私は、それをコントロールして、やりすぎからゼロのバランスのところまでもどるのが適切で、 相手の人は、マイナスになりすぎのところをプラスにしてゼロのバランスのところまでもどるのが適切なんですが、 相手の人の、その気づきはいつくるかは、その人と神様の約束みたいなものですから私たちには介入できない、、、、、、、 そう!ここがムカつくんですよねーこころってやつにとっては。 だから、私たちにできることで、できることのひとつは (1)まずは、落ち着けるように呼吸をととのえる。 (2)それから、じぶんの過剰を、よく本音にといかけて、客観的にも観て少しでもクールダウ ンします。 もうひとつ、こころの性質を言うと、何かにとっても過剰な面というのは、自分の中に、何かにとっても足りていない、ヘコんでいるところがあるからこそ、それを誤魔化すか、補うかするために何かの面を過剰にしてしまっているという事を覚えておくとまた、うっそーん???でも・・・そうだよ・・・・って自分の本音に近づきやすいです・・・ くやしいけど、腹がたつけど、 何とかできるのは、自分に対してだけなんだよね。 これも、一つの方法の智慧で・・・ 私もまだまだつづきそうです
July 15, 2006
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今日、名刺を注文しに行きました。 ヨーガの方のものはもっていましたが、そんなに頻繁に使うものでもありませんで。見ず知らずの人にガンガン差し出すような、おしごとでもないからでしょうか。 バッチフラワーのカウンセリングなどは、口コミなんてたいそうなものではないんですが、縁ある人にという感じでやっておりますから 名刺までは必要ではなかったというか、必要じゃないって事にして先送りにしてたのかもしれませんが・・・ イメージもそんなに膨らんではちきれんばかりになっていたわけでもなかったので、時がくるのを待っていたのでした。 フツフツ プチプチ ムクムク っときていたのですが、実はわたくし・・・占いってわけではないのですが、時期なんてのを気にしてて・・・トホ・・・こういうところも、私の弱さの一面なのですが 今は動かないほうがいいんだ・・・なんで、オファーがくるのよ・・・今は、静かにしていた方がいいんだから、断ったほうがいいのかなぁ・・・ なんて、めっちゃくちゃ、先生・・・平気~みたいな感じで内心は、 どーしよ・・・だめなんじゃないか・・・だめだったら怖いって・・・ なんて思うことあります。 でも、自分のエゴでとか、自分の欲で、私利のためにとかでなくてしかも、やったら? やろうよ! やりませんか? やってください。なんてのであれば、なおさら、それは流れなんだから、結果を恐れずに静かに落ち着いてって注意しながら、すすめばいーんだ という気持ちと、ちょうど同じような話をしてくれた人もいて、とまっているというのも変だよね・・・と思い、ゆっくり自然に必要なことは動こうと思い始め、 そのムクムクしていても、放っていた名刺を、つくっとこと思い、 また、思うだけではいつになることやらと思ったので、最近できたかわいい小物をいっぱい置いているハンコ屋にちょっと自分の背中をおしながらいきました。 昨日、見積もりを頼んで、今日行ったら、全く別のもので実はいいのがあったんですよ!しかも昨日のよりやすいですよ!と店の人が言ってくれて、ちょーっとー、これが理想な感じだったんですよ! って感じで、 あぁ、いい感じでまわってくれているなぁと思いながら店の人と話していると 私のはいている靴を見て、その靴どこで買えるの?と興味津々で。これは、ここらへんではないし・・・私は通販で、ネットで買うからねぇ。 これ、足が全然疲れなくていいんですよ。これは二足目で、別のももってるくらいで。って話していると 買ってくれない? と言われてねー いいですよって言ったんですよ。送料も無料のネットショップを知っていて、私もそこで買ったから。なんだったかなぁ、あの店の名前~ と思いながら、PCのあるところまで戻ってきてメールをあけるとなんと!出かけてもどってくる少しの間に、その頼みたい店からメルマガが来てるじゃないですか WOWいいながれ・・・・・と思って、頼んであげました。 不思議なんですが、ヨーガ的生活をしていると、こういうのが日常茶飯事なんです。 買いに行こうとしていたものが、向こうからやってくることは、しばしばなんです。 意味わからなーい と言われそうですが、ヨーガの生活(行)をしていくと、それなりのときにそれなりに欲しいものは全て手に入る みたいなことがいわれたりするんです。 ひどくミステリアスで、ひどく魔法チックでしょ? その言葉に惑わされて、能力を得たいとか、超能力を身につけたいとか、得たいとか思う人もいっぱいいるんですよ。 でもね、別に自分の範疇のふつーの中でおこる事なんだと思うんです。 実は、このようなヨーガの果実は、それを欲しい!と思わない人にやってくるものなんです。 果実を欲しがらない人にやってきます。そして、得られた果実は、自分で食べるものではなく、人に、またはちょうどよきことに使えるこころになれた分だけが、自分のところに集まってくるっていうカラクリになっているのですね。 伝統的なヨーガでは『行為の果実を食すことなかれ』という言葉があります。 私は、長いこと 焦るは、自信がないから、欲しいわって感じで、ちっともそのプチ奇跡、プチギフトがありませんでした。 そうすると、もっとがんばって欲しなければ!と思えくるのですが、もう、やーめた・・・なんか、私方向間違ってるんだわ・・・これは そう気づいて、誤魔化したり、余計なものを求めたりするのを、やーめたってしはじめたら、 見えない手が、手伝ってくれるように、これでしょ?って感じでめぐってくるのでした。
July 14, 2006
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バッチフラワー・レメディのこと書き始めたので、もう一つやってることも、プロフィールに出しました。 私が私を一番よくカウンセラングしています 私が私より、人から、何気なく言ってもらったことが、すぅーっと心にしみわたったり、腑に落ちたりすることが多く、 ここに来てくださった方との会話やアドヴァイスが助けてくださる事が多いです。
July 13, 2006
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今朝、まぬけだった。 昼からの仕事だったのに、朝一番から出かけていった。 失敗? NO!NO! よっしゃー!これも何かの縁。これだからこその何か、おもしろい方に、いい方につなげてみることにしよう って思って、 まずは、自分をゆっくりさせてあげて、それで、うまくいけば、自分をみつめようと思って、最近マイブームにしようかと思っている喫茶店のモーニングに行くことにしました。自分をみつめて・・・ほんとに的を射られたときには、それがどんなに醜いこころのようであってもどんなに浅はかなこころのようであっても、すごいリフレッシュ感と安堵感と、身体もスーっと楽になって、羽生えてるでしょ?ねぇ?私? というくらい、身体の中にしあわせな液体が流れ込んできたようなこころの中に、しあわせな風がふきこんできたような感じになります。 それを絶対的に期待したわけではないんです。なんせ、なんせ、 ご存知の方もいてくださるように、ちょっと手ごわい反応を示しているからです・・・最近 こころを観るときに、感情をよく感じて・・・客観的に観て・・・冷静に、何がアンバランスなのかを見ていく・・・っていうことも、 嵐の波間の船の状態であればあるほど、しがみつくのに必死で、何が起こっているのかなんて、見えないものじゃないですかー それを嫌というほどわかっている私は、とっても素晴らしい道具に出会っていらい、これも使っているのです。 それは、バッチフラワーレメディ (それについて、アップしたいんですが、まだやり方もわからなくて・・・) それは、38種類の感情を38種類の花の性質と合致させてつくられたフラワーエッセンスで感情をこころを魂を癒すものです。 イギリスのバッチ博士という方が作られたものですが、もともと、自然界の草木にある力を、より明確に簡潔にこの世にひっぱりだす事に成功したスピリチュアルな西洋医学医です。 ただ、カンに頼る方法って怖くないですか?また、知識と理論で、余裕のない方法も怖くないですか?でも、冷静な知識と理論に基づいた、人にやさしいものだと安心だと思いませんか? バッチフラワーレメディは、私のその高い理想にかなっているものなんです。 こんなものがあったら、私はもっと早くに苦心から出られていたのに・・・と思った信頼できる道具の一つなんです。 やみくもにこころの状態を観るのは、至難のわざですよねぇ。 そこで、バッチフラワーレメディの38種類の感情に、自分のこころをあてはめていってみるんです。そして、自分のこころのアンパランスになっている今の感情は、これだからなんだなぁと理解していく。 そして、それは実際に飲むんですが、それを飲むと『気づき』からくる、こころのバランスによる癒しだけではなく、 植物のエネルギーによって、外からも、適切にバランスをとっていくので整うのが早くて楽なんです。 ほんとうに。 まず、私は、どんな風に感情のバランスを崩していたか・・・「今」とにかく、どんな感じがするのか・・・という事を素直に観てみます。 私の場合は、反応の対象の人がちっちも努力して改善していかないことにイライラしていました。やるべき事を見ようとしない、受け入れようなんて気がさらさらない。成長しようんてなくて、ガンコで・・・。 物事をやらなければならない時間に全くできず、指定の時間の3倍以上かかって、たった一つの物事しかしないのに、それだけかかる人でした。 周りから、そのやり方はマズイよと言われても決して聞く耳をもたないということで、やり方がマズイ上に、やり方を変えることすら受け容れられず、他のことを少しでもできるかといえば、それもないと、幾重にも頑なところがあります。 私は、オークという木の性質の感情のマイナス面をその人に対して投影したのかもしれません。 『オーク』は、日々の暮らしの中でよくなろうと必死でもがいたり、戦ったりしている人のためのものです。どうにもならないようにみえても、次から次への挑戦しつづけます。とにかく戦いつづけます。もし、病気になっても義務を果たせなかったり、人を助けたりできなるなりと、自分に不満を感じます。希望を捨てたり、努力を惜しんだりせずに、困難に立ち向かう勇敢な人です。 という特質です。最後の一行は、オークの性質のバランスがとれているときの性質で、上の方がいきすぎたバランスを崩してマイナスに出ている時の性質です。 私は、なんで最初から努力もしないのよ!考えられない! と日々思っていましたから。 ちょうど、その人の、岩のような頑なさに、どれほどの努力光線をなげかけても岩は溶けることも動くこともない、今の状態に ムッカーときてたわけですから・・・・・ 先方さんは、頑なすぎだから、私の努力にこだわりすぎでオーク光線を投じても、壁に向かっているようだと思えていました・・・ そんなこころでめちゃくちゃ反応してるんですね。ってことは 私の場合は、オークのマイナス面があまり出ないように、休息も考えながら自分とつきあってみる これが解決の一つになりますね・・・。 あの人をどうしたらいいか?あの人にどう働きかけたらいいか? が解決にはつながらない っていうのが、こころのヨーガの一つの側面でもあるのですが、自分のことであり、相手が悪いはずなのに、自分を変えるだってー?とこころは、葛藤をはじめるがゆえに、難しくなる事がありますよねぇ。 それが、私の見せている、最近の日々の葛藤です
July 13, 2006
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夜になってしまったぁ。 今日もいろいろあったぁぁぁぁぁ。 例の反応する人は、相変わらずで・・・・・・・でも、放っておくこともできない状況がくるので手をかけ、気をかけて・・・・・・ 考えて判断するって事ができない、多分依存的な人なのかもしれない、びっくりするようなことをしていた・・・ びっくりしたぁ・・・私は、悪いけどこの人はバカなのかなぁ?と単純に率直に思ったくらい。 どんな性格、どんな生き方が存在してもOK・・・・ またそれこそがヨーガなのだけど、 適切に要求された事を、責任をもってしなければいけないこと は、しないで通れるわけはないのよ?とこころの中で、語りかけた・・・・・・・ 昨日、一つ、新しい試みへのオファーとお誘いと応援を頂いた。 なんか、あんまりいい時期でないのかなぁと思って静かに過ごしていこうかと思っていたけど、大いなる流れには、まかせてみるかと思って、人事を尽くして天命をまつことにしよっかと思った。 今日、別の仕事の誘いを頂いた。それも、むげにことわらず、受け容れて様子を見ようと思った。 ほんとうは、私 こころの奥で、何もしないでゆーっくりしたいといつもいつも、あこがれていて、 本当は、ただただ、それを目指して生きているのかもしれないよって思うんだけど、 大いなる流れは、いつも私を、仕事をしなさいという流れを送る。仕事とは、きっと作務みたいなもので、 生まれたら死ぬまでは、何かしらの仕事をして生きていくのだというような事の基本、根本を、しっかり悟るまでは、逆に休ませてもらえないんだろーなー? 自分でっていうより、 大いなる流れとか、人生が自分の周りをまわって、つくりだしているようなことってありますよね? そんなのあったら、どんなこととか、どんな感じとか、どんな風にしたとかまた、聞かせてもらえたら、うれしーです。
July 12, 2006
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弱いなぁ、わたし・・・・・ 朝から焦っていて、お昼ごはんを食べたあとに、おもったんです。 知らない間に、このページのトップに自分の購入履歴がでちゃったんです。 私は、焦りました。とにかく焦りました。 バカみたいだと思いませんか? 他のひとからすると、どうでもいいことや、何がそんなに問題なのかわからないようなこと、可笑しいことに、自分がバランスとれている時には、自分でもそういう時の自分の事を『はぁ?』 と思うんですよ。 ヨーガでは、『記憶袋』なんて日本語的には表現したりするんですけど、反応している全てのことは、ほんとうに新しく起こったことではなく、過去の記憶への反応をしているっていうメカニズムを体験的に解明しているんです。 ヨーガでは、意識は不滅で、身体をぬぎすてては、また着たりして『輪廻転生』は、あたりまえのシステムとして了解しているので、その過去の記憶というのが、果たして、今生まれてきて今日までのものとは限らず、前世、前々世・・・まぁ、そんな程度だけではなく、何百かもしれないし何千、何万かもしれない『生』のうちの、いつかのどれかの記憶が、記憶袋に蓄積されていて・・・ という事になるんです。 みなさんにもありませんか いくら今の、生まれてからずぅーっとたどってみても、なんでこんなことが苦手なのかわからないのに、どうしてもダメなものとか、 今生きている中では、全くなぜかはわからないのに、深~く、こころの奥の奥の方で、切ないくらいに好きなものや、あこがれるものとか 一概には言えないでしょうけれど、思い当たらないのに、実際にはある記憶みたいなものを、ちょっと想像したら、あぁ・・・・記憶袋なのかも・・・って存在がちょっとわかるような気がしませんか? もちろん、覚えのあるもので記憶袋に蓄積されたものもありますよね! 幼児体験なんてのは、よく聞く話で。 ちなみに、昔の友達なんですが、カールってお菓子あるじゃないですか。あれが食べられないって人がいたんですよ。 カールは食べられないけど、他の同じような味のスナック菓子は食べられる。 なぜかって聞くと、 必要のないくらいに強く『怒り』をあらわすんですよ びっくりですよ。 聞いていくと、小さい頃にカールが好きで好きで、いっぱい食べたいと思って、ある日夢がかなったんですって、もー、食べて食べて、いっぱい食べたんですって!そしたら、食べすぎて、食べすぎて、気がついたら、寝ながら吐いてたんですって・・・目が覚めたときに、とんでもない仰天をしたらしく、それ以来、食べられないんですって。 こんな笑えるのも、一つだとは思うのですが、笑えないものもありますよね・・・ 私には、6年くらいまえに、急に出現したパニック的なものがありますよ そして、話は戻って、なぜ購入履歴が載っただけで焦って、沈んでしまったのか・・・私はブログ仲間のmikajaさんに『助けて~!!』のヘルプを求めたんです。多分、調べてくださったんです。 私の助けての文が、文章というよりは、気迫で、わけのわからない誇大反応しているってことをきっと察してくださったんだと思うんです。 そして、こうしてみて!って教わって、消せたら 『すぅぅぅぅぅぅぅぅ』と落ち着いて、プチしあわせにさえなってきました。 私には、なぜ、こんな反応をするのかは、思い当たるふしがあるのです。記憶袋にあるものなんです。 自分の足跡を残したくないような、知られたくないような、身を隠していたいようなそんな反応をしてしまう原因。 その原因は、話せない・・・・・・・個人個人になら話せるけれど、不特定多数、いろんな方に開示されたところでは・・・ まだ、です。 もし、いつかアップできたら、絶対にしようと思います。その時には、私は確かに、今よりもふた皮くらい、いや・・・もっとむけていることになると思います。 だから、いつになるかは、わからない・・・きっと、きっと・・・いつかそして、ぜひ、聞かせていただけませんか?もしよかったら、みなさんのむやみに恐怖なものや、やたらに好きなもの。記憶袋からとしか思えないような、それ
July 11, 2006
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はぁ・・・・・ 午後まで、感情のアンバランス噴出はなくて過ごせている。 どうも、『反応する人』のことは、最近、強風のようにバランス崩すからねぇ。 そうそう、ヨーガでは本当は『こころを波立たせないようにすること』がある段階の目的なんです。 最近、流行ってきたのは、『身体』だったから、ヨーガのようでヨーガでないと感じられてきた理由なのですが、 身体はとっても大事なんです。この世界では私たちの命を支えている身体身体とこころは影響しあっているからです。 身体が揺れるとこころが揺れるけど、こころが揺れると身体が揺れるしね。 私たちはヨーガ教師だけど、ある人は、先生だから『知らない、わからない』と言えないと言われます。 自分の教え子が自分より進んだら、無意識に抑えてしまうとか。 なんだとー! と思わないでぇ。 とっても、人間らしいでしょ?血も涙も、痛さも、怒りも、喜びも、憎しみもよく知っている方がいいんだ。 だけど、それにひっぱられて、揺れて、無意識にコントロールすることなく感情や、プライドに自分をもっていかれていたとしたら・・・ これは、教師として『猛反省』よってことになるわけです。 しかし、こんな風に波立ってひっぱられて、猛反省して、こうなったのよ。こういうやり方で、私のようにこころの怪物と対峙するのよ と自分、自分の生き方まるごとが道しるべとできることが『先達』という教師なんですねぇ。 山に登るの、先にいばらを踏み、先にいばらを切り倒し、たまには、いばらの痛みを経験してみる?と、安全を確認して、とげに触らせ、不意にとげをふめば、どのようにすればいいのかをアドヴァイスする。 私が、こうして、どんなにこころが揺れるのか、どんなに悔しいくらいに反応する人にとらわれるのかを開示できるのは、実は、まるごとが教師だと思うからなのでした。 で、ヨーガでは、私の今のようにこころが波立つ様子を(欲であったり、怒りであったり我欲であったり、様々なものに)『あばれる馬』にたとえるんです。 そして、まず、馬があばれている事を知らなければ、それをどうもできないから、まずそれを『わかる』そしうして、馬の『手綱を握ってコントロールせよ』っていうんです。 そんな事わかってるよ・・・どうすれば、日々の暮らしでできるのかって事がわからないんじゃないか ってことを埋めるのが、ヨーガなんだよぉ あぁしろ、こうしろっていう意味でなく、方法をいっぱい持っているんだ それが、心理学や心理カウンセリングと違うところで、そこから先にバトンがまだまだ渡せる方法がいっぱいあるんだよ ワクワクなのよ。 馬がどうあばれているのかがわからないって時や、人には心理学や心理カウンセリングもとっても助けになると思います。 だって、自分で見えるように助けてくれるんですからね。 ヨーガでは、自分でそれをできるようにする方法や、そのあと、自分でどうすればいいのかって智慧の方法があるよって事なんです。 やるかやらないか、やり方の好みもあるし。 それに、「人」に助けてもらいたいときがあるし。それは必要だし、時にはいいことだし。 でもまぁ、まだ、やりこなしていない事柄については、その過程で、こんな風に私のように、うぅ・・・・・ってなるんだぁ。 私は、そのこころについての、うぅ・・・は、先人のあついサポートなしに長くやってきました。 なんでだ・・・なんでだ・・・と思ったこともありましたが、 でもね・・・そのお陰なんですよね。いろいろと手の中におさまったのは・・・ 今になってね、あぁ、あの時にこんな便利な、こころのヨーガの道具とめぐりあっていたら、苦しみは10分の1だったろうなぁというものともいっぱい出会っています。 そういうものを、少しでもみーんなに紹介できたらなぁと思います。 なんせ、このブログがうまく使いこなせないものですから、こうしてみたいが、まだうまくいかないんです・・・・・・・みなさん、気長に育ててくださいね。
July 10, 2006
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小さい頃の環境なんかが、こころのクセになっていやすいって話をしたのですが、私、よくしかられてたんです。 ほんとうによくしかられていた。 『悪いこと』をしてじゃないなぁ、今気づいたけど しつけ的にだなぁ・・・・・ほとんど。 両親はとても私を愛して、やさしいんです。でも、しかられた、しかられるがあまりにも刷り込まれてきたんでしょうね。 印象として、自分はどうしようもない人間なんだなぁ。だから、相当にがんばって生きていかないといけないんだなぁ。人より劣っているんだなぁ。自分のすることは、よくないことなんだなぁ。 そんな事を知らない間に自然にあたりまえに、クセとしてもっていて私はそう思っているってことにすら、気づかないできてたのです。 最近、こんな風な話題になっているのは、瞑想やヨーガをやってきて、とうとう自分なりの、今にきたんでしょうねぇ。 自分の無意識になっていた こころのクセとか 本当はどんな風に感じてきたのかの感じ忘れていたことや小さいときのことなんかが、ポコポコよく浮かぶようになってきていたんです。 ここで、こんな風に話していて、そしてこの場でともだちになった人が、それについて『こうじゃない?』『自分はこうなんだけどね』『私もそれ、こんな風にあるんだ・・・』など、お話してもらってると、 『あ!そうだよ私』 『あぁ・・・それなのかも』 『え?その線があったよね』 って、すごく早く気づくことができたり、モヤモヤがスッとしたりしてすごいありがたいし、とにかく、人とのそんなふりあいがキューっときたり。 そんなこんなで、小さい頃のことを感じなおす事も多くなっているのですが、しばしばおじゃまするブログに虫がのっていた。 私の育ったところは田舎で、小さい時には、近くにかなり明るい街灯があったこともあって、かぶと虫や、くわがたが、勝手に窓にあたってきたり、朝おきたら、その辺の壁にくっついていたので、虫とりに行って、かぶと虫はとるということをしらなかった。 今でも、虫は、アリか、かぶと虫とか、くわがた虫系しか触れない。 学校に持っていくと、私のもっていくものは、大変でかく、みんなの持ってくるような小さいものを逆に見たこともなく、どうしたんだ!?と聞かれるたびに、家に来たと答え、うそつけー!?なんて言われた。 だんだん、やってくる虫も少なくなっていって、それいらいずーっと家に来ることはなくなった・・・何か子供なりに危機感を感じていたものだ。なにかがおかしい・・・って。自然が何かおかしい? 夏のあつ~い感覚。 でも、窓からの風が気持ちよくって、ねっころがっていたりしてたたみのあとが、ほっぺについたり 宿題があって いつもと違う感じにドキドキしたり あぁ・・・なんかよみがえってきたんですよねぇ。
July 9, 2006
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うってかわって、ヨーガクラスでは、今までにない、また新しい雰囲気も漂ってきていてみんないきいき、私もいきいき、なごみ、たのしく、体もこころもクリーンになれました。 今日は、呼吸法を少し多くやりました。 『カパーラ・バーティー』は、横隔膜を動かして、勢いよく、プラーナを前頭葉のあたりにあげるものです。 カパーラは、頭蓋骨 バーティは、輝かせる という意味で、頭蓋骨を輝かせる呼吸法=脳を活性化させるような呼吸ほうなのですが、 プラーナ(氣功でいう、気にあたると思いますが)の通り道をすばやくクリーンにする呼吸法でもあって、 すぅーっとするし 思考もスッキリするし 前頭葉のあたりの活性化をするので、脳が統制するし ほんと、簡単でいい方法なんです。 座って、はじめは、オヘソを出したりひっこめたりするような感じで引っ込めたときに、息を吐いて、鼻から瞬間的にでるというような感じではじめてみて、 そのうちに、下腹のお腹が出入りする感覚に馴染んできたら、それにともなって、左右の肋骨の一番下のあたりのところに横隔膜があるから、それが、上下に動く感じを感じてみて、 そしたら、あぁ、横隔膜を動かしているものなのかぁ・・・と ナーディ・シュッディというのもやりましたが、それは、またの機会にいたします。 生徒さんあってこそ・・・と終わりに、じぃわーっと暖かく気持ちがひろがって、 ありがとう・・・・・・・・。
July 7, 2006
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実は、昨日のあれからまた、すごくムカー!ってきたんです。んもぉ、波がざっぶーん!で、舟がゆっらー!です・・・どう考えても、おかしいんじゃないだろうかって。理解しようとしても、おかしいよ・・・って。 たしかに、その人おかしいのかもしれません。不正直でズルいことしていて。でも、それをわかったとしても、そこまで私が揺れなくてもいーのに? それって、これくらいおかしいのかも? 二つの水槽があって、一つは黒い水だったとしても、もう一つの水槽が、波立つ必要はないわけで・・・ そんな事が実際に起こるところを観たとしたら 『』なだけです。 わかっているけど、ざっぶ~ん!です。 こころの反応って、小さい頃の環境や、親とのかかわりで多くのクセができたり、今のクセの原因は、それだって言われるけれど、 小さいときに、のんびり屋だった私は、周りがいそいでいるとか、あまり関係なくぽよーんとしてたんだと思います。とにかく、途中から厳しかった母は、(多分、この子、このままだと社会性が危ぶまれると思って鍛えようとしたんだと思います。)『はやくしなさい!』『一つのことばかりしないで、これやりながらでも、これできる』『のろま』なんて言われては、発破かけられてたから、その反応している人の姿が、なんか、そんな感じなのかもしれないんです。 自分がそんな事をしていたら、叱られる、嫌いな私・・・そんな自分だったらいけない私 を、その人に映しているのかもしれませんね・・・ きっと、私の、ぽよーんとしたところを、いけないところだと今も思っているのかもしれません。 良いところも、良くないところも全部OK、嫌わないであげたいんですけど・・・自分のこと。 難しいです・・・ 私自虐的なところがあるからです。 自分のそんなところ、『そうよ!』ってOKできたら、その人のことも、がんばれ!って思えるのかもしれないのですね。 まだまだ、かかりそう。 とりあえず、今日は会わないから、ホっ・・・・・・・ごめん
July 7, 2006
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3ヶ月前くらいから、こころが波立つ事柄のひとつがあります。ある人の行動に対して、反応するのです。 「その人はこうなんだ」と私に観えることは、実は「事実」かどうかはわからないのです・・・ ほら・・・自分も被害妄想になるときとかあるでしょ?そして、被害妄想の人を客観的に観ていると、「そんなことないのに・・・なんでこの人には、そんな風にゆがんでものごとがとらえられるのだろう???」 って笑えるくらい、事実ではなかったりしますよね? 極端ですが、それと同様に、自分に観えることは、自分のこころに浮かんだとおりに見えているだけで、それが本当に事実とは限らないのですね。 だから、私のこころがそう反応するって事なんです・・・ で、 私には、こう観えて、こんな風にイヤな感じで反応するのです。 その人は、やるべき事があっても見えない、というかわかっていてもやるのがイヤなので見えないようにされている。 自分のやりたいことしかやらない。その人のやらなければならない事があるのに・・・その人は、わざと忙しいフリをして、時間を引き延ばして、たくさんのお金を得ようとしている。 工夫がなくて、ガンコ。 そんな風に観えているから、こころがすごく気持ち悪くてムカ!ってきたりもします。 なぜ、そんな風にわたしのこころには映るのだろう、また事実だとしてもなぜ、それに対して波立つのだろう? 波立っている時には、冷静になかなか観えないのですね、その自分の本当の理由が。 ほら、ゆるやかな水面に舟を浮かべていて、お天気もよければこちらも、ゆったりして、身体もリラックスしていて、笑顔なんかも出ているだろうし、周りの景色だって楽しめるけど、 すごい波立っているとしたら、舟のコントロールだけに躍起にならなければならないし、気持ち悪いし、周りの景色なんかわからないし、一緒に乗っている人(近くにいる人)がいたら、思わず、あたりちらしたくもなったりしそうです。 私たち と こころって、そんな関係でもあるんですね。 だから、ムカ!ときているときなんか、観れやしなかったり その人は、自分の世界だけにいるようなところがある と私には観えるんですけど、周りを認識しないんですね・・・ 私は、それにも反応しているんじゃないかと思うんですね。物事をわかってよ!って 他の人が私と同じ意見を持っていたとして、「そうね、あの人ってその通りよ!」と言ったとしても、私は癒されないと思ったんです。 ゆっくりと呼吸をするようにこころがけて、目をとじてみて、呼吸に気持ちを合わせて、身体の感覚なんかにも、意識して、よく感じて「自分の反応」 と 「私自身」を少しずつ遠くに離していってみて、からだと気持ちが、なんかゆったりしてきたら、じつは、呼吸がゆったりできているはず。 だから、呼吸をゆったりわざと整えていくと、身体とこころがゆったりしてくるというわけで。 そうすると、穏やかな水面に舟・・・・の状態に近づいていけるわけで。 そうすると、その水面の下が本当はどんな風になっているのかという感じでこころの本当の気持ちが観えてきたりする・・・ こんな感じが、内観なんて言ったり、きのう、お話していた日常的にとりいれやすい瞑想になったりするんですが そうしていると、私には、なんでこの人、認識してくれないんだろうと本人に、認識してほしい!!という気持ちがあるんだってことがわかったんです。 実は、とってもその人を受け容れたくてしかたないんでしょうね、本当は。 だからこそ、本人に、周りを認識してほしい!!!と思うんだと思う。表面的には、シャクにさわる感じなんですよ、その人を受け容れたいから???なんてね いじめる子 と いじめられる子 の関係も、ふか~くは、こんな感じなのかもしれないなぁと、瞑想していてフっと思ったんです。 興味がなければ、反応しない・・・・・・ 嫌いな人っていうのも、めちゃめちゃ興味があって、もっともっとこころの奥深くでは、シャクにさわるけど、「めちゃくちゃ、素直に受け容れたい!仲良くしたい!」のかもしれません・・・ 私は、いまのところ、その人にそうだなんて思いたくないよ!ってこころが言っているけどでも、ほんとうは、ほんとうは・・・もしかして・・・・
July 6, 2006
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昨日のヨーガクラスは、お休みの方が多く、少人数で、1人1人をケアできました。 不思議なことに、お1人お1人にゆったりと接することができると、その方たちも、自分を満喫できて、理解もよくできていかれるからなのだと思います。なんか、ゆったり満足した感じになってくださいますが じ・つ・は そんなとき、私自身が、人との深い触れ合いに、自分との対面でもあり、すごーく癒されているのですー。 前にもちょこっと書いたのですが、ヨーカ゜が『どーなってんの???』みたいに流行ってきて、ヨーガはフィットネス?だとかエアロビクスのちょっと変形?みたいになってきている流れも、新しくヨーガと称されてきて 何か、ヨーガっていうのは、フィットネスクラブとかジムとかでやるもんなんでしょ みたいになってきているの???って感じでした。 ジムなどのクラスでは、40名とか、それ以上の人がいっぺんに1人の教師から号令をかけられて、やっているって。 流行っているから、でっかい会場を借りて100人集まったとか。 そんな別世界の話を聞くにつけ、 ど・どーしよー? なんて思いました。 そういうときには、「自分」はどうすべきなのか・・・をみつける事なんだけど、瞑想するんです。 瞑想って、むずかしいものじゃないんです。むずかしくて微細になるのは、ほんと、熟達してからの話で、スタートや入り口は、めちゃめちゃシンプル、きもちいい、日常的で普段にこそ、とりいれて、生き生きできる簡単な方法なんですけど、 自分を見つめながら、問いかけ、静かに座したり、自分の存在に合わせながら・・・いると、 私は、人 1人1人と接したい。 1人1人の喜びや、不調、からだとこころの声と接したい。 その人との縁でヨーガの本質がお互いに流れあうもの・・・ やっぱり、そんな風に思えて、自分にできることこそ、貴重なんだと、ほんとはね、ドキドキしたり、焦りも覚えながらも自覚したんです。 そして、もう揺れないぞーって思い始めて、昨日みたいな、触れ合いがあると、みなさん、しあわせそう・・・・・・・ そして、わたしが しあわせ・・・・と思いました。
July 5, 2006
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梅雨の中で、時々いいお天気になると、しあわせな感じがします。 近年よく見かけるようになりましたが、すんごい完全武装の紫外線対策の方いらっしゃいますよねぇ。そういえば。 そうそう、ご存知ですか?太陽の光ってね、ちゃんとあびないと、これまただめなんですって。 私、地下で仕事をしていたことがあるのですが、その時、こころも身体も不調にだんだんなっていったのです。 時々、なるべく太陽にあたるように、すごい努力したものなんです。皮膚がね、短い間に太陽の光をもとめて、のどがカラカラに渇いたときのように 『じゅわ~!!!』と、吸収している感じがしていました。びっくりしました。人間には、太陽の光がめちゃくちゃ必要なものなのかぁ・・・と身体で実感しました。 ちなみに中国医学などの『ツボ』ってね、経絡と言われるなが~い、身体の中の連絡通路みたいなものの、ポイントの駅みたいなものなのですが、その通路(経絡)には何が通っているかと言えば、 目に見える、血液とかリンパ液とかより、もうちょっと目に見えない「液体」と目に見えない「気体」の間のようなというか、そういう「もの」や 中国的にいう「気」とか、ヨーガ的にいうと「プラーナ」も流れているような通路なのですが、 実は内臓は、その通路の途中にある、ある役割を担ったものという感じになります。 だから、内臓が調子悪いわ・・・とか 身体のいろんなところを整えたいわ というときには、直接、その内臓やその場所をどうのこうのしなければならないっていうわけではなく、 その内臓の含まれる通路(経絡)の中で、ちょうど刺激しやすい『ツボ』を刺激すればいいってことなんです!!! 身体ってすごいシステムしていると思います。 で、その『ツボ』っていうのは通路(経絡)の中で、皮膚の表面のほうまでポイントが出ている場所なんです。 通路自体は、身体の中の方をわりと通っていたりして、また、これ自体を刺激するのは内臓などと同様むずかしいけれど、『ツボ』は、表面に近いポイントとして存在しているのです。 で、で、ですね。 その『ツボ』は、もちろん、「指圧」や、「さする」といった刺激でも、通路の中がうまく循環しはじめるのだけれど、 な、なんと 太陽の光を皮膚に頂くことによって活性するんですよ!! 『ツボ』は、太陽の光をより受け取とれるようにする為かのように、また、より皮膚の微妙な刺激を受けて通路を通りやすくできるようにする為かのように、皮膚表面近くまで浮かび上がってきているポイントなのでしたぁ。 すごくないですか!? 私は、それを知ったときに思いました。 人間も光合成してるんだよ!!!みたいなね。(緑にはならないけれど) だから、太陽の光を迷惑な『きもち』(こころ)でいると、せっかくの光を、吸収しちゃいけないのかなぁ??と皮膚も思うかもしれないから、気にしすぎずに、でも、ケアも大切にしながら、 太陽の恵みを笑って受けられるといいなぁと思うのでした。
July 4, 2006
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アシュリーという少女がいます。プロジェリアという、人の10倍の速さで年をとってしまう病気です。14.5歳の少女が、90歳に近い身体をしながら、それはそれは、素敵な毎日を送っている。 ある日、アシュリーの本をみつけた。 そのころ、仕事関係で関わる女性に、自分のことしかしない彼女に、だんだん、怒りを覚えていた頃だった。受け容れられなかった・・・・・そんな気持ちで毎日過ごすのは、とっても苦しかった・・・ そんなとき、アシュリーの本をみつけて手にとった。彼女は、毎日、とても幸せだって生きていて、本当に楽しんでいるのをテレビで観て知っていた。 90歳の身体をもちながら前向きに、しあわせに楽しく過ごす彼女の生き方に今の自分に、いらないものは捨ててしまえる、省ける『反省』につながるものがあるかもしれない。 アシュリーの日々は、私にも何かを教えてくれるにちがいないやと思った。 また、少し、ここのところ、エネルギーが弱い感じがしていたからアシュリーの本を数日手にとっていた。 おとといは、少し沢山読んだ。素敵。すばらしい!楽しそう!とっても丁寧に毎日、刻々を生きている! 昨日の朝は、最後まで読んだ。出かけるのが遅くても良かったから、満喫した。 『私は、ハッピーに生きたい。ほかの人たちを勇気づけるように生きたい』 『嫌いなところはひとつもないわ』自分の全てを肯定している。すばらしい! 自信がなくて、自分のことを時に大嫌いで、自分なんて・・・とイライラして、自分を傷つけようとする私には、いつもまるごと自分を好きでいるなんて、どんなに難しいことか・・・ アシュリーは、頭や胸がとても痛むことがあって、身体も思うようにいかなくて大好きなお母さんよりも、早く死が訪れることも知っているけれど、 『くじけそうになることもないな』という。 私は、『さぁ、行こう』そう思えた。またしずかに強く、エネルギーが動き始めるのを感じた。 卓越した人、アシュリー・・・・ありがとう!
July 3, 2006
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『長谷寺』まずは、長谷観音ですが。。。ハッとして引き込まれるような、立派なお姿でした。慈悲深いお姿に、長く長くたたずんでおりました・・・・・ 真ん前は撮影禁止なので、遠くからでぼやけていますが、長谷様式とも言われるこのお姿は、いつでも人々に手を差し伸べられるように準備されているお姿なのだそうです。だから、いつでも助けられるように立っておられる観音さまなのだそうです。みなさんにも、観音様の慈悲と恩寵がとどきます~☆☆☆
July 3, 2006
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昨日、テレビで全盲の少女のドキュメントを観た。こころを打たれた。 彼女は『障害者』ではなかった。彼女は、障害者なのではなく、全盲という要素をもった1人の人として存在していたし、彼女の周りの人、両親が彼女をそうこころから思っているからだったのじゃないかしらん。 どれくらい、上手に表現できるかどうか、わからないけど、彼女から、『障害者』というアピールが出ていなかったし、ご両親からも、そのアピールが出でなかったからだと思う。 彼女は、その彼女のままこそが、彼女だって感じがしてた。 障害者だからとかって眼ではなくて、ふつうに、かわいらしい子供だったな。 目を閉じて、歩けるか!? 彼女は、自転車にも乗ってたよ!? 水泳得意だったよ・・・ 私の母は、自転車乗れないよ・・・私は、せいぜい100mくらいしか泳げないよ・・・ 一番、爆笑だったのは、目隠しをして夕食を食べる日が週に一度設定されてるんだって。 目が見えないから、彼女は食べ方が汚くなるって両親に注意されたときに彼女、言ったらしいわ。『じゃー、やってみればいいよ!』 それから、両親は目隠しをして週に一度夕食を食べるって。 彼女が一番きれいに、一番早く食べ終わるんだって~。 エークセレーント!!
July 3, 2006
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おとといは、小学生でグループで万引きした子達と接した。(実は、今日は主婦の置き引きの犯人というか、加害者に接した・・・)悲しかったのは、彼らにではなくて、周りの大人にだった。 この気持ち、わかっていただけるのではないだろうかぁ・・・ なぜ、その子たちを、社会の子供として接してあげられないのだろ・・・なぜ、しかってあげられないのだろう・・・今日、自分が彼らを何とか流せたら自分にはふりかからないからなのだろか・・・ でも、そのたった一度の一期一会で、こころからその子供たちに誠意をもって接しられたとしたら、もしかしたら、彼らがまた、小さな(実は大きな)犯罪を二度と犯さないでいられるかもしれない、大きな大きなチャンス、人と人とのチャンスだと、私には思えた・・・ 私は、はじめ、こころが閉じるような感覚を覚えて、単に怒りの小さな炎が起こるのを感じた。 でも、さっきみたいな気持ちが膨れるにつれ、こころが開いて、彼ら1人1人が社会の大事な子供だと思えた。 そして、彼らの前に行って、『どんな気持ちがする?』と聞いた。『嫌な感じ・・・』『モヤモヤするか?』『うん・・・』『じゃあ、こんなモヤモヤ二度とゴメンだと思うか?』『うん・・・』『よし!それじゃあ、この気持ちをよーく味わって、忘れないでおこう! そして、こんな嫌ーな思い、しないように、もうやらないでおこう!約束できるか?!』『うん。』 ヨーガには、こころの訓練として、『ヤマ』、『ニヤマ』という訓練の段階がある。ヨーガといえば、なにやらいろんなポーズをしているものと思われがちですが、そのポーズをすることは、『アーサナ』といい、邦訳は座法とも言われるけれどポーズというのは、『停止』という感じがしますが、実はアーサナは、英語で言うポーズよりは、どっちかというと『静止』で、中味は生き生き動いている、流れている状態があるのですが・・・ 『アーサナ』をすることがヨーガだと、最近のヨーガブームでは特に思われてしまったかもしれないけれど、実は、『ヤマ』『ニヤマ』というこころの訓練の次に、はじめて『アーサナ』という訓練が、位置付けられていることは、一般的には、知られていないのかもしれない。 この『ヤマ』『ニヤマ』は、こころの訓練になる人の、日々の行為、言動、思いの上での、すべきこと と してはならないことを明確にルールづけてくれている、道しるべなのです。人としての内容を訓練できる、とっても具体的な道しるべなんだなぁ、実は。 その『ヤマ』の中に、『不盗』というのがあります。これは、単に人の「物」を盗まないという意味だけにとどまることではないのです。 物を盗むのは「身体」で盗んでいる。人の作った法律に背かなければOK!というわけではないのです。ヨーガというのは、宇宙の法則に沿うためには、どうしたらいいのかって事を、簡単明快に示している方法なので、「言葉でも盗まない」し、「こころでも盗まない」ことが『不盗』の質なのでした。 それってどーゆーこと???言葉でもぉ???こころでもぉ???それは、ぜひ、また書いていきたいです。またのお楽しみにしよおっと
July 2, 2006
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昨日も、家にいられる一日だった。もしかしたら、家にいられるのに、忙しくしている日だってあるのかも? 前に、知り合いのおばちゃんによくいっていたお店でこんなことを言われた事があります。『あんた、休憩時間にでもいっつも勉強してるなぁ。先生やのに、まだ勉強すんの?』 ???・・・???先生だからこそ、勉強するんだよ?おばちゃん!? そんな感じで、私は自分の休日は更なる勉強に充てている事が多いのです。昔はもっと、やっていたような気がします。でも、方向性が定まってからは、ヨーガや癒し、身体やこころや東洋医学やはたまた医学や食養や精神修養やという事に、つながる方向のことをやっているので、それほどやっているような気がしなかった。 周りの人からすると『よくそんなに忙しく前向きにできるね』と言われて、また???・・・???え?そうなの?私?と、人の目を借りて、自分を見つめるのに、ちょいと立ち止まる。 あぁ、そうかもしれない?と自分を調べる。でも、こころってそれぞれのクセをもっていて、なかなか自分では気づかないようにできている。だからこそ、他人の目を借りて自分を観る。 ヨーガでは、こんな風に言われたりする。目は、外に向かってついているから、外しか見えないようにできている。本当の自分の事を観るのは、外に観ているもので感じたこと、観たこと、それが、実は自分の内側そのままで、内側に起こっていること、そのものなのだって。だから、時々人の目をお借りして、立ち止まる。 休みの日は、休みでない日にはできない事を働かないとという思いは、ある一方では強迫観念的なところもあると思うのです。 昨日は、そんな自分のこころのクセが起こるのを観察して、んん?また、むやみに何かしようとしてないか?ゆっくり洗濯してみない?ゆっくりお話を楽しんでみない?ゆっくりお茶を楽しんでみない?そして、夜に少しだけ、出かけてみない?そうすると、とってもゆったり充実、そう・・・・・内側の素敵キレイなエネルギーが満ちてくる感覚で。
July 2, 2006
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