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ほんとうに急にアーユルヴェーダの本格的セラピストの勉強に行くことに決まった かれこれ、十何年前から施術してもらうことと、勉強をしたいと思い、ずーっと、自分では学びながら今まできました。 インドで長期滞在して施術を受ける計画を4年ほどまえに真剣にしたのですが、それは自然の流れでいけなくなり、 その後友達の友達がマッサージとしてだけですが、勉強しているというので、自分も勉強しようとしたら、その人が、教えてもらう人の人格というのはとても大事なので、ここはやめたほうがいいとアドヴァイスされたので断念。 去年の夏ごろには、別のところを発見して、これは信頼できる?と思い、そこで勉強したいと思ったので、今年がはじまった頃には行きたいと希望したのですが、そこは、教えてくれるところではない事が判明して、また断念。 ちょうど、昨年末に別のアーユルヴェータ゜の流れと縁ができた。あんまりにも思いが募っていたし、早速行きました。エステに取り入れられているというところはありますが、アーユルヴェーダって全く別ものなんです、本当は。 行ってみると、正統的なもので、医療としてしっかりとセラピーできる確信があるところでした。そういうところをやっとみつけた事に感動したのでした。 セラピストの養成も行っていましたが、本格的なものですから、海外で学ぶしかありませんでした。 それでも、いつか、ここの縁で学びたいという希望ができて、過ごしていました。 施術も受けて。 薬効が身体の何か深く浸透するので、ちょーっと体験したことのない軽さになる。私がてきめんに感じたのは、やはり、私の得意分野である、こころの変化でした。 効果が続くような受け方をした時には、それから怒りという顕著にわかる感情なんかでいえば、おかしいくらいに出なかったのです。 それから、徐々に、プチ腹立つ?プチ怒り?なんていうのも出たりして、逆にアーユルヴェータ゜は身体とこころにちゃんと働くのを実感しました。 8月の初旬、アーユルヴェータ゜・ト゜クターと、むこうのセラピストが来られ、今回は日本でセラピストの勉強を基本からやりますっていう知らせがきました。 なんてすばらしいチャンスなんでしょうなのに、日程が無理そうで、半ばあきらめて過ごしていました。 昨日、ポストをあけると詳しい日程が来ていました。 なんとか工面できないか やりたいじゃないか と、きゅうきょ、もう一度炎が燃え始めました。 私のヨーガの先生は一人ではないのですが、お姉さんのような存在である先生に、連絡することがあり、これも話してみました。 『休憩も必要だと思うんですが、勉強をしたくなる・・・プチ・バカンス計画しているのだけれど、返上して行こうかなぁ?』 『勉強したいと思うときに、やってみるって感じかなぁ、私は。だめなときには行けなくなるし。自然に。ちなみに、私は今回のコース、行ってみようと思っている』 って返事がきたじゃーありませんか 一緒に受けられたらいいのに・・・遠くの場所でしか日程的に受けられないかもしれなし・・・と思いつつ、明日、周りに働きかけて、時間がとれるか調整をしてみようと決心したのでした。 まず、筋を通さなければならないところに、素直に腹をわって話してみた。 行けるように○○に言ってみるといい 受ける場所は近くでいいじゃない そして、次の人にまた素直に腹をわって話してみたら いいじゃない!行けばいいよ!まだ、先の話だから、調整なんかできるよ! って・・・・・ うそぉ・・・・・・マジで し・あ・わ・せ・・・・・・ でも、教室の生徒さんに言って、休ませていただかなければ・・・勉強させてくださいって頼まなきゃ・・・・ と最後の問題を解決できるかだなぁと思っていると ふと気づいた。 近くで受けろって言ってくれたんだから、教室の時間には間に合うんだよ って気づいた瞬間にすべてが解決して流れはじめました 窮すれば通ずる また、その言葉が思い浮かびました。 本気か?どうだ?と神様の試験を受けたような気がしました。 なぜ、うまくいく方法がたった一つ用意されていたのに、気づけなかったのかなぁって不思議で、これでいいんじゃないかなぁと思いました。 これで、プチバカンスのこころの浄化も、安心して行かせて頂けます・・・。 感謝 ほんとうに、ありがとう・・・
August 31, 2006
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デザイン変えてみました。文字の色も、こんな色で書いてみました。 やっぱり相変わらずブログ使いへたで、よくわかりません。ブログ友達は、最近写真を日記にはれるようになって、写真の大きさも変えられるようになってすごいんです。挑戦クリア。 私は、いっこうにすすみませんが、占いを入れてみたり、一覧を入れてみたりしました。 あぁ、なんてヨチヨチなんでしょう。 でも、みなさんに育てていただいて、私もここまでこれています。ありがとうございます
August 30, 2006
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ヨーガ・クラスが、昨年とその前の年は人が増えました。その後、減ったりするなかで、自分を見つめていたという話を以前にしました。 ヨーガにはたくさんの恩恵がありますが、それが、いろいろ、いっぱいに享受できるやりかたで、こころの平安と身体の健康、精神の強化に、自分らしい真の自己の発見につながれるクラスであれば、人数はそうそう増やせないというのもあるし、増えなくとも質だけは崩しては、私は私がやっている意味を見失うのだろうという思いを再確認してから 気にならなくなっていました。 こころの面にきっちり対応できるクラスというのは、あまり知りませんし、それだからこそ、その線をきっちりやろう、そうすれば、自分が少しでも役に立てるチャンスがひろがるだろうって。 昨日、クラスに見学の人が来て下さいました。 見学の方と、体験の方だと、やっぱり体験していただけたらありがたいんですね。15分ほど見学してくださって、その間に何かを伝えられるか、逆に何かを聞いていただけるのにも、充分だっただろうか・・・と思うのです。 案外、印象や縁というのは、そこで繋がる場合は繋がるので、いいのかもしれないけど 見学もいいけど、お話をしてみるんです、私は。何で興味を持って下さったのか、必ずキッカケみたいなものがあって、きっと、何を求めておられるのか、どこに向かいたいのか、何を見失っておられるのか それが、例え無意識だから、ご本人にとってはわからなくてもいいんです。 私が感じてさしあげられたなら 昨日の方は、パニック障害だとおっしゃっていました。言いにくそうにされましたが、 『あらぁ、そうなの・・・つらかったわね・・・私もよ』と言うと、びっくりされてヨガで何とかなっちゃえるものなのか もしかして、私はよくなっちゃえるのか という希望の鼓動が聴こえるようでした。私も嬉しかった。 もしも、私のクラスに来てくださるなら、精一杯お手伝いできると思ったからです。 いろいろと、ちょっぴりプライベートで気になっていること、こういう時に自分を失いそうになる、 最近、自分がいじわるになってしまう・・・ そんな事をお話してくださいました。嬉しかった。 私も、いじわるになるときもありますよね・・・私も先日まで数ヶ月、どうしても腑に落ちないことがあって、イライラしていじわるになってたんですよって話をしたりして。 十数分ですが、お話して 『私、来ます』 と言ってお帰りくださいました。 バッチ・フラワー・レメディもあります、こころのバランスを直接とっていくことが出来るというものもありますよって言って。 来てくださるかしら・・・ ちょっと、こころが助けてコールをしていた人だから、少しでも何か一緒にやっていけたらなぁと思うのだけれど、 縁も、ちょうどいい時期も、先方さんの都合もあるから、あとは天命を待つのみね パニック障害のようなものに対応するのも、実はヨガは得意です。ただ、ここでも特筆しておかなければならないのは、身体をアクロバティックに動かすことでというわけではありません。 自分が今、何をしているのか、どう感じるのか、身体をどう動かしているのか、どこにどう刺激が伝わっているのか、いくのか、そして、それを自分はどう感じるいるのか、そして、それをどれくらい維持できるのか、どれくらいが適切なのか というのを、自己発見していくこと、自己コントロールしていく事につながるように、簡単なところからやってみる、そして、練習していく、そのあと身についていく事が必要になります。 それは、身体での感覚だけでは充分ではなくなります。 アーサナということの意味と質が体感できる指導者と場は必要になりますし、その方法が自分に合う方法を、一人一人にとってくれる指導者と場も必要になると思います。 難しいことを言われてもね最初から・・・余計ヘコむじゃない それができないから、来ているってーもんだしね だからこそ、一人一人のちょうどいい、そして心地よいところで導いてくれる指導者が必要なのですね あとは、不思議にも指導者との縁、場所との縁なんていうのも働きます。そのような質のヨーガなんていう時には でも、もう一つ大切なことは、やってみることなんです。 違うなぁと思えたら、それこそが、自分にぴったりの指導者と場所につながれるサインかもしれません。 でも、違うなぁというのにも二つタイプあります。 本当はピッタリで必要だからこそ、反発が起こるばあいもあるので、そのようなタイプの場合はむやみに辞めたり、はしごしない方がよい人もおられると思います。 もし、不安のある方は、どうぞ、これも何かのご縁ですから、遠慮なく質問でもくださいね~
August 30, 2006
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プチ・バカンスで、何もしない・・・という贅沢な一日を過ごすのに心配になって、DSの新しいソフトをとりあえず見に行ってみようって話だったのですが・・・ 店にありゃしないわ 人気のソフトは、ことごとくないんですねぇ ロールプレイングは、のめり込むだろう事が逆に面倒です。本当は結構好きだったんです、かつて。ファイナルファンタジーなんか、全く空ケースさえなかったよ リズム天国なんていいんじゃないと思ったのですが、店にありゃしない ま、いっかぁと思って、私は浮き輪を買いました。 どーしてどーしてどーして、DSのソフトがないからって、う、浮き輪 私の中では、何もしない時間をゆったり過ごすアイテムとして、つながっていて プライベート露天なので、浮くのどーでしょー 枕代わりに、浮いて海の空を仰いで、天を仰いで、生きているってすばらしい、生かされているってすばらしいって感じる姿を想像しているのですが どーでしょー 水に入れなかった夏を・・・っていう気持ちもありますが ちなみに、この脱力して水に浮く感じ・・・・・これが、ヨーガのサバ・アサナ(シャバ・アーサナ)の感覚として、とってもいい例えかと思います。 ただし、脱力の仕方です。意識は浮いた状態では、リラックスは深くなりません。しっかりと、背中を感じ、床を感じつつという、クリアな意識状態も必要です。 ただ、寝ているだけでは、毎日、夜寝ているじゃないって感じで、特別なことはないと思えますが、 サバ・アーサナっていうのは、無意識に横たわるとか、何の気なく横たわることではできないのです。 誰にでも横になれるからこそ、誰にでもできているように一見見えますが、全く質が違い、自分がうまくできるようになればなるほど、人がどのような意識状態リラックス状態かどうかも、見てわかるものなのです。 真のリラックスのアーサナである、サバ・アーサナをみなさん、試してみてください 露天で浮いてるのを想像しても、もちろんいいと思います
August 29, 2006
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夏休みも、あと3日と半分になりました。 夏休みは子供だけのもの でもない。大人も、夏休みを体験しておおきくなったので暑いだの、どこにいっても人がいっぱいだの、やってられねーだの言いながら 何か、楽しい気がしたり、どこかに出かける計画をしたり、里帰りでゆっくりしたりとするのですね。 私は、基本的に盆も正月もないような生活なところがありますので、今年も、夏休みもお盆もまだありません 9月に入ったら、3.4日休みにして、プチ・バカンスをする 計画中ですが、何かと忙しいのか、気ぜわしいのか、あまりすすみません。 『西国三十三所』も組み合わせたいので、やわな履物ではいけないと思い、スニーカーだけは、おととい購入しました。 私は、スニーカー派であったことがないので、スニーカーについては、機能的にもファッション的にもよくわかりません・・・ でも、スニーカーをたくさん扱っているお店の人に質問すると、『歩くなら、とにかくニューバランスですよ』と、好きな人の話でもするように言う人が多いのには驚きました。 数年前に、流行っているし、履き易いしいいんだろうなぁと思って買った、某メーカーのスニーカーは、足が痛くてあまり履かないままでした。 多分、カッコイイけど、機能的ではなかったのかもしれません。 そんな某メーカーのことを、お店の人に話してみると、『某メーカーとニューバランスを比べてやったら、そりゃかわいそうってもんですよ』 と、また好きな人に惚れているような言い方をしたりして 聞いてみるもんだなぁと思いました。 それでってだけではないのですが、ニューバランスにしました。 西国的聖地にも行くけれど、一日は、ものすごいところに滞在する事にしています。 自然以外ありませんっていうところで、自分の部屋に露天があって、数部屋しかない施設で、海から断崖あって、即、露天と部屋一体みたいなところです。 なーんにもないことが贅沢というコンセプトなのでしょう。ほんとうに バ・カ・ン・スにするというところなのだと思います。 私の日常からすると、とっても必要な時間だと思う反面、何もしないってことができるかどうかって事が、今の私には一番心配です 用意するものとして、今頭にグルグルしているのは、どんな洋服持って行くかなんてことではない 何もしないって事に耐えられなくなったら、何するか・・・ 本は持っていく。 音楽。 そして、新しいニンテンドーDSのソフトでも・・・と思って見に行ってみようかと思っています。 でも、何もしないって事が、楽しみでもあります 私の遅めの夏休みは、もうすぐやってくる
August 28, 2006
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私は、母のことを幼少の頃から『おかあちゃん』と呼びます。父は『おとうちゃん』 おかあさんも、ましてやママなんて、うちのおかあちゃんには、違う 母は、よく辛抱をして自分を律してきた人でも、本来の弱さなどを、素直に見せる強さというよりは、見せまいという理性によって強くきた感じなので、 ヨガ的にいうと、解放されていないところや自覚さえできない弱点もたくさんあります。 少し年齢を重ねてきたなぁというくらいから、やっと、過去をふりかえる事、思い出してよく感じることを少ししはじめたようでした。 でも、冷静にできることと、感情を感じたら苦しくなったり、辛抱できなくなったりしそうなことを、わざと感じないようにきたんじゃないかなぁというようなところもあります。 そして、時々、そんな事も思い出しては、悲しかったこと、悔しかったこと、情けなかったことをしばしば話してくれるようになったり。 私が小さい頃から、時々は聞いていたこともあるけれど、そのころとは違って、しっかりと感情を感じて、抑えすぎないで話すようになっているようだった。 それが、だからどうなのかってことの結論まで感情が客観視できないことは、ただ、同じ感情を何度も感じるばかりで、何度もグルグルめぐっているようですが。 これは、母だけでなく、私も、また人間全てのこころの特徴ですが・・・ そんな話を小さい頃に聞いているときには、母がかわいそうな気がしてつらかった・・・ 大人になって聞いてみると、私が深く悲しみを感じたほど、そこまでの感情移入のないものだったのかなぁと思うことも逆にあります。 小さい頃に聞いたことのある、母が、母の妹に貸したまま返ってこなかったレコードの話がありました。そのころは、そのレコードがなくなったことが、とてもとても悲しいのかなぁ、かわいそうなおかあちゃん・・・って思ったような気がします。 大人になってある時、またその話を聞いた。 その時には、なくなったレコードの題名も聞いた。映画音楽だった。『○○、また、どこかでもし見かけることがあったら、買っておいて』 と頼まれた。 多分10年以上前 ネットが便利になってきて、時々検索していました。 なーんにもヒットしてくることはなかったんです。 先日、また思い出して検索しました。最近、本屋さんに、昔の西部劇や映画などのDVDが安く売ってあったりするのを見て、もしかしたら、探したら今ならあるのかも?って。 そしたらね、いくつもヒットしてきました。 さっそく、CDを注文した CDが家に届いてから、おかあちゃんに電話をした。 『おかあちゃん、前に見ててほしいって言っていたレコードの音楽、みつけた』 『ウソー買っといて』 『もう買った。私も聞いてみたいなぁ、せっかくだからそのままあげたいけど、 開けて、聞いてみてもいいかなぁ?』って言うと 『いいに決まってる あったの・・・・・嬉しい あったことも嬉しいけど、 ○○が覚えてくれていたことが嬉しい。○○、おぼえてくれていたの・・・』 と、すごい喜んでくれました。 嬉しかった 楽しみにしてくれていたらしく、おとうちゃんからメールが来たわぁ、先日 『おかあちゃんが、まだ送られてこないと言っています。楽しみにしています』って 今日、着いたらしく、報告のメールがおとうちゃんから来ていた。 よかったぁ。嬉しかったぁ。 おかあちゃんの喜んでくれるプチ親孝行ができて、私はプチ・ハッピー ほんとうは、めちゃくちゃハッピー
August 26, 2006
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ただいまぁー 病院から帰ってきました。 私じゃないのよ、私じゃないのよ さっきね、仕事先で倒れた人がいる と、血相を変えて言われて、飛んでいったんです。 『どこが苦しいですか?』 『どこか、もやもやしますか?』 いくら問いかけても、 『大丈夫です』っておっしゃるのです。 いろんな角度から問いかけても、『大丈夫です』って。 カウンセリングの時でも、生徒さんと話をするときでもなんですが、私たちは、言葉だけで聞きません。 観て、聴いて、感じます。 耳と心と目で聴きます。 こころが閉じて、失感情になっていて、大丈夫だとしか言えないのかなぁ? もうろうとして言えないのかなぁ? 強く気を使う使う人なのかなぁ? 手の動きはどうだろう?拒否していらっしゃらないかなぁ?
August 25, 2006
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毎日、まだ湿気の多い暑さが続いています。 こんな時は特に、何も食べたくない冷たいものだけなら・・・ って感じで、胃が活発に動いてくれないような感覚を持つことがありますよねぇ。そんなとき、甘いものっていうのも、ひかれるのですが・・・ 頭や感覚器官にひっぱられてしまうと、食事は三度とらなければ(反対に、ダイエットしてるから摂ってはてけない) 食べなければ(食べてはいけない) なんて思いにひっぱられるけれど、 身体の疲れと一緒に、精神が疲れた・・・っていう感覚ありますよね? 私が教わった、ある正食(※マクロビオティック)の先生は言い切っていました。 『精神は無限のエネルギーをもっている。そうすると、精神が疲れるなんていうことは本来はありえないんです。精神が疲れたと感じる、だるさ、エネルギーの足りなさは内臓を使いすぎた身体の疲れなんです』 と。 なるほど、一理あると思いました。精神は無限の力をもっているというのは真実だ。 でも、私たちが、その本当の真実の精神とつながっていずに、感覚器官や、頭にひっぱられているとしたら、私たちは 精神を違うものと勘違いしたまま暮らしています。 そう勘違いしている場合には、確かに精神が疲れると、実感してしまうよね その先生はね、夏はとってもエネルギーを消耗するからこそ、内臓を極力休めるのだと言って、夏こそ、食べることによる消化するというエネルギーを無駄に費やさないために2日に一度しか食事をとらないとおっしゃっていました。 疲れてきたと思えば、3日に一度にすると。 本来、クリーンなエネルギーを身体に蓄えるなら、食物からとるエネルギーはそんなには要らないと。 これは、ヨーガ的にもそうです。 でも いけませんよ、いけません そんなことを、むやみにやってはいけません。それらのことが実感としてわかるくらいに、馴染んだらやっていいわけで、そういう考えや、システムがまず、頭でもわからない、普段とあんまりにもかけ離れているならまずは、お試しのプチ体験から初めて、普段の中で馴染んで、馴染んでしてからです。 私がずっと機会あるたびにやるのは、超プチ断食です。 やりやすい時に、はじめは気が向いたときに、そのうちに一週間に一度この日と決めたりして、朝と昼の食事だけぬきます。 前日の夜から次の日の夜までの24時間断食が、これなら簡単にできるんです。 こころも、ちょっと誤魔化されてくれるのは、毎日の食事を抜いていないこと。 昨日も食べたし、今日も食べるからです。 でも、夜ご飯を食べた後からはじめるので、寝ている時間も入るからやりやすいんです。 私なんかは、朝ごはんを食べないので、一回昼を抜くだけでいいってなると更にイージー感が増します。 どうしても苦しければ飲み物、流動物にします。消化に負担が少ないからです。 不思議な事に、自分にとってやりやすい曜日、やりにくい曜日があるのに気づきますよ それは、ヨーガやインド的にいうと、自分がコントロールしやすい惑星の影響の日と、コントロールできにくい惑星の影響の日があるからともいえます。 私は、よく観察しているとその通りです・・・ 今日はやりやすい曜日なので、超プチ断食やってます みなさんもいかがですか
August 24, 2006
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わたくし、食事のついてもご紹介するとずっといいつつ、全く触れてこなかった・・・ 今日こそやっと、テーマを設定して、これから機会あるたびにアップしたいです。どうぞ、よろしくお願いいたします。育ててやってくださいませ。 さーて、本日は、まずは菜食生活のはじまりのエピソード1です。 例えば私は、カレーを市販のルーでは作りません。 偉い!こっているから? ほんとは、違います(また内緒よ)動物性のものが入っているから、それは使えないからです そもそも、なぜ私がロハスなんていっているかと言えば、別に流行ってるからではなくて、もともとやってたことが、ロハスなんていわれて市民権を得てきたからなだけで・・・ 私が菜食をはじめたころ、これは食べません、あれは食べませんと当時、両親と住んでいたので、「気ちがいか」(不適切な表現をお許しください)と猛反発、理解できないと、大変苦しい毎日を過ごして実行をつづけていました。 その後、一番身近な人に、それはいいね、その生き方は見習いたいよと言ってもらえるような人になってこそ、ヨーガだ、ヨーガの指導者だと思い、自分の目標としていた目線の先の方のことを一旦手放して、地道な生き方をしようとちょっぴり死ぬ思いをして、自分を柱にしたことは、今となっては、それこそ良かったと思います。 みのもんたも、当時は今みたいには言ってなかったんじゃないかなぁ(爆笑)自分のやっている食事、生活法、気をつけることがどんどんテレビで言われていくたびに、父と母は『こんなの、○○がずっとやってることだ・・・・・・』『うちでやってるこれ?』『あぁ、こう言ってたね?○○がいつも』 あの子のやってる事やってりゃいいって事 あの子、正しかったのか・・・ と思ってくれたらしく、あとになって 『○○のやってるとおり、続けていってあの頃は、誰も周りでそんなこと言ってないし、あんたがおかしな事、いろいろ始めたと思って、おかしいのか気でも違ったのかと思った・・・悪かったけど・・・だって、知らなかったし・・・・本当に、テレビでも言ってなかったし』 私は予想していました。 世の中が、自分で調べて正しいことを知るというよりは、テレビで言っていたかが信憑性を左右することを。 そのうち、テレビでも言い始めるんだろうなって思っていたけれど、テレビによって、自分が市民権を得たり、誤解が解かれたり、おかしい子ではなかったんだと認識されるのは、複雑だったけど、この際、それも良かったとホッとしたものでした。 ヨーガでは、5つの鞘(さや)で私たちはできていると捉えます。 説明の必要な鞘は、別の機会にするにして、こころの鞘は身体の鞘よりも精妙です。 身体よりも奥にあるっていうかなぁ、こころの方が身体に影響するっていうかなぁ。 でも、身体もこころに影響しますよ、もちろん。 体が楽になると、こころが軽くなるでしょー こころの鞘と身体の鞘をいいものにするには、それを創っている食物の質をなりたい質のものにすればいいという捉え方をします。 動物性のものを食べないのは、殺生をしないためと言われたり、また宗教上の理由でとか、ウシが神様の使いだからとか言いますが、あんまりそんな理由でもなく、 自分で意識的に自分を変えていくことのできるのは、人間だけなものですから、動物を差別したり、下等だと蔑むという意味ではなく、人の質を保ち、さらに、質をあげていくというヨーガにおいては、 純粋な(シンプルな)意識のものを摂って、己の質としていくような意味があります。 それで動物性のものを食べません。 ヨーガは、大きな意味でいえば、自己責任という意味において、自由です。好き勝手という意味ではありません。自分の生き方、食べ方、食べ物も自分で選んでいけばいいので、そんなこと知らないヨガ教師も、知っていてもやらないよっていうヨガ教師もいらっしゃいます。(大きな意味ではです。勉強不足でとか、言い訳でってのであれば、ちょいと話は別かもしれませんが) 10年ほどは、非常に厳格にやりましたから、わたしは、ゼリーやプリンも食べませんでした。 ゼラチンは、動物性なの。しかも骨の骨髄が原料だったりするから。 だから、自分で寒天と杏仁と豆乳で、杏仁豆腐なんか作ったりしますよ 忙しくなってくると、外食もやむを得なくなるし、そうも言ってられないことが増え、解禁する範囲と条件を考えたりしまして、 今は、厳格に修養した時と比べると、ゆるめです。 よく、そんなの不自由でない?何も食べられないでしょ? なんていわれたりしましたが、ぜーんぜんですよ当時から外食もしていたし、メニューは、シリアスになる事は何もないです そのメニューの肉や動物性のものをはずせばいいだけ 何なら、違うものに置き換えればいいだけ そんなに苦労はないんです やれるじゃない あ、それなら簡単 それ、やってみよっかなぁ なこと、またアップしていきたいと思います。 ちなみに今日は、菜食カレーです
August 23, 2006
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ちょっと、ヨーガ・スートラの話が続いたので、少し休憩して、 わたしのストレス回避、解消工夫、活用にします ちょっと前に話したように、わたしもDS仲間入りをしました。 この前にヨーガ・クラスで話したら、生徒さんの二人が食いついてきてくださいました。 脳を鍛えている人は 「私は脳を鍛えてるんだけど、見えないもんは、見えない!」 英語漬かっている人は 「私には聞えない発音があると思う・・・人それぞれ聞えない発音が違うよ!?」 なんて。 共通の話題というか、どんなものなのか、どんな気持ちなのか、少しでもいろいろ体験して知っておきたい、来てくださる人を理解できるようになりたい っていう気持ちがいつもあるから、気の向くものは、やってみる、味わってみるっていう事が多くて、それも一つ、私の趣味みたいなもので、楽しいです。 最近私の気が向くことにヒットしたのが、このDS。もうそろそろ、私がやってみてもいいぞ って感じでした。 ヨーガの生徒さんには、「前頭葉は、DSもいいけど、ただ(無料)ですごい有効な呼吸法があるわよ・・・?ほら!『頭蓋を輝かす』という『カパーラ・バーティ』よ」 という気持ちもありながら、口には出さずに。 DSで輝かしてみるのも、やってみるのもいいじゃないという気持ちも本当だし。 そのソフトの中で、「こんな風な事も前頭葉を活性化させるよ」っていうアドヴァイスが入っているんですけど、それってヨガで日常的にやる事が、すごい多いんですよ ヨーガ・セラピーのデータでヨーガをやった後は、記憶力や情報処理能力、行動力、判断力などもアップするというのが出ています。(やり方はありますので、どこの何のヨーガに行ってもというわけにはいかないかもしれませんが・・・。私たちは、そのような方法がとれます。) こころの在りようが、脳や神経をつたわっていく・・・・・ 筋肉や内臓につたわっていく・・・・・・ という事をイメージして、意識してみると それらが、身体的に統制をとっていて、働きやすく整理されていて、働きやすく整備されていたとしたら・・・・・・ そのことで、こころと身体は、ウンと助かるだろうっていう事がニッコリにイメージできます そうすると、前頭葉を輝かせてDSでも、カパーラバーティでもやって、クリアにすることはすごく有効。 ただ、カパーラバーティという呼吸法の方が、めちゃくちゃお得なのは、脳だけでなく、身体全体ごとバランスをとることと、脳だけをとっても、酸素が有効に入る使われるので、機能のアップだけでなく いい状態になれてしまう ってところです 内緒ですがわたしは、せんせなのにカパーラバーティをやっている暇がなかったり、それを超えて、脳と身体がキューってなってたりすると 他の方法を工夫して有効に取り入れながら自分を維持するんですが、DSは、有効で楽しいストレスと身体とこころの機能にと使っています。 ヨガのせんせ的に言うと・・・・・ベターではないかもいやぁ・・・ごめん。 なんせ、秘密の方法だから でもね、最近、結構疲れてたんです。こころも身体も。ちょっと、前頭葉、意識しはじめてから楽です、たしかに
August 22, 2006
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二日ほど、お休みしておりました。土曜日は、またインド系、ヨガのお勉強に行っておりました。この会も、すでにヨーガ指導者ばかりの会なのですが、医学的、哲学的、セラピー的ヨガの方のかかわりです。 糖尿病について、主にやってたんですね。 糖尿病は、心身症の代表ともいえる、こころが素になっている病気って言ったらみなさん、びっくりされるでしょうか? ストレスによって、感覚が感性がちょっとずつアンバランスになってきて・・・こころの判断基準がアンバランスになってきて・・・・・・身体の中でも統制のされかたがアンバランスになってきて・・・・ 結果起こった症状なんだよ こころの判断基準がアンバランスになっているところを正しくするのは、ヨガの得意分野です。 こころが判断基準をまちがっていくんだけれど、あれがいい、これがいい が、ちょっとずつ感覚器官の好きなように言うことにふりまわされてき始めるのね・・・ 振り回される、こころが揺れるのは、「苦悩」を感じるから その苦悩の原因のことをクレーシャといいます って8月16日の『パタンジャリのヨーガ・スートラ(ヨガ研修会パート2-インド版)』に書いていたんですけど、 この「クレーシャ」って私たちに馴染みの言葉で言えば 「煩悩」ということです。 『そんなもん!煩悩が苦悩のもとって言って、煩悩を撲滅することなんかできるわけないよんなこと、簡単にできるわけないよ』 と思うのですが、 何も、除夜の鐘の108つの全てをいっぺんになくせとパタンジャリは言ってもいないし、 お釈迦様も言ってない。 金比羅山の階段を、いきなり頂上に行け なんていわれているのと同じ。そんな事いわれるはずもないし、できるわけもない。 階段は、最後の一段を上りきるまで、一段ずつしか登らなくていいです 一段を観て、一段を登る力は、どんな人にもあるわけで、それを、ただ、つづけることだって パタンジャリも言ってるんですって(よかったよね~) 登っていると、生き易くなるし、判断のスケールの道具も使いやすくなってくるしいいこともいっぱいおき始めるし、 幸せって、正比例的に増えるのではなくて、膨大に増殖するように増えるので、一段目のしあわせは、二段目から三段目になると、膨大に増殖するし、十段、二十段になると一歩の一段は登りやすいは、しあわせ度は増殖度がうなぎのぼりだし やらない手はないんだよねほんとうは。 何からはじめるかって言えば、ヨガの8段階の1からやってみるのは有効だけど、 何にしてもまずは、自分が何をしているのか、どんな動機でやっているのかをいつも観察して、自分を観ているもう一人の自分という 冷静な客観的な自分という意識を育てることです。 これは、冷たい、無感情な自分っていうマイナスなイメージではありません。どちらかといえば逆の、 観音様のように、何事にも動じない慈悲深いような冷静さのことです。 わたしがなんで、それを思ったのか わたしは、なんでそれをやりかたっかのた わたしは、なんでそれをやったのか、 なんて、静かにこころに問いかけてみるっていう練習をしはじめると 自分の中の観音様は、では次にこれを では次にこれは?とどんどんガイドをしてくれるようになるのでした。 この観音様のようなガイドを判断にするのです。 それをヨガ的にいうと、プッディ=知性となるでしょうか。 あら! あっちでもブッディが こっちでもブッディが、プチっと出てきているじゃありませんか
August 21, 2006
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ヨーガ・スートラの感情のエネルギーは激しいので、コントロールしよう。エネルギーは大事にしましょう のつづき この制御(コントロール)を「制感」プラティヤハーラといいますが、これは、最初から試みてみるのは有効ですが、うまくできません・・・・・よねぇ この制感(プラティヤハーラ)が、そう簡単にできなくても、そりゃそーさってところです。 ヨーガでは、その前に4段階の方法、「べからず」と「べき」の具体的なやり方があって、その後にくるからです。 最初からやってみよう!っていうのは、大切だけど、うまくできるにはこの4段階をうまくできるようになった、5段階目にうまくできるようになれるからネ ってものなのだ、5番目ってことを、とりあえず言っておいてみようかなぁ 5番目にぶっとんだ事ではありますが、その制感っていうのは、 感覚器官をちょいと、もう少しひっこめてみようって事です。 =欲望を少しひっこめてみて、 知性によって(より正しいことをわかる)、ヨーガによってやってみようよ、そんな風に生きようよ ということの実行や練習のことです。 感覚器官をひっこめる それは、目や耳や口や鼻や皮膚やなにかは、何のために働いているかなぁ??? って、ちょっと考えてみると、 目はあれが見たい、これが見たい、あの人こうらしいわよ、あのバッグいいわね、あれが食べたいわ、もっともっと見たいと限度を超えるように「欲のままに見る」 耳はあれが聞きたい、これが聞きたい、誰かのウワサ?もうけ話? 興奮させる音楽ともっともつと聞きたいわと「欲にまかせて聞く」 口はあれが食べたい、これがたべたいこんなものじゃ飽きた、もっと美味しいものが食べたい、もっともっと食べたいと限度を超えて「欲のままに食べる」 また、ああなのよ、こうなのよ、たの人がね、この人がね、もっともっと言いたい、しゃべり続けて無駄なエネルギーを使って使って「欲のままに舌を使う」 鼻や皮膚もそう。 欲のままのために嗅ぐという力を使い、 欲のままに、気持ちよいと思う(適度に心地よいを越す)ものを追い求める。 というような使い方をするのを、知性、ヨガによって、ちょっとストップして、立ち止まって、観て見ることからはじめようって事なのです。 あら私ったら、なんて様なんでしょう と気がつきはじめれば、しめしめです。 こころは、はずかしーと思い始めて、ひかえます・・・ちょっと、考えてみます・・・ちょっとやめてみます・・・ なんて、言い始めるようになるので、その調子で観察を続けるのが一つです。 おっと、それまでには4段階あるので、それからやるともっとやりやすいので、おいおい、載せていきたいと思います。 ちなみに、わたくしはこんなことの訓練の一つとしてというのもありますが、 お酒、たばこ、肉、魚、卵、コーヒー、ジュース等々はとりませんでした。 10年ほどやって、一般生活にはエネルギーとして借りたいものがあったので外食のときには、魚介類なら解禁してよしにしたので、時々は食べますが家では食べません。 ジュース等は、時々飲みます。 コーヒーは、ヨーギ、ヨーギニ(ヨーガの行者)は飲まないものの一つですが、これはカフェインが入っているからと一般的に言われますが、そうでもないです。なぜなら、チャイなど紅茶ですが、紅茶の方がカフェインが強いからです。 中毒性なのです。欲が欲を呼ぶ、中毒性を近づけたくないのです。 が私は、あるときからは時々に飲んでいます。ハードな日常なので、こころにガツンとご褒美して、手なずける役目にしています。 そして、ここで告白します。仕事の関係で、お酒を解禁せざるを得ないときがあり、もともと飲める口(どの口~)だったので、付き合いのときだけ、時々少しだけ飲みます。ここ数ヶ月前から。 家には卵も牛乳も肉も魚もありましぇん。ただし、日本人の体質と文化では、魚についてはある程度OKなのだとか。 しかし、肉も、卵も魚も牛乳も、それを生業とする人々もおられるし、そのような食生活を選ばない人もいますし、それでこそOK なのです。 ヨガ的に食べ物というのは、少し深い意味があるからなのですが、それも、そのような食生活で生きられる環境と、われわれのような世俗に身はおくものとでは少しは、考えないと、適切なエネルギーのバランスが崩れるので、極端なことはさけるこれ鉄則です
August 18, 2006
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インドのヨーガセラピー研究の草分け、ヨーガ大学の教授の講義を受ける稀なチャンスに恵まれたので、 せっかくなので、みなさまとシェアさせていただけたらと思います。ところどころで、アップさせてください。 「感情というのは、ものすごいエネルギーをもっている」という事を言われたときに、最近の自分をふりかえって、とても納得がいっていますので表面的には、おとなしく頭をふって、お上品に「ウンウン」うなづいて聞いていたと思いますが、内心では、ヘビメタのヘッドシェイクのようにガンガンうなづいていました 感情のコントロールというのは、実はヨーガではいろいろな手順を踏んだりいろんな方法をやってみて、できるようになることなのでした。 具体的にヨーガ・スートラには、順番も手順も示してあります。 昨日も書きましたが、ヨーガの目的はこころの死滅、思考の停止=サマーディなので感情がコントロールできないっていうのは、目的に近づけないからコントロールしていくことの一つ という事になります。 またまた、特別なことで、自分には程遠くてって思えそうな表現になりそうですが、サマーディは、なんか超能力やそんな人が至るっていうより、ものすごい平和で、ものすごいしあわせ感て思えば、 それいいな なってみたいよ 苦しいより、どう考えてもそっちの方がいいよ と素直に思えそうなので、そんな感じが近いと思います。 「感情をコントロール」することと、「感情を抑制」することを勘違いする場合が多いですし、殆どのヨーガ実践者が、抑制とコントロールの体験を分ける事ができているかは正直なところ、どうか・・・というくらい、勘違いするところです。 抑制は、感情の死滅=平安 には決してつながりません。最初から戦えないんです。克てない方法なんです! この辺、微妙で誤解されるといけないので、とにかく機会あるたびに書きます それくらい「コントロール」というのは、とっても難しいし、いろんな手順を追っていくことになるっていう事ですが、じゃぁ、ながーい階段で登っていられやしない かというと、そうでは全然なくて、道の途中で、できはじめていくので、道中が、最初と比べると、だんだん足は軽やか鼻歌まじり、スキップでいくように、だんだんと楽になってきます。 ここでまた誤解をさけるために申しますと、荷が軽くなるという意味ではなく、自分の力がついて、重い荷物なんかへっちゃらで、重いと感じないって捉え方が近いです。 どんぶりばちが、湯飲みのように見える力士を想像するのもいいかも 感覚器官の制御や感情の制御は、ヨーガではちょっと進んだ段階になるけれど(プラティヤハーラといいます)自分の日常と照らし合わせて、話したいので、あえて。 それで、 感情は、すごいエネルギーを持っていて、非常に力強いので、 自分の内に、例えば激しい感情を持っている時には、もっている事の多い人は、自分のうちから逆流して、目や、肌や、身体や様々なものを通して、相手にむかっていく という話もされたときに、いや・・・わかってるんだけど・・・ごめんなさい と思いながら聞きながら 感情のエネルギーは、激しいので、逆流して外に出ていく。(ヨガでは善悪を超えるというか、善や悪という二元的なものの捉え方を超えていってこそ、こころが落ち着くのですが、まずは、善悪のスケールを持つことからはじめなければならないので、あえて悪い感情と表現していきます。) だから、自分の内のエネルギーは枯渇していってしまうのですね。使い果たしてしまう。(怒ったりすると、身体苦しいし、ヘトヘトになったりしますよね・・・) ですから、エネルギーは蓄えておかないといけないので、 なるべく外側のこと=目に見えること、外からの情報などによって起こる感情をなるべく減らして、エネルキ゛ーを減らないようにしていきたいので、目を閉じるんだと方法の一つとして解説されていました。 ここでも、誤解を招いてはいけないので申し上げますと、これは、出来事から逃げるとか、目と閉じてみないようにするとか、感じないようにするとか、鈍くなるとか、そういうレベルでのことではありません。 要するに、目をとじて、自分の記憶や思考(記憶袋からくる、こころの癖)という外側の出来事ではなくて、自分の内側に起こることに目をむけると少なくとも、エネルギーは半分ですみます。 そして、内側で何がおこるのかを見る作業をしたり、こころを落ち着ける訓練をしたりするのは大変有効だ(こころを落ち着ける時間をもつ、こころを調べる時間をもつ=瞑想) ということです。 こんな風な流れでいうと、「お!瞑想って、特別なもんじゃないんだな」「なんか、とりあえずやってみれそうだぞ」「一日に何回か、数秒ずつからでも、思い出してみるか」 なんて、思えそうじゃないかなぁと思いました。 あれから、私もエネルギー蓄えないと・・・・・・すごい無駄遣いしてたなぁ・・・・本当のところは、いくらでも湧いてくるものだという使い方してたなぁ というのが、腑に落ちたものですから
August 17, 2006
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ヨガの指導者研修会に行ったというのが昨日の日記でしたが、次の日の日曜日も、別のヨーガ研究会に行っていました。 ここで、本音を言うと、私個人の行としては、日曜の勉強の方が気持ちいいです。だからこそ、弱点になりがちな身体のケアは逆に有効なのですが。 インドの本国においても、ヨーガは大変医学的な意味でも注目をあびつづけています。西洋医学が発達してきて、融合が求められてきた現代。 西洋医学は、気の滞りすらも病気とみなして予防、維持していこうという東洋医学とは違い、結果として現れた症状のみを「病気」と捉えてきました。結果を変えようという事が、無理なことは、みんなわかっていることです・・・ 症状を出なくすることではなく、症状を出し切って、治る力を上げることと、結果を出すことになった原因のところを治そうというのが東洋医学。 インドにおいても、西洋医学では手に負えないと認めてこられたことがたくさんあり、ヨーガの力、アーユルヴェーダの力と西洋医学や科学の分野にも、客観的なデータを示しつつ融合させていく試みがおこっています。 有名な近代ヨーガセラピーの施設、ヨーガ大学ができて、そこから客観性をもつことによって世界に広がっていったといえるのですが、 そのきっかけとも言えるそのヨーガ大学、セラピー施設の初代総長と共に貢献を続けてきた教授が日本にお見えになっていました。 そして、そこでヨーガセラピーを習得し、現在は中央インドの大学の教授をされている方も。 一日を通して、ヨーガの聖典と言える「ヨーガ・スートラ」の解説をされました。 ヨーガの経典である、ヨーガ・スートラには、実はヨーガとは身体を鍛えるものであるとは一言も明示されてはおりません。 一番最初に 「ヨーガとはサマディーである」と明確に示してあります。 ヨーガとは思考の停止である、ヨーガとはこころの死滅であるとも表現されます。 これを単純に言葉だけで受け止めて、極端に走る人々が多いことは特筆しておきます。それは、ちがいます。 具体的に、日常的なことであって、特別なことでしか、特別な人にしか、特別な環境でしかできないことではないのです。 最近、ひっかかっていた私の「怒り」のような感情 こころの揺れ=思考 を 落ち着かせていくという事で、それに対する方法や解説がちゃーんと示してあるものなんですよ。 そうだぁ ニンテンドーDSのお料理ソフトと同じくらい、ちゃんと示してあるって事かなー 説明するのに、ちょーっと難しい話もしてしまったけれど、 こころが揺れるのは、「苦悩」を感じるから その苦悩の原因のことをクレーシャといい 『真理の意識の欠如(無知)、自己の感覚(私という存在)、対象物への愛着と嫌悪、生への強い願望が人生における全ての災いの原因(クレーシャ)である』 とヨーガ・スートラ第二章 3項には記してあるのでした。 難しい表現かもしれませんが、こういうのを、私の日常のしっちゃかめっちゃか嬉し楽し、もがき、などを例にして、今後もアップしていきたいと思うので、みなさん、どうぞよろしくお願いいたします。くれぐれもよろしくお願いします。
August 16, 2006
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13日は、先生たちの研修がありました。今年クローズアップしてみようっていうアーサナや、それをやるにあたって、生徒さんに少しでもやりやすいように、身体の弱点(内臓的な弱点、神経的な弱点、滞り)を個人個人に対応してアドヴァイスしていけるようにっていう研修。 例えば、パシモッタナ・アーサナ(前屈のポーズ)をやってみて、ここがきつい、やりにくい人は、臓器的にここ、経絡的には何の経絡の滞りがあると考えられる・・・・・・そんな人は、ここをこんな風にほぐすとバランスがとれる。身体と偏り、歪みが修正される 等々、主にアーサナの研修でした。 で、ここからは告白なんだけど・・・実は、ものすごい行きたくなかったんですよ・・・・勉強はしたいんですけど、毎年、この時期に行われるワークなのですが、暑くて、道中にひどく疲れるイメージと、もう一つ、ちょっと前に偉い先生に注意していただいたことがあったのですが、それは嬉しかったのに、自己嫌悪に陥っていたことがあったので、ちょーっと勇気を振り絞る必要があったからです。 前日の土曜日に、それで、エネルギー商品扱っている薬局に行って、サプリしようとしたんです その薬局で扱っているもので気に入っているのは、「野口総合研究所」というところから出ている、石関係。 普通、パワー・ストーンなんていわれるものは、その人その人への影響がいい方向なのか、そうでないのか、または、あるとき良かったとしても、もう今度は逆にいらないとか、 また、よいものも悪いものも吸収してしまって、それをまたこちらが再吸収するような事になったりするので、エネルギーが安定しないのです。 誰かが念を入れたものとか聞いたりしますが、大きなお世話です。そんな必要はありません。 自分を鍛えて自分のアンテナを真面目に磨けば、自分に良いものと悪いものはわかってくるので、私は、人様に、ご自分で試す、失敗しながら自分を信じていくのがいいと思うよって、いつもお話するんですが。 で、その野口総合研究所の石の商品は、エネルギーが安定するように細工してあるとか。それならそれで、すごくありがたい。 それは知らないけど、確かにそれらは、ちょうどよく力強いんです。 合う合わないはあります。全部が同じではないんです。 前に買ったものは、今の私は受け付けられないのです。店員の方は、確か前にもってたよね?とおっしゃってくださったのですが、その頃の自分のアンバランスさで、これが足りないとサプリしたかったものは、今は、必要ないんです。それでかどうか、どうも受け付けないんです。 それで、もし、ちょうど今にいいのがあればと思いました。頭では、比較的安価な目の前のものでいいんじゃないかと思っていたのに、本当は? と自分に静かに焦点合わせると、ノー・・・ 他にもありますか?ってことで見せてもらうと、一つだけもった瞬間にも頭頂(百会というツボです)からブシューン!とぬけて、あとは、首から上がグワングワンしたのです。 あぁ・・・滞っていたのかぁ・・・ここまで・・・と思いました。先生も、もしかして怒りとかもあったのかも?といわれて「その通りなんです!」ってね。 「いつも?それとも、ある場でだけ?」 「ある場です。自分で何とかできるところでは、そこまで怒りに振り回されるようなことはありませんから・・・」 「場のエネルギーって、ものすごく大事よね・・・場をキレイにしてみたら?でも、身につけていたいなら、ブレスタイプにしたら?」 って。 私は、身につけて次の日に向かいたかったので、ブレスレットタイプとある場もちゃんとしようと思って、場を整える目的のものとを買いました。 結果・・・・・大変、スムーズに心を閉じさせることもなく、気のめぐるもよく いつも、滞ると不調ですが、汗も出る出る、気が流れるで、助かりました。 当分、サプリさせていただきます。
August 15, 2006
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ニンテンドーDSを買ったとりあえずは、脳を鍛えて、英語漬けします 本日は、ヨガの勉強会に行く。先生たちの集まりで、お世話の係りを申し付かったいますので、みんさまに、心地よく勉強していただけるように、行ってまいります。
August 13, 2006
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先日、最近モヤモヤしつづけていた仕事上の問題の原因がわかってきた って話をしましたが、 それ以来、その周辺の事に少し緩みが出てきているのを感じます。わかったから緩んだ んですけど、その少し前から緩み始めていたんです。 緩んできたから、わかった・・・・・わかったから、更に緩んだ って事ですねぇ。 その人その人に受け容れてもらえるように、笑って声をかけて励まして、仕事も進めていくっていうのが多かった私なのに、最近、ここ7.8ヶ月、環境変わってからの私には仕事の場では出来なくなっていました。 今の環境の人たちの状態を、そのまま受け容れるのには以前と同じ状態では、まだできなかったのだなぁと思います。未熟。 今日のバッチフラワーレメディはミムラス・・・何に対してなのか、対象が自分でわかることへの心配や不安、恐れなんかにいいです。 エレベーターが苦手とか、人前で話すと思うと緊張するとか、病気でも、痛みでも。もうちょっと深くなると、このタイプの恐れは、出世時についた心理的なアンバランスの癖といえる、「バース・トラウマ」に関わっていく事も、少なくないといわれます。 私は、手術を体験した数年前にMRIに入った時以来、これがパニック障害ってやつなのかしら?と思うような、自分がどうしようもない感じになることがあります。実際に閉鎖空間にいるとかいないとかというよりは、閉じ込められたような感覚が起きるのは、広い空間ででも起きますが、 こんな私にも有効です。 肉体という形に閉じ込められている感覚への恐れや、地球という物質的な世界に存在することへの恐れの感覚などにも。 それプラス、私は明日参加する勉強会の場と人と雰囲気に、内面では拒否反応が出ているから もう一つはオークです。 何かが起こったときには、壁に頭を打ち続け、もがくことによって、そこから出られると信じているようなタイプのこころの時に、またそういう癖をもっている人に有効です。 オークのタイプの人は、休日をとることが嫌いで、周囲の人々にいい顔をしたがる。外側の物事を動かしたり、他人を助けることを好むという傾向もあります。 オーバーワークなどで健康を害し、力不足を感じたりして、落胆したときなどにもいいし、精神や肉体が休養を必要としていることに気づかせてくれるレメディでもあり、そのような緊張を解きほぐし、エネルギーを流してくれたりします。 私は、休みたくてたまらないのに、休日になると、何かをしなければならないといつも思うのです。それが用事であっても、遊びであっても。休日なのだから、普段できない用事を、家の中の片付けなどをしなければならない休日なのだから、どこかに出かけて遊びをしなければならない ような感覚に実はなっていることがおおいので、オークは有効なものの一つです。 休憩下手です。 ちょっと近くの薬局に行ってこようかな。ここの薬局、普通の薬に加え、漢方や、エネルギーを整える様々なものも置いてるんです。 セラピストは、自分の癒しにも力を注がないと、ぶったおれてしまったり、自分がちょっとズレたりする事もあるんです。自分を癒す方法、セラピストは別のセラピストやセラピーを受けたり。 私も、自分セラピーには、信頼できるものを駆使しています。 ちょっと、のぞいてきますいいものとであったら、また書きます みなさん、お盆です。ゆっくりなさってくださいね。
August 12, 2006
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お盆休みに突入したのでしょうか?みなさん、お休みされていますか? 私は仕事しています 今日、お昼にお蕎麦屋さんに行きました。その店は7年くらいから5年くらい前までに、しばしば行っていた店です。その頃につきあっていた友達や知り合いとよく行きました。 いろんな事が重なる時は重なるもので、何が何だかわからないうちに、みんながバラバラになりました。 決して気持ちよい思いで、ではない思い出の中で。 私の記憶の中にはずっとあって、とても美味しい、かなり美味しいお蕎麦屋さんだったので、他の友達、新しい友達なんかにも話していながら、行けなかった。「めちゃくちゃ美味しそうね!ぜひ連れて行ってよ!!」と言われて、そうだなぁと思いながら、 蕎麦は食べたかったけど、行きたくなかったんだろうと思います。 今は、環境も変わって、新しい人たちが周りにいたり、新しい友達もまたできたりして、そうしている間に、 とってもお蕎麦を好きな人がたまたま、周りに何人もいる事に気づいてそのお店の話をしました。 ぜひ連れて行って! 連れてけよ! って話になって、 今度の私は「うん、いいよ一緒に行こう」そう言っていた。 その日が今日きた。 ただ、行かなかった5年間だけで薄れたのではないと思えた道順の記憶・・・ でも、今日は新しく覚えなおせばいいんだ今の自分で そんな感じがして、こころも軽くなった自分、あの頃よりも、もっと自分らしくなった自分、あの頃よりも、少し、いいや・・・あの頃と比べるとずいぶん強くなった自分、あの頃より自然な自分、 思い出に恐れのない自分で蕎麦を食べていた。。。 良かった。 なんとなく、ちょっと感慨深い昼食だった。
August 11, 2006
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最近、モヤモヤしていたこと、二点。約二名様分 昨日、ひょんなことから関係している人と話す機会がありました。「ぶっちゃけ、なぜ、こんなことになっているの?」とこころをガバっと開いて聞いてみたら、 実は、自分も困っていて、こんな事になっているって 今まで誰からも聞いた事のない話を話してくれました。予測していた問題が、本当に起きていたのでした。 しかも、その二名様分のことは、別々におきていたことなのに、実は、関係していたのでした。 「それでわかった・・・やっとわかった・・・そんな事が起こっていたの・・・よく話してくれたね。それじゃあ、解決できるように即、働きかけることにするわ」 そして、即、行動し始めました。 ズルイ、仕事遅いなんて反応していた人は、ズルイ意味だけで居残りつづけていたわけではないという事がわかりました。 確かにズルいところもあるかもしれないけど、私が幾分かは誤解していた事については、その瞬間で反省しました。そのこころのウチを本人は知らないから、誤解していた分はごめんね ともいえないので、その気持ちをこめて、その後会話しましたが、 根源は、職務の怠慢を周りの人を引き込んで、周りの人にもまともに仕事をしないように陰でずっと働きかけていた人がいたっていうのです。 でも、なんでおかしくなっているのか、なんで義務が遂行されないのかの原因がずっとずっとずっとわからなかったので、スッキリしました あんまりわからないから、イライラしたり、腹立ったりしていたのは、みなさんもご存知のとおりですが、なんで、そんなに反応するのかって、自分の原因を探っても探っても思うように原因にたどり着かなくて・・・ でも、逃げるもんか~って思っていたら、 外側の出来事のほうの原因がわかって、それを処理できるように動けるようになったので、これもスッキリ また、反応はすることもあると思うけれど、前と全く同じこころで反応することはないんだぁ・・・ということに 感謝します。 苦しかったけど、逃げないでいてよかった・・・感謝します。
August 10, 2006
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昨日、テレビで広島と長崎の両方で被爆した「二重被爆者」のおじいさんの事をやってました。 昨日のヨガ・クラスでは、1人の壮年のご婦人の生徒さんが『最近、ウツっぽいんんです・・・』『どんな事がきにかかりますか?』『将来のことです』『ご自分の身の周りについてのですか?』『なんかね・・・いろいろ。なんかね・・・世界の事なんかも・・・悪いニュースばかりで。もう、たまらなくなって、テレビのチャンネルを変えたりする。○○くんのニュースとか(母親が自分の娘と近所の男児を殺害した事件)世界でも、いろいろなことが起こっているし、広島だ長崎だとかも・・・お盆も近いし』 一見、支離滅裂に話しておられましたが、こころのヨーガのせんせは、つないで聴けるのですね、それを自分で再発見できて、「お陰さま」で「ありがとう」でした。 終戦の記憶があるわけではないけれど、終戦、お盆と死を彷彿させる季節に、死を伝える重苦しいニュースがとても自分のこころに圧迫感を感じさせるという事なのですねぇ・・・『じゃあ、暑さや暑そうな耳から入ってくる音、声までがこころには圧迫として感じられたりもされるんでしょうね?この時期、もしかしたら?』『そうなの!そうなの!せみの声とか・・・苦しいの・・・』 引き金の一つはお盆、原爆の時期でもあるこの夏・・・ 1人の存在はちっぽけかもしれないけれど、1人の大切な命と感性がこんなに原爆を苦しく、今も感じる・・・ クラスから帰ってからテレビを観ていると、ちょうど二重被爆者のおじいさんが反戦の映画を携えて、原爆は二度といけない!戦争は、解決にならない、愛や思いやりが解決になる ことを訴え続けることを、自分の使命と悟って活動している姿が。 おじいさんは、海外でも訴えようとニューヨークに行った。はじめての海外、おじいさんは90歳・・・・・ 毎日ヘトヘトになっている自分が、情けなくて涙が出ました。90歳の身体をニューヨークに持っていく精神力と強靭な身体・・・ニューヨークを歩く、90歳のおじいさんの姿は、言葉にはうまくできません・・・ 『自分の使命だと思った。死ぬまで続けます』 映画を観た若い世代の人の賛否が流れていた。頭で、知識で批評するより、1人の人間のこの、こころに何をどう受け取れるのかそれを目、耳、肌、こころの全てでこころの奥で聴いてみて、観てみるだけでいいじゃないか それが、すばらしいんじゃないか? 歴史や国の事情を背景を語ることは、時には無意味じゃないか? 批判的に語った人が、自分を省みてそこに落ちているゴミ一つを真剣に拾えていないとしたら、私利私欲なく、使命とこころえて、生きつづけ、活動するじいさんをただ、こころの奥に入れてみるだけでいいから、そうしてみて・・・このじいさんの命の力を・・・ そう思った。 じいさんは、戦争では争いでは何も解決しないんだよって言葉の通じない、黒人の青年の汗を愛おしそうにぬぐいつづけていた。 活動の大小だとか、影響力は人数の多少より、深さだったり・・・・・ すばらしい・・・・・・・・ありがとう・・・・・
August 9, 2006
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日曜日にこころがちょっと、何か塊を感じていたので、さぁ、表現してみよう、何か観てみようってしてました。 目をとじて、こころが感じるように口で言うようにすると自分では思わぬ、気づかなかった事がちゃんと出たりするのを発見してからやってみるんです。 大概、小さな頃の不安や悲しさが元になって、そこにいろんな経験がついて膨れたりしているのを知る事になるヨ この前はこんなこといいはじめて、びっくりした。あら、気づかなかったわ、ごめんなさいねって感じでした。 『もう、応えられない!もうみんなの要求に応え続けられない!もう、これ以上は無理なんだよぉ!』 そういえば、小さいころ両親の要求に応えるのが自分の役目なんだと思っていたんだなぁ なんて「自分の気持ち」がわかった。 バッチフラワーレメディでいうと、〔セントーリー〕という特徴になる気持ち。 私にあてはめると、人のいいようにしなければと、嫌だとかって気持ちもなくやってしまうようなところが出てくるときに。 誰も、要求していないのに、要求に応えなければという動機をもって自分を動かしてしまったり、実は自分をないがしろにしてしまっていたり というような反応が出ている時に、こころと魂の均衡をとっていくのがセントーリーです。 今朝からは、飲み物にセントーリーアスペンクレマチス を入れて飲んでいます。アスペンは、どれがどう気に掛かるとか心配だとかっていうよりは、何かしらないけど、何か気になりつづける、何かの結果が怖いような、具体的ではないけど、いつも不安だったり心配しているようなこころを均衡にしてくれます。 最近、周りの人の不均衡だと感じる事に、心配しすぎているようだし。具体的にというよりは、このままだとこの人、良くないことになるし、仕事上もヤバイ、マズイという事で、気にかかっていくので。クレマチスは、夢見心地みたいな事にも使われたり、現実からちょっと気持ちなんかがズレたりするとき、眠気にも使われたりしますが、 最近の私は、気になることを気にしすぎているようなところがあって、しまいには、いつまでも眠りつづけていたいような気持ちになったり、出かけるのが嫌な感じだったり、朝起きるのが嫌な感じだったりすることがあるので、その気持ちを現実にむけたいと思って。 1人でいたくなったり、1人で食事に行きたくなったりすることが今増えているけど、淋しがりやの私は、1人になることを、希望しているというよりは、要求に応えなくてもいい自分でいる時間や環境を求めているのかもしれない。 要求なんかされてないし、応えることが、あなたの存在の唯一の価値なのではないのよ ってこころに均衡がとれれば、その1人になりたい欲求もそう強くはなくなるはずねぇ。 でも、お昼は、1人にならしてもらおっと
August 8, 2006
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おとといの日記が消えていた。それはそれでいいような気もした。 昨日は休みの日だったけど、日ごろ忙しいんだろうなぁ、私とつくづく思った。 体調が復活しにくいので、悲しくなったり、イライラしたりなさけなくなったりする「こころ」を感じながら、夕方までウニウニ、ウニウニしていて、夕方からでかけました。 ゲド戦記は、土曜日の夜にレイト・ショーで観に行きました。 テルーという少女が『命を大切にしないやつは大嫌いだ!!』と、コマーシャルでも言うように、言うのですが、彼女は、自分の命を身内から粗末にされたからこそ、自分ひとりで自分を守り、生かしてきたから、 命のあることの尊さ 粗末にできるほどに、恵まれている事を思ったのかな。 粗末にできるほどに、恵まれているって、変な言い方かもしれませんが、 幸せって、適度に不幸や大変なことを感じるときにしか感じませんし、それと同様、強く命の尊さを思うのは、命のなくなる状況にあったり、命のなくなる気持ちを理解したり、どうであろうと生きていかねばならない覚悟を持たざるを得ない経験があってこそだと思うから、命を粗末に思えるのは、どこかでとても恵まれているのだとも思うのです。 今日を生きながらえる食物が必要なら、ウツウツ考えている暇があったら地を耕したり、漁をしたりに全力を尽くすよりないし、生きているって、すばらしい!今日の命をながらえて、明日を生きるために生を与えてくれた食物に涙が出るくらい感動すると思うんです。 成功本にあったけど、急ぎの案件を人に頼むときには、忙しい人にたのめ って。 忙しい人は、工夫をせざるをえないので、優先順位のつけかたもうまいし、仕事の中に仕事をいれこんで結局最後には全部やりきる調子で仕事をするし、仕事を早く処理する能力もついているし、仕事を早く確実に処理するだけの、情報と知恵ももっているから という事なのだろうなって納得したのですが、それも同じだなぁと思いました。 私の反応する人もそうじゃない・・・、暇だからかしらないけど、一つのことしか絶対しないし、動作がひどく遅い、なのに残業を自分の勤務時間の二倍するわけだからね・・・ この二倍ってすごいでしょ?4時間が自分の勤務時間なら、12時間かかって、一つの仕事しかしなくて、誰の目からみてもおかしいんだけど、その分残業代請求するんだもん。私がなぜ、反応しているか、ちょっと垣間見ていただけたでしょうか・・・・・ で、ゲドに話はもどるけど、自分のこころの光と闇についても描写しているんです。 こころの闇に負けて、またこころには、(全ての事象には)相反するものが混在してこそ存在できることができるってところを受け入れられなくて、自己否定を極度にして命、肉体を生きることから排除しようとしてしまっていた主人公アレン。 でも、テルーは、その一見複雑なこころのからくりについて最後にアレンに語りアレンは、一つのプチ悟りを得て、「光と闇」「強さと弱さ」などという二元二つの極性の存在を受け入れていって、真の強さをもっていくんです。 テルーは、どうせ死ぬなら、なんで生きなければならないのかっていう、こころの鈍くなったアレンに死ぬ、終わる、終わりのある命だからこそ、一所懸命に生きるんだという事を話します。 これは、すごい話だと思いました。 かのブッダさえも、自分の命が終わるときになんとこの世は美しいことかと、つくづく言ったそうです。 悟りを開いて、この世に執着がないという悟りを得たブッダが・・・彼は執着がなくならなかったのか、死ぬ間際で執着したのか と解釈する人もいるそうですが、 きっと、このテルーの言葉の意味の極意を得ているからこそ、言えた言葉なのではないかなぁと私は思ったものでした。 実は、私もヨーガだ修行だと躍起になっていた時期には、ある反面で、いずれ死ぬなら、なぜ生まれてきたのだろう、いずれ捨てる世なら、この世の喜怒哀楽を味わう事が無意味で愚かなことに思えた時期がありました。 その後、 なら、なぜ生きているのか なら、なぜ息は入ってくるのか(生かされつづけるのか) と深々と思い、むなしくあった後、 いいえ、この世は美しい、この世のリーラ(神の戯れ)を飲み込まれずに味わう稀なことに感謝して、しあわせのために生きているに違いない と思って、生き始めたことを思い出しました。 でも、クセみたいなもので、むなしくなることもあるゆえテルーの言葉は、あらためて、そうだった・・・そうだった・・・と感動しました。 グッズがあって、小さな缶に何が入っているかは、お楽しみのがありました。テルーが入っていて、なんだか、こころが強くなった気がしちゃった ゲド観た方、これから観る方、観られたら、また教えてください!
August 7, 2006
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あれ?昨日、日記書いたのですが、今日見るとありません・・・ 更新してなかったのだろうか? 誰か、昨日の私の日記見たぞって人いらっしゃいますか? ゲド戦記観にいこうかなって内容だったんですけど・・・? おかしいなぁ? 不具合か、私がボケて更新しなかったのか・・・
August 6, 2006
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昨日は、いい機会があって、接客のプロたちが受ける研修に参加できた。 ぶっちゃけのぶっちゃけを申し上げると、私はヨガの教師になって、自分の教室を独立させてから謙虚さをなくすポイントがあると思う。 プロに教えるプロが先生で来てくださっていたのですが、ヨガの視点で言うなら、その人は「偽もの」のこころをしていたのです。「スキル」としてのプロ、こころをこめると言っても、そのこころの深さについては、質がある。 その先生はプロですから、タイミングから、声のトーン、おじぎの仕方などにもとても繊細で、プロ! ところが、その込めて下さいとおっしゃる「こころ」についてその質についていうと、こっちがプロになってしまって、そういうときに、気持ちの悪い気の滞りが起こるんですよ・・・ これ、一種の職業病・・・よくない意味で・・・決して、その先生のこころが偽ものではないんです。その先生として本気だし、純粋。 私がみつめていくのは、そんなところのもっともっと奥になってしまうからそこからすれば、曇りのあるウソ気が見えてしまって・・・ その先生も、職業病で、自分がお客様でくつろごうにも、買い物をするにしても人の接客態度が気になって、気持ちよくくつろいだり、お買い物できなくなって帰ったり、苦情を言ったりしてしまうんだそうです。 わかるなぁ・・・その感じ。逆に苦しいですよね・・・ 瞬間的に、切り替えて、観察とは別に謙虚に教えて頂くことが自然にできる方が多いのですが、時々、このように謙虚さのない高慢な気になる事があります。 もっともっと、練れるところです。もっともっと成長できることです。 でも、そんな気を「自覚」できていたので、一所懸命させていただきました。そうしたら、私には未熟だと思えるところも出てきたし、その先生の気持ちと、プロのところ、尊敬も出てきて、結果的には、とても真面目に一所懸命できまして、最後には、私1人だけでしたが、その先生の研修の間に自分の壁越えと人のこころに対する接客というスキルの部分についても学べた事にこころいっぱいの感謝があふれてきて、あらためて、礼をして部屋を後にしました。 そんなにいい勉強をさてせ頂いて、壁もプチ越えたのに、その後に接した、挨拶もろくにしない、仕事の身内のおっちゃんに内心でブチ切れてしまいました その人は、ずぅぅぅぅぅぅぅぅっと、いい加減さと態度の悪さ、礼儀のなさ文句だけたれる、コソコソしてさぼるなどが、積み重なって積み重なっている人なので、昨日だけのことでなくて、全部ひっくるめられてしまって私は、こころの中で怒りがすごいスピードで、きんちゃんの仮装大賞の採点パネルが急激に上がっていくように 「プルルルルルルルルル」で20点を振り切っていく勢いでした なんかもぉ、腹の虫がおさまらなくなって、家に帰っても、全然落ち着かなくて、落ち着かないと感覚的に麻痺する意味でお腹がすいてくるんですよ、これが。 本当はお腹すいてないんですよ。でも、感覚が食べたい!と訴えはじめるんです。ですから、瞑想なんかしてこころが落ち着くと、ダイエットに有効よなんて言ってたんですが・・・ そんなこんなで、コントロールを失っていきそうになるので(怒っていることを充分意識できているって事は、ほんとうはコントロールを完全に失っているのではないのですが) 今日は、前にもお話していましたバッチフラワー・レメディに中で、何を選んだかというと、 (1)怒りに対して・・・ ホリー(単純に怒りに対して選びましたが、私の怒りは、違うかもしれないのです・・・) (2)自分に対する怒りに対して・・・ クラブアップル(自己嫌悪や、自分の欠点に対して小さなことから嫌悪感を抱いたり、憤りがフツフツしてしまったりするところに) (3)正しいと思う事についてのこだわりに・・・ ヴァーベイン(熱く、こうすべきだ!という責任感や使命感を持って前向きなこころを持っているのはいいのですが、それは、周りの人も当然そうすべきだろうと思い、そうでない事に、なんとかならないのかなどと思っているようなところに) とこの三つを、とりあえず飲み物に入れて、飲み続けています。 バッチフラワー・レメディは38種類あって、38種類の特徴的な感情に、こころに、魂に直接働きかけて、感情、こころ、魂のバランスをとって、マイナスに偏ったところを戻してくれるのです。 自分のこの気持ちは、38種類の中のどれだろうと見つめること自体がすでに内観の過程なので、ほんとよく働くレメディなんですよ。 さぁて、今日もバランスとっていけるかなぁ・・・・それとも、それをも超えるアンバランスがきてしまうかなぁ・・・・・
August 4, 2006
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私、よく男前だと言われます。見た目は違うが中味は男前だと。最近では、ヨガで根性も育ってきたので、おっさんぽいとも言われる。 ヨガって、肉体的な性別とはまた別に、女性性、男性性のバランスもとっていけるってものなんですが、バランスしてくると、俗にいう、女性らしさや男性らしさというイメージというよりは性質としてどちらも生き生きしてくるものなのだと思います。 一見した風貌とは違うらしく、余計に男前な感じがしてくるそうだ。 変な感じですが、いい意味でありがたく受け入れています 仕事の仕方も、男前なところがあるそうで、周りのほんもののおっさんからは自分をいとえ、忙しすぎないか?と言われたりもします。 昨日も長年の付き合いになる、職人気質のほんもののおっさんの親友にそんな事を言われました。 「ちゃんと自分の時間をとって、ぼーっとしてくれてるか?」 とも言われて、ストレスもあるけど、工夫してるヨって。 その一つは、やっぱりネイルケアはいい時間と目から入ってくるいい癒しになっているような気がするなぁと昨日も思いました。 毎回思うのですが、指先って毛細血管いっぱいだし、そこを刺激されるというのは全身の流れがよくなるので、ものすごく眠くなって力がぬけていくんです。 恐るべし毛細血管の細さといったら驚かないでくださいよ(とおどかしてみながら) 赤血球一つの大きさよりも、細い、小さいんです だから、ほらテレビなんかでよく見る、数珠繋ぎになった赤血球は毛細血管を入って流れられない。 だから、体内の気の流れの悪さは、冷え性だとか、体調不良だとか梗塞だとかに繋がっていってしまうのですね・・・ どうすればいいのよ っていうと、いろいろあるけど、一つはやっぱり呼吸法吐く息を意識して、しっかり息を長く吐いて吐いて・・・・しぼりきるような呼吸を、たまにはいれていきながら日常を生活すると無料でサラサラ、ぬくぬくしてくるし、 すごいことには、血管が伸びたり、バイパスの血管がつながったりもするんですよ ツボもさることながら、手足の指先や手首や足首を動かして柔らかくしておくことは、ことのほか有効なのでした。 ゆるめたり、動かしたりするときには、鉄則が一つあります呼吸をしている事を意識しながら動かすこと、呼吸と共にゆっくり動かすこと です。 これ、ヨガ・アーサナの基本であり極意でもあります。 何かのポーズを決めるより、むしろ、この鉄則で毎日暮らすのが急がば回れです よかったら、ぜひ、やってみてみてくださいませ。新発見を教えていただけたら、すごく勉強になります
August 3, 2006
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私が、ヨガを生徒で習い始めたころ、私の先生が、足の裏から毒素がでる という話をされたのがとても印象に残ったものでした。 私は、それまで自分でやっていたことなどからも、すごく納得して、足の裏を見える意味でも、見えない意味でも清潔にすることが大事だと思い、 先生に教わったこともあって、夜、お風呂にはいっても朝、あらためて足を洗うという習慣をその頃につけました。 ヨガでは、朝、沐浴をしてから祈りや瞑想をするという習慣もありますが、それは、暑い国インドでは水を浴びたり、ガンジス川や最寄の川にに入って身を清めるのもいいけれど、日本では特殊な状況でなければ、なかなか難しかったりするなぁと思ったのも、きっかけでした。 せめて、足の裏を洗って、清潔にして、一日をはじめようって。見える病を防ぐにもいいし、気をきれいにするっていう意味でもいいと思います。 足の裏には湧泉(ゆうせん)というツボがありますが、その名のように、日本では仙人が、足の裏で息をするといわれたりする話があるようですし、武道なんかでも、同様の事がいわれるようです。 湧泉は、足の第一指(親指)の付け根と、第二指(人差し指)の間のあたりになります。 ここが床に広がる感じで立ったり、歩いたりすると地の気をよくいただけたり、また邪気は地にかえせたりするようです。 私は、それ以来、ずぅぅぅぅっと、朝、足を洗う習慣をつづけています。 身体が不調な人がいたら、足を清潔にして拭いてあげたりすると、とっても顔色がよくなられたりするのですよ。 みなさんも、よかったら足の裏にちょっと注目してみてください。 そして、何かおもしろい発見があったら、ぜひ、教えてください!
August 2, 2006
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最近のウィークポイントについて、いろんな方向から観たり感じたり、味わってみたり、試したりの日々ですが、 そんなこんなが、まさにヨガそのものなんだなぁ・・・・・ あ、私、ヨガやヨーガやその時々で言っていると思いますがどちらも意味的には同じとして使っています。 今朝、あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ、そうかもぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉと思ったことがありました。 仕事の周りにはいろんなことがついてきますよね。そんなこんなで、自分の経験、体験、合理性が、必要な時にはそれなりの、最善の、今の最高のもので出てきたりするものですよね。 最近、モヤモヤしていたのは、 今の状況で、これをどうにかするには、誰がかかわって、どう進んでいって最後にどの目的に使われるか を考えると、これよりこれがベター、これよりこれがベターなんてわかるでしょーに・・・ なんでわからないのか なんですすまないのか なんで知ろうとしないのか なんでやってみようとしないのか ってイライラってして ムカムカってしてたのですね。 相手は、そんな事思いもよらないわけで、悪気もないだろうし私にしてみれば、ぬかにくぎで それがまた、イライラ ムカムカと、余計にしてたんだなぁと、前より落ち着いて観察してじめられていました。 そして今朝、別の人とのやりとりで、ハッと思いました。 あぁぁぁぁぁぁぁぁ、いーんじゃなーい 別に、ここで、この時、一番いい方法を知っているからって、ここで、この時に絶対にそれをすることが正しいわけじゃないんだよ ここで、この時、なーんか全体的に、かかわる人や流れによって、ちょうどいい方法がとられて良ーんじゃない?って事かぁぁぁぁぁぁぁぁ あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ、それよりも、絶対に早くて合理的で、誰にとってもよく、流れもいいって方法を知っているからといって、それをやらないこと、やれない事は、ダメだ と思い込んでいたんだよぉぉぉぉぉぉぉ、私ぃぃぃぃぃぃぃ。 中庸じゃないかぁ・・・・・・・・その時、その場、その状況で、ちょうど適切なことをすること・・・・・・・・・(これは、意味の側面ではヨガでいう、ダルマにもなると思います。ダルマとは日本語では正義と訳されたりしますが、正義感とかの正義よりは、このような意味になります) 頭でまず、今のウィークポイントにあてはめて、あぁかこうかと苦心していて、やっと、ふぅぅぅぅぅぅって力がぬけて、相手も傷つかない、自分も傷つかない、ちょうどいい捉え方が出てきはじめたような気がしました。 私には、自分のヨガの、これまた先生もいます。 今日別の事でメールしていて、最近の自分のこころのわだかまりがあった事を話したりしていたら、こんな風にかえってきました。『自分に降り懸かるすべてを受け入れる事大変かも知れないけど…でもそれが一番自然で又進化出来る方法かな?喜んだり悲しんだり怒ったり泣いたり迷ったり悩んだりする事…人生だし…生きてる特権かな?なんて思う毎日…。これからもいろいろあるだろうけど大いに悩みましょう!悩むことから逃避せず…自分を見失わないようにいろんな面において戻れる所を見失わない様に…。生徒さんから時には悩みを打ち明けて下さる事もあり…そんな時一緒になり悩む事もヨガ教室では必要な時もあるでしょうし…いろいろな繋がりを実践するヨガに出会え人生ボリュームたっぷり!これからもいろいろとよろしく!です』 あぁぁぁぁぁ、ボリュームだよ・・・・ 点が、やがて線になって、そして拡がってボリュームとなる。 私は、生徒の時から先生と話したり、ウソみたいなことを打ち明けたりしながら多分一番人生の苦しい時期を、そうとは言わずに来ました。 先生は何も言わずに、ずぅぅぅぅぅぅぅぅぅっとただ、先生でいてくださってね。 自分が教師になってからは、先輩で親で、お姉さんでさらに深く話せるようになりました。 いつもいつも話すわけではないんです。 でも、ここって時に話します。その時に、本当に素直に受け入れられる事を言ってくださいます。 私が一番得たことは、いつも学ぶ者であり、いつも等身大である勇気とすばらしさ。 その言葉に決していつわりはなく、謙遜というテクニックはない。がんばれた事には、がんばれたと言われ、知らないことは知らないと言われるからです。 そんな言葉と、自分の気づきがまじりあって、のどや胸にあったかたまりが一つ、腑に落ちていきました。 ありがとう、ありがとう、ありがとう。こうして、その事を話せることにも、みなさんありがとう、ありがとう、ありがとう。
August 1, 2006
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