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やっぱりそうでした。 そんな気はしていたのですが、心の片隅で「まさかね」と思っていました。 昨日、同僚の男の先生を連れて鄭州に行っていました。 日本からの訪中団が鄭州に来るという話を聞いていたからです。 その団体は、私も知らないわけではないし、せっかくだから会いに行こうと思ったのです。 同僚の先生を連れて行ったのは、彼が暇そうだったから。 ところが、情報がガセネタで、訪中団が鄭州に来る日は2日後だったのです。 というわけで、時間がぽっかり空いたので、鄭州に一泊して今日、開封に旅行に行ってきました。 駅はこじんまりとしています。 開封は過去に七つの王朝が都を置いた古都です。 これまでに4回か5回来たことがあるのですが、いつも観光スポットのみに立ち寄るだけで、古都の街並みを散策することはありませんでした。 だから、今回の目的は、街並み散策と名物の小籠包を食べること。 そうです、開封は食べ物がおいしい街なのです。 イスラム系の人が多く住んでいるので羊肉を使った料理はよく見ます。 そして、中でも有名なのが小籠包です。 同僚の男の先生は、中国が初めてだということなので、観光地もとりあえず行きました。 その一つが「鉄塔」。 遠くに小さく見えるのが「鉄塔」で、土台の部分は黄河の氾濫の時に埋もれてしまったそうです。 もうちょっと近づくと、こんな感じ。 で、実際はこう。 ちょっと傾いているのは、長い年月、強い風を受け続けたからだそうな。 遠くから見ると鉄の塔のように見えることから「鉄塔」と呼ばれていますが、実際はレンガを積み上げて作ってあります。 そのレンガには菩薩や龍などのレリーフが埋め込まれています。 で、今回のメインは小籠包を食べること。 店は第一楼包子館という、有名な店。 食事時には店内は満員で、席が空くのを待っている人がずらり。 我々が頼んだのは「牛肉包子」と「鴨肉包子」、そして棗のスープ。 写真は「牛肉包子」(包子というより、小籠包だけど)。 これで12元(170円)。 食べると熱々のスープがジューッと飛び出します。 それをすすりながら、具をハフッと頬張るのが至福の瞬間です。 棗のスープもほんのりとした甘さで、身も心も温かくなりました。 周りの人たちはこんなふうにいくつも注文して食べていました。 中国人の食欲は旺盛です。 で、このブログの最初に書いた「やっぱりそうでした」のことですが……。 やっぱり雨が降りました。 朝方の小雨がだんだん本降りになり、晩秋のような肌寒さになりました。 おかげで街中のスポーツショップに立ち寄って、バーゲン品のウィンド・ブレーカー(82元:1200円ぐらい)を買ってしまいました。 去年は西安に行った時が雨。 山西省の太原でも雨。 洛陽の学生の家に行った日は氷雨で、 南陽の学生の家に行った時は4泊して全部、雨、帰る日になって晴れました。 四川省でも雨が降ったし、 日本に帰る日、北京に行ったら雨で、私が乗った飛行機が出発したら晴れたそうです。 新郷にいる時は気温は30度もあって、暑かったんです。 だから、今回は大丈夫だと思っていたのですが……。 やっぱり、雨が降りやがった!
2007年09月29日
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最近、JIAさんのブログでロックネタが続いています。 白壁ネットさんのところでもロックネタをやっていました。 駄目です。 ロックネタは私にとって禁断の扉です。 この話題になると止まらなくなるのです。 朝まで話しても、まだ足りないくらいです。 根本要みたいなものです。 1つ話すと、あれもこれも、と次々に話したいことが出てきてしまうのです。 今夏、白壁ネットさんとお会いした時にも、途中からコアな洋楽の話になりました。 私、小学生の頃からずっと洋楽を聴いていました。 ラジオの電リクにリクエストをしたり、深夜放送も欠かさず聴いていました。 小遣いは専門誌とレコードを買うことで消えました。 「MUSIC LIFE」「音楽専科(まだあるのかな?)」「ニュー・ミュージック・マガジン(これも健在?)」「ROCKIN' ON」「ROCK MAGAZINE(コアな雑誌でした)」は欠かさず、隅から隅まで読んでいました。 高校生の時の夢は「ロック評論家」になること。 そのために大学は英文学部を選びました。 大学で入ったクラブは「ロック研究会」。 大学時代は洋楽を聴き、ミステリーを読み漁り、格闘技を観戦する毎日でした。 洋楽、ミステリー、格闘技……これが私の人生でした。 話し始めると止まらなくなるので、その前にやめておきます。 でも、最後にほんのちょこっと。 私にとって最高の女性ヴォーカリストはKATE BUSHです。 SUZI QUATROとどちらにしようか、迷ったけど、やっぱりKATE BUSHです。 彼女が日本のSEIKOのコマーシャルに出た時のポスター、まだ持っています。
2007年09月27日
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新入生たちの軍事教練もあと4日間。 だんだん内容がハードになってきた。 湿気がないから過ごしやすいとは言っても、気温30度の中、迷彩服を着て走っている。 それも「1、2、1、2、3」と大きな声を出しながらだ。 昨日の「作文」の授業では、とうとう作文を書かせないまま時間が終わってしまった。 私の授業は「会話(3年生)」もそうだが「作文(3年生)」も、去年までの必修ではなく、選択授業になった。 従って去年よりも受講する人数が減った。 減ったことは、もちろん多少の寂しさもある。 だが、教える側にとってみれば、密度の濃い授業ができるというメリットがある。 そして、私の授業を選んでくれた学生のために、心を込めて頑張ろうという気になる。 で、昨日は、まず授業の前に「頭の体操」をした。 例えば、こんな問題。 問題1:「刀+ノ+目+之+八+八=○○」 或いは、こんな問題。 問題2:「ばばばばばばばすすすすすすすすすす」 どちらも他愛ない問題だが、学生たちは真面目に考えていた。 そして答を見つけた時は、クラスじゅうが大きな笑いに包まれた。 問題を出した時、後で「なあんだ、つまらない」という反応だったらどうしようと思っていたので、この笑いには、むしろこちらが救われた。 この「真面目」というのが、中国の学生の長所でもあり、逆に短所でもある。 だから、去年から授業で「笑点」をしたいなあとずっと思っていた。 「笑点」ができるということは、人を笑わせる能力を備えているということ。 外国語を駆使して真面目な議論をすることは難しいことではない。 しかし、人を笑わせるのは、高等技術である。 そういう高みを目指したいと思っている。 昨日の授業では、その可能性が見えた気がした。 ちなみに上の問題の答えは、 問題1:貧乏 問題2:ばななじゅうす(ば×7、10×す) 勿論、こんな問題ばかりやっていたわけではない。 これは授業始めの10分間だけ。 他には「街からゴミを一掃する方法」だとか「死にたいと言っている友達を思い止まらせる言葉」など。 教師から一方的に教えてもらう、ではなく、学生たち自身が自分で考える授業に終始した。 学生たちは持っている知識を総動員して次々に発言した。 だが、知識だけでは解決できない問題もある。 「知識」ではなく「知恵」が、社会では重要になることもある。 100分間の授業が終わった後、私は学生たちにこう言った。「ごめんね。作文の授業なのに、作文を書かなくて」 学生たちは、全員がこう答えた。「いいえ、いいです(笑) これからもこういう授業をしましょう」 しかし、来週からは作文漬けだ!
2007年09月26日
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今日は中国では中秋節。 学生たちは夜、校内の公園で大騒ぎをし、街には月餅が溢れている。 写真は、この中秋節に学生たちからもらったプレゼントの数々。 ほとんどは月餅。 手で持つと、ずしりと重い月餅が全部で40個以上。 1年前より血糖値が下がっていたので、安心して、これからせっせと食べることにする。 他にはCDやキーホルダー、お茶など。 中国にはこういう風習は根強く残っている。 そのおかげで、我々、外国人教師もそのおこぼれをもらうことがある。 今日は会う学生ごとに「中秋節おめでとう!」と声を掛けられた。 おめでとう、といえば、知り合いの学生が今日、「留学生選抜試験」に合格した。 彼はコンピューター学部の学生だが、日本語に興味を持ち、独学で日本語を勉強してきた。 入学以前は、社会人経験があるが、一念発起、大学に入りなおしたという努力家だ。 去年、私の授業をよく聴講に来ていたことから懇意になり、何かと慕ってくれるようになった。 会話の練習相手になったり、逆に私が手伝ってもらったこともある。 去年の誕生日には、わざわざプレゼントまでくれた。 日本語学部の授業を聴講するに当たっても、学部主任に直談判をして、主任の部屋を毎週掃除をするという条件で、聴講の許可を得たという経緯がある。 その彼が、日本に留学したいという希望を私に語ったのが去年の冬のこと。 今日の「選抜試験」では、英語、中国語、日本語、数学の各筆記試験と日本語での面接試験があったという。 実は、この数日、面接での答え方など、いろいろアドバイスをしたり、模擬練習などに付き合ってきた。 その彼から、今日の夕方、電話が掛かってきた。「先生、合格しました。ありがとうございました。先生のおかげです」 という内容だった。 特に何をしたというわけでもないので、そんなふうに言われると面映い。 だが、彼の努力と境遇を知っているだけに、その言葉を聞いて、本当に嬉しかった。 彼が持っている辞書は、ほとんどの単語に線が引いてあった。 それを見ただけでも、独学のすごさがうかがえたものだ。 これからは更に日本語を勉強して、日本での生活に備えるという。
2007年09月25日
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今日も酒を飲んだ。 度数は先日より下がって45度の白酒。 とは言っても、酒が好きなわけでは決してない。 日本に2か月間帰っていた時は、1滴も飲まなかったし、それが苦にもならなかった。 ただ中国では人と親しくなるためには酒は欠かせず、私はある程度は飲めるというだけのこと。 今日は六人での会食だったが、白酒を飲んだのは二人。 私ともう一人の中国人の二人で、1瓶が空いた。 今日は、以前から懇意にしている宋先生から電話があり、一緒に食事をしようと誘われたのだ。 去年も宋先生に何度か誘われて、中国人の友人をたくさん紹介してもらった。 そうやって知り合った中国人は40人を超える。 これまでに出会ったのは人民政府の関係者、編集者、衣服製造会社の社長、旅行会社のスタッフ、日本語の教師(中国人)、体育学校の教師等など。 今日、出会ったのは、は地元の新聞社の記者(女性)と機械工場を経営している社長。 そして二人と中国語でたくさん話をした。 大学の中に住んでいると、こういう機会でもなければ、中国人と知り合うチャンスは少ない。 そして中国語を話す機会もごく限定されてしまう。 だから、こういう誘いは断らないようにしているし、中国語をたくさん話すようにしている。 中国語といえば、近くの市場通り(通称:破街:おんぼろ街)で食事をしたり、買い物をする時には、必ず見せの人と話をするようにしている。 食堂で食事を終えた後は、「もう食べ終わりました。お勘定をお願いします。ここの料理は本当においしかったです。また必ずきますからね」と中国語言って、店を出ることにしている。 店の人は大抵の場合、喜ぶ。 喜んで、次に行った時には、向こうから笑顔で挨拶をしてくれる。 中には、他の客に私のことを「彼は私の友人だ」と紹介してくれる人もいる。 今では、店に行けば、注文した料理以外につまみや別の料理をおまけしてくれるようになった。 いつも行くパン屋さんでは、店の女の子が、パンを1個余分に入れてくれる。 立ち食いの店では、私の好みを覚えてくれていて、辣椒をしっかり利かせてくれる。 みんな古くからの友人のように接してくれる。 商店街がさびれて、大型スーパーで買い物をする機会が増えた日本では、店の人とのこんな交流はなくなりつつある。 といより、日本の中から、人と人との触れ合いが少なくなっているような気がする。 私を見て、笑顔で挨拶をしてくれる人がいるのは嬉しいことだ。 それが学内の学生だけでなく、学校の外にもそういう友人がいることは更に嬉しい。 些細なことではあるのだが、この嬉しさは貴重である。
2007年09月24日
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下の写真は日曜日朝8時の、校内の風景。 休みの日でも、朝6時に起きて、8時には既に教室や、校内の至る所で勉強を始めている。 この大学では(中国全土?)これが、ごく普通の景色になっている。 学生たちは教科書を手に問題を解いたり、例文や本文を大きな声で暗唱している。 昨日、この公園の中を歩いていたら、日本語の教科書を開いて勉強している学生を見つけた。 その顔に見覚えがなかったので、「日本語の勉強ですか?」と声をかけた。 私は、自分は日本から来た日本語の教師で、3年生と1年生を担当していることを伝え、その後、しばらく二人で話をした。 聞けば、彼女は英語学部の4年生で、第2外国語で日本語を勉強しているのだという。 こういう場で教師から声を掛けられることは、相手が知り合いでもなければ、まず、ない。 彼女にとっては、日本人と話をすることも初めてだったようだ。 15分ほど話をした後、互いに名前を教えあった。 先週は、同じような状況で2年生の男子学生と話をした。 その後、2年生の授業を見学に行った時、真っ先に声を掛けてくれたのが、その男子学生だった。 こんなことをやっているうちに、担当学年の学生以外に知り合いがどんどん増えていく。 午後は、日本語学部のS先生(中国人)が開いたパーティに呼ばれて顔を出した。 S先生は2年生の総合日本語を担当している。 去年から懇意にしている男性教師だ。 先月、彼に子供ができたので、そのお披露目のパーティだった。 この席には、多くの中国人が来ていたが、同席した人たちとしばし歓談した。 学生を相手にする時は、彼らの会話能力を高めるために、日本語で話をしなければならないが、こういう場合は、思う存分、中国語で話ができる。 中国人と中国語で話せば、大抵の場合、親しくなることができる。 それが酒の席であれば、確実だ。 46度の白酒を酌み交わしながら、いろいろな話をした。 次は二人で食事をしようという約束をした。 私は酒は好きではないが、飲むことはできる。 数年前のこと。 まだ中国語がまったく不自由だった頃、ホテルの部屋に中国人の男(私の友人の知り合い)と私だけというシチュエーションになったことがある。 中国語があまり話せない私と、日本語が全然わからない彼は、片言の中国語と筆談とで、夜の10時頃から深夜の3時まで、白酒を酌み交わしながら、話(?)をした。 その時は、50度の白酒がすっかりなくなっていた。 その時のことは、彼の仲間内では伝説になっているらしい。 初めて出会った日本人と、言葉が通じないまま夜明け近くまでホテルの部屋で酒を飲んだのだから、彼にとっても印象に残る出来事だったようだ。 さて、S先生のパーティに、私はお土産を持参した。 それは日本に帰った時に、浅草で買い求めた「日本人形」だった。 写真の写りのせいで、すっとぼけた顔に見えるが、実物はなかなか端正な顔立ちである。 高いものではないが、肝心なのは気持ちだから。 ちなみにS先生の子供は女の子である。
2007年09月23日
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最近、ずっと他の先生の授業を見学に行っていることは昨日、書いた。 中でも楽しみにしているのは、4年生の実習授業。 4年生たちが、1人10分ぐらいずつ、教壇に立って模擬授業をするという授業である。 そもそも「師範大学」とは教員を養成するための大学。 だから学生たちの多くは、将来、教師になることを目指している。 実習授業は、その訓練の場。 しかし、思えば、僅か3年前に「あいうえお」の50音図を覚えることから始めた彼らが、今や、他の学生を相手に模擬授業をしているのである。 すごいことだ。 しかもその内容たるや、日本語の文法研究や、文化の紹介など、かなりレベルが高い。 模擬授業では、各自が研究した成果を発表するのだ。 今日は、その授業の中でとても嬉しい場面があった。 大方の学生は、まず文法を説明してから例文の紹介、そして会話へと進める。 しかし、彼女はまず会話を紹介して、その後、細かい文法の説明を始めた。 先日、校内でばったり会った時に、私は彼女に、授業を見に行くことを約束した。 彼女は非常に喜んで、用意した資料を見直して手直しをしたという。 「先生に見てもらうために、頑張りました」 彼女は笑顔で言った。 写真のように笑顔が素敵な女の子である。 しかし、彼女は去年は内気で、授業中の発言もなく、私に会っても顔を赤らめたまま、何も話すことはなかった。 彼女が教壇に立って、授業を展開するなんて到底考えられなかった。 その彼女が、3年生の「会話」授業の集大成で、日本語ドラマに出演し、病気で余命半年と宣告された娘を持つ母親役を熱演し、喝采を得たのだった。 そして、今日は、ずっと笑顔でクラスメートを相手に模擬授業をこなした。 彼女は、こうも言った。 「私は去年、とても内気で、いつも緊張していました。でも、先生のおかげで今は……」 彼女は感極まって泣き出してしまった。 私は「日本語教師」とは言いながら、正確な日本語を教えるということには、あまり力を入れていない。 勿論、文法の説明、用例の紹介、発音の矯正などはする。 だが、そういったことよりも大事なことがあるのではないかと思っている。 思っているが、これでいいのだろうか、という気持ちもいつも持っている。 そして、今日、彼女の話を聞きながら、「やっぱり、こんな変な教師もありだな」と思った。 嗚咽を堪えている彼女を見て、 また1年頑張る勇気をもらった気がした。
2007年09月21日
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1年生が軍事教練を終えて、授業が始まる来月まで、私は週休5日。 この暇な時間を利用して何をしているかと言えば、他の先生の授業を見学している。 同僚の日本人の先生方、中国人教師たち。 学年も2年生、3年生、4年生と、やたらに教室に顔を出している。 他の先生方の授業を聞くと、いろいろ参考になる。 教室の前に座っている学生だけしか見ていない先生もいる(これが多い!)。 冗談を言って、自分だけが受けている先生もいる(これも多い!)。 教科書の説明だけに追われ、学生の状況が目に入っていない先生もいる(これも多い)。 人気がある先生には、それ相応の理由がある。 人気がない先生の授業は、私が聞いても面白くない。 実は私が去年から唯一心掛けていることがある。 それは学生の名前を覚えること。 授業中、指名する時は、顔を見て名前を呼ぶ。 そして、授業では全員を必ず1回以上(時には何回も)、指名する。 他の先生の授業を見に行くのは、学生の名前を覚えるためでもある。 覚えるのは名前以外に、出身地と誕生日。 学生の名前と出身地、誕生日を覚えておくと、学生と会話をする時に話が弾む。 学生にとってみれば、教師が自分の名前を覚えてくれたことで、親近感や信頼感が増す(かもしれない)。 自分が担当している学生だけでなく、他の学年の学生の名前もたくさん覚えた。 一度だけでも、一分間の立ち話だけでも、とにかく話をすれば、手帳に名前を控えて、暇さえあれば頭に叩き込むように努めた。 学校の中を歩いていると、学生たちからやたらと声をかけられる。 異国にいて寂しさを感じないのは、こんなふうに声をかけてくれる学生が多いからだと思う。
2007年09月20日
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新学年が始まって2週間目。 今、校内では新入生の軍事教練が盛んに行われている。 朝の7時には早々に大きな掛け声が窓の下から聞こえてくる。 この掛け声が、日中は校内、至るところから響き、それが夜の8時頃まで続く。 号令を掛けながら走る、隊列を乱さずに行進をする、姿勢を正して整列する。 もう少し日が経てば、本物の銃を持って、射撃の訓練もする。 勿論、実包は発射しないが、本格的である。 軍事教練に男女の差別はない。 入学したばかりの18歳、19歳の女の子も、迷彩服に身を包んで、軍隊式の行進をしている。 あどけない顔で、大声で号令をかけ、行進している姿には、なんだかグラッとくる。 というかゾクゾクッとくる。 おっと、変なツッコミは無用です。 大学に入ったばかりの若い女性のそういう、口を真一文字に結んで、汗を光らせながら、行進をする、そういう真剣な姿って、日本ではまず見ることができないから。 でも、時々はこうやって休憩をしている。 これは休憩をしながら、指揮に合わせて歌を歌っているところ。 これも可愛い。 女の子ばかりだから、外国語学部かなあ。 そういえば、来月くらいには、「会話」の授業で「セーラー服と機関銃」を聴かせようと思っている。 ♪サヨナラは別れの言葉じゃなくって( ) ( )のところにどんな言葉が入るか、学生たちにいろいろ想像をさせる。 その後で、歌詞を見せずに、歌を何回か聴かせ、聴解の練習もさせたい。 思いっきり、私の色のついた授業をしています。
2007年09月19日
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そうか、日本は3連休だったのか。 知らなかった。 ちなみに私の担当授業は3年生1班の「会話」、同じく「2班」の会話、そして3年生全体の「作文」という3つだけ。 月曜日が1班の「会話」、火曜日が2班の「会話」、全体の「作文」。 それ以外は授業がない。 だから週休5日。 今、1年生たちは軍事教練をやっていて、これが今月末まで続く。 だから来月からは1年生の授業が始まり、私の担当科目が増えて、毎日、授業がある。 しかし、1週間に1回の「会話」授業は、やはり少ないと感じる。 今期、初めて中国に来た新しい先生は3年生の「総合日本語」を担当している。 こちらは1班が週に3回、2班も週に3回。 「総合日本語」というのは、教科書に掲載されている文章を読んで、単語の意味や文法を学ぶ授業で、日本の英語の授業がだいたいこんな感じ。 「話す」よりも「読む」能力の方が、中国では(日本でも)重要視されているのだ。 その新しく赴任してきた先生(40歳・男)。 日本的なものが大好き。 初めての赴任なので、これまで私は彼に学校の中を案内したり、街に出たり、規則や習慣などを教えてきた。 彼からのリクエストに応えて、何度も外に出て食堂で食事もした。 彼のリクエスト(食べたい料理)はすべて日本で食べたものばかり。 「チャーハンが食べたい」「日本の焼きそばはありますか?」 知らない料理を食べようという気持ちはないようだ。 私は逆に、知らないから興味があり、食べたことがないから食べてみようと思う。 そうやってたくさんのおいしい料理に巡り合った。 料理だけでなく、中国人の友達もたくさんできた。 私が自分で食べて「おいしい!」と思った、日本にはない料理を彼のために注文した時は、いつもこんな反応が返ってくる。 「ふむ……そうですね……これは日本の○○に似ていますね」 そして、少し口をつけては、きっちり残す。 何かを食べるたびに、日本のものと比べる。 彼が「おいしい」と言ったのは、僅かに「ワンタン」だけ。 最近は日本から持参したそば(乾麺)を自分で茹でて食べているそうだ。 彼は中国語はまったく話せず、英語もほとんどできない。 自分で勉強するための中国語の教科書も持ってきていない。 おいしい中華料理を見つけることもなく、中国人の友達も作らず、日本語だけを話して、1年後、日本に帰っていく。 でも、もしかして彼こそが典型的な日本人なのかも。
2007年09月18日
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「もう一つの土曜日」というタイトルだが、浜田省吾とは何の関係もない話題。 9月15日 土曜日。 昨日はこの大学で入学式があった。 学生たちは自分たちの寮から、それぞれ椅子を持って、会場に集まった。 会場は、この大学の図書館の前の広場。 遠くに霞んで見えるのが共産党の代表や学長、そして各学部の部長たち。 図書館へ入る階段は長いのだが、こういう時に有効に(?)使われている。 学生数が去年より多いので、列も、こんな感じになる。 先頭は見えない。 という入学式を見学した後は鄭州へ出発。 以前も書いたことがあるが、私は日本で新聞記者をする傍ら、日本に労働をしにきた研修生たちに5年間にわたって日本語を教えていたことがある。 日本語指導だけでなく、生活指導、悩みの相談、日記や作文の添削など。 また一緒にドライブに行ったり、遊んだりもしていた。 家族や友達、或いは生まれたばかりの子供と離れて日本に来た彼女たちにとっては、私は先生、友達、兄、恋人のような関係だったように思う。 そんなことを続けているうちに、記者の仕事より、日本語教師という仕事のほうに魅力を感じるようになった。 というわけで、今、私が中国にいる。 その日本で教えていた研修生たちは鄭州の送り出し機関から派遣されている。 というわけで、その会社の人たちとは非常に懇意にしており、私が行くといつも身に余る歓迎をしてくれる。 その会社では今、日本へ出発する前の日本語研修が行われており、私も研修生たちに授業をすることになった。 後ろに立って見ているのが、私の知り合いで、研修生たちの日本語の先生(日本人)。 彼は研修センターの中に住んでいるので、日本語だけでなく、生活指導もするし、夜は研修生たちに囲まれて会話練習の相手にもなる。 いつも感じるのは、授業中の研修生たちの表情が明るいことだ。 とても積極的である。 日本語学習を始めて間がないが、知っている単語を総動員して、話をしようとする。 彼女たちは、多くは農村の貧しい家庭の出身である。 中には20代後半、或いは30代の者もいる。 だから教育を受けなれていない。 教育を受けなれていないから、授業の進度についていけなかったり、集中力が続かなかったりする。 それでも、自分が日本に行ってお金を稼がなければ、家族の明るい将来はないからと、熱心に勉強をする。 勉強したくてもいろいろな事情で学校に行けない、勉強が好きではないが熱心に取り組む、こんな学生や研修生が、この国には多い。 特に内陸部にはとても多い。 日本はどうなんだろう。 教壇に立っているのは、かつて日本で私が教えた、いわば教え子。 去年、3年間の日本での生活を終えて帰国し、ここで日本語指導者の職を得た。 まだ23歳だが、非常に明るくて、物怖じしない。 日本語の達者さは言うまでもない。 彼女が仕事をしていた会社は、中国人嫌いの社員が多く、住環境や面倒見など、決して良いわけではなかった。 むしろ、劣悪だった。 同じ日本人として恥ずかしく思うような、そんな環境の中に彼女はいた。 そういうところで生活しながら、彼女はいつも前向きだった。 彼女の口からは、不満や泣き言を聞いたことは一度もない。 彼女以外にも、私が日本で教えた研修生たちの何人かが、母国に帰って、日本語の指導者になっている。 最初は小さな流れだったが、それが次第に水を湛え、太い流れになろうとしている。 おまけ: この会社の社長は、私が来ると、いつも豪華な食事でもてなしてくれる。 しかも、日本人が食べたことがないようなものを、よく勧めてくれる。 前回は「羊の目玉」を食べた。 今回はこれ。 7人で食事をしたが、ほぼ全員に好評だったこの料理は「鴨の舌」。 酒のつまみに最適な、硬いサキイカのような感じ(味は違うけど) これもおいしかった。 饅頭に豚肉をはさんで食べるもの。 味は甘口で、肉の脂身がおいしい。 更に「臭豆腐」が出た。 曰く「養豚場の匂い」「真夏の屠殺場の匂い」がするこの食べ物。 好んで食べたのは、7人中、僅か2人だけだった。 そして、好んで食べた2人の中の1人が私でした。
2007年09月16日
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昨夜、聞き覚えのない声で、「先生と話がしたいのですが、時間はありますか?」という電話がかかってきた。 彼女は大連外語大学の卒業生で、日本の京都大学に留学することが決まっているという。 そこで、留学する前に、日本人と話をして会話能力を高めたいということだったようだ。 ……というような事情を聞く前に、「いいよ、いつでも」と答えていた。 彼女はこの大学のある新郷市の出身で、私のことは大学の学生から聞いたという。 会ってみると、彼女は他に二人の友達を連れてきていた。 一人はこの大学の中国文学科の学生で、もう一人は違う大学の学生。 どちらも日本語は全然わからない。 これがその三人娘。 当初は私と梁さん(大連外語の学生)と日本語で話すつもりだったが、急遽、中国語でのお話会に変更した。 梁さんには、時々、通訳してもらうだけで、大半は私と、日本語がわからない二人の女の子が中国語で話をした。 実は、中国に住んでいるが、我々が中国語を話す機会は多くない。 下の部屋にも、隣の部屋にも、住んでいるのは日本人。 その部屋を訪れるのは日本語科の学生ばかり。 教室に行けば公用語は日本語である。 だから、中国に1年間、或いは2年間住んでいても、中国語の会話を覚えずに日本に帰っていった先生は多い。 というか、ほとんどは片言の単語だけを覚えただけで日本に帰っていく。 もったいない、ことだと思う。 中国語を覚えれば、中国人の友達がたくさんできる。 中国人の友達ができれば、知らなかった中国を知ることができる。 大事なことは、言葉の覚え方を身をもって知ることで、教わる側の気持ちがわかる。 教え方にも工夫するようになる。 実は今回、北京から新郷に列車で来る時、隣に座った中国人と4時間にわたって話をした。 中国でである。 勿論、彼女の言葉が全部聞き取れたわけではない。 わからないことのほうが多かった。 わからない時は聞き返し、時には文字に書いて、話を続けた。 この大学の対外業務一切を取り仕切る外事弁公室には、なぜか日本語がわかる職員がいない。 彼らはT先生と話す時は英語を使い、私に向かっては中国語で話しかける。 外事弁から電話が掛かって、中国語で話しかけられると、私は嬉しくなる。 全部を聞き取ることは、今の私のレベルでは無理だが、中の単語から類推して大概の意味は把握できるようになった。 わからない時は、聞き返して確認すればいい。 で、今日、会った三人娘は、日本語への興味をかきたてられたようで、私の授業時間割を見て、それを自分の手帳に書き写していた。 日本語が堪能な彼女は、私の「会話」(3年生)の授業に。 日本語がわからない学生は、「発音」(1年生)の授業に。 それぞれ、「聞きに行きます」と言っていた。 会話って、こんなふうに、昨日まで知らなかった人と、今日は友達になることができる魔法のようなものだと思う。 この魔法を、学生たちにも教えたいと思うのである。
2007年09月14日
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授業が始まって4日目。 今日から新入生が集まってきた。 下の写真は学部ごとに設置された案内所の様子。 このアーチから300メートルぐらいは人の海。 駅から臨時バスが何台も出て、ピストン輸送をしている。 去年までは1学年が6,000人だったが、今年は募集人員が増えたので、7,000人ぐらいか。 それが今日と明日の両日、一挙にここに参集してくる。 これからの4年間を学内の寮で過ごすから、荷物もたくさん。 たいていの場合、こんな風に学生の両親が同伴している。 この大学は農村出身者が多く、学生たちの大半は決して富裕な家庭育ちではない。 子供を大学に入れるために、相当な苦労をしているという話も、学生たちからよく聞く。 その分、自分が勉強して、いい仕事に就き、両親に恩返しをしたいという学生たちが多い。 自分が一家を支えるのだという気概に溢れている。 勉強へのモチベーションが高いのだ。 我々の仕事はそういう学生たちに教えること。 そういう学生を相手にしているのだということを、もう一度肝に銘じなければならない。 新入生たちは明後日、入学式をし、それが済むと約2週間の軍事教練に入る。 軍事教練が終わって、やっと1年生の授業が始まる。 写真は、新入生のための出店。 4年間の寮生活に必要な品物を売り出している。 ポットは、学校の中の給水所で水を汲むためのもの。 水道水を飲むことができないから必需品になる。 或いはこんなものも。 軍事教練用の迷彩服。
2007年09月13日
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私たち外国人教師の宿舎は学内の外事弁公室(対外国業務を行う事務所)の庭の中にある。 かつてロシア人が建てたという建物を区切って、それぞれの住居としている。 だから部屋の作りは洋風で、簡単に言えば、異人館に住んでいるようなもの。 そして、この建物のすぐ脇を学内の道路が通っている。 授業が始まってからというもの、窓越しに学生たちの賑やかな声が聞こえてくるようになった。 学生たちが教室に向かったり、授業を終えて寮に帰る様子は、こんな感じ。 これが朝の7時頃から始まり、終日続く。 学内に学生だけで24,000人以上住んでいるんだから、そりゃ圧巻。 特に12時頃は、学生たちが一斉に教室から出てくるので、ラッシュ並み。 静かになるのは、午後1時から3時までの昼寝の時間だけ。 さて、部屋でベッドに横になって本を読んでいると、外から、学生の声とは違う、異国語が聞こえてきた。 見ると、ドイツからの留学生が太極拳の練習をしていた。 太極拳って、簡単そうに見えて、実は難しいらしく、留学生たちは四苦八苦していた。 この大学では、体育の授業で太極拳を習うようで、学生たちは一通りはできるようだ。 私も滞在中に、何か中国的なものを身につけたいと思っている。
2007年09月12日
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ネットの調子が日によって良かったり、悪かったり。 今日は朝はつながらなかったのに、午後からつながった。 さて、昨日は中国では「教師節」。 「教師節」が制定されてから23年だそうで、この日は、学生たちが教師に感謝をする日だという。 先週の土曜日には、地元テレビ局の取材を受け、それが昨日、地元の放送局で放送された。 一生懸命に話しているのが、去年からの同僚であるT先生。 その隣の男性は院生3年生の楊くん(通訳に来てくれた)。 この番組は地元のニュースの中の1コーナーで、賞味5分くらいの内容。 夕方6時半から何度か繰り返し放送された。 テレビのアナウンサーが私の名前を呼んだり、画面にアップになった自分の顔を見る、或いは自分が喋っている声を、テレビを通して見たり聞いたりするのは、なんか変な感じ。 「えっ」こんな風に映ってるの? と、画面にモザイクを入れたくなったものだ。 私がこの番組を見たのは夜10時過ぎのこと。 それまでは学生と一緒に食事をしていた。 「教師節」ということで、学生が食事に誘ってくれたのだ。 というわけで、急に新しく赴任されたO先生も誘い、教師節とO先生の歓迎会を兼ねた食事会となった。 O先生は河南省と友好提携をしている三重県からの派遣で赴任した。 40歳の男性教師で、3年生の「総合日本語」を担当している。 中国語はまるで話せない。 その食事会のメニューがこれ。 右がチンジャオロースで、左は回鍋肉。 日本で食べた中華料理と本場の味を比べたいというO先生のリクエストで注文したもの。 食べた店は破街の中で、重慶の家庭料理を売り物にしている店。 「チンジャオロース」はピーマンより肉が多い。 「回鍋肉」の肉は豚バラの薄切りみたいだけど、脂身が少なく、しっかりした肉だった。 日本で食べる中華料理とは見た目も味も違うが、本当においしかった。 次いで出てきたのが、麻婆豆腐。 これも熱々でハフハフだった。 このほかに「酸辣白菜」、そしてビールが2本、ライスが4人分。 これ全部で、35元(500円)くらい。 勿論、学生のおごり。 (いくら、こっちが払うといっても、聞かないのです) こんな風に、2年目の生活は始まったのでした。
2007年09月11日
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インターネットの調子が悪くて、ずっとつながらなかった。 でも、不平を言ってもしょうがない。 今日はやっと通じたけど、これがいつまで続くかわからない。 でも、これが中国。 先日の日記で書き忘れたが、北京に到着して天安門に行った時のこと。 記念写真を撮っていると、突然、どこからか「○○先生!」という声。 大都会北京の、しかも観光名所の天安門の前で、名前を呼ばれるなんて、びっくり! 見れば、私の勤めていた大学の4年生(卒業生)が微笑みかけているではないか。 私はその学生とは面識がなく、従って名前も知らなかったのだが、彼女は私のことを知っていて、偶然の再会に喜んでいた。 聞けば、天津大学の院生試験に合格し、両親と一緒に天津に行く前に北京観光をしているとのこと。 私は彼女を知らなかったが、学生の側では私を知っている者が多いようで、学校の中を歩いていても、1年生や2年生など、私が教えたことがない学生たちからよく声をかけられる。 さて、明日、月曜日は中国では「教師節」。 学生が教師を敬う日だそうだ。 というわけで、地元の新郷テレビ局が、市内のいろいな学校に赴いて、教師にインタビューするという番組の収録が、この大学でも行われた。 収録に呼ばれたのが、アメリカ人のボブ夫妻、そして日本人の田中先生と私。 質問内容は「中国の印象」「中国と日本の大学生の違い」「教師節の感想」など。 左に写っている男の人は外字弁公室主任の李さん。 本当に気のいい人で、頼んだことは確実にやってくれる。 会えばいつも「○○老師!」と大きな声で挨拶をしてくれるし、この人がいなければ、私は今年、ここにはいなかったかもしれない。 アメリカ人のボブは20年前にこの大学に赴任したことがあるそうで、聞けば、彼は英語は勿論、中国語も日本語も、ベトナム語も駆使するという。 インタビュアーの質問にもきれいな中国語で答えていた。 インタビューに答えているのアメリカ人のボブ。 奥さんも美術教師として一緒に赴任している。 奥さんは中国人で、中国語と英語はぺらぺら。 この後、私と田中先生も、こんな風に個別インタビューを受けた。 私もボブに負けず、中国語で応対しようと思ったが、諸事情により日本語で答えた。 去年は同僚のスチュワートが地元のテレビ局のCMに出演したが、これもいい経験である。 この様子は「教師節」の9月10日、新郷テレビで繰り返し放送されるそうである。 さて、明日は月曜日。 8時から授業がある。 まあ、気負わずに、楽しい授業をしてきます。
2007年09月09日
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帰ってきました。 この日記は、つい2か月前まで過ごした河南師範大学の、勝手知ったる宿舎で書いています。 思い起こせば1年前、北京から列車に乗ること6時間、新郷駅に着いたのは夜の9時半。 列車の窓から見える景色は、次第に暗くなり、たまに遠くにポツンと明かりが見えるだけ。 列車を降りる時は「今ならまだ引き返せる」という後ろ向きのものでした。 駅に着いて、タクシーに乗せられ、見慣れない街を大学に向かう時の気持ちは、引き返すきっかけを失い、例えて言えば、 刑期1年の判決を受けて、刑務所に向かう囚人 のような感じでした。 実際は刑務所どころか、感激と感謝、達成感に満ちたパラダイスだったのですが。 で、今年は着いたのは夕方の5時。 空はまだ明るく、見慣れた景色に、懐かしささえ覚えたものです。 去年は誰も私を知らなかったのに、今年は校内を散歩していたら、去年教えた3年生が私を見つけて「先~生~」と大声をあげて駆け寄り、抱きしめてくれました。 男の学生でしたが、私を知っている誰かがいる、ということも去年とは大きく違います。 たかが1年、されど1年ですね。 去年は4人いた日本人教師は、今年はまだ3人。 10月末にもうお一人が着任されて、4人になります。 私以外は、去年も一緒に頑張った田中先生、そして初めての着任になる大井先生という構成。 大井先生は河南省と友好交流をしている三重県からの派遣で、40歳の男性です。 田中先生と私以外にも、去年、英語を教えていたスチュワートと韓国語を教えていた劉先生(若い女性です)が、今年度も引き続き、この大学で教えます。 新メンバーは、アメリカ人のジョン(スキンヘッドで、あごひげを長く伸ばし、耳にピアスをしています)、同じく年配のアメリカ人のボブ夫婦(中国語、日本語をなんとなく駆使しています)、ウクライナ人でピアノを教える若い夫婦、というメンバー。 果たしてどんな経験が待ち受けているのか、我ながら興味津津で、待ちたいと思っています。 写真は到着した日の夕食。 歓迎メニューかと期待していたのですが、いつも通りの外事弁の食事でした。
2007年09月05日
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今、北京の場末のホテルの一室でこの日記を書いています。 明日の昼、列車に乗って新郷へ。 去年は6時間ぐらいかかったのが、今年は4時間半で着くそうです。 新幹線(のような)列車が通るようになったせいです。 これもオリンピックのおかげ? 今朝早い飛行機に乗ったので、昨日は大阪で一泊しました。 1日、時間があったので、池田市の「インスタントラーメン記念館」を訪れました。 折りしも日曜日ということで家族連れが多く、とても賑わっていました。 単にラーメンの歴史を具に見るだけでなく、それを作り出すまでの努力の大切さや、ひらめき、発想の転換など、子供たちの人生の糧になる、いい施設だと思いました。 チキンラーメンって、本当においしいですもんね。 去年、院生を相手に「新聞報刊」の授業で、安藤百福さんを取り上げ、インスタントラーメンをネタに2時間、授業をしたことがあります。 やっぱり、インスタントラーメンとカップ麺は日本のものがおいしいと思います。 夜は、最後の(?)日本料理というか、1年間、日本を離れるので、思いっきり日本料理を食べることにしました。 くいだおれの街、大阪だし。 で、いろいろ考えた(つーか、すぐに決まったけど)結果、食べることにしたのが、 王将の餃子! 炒飯、鶏唐揚げ、餃子2人前というメニュー。 どこが、日本料理じゃ……と突っ込まないでください。 すべて、日本と中国とでは、「似て非なる」味なんですから。 久々にズシンと食べました。 これで心置きなく中国に行けます。 ところで、我が家では2か月間、私がずっと野菜中心の食事ばかりを作ったせい(かどうか)で、父親の血中コレステロールが350から270へと激減しました。 では、また明日。 今度は河南省から、です。
2007年09月03日
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