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我々、外国人教師は日本人だけでなく、全員が外事弁公室の敷地の中に住んでいる。 外事弁公室というのは、外国関係の一切を取り仕切る部署のことで、我々、外国人教師が住んでいるのは、その外事弁の敷地の中のこの建物。 かつてロシア人が住んでいた邸宅を、4つに区切り、1階に2人、2階に2人が居住できるように改装してある。 この外事弁の敷地内を、最近、私のクラスの3年生たちが駆け回っている。 実は、「作文」の授業で、1年間の総決算として日本語の新聞作りを提案したのだ。 その「新聞」は、日本人にこの大学を紹介するというもの。 私は書き方やレイアウトのやり方といった技術面を教えるだけで(私、中国に来る前、新聞記者だったので)、新聞のタイトルからチーム分け、レイアウト、記事の内容、担当者の割当てなど、後はすべて学生に任せた。 私がやりなさい、と言ったからやる、というならやめよう。 あなた達がやりたいなら、やろう。 と、私は言った。 学生たちは、とても乗り気になった。 私の要求は1つだけ。 メインの記事は「外国人教師へのインタビュー」であること。 日本語で日本人教師にインタビューをして、日本語の記事にまとめるというものだ。 日本人教師は4人(私以外は3人)で新聞を作るチームは6チームだから、私以外の3人の先生を2チームがインタビューをする……。 ……というつもりだった。 だが、「作文」の授業の前夜、天啓が閃いた。 インタビューって、別に日本人教師に限定しなくてもいいんじゃないか、と。 アメリカ人のビルにだって、スコットランド人のスチュワートにだって、或いはこの大学の日本語教授にだって、インタビューしていいんじゃないか。 要は、話す楽しさを感じること。話をして新しい出会いを作ること。恐れないこと。これまでしたことがないことを経験すること。 それが何より大事なのだ。 私は日本語の教師だが、日本語が上手か下手か、なんて、そんなたいした問題じゃない、と思っている。 重要なのは、話す楽しさを知ることだ。 新聞作りは「作文」の授業の一環だが、同時に「会話」の授業の一環でもある。 特に、私は後期の授業でクロスオーバーというか、ボーダレスを標榜しているので、尚更だ。 つまり、「作文」と「会話」、そして「英語」と「日本語」のクロスオーバーである。 この考えを、授業中、学生たちに話した。「ビル先生や、スチュワート先生に、英語でインタビューしてみないか?」 学生たちは笑いながら歓声をあげ、口では「ええっ」「難しいなあ」「大丈夫かなあ」「日本語を勉強してから英語をわすれちゃった」などと言いながらもすごく乗り気になってくれた。 そして、連休前の今週、学生たちは、自分たちでアポを取って、自分らで質問事項を考え、カメラやテープレコーダーを用意して、外国人教師の部屋を訪ねている。 どういう質問をするのか、どういうふうにして話を切り出すのか、など、私はすべて学生任せで、一切関知していない。 だから、私は参観日に学校に行けない保護者のような気分で、学生たちの後姿を見ていた。 しかし、そんな心配は不要だった。 T先生(日本人)を尋ねたチームは、30分の予定を1時間もオーバーするほど話し込んでいたし、スチュワート先生にインタビューしたチームも1時間近く話していた。 そして、次の日、インタビューした学生と相手になった先生が、校内で互いに声を掛け合って話をするようになっていた。 こういう光景が、嬉しい。 誰にでも、誰とでも、言葉を通じて仲良くなる。 「おとなしい」「会話が下手」と言われていた3年生たちの、以前とは違う、そういう姿を見るのが、本当に嬉しい。蛇足: 「作文」と「会話」のクロスオーバーは、私が後期から実践していることだ。 だが、クロスオーバー授業は、他にもどんどん発展させたらいいのに、と思う。 例えば、国語の教師が物理の授業をやったり、その逆もあったり、など。 原子力発電所には「もんじゅ」とか「ふげん」という名前がつけられているが、「文殊」と「普賢」とは何か、ということを物理の時間に国語の教師から教われば、また違う興味が湧くかもしれない。 学生の興味を引き出すこと。これはとても重要なことだと思う。 自分の経験に照らし合わせても、そう思う。 「枠」を取り払えば、いろんな可能性が出てくるし、それは学生のためになる。 逆にいえば、学生のために、『枠』は取り払うべきだ。 ……私は、なんとなくだけど、そう思っている。 では、今夜の夜行で、山西省に1人旅に出かけます。所要時間10時間。 知り合いが誰もいないので、全部、自分の中国語で解決しなければなりません。 無事なら、帰ってきます(笑)
2007年04月29日
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私はあまり外来語を使うほうではない。 それでも、日本人だから、学生たちに対して外来語を使う機会は多い。 外来語を覚えなければ、日本人の話を理解しにくいからだ。 そして、私が外来語を使うと、多くの場合、学生たちは怪訝な顔をする。 彼らのために、私が英語(らしき)発音で言い直すと、学生たちはやっと理解する。 理解するが、必ず、笑いながら、私の英語を訂正する。 私、これでも大学生では英文学専攻だったんですけど……。 院生は、日本語に関しては相当なレベルにあり、分野によっては日本人顔負けの詳しい知識を持っている。 その彼らが苦手にしているのが、外来語(というか、カタカナ言葉)である。 彼らは漢字民族だから、日本語の小説なども、まず見て理解しようとする。 単語や文法の知識が豊富だから、半分以上は、見るだけで、意味を把握できる。 ひらがなが多い場合や、中国の漢字と違う文字の場合は、文章を追いながら、意味を理解する。 しかし、カタカナ語の場合は、目で文字を追うだけでは理解できないのだという。 では、どうやって、その言葉の意味を理解するのか。 カタカナ語は、声に出して読んで、初めて意味がわかるのだそうだ。 吉本ばななの『キッチン』の中に、「カムバック」という単語が出てきた。 これが院生たちには、即座には理解できなかった。 「カムバック」と声に出した時、「come back」という英語が浮かび、両者が結びついて初めて、意味を把握できたのだそうだ。 中でも難しいのが「ら行」のカタカナ語のようだ。 日本人は「L」と「R」を区別せず、どちらも「ら行」で表すから、英語に堪能であればあるほど、カタカナ語の意味を類推するのは困難になる。 彼らが難儀したのが「エイプリル・フール」。 Aprilが「エイプリル」と表示されることが、本当に意外だったようだ。 学生たちが「April fool」を発音すると、私の耳には、何度聞いても、どう聞いても「アプゥ・フー」に聞こえる。 日本人はそうやって、カタカナ文字を使いながら、英語を初めとする外国語を取り入れてきた。 カタカナ表示の外来語は功罪が相半ばしているのだが、便利といえば便利である。 中国語は漢字だけしかないので、表記はすべて(時々アルファベットもあるが)漢字である。 漢字の地の文章に、外国人の名詞が混じった時に、読解が非常に困難になる。 例えば、アルキメデスは「愛基米得」だし、アラスカのアンカレッジは「安科雷季」である。 では、ここで問題です。 次の漢字はすべて個人名ですが、いったい誰のことを表しているでしょう?1、貞徳2、克林頓3、尼克松4、麻龍 白蘭度5、伽利略
2007年04月27日
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鄭州3部作の3回目。 今日は珍しい食べ物について。 研修生を受け入れている日本企業は、中国の派遣会社にとってみればお得意様である。 だから心をこめたおもてなしで歓迎の意を表す。 手っ取り早いのは、食事。 今回の日本人社長一行を招いて、歓迎の食事会をしたのは、この会場。 格式のあるホテルの、いかにも中国らしいたたずまいの部屋。 中国では丸いテーブルで食事をすることが多いが、その際に座る位置も、身分や立場などでちゃんと決まっている。 今回のメインの座には、河南省労働庁の庁長が座り、その対面に派遣会社の社長が座った。 出てきた料理は、例えばこんなもの。 お馴染みの『北京ダック』。 その後は次から次へと、おいしそうな料理がテーブルに並べられる。 写真に写っている女性は、日本で私が教えたことがある元研修生。 会話に抜群の才能を示す彼女は、帰国後、この派遣会社で事務の仕事をしている。 気配りができ、仕事が速く、決して出しゃばらない性格なので、お客さんからの評判がとても良いという。 彼女が日本にいた時、私は鯉のぼりをバックにして、彼女の写真を撮った。 それを引き伸ばしたものを彼女にプレゼントしたのが3年前。 彼女は今でも、その写真をベッド脇に飾っているという。 で、食事の合間には、こんなサービスが。 バイオリンで『北国の春』と『四季の歌』の演奏。 こんな洒落たことも。 「友情は永遠に変わりません」 研修生受入事業は今年で7年目になるが、決して順風満帆に来たわけではない。 特にスタートからの3年間は大変で(当時、私は記者の傍ら、協同組合の事務局長もやっていた)、中国側と日本側との意見の食い違いがあったり、研修生たちの不満から反乱があったりしたものだ。 と、まあ、高級な料理と、46度の白酒を堪能した食事会でありました。 しかし、今回、是非とも紹介したい食べ物は、実はこの日の昼食に出てきた。 昼食は、これもお馴染みになった『火鍋』。 私はこの前日も、同じ火鍋をご馳走になったが、飽きないから不思議。 珍しかったのは、これ。『牛肉のさしみ』 日本の『牛刺し』とは明らかに違うが、こちらもわさび醤油(のようなもの)をつけて食べる。 肉が舌の上でとろける感じは同じで、とてもおいしいが、ただ、タレの中にあまりにもわさびを入れすぎなので、中国人の総経理は鼻を押さえて涙を流していました。 ……で、この後に出てきたのが、私が生まれて初めて食べた食材。 それが、これ。 実はこれ、回りが白くて、中が黒いという見たままのもの。 これを火鍋の中でぐつぐつ煮ると、スープが染みて、こんな色になる。 正解は皆さんの予想通り眼球(羊の眼球)。 特に食べたいわけではなかったのだが、これを食べるのも経験と思って食べた。 食べたらおいしかった。 味は火鍋の辛いスープが染みていたので、もともとの味はわからないが、こりこりとした歯ごたえは、アワビのような感じ。 結局、12個くらい食べた。 「衣食住」は生活に欠かせないものというだけでなく、その国の文化を形作る最も基本的なものだと、私は思っている。 中でも「食」は最も興味を感じやすく、逆に最も親しみにくいものだと思う。 しかし、異国で生活する以上、その国に馴染むことが重要で、いつまでも母国を引きずっているのは、どうかと思う。 「日本なら~なのに、どうしてこの国は……」「ダメねえ、この国は~」「だから中国人は~」という言い方を、私の周囲でもよく聞くが、そういうのって、学生に対する悪口と一緒で、聞いていて楽しいことではない。 私は研修生たちには、日本で楽しい生活をしたいなら、日本の生活に慣れることが大切だ、と教えてきた。 いつまでも、中国を引きずっていては、日本の良いところに目がいかず、いつも不満を感じていなくてはならない。 それは、結局、自分の世界を狭くするだけで、日本人からも嫌われ、自分を不幸にしてしまう。 我々、中国で生活をしている外国人も、同じことだ。 だから、たかが羊の眼、されど羊の眼球なのである! まあ、そんな堅苦しいことは抜きにして、余計な先入観を持たずに、是非味わってみてください。
2007年04月25日
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昨日の続き。 昨日は、研修生たちがどういう気持ちで、日本に行くことを選択したのかについて書いた。 研修生たちにとっては、日本に行くことが自分の人生を変え、家族の今の境遇から抜け出す大きなチャンスなのである。 そして、面接に合格した後に待っているのが、日本語の習得と軍事訓練である。 各派遣機関によって方法は様々だろうが、私が懇意にしている会社では、日本に行く前の事前研修はだいたい3か月から4か月間にわたって行なわれる。 起床は朝5時半。 6時から1時間のランニングをこなし、掃除などをして、朝食。 8時からの授業を受ける。 授業は12時まで。 1時間の昼食休憩を挟んで午後1時から再開。 午後もずっと授業を続け、それが夜まで続く。 授業が終われば、各自が自習をしたり、日本人教師と会話の練習をしたりする。 寝るのは11時頃。 これが毎日、続く。 写真は、先日、私が研修センターを訪ねて授業したときの様子で、これは夜の9時。 そして、こちらは翌日の朝9時の風景。 朝から夜遅くまで授業を(それも、初めて接する日本語の授業)受けるので、研修生たちの精神的な疲労やストレスは、相当なものだと想像できる。 研修生たちも大変だが、教育担当者も大変である。 研修生たちの集中力を切らさないように、手を変え品を変え、授業のメニューを作らなければならない。 日本語だけではない。 礼儀やしつけ、日本の文化や習慣、マナー、日本人的思考、仕事の説明、気候、地理など、研修生たちが日本に行ってから困らないように、充分に教えなければならない。 だから研修生も育つが、何より、日本語教師が育つ。 私が日本で教えた研修生たちの中には、帰国後、こういった研修生に日本語を教えている者が少なくない。 彼女らは、日本語は無論上手だが、自分も研修生として同じような事前研修を受け、身をもって日本の生活を体験しているだけに、研修生たちが知りたいことを的確に教えることができる。 上の写真で日本地図の傍らに立っているのが、かつての私の教え子。 今はこの研修センターで研修生たちに日本語を教えている。 実は、この事前研修では、日本語の勉強よりも、軍事教練の方がきついという。 本物の軍人を招いて、容赦のない体力作りと、徹底した礼儀指導が行なわれるそうだ。 おかげでみんな真っ黒に日焼けし、声も大きくなる。 私は実際に見たことがないので、これぐらいしか書けないが、本当に厳しいものなのだそうだ。 研修センターから黄河まで、往復40キロ以上の道のりを走ったり歩いたりしながら、踏破することもあるそうだ。 そういう訓練を終えた研修生たちが、日本にやってくるのである。 訓練の成果か、或いは個人の性格なのかわからないが、日本でこんな光景を見た。 日本に来た研修生たちは、公的な宿泊施設で約1か月にわたる入社前研修を行なう。 その入社前研修でも、研修生たちは毎朝、朝6時から1時間、ランニングを欠かさない。 冬でも、雨や雪が降らない限り、必ず走る。 白い息を吐きながら、走る。 ある日、足を怪我した研修生が、ランニングを休んだ。 彼女は、友達が寒い中を走っている間、一人、教室に入っていった。 そして、掃除道具を手に取り、部屋の中をきれいに掃除して、友達が帰ってくるのを待った。 掃除は全員で分担を決めてやるのだが、彼女は走れないことに対する無念さと、友達に対するお詫びの気持ちをそうやって表したのだ。 そういう光景を見た時、なんだかすごく感動したのを覚えている。 彼女は日本で日本語能力試験1級に合格し、3年間の満期を終了して昨年帰国した。 そして、以前から付き合っていた彼氏と、結婚した。
2007年04月24日
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先週の土曜日から鄭州(ていしゅう)に行っていた。 鄭州は河南省の省都で、人口は600万人。 東西と南北の交通が交わるところに位置し、郊外には黄河が悠々と流れている。 私が住んでいる新郷からは列車で1時間ほどの距離にある。 鄭州に行ったのは、日本から旧知の人たちが来るから。 外国人研修生(日本の会社や工場で仕事をする人たち)を受け入れている会社の社長たちが、研修生を面接するために中国にやってくるのだ。 私は新聞記者をする傍ら、研修生を受け入れる協同組合を設立し、研修生たちの入国書類を作るなど組合の事務関係一切をしたり、来日した研修生たちに日本語を教えたり、世話をしたりしていた。 鄭州には、日本に研修生を派遣する会社がある。 私は入管関係や組合の事務的な仕事は既に手を離しているが、鄭州の会社から派遣された研修生たちに日本語を教える仕事はこれまで6年間やってきた。 そして、多くの研修生たちが私を慕ってくれている。 そんな関係から、この会社の人たちは、訪れるたびにいつも私を歓迎してくれる。 研修生たちはまず、派遣会社の募集に応募するところから、日本に行く途が開ける。 健康診断や適正試験を受け、ある程度絞られた候補生たちは、しつけや日本語、生活、体力などの簡単な訓練を受けた後で、日本人の社長たちによる面接を受ける。 覚えたばかりの日本語でたどたどしく「失礼します」「私は×××です。初めまして。よろしくお願いします」などと自己紹介をする。 自分の名前も、呼びなれない日本語読みでするから、うまく言えないこともある。 みんながちがちに緊張している。 礼儀はきびしくしつけられているから、背筋はまっすぐ。 両手も重ねて腹の上に置いている。 研修生たちが日本に行って仕事をする主な理由は、「お金を稼ぐ」ことにある。 「弟を大学に行かせるため」「自分の子供にいい教育を受けさせるため」「一家を養うため」など、貧困から抜け出すための手段が、日本へ行って仕事をすることなのである。 だから、必死なのだ。 家族と離れ、既婚者の場合はご主人とも離れ、友達と会えなくなり、幼い子供がいる場合は親に預けて、研修生たちは「異国」である日本にやってくる。 多くは農村の貧しい家の出身だから、都会に出たこともなく、河南省以外に出たことも、日本人に会ったこともないという者が多い。 以前、私が教えた研修生は、鄭州に面接を受けに来る時に、初めて列車に乗ったと言っていた。 そういう者が、海を渡って日本に行く覚悟をするのだから、相当の覚悟なのだろうと思う。 面接で選ばれた者たちは、異国である日本での生活に不安を感じながらも、今の生活から抜け出るためのキップを手に入れたことになる。 だから、こういうふうに、ホッとして笑顔ももれる。 これは面接で受入が決定した研修生候補生と社長との対面の場面。 しかし、この後、日本に行ってから困らないように、日本語だけでなく、体力、しつけなど、厳しい訓練を3か月から4か月間にわたって受けることになり、身も心も鍛えられていくのである。 日本に行く前の事前研修には、私も中国に来てから何度か、参加している。 それは、また次回に。
2007年04月23日
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ここは中国なのだから当たり前なのだが、日本人の日本語に接する機会は少ない。 まして、ここのような田舎では、日本人そのものの数が非常に少ないから尚更である。 テレビでたまに日本の映画を流すことはあるが、それも本当に少ない。 しかも、中国語の吹き替えになっていることが多い。 先日は、「黄昏清兵衛」を放送していたが、日本の役者たちは見事な中国語を話していた。 この前、「会話」の授業でアフレコをやらせたいと思って、日本語科の主任教授の部屋から、日本語のDVDを借りてきた。 日本語科の主任の部屋にはたくさんのDVDがある。「白線流し」「魔女の条件」「ドラゴン桜」「1リットルの涙」など……。 で、私が借りたのは、これ。 「海猿」 まあ、内容がどうの、アフレコの授業がどうのではなく、加藤あいが出ているというだけの理由で借りたのだけど……。 でも、これ、明らかに海賊版。 だって、途中で、画面の上に「ナイターの結果 巨人4-3阪神」なんて字幕が出るんだから。 或いは、東北沖で地震があったが、津波の心配はない、などというニュース速報も入っている。 つまりテレビからのコピー。 まあ、こんなことを気にしていては中国で生活できないから、気にしないんだけど。 えっ、と思ったのは、これ。 イギリス製! しかも「イギリス製」って、日本語で書いてある! これが「中国製」なら驚かないし、 「英国製」と書いてあっても驚かないんだけど。 だって、パッケージの作品紹介はすべて中国語で書いてあるし、台詞は全て日本語(テレビのコピーだから当たり前だが)でも、字幕は全部、中国語なんだから。 そういえば、パッケージの上にはしっかり「ぶっちゃけトーク」と日本語で書いてあるのに、「加藤あい」のところは「加藤愛」という中国式になっている。 まあ、どこ製でも、海賊版でも、加藤あいさえ見ることができればいいんだけど。
2007年04月20日
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昨日、院生の「作文」で、一人ディベートをやった。 まず、「教科書で学ぶ知識は何よりも大切である」というテーマで作文を書き、その後、すぐに「教科書で学ぶ知識よりも、実生活での知識、経験の方が必要だ」という反論を書かせた。 作文を書かせながら、3年生の「会話」でディベートをしてもいい頃かな、と考えていた。 昨年の9月、初めて3年生たちに会った時から、授業でディベートをやりたいなと思っていた。 だが、それを今まで、ずっと躊躇っていた。 半年前の3年生は、会話が上手だ下手だという前に、会話に少し臆病だった。 何を話せばいいか、話して間違えたらどうしようか、そしてうまく話せない、話すことが恥ずかしい……そんな気持ちを抱えていた。 そんな状態じゃ、ディベートをしても、議論が白熱することなど期待できない。 発話が少ないければ、日本語が上手くなることもない。 だから、躊躇っていた。 あれから半年、3年生たちは、大きく成長した。 発音のたどたどしさは残っているものの、とても積極的になった。 話したいという気持ちを素直に行動に表せるようになった。 それは、授業だけではなく、教室の外でも見受けられるようになった。 ある学生は、バスの中で日本人の先生の姿を見て、それまでは面識がなかったにもかかわらず、自分からその先生に声をかけた。 彼女は、去年、教室の中で話をするのが恥ずかしいと言って、授業中の発話が全然なかった。 今では、以前とは見違えるように、積極的に発言するようになった。 ……で、今日のディベート。 お題は「海外に留学をするなら『ホーム・ステイ』と『アパートで一人暮らし』のどちらがいいか」というもの。 そして、教室を『ホーム・ステイ派』と『アパート派』の2つに分けて、互いのいいところを考えつくだけ、考えさせた。 当初は、10分持つかな、と思っていたこのディベートは、互いに主張と反論の応酬となった。 以下は名言集。 「『ホーム・ステイ』は日本の家族と一緒だから、中国にいる両親も安心だし、自分も家族と一緒にいるような気がするので、寂しさを感じることもない」 これに対する反論は、「あなたは今、何歳ですか? もう大人でしょ。いつまでも両親に心配してもらうようではダメです。それに寂しいことがあっても、それを我慢してこそ、人間は成長するのです」「『アパート』は何でも自分で考え、自分でやらなければならない。『ホーム・ステイ』ではいつも家族の人に頼ってしまうので、独立心を養うことができない」 これに対する反論、「『ホーム・ステイ』でも、自分で考え、自分でやることはできる。それに『アパート』なら、日本でなくても中国の中でアパートに住むことはできる。せっかく日本に行くのだから、日本人と数多く接触して、いろいろなことを吸収できる『ホーム・ステイ』の方がいい」「『ホーム・ステイ』では、日本料理を食べるチャンスが多いし、食事だけでなく、文化や習慣も直接体験できる。それに、日本料理を食べるだけでなく、自分で中華料理を作って、日本人の家族にご馳走することもできる。このことは日中友好につながるではないか」 これに対する反論、「『アパート』でも友達を呼んで、中華料理をご馳走することはできるし、日本料理を作ってもらうこともできる。だから大丈夫だ」 まだまだ、いろいろな意見が次から次へと出てきた。 なるほどな、と頷いたり、へええ、と感心したりだった。 勿論、上記の言葉を正確に話したわけではない。 つっかえながら、或いは、うまく言えずに、悔しそうにしたりしながら、それでも、話したいという気持ちを抑えきれないようで、挙手は引きも切らなかった。 今日、たくさん発言した学生の中にWという女子学生がいる。 彼女は去年の9月、授業でロール・プレイをした時、後でこっそり私のところに来てこう言った。「先生、私はたくさん話をしたいです。しかし、上手ではない。だから、教室の前に出て話をするのはとても恥ずかしい」 半年余り前、そう言っていた彼女は、今日、『アパート派』の立場で何度も発言をしていた。 今日のディベート。 10分持つかどうか心配していたのだが、結局、40分たってもまだ終わらず、用意していた別のメニュー(ディベート以外)をやる時間がなくなった。 学生たちは、「また来週もしたい」と口々に言っていた。 3年生たち、すげえ!
2007年04月19日
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「作文」の授業では、先週まで4回にわたって、中国語文の日本語への翻訳を続けていた。 今週からは、日本語での作文に戻した。 翻訳は、日本語の語彙を増やすことと、より日本語らしい日本語を教えるための方策として、やったが、それも4回になると、学生もやや飽き気味になる。 というか、私が飽きた。 私は、自分の授業を「びっくり箱」のようなものにしたいと思っている。 毎回、学生たちに「今日はどんな授業だろう」「来週はどんな授業があるんだろう」と期待してもらいたいし、授業はいつも新鮮な感じを持って臨んでもらいたい、と思っている。 新鮮な気持ちで授業を受ければ、集中力がつき、印象も強くなる。 そして、能力が向上してくれれば、それに超したことはない。 3年生は来週からは、日本語での新聞作り。 メインは「日本人教師インタビュー」で、日本語で質問し、それを記事にまとめる。 それ以外にコラムや評論、人物紹介、名所紹介など、グループごとに自由な発想で新聞を作り、個々の個性を発揮してほしいと期待している。 実は、私、日本では教師じゃなくて、新聞記者だったのです。 で、今日は院生の「作文」。 こちらは新聞作りではないが、日本語に堪能な院生用にと、少しひねった。 素材は、金美麗さんが日本の大学生について書いたエッセイ。 内容は、日本の学生たちは、ちゃんと学校に行って勉強さえしていれば、親も教師も何も文句を言わない。そのため、勉強だけをして、生活の実感がなくなっている。社会に出てから必要なのは、教科書の知識ではなく、実生活での知識と体験である。社会では、自分で考え、自分で解決をしなければならないことが多いが、今の学生にはこの「実生活での知識と体験」が欠けている。 という内容。 これを踏まえて、次のテーマで作文を書かせた。 「実生活での知識と経験」より、「教科書の知識」の方が重要だという論旨を展開させなさい。 このテーマで書かせた後、すぐに次のテーマを出した。 「教科書の知識」の方が重要だという自分の意見に対する反論を書きなさい。 つまり、一人ディベートである。 まず、自分の意見を述べ、その意見について、考えが足りない点、間違っている点、指摘すべき点などを、自分で見つけて反論するということだ。 1回の授業で、作文を2つ書くことは、院生にとっても初めてのこと。 しかも、自分の意見に反論するというのも、初めてのこと。 最初のテーマでの作文は、所要時間がだいたい15~20分くらい。 自分の意見に対する反論は、20~25分を要して書き上げた。 物事を両面から見て、自分の考えを論理的に表すという練習だ。 院生たちも「これはいい問題ですね」と評価してくれた。 さて、来週はどんなテーマにしようか、現在、思案中である。 写真は院生たちが作文を書いているところ。 今日は一人が病気で休んだので、4人だけ。 中国では外国語学部であっても、ゼミのような形態はなく、クラス全員が、1年生から4年生までずっと一緒に授業を受ける。 だから、こういう少人数での授業は院生の授業だけである。
2007年04月18日
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今夜は院生(3年生)の孫さんと一緒に食事。 先週、卒論の添削をしてあげたので、そのお礼にと、彼女がおごってくれたのだ。 卒論のテーマは、漢詩の「辺塞詩」と日本の「防人歌」の比較文化論。 「辺塞詩」とは、国境の警備に従事する人々が歌った漢詩であり、防人歌も九州の警備のために派遣された人々が歌った歌である。 中国と日本のそれぞれの詩と句を対比させながら、歌の比較だけでなく、国民性、地域性、国家感、防衛意識などにまで論及した、全40,000字の大論文だった。 このテーマで書かれた論文は、これまでにほとんどなく、そのため資料集めから、その読破、論文まとめと、彼女にとっての論文作成はまさに未踏の荒野を行くようなものだった。 ……で、今日は彼女のおごりで、大学の近所の(まあ、わりと高級な)「餃子レストラン」で食事をしたのだった。 大学院3年生の彼女は、既に蘇州の大学で教師になることが決まっている。 今は期待と不安とが、半分半分なのだという。 今までに読んだ、日本の本の中で、何が一番印象に残っているか、と尋ねたら、即座に「万葉集」 という答が返ってきた。「自分の気持ちを、照れたり隠したりせずに、素直にありのままに短い句の中で表現しているから」 というのが、その理由らしい。 というわけで、彼女と万葉集談義をした。 といっても、私は万葉集は、それほど詳しくない。 「それほど」どころか、ほとんど知らない。 私が好きなのは、斉明天皇の軍が出動す時に、額田王が読んだ「熟田津の……いざ、漕ぎいでな」 という句だが、これも、今では初めと終わりだけしか覚えていない。 ただ、歴史は子供の頃から好きだったし、特にこのあたりの歴史については、わりと詳しい。 歴史の流れや、皇族の名前や、当時の非常に込み入った人間関係なども、すらすらと説明できる。 天智天皇、天武天皇、持統天皇、額田王、聖武天皇、藤原鎌足……などなど。 里中真智子先生の『天上の虹』を愛読していたからだ。 何年か前は、奈良県に行って、天武・持統天皇陵にお参りをしてきた。 マンガを侮ってはならない。 おかげで、日本の古典について非常に造詣が深い彼女と話ができたのである。 しかし、まさか『天上の虹』で読んだことが、こんな時に役に立つとは。 人生に無駄はないということか。
2007年04月16日
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他の日本人先生方が、先週の半ばから全員、旅行に出かけたので、日本人は私一人。 そのせいかどうか、金曜日からずっと、学生たちが入れ替わり立ち代り、ずっと私の傍にいた。 学生たちとたくさん話をし、お腹がすいたら外に出て食事をし、食べ終わったら散歩をしながら、またたくさん話をした。 金曜日、学生たちと食べたのは、これ。 「米線(ミーシェン)」という、米で作った細い麺。 胃に優しくて、味もあっさりしている。 辛い味が好きな場合は、「麻辣米線」にすれば、舌がヒリヒリする米線を味わえる。 これは大碗で2元(30円)。 どんぶりの中のラップは、食器洗いの時の水を節約するためのもの。 土曜の昼は、定番のワンタン。 小碗で1.5元。 この店にはよく来るので、私の好みを覚えてもらった。 土曜の夕方は、チャイニーズ・ファースト・フード。 「煎餅果子」という食べ物。 小麦粉を溶いた(グルテンの濃い、粘い小麦粉)ものを、丸い鉄板の上に薄く引き、そこにタマゴを割って延ばし、香菜やねぎ、揚げ湯葉などを載せて、唐辛子味噌で味をつけ、畳んで食べるというもの。 単純な食べ物だが、おいしくて癖になる。 店ごとに、味が微妙に違うようで、人気のある店の前は学生たちの行列ができる。 これは1.5元。 日曜の昼は、河南省の名物のこの麺。 「■麺」(■は「火」編に「会」)。 きしめんをもっと広く太くしたような麺が、羊骨スープの中に入っている。 河南省にはこの麺の店が多く、互いに味を競っている。 そして「■麺」以外に、2品を注文した。 右側が「酸辣土豆■」(■は「八」のような字)。 ジャガイモを細く切って、唐辛子と酢で炒めた単純な料理だが、素朴でおいしい。 「酸辣」と名のつく料理に外れはない、というのがこれまでの経験で見つけた法則。 左側は「青菜豆腐」。 その名の通り、青梗菜と豆腐の炒め物。 写真に写っている食べ物全部合わせて20元(300円)。 そして、日曜日の夜は、火鍋。 いつもの火鍋ではなく、肉や野菜の串を火鍋に入れて、それを食べるという形式。 串は、春菊や青梗菜、ジャガイモといった野菜類から、肉団子やレバー、ベーコン、手羽先などの肉類、或いは昆布、エリンギ、椎茸といったものまで40種類ぐらいが棚に並んでいて、その中から、自分で好きなものを選ぶことができる。 スープは赤い唐辛子スープと、白い野菜スープの2種類で、これを「鴛鴦(おしどり)スープ」と呼ぶ。 このスープは無料で、串が1本2角(10角が1元。1角は1.5円)だから、20本食べても60円。 この日は学生2人と私の3人で串が66本、更にビールとタレなど、全部で21元(315円)だった。 これ、あくまでも3人分の値段。 この3日間で、会話の相手をした学生は、学年もまばら、日本語のレベルもまちまち。 その人数、延べ20人近く(2回、相手をした学生もいるので)。 共通点は、日本語が上手になりたいという気持ちを持っていること。 そして、誰もが笑顔で反応してくれること。 いい週末だった。
2007年04月15日
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特に、何の予定もない土曜日。 カメラを持って歩いていると、「××先~生~!」という声。 振り返ると50メートルほど向こうから、学生が手を振りながら駆けてきた。 2年生の学生だった。 校内の公園の木陰で、日本語の教科書を開いて、構文を暗唱していたのだ。 彼女が会話の練習をしたいと言うので、夜7時に私の部屋で会うことを約束した。 桜(八重桜)が満開だったので、記念に写真をパチリ。 最近、校内で目立つのは、合唱の練習と、この風景。 4年生たちが卒業を控えて、使っていた教科書を、後輩たちに売っているのである。 これも「リサイクル」? 4年生たちにとっては、たいした労力も使わずに、手軽な小遣い稼ぎになるだろうし、後輩たちにとってもお金の節約になる。 そういえば、私が大学の時に使っていた教科書はどうしたんだっけ? と記憶を呼び起こしてみるが、まったく思い出せない。 きっと、何の愛着も感じることなく、捨ててしまったのだろう。 私が大学生の時は、1、2年生で一般教養を勉強し、3年生からは専門(私の場合は英語)科目ばかり勉強していたが、中国では3年生でも4年生でも、更に院生になっても、政治や経済の授業を受けなければならない。 更に、外国語学部であっても、ゼミのような少人数のクラスはない。 入学時のクラスのまま、4年生まで同じ授業を受ける。 だから、自分が知りたいことを教えてくれる科目を選ぶことも、専門の先生の授業を受けることも、好きな先生の授業に出ることもできない。 大学から割り当てられた授業を、淡々とこなすだけである。 もし、××ゼミというようなクラス分けがあって、学生が教師を選べるようになれば、学生にとっても教師にとっても、お互いにいいことなのに。 競争って、やっぱり必要だと思う。 厳しいけれど、ね。
2007年04月14日
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最近、大学の中のあちこちで、たくさんのグループが歌を歌っている。 歌を歌うというか、はやい話、合唱である。 朝早くから、夜の10時過ぎまで。 大きな声で、リーダーに合わせて、歌を歌っている。 なんだろうと思ったら、校内合唱コンクールがあるのだそうだ。 先日は、バレーボール大会があった。 学内の寮で寝起きし、朝も夜もなく、勉強に精を出している学生たちの、ほんの息抜き、或いはレジャーといったところだろうか。 コンピューターで映画をダウンロードして、それを見たり、卓球やバスケット・ボールをして汗を流したり、または昼寝をしたり、余暇の過ごし方は、多くはない。 そして、お金もかからない。 しかし、それで充分にストレスを発散できているようにも見える。 日本であれば、合唱コンクールに出るからといって、クラス全員が集まるかといえば、それは疑問だ。 娯楽が少ないことが、決して不幸だったり、不便だったりするわけではない。 中国の(それも田舎の)学生たちを見ていて、そんなことを感じた。
2007年04月13日
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同僚の先生たちと昼ごはんを食べ終わり、部屋に帰るとほぼ同時に、ドアがノックされた。 2年生の学生たちだった。「先生、みんなで遊びましょう」という。 大学の中の中央公園に2年生たち20人ほどが集まって、遊んでいるから、仲間に入らないかという、お誘いだった。 他の先生も、誘われていた。 どんな遊びかというと、男も女も手をつないで輪になり、ぐるぐる回りながら、「1、2、3、4」と声を出して、足を跳ね上げる、ダンスのようなものだった。 その後、1人の学生が歌を歌い始め、次々に声がかかり、私たち日本人の教師も、歌った(つーか、歌わされた)。 無邪気なのである。 去年の暮れ、3年生たちのゲーム大会に招かれた時も、椅子取りゲームや、口にくわえた箸で輪ゴムをリレーするというような、他愛ないゲームで、大いに盛り上がっていた。 かつて青島や上海でも教えたことがあるという中国人の先生は「この大学は他にくらべて、無邪気な学生が、本当に多いの」と言っていた。 他の地域は、私は知らないが、日本の学生とは、確かに違う。 学生たちの無邪気さもそうだが、学生と教師が、一緒に他愛のないゲームをして遊ぶなんて、日本では考えられない。 そんな昼休憩を過ごし、午後は、本を読んだ。 4人いる日本人教師の中で、1人は昨夜から上海に行っている。 来年の契約の件のようだ。 2人の先生たちは今夜の列車で曲阜、泰山へ旅行に出かける。 曲阜は孔子の里で、孔子ゆかりの名所がたくさんある。 街のほとんどが孔子の血を引く人たちなのだそうだ。 だから、この大学の中の日本人は、今夜から週末まで、私1人になる。 私は来週、鄭州に行く。 研修生を面接するために、日本から知り合いの社長さんたちがやってくるからだ。 私は以前、その社長さんたちの組合設立に関わり、研修生受入事務をしたり、研修生たちに日本語を教えたりしていたので、久々の再会になる。 5月になると、中国では長期連休が始まる。 私は、その前の4月29日から山西省の太原に行く。 1人旅である。 太原に知り合いはまったくいない。 まったくの1人で、自分がどこまでできるかを、試そうと思ったのだ。 中国に来て半年以上が過ぎた。 そろそろ、通訳やガイドなしで、誰にも頼らず、何かをする時期なのではないか、と思った。 太原がどういうところか、わからない。 ただ地図を見て、手頃な距離だと思ったから、選んだだけだ。 山西省は「刀削麺」が名物で、黒酢も有名だ、程度の知識しかない。 わからないからこそ、行こうという気になった。 しかし、手頃な距離だと思ったのに、列車で10時間もかかる。 これだから中国は侮れない。 本当に、広いのだ。
2007年04月12日
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院生(3年生)に依頼された卒論の訂正が、やっと終わった。 日本語を学部で4年間、その後、院生で2年間、合計6年間の日本語学習を終えた彼女のレベルがどれくらいのものか、その卒論の中から、少しだけ抜粋してみる。 中国の詩学は儒学者の手によって創立され、支えられてきたため、授業の道徳倫理に合う「善」を審美の基準としている。それを背景にして、『詩大序』は「言志論」を提起した。この「志」とは「文以載道」の「道」のことであり、いわゆる儒教の倫理道徳である。ところが歌論の方はどうであろうか。歌論は神道の「真心」信仰をもとに発展してきたため、「真」を審美の真髄とみなしている。従って、紀貫之は日本の代表歌論『古今和歌集』の仮名序において……(以下、省略) こんな文章がA4の用紙に約50枚にわたって書いてある。 院生の彼女曰く、「書くだけで3か月かかりましたが、資料を集めて、それを読むのに1年かかりました」 その資料も、万葉集や、古今和歌集などの古文である。 凄~いっ! 私は英文学部だったので、当然、卒論は書いた。 『虚構文学における具体性の限界』……確か、こんなテーマだった。 何やら、難しそうな(そうでもないか?)タイトルだが、アガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』を題材に、推理小説について論じたのである。 大学生の時は、とにかく推理小説ばかり読んでいた。 中でもアガサ・クリスティとエラリー・クイーンにはのめりこんだし、日本の推理小説も、次から次へと読み耽っていたものだ。 アルバイトと推理小説に明け暮れて、2日に1冊のペースで読破していた。 おかげで大学に5年間、籍を置くことになった。 社会人になって何年か経った頃、読むだけでは飽き足らず、自分でも書くようになった。 初めて書いた80枚の短編を、『オール読物推理小説新人賞』(赤川次郎や宮部みゆきがデビューをした賞ね)に応募した。 応募したことを忘れていた頃、編集部から電話がかかってきた。 「××さんの作品が最終選考に残りました。選考日は10月1日ですから、当日は居場所がわかるようにしておいてください」 という内容だった。 受賞が決まれば、連絡するということだったが、その日、連絡はなかった。 翌月発行された『オール読物』に、選考結果が載り、森村誠一先生や夏樹静子先生、逢坂剛先生、都筑道夫先生などが、私の作品を論評していた。 当時、私は結婚を目前に控えていた。 その『オール読物』は、私の奥さんのお母さんが何冊か買い占めたという。 その後、広告デザイナーや冠婚葬祭業などの仕事を経て、新聞記者になった。 毎日、記事を書き続ける毎日で、創作意欲はなくなって行った。 昨年、新聞記者を辞めて、今は、中国人たちに日本語を教えている。 そして、中国という異国で、学部生たちに作文の指導をし、院生の卒論を読んでいる。 時代が、ぐる~っと1周したみたいだ。 この、時の流れ! なんだか、自分で感動しそうだ。
2007年04月10日
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ただ今、夜の9時半を過ぎたところ。 窓の下の道を、授業を終えたばかりの学生たちが、賑やかな声をあげて歩いている。 夜間部の学生ではない。 朝8時から授業を受けていた学生たちである。 学生も大変だが、教師も大変だ。 スチュワートは1週間に3回も、夜7時半から9時半までのクラスを持っている。 私は、さっきまで院生の卒論を直していた。 テーマは、簡単にいえば、中国の漢詩と、万葉集の中の防人詩の比較対照研究。 昨夜、院生(3年生)が部屋を訪ねてきて、依頼されたものである。 卒論を直してもらうお礼に、近くの高級餃子屋さんで、餃子をおごってもらうことになっている。 昨日、洛陽の春の雰囲気を伝える写真を載せたので、今日は、そのついでに学校の中の写真を。 学内にはいろいろな木が植えられ、春の訪れとともに、可憐な花が咲き始めた。 やっぱ、花はいいですね。 中にはこんな木も。 ん……? 椰子……! 勿論、偽物で、学内に何本か立っているが、その意図がわからない。 街灯かとも思ったのだが、夜、明かりが点いているところを見たことがない。 最後は、春とは関係ないが、この写真。 双子のバナナ! 見た目は可愛いんだけど、食べにくかったよ。
2007年04月09日
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古都・洛陽は年間を通じて多くの観光客で賑っている。 といっても、日本からの観光客は、沿岸部の上海や広州などに比べれば、本当に少ない。 そして、同じ内陸部の西安と比べても、尚、少ない。 洛陽を象徴する花は「牡丹」。 毎年、春になると、その牡丹を愛でるために、多くの(特に中国人)観光客が洛陽にやってくる。 そのため、市内のホテルは宿泊料がシーズン価格になり、それでも全ホテルが満杯になる。 その牡丹の写真がこれ。 実はほとんどの牡丹はまだ蕾で、咲いているのはほんの何株か。 今年は、冬は何十年ぶりかというぐらいの暖冬だったが、春になって、気温があまり上がらなかったため、開花が遅れたのだという。 この写真は、その「ほんの何株か」の写真。 あと1週間ぐらいしたら満開になるそうで、広大な敷地が満開の牡丹で覆われた情景を想像するだけに、とどめたのだった。 『牡丹園』とは言いながら、牡丹以外の花もたくさんある。 歴史が古い都で、毎年変わらずに、春が来れば花が咲く。 そういう大きな時の流れを感じることができる。 そして、こんな風景に出会えるのも、中国ならでは。 今も、未来へ向けて、時間が、ゆっくりゆっくり流れている。
2007年04月08日
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大学の外事弁(対外業務を行なう部署)の招待で、洛陽に行ってきた。 洛陽は中国の七つの朝廷の都になったことがあり、歴史は古い。 西安も古いが、洛陽の人々は、「西安の歴史は浅い」と言う。 それくらい、古い都である。 今日、行ったのは世界遺産になっている『龍門石窟』と、中国最古の寺と言われている『白馬寺』、そして古都・洛陽を象徴する牡丹が咲き乱れる『牡丹園』の3箇所。 『龍門石窟』を訪れるのは、これで4回目。 いつ来ても、凄いと思う。 西暦493年から彫り始められ、山腹に開けられた穴は2345箇所、その中や周囲に彫られた仏像は10万体以上にも及ぶという。 向こう側に見えるのが、石窟の遠景。 あの穴の中に大小さまざまの仏像が彫られている。 よくぞ、こんなに、と思うほどだ。 中国には、万里の長城もそうだし、西安の兵馬俑も、四川省楽山の大仏も、なんでこんなとてつもないものを作ったんだ、と呆れてしまうものが、多い。 『龍門石窟』の中でも、もっとも大きいのは、この留遮那仏。 中国の石窟、大仏の中でも、非常に整った顔立ちの仏である。 聞けば、則天武后の顔を模して彫ったのだという。 しかし、周囲の仏像は、大きいものから小さいものまで、ほとんどが破壊されている。 隣の仏像には、顔がないし、中央の仏像には手が欠けている。 70年代に中国で吹き荒れた文化大革命の嵐の際に、破壊されたのだそうだ。 ところで。 今日、一番嬉しかったのは、実はこういった観光ではない。 韓国人留学生と知り合いになれたことである。 同じ外事弁を通しての入国ではあるが、日本人教師と韓国人留学生との接点は、全くない。 居住する場所も違うし、授業時間も違う、一緒に行動することはない。 そもそも、言葉がまるで通じない。 今日の昼食時も、二つ用意されたテーブルには、一方に韓国人留学生たちが席を占め、もう一方には私たち日本人教師たちとビル先生、そして外事弁スタッフが座るといった具合に、はっきりと分かれた。 その私たちのテーブルに、韓国人留学生のテーブルからあぶれた学生が、仕方なさそうにやってきた。 彼女は最初、とても居心地が悪そうだった。 そりゃそうだ。 だって、彼女の周囲は日本人とアメリカ人で、私たちの会話はまるで理解できず、しかも韓国語が通じる者はいなかったのだから。 で、私が声をかけた。 隣に座っていたし、逆の立場だったら、やっぱりつまらないだろうな、と思ったからだ。 使用言語は中国語。 授業のこと、韓国での住所のこと、私が韓国に行った時のこと、韓国料理について、中国での生活のことなど。 中国語で話しながら、知っている韓国語も時折まじえた。 といっても単語が5つか6つだけだけど。 打ち解けるのは思ったより早く、彼女の方からも、私に質問をするようになり、やがて反対側に座っていたビルとも、英語で笑いながら話をするようになった。 この次、大学の校内で会った時には、手を振って声をかけあおうと約束をした。 食事が終わった後、せっかくだから一緒に写真を撮ろうかと誘ったら、彼女はすぐに同意して、腕を組んできた。 四川省から帰る寝台車の車掌さんもそうだった。 学生の家に行った時の、親父さんは私の肩を抱いて、ピースサインをしてくれた。 言葉とは、本当に大きな力を持っている。 特に、外国語を話すということはそうだ。 知らない者同士を仲良くさせる、魔法のようだ。 こういう出会いが嬉しい。 私の仕事は、中国人にとって「外国語」である日本語を教えることだ。 重くて、意義深くて、そして人を嬉しくさせる仕事である。
2007年04月07日
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夜7時半から、日本語学部の学生による「日本語スピーチ・コンテスト」があった。 「私の夢」「中日友好」という二つのテーマのどちらかを選択して、日本語でスピーチをするというもの。 出場者は11人。 4年生が1人、2年生が2人、そして我が3年生が8人という内訳だ。 テーマが大きすぎるため、学生たちにも戸惑いがあったようだ。 「日中友好」というテーマを5分以内のスピーチにまとめることは難しい。 「私の夢」も、聴衆の心に深い余韻を残すようにまとめることは、なかなか至難の業である。 結局、最優秀賞は、4年生からただ一人参加した学生に決まった。 彼女は「プーアール茶」というお茶を通じて、日本と中国の文化の違いを語り、それが普及していく過程を紹介しながら、違いを超えた相互理解の大切さを、笑顔を交え、聴衆に訴えかけるように、話した。 2位は2年生の学生。 昨年暮れの「日本語会話ショー」で司会を担当していた学生で、物怖じしない堂々とした態度で、声に強弱をつけながら話を展開した。 内容は「ハロー・キティ」。 キティを生んだ国、日本に対する思いと、中国人の日本に対する感情などを、うまく対比させながら、相互理解の必要性を説いていた。 3年生は残念ながら、全員が3位以下だった。 だが、結果は別にして、私は嬉しかった。 学生たちの、隠れていた面が見えたからだ。 尚偉杰は、前期は、授業中、話を聞いているだけで、挙手をすることがなかった。 それが11月頃から、進んで挙手をするようになり、積極的になってきた。 そして、今日のコンテストへの参加である。 何かをきっかけに、彼の中で大きな変化が生じたのだろう。 彼の「私の夢」は、「両親と一緒に暮らすこと」。 小さな夢である。 会場からは、それを聞いて失笑も洩れた。 だが、彼の家庭の困窮、自分の学費、両親の健康、それらに対する自分の思いを、彼が切々と、決して流暢とはいえない日本語で語っていくうちに、会場はしんと静まり返っていった。 表現力、発音などの点数が伸びなかったため、入賞にすら届かなかったが、私は感動した。 話の内容もそうだが、彼がそんなふうに、人前で、緊張を隠して話ができるようになったことに、感動したのだ。 柴文果も、クラスの中では目立つほうではない。 どちらかというと、他の人の後ろで、にこやかな笑顔を浮かべているというタイプだ。 彼女は中学生の時、転校で新しい学校に移り、そこで友達ができずに、寂しい毎日を送っていたという。 その時の思いと、その寂しさを消してくれた、当時の担任の先生への感謝の気持ちを、ていねいな日本語で話していた。 一人ひとりについて書くときりがない。 3年生のある学生は、私のことを語っていた。 何気ない一言でも、学生たちの心に、何か大きなものを残すことがある。 それは良いことだけでなく、傷を負わせることだってあるかもしれない。 言葉とは、本当に大切なものだ。 コンテストが終わった後、3年生たちと連れ立って、寮まで送って行った。 彼女らと話しながら、私はある決意をしていた。 それは、2か月半後に控えた、3年生たちとの最後の授業で、私が中国語のスピーチを披露するということだ。 中国に来てから、学生たちが私に与えてくれた勇気や感動、私が味わった楽しさや嬉しさ、それら全てに対する感謝を、私は中国語で、学生たちに伝えたいと思ったのだ。 そのことを、学生たちにも伝えた。 というか、その場の勢いで、言ってしまった。 「しまった」と思ったが、もう取り消せない。
2007年04月06日
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今日の授業は3年生の「会話」と院生の「精読」の2つ。 院生の精読では、吉本ばななの『キッチン』を読んでいる。 既に日本語についての理解が深い院生たちは、安心して授業ができ、高度な内容にもついてこれるという安心感をもって臨める。 一方、3年生たちは、単語や文法の知識は豊富だが、それを上手に表現することができないという、ややアンバランスな状態にある。 だが、最近の3年生の変化には、目を見張らされる。 今日の「会話」の授業では、先週と同じく、いくつかのメニューをこなした後、最後の50分でロール・プレイをやった。 今日のお題は:「あなたは友達と一緒にレストランで食事をしました。食事はとてもおいしくて、大満足でした。しかし、お金を払う時、全部で1万8000円だと言われました。しかし、あなたは5000円しか持っていませんし、友達は2000円しか持っていません。店の人に事情を説明して、この問題を解決してください」 ……というもの。 3年生たちは、単語や文法の知識は豊富なので、事前の説明はほとんどしないまま、2人ずつのペアにロール・カードを配る。 すると、カードを受け取るが早いか、早速、ペアどうしでの相談が始まる。 大きな声での、台詞づくりが始まる。 全員が声を出し、互いに指摘しあい、時には笑い声も混じる。 その賑やかな声を聞きながら、私は「ああ、いいなあ」と思った。 どのペアも、他のペアより上手くやろうとして、あの手この手を考える。 例えば、最初のペアは、1人が2役(客の友達と店員)を演じて、食べ終わったところから始まるはずのロール・プレイを、食事中の場面から始めた。 当然、台詞は多くなる。 というより、台詞を多くすることが嬉しそうなのだ。 しかも2役を演じたのは、これまで授業中の発言が少なかった学生である。 次のペアは、客がお金を持っていないと知るや、「マネージャーに相談してきます」と言って、脇で見ている私のところに来て、「マネージャー、実は……」とやらかした。 私までをロール・プレイに巻き込んでしまった。 学生たちが話す度に、教室内で笑いが爆発する。 そして、その後は必ず、何人かが「シーッ」と、笑いを抑えて、再びペアのプレイに注目する。 笑いだけでなく、「うんうん」という頷きや、「おおっ」という感嘆や、「へえ」という納得、「上手い」という賞賛などの反応も、見ている学生たちから返ってくる。 みんなが授業に参加している。 更に、その次はもっと驚いた。 ペアで行なうはずのプレイを、「先生、私たち、4人でやります」と言うのだ。 お客が2人、店員が1人、マネージャーが1人という役割配分である。 客に扮した2人は、料理の感想を言い合ったり、お金が足らなくて「どうしようか」と相談し合ったり、マネージャーは店員と対応を協議したりで、ドラマのようなプレイになった。 実は、この4人の中の1人は、会話が上手ではなく、私が指名した時以外は、授業中に発言することはずっと皆無だった。 多分、彼女も他の学生を見ていて、自分もやりたいと思っていたのだろう。 しかし、自信がなく、人前で日本語を話す勇気がなかった。 そういう彼女を、他の3人が助けて、「4人でやろう」ということになったのだと思う。 授業の中で、日本語能力だけでなく、そういう学生たちの思いやりが感じられて、嬉しかった。 本当に、嬉しかった。 また、こんなこともあった。 今日の授業には、昨日のブログに書いた聴講生も来ていた。 彼女のことは、先週、クラスの全員に紹介して、いろいろ教えてあげるように頼んでおいた。 今日、教室に入ってみると、いつもは教室の一番後ろに、1人で座っている聴講生の隣に、クラスの学生がちゃんと座っていた。 そして授業中、彼女にいろいろ教えていた。 ロール・プレイの時も、クラスの学生は聴講生の彼女を助けながら台詞作りをしていたし、授業の最後の方では、2人で立ち上がって発表をした。 聴講生の彼女にとっては、初めての自主的な発言だった。 以前も書いたが、私が教えている3年生たちは、ここ数年の中では、ややおとなしく、レベル的にも劣るという評価をされている。 日本語能力1級試験の合格率も、近年ではもっとも低い50%である。 「3年生はダメねえ」という声も、同じ3年生を教えている先生の口から、よく聞かれる。 だが、3年生たちは、決して『ダメ』ではない! だって、こんなに楽しそうに、日本語を話しているじゃないか。 あれやこれやと、工夫しながら、他のペアより上手に話そうとしているじゃないか。 他のペアを驚かそうと、小道具を使ったり、他の人を巻き込んだりしながら話そうとしているじゃないか。 友達に対する思いやりもあるし、友達に助けられながら、笑顔でプレイをしているじゃないか。 みんな素晴らしい学生たちだ。 今日は、30人全員がたくさん話した。 みんながたくさん笑った。 3年生たちは、半年前、人の前で話をするのが恥ずかしいと言っていた。 その学生たちが、人の前で話をすることを楽しんでいる。 そして、自分だけでなく、他の人を楽しませようとするようになった。 日本語会話の上達だけではなく、その気持ちの変化が、嬉しい。 私が3年生たちに教えるのも、あと2ヵ月半。 もっと上手になろうぜ、3年生たち!
2007年04月05日
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学生と散歩をしながら話をして、今、帰ってきた。 夜の10時。 彼女は後期になってから聴講生として、私の授業に来るようになった。 日本語は2年間、勉強をしたそうだが、その後、社会人になり小学校の先生をしていたという。 つまり、何年かのブランクを置いて、再び日本語の勉強を始めたということだ。 当然、単語や文法の知識も、忘れたものが多く、会話も上手くない。 聴講生がよく言うのは、話し相手がいない、練習相手がいない、ということ。 そういう学生たちが、なぜか私を慕ってくれて、部屋に遊びに来てくれる。 今日は、8時に彼女が私の部屋に来たから、2時間話したことになる。 彼女にとっては、これまで日本語で話をした中で、最長時間だという。 もっとも、これまで日本語で会話をする機会がなかったのだから、当たり前だが。 多分、今日の2時間で、彼女は新たな自信をつけてくれたのではないか。 その自信が、次からの会話に生きてくるはずだ。 話すことを怖がらなくなりさえすれば、会話は自然に上手になる。 ところで……。 中国の、夜10時の大学は、とても賑やかである。 授業は9時半まで(5月以降はサマー・タイムで10時までやる)やっているから、1日の授業を学生たちが、教室からゾロゾロ出てくる。 授業がない学生は、空いている教室に行って、門が閉まる10時まで自習をする。 自習をしていた学生たちが、10時前後に、またどっと教室楼から出てくる。 授業や自習を終えた学生たちは、ある者は寮へ帰るが、ある者はグラウンドに行って、トラックを何周も走り回っている。 その人数が、半端ではない。 何十人もで歌を歌ったり、音楽に合わせてダンスをしている学生たちも、少なくない。 バイタリティというか、なんというか、表現しにくいのだが、勉強にしろ、運動にしろ、活動量が、日本の学生とは全然、違う。 そもそも、朝8時から1日の授業が始まって、夜10時まで勉強しているって、多分、日本ではそういう光景を見ることはないのではないか。 試験、或いは就職という目標さえ与えておけば、学生たちは、自分でどんどん勉強をする。 授業に出るよりも、自分で勉強した方が能率が上がり、時間を有効に使う。 去年12月に行なわれた「日本語能力1級試験」の前、学生に付き合って、勉強を見たことがあるが、学生たちが持っていた過去の問題集は、全ページに書き込みがあり、ボロボロになっていた。 中国の教育事情や教育体制、勉強方法などには疑問を感じる点もあるが、少なくとも、学習の量と、それをこなす学生たちのやる気については、日本は逆立ちしても勝てないのではないか。 日本がアジア諸国に対して、まだ優越感を持っているなんて、なんだかとても滑稽だ。 滑稽でありながら、背中に冷や汗が流れるような感じもする。 早く目を覚まさないと、追いつけなくなる。 そういう学生たちを相手にしているのだから、我々も、決して手を抜けないのである。
2007年04月04日
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中国で日本語教師をしたいと思ったのが3年前。 実現したのが半年前。 その間の2年半は、日本語教師資格を取るための通信教育や、授業で使うための資料作りに精を出していた。 といっても決まったのは赴任する半年前のこと。 それまでは、日本での仕事を辞める決断がつかず、従って、中国に行くという当てもないまま、1人で、孤独に通信教育のレポートを提出していた。 胃炎で吐いたり、38度を超す発熱が続いたり、背中と腰が痛んで立てなくなったり、しょっちゅう鼻血が出たりしたものだった。 胃炎はピロリ菌退治をし、発熱と腰痛の原因だった腎盂腎炎も治療した。 鼻血は、会社の社長に、中国に行きたい気持ちを洗いざらい話した日以後は、ピタッと止まった。 ストレスが体に及ぼす影響を身をもって感じたものだ。 中国に来てからは、そのストレスが、ない。 「異国」だから、思うに任せない場面は、ある。 言葉が通じず、困ることも、当然ある。 だが、そういうことを深刻に考えることもないし、むしろ笑って楽しめる。 こんなに「異国」にすんなりと溶け込めたのは、学生たちのおかげである。 そして、もう1つ、、外事弁スタッフの痒いところに手が届くような配慮も、忘れてはならない。 旅行に行くといえばキップの手配をしてくれて、ホテルの予約もしてくれる。 (最近、私は自分で何もかもするようにしているが) 飛行機で行く時は、それが何時であれ、車を手配し、空港まで送り迎えをしてくれる。 夜中の2時に駅まで送ってくれたのは、先日のブログで書いた通り。 家賃も水道光熱費も無料で、払うのは、自分が食べた分の食費だけ。 ネットで、海外の日本語教師の求人を探すと、給料や渡航費など、金額面にばかり目がいくが、定住して仕事をするのだから、お金よりも、そういった身近な世話を、親身にしてくれる誰かがいるということは、とても大切だ。 次の土曜日は、外事弁の招待で、我々、外国人教師と留学生たちは、世界遺産になっている洛陽の『龍門石窟』を観光する。 そして5月は『少林寺』ツアーも計画されている。 そんなところで、私は仕事をしている。
2007年04月03日
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月曜は授業がないので、午前中は明日からの授業の準備をして過ごした。 明日は、3年生の「作文」と院生の「新聞選読」のふたつ。 作文は「歌詞」の翻訳を終えて、先週からは中国語のニュースの翻訳をしている。 先週は、日本の「少子高齢化」のニュース。 明日は「家電リサイクル法」に関するニュース。 どちらも、日本語能力を高めるだけでなく、日本の「今」を知るのに役立つ。 ちなみに、どちらも『中国語ジャーナル』の「本月話題」に載っていたもの。 3年生たちに教えるのも、あと3か月。 日本語で新聞を作ることと、自分たちで脚本を書いて、演じるという最終目標があるので、そろそろ逆算をしていかなければならない。 院生の「新聞選読」は、統一地方選挙が近いことから、先週は都知事選の話題を取り上げた。 選挙といえば、新聞記者をしていた時は、候補者にインタビューをしたり、候補者の選挙事務所に張り付いたり、遊説の後を追っかけたりで、忙しかったけど、楽しかった。 日本の選挙制度や、行政システムだけでなく、そんな経験を通じた裏話を披露した。 明日は、固い話はやめて「ドメスティック・バイオレンス(DV)」と「うつ病」の話をして、時間が余ったら、「不二家」の事件についても触れようかと思っている。 というわけで、日本から送ってもらった新聞記事を、院生の人数分、コピー。 午後はバスで市内に出た。 めっきり春らしくなってきたので、春服を買おうと思ったのだ。 でも……。 いろいろ探したが、気に入ったものがない。 なんか、センスが違うんだよね、中国の服って。 「あっ、いいな」と思って、手に取ると、胸からわき腹の辺りにかけて、派手な龍のイラストが描いてあったり、大きなワンポイントが目立ったりする。 色使いも、赤や、オレンジ、青、緑などを組み合わせたものも多い。 そうでなければ、「お洒落」という言葉を無視したような、味も素っ気もない、中年ぽい「ブルゾン」といった感じのものになる。 冬の間は、日本から持ってきたユニクロの黒いコートを着ていた。 これが学生たちには「かっこいい」と評判だった。 ユニクロなのに、ね。 学生たちは冬は大半がダウン・ジャケットで、言われてみれば、確かに、私のようなコートを着ている者はいなかった。 というわけで、今日は市内から帰って、「破街」の中の衣料品店を冷やかして回った。 何も買わずに帰るのもしゃくだったので、長袖の綿シャツを2着買った。 1着35元で、「2着で70元」という店の人と交渉して、「50元」にまけてもらった。 たかが20元(300円)の違いなんだけど、相手の言い値で買うと損をした気になる。 交渉がまとまって、お金を払う時、店の人は、「あんた、中国人じゃないの?」 と怪訝そうな顔をした。 私のことをずっと、中国人と思っていたそうだ。「へえ、日本人かぁ。じゃ、そこの大学で先生をしているのか?」 なんだか、感心したような顔。 こんなふうに、中国語で話ができると、とても嬉しい。 話をして、中国人に間違われると、更に嬉しい。 でも、店の人が私を中国人だと勘違いしたのは、 私の中国語が上手というより、 中国で買った服を着ていたせいなのかもしれない(笑)
2007年04月02日
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今日は4月1日、エイプリル・フール。 この『エイプリル・フール』って言葉が、会話の教科書の中に出てきた。 しかし、学生たちはこの言葉を発音するのに、すごく手こずっていた。 「April fool」は、日本人にとっては「エイプリル・フール」だが、中国人にとっては、あくまでも「April fool」なのだ。 そして、「April fool」と「エイプリル・フール」を結びつけることが、難しいらしい。 私は大学生の時、英文学を専攻していた。 今ではすっかり錆び付き、単語さえ、とっさには出てこなくなったが、それでも「エイプリル・フール」を、ぐっと英語の発音っぽく言った時でさえ、学生たちは「変だよ」と笑った。 今日は、部屋に来てくれた学生と話をしている時、英語のビル先生の話題が出てきた。 私は「His class is very interesting」とビル先生の授業を評したのだが、その程度の英語さえ、学生たちには通じなかった。 学生たちの英語が下手なのではない。 下手なのは私の英語だ。 読めるが、話せない。 だが、「彼の授業は面白い」ぐらいの英語は通じると思っていた。 それが通じなかった。 中国語は子音の数が多いから、英語の発音には取り組みやすい。 まあ、中国語っぽく、ネチョッとした舌っ足らずの英語に聞こえるが、日本人が不得手とする「r」や「l」の発音は、割合そつなくこなしている。 私たち外国人教師が同じ食堂で食事をする時、ビルやスチュワートに英語で話しかけている。 英語で、といっても、それは日本式のカタカナ英語である。 「インターネット」「ブロークン」「リターン・ノーマル」など、はっきりとカタカナが意識できる、生粋の「日本式英語」で、しかも文法も時制もめちゃくちゃである。 こんなんで、理解してもらうことがおこがましいと、思いたくなるような奇妙な英語だ。 だが、ビルもスチュワートも、ちゃんと理解してくれる。 スチュワートはこう言った。 「日本人の英語は聞きなれたから、よくわかる」 学生たちも、そうあるべきだ。 特に、昨今の日本では、外来語が氾濫し、既に日本語として根付いたものも多い。 日本語に精通するためには、外来語に慣れることが必要だ。 日本語を教えるのって、本当に奥が深い。
2007年04月01日
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