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今日で5月が終わり。 5月の終わりは、雨模様で、空は灰色。 中国に来てから、これで9か月が経過した。 早い! これまでは、次の授業は何をしよう、どういう話をしよう、どういう教え方をしよう、どんなゲームをしよう……など、次のことばかりを考えていた。 それが結構、負担で、気持ちの休まる暇はなかったが、逆に大きな楽しみでもあった。 今は、違う。 これからの授業を考える必要がなくなった。 その代わりに、これまでの授業でやったことばかりを思い出すようになった。 それも、反省と後悔ばかり。 ああすればよかった、こうすればよかった……そんなことばかり。 いろいろなことをやって来た。 他の先生がやらないようなことを、他の先生とは違う教え方で、やってきた。 今は、それが良かったのか、どうか、考えている。 というか、迷っている。 だから、気持ちは晴れない。 今日の天気のような感じ。 パソコンの調子が悪いというのも、今の精神状態に影響を与えている。 ネットも、ワードも、ゲームも、すべて10分間限定。 それを超えると、止まる。 ワードで資料を作っていた時は、何度も止まり、その都度、保存できなくなって、書き直しが続いた。 メールは、まったくできない。 学生が作った新聞記事を添削しようと、メールで記事を受け付けたのだが、それができない。 おっと、そろそろ止まりそうな気配。 では、このへんで。
2007年05月31日
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パソコンの調子が非情に悪い。 まず、メールがつながらない。 メール以外も、やり始めて10分もしれば、中国の芸能関係の画面が開き始める。 「error」の文字が次々に出てきて、にっちもさっちもいかなくなる。 そして、止まる。 だから、ブログを書く時も、時間に終われるように、焦って書かなければならない。 ウルトラマンって、こんな気分で怪獣と闘っていたんだろうな。 今日の昼ご飯は、同僚のM先生とT先生の手作りによるカレー・パーティだった。 この日のために、先生方は昨日、買出しに出かけられ、今朝から準備をしておられた。 外国人教師は、我々4人の日本人教師以外に、アメリカ人のビルと、スコットランド人のスチュワートがいる。 この中で、ビルは来月14日には、一足先に帰国する。 ビザの関係で、その日が滞在期限なのだ。 だから、今日はひとあし早い「お別れパーティ」だった。 ビルもスチュワートも、実にいい奴で、話していて気兼ねをする必要がない。 食事の間じゅう、英語が飛び交っていた。 ビルは、「あなたたちの日本語は耳にとても優しく響いた」といい、スチュワートは「これまでに40か国を渡り歩いたが、次は必ず日本に行く」と言っていた。 来年のオリンピックの話もした。 ビルの授業で、中国人の学生、アメリカ人のビル、そして見学していた日本人の私、3か国の人々が一緒に「イマジン」を歌ったことも話した。 あの時の感動は、忘れることができない。 いい人たちとめぐり会えた。 学生からも多くの思い出をもらった。 勇気づけられたり、勇気づけたり。 相談したり、相談を受けたり。 それと同じくらい、ビルとスチュワートとも、愉快な思い出がある。 ……そろそろ、「error」画面が出る頃だ。 では、今日はここまで。 さらば、友よ! いつの日か、また会おう! できれば、来年のオリンピック、野球の会場で!
2007年05月29日
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昨日の最高気温は38度。 中国語で「昼」のことを「白天」というが、昨日はまさに「白天」だった。 太陽の光が眩しくて、景色が白っぽく見えたからだ。 暑かった! とはいっても、日本のような、肌にまとわりつくような粘っこい暑さはない。 湿気が少ないから、木陰に入れば涼しいし、そよ風が吹いただけでも、爽やかな感じがする。 zhuoziさんのブログを読んだら、語学留学について書いてあった。 私は実際にもう中国に住んでいるし、今から語学留学するには、時機を逸してしまったが、それでも、「もし、自分が中国に語学留学をするなら、どこがいいだろうか」と考えてみた。 沿岸部か内陸部か、といえば、迷うことなく内陸部を選ぶ。 理由は、 1、まず、物価が安いこと。 沿岸部の3分の1の生活費(もっと安いかも)で、充分な生活ができる。 差額は、旅行などに使えばいい。 2、日本人が多くないこと。 日本人が多いと、日本人とばかり付き合って、中国人との付き合いが少なくなる。 友人で、そういう例を何人か見たことがある。 3、中華文明に触れることができる。 言葉以外に、中国の雄大な景色、遺跡などを目の当たりにできる。 歴史の古さを実感でき、視野が広がり、世界観も変わる。 4、気候が日本に近いこと。 南方は気温が高く、北方は冬の寒さが厳しい。 ただ、内陸部といっても、四川省などは雨や霧など、湿気が多いので、私はダメダ。 四川省で辛い料理が発達したのは、体の中から湿気を追い払うためである。 沿岸部に留学するメリットは、日本との行き来が便利なこと。 では、内陸部なら不便なのかといえば、日本からの直行便がある都市もある。 「西安」である。 西安なら、上の1から4までの条件をすべて満たす。 河南省は西安より、少し暖かいが、日本からの直行便がないから、上海か北京経由になる。 それはそれで、行き来のたびに、上海で遊んで都会気分を味わえばいいだけのことなのだが。 もし、人生がもう一度あれば、絶対に留学するのだが。
2007年05月28日
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今日の最高気温は34度。 午前中に3年生2班の「会話」授業が終わり、今週の担当授業はすべて終了。 週末は日本語ドラマの脚本の手直しに精を出すことにする。 中国に来てもっとも困ったことは、言葉でも食事でも、授業や学生との付き合いでもなく、日本語の本が容易に手に入らないこと。 日本にいる時は、休みともなれば、近くの図書館に行って、面白そうな本を手当たり次第に借りては、読んでいたものだ。 借りるだけではなく、本屋に立ち寄っては、新刊を漁ったり、雑誌や語学コーナーを見て回ったりして、1日いても飽きないくらいだった。 ところが、中国ではそれができない。 日本の活字に触れるのは、自分が持ってきた授業で使う資料くらいのものだ。 新聞もない。雑誌も小説もない。テレビをつけても中国語ばかり。 だから、夜、寝る前などは、本当に手持ち無沙汰になる。 そこで、日本から小説を送ってもらうようにした。 これまで4回くらい、10冊前後ずつ送ってもらった。 日本から河南省までは、航空便であれば6日程度で、船便なら1か月ほどで届く。 冬休みの間は、学生は全員が帰省し、他の先生たちが旅行に出かけている時は、時間にまかせて何冊も読み耽ったものだ。 読んでも、読んでも、まだ次がある、という安心感が嬉しい。 こちらに来てから、もっぱら読んでいるのが、ハード・ボイルド。 特に大藪春彦、そして西村寿行。 どちらも多作で知られる作家だから、読んでも読んでも次がある。 実は、この2人の作家、15年くらい前に、随分と読み親しんだ作家である。 最近は、まったく読んでいなかったのだが、久々に、以前読んだ作品を読むようになった。 そして、飯干晃一の作品も何冊か読んだ。 こちらはやくざ物である。 私はこのブログのプロフィールに、好きな映画は「仁義なき戦い」と書いている。 読んだのはその原作である。 その小説の中に、私がよく知っている人物について書いてあった。 Kさんは以前、やくざの親分だった。 40年前に足を荒い、今ではごく真面目な生活をしている。 好々爺である。 Kさんは、自分の過去を吹聴することはなかったが、殊更、隠そうともしなかった。 私も、Kさんの過去を知っても、動じることはなかった。 40年間、真面目に生きてきた人を、50年前に遡って白眼視するべきではないからだ。 実は、その人に私はとても可愛がられ、信頼してもらった。 私が病気になった時は、わが子のように心配してもらったものだ。 中国で仕事をするかどうか迷っていた時、私はKさんに相談をした。 黙って、私の話に耳を傾けていたKさんは、私の中国行きを後押ししてくれて、送別会を開いてくれた。 私が今、中国で充実した日々を送り、いろいろな経験をすることができるのも、Kさんをはじめ、家族を含めた多くの人たちの応援のおかげである。 ああ、『仁義なき戦い』、見てえ!
2007年05月25日
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日本語ドラマの脚本が集まった。 日本語ドラマは、3年生の「会話」授業の総決算として発案したもの。 その脚本を「作文」の授業の一環として、学生に書かせた。 学生たちが自分で書いた脚本を、「会話」の授業で読み合い、授業がない時に寮や学内の公園で練習をするのである。 ちなみに、「作文」授業の総決算は日本語新聞作り。 これもあと2週間くらいで完成し、印刷(というかコピー)できるはず。 この脚本作り、実はどうしたものか、ずっと考えていた。 学生たちが自分で脚本を書けるなら、それに超したことはないのだが、可能かどうか、学生たちの能力をつかみかねていたのだ。 普通の作文なら、学生たちは、書ける。 それは、自分の経験や考え、思いなどを書き連ねればいいからだ。 だが、脚本は違う。 会話(とト書き)だけで、ストーリィを作るのである。 どういう話にようか、というところから考えなければならない。 文章力以上に、発想力、構成力が必要になる。 学生たちの手に負えないのではないか、と危惧していたのだ。 私は、困った時には、必ず学生に相談する。 学生たちはこう言った。「難しいです。でも、自分たちで書きたいです」「60人いるから、必ずいい脚本がかけます」「やったことがないことをやりたいです」 というわけで、学生に脚本作りを任せることにした。 事前準備として、まず私が喜劇と悲劇の2本のストーリィを用意し、その出だしの部分だけを、脚本として書き、それをプリントにして学生たち全員に配った。 脚本の書き方(台詞やト書きの書き方)、物語の構成、筋の運び方などについても、2回の授業を費やして、説明した。 後は、すべて学生たちに任せた。 その脚本が集まった。 1班は、日本、中国、アメリカの文化が入り乱れ、衝突するという、喜劇。 題して「現代三国志」 学生たちが書いた脚本を読んだ。 爆笑! だった。 2班のドラマは、一転して悲劇。 病気で余命半年と診断された同級生のために、友達が最後の楽しい思い出を作ってあげようとするが、病気の学生は、自分の病気を知って……、という内容。 タイトルは「愛しているならここにいて(愛我別走)」 悲しい内容……のはずだが、これも笑った。 どちらも、非常に奇妙で、奇天烈で、愉快で、微笑ましく、時に感心する内容だった。 この日本語ドラマの発表会では、ドラマ以外に、日本語スピーチと、1班対2班で日本語によるディベートもやる。 ドラマに出演した者は、スピーチやディベートには参加できない。 誰をどこに配置するか、ということも、学生たちが自分たちで決める。 以前、「会話」の授業でディベートをしたことがある。 その時のテーマは「海外留学するなら、ホーム・ステイかそれともアパートで1人暮らし、どちらがいいか」というもの。 その時も面白かった。 そして感心した。 こんな応酬があった。「ホーム・ステイなら、日本の家族がいろいろと世話をしてくれます。だから中国の両親も安心できます。アパートの1人暮らしは、両親が心配します」 この意見に対して、次のような反論がでた。「あなたは何歳ですか? もう大人です。いつまで両親に心配してもらいますか。1人で生活できるということを証明すれば、両親はもっと安心しますよ」 日本語ドラマ発表会では、だから、私は密かにディベートでの熱い論戦を期待している。 発表会(「日本語ワッショイ!」(仮題))は6月の第2週くらいに開催する予定。 多数のご来場をお待ちしております。
2007年05月23日
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少林寺から帰ってきた日の夜、2年生の学生から電話があった。「先生、今日はお疲れ様でした。少林寺はどうでしたか?」 私は3年生と院生の担当だが、2年生や4年生にも知り合いが多い。 電話をかけてきたのは、そういう学生だった。「私たち、作文の授業で先生にインタビューをしたいです。先生が暇な時間はいつですか?」 作文の授業の一環で、教師にインタビューをするというのは、どこかで聞いたような話だが(……って、私のアイディアだが)、非常にいいことだと思う。 会話の練習にもなるし、それを文章に書き起こすことで作文の練習にもなる。 何よりも、教師と親しくなれる。 更に、(相手によるが)会話の面白さを知ることができる。 というわけで、即座にOKし、昨日、早速インタビューに応じた。 聞けば、何人かのグループに分かれて、日本語科のいろいろな先生のところに行っているとのことだったので、部屋の中ではなく、屋外の公園の中でインタビューを受けた。 部屋の中で話をするよりも、屋外の方が、視界が広がるため、話題を見つけやすく、また気持ちが開放的になるため、話が盛り上がりやすいからだ。 学生たちの質問は、だいたい以下のようなものだった。1、先生の学生時代はどうでしたか?2、学生時代、一番印象に残っていることはなんですか?3、先生はどうして中国語を勉強しましたか?4、中国の学生を見てどう思いますか?5、仕事をする時に一番大切なことはなんですか?6、これまでどういう仕事をしましたか? 2年生に限らず、3年生でも、インタビューでする質問は、上記と大差がない。 非常にありきたりである。 だから、面白い記事にするためには、答える側の技量による部分が大きい。 洒落たことを答えてあげなければならない。 私の場合は、大学生時代は、朝から夜までアルバイトをして、推理小説やハードボイルドを読み耽り、レコード屋で洋楽のレコードを漁っては聴き浸っていた。 だから、大学にはほとんど行っていない。 結局、大学には5年間通った。 5年目だけは、それでも真面目に出席をした。 仕事も、新聞記者から冠婚葬祭業、医薬品営業、編集デザインなど、9つの業界を股にかけた。 これだけでも、他の先生とはまったく違っている。 思い起こしてみても、「面白い」とか「楽しい」という授業は、これまで受けた経験がない。 面白い先生はいたが、それは仕草や言葉遣いが面白いというだけのことで、学習意欲を駆り立ててくれる、「面白い授業」をする先生はいなかった。 好きだった先生はいる。 1人は小学校5年と6年の時の先生で、とても厳しい先生だった。 当時、先生は31歳で、血気盛んだったから、宿題を忘れたといっては頭を殴られ、いたずらをしたといっては往復ビンタをくらった。 しかし、休みの日になれば、先生の家に遊び行って、愉快に過ごした。 その先生は、私たちの卒業式で、1人づつ名前を読み上げる時、感極まったようで、生徒の名前を声に出すことができなかった。 何度も咳払いをしながら、先生はとうとう一言も言えずに、他の先生に生徒名簿を渡して、席に座ってしまった。 話が逸れた。 というわけで、失恋体験や、授業をさぼった経験、そして、中国に来たきっかけや、或いは中国語学習法、私の授業などについて話をした。 1時間という予定だったが、結局2時間も話した。 後は2年生たちが、どうまとめるか、だ。
2007年05月21日
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行ってきました、少林寺。 少林寺を訪れるのはこれが3回目。 初めて訪れたのは、7年ぐらい前。 鳥取県の境港市と河南師範大学(今、私が仕事をしている学校)の教育交流5周年を記念して100人くらいの訪問団が河南省に来た時、記者として随行した。 2回目は4年くらい前。 上海の友人と一緒に少林寺に来た。 その日は雨だった。 これが入り口。 少林寺とは関係ないけど、この写真を見て、あらためてびっくり。 痩せた! 中国に来る前の半年で10キロ痩せて、中国に来てからも更に1、2キロ痩せた。 日本に帰ったら健康診断や血液検査を受けるつもりだが、油っこい中華料理を毎日食べているにしては、無駄に太っていないのはいい傾向かも。 閑話休題。 ここが少林寺の入り口。 知名度の割には、じつにこじんまりとしたたたずまい。 敷地は随分と広いのだが、寺そのものはあまり大きくはない。 大きければいいってものでもないし。 少林寺の中では、公衆電話の上にも、こうやって僧侶が。 達磨大師像の前でパチリ。 この像は日本人の寄付によって建てられたもの。 裏側には、寄付をした人の名前が彫られている。 達磨大師はインドから来て、この少林寺で禅宗を広めた。 今回は行かなかったが、4キロほど山の奥に行くと、達磨堂がある。 そこは、大師が9年間壁に向かい続けたといういわれのあるところである。 ここが塔林といって、僧侶の墓。 高ければ高いほど、僧侶の高い位を表しているという。 これらの塔の下に、亡くなった僧侶が座禅を組んだ形で埋葬されているのだという。 現在は火葬に変わっている。 塔林の向こうには山々の連なりが見え、歴史がゆっくり流れているという実感がある。 M先生とも話をしたが、中国では時間がゆっくり流れている、という感じを至る所で受ける。 日本の寺を参拝しても、あまりそういう感じは受けない。 僅かに、「伊勢神宮」に行った時には、ゆったりした時間の流れを感じたけど。 演舞は、今回は屋外で見学。 本当は演舞場で見た方が間近で見ることができて、臨場感や迫力があるのだけど。 これはよく見えないけど、刀の刃の上にまず1人が寝て、その上に剣山と人が重なり、一番上の人の腹の上で石を割るという荒業。 本当言うと、少林寺武術学校の訓練風景などを見たかったが、それはできなかった。 訓練によって培った成果を見せても、訓練は見せるものではないかもしれない。 今回の少林寺ツアーで、外事弁による3回の接待旅行も無事に終了。 開封、洛陽(龍門石窟)、そして少林寺……。 お世話になりました。
2007年05月20日
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今日は少し涼しくなった。 それでも27度。昨日の33度に比べれればいくらかましといったところ。 明日は外事弁の招待で、我々外国人教師は、少林寺へ観光に行く。 外事弁の主催による観光旅行は、去年11月の開封、今年4月の洛陽・龍門石窟に次いで3回目。 少林寺は河南省登封市の崇山にある寺で、495年に創建され、527年にインドの達磨大師がここで禅宗を開いたと言われている。 つまりここが禅宗発祥の地である。 少林寺の広大な敷地の中には、小学校や中学校などの学校もあって、そこが一つの街のようになっている。 だから、小さい子供から年配の僧まで、年代を問わずに修行に励んでいる。 少林寺といえば少林寺拳法。 その演舞は、お金を払えば見せてくれる。 マスゲームのような規律正しい、一糸乱れぬ動きがあるかと思えば、サーカスのような派手な動きがあったり、或いは刀や刃物を使って、肉体の強靭さを実証するような「びっくり系」の出し物もある。 私は少林寺にはこれまで2回行った。 1度目は7年ぐらい前。 2度目は4年ほど前。 行くたびに印象が深くなっていく気がする。 映画やドラマの舞台となったところに、この足で立ち、それをこの目で見ることができる。 幸せなことだ。 写真をたくさん撮ってこようと思っているが、このところずっと、「システム・エラー」とやらで、ブログに写真を載せられないでいる。 少林寺の写真、掲載できないかも。
2007年05月18日
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昨日、突然、思いついて、今日の3年生の「会話」の授業で、回文を紹介した。 こういう思いつきが時々あるから、これまでやってこれたのだと思う。 いつも同じ授業をしていると、それが例え効果的で、面白い授業であっても、飽きる。 授業を始める前に、授業の内容の予測がついてしまうと、安心感こそあるが、新鮮さはなく、授業に臨む際の集中力も低下する。 何より、授業をしている私自身が「つまらない」と感じてしまう。「腹8分目」ではないが、満腹になる前に、次にステップアップする方がいいと思う。 まず「楽しい授業」であること。 新鮮であること。 日本語能力がアップすること。 そして、何よりも「日本語に対する興味を深められること」。 それが、どこまで実現できているかわからないが、ともかく、この4つだけはいつも心がけている(つもり)。 で、今日は100分間の終わりの40分で、回文を紹介した。 回文とは、前から読んでも後ろから読んでも意味が通じる言葉(文章)のこと。 例えば「母の母(ハハノハハ)」「黄色い木(キイロイキ)」「台風吹いた(タイフウフイタ)」など。 まず、今週の週末、私たち外国人教師が少林寺に旅行に行くことを、学生たちに伝え、「しかし、今回は少林寺に行くだけで、市内観光はありません」と説明。 黒板に『市内観光、今回なし』と書いた。 そして、来年の新しい先生のことを紹介し、『いい! 若い先生かわいい』と書いた。 中国では物価が安いから、例えばこんなものが安く買えるよね、と言いながら、『椅子や箸は安い』と書いた。 学生たちは、「椅子と箸は関係ないですよ」と早速ツッコンできた。 その後は、文章をAグループとBグループに分けて、順番に書いていった。A:8人こんにちは B:8人こんばんは よく笛吹くよ よくピアノ弾くよ イラクは暗い イラクは明るい 世の中バカなのよ 世の中頭がいいのよ 禁煙、延期 禁酒、延期 関係ない喧嘩 無関係の喧嘩 夏まで待つな! 冬まで待つな! ここらまで書いてくると、学生たちもだんだんわかってくる。 Aは前から読んでも、後ろから読んでも同じ言葉、つまり回文である。 その後は、私が最初だけ言って、学生たちに回文を作らせた。「留守に」 → 「留守にする」「留守に何する」(ルスニナニスル)「残念」 → 「残念、捻挫」(ザンネンネンザ)「かっこいい」 → 「かっこいい国家」(カッコイイコッカ)「占い」 → 「占い習う」(ウラナイナラウ)「死んでいる」 → 「死んでいる遺伝子」(シンデイルイデンシ) 去年、私がこの大学に赴任した当初、学生たちの勉強に対する熱心さにひどく感心したものだ。 その一方で、その表情に、勉強する楽しさが感じられないことにも気がついた。 試験があるから勉強する、試験に合格するために勉強するという、強迫観念のようなものばかりが、学生の周囲に取り巻いているような気がしていた。 だから、多くの日本語を勉強してるのに、話すことをせず、俯いて教科書ばかりを読んでいた。 会話も「間違えたら恥ずかしい」「何を話していいかわからない」と、話す前から、会話に対して怯えを感じ、言葉に詰まると、すぐに友達に中国語で聞いたり、口ごもってしまったりしていた。 しかし、今は、違う。 一緒にいても、話が途切れることがない。 話す時に笑顔がこぼれる。 私をからかう。 たどたどしさはあっても、会話に対する怯えは、どの学生にも、もう、ない。 私が3年生たちに「会話」を教えるのは、あと5回。 もう5回ではなく、まだ5回もある。 この5回で、日本語に対する興味をもっと持ってもらえたら、嬉しい。 そういう授業を続けていこうと思っている。 最後に、私が最も気に入った回文は、これ。 しぼめ、梅干!
2007年05月17日
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今日の最高気温は33度。 暑い! 暑いが、しかし湿度が低いので、そよ風が肌に心地よい。 午前中の院生の授業では、赤川次郎のエッセイをもとに小説やドラマについて話をした。 その後、短編小説と長編小説、フィクションとノンフィクションというような話になった。 ドラマについて話をした時、「喜劇」「悲劇」という単語が出てきて、突然、『喜劇悲喜劇』という、泡坂妻夫の小説のタイトルを思い出した。 昭和57年に刊行されたこの『喜劇悲喜劇』は、回文をテーマにした推理小説である。 回文とは、前から読んでも、後ろから読んでも意味が通じる言葉(文章)のこと。 小説のタイトルになっている『喜劇悲喜劇』も「キゲキヒキゲキ」で、前からでも後ろからでも同じ意味になっている。 これを紹介したら、院生たちは食いついてきた。 「新聞紙」「トマト」「竹屋が焼けた」などの簡単なものでも、「へええ」という、感心したような声があがった。 考えてみれば、これも1つの文字が1つの音を表すという、日本語(ひらがな、カタカナ)独特の文化なのかな、と思う。 漢字だけでは、回文は難しいだろうし、英語のアルファベットならできそうだが、「音」が変わってしまう場合があるので、これも難しいのではないか、と思う。 そこで、院生たちには、来週までに回文を作ってくるように宿題を出した。 以前もここで書いたが、院生たちは現役の日本語教師、或いは卒業後、必ず日本語教師になることが決まっている者ばかりだ。 だから、「しりとり」や「1文字変えて」や、この回文など、言葉遊びを覚えることで、それを自分が教壇に立って、学生たちに教える時に役立つのでないか、と期待している。 回文をネットで調べてみたら、いろんなのが載っていた。(太字は私のお気に入り)「素手です」「君、三木?」「僕、久保」「僕、大久保」「そう? 嘘!」「残念、捻挫」「黙った妻だ」「禁煙、延期」「指圧待つ足」「新郎討論死」(討論死って、なんだよっ!)「椅子や箸は安い」「いい! 若い先生かわいい」「死んでいる遺伝子」「市内観光、今回なし」「爆発待つ、白馬」(どこに、そんなのいるんだよっ! 個人的には、これが最高!)「葬式で溺死?」「うそ」(どこで葬式をしてるっつーの?)「寝付きいい狐」(調べたことあるのかよっ!)「見事な砂とゴミ」(見事なゴミって、なんだよ!) 中国に赴任する前の目標は、日本語科の学生たちで『笑点』をやらせるというものだった。 これ、明日の3年生の「会話」の授業で使ってみようかなと思っている。
2007年05月16日
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私が生活をしているのは、中国の河南省というところ。 河南省は北京から特急列車で6時間、上海からなら12時間という地にある。 中国の南北を貫く鉄道と、東西を結ぶ鉄道が、ここ河南省で交わっている。 つまり中国国内の交通の要衝であり、各地方の文化が集うところである。 その割りに、内陸部に位置しているということもあって、経済面では沿岸部に比べると大きく遅れをとっている。 そういう河南省の人が誇りに思っているのが、歴史の長さ、文明の古さである。 世界四大文明の一つである「黄河文明」というのは、ここ、河南省で花開いた文明である。 だから、中国国内だけでなく、世界でも最古の文明発祥の地が、ここ河南省だ。 西安は日本人にとっても有名で、中国の歴史の古さを実感できる街だ。 だが、河南省の人たちは西安を「新しい街だ」と気って捨てる。 西安の有名な観光地である兵馬俑は、紀元前200年頃から制作が始まったという。 それはそれは、見事で圧倒されるようなスケールである。 だが、河南省の安陽からは紀元前5000年の甲骨文字が見つかっている。 とにかくスケールが違う。 河南省で最も知名度が高い街が「洛陽」。 人口は600万人で、ここも5000年の歴史を誇る悠久の古都である。 洛陽の街を歩くと、博物館がたくさんあることに気がつく。 この街の地面を掘れば、必ず何かの遺跡に掘り当たる。 遺跡が見つかれば、それを覆うように建物を建て、そこを博物館にしてしまうからだ。 その他には、山腹に巨大な留遮那仏を彫った『龍門石窟』やとにかく広大な『光武帝陵』、中国最古の仏教寺院(西暦68年の創建)である『白馬寺』、三国志で有名な関羽の首塚がある『関羽廟』、或いは詩人、白居易の墓である『白園』なども、洛陽の中にある。 更に、正確に言えば洛陽ではなく、登封市なのだが、洛陽観光の一環として見学に行くのが『少林寺』(495年創建)。 達磨大師が壁に9年間向かって修行をした『達磨洞』も、この少林寺の中にある。 少林寺観光のハイライトは、僧たちによる演舞。 映画を見ているような、少林寺拳法のデモンストレーションは、圧巻。 ただ、観光案内書を片手に、そういう名所を見て歩くのもいいのだが、実は、私が最も感動したのは、『黄河』。 バスに乗って、黄河大橋を渡った時、「これが黄河です」と言われて、思わず、窓の外に黄河の水面を見た時の、あのなんとも言えない気持ち……。 今、中国にいる、地図でしか知らなかった黄河を渡っている、向こう岸が見えない……!。 そういった全ての感情が入り混じって、湧き出たのが、「あ~っ、これが黄河かあ」 という言葉。 ……って、言葉で説明するよりも、写真を見れば一目瞭然なのだけど。 実はこの何日か、写真を載せようとすると、いつも、「システム・エラー」 という真っ赤な字が出てきて、写真を載せられない。 3年生たちが日本語新聞作りの一環で、外国人教師にインタビューをした。 その中で、ある学生がスコットランド人のスチュワートに、こんな質問をしていた。「北京や上海など、有名な都市があるのに、どうして河南省に来ましたか?」 スチュワートは、その質問に対して、こう答えていた。「北京や上海は、イギリスやアメリカの街と同じなんだ。でも、ここにはアメリカやイギリスにはないものがある。中国にしかないものが、ここにあるから、だから俺はここに来たんだよ」 河南省って、そういうところです。
2007年05月15日
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今日は月曜日。 私は、月曜日は授業がないので、火曜日からが1週間のスタートになる。 つまり、金曜、土曜、日曜、と毎週3連休がある。 さぞ、のんびりした楽な稼業だと思うでしょ。 はい、楽です。 でも「楽」というのは、時間があり余っているという意味ではなく、「楽しい」という意味。 毎週の3連休は、授業こそないが、1人でいる時間は少ない。 ほとんど学生と一緒にいるからだ。「会話の練習をしたいから、先生の部屋に行ってもいいですか?」「日本語能力試験1級の問題について教えてください」「卒業論文を書いたので、間違いを直してください」 など、学生の方から言ってくることが多い。 私の担当の3年生だけではない。 今や2年生も4年生も、或いは1年生からも声を掛けられる。 我々、外国人教師も学生たちも、同じ大学構内に住んでいる。 だから、夜10時頃まで話をして、その後11時頃まで散歩をするということもある。 他の先生方は、自分から学生に電話をかけて、部屋に呼んだり、買い物や旅行の相手を頼むこともあるようだが、私は自分から学生を誘ったことはない。 ただ、校内を散歩している時に、学生と会えば、しばらく一緒に歩きながら日本語で会話をしたり、そのまま一緒に食事をしたりすることもある。 散歩は、毎日、少なくとも1時間はやっている。 散歩をしながら、次の授業のメニューや進め方、話題などを考える。 そして、これが一番の目的だが、学生と出会えば、日本語で話をする。 ついでにダイエット。 「会話」の授業は1週間に1度しかないので、どうすれば学生たちの会話能力をアップすることができるか、と考えた時、教室内の会話に限界があるなら、教室の外でたくさん話をしようと思ったのだ。 散歩だけではなく、寮(男子寮も女子寮も)に行って話をすることもある。 これは学生から誘われて実行するようになったもの。 女子寮は男子禁制だが、学生たちがいつも、寮の管理人に「日本人の先生と会話の練習をするため」と説明して、許可を得れば入ることができる。 今では、管理人とも顔馴染みなった。 教室外で学生と話をすれば、1人ひとりの人となりがよくわかる。 教室の中とは、違った表情を見せる学生もいる。 こちらの気持ちも若くなる。 自分の授業の感想を聞くことができて、改善点を見つけやすい。 学生にしてみれば、間違いを気にせずに話をすることができる。 私との親近感が増す。 話す回数が断然多くなる。 個人的な話もできる。 とまあ、そんなこんなで、学生と一緒にいる時間は少なくない。 そして、自由な時間は実はあまり多くない。 とはいっても、日本にいる時は、自由な時間など全くなくて、いつも何かに追われているような気がしていた。 そういう圧迫感というものは、今はない。 今は、時間があれば、授業の資料を作ったり、アイディアを考えたり、或いは作文の授業の後は60人分の作文の添削をしたり、そういうことに費やしている。 今の願いは、PS2で「三国志11」をやること。 私は今、三国志の舞台となった中国で生活をしている。 特に河南省にはそういった遺跡や名所が多く、ゲームの中に出てきた地名もよく目にする。 これまでは本や映画、ゲームの中でしか知ることができなかったそういう地名や遺跡を、今は現実に、自分の目で触れることができる。 今、「三国志」のテレビゲームをすれば、感慨もまた大きいはずだ、と思うのだ。
2007年05月14日
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中国にいるからと言って、中国語を話す機会はあまり多くない。 なぜなら、私は日本語科の教師で、学生たちの日本語レベルを向上させるために、いつも日本語を話さなければならないからだ。 だから、時に中国語を話したいというフラストレーションが溜まる。 外に出た時に、話すことはあるが、それでも知らない人と10分以上話すという機会は少ない 1人旅をしたのも、中国語を話さざるを得ない環境に身を置きたかったという理由もある。 幸い、友達の中国人が私を食事に誘ってくれる時は、必ず何人かの中国人も同席するので、そういう場合は中国語を話す。 それ以外で、中国語を話すのは、タクシーに乗った時。 この大学から駅に行くまで、だいたい15分くらい。 この15分間、ずっと中国語を話す。 運転手によって、話好きかどうか、個人差はあるが、私が中国語を話すと、ほぼ例外なく反応を示し、あちら側からも話を振ってくる。 これが実に貴重な時間である。 そんな反応を示すのも、中国語で話しかける日本人が珍しいからだろう。 運転手の側も、日本人と話す機会は多くない。 だから、話好きの運転手にめぐり合うと、会話が弾む。 ただ、問題は方言が多く、訛りが強いため、聴き取りに苦労するということだ。 例えば、中国では街が違えば、言語も変わる。 省と省などの違いになれば、別言語と言ってもいいくらいだ。 ゴールデン・ウィークに平遥に行った時など、ワン・ボックス・カーに18人がすし詰めになっていたが、その車内で中国人同士が話をしている時、お互いに「あんたの話はわからない」と言い合っていた。 中国各地から人が集まってきた場合、まず話は通じない。 だから、私のつたない中国語も、他の中国人の中国語も、聞く側にとってみれば同じなのだ。 ところで、先日、タクシーに乗った時、運転手は、私が日本人で多少中国語を理解できると知るや、あれこれとうるさいくらい話しかけてきた。 運転しながら、前方を指差し「あのクルマはベンティエンだ。その隣はファンティエンだ。お前はどちらが好きだ?」などと聞いてくる。 ベンティエンは「本田」で、ファンティエンは「トヨタ」。 こんなこともあった。 私が日本人と知るや、その運転手は「×■#●●▽……56」と勢い込んで話しかけてきた。 方言と訛りが強いので、何を言っているのかまったくわからない。 僅かに聞き取れたのが「56」という部分。「56」……? 考え込んでいると、「お前は日本人だろう。どうしてサンベンウーシーリョウを知らないのだ?」 と畳み掛けてくる。 サンベン、サンベン、サンベン……! 新郷では山を「シャン」ではなく「サン」と発音することを思い出し、「サンベン」が「山本」だということに気がついた。 ということは「サンベン56」は「山本五十六(いそろく)」のことだ! 歴史が好きで、戦争映画や戦争ドラマをよく見ているという、その運転手は、日本人嫌いにはならず、山本五十六大将を「りっぱな人だ」と敬愛しているという。 こんな話ができるから、タクシーは楽しい。 ちなみに、私が中国語を話すと、「お前の発音はちょっと変だな」 と言って、私の普通語をベッタベタの新郷方言にしっかりと直してくれた(笑)。
2007年05月12日
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昨夜は学生(男)と一緒に食事をしながら、いろいろな話をした。 2日前、その学生は次のようなメールを送ってきた。「先生、私は最近、好きな授業以外は出たくない。1級試験に合格してから目標がなくなった。会話もだんだん下手になっている。私は先生を信頼しています。助けてください」 ということで、電話をして、一緒に食事をすることにした。 特に悩みを聞いたわけでもなく、物知り顔にアドバイスをしたわけでもない。 クラスの女の子の話をしたり、私の授業について語り合ったり、最後には私と彼とで、酒を飲みながらディベートをした。 それだけのことだったが、彼は気が晴れたようだった。 中国の大学では、自分でゼミを選ぶということができない。 クラス毎に授業が割り当てられ、好むと好まざるにかかわらず、授業を受けなければならない。 中には当然、興味をまったく感じない授業もあるだろうし、相性の悪い教師もいるだろう。 彼とは、私の授業についてもいろいろな話をした。 そして、授業に対する感想も話してくれた。 その中で印象に残っているのは、「先生の授業は、今日は何をするかわからないから、いつも楽しみです」「感覚が若いです。授業の方法がとても新鮮ですよ」「先生の授業は出席率が一番高いです。みんな大好きですよ」 というもの。 聞きながらこそばゆい思いもしたものだが、常に新しい試みを取り入れるということは、以前からずっと心がけていたので、それを評価されたことは、私自身も非常に嬉しかった。 大抵は、校内を散歩しながら、いつも「次の授業では何をしようか」と考えて、自分でアイディアをひねり出すのだが、学生からヒントをもらうこともある。 学生は私にとって、(私が知識を授けるべき)学生であり、(私の授業について批評してくれる)批評家であり、(一緒に授業を作っていく)仲間であり、(悩みを打ち明けたり、語り合ったりする)友達であり、(愛情の対象の)恋人(?)でもある。 効果が高いやり方であっても、毎週続けると、1か月もしないうちに、飽きる。 学生も飽きるだろうが、それより早く、私が飽きてしまう。 今日の「会話」授業では、教科書を使った音読、CDを使った翻訳(今日は「地震」と「台風」)、そして最後にロール・プレイをした。 もっとも、途中での雑談(雑学、日本事情など)が多かったのだが。 メインは、先週、先々週と、ディベートをしていたので、今週は久し振りにロール・プレイ。 テーマは、すぐに実用できるようにと、「医者と患者」にした。 患者は明日、1年に1回の大事な試験を控えている。 その試験に合格するために、1年間、全てを我慢して、この試験にかけてきた。 しかし、1週間前から体調が悪く、病院に診察を受けに来た、という設定。 医者は、患者から症状を聞き、検査のための入院を勧める。 患者は試験を受けるために、医者を説得しようとする。 医者は患者に入院することを説得する。 言葉を尽くして、相手を説き伏せるというのが今日の目標である。 本日の座布団1枚は以下のもの。医者「私はこれまでこういう症状を見たことはありません。しかし、テレビドラマで『1リットルの涙』を見ました。あなたの症状はあのドラマと同じです」患者「えっ! 病気は何故、私を選んだのだ!」医者「(患者のまぶたをめくりながら)あなたはサーズです」患者「サーズ(絶句!)。でも明日の試験は……」医者「ダメです。あなたが良くても、他の人に伝染します」 そして、今日は、クラスの中でも、日本語が最も苦手で、「もう、日本語は諦めました」と言っていた学生が、なんと、教室の前に出て、ロール・プレイをやった! 彼女は前期は、いつも教室の後ろに座って、授業中は体を小さくしていたものだ。 それが、後期になってから最前列に座るようになり、進んで教科書を音読するようになった。 次第に発言が増え、そして今日のロール・プレイである。 こういう変化を見るのが、とても嬉しい。 そして、仲間のロール・プレイを、別の学生は携帯電話のカメラで撮影していた。
2007年05月11日
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ビルの姿がしばらく見えない。 スチュワートの説明によると、吐いてばかりでダウンしたのだという。 そのため、2日前に病院に行って診察を受け、今日は内視鏡検査をしているという。 かく言うスチュワートも昨日は数回、吐いたという。 原因は市内で食べた羊肉のバーベキューではないかということだ。 異国で最も心配なのは、病気になること。 言葉がわからない国で、症状をうまく説明することも、医者の診断を理解することも難しい。 勿論、医療機器や医薬品に対する不安もある。 そして、何より心細い。 スチュワートは数ヶ月前、尿道結石か何かで入院したことがある。 私と他の日本人先生たちは、入院こそしていないが、食あたり(か、水あたり)で数日間身動きできないことがあった。 普段は、あまり思い出すこともないが、病気の時は、やけに日本が恋しくなる。 自分の症状を正確に伝えて、医者の診断を正確に理解する。 それができることの、なんと心強いことか。 そして、何よりも大事なのは、医者と医療機関に対する信頼感があるかどうか。 私は風邪や下痢くらいなら、中国の市販薬を飲んで直そうとするが、病院に行かなければならない病気となると、話は別である。 そこまでの信頼感は、この近くの医者や病院に対しては、まだない。
2007年05月09日
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つい2か月前はまだダウン・ジャケットを着込んでいた学生たちだが、もうすっかり薄着に。 4日前あたりから、気温は30度を超え、34度にまで達しているからだ。 今日は「作文」の授業。 まずは日本語の新聞作り。 学生たちは、外国人教師へのインタビューは全て終えて、記事をまとめ終わり、その他の記事(コラム、論説など)もほとんど書き終えている。 それを私が添削して、行数を計算し、見出しをつけてレイアウトを作成する。 記事をコンピューターで入力して、大きさや行間、書体などを決めて印刷すれば完成。 10人ずつ6つのチームに分けたが、いずれのチームも他のチームに負けまいと工夫を凝らしているようだし、他のチームの記事に大いなる興味を感じている。 新聞作りのめどがついたので、今日の授業からは「日本語ドラマ」の脚本作りに取りかかった。 とはいっても、いきなり「ドラマの脚本を書きなさい」と言っても書けるものではない。 だから、まずは私が考えたドラマの設定だけを、学生たちに紹介した。 まず1つは、タイトルが『現代三国志』。 名著『三国志演義』とはまったく、関係がなく、日本、中国、アメリカの文化の違いが巻き起こす騒動を描いたコメディ・タッチのドラマである。 大学生の娘が恋人のアメリカ人留学生を家に連れてくるところからストーリーが始まる。 同じ時、弟も中国人留学生(女:恋人)を家に招待し、3つの国の文化が衝突するというもの。 しかも、姉弟の父は、外国人が大嫌いな頑固者という設定だ。 アメリカ人の台詞は英語、中国人役の台詞は勿論、中国語である。 もう1つは、打って変わって悲劇物で『好きならここにいて』。 自分の余命があと半年であることを知らない娘に、友達が「人生最後の楽しい思い出」を作ってあげようとするもの。 実は私は連休中(だから旅行していた時も)、ずっとドラマの設定を考えていた。 殺人事件などのサスペンス物や水戸黄門のような時代劇、或いはスポーツ根性物など、いろいろ考えたが、結局、上記の2つに決めた。 学生たちが演じる水戸黄門も見てみたかったけど……(笑)。 この設定を、学生たちがどのように料理するか、私自身も興味津津である。 学生たちが書いた脚本の中から優秀作を1つずつ選び、それを「会話」の時間に練習する。 「作文」と「会話」のコラボレーションである。 そして、6月にその発表会をする。 自分たちで脚本を書き、自分たちで配役を決め、自分たちで演出をし、自分たちで演じる。 すべて学生たちの手作りである。 学生たちにとっては、外国人教師インタビューとともに、きっと素敵な思い出になるだろう。 無論、私にとっても……。 「日本語ドラマ」の発表会での出し物は、他にもある。 日本語スピーチ(1班3人、2班3人)や1班対2班(各5人)のディベートも行なう。 学生たちは今、未経験のものに対して、大いなる興味を持って取り組もうとしている。 最近、学生たちの姿がとても大きく見える。
2007年05月08日
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上海や北京、広州などの沿岸部ならいざ知らず、内陸部に住んでいる日本人は多くない。 省都ならまだしも、地方の小都市であれば、尚更だ。 それでも、日本人と知り合う機会がないわけではない。 どうすれば、日本人と知り合う機会を得られるか、といえば……。 中国人とたくさん知り合えばいい。 私はそう思っている。 これまでの8か月、大学の外で、私は5人の日本人と新しく出会った。 そのいずれもが、知り合いの中国人が紹介してくれたものだ。 どこにどんな日本人が住んでいるかは、中国人がよく知っている。 だからというわけではないが、私は学校の外で中国人と知り合う機会があれば、どんどん出かけていくようにしている。 もともとも目標が、中国ではできるだけいろいろなものを見たい。いろいろなものを食べたい。いろいろな人と知り合いたい、という3つだったのだから。 先日も、そうやって知り合った中国人から電話がかかってきた。「新しい日本人が新郷市にやって来ました。歓迎会をしますから、来ませんか?」 佐賀県出身のIさんは1週間前に新郷市に来たばかりだという。 新郷市体育学校で野球を教えるのが彼の仕事である。 赴任前に北京で3か月間、中国語を勉強したのだそうだが、体育学校には日本人は彼だけで、他の職員も日本語は理解できない。 それでも、Iさんは、早速、中国語でたくさんの会話をしていた。 歓迎会の食事は、新郷市の名物「紅悶羊肉」(「悶」は火ヘンがつく)。 鍋の真ん中の白いスープはあっさり味。 周りの赤いスープが辛口で、この中にぶつ切りにした羊肉の塊がごろごろとた~くさん沈んでいる。 煮立ったスープの中から、スープの味がよく染みた羊肉を取り出し、それをハフハフしながら食べるのである。 食べても食べても、スープの中からはいくらでも肉が出てくる。 肉を食べ終わったら、肉の出汁が出たスープに、今度は野菜やきのこ、豆腐、麺などを入れて、それをまたハフハフしながら食べる。 火鍋の亜流だが、食べ応えという点で、こちらに軍配が上がる。 中国に来てから食べたもので、一番美味しかったものは? と質問されれば、「紅悶羊肉」はその候補に間違いなく入ると思っている。 それくらい、美味しい! その夜は「紅悶羊肉」を食べながら、白酒を飲み、大いに語り合った。 私とIさん以外は全員が中国人だったから、中国語で話した。 Iさんも楽しそうだった。 異国で同国人に会うと、妙な親近感を感じるものだ。 Iさんの赴任期間は2年間。 この2年間、余程のことがない限り、日本には帰らないという決意を固めているという。 中国に対する興味も、中国語を身につけようとする意欲も、ともに高く旺盛である。 中国人を怖がらず、進んでその輪に入っていける。 そういう日本人を見ると、無条件に嬉しくなる。 これを縁に、もしチャンスがあれば一緒に旅行をする約束をした。 Iさんと一緒なら、単なる観光で終わらず、視野を広げ、経験を積む旅になりそうな気がする。 新郷に来て1週間。 この日が2回目の歓迎会だったそうだが、1回目の時は白酒を飲みすぎて、吐きまくったという。 そのせいか、この日、Iさんは酒を飲むペースを抑えていた。 そうやって、覚えていくものなのだなあ、と思った。 ちなみに、この日の白酒の度数は50度だった。
2007年05月06日
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旅の2日目。 太原を後にして、列車で世界遺産の街・平遥へ。 ……という予定は、朝っぱらから頓挫した。 この日は5月1日。中国のゴールデン・ウィークの初日で、駅は、いったいどこからこんなに人が湧いて出たのかと思うほどの大混雑。「2列に並べ!」と駅の係員に睨まれ、怒鳴られ、押しのけられしながら、40分かけてキップ売り場の窓口に行くと、キップは「没有(ないよ)」という一言。 それじゃあってんで、「平遥」行きのバス乗り場を探したが、見当たらず、しょうがないから大同(中国3大石窟の一つで、有名な観光地)にでも行くか、と思っていたところ、「平遥~っ、平~遥~っ!」 という客引きの声。 値段は40元と割高(ぼられてたかも?)だったが、客引きの後について行くと、フロント・ガラスに「太原―平遥」という文字が書かれたワン・ボックス・カーが停まっていた。 タウン・エースかハイ・エースのようなそのワンボックス・カーには、既に何人もの客が乗っていたのだが、私の後からも人がどんどん乗ってきて、まさにすし詰め状態。 いったい、何人が乗ったかというと、 最前列には運転手と車掌の2人(2人) 2列目は運転席に背中を向けたシートで(つまり後方を見ている)、ここに4人(6人)。 3列目は2列目と膝を接しながら向かい合わせで、ここに私を含めて4人(10人)。 更に私たちの後ろの列に4人(14人)。 更に更に、その後ろの列に4人(18人)。 18人! それもさして大きくないワンボックス・カーに18人! すごいよな。 そして、こういうことを笑って受け入れられる自分を発見した。 当然重量オーバーでスピードが出るはずもなく、郊外のさびれた農村の中を土埃をあげながら、我らが車は走り続け、2時間かけて平遥へ。 平遥は明代の城壁がほぼ完全な形で保存されている中国唯一の街で、世界遺産にも登録済み。 これが城壁の北門。 中国では、敵の侵入に備えて街の周囲に大きな壁を作る。 それが城壁で、日本の城とは違う。 バスを降りたのは、城壁から1キロくらい離れたところで、その後は、警官や町の人に道を聞きながら、城の中(つまり街ね)へ。 とりあえず街の中心に行こうと思い、バイクを改造した3輪車タクシーのじいさんと交渉。 乗り込むと、じいさんがペダルをエイッと踏み込み、耕運機のような音を立てながら3輪車タクシーは出発した。 音も耕運機なら、スピードも耕運機並みで、おまけに排気ガスもすごい。 そんな3輪車タクシーだが、これが時々、エンストするのだ。 そのたびに、じいさんはタクシーを手で引いて(!)、目的地まで歩こうとする。 そんなら、自分で歩いたほうが早いっつーの(笑)。 で、そんなとぼけたじいさんと記念撮影。 平遥の街はすっかり観光地で、日本のどこかの門前町のような感じ。 向こうに見えるのが、平遥のシンボルである市楼。 近づくとこんな感じで、いかにも時代を感じさせる。 屋根には中国らしく、こんな手の込んだ細工がしてある。 街の中には露店がたくさん出ている。 これは餃子の皮のように丸く延ばした小麦粉を、包丁でトントントンと切って麺にし、それにタレをかけて食べるというもの。 街の中にはいかにも中国らしいこんな風景も。 昼ごはんは偶然通りかかった店で、こんなものを食べた。 山西省の名物である刀削麺は「今日はできない」とのことで、別の麺と、向こうはカステラ(ほど甘くはないけど)のようなものの中に牛肉の餡が入っていて、それに黒酢をつけて食べるというもの。 この店の主人が、面白い人で、「あんた、日本人かい?」と私に聞き、私が「そうだよ」と答えると、突然、「メシ、メシ(笑)」 と言い出した。 こちらのテレビでよく放送されている戦争ドラマでも見て、日本人の台詞を覚えたのだろう。 面白いおやじだから、一緒に記念撮影をすることにした。 私が一緒に写真を撮ろうよと言うと、そのおやじ、「よし、よし(笑)」 と答えた(爆笑)。 そんなこんなで、夕方、太原に帰って来て、今回の旅行で最後の食事(翌日は朝からずっと列車の中なので)は、なんだかわからないまま注文して、出てきたのがこれだった。 手前の麺は普通のうどん。 それを左側のタレにつけて食べる。 タレは向こう側がトマト味で、まるでスパゲッティ・ミートソースのよう。これは旨かった。 手前はなんだろうな、よくわからなかったけど、こちらも旨かった。 右側はインゲンとジャガイモそして羊肉を甘辛く炒めたもの。 これも本当においしかった。 写真では小さく見えるけど、ラーメン丼で2杯くらいの量があったので、食べても食べても減らず、とにかく必死で食べた。 今までの人生の中でインゲンをこんなに食べたのは初めてだ。 日本で、1人で中国語を勉強していた頃は、中国で生活するなんて思いもよらなかった。 まして、中国国内を1人で旅するなんて、想像したこともない。 この中国語を活かす当てもないまま、孤独な勉強を続けていたものだ。 1人だから話す機会はなく、会話の練習ができないため、たどたどしさは解消できず、聴き取りも進歩がないまま日が経った。 根気も何度も失せそうになった。 でも、今回は自分でたくさん中国語を話した。 私が中国語を話せることを知ると、列車の中の中国人や、私が乗ったタクシーの運転手、食堂の人などが私に話しかけてくれた。 それが一番嬉しかった。 観光地は写真で見ることができるが、人との交流は観光ガイドを読むだけではできないのだから。
2007年05月04日
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山西省(太原、平遥)の旅から無事に帰ってきた。 太原あたりの治安について何人かの方から情報を頂いていたのだが、運がいいのかどうか、まったく平穏な1人旅だった。 自分が行きたい所へ、好きな方法で行き、食べたいものを、誰に相談しなければならないでもなく、パッと目に付いた店にぶらりと入って食べ、街を散策し、中国語を話し、聞き、実に気ままでのんびりした旅を満喫し、困ったり、危険な目にあったり、途方に暮れたりすることは一度もなかった。 といっても、そこはやっぱり中国。 けったいなこともあった。 出発は29日の夜10時40分。 太原到着は朝の8時30分。 約10時間の夜汽車の旅である。 冬休みに南陽に行った時は、これも夜汽車(行程7時間半)だったが、無座(席がない)のキップだったので、おりしも春節の期間中の混雑の中だった。 今回は硬臥(2等寝台)だったので、ゆったりと過ごすことができた。 これが硬臥。 3段のベッドだが、カーテンなどプライバシーを保護するものは何もない。 私は下の席だったが、おじいさんに「上に登ることができないから、代わってくれないか」と頼まれたので、代わってあげた。 上の写真で、手前に写っているのが、そのおじいさん。 上段は更に狭く、上体を起こすのも窮屈。(まあ、寝てるだけだから、関係ないけど) 翌朝、太原に到着。 太原は山西省の省都で、人口は約260万人。 山西省の名物は香酢(黒酢)と、小麦粉の塊を刀で削って麺にする刀削麺。 省内には大同の雲岡石窟や五台山など、観光名所もあるが、今回は太原と平遥だけ。 平遥は明代の街がそのまま残っていて、世界遺産に登録された。 泊まったのは山西大学の学術交流中心。 大学の中の宿泊所。 大学の中はこんな感じで、どこの大学もあまり変わらない。 太原は観光都市ではないので、見るべきものはあまりないが、しかし、そこは歴史の長い中国だけあって、こんなものがある。 唐の時代に創建された崇善寺。 この大悲殿の中には千手観音菩薩像があるが、写真は撮ることができなかった。 こちらは純陽宮。 中には、こんなものが。 どちらも観光客は2、3人で、実にひっそりとしたたたずまい。 だが、こちらは観光客が多く、入場料も20元取られた(上記の2つは入場料なし)。 境内に2つの塔がそびえていることから「双塔寺」と呼ばれている。 今は牡丹が満開で、花をバックに写真を撮る人も多い。 初日は、こんな感じで、のんびりと過ごした。 翌日は、山西省の旅のメインと考えている平遥に向けて出発する。 いかにも中国らしい体験は、その平遥でおこった。 最後に、この日の食事。 昼ごはんは純陽宮近くの下町にあったこの食堂で。 入り口に「我が家に帰ったような感覚」と書いてある。 食べたのはこれ。 羊肉が入ったラーメン(というか細うどん)と、向こう側はジャガイモの千切りを醤油っぽい調味料で炒めたもの。 そして喉が渇いていたのでビールも。 ジャガイモや白菜など、単品の食材を炒めただけの料理は、簡単で値段も安いが、ほぼ例外なくおいしい。 晩ご飯は山西大学近くのこの店。 食べたのは、これ。 左が「酸辣豆腐湯」、右は「炒飯」。 中国に来てから「酸辣」と名のつく料理にハズレはない、というのが、私が発見した法則だが、この「酸辣豆腐湯」も、酸味と辛味が効いたとろりとしたスープの中に細く切った豆腐が入っていて、文句なしにおいしかった。 更においしかったのが、この「炒飯」。 油っこくなく、絶妙な味付けで、食べ終わって、店を出た時に、思わず「うめ~っ!」という声が出てしまったほど。 ただ、スープにしろ、ジャガイモ炒めにしろ、写真ではよくわからないが、かなりの量。 中国では1つの皿を何人かでつつきながら食べるので、1人には量が多すぎる。 「1人だから、量を少なくしてよね」と頼んだのだが、それでも多かった。 おいしかったから完食したけどね。
2007年05月03日
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