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心のすべての表現のなかで、もっとも啓示的なのは個人の記憶だ。 記憶というのはその人が自分自身の限界や状況の意味について持ち続けている思い出である。 「偶然の記憶」などというものはない。人は無数の印象のなかから、どんなにぼんやりとしてはいても、自分の状況に関係があると感じるものだけを記憶している。 つまり、記憶はその人の「人生の物語」を表しているのである。それ(記憶)は、人が自分の暖めたり慰めたりするために、また自分の目標に集中させておくために、さらに過去の経験を用いて自分を準備するために、そしてすでに試験済みの行動スタイルで未来に直面するために、自分に繰り返している物語なのだ。(アドラー)※そう、何を記憶しておくかということは私たちが決めているのです。偶然の記憶というものはありません。私たちはその記憶が必要だと判断したから、それを記憶しておくのです。 ですから、まったく同じような出来事に遭遇した人であっても、その記憶の性質は大きく異なってきます。 もちろん、虐待とか機能不全的な家庭での生育とか災害との出会いとか戦争とかの出会いなどの影響は強力です。負の方向へぶれやすい要因です。 しかし、それは、あくまでも負の方向へぶれやすいだけであって決定因ではありません。決定するのは私たちです。………………………………………………………………………………………… ランキングを見た多くの方に来ていただいて、少しでもお役に立てたら幸せだなあと思ってます。……応援してくださるとうれしいです。(^O^) 無料メールマガジン「きっと幸せになれる!!方法」も購読していただいたらうれしいです。
2006年09月30日
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そのような人間(絶えず競争して他人に勝とうとする人)がさらに発展していくのは容易なことではない。 人間社会は、そのような人間に対して好意的ではない。彼らは、目立つということによってすでに好かれなくなる。 彼らは絶えず優位に立とうとするので、すぐ他の者と争いを起こす。特に、彼らによって競争心を煽られる同じような性格の持ち主たちと争いを起こす。 彼らの人生は絶えざる戦いの連鎖となり、そして彼らが-ほとんど避けられないことであるが-敗れたときには、彼らの勝利と栄光の道はしばしば終わりになってしまうのである。 そうなると彼らは、簡単に尻込みするようになり、忍耐力を失い、反撃を克服することがますます難しくなる。そのときには彼らを立ち直させるのは容易ではない。 与えられた課題に失敗したことは、ずっと後まで影響を及ぼし、彼らの発展はついに終わりに至る。そこでは別なタイプの人間、つまり自分がいつも攻撃されていると感じる人間が始まるのである。(人間知の心理学)※「競争の枠組み」の中で生きている人間は、最初は勝ち続けても最後には敗北者になってしまいます。アドラーは「ほとんど避けられないことである」と明言しています。競争して敗北した人は被害妄想的な人になってしまうのです。………………………………………………………………………………………… ランキングを見た多くの方に来ていただいて、少しでもお役に立てたら幸せだなあと思ってます。……応援してくださるとうれしいです。(^O^) 無料メールマガジン「きっと幸せになれる!!方法」も購読していただいたらうれしいです。
2006年09月30日
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アドラー心理学の理論5 9、対人関係論 人間は何のために行動していると思いますか? アドラー心理学では、人の行動は全て対人関係を目的にして行われていると考えます。一つの行動には一人の相手役がいると考えるのです。 人間の行動は全て対人関係行動なのです。そして必ず相手役がいるのです。 そして、行動には、自分も相手も幸せにしていく適切な行動とお互いを不幸せにしていく不適切な行動があると考えています。 不適切な行動には、たとえば、相手に対して「誉められよう。」「注目を引こう。」「勝とう!勝てないまでも絶対負けないぞ!」「復讐してやろう。」「がっかりしてもらおう。放っていてもらおう。」などという目的で行われる行動があります。 まあ、ちょっと注目を引きたくて行う行動は誰しもあるかもしれませんが、やっぱり、あまり適切ではありません。注目をするかどうかは相手の課題なので、「すいません、もし良かったら私にしばらく間注目をして頂けませんか?」とお願いするのはいいですけどね。注目を引くために泣いて見せたりするのはやはり不適切です。 一人の行動によって、相手の行動も変わり、相手の行動によって、その一人の行動も変わります。人間はそういう相互に関係しあう複雑な関係性の中に生きていいるのです。システムズアプローチで言う人間関係のシステムの中に生きているわけです。 そして、一人一人の行動は自己決定によって変えることができます。自分の今の行動でうまくいかないのであれば、違う行動に変えればいいのです。 特に、相手の課題に干渉し、コントロールしようという傾向は、相手から「注目」「権力闘争」「復讐」「見捨てられ」という一連の不適切な行動を触発します。(支配し抑圧する親から育てられた子どもはこの一連の不適切さが増していく行動を取りがちです。) 人間関係の連鎖の中で、適切な行動の連鎖を生み出すには、お互いの権利を尊重し、相手の課題に土足で踏み込んでコントロールしようとしない、自立・自律した人間同士の関係が必要です。 相互尊敬・相互信頼の人間関係です。 健全な人は、常に自分と相手両方にとって良いことを考えます。「自分も、相手も共に幸せになるにはどうしたらいいだろうか?」と考えるのです。 不健全な人は自分の利害だけに関心があります。相手はそのための将棋の駒です。「この人は自分のためにどんなことをしてくれるか。」「こいつに私の望むとおりの行動をさせるには私は今どうしたらいいのだろうか?」と。嫌ですよね、こんな人間。つきあいたくないでしょ。 皆さん、やっぱり、共に幸せになる方向性を考えて行動してくれる人とつきあいたいでしょ?
2006年09月23日
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アドラー心理学の理論48,場の理論 人間は他の動物(虎とか熊とか)と違って、集団の協力作業によって生きていく存在です。 人は人間の共同体という場でしか生きていけません。 仮に「隠者」のような暮らしをしている人がいたとしても、その隠者は周囲の人間社会とある程度の距離を保って生きています。まったく無関係に生きていくことは不可能なのです。「他の人よりも周囲の人と距離を保つ。」というやり方で人間共同体に参加しているのです。 ですから、人は人間共同体の中に自分の貢献できる「居場所」を見つけたときに幸せになります。逆に、いくらお金が腐るほどあっても、その人が自分が必要とされる「居場所」がない。と感じれば、その人は非常に不幸なのです。 この人間共同体に積極的に参加して、協力して、何か自分のできることで貢献して、自分の居場所を作りたいという意欲のことを、アドラー心理学では「共同体感覚」と呼びます。英語ではソーシャルインタレスト社会的関心(英語じゃないか 笑 )と言います。 人間の究極の目標は人間社会の中で確固たる「居場所」を確保することなのです。 あなたはどのような「居場所」を求めますか?どのような方面でならば、あなたは周囲の社会に貢献して、必要とされる人間になれそうですか? そのことを積極的に考え、考えるだけでなくて行動に移していくことこそが幸せへの道だと我々アドレリアンは考えるのです。………………………………………………………………………………………… ランキングを見た多くの方に来ていただいて、少しでもお役に立てたら幸せだなあと思ってます。……応援してくださるとうれしいです。(^O^) 無料メールマガジン「きっと幸せになれる!!方法」も購読していただいたらうれしいです。
2006年09月22日
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アドラー心理学の理論3 7 使用の心理学 アドラー心理学では「何を持っているか?」にはこだわりません。 人はそれぞれ生まれたときから持っているものがあります。生まれつき足が速い人もいれば、生まれつき頭の回転が速い人もいるでしょう。そして、障害を持って生まれてきている人もいます。 しかし、そんなことは問題ではないのです。持って生まれてきたものをいかに上手に使って幸せに生きていくか?使い方、そう「使用」が重要なのです。ましてや、人間の使っていない潜在能力のいかに多いことか。 自分に「あれがない。これがない。」と嘆く前に、その使われていない「潜在能力」を活用しましょうよ!というのが我々の主張なのです。潜在能力を使い出したとき、不思議なことが次々と起こりますよ。人間とはほぼ無限の能力を持った存在なのです。 そして、ライフスタイル(ライフパターン=性格)を変えるというのも、ライフスタイルの中にあるものを変えるということじゃないのです。中にあるものの使い方を変えましょうよ!というだけなのです。 カウンセリングでライフスタイルを変えていく作業中に「自分が自分じゃなくなっていくような気がする。」ということをおっしゃる方がかなりいます。これは単なる抵抗なのです。ライフスタイルを変えていくというのは未知の世界に入っていく作業ですから、怖いのです。ですからつい抵抗してしまいます。そして「自分が自分でなくなってしまう」という感覚を使って抵抗するのです。 でも、ご安心を。自分を別な「存在」に変えるわけではないのです。自分の中にあるものを違った使い方をするだけなのです。 ライフスタイルとは、自分の中にある能力や様々な機能の使い方の設計図なのです。設計図を変えても自分は自分のままですよ。 「あの人は子どもっぽい人だ。」ではなくて「あの人は子どもっぽい行動をよく使う人だ。」 「あの人は穏やかな人だ。」ではなくて「あの人は穏やかな方法をよく使う人だ。」というのが正確な表現なのです。 何を「所有」しているかが問題ではなくて、どのように「使用」しているかが重要なのです。………………………………………………………………………………………… ランキングを見た多くの方に来ていただいて、少しでもお役に立てたら幸せだなあと思ってます。……応援してくださるとうれしいです。(^O^) 無料メールマガジン「きっと幸せになれる!!方法」も購読していただいたらうれしいです。
2006年09月21日
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アドラー心理学の理論26 全体論 アドラー心理学を正式には個人心理学(Individual Psychology)と呼ぶのはアドラー心理学が全体論に則っているからです。(Individualには分割できないという意味が含まれている。日本語の個人には違うニュアンスがあるので、個人心理学と呼ぶと誤解が生じますよね。) 人間が分裂した存在だって?そんな馬鹿な。意識と無意識が正反対のことをやっているだって?そんな馬鹿な。人間は分割できない相補的な統一された全体だ。と私たちアドレリアンは主張します。 その人が何と言おうが、どんなことを意識で考えようが、その人のやった行動そのものがその人のやりたかった行動なのだ。とアドラー心理学では考えるのです。 そして、もしも、意識している考えと無意識的な行動が相反しているならば、それは「その人が相反しているように見えた方が都合がいい。」と判断したからだと私たちは解釈するのです。 つまり、「学校には行きたいんだけど、どうしても行けない。」と主張する子どもがいたら、「ああ、学校には本当は行きたくなくて行かないんだな。でも、そのように率直に表明するとまずいとこの子は判断して、意識では『行きたい』と思うことにして、無意識的に行けないという症状を出しているのだな。」と解釈するのです。 「行きたいけど、行けない。」というようにその子が感じているのは嘘じゃないでしょう。しかし、その子全体として下している決断は「学校に行かない!」という決断であり、行かないという行動を選択しているのです。 意識と無意識的働きは、一見矛盾した働きをするように見えても、究極的には、ブレーキ役とアクセル役をしているだけで、最終的な結果に向けて協力して働いているのです。 その人が何を言っているかとか意識で何を考えているかは重要ではありません。何をしているかが重要なのです。実際の行動こそ、その人が「全体」として下した決断の結果なのです。 だから、アドラー心理学は精神内の葛藤を認めません。葛藤があるかのごとく感じているだけです。葛藤があるとした方が何か都合がいいのでしょう。 人と人との間には葛藤は生じます。違う人間ですから当然です。しかし、一つの統一体である人間個人の内部には葛藤などありません。というふうにアドラー心理学では考えます。 これは、世間一般の常識とはかけ離れているので最初は抵抗を示す人がかなりいます。私もそうでした。でも、長くというか1年くらいアドレリアンをやっていると、「あったりまえじゃん!!葛藤なんかあるわけないじゃん。」ってことになってきます。………………………………………………………………………………………… ランキングを見た多くの方に来ていただいて、少しでもお役に立てたら幸せだなあと思ってます。……応援してくださるとうれしいです。(^O^) 無料メールマガジン「きっと幸せになれる!!方法」も購読していただいたらうれしいです。
2006年09月19日
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アドラー心理学(個人心理学)の理論1 人間主義 アドラー心理学では、人間の精神作用には、人間だけに見られるユニークな法則があると思っています。フロイトが動物や機械のような一般的な法則が人間の精神にもあると思ってその理論を作り上げていったのと対照的に、アドラーは動物や機械に当てはまることが人間に当てはまるとは考えませんでした。 アドラー心理学は個性記述性の心理学なのです。アドラー心理学は人間は一人一人が違うユニークな存在だと信じています。人間を知ると言うことは、人間全般に成り立つ法則を発見することではなく、一人一人を動かしている個別のその人独特の法則を知ることだと考えているのです。 このように、アドラー心理学は徹底的に人間主義です。 「アドラー心理学は一貫して人間学的であり、物理・化学・動物学にもとづくアナロジーを拒否する。」(H.L.アンスバッハー)2 機能主義 人間の精神を知ると言うことはそのはたらき(機能)を知ることです。人間の精神の内部構造を分析することはあまり意味がないと考えています。 これもフロイトが人間の心を「エゴ」「イド」「スーパーエゴ」のような各要素の構造論として展開したのと対照的です。 その人間(人間一般ではなくて)の一つ一つの行動が、その人の人生の流れの中でどのような意味があるのか?ということを考えます。 そして、その人のその人独特の人生の運動法則のことを「ライフスタイル」とか「ライフパターン」と呼ぶのです。 「アドラー心理学は二重の意味で預言的である。第一には、その人の今後の人生に起こるであろうことを予見するという意味で。第二びは、今後予想される災難を回避するために、今何をすればよいかを預言するという意味において。」(アルフレッド・アドラー) 私たちがライフスタイル(ライフパターン=性格)を知ろうとするのは、その人の今後の人生がよりよくなるように援助するためです。3 目的論 物事には原因があります。しかし、アドラー心理学では原因はあまり重要だとは考えていません。なぜならば。何かを原因とする「こと」はすでに起こってしまったのです。そんな過去に存在する「こと」とその原因なんかを探ったって、ほとんど役に立たないと考えているからです。 それに、一つの「こと」の原因は百も二百もありますしね。全部を知って、変えることなんかできなでしょ。 アドラー心理学は、人間とは自ら設定した目標(Goal)に向かって主体的に行動していく存在である考えています。 あらゆる行動には目的があります。しかし、多くの人はその目的を無意識的に追求して行動しています。 「どうしてこんなことをしてしまうんだろう?」と言う人がいます。自分の行動の目的を意識していないのです。(これがアドラー心理学で分析する無意識です。) 人生の究極目標に向かうその人なりの道筋の設計図が「ライフスタイル(ライフパターン=性格)」です。 自分の究極目標を知り、その設計図に意識的になり、個々の行動の目的に意識的になったとき、人は自分の人生を大きく変える転換点に立つことになります。○今まで通りの目標に向かって、変わりばえのしない行動を繰り返して、人生を変えなくてもいいし、○目標は同じなんだけども、今までの行動よりも効果的な合理的な建設的な新しい行動をやってみるようになるってことも可能だし、○違う目標に変えて生きていく道を見つけることもできます。4 実存主義(自己決定性) 人間は変えられない運命に支配されている弱い存在ではない。遺伝や環境に縛られて身動きのとれないような弱い存在ではない。 人間は、あらゆることを自分で決定して、遺伝の結果や生育歴の結果をうまく使って、外部環境をも変えていく運命の創造者であると、アドラー心理学は考えています。 私たちは運命の主人公なのです。今使っている性格を変えることもできますし、人生の流れを変えることもできます。自分の決断によって行動を変え、周囲の環境さえ変えていけるのです。 あらゆることを私が決定します。末期の癌にかかっていることが分かっても、その状況の中でどのような方向に向かってどのような行動を選択していくかという決定は私がするのです。5 責任性 「私の人生の中で私が行動した結果起こることの全責任は私にあります。」と言える人が精神的に健康な人だ。とアドラー心理学では考えています。自分の行動の責任を自分で取ることが大事なのです。 自分のことを子どもの頃の環境や運命の犠牲者だと思っている人は、責任回避をしているだけだと我々は考えます。責任回避をする人は、自分の人生の課題に責任を持って対処することから逃げます。逃げても逃げてもそこには幸福はないのを知らなないのです。 勘違いしないでください。環境や運命の犠牲者だと感じる人を責めているわけではありません。私自身が、昔は自分のことを子ども時代の生育歴の犠牲者だと感じていましたからそういう人を責める気はまったくありません。あまりにもひどい機能不全家庭で育つと、運命を呪いたくなるものです。 しかし、ずっとそのままでは幸せにはなれないのです。過去は過去として、今どんな行動をしていけばいいのか、建設的に行動していくほか幸せになる道はないのです。責任転嫁をしやすいものに次のA~Dの四つがあります。A 過去の原因(たとえば遺伝のせい、例えば子どもの頃の環境のひどさ)に責任転嫁しても幸せはやってきません。その原因は真実でしょうけど、そのことを受け入れつつ、「今、私が幸せになるためには、何をすればよいのか。」と今の状況に建設的に対処できるのは自分だけなのです。自分の責任なのです。B 現在のひどい人的環境(例えば無理解な上司、分からず屋の配偶者、どうしようもない社会・政治)の文句を言って、責任転嫁しても何も変わりません。 そのような人的環境の中でも、環境や社会をより良くしていくために自分ができることは何なのか?ということを追求していけるのです。それが自分の責任なのです。C 感情や衝動の責任にしても何も解決しません。一般的には感情や衝動は不随意だと信じられていますが、本当は、不随意だと思っているから不随意のような働きをしてみせるだけです。 本当は、感情も衝動もその人の目的のために道具として使われているだけです。 冷静になって考えてみてください。「私はなんの目的のためにこの怒り(あるいはイライラ、あるいは悲しみ、あるいは罪悪感)を使ったのだろうか? 人によって違いますが、もしかしたら、その怒りは誰かを自分の思い通りにしたいために使ったのかもしれません。もしかしたら、その罪悪感は自分の行動の責任を取りたくなくて「いい子ちゃん」でいるために使ったのかもしれません。D 超自然的な力へ責任転嫁することもできます。運命とか、神とか、悪魔とか。 勘違いしないでください。信仰を持つことがおかしいと言っているのではありません。私もある種の信仰を持っています。「神」を信じていますし、毎日祈っています。 しかし、自分の行動の責任を「神」に押しつけようとは思いません。そんなの卑怯です。「神」は信じていますが、私の行動の全責任は私にあります。………………………………………………………………………………………… ランキングを見た多くの方に来ていただいて、少しでもお役に立てたら幸せだなあと思ってます。……応援してくださるとうれしいです。(^O^) 無料メールマガジン「きっと幸せになれる!!方法」も購読していただいたらうれしいです。
2006年09月18日
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