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2020年05月03日
タオルミーナ(イタリア)
イタリアのソレントを出港し、「クリスタル・セレニティ」は一晩かけて、
早朝シチリア島の「タオルミーナ」に到着しました。
タオルミーナ は、人口10,863人のイタリア共和国シチリア州メッシーナ県のコムーネの一つです。
(ウィキペディアより)
タオルミーナの港は小さいので、68,000トンの巨大な客船は沖合に係留し、テンダーボートで上陸します。
上陸したら、バスでロープウェイ乗り場まで移動します。
そのロープウェーで高台の町に登ると、メイン通り「コルソ・ウンベルト」に到着。
タオルミーナはシチリア島東岸、ゲートウェイシティであるカターニャとメッシーナの間にある風光明媚な街です。
ウンベルト通りの中間地点にある、町の中心の広場である「4月9日広場」
です。
タオルミーナは世界中のセレブリティがバカンスで訪れる街であることがこの写真で伺えます。
そのせいか、イタリア人にとっては憧れの地、世界的に風光明媚なリゾート地として知られています。
タオルミーナはシチリア島の他の町のように、落書きがありません。
もちろんゴミも落ちていません。
その治安のよさと町の美しさから、2017年5月にはG7サミットが開催されました。
4月9日広場の目の前には「大聖堂と噴水」があります。ここが映画「グランブルー」のロケ地です。この大聖堂は13世紀に創建され、バーリの聖ニコラに捧げられています。一見すると城塞のような建築に特徴があります。内部は三廊式の教会で、ギリシャ劇場にあったタオルミーナ産の花崗岩の円柱が、身廊と側廊を仕切る柱として再利用されています。
この広場の端は展望台になっていて、地中海とシチリア島のシンボル「エトナ山」が見えます。晴天に恵まれた日には、何十キロ先の海岸線まで見えます。
シチリア島の町々の中で、おそらく日本人に最も知られている町です。
タオルミーナと言えば、日本人には映画「グランブルー」で有名ですが、一般のイタリア人は映画のことを知らないそうです。
メインストリートのウンベルト通りは、端から端までをゆっくり歩いても30分程度でタオルミーナの観光スポットを網羅できます。
そこに並ぶカフェやレストラン、ブティックを眺めながら優雅な気分に浸れます。またウンベルト通りは観光客だけでなく、地元の人にも憩いの広場でもあります。
上の写真は「オデオン」という名の屋外小劇場です。
ウンベルト通りに面したサンタ・カテリーナ教会の裏にある2世紀頃に造られたと言われる劇場です。古代ローマ時代には、音楽ホールや会議場として使われていました。
同行の日本語ガイドさん曰く、「この遺跡の面白いところは、3つの時代の建物が重ね合わさっているのです」とのこと。
紀元前4世紀のギリシャ神殿の基壇の上に、紀元後1世紀の古代ローマ時代にこの劇場が建てられたそうです。
その一部を覆う形で17世紀にサンタ・カテリーナ教会が建てられていることです。サンタ・カテリーナ教会の中にも、遺跡の一部を見ることが出来ます。教会は、アレクサンドリアのサンタ・カテリーナに捧げられています。
ウンベルト通りを歩いている途中、「コルヴァイア宮」があります。
ギリシャ・ローマ時代の建造物の壁を一部利用してアラブ時代に塔が建てられ、14〜15世紀に左右の棟が増設されました。そのため、建物はカタロニア・ゴシック様式です。
アラゴン家の支配時代の1410年に、マルティーノ1世の未亡人であるシチリア王妃のビアンカ・ディ・ナヴァーラがタオルミーナに議会を召集して、ここでシチリア王を決めるためのシチリア議会が開かれたこともあります。
この施設にある観光案内所の中には、シチリアの飾り荷馬車〔Carretto Siciliano〕とプーピ〔Pupi〕と呼ばれるマリオネット人形のオリジナルが展示されているので、用がない人も覗いてみる価値あり。他の町の博物館にわざわざ行かなくてもここで見れます。
シチリアの飾り荷馬車が実際に動いていた頃の写真です。
ギリシャ劇場跡からエトナ山の望みます。あいにく雲でさえぎられています。
タオルミーナのランドマーク的存在である「ギリシャ劇場」です。
1787年にここを訪れたゲーテは、「世界中のどんな劇場の観客もこれほどの舞台後部の景色を目にすることが出来ない」と、「イタリア紀行(中編)」に記しています。
ここはギリシャ時代の紀元前3世紀、タオルミーナの町の中で一番見晴らしのいい丘をくり貫いて造られました。
劇場を掘り出すのに約100,000m3の岩が持ち出されたそうです。
現在見られるの赤レンガ造りの劇場は、ギリシャ時代の劇場の姿のままではありません。過去を溯って、古代ローマ時代の1世紀末〜3世紀にかけて、闘技場に改築された後の姿です。
ギリシャ時代はギリシャ悲劇や喜劇、古代ローマ時代はローマのコロッセオと同じように、健闘士と猛獣の戦いや剣闘士同士の戦いが行われていました。
現在のギリシャ劇場跡では毎年6月中旬〜9月上旬の夜、様々なコンサートや演劇、多種多彩なイベントが開催されます。
シチリア島といえば、レモンで有名です。タオルミナは美食とワインの宝庫でもあります。メイン通りにはバルやカフェ、レストランがいくつも並び、テラスでワインとランチでゆっくりと楽しみたいですね。
クルーズの人気寄港地ですが、次回はラグジュアリーなホテルで気分はセレブリティな滞在を楽しみたいと思わせる街です。
2020年05月02日
60年前に引退した「氷川丸」のエピソード
「氷川丸」運航していた日本郵船は戦前、北米や欧州など数多くの海外航路を有し、当時の世界の著名人も利用していました。
幾多もの歴史に残る客船や貨客船を世界の海に浮かべていたのです。
ブリッジから晴天に恵まれた横浜港を眺める。
過去を遡ること1922年(大正11年)
アインシュタインが夫人とフランスのマルセイユ(10月5日)から
神戸(11月17日)まで「北野丸」に乗船していたとの記録もある。
1930年に処女航海を行なった「氷川丸」(11,600トン)は
戦前戦後30年間にわたって横浜〜シアトル間に就航していた。
その乗船客のひとりに1932年(昭和7年)には
喜劇王チャップリンも乗船しました。
氷川丸の一等乗客専用のダイニングルームです。
単に食事をとるだけでなく、乗客同士のコミュニケーションの場でした。
氷川丸就航時のディナーを再現。
正統派のフランス料理です。
その後も秩父宮夫妻、フルブライト留学生、宝塚歌劇団など多彩な乗客も迎えた氷川丸。
秩父宮殿下夫妻がご乗船された一等客室のベッドルーム。
一等客室にはベッドルームの他にリビングもあります。
“客船”と言う華やかな顔を持つ半面、太平洋戦争では病院船として徴用され、
敗戦直後には復員引退者輸送に尽力したと言う時代の荒波にもまれた歴史を持ちます。
1953年、再び貨客船として
「北太平洋の花」
と言う憧れの存在であり続けた。
1960年8月、惜しまれながら引退。
処女航海からちょうど60年の歳月が流れていた。
戦中戦後に12年間の中断はあったものの、北太平洋の波涛をくぐり抜け横断すること
238回。
25,000人と言う人々の船旅を支えてきたのです。
そして、引退の翌年「横浜港開港100周年記念事業」の一環としては生まれ故郷である横浜に係留されたのである。
あれから60年経った現在、世界の客船が停泊する横浜大桟橋から山下公園側を望む一角に佇む姿は、長らく横浜港のシンボルであり続け、日本人にとって“客船”のイメージを
形成してきたのです。
氷川丸の引退を持って、日本郵船はクルーズ客船事業から撤退したが、「ポスト氷川丸」となる客船建造計画を模索した時代でもあったのです。
日本郵船百年史の「二引きの旗のもとに」に以下のような記述がある。
「氷川丸引退か?」
この噂を伝え聞いた社内外から
「何とかもう一度、客船を作ってくれ」
と言う声が、潮のように押し寄せてきたと言う。
日本郵船もクルーズ 客船事業を存続すべきか。撤退の道を選ぶのか。
非常に「もの」と「人」で作る芸術品であり、その国の文化遺産でもある。
ヨーロッパでは、外洋を走る豪華客船を持たなければ、一流の海運会社とみなされない時代があった。
金があれば、誰でもタンカーを持つことができる。それは「もの」自体だからである。
しかし、客船は、金で買うことはできない。「人」自身だからである。
しかし客船を継続することは一つの文化の伝承である。
この日本に、伝承できるものは日本郵船しかいないと自負する。
氷川丸引退の7年前の1953年、観光事業審議会は太平洋客船の建造について取り上げ、閣議決定に持ち込んでいる。
そして1959年には超党派の「太平洋客船懇談会」ができ、その委員長に就任したのは田中角栄氏であった。
1964年に東京オリンピック、70年に大阪万博と国際的イベントを控えていた日本国内で「海洋国家日本のシンボルとして、新しい客船を」と言う声が官民問わず高まってきた。
日本郵船はこの気を捉え、1959年に作成していた新造船計画「太平洋横断客船建造計画関係資料」を田中委員長に提出する。
その内容は前出の「二引きの旗のもとに」によれば次のようなものであった。
3万1000トン、航海速力26ノット(※1ノット=時速1.852キロ)、最高速力31ノット、客室定員1200人。
これを2隻揃えて、サンフランシスコ、ロサンゼルスの航路に配船する。
船価は2隻で当時の金額で 概算300億円。日本船主協会、海運造船振興協議会など業界団体から客船建造の要望書が提出された。
ホノルルやロサンゼルスの日系人商業会議所から総理大臣あての要望書も到着した。
運輸省(現在の国土交通省)は田中委員長の強力なバックアップと、これらの要望により、1959年度予算で一般会計10億円、財政投融資13億7500円の予算案を策定。
計画通りに進めば第一船は1963年7月、第二船は1964年7月に完成するはずだった。
しかし、天災が夢のプランを本当に夢のままにしてしまう。
59年9月に猛烈な台風が紀伊半島や東海地方を襲い、5000人以上の死者・行方不明者を出した伊勢湾台風である。
当時の大蔵大臣・佐藤栄作氏は客船に当てていた予算を伊勢湾台風被害復旧に回すことを決定。
こうして新造船プランは伊勢湾台風と言う風と共に去ってしまう。
日本郵船首脳は、ジェット機時代を迎えて、「もはや客船の時代は去った」と判断するしかなかった。
経済合理性という厳しい現実が、氷川丸の引退。そして客船事業からの撤退を決断した。
日本郵船百年史の「二引きの旗のもとに」より
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