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2021年08月08日
昨夜の夢から、新型コロナ禍で思う妙案
そして、夢を見ました。
会社で学祭のようなイベントをしてました。
これは、各々の会社がしているものがどうかは不明でしたが、雰囲気的に日本全国の会社がそれぞれ独自に行なっているかのような感じでした。
すこし前に気づいていたのですが、「会社」という名称はいつからできたのか知りませんが(明治期か、江戸後期か、それ以前か・・)、その名称に込められた想いは、「社(やしろ)で会う」というものではないかと。
もっと言えば、「社会」という言葉自体も、その意味が込められているのかもしれません。
ずっと以前から、日本では異なった思想のものも、難なくといっては語弊があるかもしれませんが、どうにかこうにか、上手く取り入れて行きました。
約1400年前には仏教が、その後、明治、大正期には西欧の思想やキリスト教までも取り入れています。
伝染病に関しても同じです。
聖武朝の長屋王の変といわれる事件を発端にしたものは以下のようになっています。
聖武天皇、即位の2月4日、聖武天皇は母の藤原宮子に大夫人の称号を与えた。
前例がないことから、3月22日、左大臣 長屋王は天皇に撤去させた。
神亀6年(729)2月 長屋王は讒訴され、天皇は藤原不比等の三男、式部卿の藤原宇合を将として、長屋王の邸宅を囲ませた。長屋王は室の吉備内親王と四人の子とともに自害した。ところが長屋王の室であった不比等の娘の多比能を救うために、事件直後に一族の罪が許されている。
8年後の、天平9年(737)4月
全国的に天然痘が大流行する。
4月17日 参議民部卿 藤原 房前(次男)
7月13日 参議兵部卿 藤原 麻呂(四男)
7月25日 左大臣 藤原 武智麻呂(長男)
8月 5日 参議式部卿 藤原 宇合(三男)
が次々と死亡する。
藤原氏を総なめにしたこの疫病は、いうまでもなく長屋王の怨霊の仕業と見られたのか、難波宮への遷都はこれにより挫折した。宇合は知造難波宮事でもあった。
方位の上から、改めて恭仁京が都として選ばれる。
天平14年(742)正月元日
恭仁京の内外に大楯槍(おおたてぼこ)が立てられ王京となった。
ところが、5月10日に越智山稜が長さ11丈、広さ5丈2尺にわたって崩壊した。皇極女帝の御陵であり、長屋王の祖先にあたる。知太政官事である鈴鹿王ら10人を修理に遣わせている。(藤原一門の死亡の直後の9月28日に、長屋王の弟である鈴鹿王を知太政官事に任命している。)
9月12日には大風雨があり、宮中の屋墻が壊れる。
11月11日には大隅国司から、去る23日から28日にかけて、空中に太鼓のごとき声があり、地が震動したと奏した。使者を遣わして、神の命を請い聞かされる。
さらに、12月16日には、地震があった。
天平15年(743)になってからは、
3月から5月まで雨が降らず、諸社へ幣帛使(へいはくし)が派遣される。
6月20日、酉の刻から戌の刻にかけて、宇治川の水が涸れて、徒渡ることができた。
7月5日には、出雲国司から、つねとは異なる雷雨があったといい、上総国からも7月に数日にわたる大風雨があっあと奏した。
こうした異変のため、7月から11月までの4ヵ月、紫香楽宮に滞在中、大仏殿建立を発願される。想像を絶する巨大な盧遮那仏も、怨霊を鎮めるためのものであった。
そしてその年の終わり、恭仁京を捨てることになる。そこで再び難波宮とすべく、難波宮に遷られる。
ところが天平17年(745)、
4月1日に市の西山が火事になり、3日には寺の東山が火事、8日には伊賀国真木山に火が出て34日間消えなかった。また、11日には宮城の東の山が火事、と連日つづき、都下の男女は競って川辺に物を埋めた。そのため大赦が行われた。
さらに月末から5月にわたり、こんどは連日の地震がつづいた。「続日本紀」には、「この月の地震、常に異なり、往々?裂して、水泉涌せり」と記されている。
その地震の最中で、何処に都を置くべきかと、百官や寺僧に下問し、ついに難波宮を捨てることになる。
そして、5月6日には、平城京の宮門に大楯が立てられ、平城京が復活することになる。天平17年(745)5月6日
(以上、鳥越氏の「飛鳥と難波」参考にまとめました)
聖武天皇は、大仏殿建立の詔により、民の意識をプラスの方向へ向かわせてその意識の総意によって、疫病や、さまざまな災害を防ごうと考えられたのだと思います。
今の世の中、経済性ももちろん大事ですが、各々の会社が、明るい未来を描いて、楽しく働き、生きていけるように、さまざまな「社祭」をしてみるのも妙案ではないかと思いました。
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