2013年05月18日投稿。
紀伊を世話し始めてから数日が経った。
堅いものが好きなのかと思ったら何でも食べてしまうらしく、食べるものに関してはお前がちゃんと管理しておやり、と、座長に言われた。もちろん鰹節を盗んだこともバレているようだった。怒られこそしなかったが、次はないよ、と、あの目が語っていた。
そもそもそういうことは早く言ってくれよ思いながら、そういうことなら、と、とりあえず雑炊やうどんといった、安易に食材が手に入るものを作って与えることにした。
今のところ不満の声はない、が、何でも食べるから言わないだけで、やはり一番美味しそうに食べていたのは鰹節のような気もしなくもない。
いやでも勘弁してくれ、座長は普段優しいが本当に怒ると怖いんだ。
そんなこんなで数日世話をしているわけだけど、とりあえず家事を覚えさそうと毎回家事に同行させてみるのだけど、じっと見つめるだけで同じことをしようとしない。
銀はいつも紀伊に話し掛けながら家事をしてみるが、言葉を覚えてくれなくて、声は返ってこない。たまに、子猫のようになぁー、なぁー、と鳴いているけれど。なので、傍から見たら銀は独り言を漏らしながら家事をしているようにしか見えないのである。
もしかしてこのまま何も家事を覚えてくれないんじゃないだろうか。そう思うと、銀の気も自然と重くなり、溜め息しか出なかった。
だが、そんな紀伊にも率先してすることがあった。
布団引きである。
「でも……、」
洗濯物を畳みながら、銀はちらりと横を見る。
「自分が寝たくなったらすぐに布団を引くのは止めてくれないか、お紀伊。見たら判るだろ、洗濯物畳むのには広い場所がいるんだよ」
はぁああああぁ、と、銀はまた溜め息を吐いた。
しかし紀伊は布団を引いて、毛布を抱き締めたまま、ずっと、ずっと、こちらを見ているのである。
そうまるで添い寝を催促するかのように。
「ダメだよ、お紀伊。そもそもお前が手伝ってくれないから時間が掛かるんだ」
銀は憎まれ口を叩いてから、再び洗濯物を畳み始める。総勢二十人弱の廓座の座員達の洗濯は銀の仕事だ。毎日毎日こなしているけれど、さすがにこの人数分一人で洗って干して畳んで部屋に持っていって。
はぁああああぁ、銀は大仰に溜め息を吐いた。
せめてお紀伊がちょっとでも手伝ってくれりゃあなぁ。
そう思いながらまた横目で紀伊を見ると、やっぱり添い寝を催促するかのようにこちらを見たまんまだった。
なぁー、なぁー、なぁー。
銀は顔を逸らす。
ダメだよ、そんな声出したって。
振り払うかのように首を振って、銀は手を動かした。
今は紀伊の相手より、早く洗濯物を畳むことが大切なのだ。
「特にあの鴉の野郎、ちょっと遅れただけでうるさいんだから」
そう言いながら、せっせと洗濯物を畳み出す。と。
なぁー、なぁー、なぁー、なぁー、なぁー。
また、紀伊が鳴き始めた。心なしか、その鳴き声が激しくなっている気がするもんだから、救えない。
はぁああああぁ、
銀は溜め息を吐いた。
「お紀伊、眠いならお前だけ寝ればいいよ。俺はさ、まだ洗濯物畳んで皆の部屋に持ってかないといけないから」
言って銀は紀伊を無理矢理布団に押し倒して、毛布もふんだくり、それを紀伊に掛けてやった。
すると、一丁前にこちらを睨み付けてくるもんだから、それにはさすがにびっくりして、銀は目を丸めた。
こいつ、こんな表情したっけ。
そう思いながらも、
「お紀伊、後で遊んでやるから、ねんねしてな」
睨み付けるその眼に気付かないふりをして、銀は背を向けて、洗濯物を畳むのに集中することにした。
そうして暫くが経った。ようやく全ての洗濯物を畳み終わって、各部屋に持っていくのを紀伊に手伝ってもらおうと振り向いたその時。
ん?
銀は血の気が引くのを感じた。
紀伊が、いないのである。
銀は急いで立ち上がり、
「お紀伊!」
叫びながら部屋を出たところで、冷静になる。
いや、あの眠たがりの紀伊が、わざわざ長屋の外に行くとは考えにくい。行動範囲など、所詮自分が連れて歩いた程度だろう。
そう考えると、銀は部屋に取って返し、洗濯用の大きな煮柳籠に畳んだ洗濯物を詰め込んで、よし、と気合いを入れて持ち上げた。
どうせ洗濯物を配らなきゃいけないのだ、そのうち何処かで紀伊に遭遇するはずだ、と。
そうして銀はあっちこっちそっちへと、どんどん洗濯物を配達していく。
しかし、ほぼ配り終えた時点で、まだ見つからない。
さすがの銀も、少し焦りを覚える。
もしかして外に出たりしていたら……。
昨今、妖怪に対する風当たりは、消していいものではない。我々のように妖怪であることを売りにして興業をやっているものや、人の姿になれるものならまだしも、外を妖怪が彷徨いているなど、見つかりでもしたらどのような目に合うか。
銀はその身をもって重々思い知らされていた。
紀伊はあんな見た目だから、鬼だ鬼だと蔑まれてしまうかもしれない。
そう思うと、手伝いもせずに添い寝を催促してきた紀伊を放ったらかしにしたことを後悔する気持ちが生まれてくるのだから、不思議なものである。
ごめんな。
銀は泣きそうになりながら、残りの部屋へと洗濯物を運んで、とうとう残りは最奥の部屋、お妲の部屋だけになった。
ここにいてくれますように……!
祈るような気持ちで銀は戸を開ける。
が、
「……、」
そこはがらんとしていて、もちろんな話、興業で舞台に立っているであろうお妲の姿もない。
「お紀伊……?」
いや、声を掛けたところで返る言葉があるわけではないのだが。
銀は泣きそうになった。
俺が、俺が構ってやらなかったばっかりに、紀伊が消えてしまった!
銀は、急いで座長の部屋へと走った。こういう時は、座長に頼るしかない。世話をしてやってくれと座長に頼まれておきながら、不注意で紀伊がいなくなってしまって、怒られるもはもちろんそうだろうが、今はそれ以上に紀伊を早く探してやらないとという思いでいっぱいいっぱいだった。
長屋から少し離れたところにあるこじんまりとした茶室の戸を慌ただしく開けると、銀は叫ぶ。
「座長! 座長! もうっ、お仙さんどこにいるんだよぅ!」
いや、分かっている。
部屋にいないなら庭にでも出ているに違いない。
座長は日向ぼっこが好きなのだ。
「お仙さん!」
銀は小さな茶室を抜け、枯れ水を望む縁側へと身を乗り出す。と。
「うるさいねぇ、銀の字。お紀伊が起きちまうだろうが」
襦袢姿の座長が膝枕に紀伊を寝かせてやりながら、不機嫌そうに声を出した。
銀は肩の力が抜けた。そしてへなへなと、その場にへたりこんで。
「おせんさぁあああん」
ぽろぽろと雫を零しながら、安堵の息を漏らした。
それを見て、不機嫌そうな視線を浴びせていた座長も、溜め息を吐く。そして銀の頭を撫でてやった。
「そんな心配するんなら目を離すでないよ」
尚も雫を零しながら、銀はこくこくと頷いた。
「この子ったらここに来るなりアタシを睨み付けて膝に陣取るもんだから、アタシも何も出来やしないし、」
座長はわざとらしく息を吐く。
「しかしこの子は寝てばかりだねぇ。銀の字、お前ちゃんとしつけてやってんのかい」
「……、」
「まぁいいさ。夕餉まで、お前は暫く部屋で休んでな。膳の用意ができる頃に、お紀伊連れて迎えにいくから」
座長の手は大きくて、銀は安心に身体の力が抜けるのを感じた。
そしてぽつり。
「俺もお紀伊とここで寝る」
「は?」
言って、そのまま座長にしがみついた。
不機嫌そうな声は聞かなかったことにして、暫しの間、おやすみなさい。
右には紀伊、左には銀。
お仙は苦々しげに悪態を吐いた。
「お前等なぁ、人を枕と勘違いしやがって」
そう言いながらも銀を撫でてやる手を止めないもんだから、自分もたいがいお人好しが過ぎるな、と、鼻で笑った。
「しかし本当に、アレが寄越しただけあって、一日中寝てばっかとはな。さすがに困るわ。そろそろ調教してやらんとな、なぁ、お紀伊」
お仙のにやりと笑うその顔を見るものは、今は誰もいなかった。
続く
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