2013年07月09日投稿。
「お前、髪……、」
そろそろ紫陽花も彩り見せそうな今日この頃、長屋をぽてぽて紀伊と歩いていると、不意に後ろから声を掛けられた。鴉だ。
声に銀が振り向くと、いつも以上に不機嫌そうな顔をしている。
なんだよ、声を出そうとすると、鴉が珍しく紀伊をまじまじと見てるもんだから、銀は首を傾げた。
「おい、銀、お前さ、」
「なんだよ」
「髪ぐらい梳かしたりぃさ」
そう言うと、鴉は不愉快そうに紀伊の髪を引っ張った。すると、絡まった髪が鴉の指に絡み、紀伊が痛そうに、なぁー! と鳴いた。
「見とって鬱陶しいわ」
その吐き捨てるような物言いに、銀はバツが悪くなって顔を逸らした。
「だって、髪とかどうすればいいか分かんないって」
そうしてよくよく省みたら、風呂場で洗ってやる時も割と雑にした記憶しかなくて、自分がなんだか情けなくなって、銀は口をつぐんで俯いた。
そんな銀を鴉が尚も睨み付けるもんだから、紀伊は不安そうに二人を交互に見やって、か細い声でなぁなぁと鳴いた。
「ブラシなら上物お妲が持っとるきに貸してもらいぃさ。それかもうばっさり切ってしまいよし」
言いながら、鴉は鬱陶しそうに紀伊の髪を引っ張った。
それになぁーなぁー鳴いて抗議するも、鴉は止めない。
「っていうか何でそんな不機嫌なんだよ」
紀伊を引っ張って庇うと、銀は鴉を睨んで抗議した。
すると鴉は事もなげに、
「見とって鬱陶しいからだろが」
また同じ言葉を口にした。
すると鴉は踵を返し、次見た時も同じだったらその髪ちょん切るぞ、なんて言いながら、長屋の奥へと消えていった。
そんな背中を見送ってから、なんなんだよ、と、一人ごちてから、再び紀伊を見る。長い髪は来た時と違い、いつの間にかぼさぼざ跳ねているし、ところどころ絡まっているせいで髪の量以上の重量感を覚えた。なるほど、鴉が鬱陶しいと言うのも分かる気がする。
そもそも鴉なんかは自身の長い黒髪を自慢にしているし、ああ見えて手は器用で身だしなみに気を付ける方だから、余計に気になるのかもしれない。
これは一度姐さんに何とかしてもらった方がいいかもしれないな。
そう決意して、とりあえずで洗濯してそれを全て干してしまうと、紀伊を連れてお妲の部屋へと向かうことにした。
そう、まさかそこでそんな悲劇が訪れようとは、考えもせずに、だ。
「姐さん、話があるんだけど……、」
そう言って銀が戸を開けると、最初に聞こえてきたのは、何と舌打ちだった。
吃驚して目を丸くしたまま突っ立っていると、
「おや、銀の字じゃないかい」
大きな狐が嬉しそうに九つの尻尾を振った。
するとまたその背後から舌打ちが聞こえ、のっそりと不機嫌そうな鴉が顔を出したもんだから、一瞬、銀は状況が理解できずに、硬直した。その後、一気に泣きそうになって、そんなの誰にも見られたくなくて、
「おおおおおおお、お邪魔しましたっ!」
叫ぶように言って、走って逃げた。
逃げて逃げて逃げて、自分の部屋へと駆けずりこんで、紀伊が敷きっ放しにした布団に顔を押し付けた。
そんな、まさか、鴉まで。
頭が混乱して、もう何が何だか分からない。
いや、確かに、鴉が座長やお妲と旧知の仲だということは知ってはいたのだが、まさかそんな仲だなんて思いもせず。
銀は、瞳を潤ませながら思った。
「俺一人、馬鹿じゃないか……、」
ぎゅっ、銀は掛け布団を握り締める。
「俺一人、馬鹿じゃないか、なぁ、お紀伊……、」
そう言ってごしごしと目を擦りながら立ち上がると、銀は絶句した。
紀伊が、いないのである。
しまった。なんてことを。
どうやら銀は自分があの場に居たくないという衝動に身を任せたせいで、紀伊を置いてきてしまったようである。しかもよりによって、紀伊の髪に不機嫌になっている鴉がお妲と楽しんでいるところを邪魔する形で、だ。
しかし、何となくバツが悪くて、そもそもこんな顔を二人に見せたくなんかなくて。
銀は暫くぼけっとしていた。
生返事の多い奴ではあったけど、鴉にはたくさん話を聞いてもらっていた。それなのに、まさかその鴉が……。
考えれば考えるほど、頭が混乱してくる。
こうしてぼんやりしていても嫌なことばかりが浮かんでくるので、銀はそれを振り払うように頭を振った。
「もういいや、掃除して、洗濯物取り込んで、配るまで、それからだ……、」
そうして何も考えずに済むようばたばたといろんな場所を掃除して、乾いた洗濯物を取り込んで、畳んでしまって。
いざ洗濯物を配る段になって、また気が重くなって。
溜め息を吐いた。
それでも仕事は仕事だ。そう自分に言い聞かせて、洗濯物を配りに行くことにした。
そうして洗濯物を届けに行くが、まだ、鴉は部屋に帰ってはいないようで、自然、長屋の奥に近付くにつれて足が重くなるのを感じた。
はぁ……。
一つ息を吐く。
そうしてそっとお妲の部屋の戸を開ける、と。
「おや、銀の字じゃないか」
また、嬉しそうな声でお妲が言った。
「……、お妲姐さん、あの……、洗濯物……、」
もごもごと銀が口を動かすと、また、お妲の後ろから舌打ちが聞こえる。
「おい、銀、」
鬱陶しいもん置いていきよってからに。
鴉が不機嫌そうに言うので、恐る恐るそちらに目を向ける、と。
そこにはばっさり髪の短くなった、紀伊がいた。
腰ほどあったそれは、肩を少し過ぎる程度になっていて、しかも綺麗に梳かされているだけでなく、髪には編み込みまでしてあった。
そのあまりの変わりように銀が口をあんぐり開けていると、お妲は嬉しそうに口を開く。
「ねぇ、本当、鴉の字は手が器用だねぇ、お紀伊、可愛くなったじゃないか」
くすくす笑いながら、お妲は紀伊を撫でてやる。するといつものように、嬉しそうにごろごろと喉を鳴らすもんだから、銀は苦笑いを漏らした。
するとまた、鴉が舌打ちをする。
そしてすくっと立ち上がると、俺はこれを見せびらかしてくる、と、戸の外へと紀伊を引っ張っていった。
そしてすれ違い様、
「まぁ、気張りぃさ」
こつん、銀の頭を軽く叩いて言うもんだから、銀はきょとんとして、そのまま鴉と紀伊の後ろ姿を見つめる他なかった。
「ふふふっ、銀の字は本当、可愛いねぇ……、」
「はぁあああぁ!?」
そうして擦り寄るお妲に動揺する銀の姿を、鴉と紀伊が、知る由もなく。
「だいたい何で俺がこんな」
言いながら鴉は紀伊を引っ張っていく。
そうして暫く引っ張ってって、紀伊を銀の部屋へと無理矢理押し戻すと、念を押すように、
「銀は頼りにならんから、これからは自分で髪梳きよし」
と、吐き捨てるように言ってから、懐からお妲に貸してもらったブラシを、投げて寄越した。
「髪ぼさぼさにして寄ってきても、相手にせぇへんぞ」
そう言って部屋から離れていった鴉の後ろで、紀伊は嬉しそうになぁーなぁー鳴きながらブラシを玩んでいた。
続く
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