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2015年11月18日
大坂夏の陣
南京で日本軍による虐殺があったかどうかということがよく話題になりますが、日本でも過去同じようなことがありました。大坂夏の陣です。当時、大坂城と言われているのは、大坂の街そのものでした。城の攻防戦ではなく、大都市大坂の攻防戦だった訳です。
織田信長の虐殺はよく非難されますが、この戦いでの徳川側の残虐さがあまり非難されることがないのが、不思議です。
死者も2万〜10万にもなり、周辺の川も死体で埋め尽くされたと、当時日本にいた宣教師も当時の悲惨な様子を記録に残しています。
落城後、徳川家康もそのようなところに居づらかったのか、すぐに京都に戻っています。
当時は、戦国の混乱が収まり、長い平和なときが続いており、豊臣の威光と、秀頼の人気により、多くの人々はまた、豊臣の世の中に戻ると、思っていたと言われています。
最初から勝負が決まっていたような戦いで、豊臣側の愚かさばかりが強調されますが、その悲惨な結果を淀殿と秀頼に全ての責任を押し付けようとしたためだと、思えてしまいます。淀殿も淀君と売春婦のような言い方をされることもよくありました。
豊臣秀頼はこの戦いで死んだとされていますが、薩摩に逃げたという話もあります。実際に秀頼の墓と言われているものが、鹿児島県にはあるそうです。
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