2017年08月13日
戦時中の記憶 警戒警報
毎晩のように空襲警報、警戒警報で幼かった私は戦争が恐ろしくゆっくり眠ることもできなかった。
一晩のうちに何回も警報が鳴るようになると、私はすぐに逃げられるよう、靴を履いたまま床に就くようになった。
神経質な私を思いやり、母は何一つ小言を言わなかった。
夕方暗くなると、近所の交番のお巡りさんが、明かりのもれている家に声をかけた。
とても、親切で住民の安全を気にかけていることが、幼い私にも感じ取れた。
家の中で明かりのついている部屋は一か所だけだった。
電気の傘のまわりに風呂敷をかけて、明かりが外に漏れないよう気をつけた。
当時、家にいたのは母、小学3年の長女、一年の次女、5歳の三女私、弟の家族5人だけだった。
父のいない家はとてもさみしく、心細かった。
父は、東京の軍需工場で働いていた。
近所には大人の男性はいなかった。
警報が鳴ると裏庭にある防空壕に逃げた。防空壕の中は暗く恐ろしさをさらに強く感じさせた。
昼間、警戒警報や、空襲警報が鳴ったか覚えていない。
そのころまで、警報は鳴っても近くで爆弾が墜ちたことはなかった。
有機大麦若葉を使用した有機高原の青汁!
一晩のうちに何回も警報が鳴るようになると、私はすぐに逃げられるよう、靴を履いたまま床に就くようになった。
神経質な私を思いやり、母は何一つ小言を言わなかった。
夕方暗くなると、近所の交番のお巡りさんが、明かりのもれている家に声をかけた。
とても、親切で住民の安全を気にかけていることが、幼い私にも感じ取れた。
家の中で明かりのついている部屋は一か所だけだった。
電気の傘のまわりに風呂敷をかけて、明かりが外に漏れないよう気をつけた。
当時、家にいたのは母、小学3年の長女、一年の次女、5歳の三女私、弟の家族5人だけだった。
父のいない家はとてもさみしく、心細かった。
父は、東京の軍需工場で働いていた。
近所には大人の男性はいなかった。
警報が鳴ると裏庭にある防空壕に逃げた。防空壕の中は暗く恐ろしさをさらに強く感じさせた。
昼間、警戒警報や、空襲警報が鳴ったか覚えていない。
そのころまで、警報は鳴っても近くで爆弾が墜ちたことはなかった。
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