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プロフィール

うさぎさん
小さな貸農園で無農薬の野菜を栽培しています。 畑にいるときはいつも、ルンルンです。

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2017年08月17日
旧、静岡市が空襲警報で安倍川に避難した日の思い出
静岡空襲の日、確か6月19日

あの日はどうして空襲があると分かったのでしょうか?

まだ、5歳だった私は母に手を引かれて安倍川に向かって歩いた。

桑畑のそばの田んぼの中を歩いていた。

空から赤い火がチラチラと降りつづけ、幼い私はとてもきれいだと思った。

神経質で、警報が鳴るたびに恐ろしくて、防空壕に逃げ込んでいた私だったが

この日は、恐ろしいと思わなかったのは、なぜでしょうか。今でも理解できない。


母は4人の子供に支度させるのに手間取って安倍川についたのは朝方だった

ように、記憶している。

桑畑のある細い道を一番土手に向かっているとき、桑畑の中に大勢の人々が

すわっていた。そこに避難していたのだろうか。

あとから聞いた話によると、早く非難した人たちはけがをしたり、亡くなったりして

桑畑の中に座り込んでいたようだ。


母は4人の幼子に支度させるのに手間取り、逃げるのが遅くなっていたのだ。

その時刻に安倍川に向かって歩いている人はほとんどいなかった。

母はわき目もふらず、ただ安倍川に向かって黙々と歩き続けた。

普段は活発な二人に姉もおとなしく、母のそばを離れなかった。


一番土手を上り下るとそこも桑畑だった、桑畑をとおりぬけて二番土手を

昇った。母は安倍川には降りず、土手を南に歩き続け市内のほうが見えるように

すわった。私も姉たちも母にならって、土手にすわった。

安倍川には大勢の人たちがいたようだが、土手の上に人の姿はなかった。


私たちが安倍川についたころには、爆弾も、焼夷弾も安倍川には落ちてこなかった。

空襲も終わりあたりがすっかり明るくなってから家に戻った。


家の中には見覚えのない荷物がたくさん放り込んであった。

逃げる途中で預けて行ったのでしょうか?

あの日の桑畑の中に座り込んでいた人々、道路に倒れていた人々。


思い出すたびに戦争の悲惨さを感じる。

世界中から戦争が無くなる日が一日も早く来てくれることを願う。

平和な時代に生活できているので、健康に生きていきたい。
















母は弟を背中におんぶし、私の手をしっかり握りしめていた。

姉たち二人は母のそばから離れなかった。

2017年08月14日
戦時中の記憶 食糧事情 そして戦後の食糧事情
戦時中は食糧不足が続いたけれど、三度の食事には事欠かなかった。

今のように、満足するまでとはいかなかったけれど、さつま芋の切干など一斗缶に

いっぱい保管されていた。

また、子供達だけで、食糧の豊富な田舎の遠い親戚に疎開させられた。

庭に植えられた果物の木、あれは柿の木だったと記憶しているけれど自由に

食べることができた。食事も白米を十分にいただけた。


けれど 、戦後になると食糧事情は一変した。

配給が始まったけれど、そのなかには古くなって割ると糸を引く パン

アメリカから送られてくる豆かす(これはフライパンで炒ってたべると香ばしくて

なんとか、食べることができた)。

ふすま(麦のぬか)はぼそぼそしておいしくなかった。

芋粉(生のさつま芋を乾燥させて粉にしたもの)これは腐ったさつま芋を混入させてあり

苦くて食べられなかった。 

でも大人はそれでも我慢して生きるために食べた。

子供たちは、毎日お腹をすかしいつも何か食べたいと思っていた。

ガリガリにやせている子供たちが大勢いた。



買出しは違法ですが生きるためにやむを得ず行く人たちがいる一方で

商売のために行う人たちもいて、闇市ができた。

警察につかまり全部取り上げられる人たちがいる一方で上手に潜り抜け

大儲けする人たちもいた。

それで、ある家では食糧不足がなくなった。


終戦の翌年、小学校に入学した。一年生だけで6クラスもあった。

しかも、ひとクラス60人以上いた。


ある日,先生が教壇に新聞紙を広げ金平糖を数えはじめた。

そして、一人に一包み手渡してくれた。配給が学校で行われたのだ。

たしか、16銭だったと記憶している。うれしくて大事に大事に抱えて家に帰った。

学校での配給はそれ一回だけだった。

今は、飽食の時代で余った食事を簡単に捨ててしまう。

一方で世界のどこかで、いつも食糧不足に苦しんでいる人々がいる。

食糧を無駄にしないで、感謝の日々を送りたい。
















2017年08月13日
戦時中の記憶 警戒警報
毎晩のように空襲警報、警戒警報で幼かった私は戦争が恐ろしくゆっくり眠ることもできなかった。

一晩のうちに何回も警報が鳴るようになると、私はすぐに逃げられるよう、靴を履いたまま床に就くようになった。

神経質な私を思いやり、母は何一つ小言を言わなかった。


夕方暗くなると、近所の交番のお巡りさんが、明かりのもれている家に声をかけた。

とても、親切で住民の安全を気にかけていることが、幼い私にも感じ取れた。

家の中で明かりのついている部屋は一か所だけだった。

電気の傘のまわりに風呂敷をかけて、明かりが外に漏れないよう気をつけた。

当時、家にいたのは母、小学3年の長女、一年の次女、5歳の三女私、弟の家族5人だけだった。

父のいない家はとてもさみしく、心細かった。

父は、東京の軍需工場で働いていた。

近所には大人の男性はいなかった。

警報が鳴ると裏庭にある防空壕に逃げた。防空壕の中は暗く恐ろしさをさらに強く感じさせた。

昼間、警戒警報や、空襲警報が鳴ったか覚えていない。

そのころまで、警報は鳴っても近くで爆弾が墜ちたことはなかった。

有機大麦若葉を使用した有機高原の青汁!



2015年09月08日
戦争は終わっていたが
戦争が終わって何か月もたっていた。

高子はいつも母のそばを離れない。

終戦後、何か月も過ぎても戦争体験が脳裏から離れない。


その日も、昼食を準備している母のそばでお手伝いをしていた。

ウ〜 ウ〜 ウ〜。空襲警報だ!

高子は、母にしがみついた。

戦争はもう終わったのよ。

やさしく、母が語りかけた。


昼のサイレンにあの空襲警報のサイレンが使われるようになったのだ。

あれは、戦争が終わってどれほど経ったころでしょうか?

幼い高子には理解できていなかった。


あのサイレンの音は何年たっても気分の良いものではない。

大人たちはすぐに、あの音が気にならなくなったのでしょうか?


終戦後何年たっても、空襲警報のサイレンは恐怖感を思い出させる。

戦争のない世界が早く来るように願う。


昨今はおいしい物も健康的な食品も多くいつまでも平和であってほしい。










2015年08月06日
戦時中のおはなし。
まだ、学齢期前だった高子は空襲警報におびえていた。

毎晩のように空襲警報が鳴るようになった。


寝間着に着替えることもなくなった。

とくに、高子は戦争が恐ろしかった。


父は飛行機を作る、家から200キロ以上離れた軍需工場に勤務していた。

家に帰ってくることはなかった。

そのため、家には幼い4人の子供を抱えた母だけがいた。


同じ、町内には大人の男性はいなかったように記憶している。


隣のおじさんは、兵隊に行ってしまった。

その隣のおじさんも、向かいのおじさんも、おにいさんも。

みんな、戦争に行ってしまった。


周りに、お兄さんもおじさんも誰もいなくなった町内には女の大人が

頑張っていた。


幼かった高子は子供らしい遊びをしたりしなかった。


いつも、母のそばから、離れようとしなかった。


その日は、朝からいつもと違う様子だった。

夕方になると、大勢の人々が安倍川にむかった。


つづく



2014年11月14日
さつま芋入りごはん
さつま芋がたくさん収穫できた。

毎日書いているように虫食いだらけのお芋が。

たくさん収穫できたので、私宅だけではとても食べきれない。

それなのに、虫食いだらけなので、人様に差し上げるわけにはいかない。


仕方なく、毎日のようにさつま芋を食べている。

今日はさつま芋入りのご飯にしてみた。

2,3口はおいしかったのだけれど、さすがもう食べ飽きた。


なにか、戦時中を思い出してしまう。

でも、戦時中はさつま芋入りご飯は上等だった。


まず、お米の配給がなかった。ご飯どころかさつま芋もめったに口に入らなかった。


戦時中か、戦後か忘れてしまったけれど、とにかく戦時中も、戦後も食糧難だった。

すいとんをよく食べた。少量のさつまいも、小麦粉のだんご、菜っ葉類さつま芋の茎、

その鍋の中はほとんどが水分で味も薄かった。


いつも、お腹が空いていた。

よく、この年まで生きてこられたと思うことがある。


神経質な私は、汚いと感じたものは口に入れることができなかった。

たとえば、めいめいの器ではなく、大皿に盛ったおかずを、誰かが菜箸でなく自分の箸で

つついたものは、食べることができなかった。

食糧難の時代なのにそんな神経では、ますます食べられないのでそのころの私は

同じ年齢の子供よりも小さく、やせっぽっちだった。


さつま芋入りのご飯からこんなに横道にそれてしまい支離滅裂になってしまいました。

今日はこの辺で。




2014年09月16日
広島と長崎に原爆が落とされた。

高子おばあちゃんのおはなし。

大人たちはざわざわと話していた。

いつもと違う様子に幼い私でもすぐ気が付いた。

広島に恐ろしい爆弾が落とされたと。


たった一発の爆弾で広島市が全滅したと。

そして、大勢の大人も子供も焼けただれて死んでしまったと。

広島がどんな街かは、知らなかったけれど、私たちと同じような街だろうと。

そして、同じような人たちが生活しているに違いないと。

幼かった、私にも想像はできた。


可哀そうと、思うよりきっと、静岡にも爆弾は落ちるに違いないと思った。


私は思った。私たちの住む静岡にも原爆が落とされる日が来るだろう。

そして、こんなに、苦しい戦争がまだまだ続くのだと。

どうせ死ぬのならせめて家族が一緒にいるときがいいと思った。

大好きなお父さんも、やさしいお母さんも、活発なお姉ちゃんも

いつも、一緒に遊んでくれるすぐ上のお姉ちゃんも、まだ小さい弟も

みんなが一緒にいるときに死にたい。


6歳の小さな子供にこんな思いをさせる戦争は残酷だ。

今でも世界のあちこちで紛争が起こっている。

自分たちの意思で行っている大人は仕方ないとしても

小さな子供たちはいやおうなく、苦しみに巻き込まれる。


可愛い幼子が目に涙をいっぱいためて悲しんでいる映像を

ニュースでよく見る。

幼かった頃の悲しい恐ろしい体験を思い出す。


戦争のため、恐ろしいだけでなく生活も貧しいものになっていく。

食糧不足が子供たちを苦しめる。


でも、70年近く平和な日々を送れる今の生活はありがたい。

これからも、平和な日々であってほしい。




2014年08月25日
戦闘機からは街並みが見えた
高子おばあちゃんの話


B29の機影が見えた。

二階の窓から空を見上げると戦闘機から私は見られている

ように感じた。


急いで窓から離れた。

飛行機は富士山の方角に消えて行った。

ああ、よかった。 胸をなでおろした。


わずか6歳だったまだ学校にも行っていない小さな子供が恐怖

を経験していたのだ。

その後何十年経ても飛行機の機影や爆音で恐怖感を覚えた。


戦後40年もたつとさすがに恐怖感からは解放された。




成人してから旅客機で海外旅行に出かけた。


あの力いっぱい滑走路を走り離陸するときサッと地上から

浮上する時の感動!

何回経験しても、一生懸命頑張っているように思え感動してしまう。


上空からは地上の景色がよく見える。

特にまだ、低空を飛んでいるときは家々や車まで見える。

一万メートルの上空からでも地形がわかる。


低空飛行していたあのB29からは私たちは見えていたのだ!

あの、苦しい時代を生き残ることができたのだ。


健康で、有意義な人生を送りたい。



あなたの毎日の健康と笑顔に。十津川農場の『ねじめびわ茶』



2014年08月22日
戦闘機が落ちた
安倍川に戦闘機が墜ちた。

どこで、誰から情報を得たか覚えていない。


安倍川の河川敷に行った。

そこには何人かの人たちがアメリカの若い軍人を囲んでいた。


恐る恐るのぞくと、色の白いきれいな若者だった。

私の眼には生きているように見えた。


下駄で、蹴っている人たちがいた。かわいそうだと思った。


そのあとの事は覚えていない。



誰と行ったのか?

まだ戦時中だったあの時怖いとも思わず、出かけたのはなぜか?

まったく覚えていない。


ただ、安西橋の近くの河原の飛行機の残骸と、そのそばに倒れて

いた兵士の姿だけが映画でも見たかのように脳裏に焼き付いている。


あれは、夢だったのだろうか?


そうではなかった。



親切な男性がその青年を葬ったのだと戦後になって聞いた。


敵であっても人間に変わりはない。

この青年にも、親も兄弟もいるはずだといって葬ったのだと。



戦後進駐軍が上陸してきた。

私たちの街にも何人かの軍人が家々を一軒ずつ見に来た。


殺されるかもしれない、危害を加えられるかもしれない。

おとなも、こどもも恐れていた。


しかし危害を加えられることはなかった。


家に来たとき何かあげられるものはないか、考えた末母は

花瓶を差し出した。

一度は受け取りまた隣の家に入っていった。

そしてまた、隣りえと。


しばらくして、花瓶を返しに来た。


子供たちはぞろぞろと後についてまわった。


戦死した兵士を葬ったひとは、とても感謝されたと聞いた。


戦争は、罪のない一般の人々大人も子供も苦しみ、悲しみを味わう。

あの悲しみ、苦しみ、恐怖感を再び経験することがないように願う。





2014年08月19日
静岡空襲があった日 続き
高子おばあちゃんの話

その夜も父はいなかった。

少なくとも私たちが安倍川に逃げるときはいなかった。


母は子供達四人を連れて逃げるのに手間取っていた。


近所の人たちはもう誰も家にはいなかった。

私たちがあるいているとき、一緒に歩いている人はあまりいなかった。

空から、赤い火がひらひらと舞い降りてきた、あとからあとから舞い降りてきた。

とてもきれいだと、思った。


空襲警報をあんなに恐ろしく思ったのに、その日は何も怖くなかった。

どうしてだったのだろう?


もうみんな安倍川の河川敷に逃げていってしまった。

そこが、一番安全な避難場所だと多くの人は考えたのだと思う。


とかろが、アメリカの戦闘機は安倍川に逃げた人たちを爆撃した。


安倍川で、とても多くの人々が亡くなったのだ。

桑畑に座っていた人たちの多くはけがをしていたか、死んでいたのだ。


後から聞いた。


私たち親子は、逃げるのが遅くなったため、難を逃れたのだと後から聞いた。


近所のおばさんは一人暮らしだった。

早く支度して、みんなより早々と非難した。

そのおばさんが、亡くなったとあとから知った。


朝になって家に戻ると家に中にたくさんの荷物が放り込んであった。


父は正直で、とても親切な人だった。

たくさんの荷物を持って非難した人たちが逃げるのに大変になり、

私たちの家に預けて行ったものだった。


あの日の事を大人になった今も思い出す。


戦争は二度と経験したくない。

あの悲しく、苦しい経験をかわいらしい若者たちに味わってほしくない。


今の日本は本当に平和だと思う。








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