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特別展会場を出た後、4階のオープンな空間を探訪することから始めました。この建物、2階から4階まで建物の中央部が吹抜空間になっています。 (大阪中之島美術館のホームページから施設案内のページでフロアーマップをダウンロードできます。) 展示室のあるのは4階と5階です。エレベーターもありますが、メインの通路は2階から4階まで一気に上がるエスカレーター。北から南に向かって昇っていく配置です。 4階のフロアーに至るエスカレーターの向こうにみえるのは5階へのエスカレーター フロアーを移動する途中で、この吹抜空間を見下ろした景色 上掲の景色で5階へのエスカレーターの向こうには5階に上がる階段通路が設けてあります。その階段近くに展示されているのがコレ!この作品自体への興味が中心になり、名称・製作者等の掲示の有無を意識していませんでした。 5階への階段の途中からの眺めはこんな感じ。 フロアーに戻り、回り込んで近くから撮りました。 後日、調べてみますと、やはり野外展示作品と同じヤノベケンジさんの作品でした。作品名は未だ不詳。高さ7mほどの巨大ロボット。腹話術人形「トラちゃん」が胸部の窓様の内側に入っているという作品です。今度はこのトラちゃんをズームアップで撮りたいな・・・・。(補遺をご参照ください) 階段脇から5階へのエスカレーター方向を眺めた景色前回ご紹介した記念撮影スポットが手前に写っています。 4階への上りのエスカレーターと2階のチケットカウンター付近を見下ろした景色 2階と1階を結ぶ階段通路を見下ろした眺め4期から降りのエスカレーターで2階に降りて、2階エリアを少し巡ってみました。 フロアーマップを見ますと、館内の東から西方向を眺めた位置になります。左(南)側に、1階・2階間のエレベーターがあり、前には1・2階間の幅広の階段があります。右(北)方向は、芝生広場への出入口になります。私が最初に正面の入口と説明していた箇所です。フロアーを南に歩みますと、南東角近くに「多目的スペース」があります。 訪ねた時には、画廊として利用されていて、「Osaka Directory 4 Supported by RICHARD MILLE 小谷くるみ」展が開催されていました。入場無料で鑑賞できる空間でした。 パネルの前のテーブルに置かれていた展覧会案内葉書を一葉いただきました。この企画の主催は大阪中之島美術館と関西・大阪21世紀協会で2023.12.17まで。案内葉書の案内文の一部をご紹介します。「小谷はこれまで、存在の痕跡や気配をテーマに様々なアプローチによる絵画作品を発表してきました。結露した窓を指で触れたイメージを描いた『21g』シリーズや、支持体に染み込ませた錆を時間経過や変化の象徴として捉えた『時間・痕跡<錆>』シリーズなどで注目されています」(案内文転記)小谷くるみさんが取り組んできたシリーズの新作を中心に展示されているそうです。ギャラリーの展示作品には、画面全体に描き込まれた結露の現象を示す抽象化された情景が不思議な感覚を呼び起こす作品も展示されていました。初めて出会った画家の作品でした。 館内の南辺の中央辺りから、東方向に多目的スペースを眺めた景色 建物の南面は国立国際美術館と大阪市立科学館に隣接していることは初回にふれました。館内から眺めると、こんな景色が広がっています。 ガラスウォール越しに 北東隅にて探訪課題を残しました。次の機会には視点を変えて再度館内探訪をしてみたいと思っています。ご覧いただきありがとうございます。補遺大阪中之島美術館 ホームページ 施設案内小谷くるみ :「美術手帖」小谷くるみ :「DMOARTS」小谷くるみ 「作家本人による作品紹介」 YouTube【西武渋谷店】小谷くるみ 個展 Silver YouTube「大阪中之島美術館」を徹底ガイド! :「るるぶ&more」 館内展示から2023年秋の企画展、アクセス、カフェ、グッズまで! Case Story 大阪中之島美術館 :「yamagiwa」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照&探訪 大阪中之島美術館・特別展「生誕270年 長沢芦雪」-1 外観と芝生広場 へ観照&探訪 大阪中之島美術館・特別展「生誕270年 長沢芦雪」-2 長沢芦雪展 へ
2023.11.30
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これは今回の特別展「生誕270年 長沢芦雪」のPRチラシです。チケットを事前に購入申込みして入手した際に、チケットに折りたたんで同封されてきました。折り目が入っていて、ちょっと見苦しいですが、ご理解ください。二つ折りのA4サイズです。広げたA3の見開きページに、展示作品を掲載し展覧会の案内が記されています。掲載写真を後ほど一部引用します。芝生広場のオブジェを見た後、大阪中之島美術館の館内に入りました。初回の「外観と芝生広場」をまとめた後で気づいたことがあります。補足と訂正をまずお伝えします。 (初回の記事には訂正について補足しました)歩道から階段が目に入りそこを上ったところが、芝生広場だったので、「高い丘状の地形」と錯覚して思い込んでしまいました。この芝生広場のあるところは、実は2階のフロアー外延でした。道路面では階段を見ただけで上がって行ったための錯覚です。(まとめているとき、こんな場所に丘状の地形があったかなという疑念はほんのわずかあったのですが・・・・思考停止。思い込みは恐ろしい。)2階以上の建物部分のキュービックなフオルムと広場の景色が目に飛び込んだ次第です2階以上の外観を眺めていたことになります。堂島川沿いの道路面と同じレベルに1階部分があることを、ホームページの画像を見直して気づきました。次回、訪れた時は、1階も探訪してきます。芝生広場からは、2階のフロアーに入ります。入口の近くで、ミュージアムショップが目にとまりましたが、そこはスルーして、チケットカウンターの方に向かいます。チケットを見せると、4階に上がって下さいという案内を受けてエスカレータに乗り込みます。 縦長のバナーが壁面に吊されています。5階では「光 LIGHT テート美術館」展が開催中でした。 4階の特別展入口。この特別展は、大阪初の回顧展開催になるそうです。 チケットの半券 PRチラシとチケットのデザインは基本的に同じです。ここに載る「牛図」(鐵齋堂蔵)は後期展示の作品です。後述する第3章の最後の展示作品で、こ近くが展示会場からの出口になっていました。牛の眼球の色合いがとても素敵な絵です。長沢芦雪(1754~1799)は、伊藤若冲(1716~1800)や曽我簫白(1730~1781)と同じ「奇想の画家」の系譜の一人と見られています。円山応挙の高弟として江戸時代中期に京都で活躍しました。後に大坂で客死しました。その死因は謎だそうです。辻惟雄(ツジノブオ)著『奇想の系譜』(ちくま学芸文庫)は6人の絵師-岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、曽我簫白、長沢芦雪、歌川国芳-を取り上げています。その中で、長沢芦雪が取り上げられています。長沢芦雪を奇想の画家として論じた本の嚆矢となるそうです。私がたぶん初めて長沢芦雪の絵を見たのは、京都文化博物館開館10周年特別展「京の絵師は百花繚乱」(平成10年/1998年10月)です。手許にその図録があります。この時、長沢芦雪の作品2点が展示されていました。後で触れたいと思います。 これは長沢芦雪展を鑑賞後に、出口傍のショッピング・コーナーで購入した図録です。奇想の画家に照応させるためか、表紙は奇抜にもピンク色。この図柄は何だろうと思ったのですが、じっと見ていて、ふと芦雪が描いた虎図の一つから、虎の体毛の部分を拡大して意匠にしているのではないかと想像しました。一本一本線描していることがわかります。PRチラシとチケットには、龍と虎の頭部が部分図として使われています。これはチラシの見開きページでも取り上げられていますが、和歌山 無量寺・串本応挙芦雪館蔵の「龍図襖」と「虎図襖」からの部分図です。これら作品は前期展示でしたので、見られませんでした。代わりに、後期展示では島根 西光寺蔵の「龍図襖」を見ました。襖4面に一頭の龍が描かれています。今回、描き方の手法が異なる龍図襖が二種展示されていました。合計8面の襖が一列に並んでいるのです。やはり壮観な感じです。まさに奇想を感じさせる襖絵です。そのうちの一つは、補遺に上げたNHKの「長沢芦雪の襖絵巡礼」に紹介されています。和歌山県 無量寺の「龍図襖」「虎図襖」も見ることができます。一見、お薦めです。展示室の冒頭に、「長沢芦雪像」(和歌山・草堂寺蔵)が掲げてあります。その後の展示会場は、4章構成になっていました。順次、感想を交えて一部ご紹介します。<第1章 円山応挙に学ぶ>円山応挙筆「牡丹孔雀図」と芦雪筆「牡丹孔雀図」が並べて展示されていました。また、芦雪筆の「虞美人図」(東京国立博物館蔵)、「花鳥図」(個人蔵)、「虎図」(オオタファインアーツ蔵)は応挙の高弟らしい写実的な絵ですが、紙本墨画の「拾得図」(個人蔵)になると奇想への傾きがうかがえる気がします。この絵は、指頭画という技法で描かれているとか。「笹に雀・雪に兎図屏風」(個人蔵)は、白兎の目にちょっととぼけた感の印象を抱き、面白かったです。 「梅花双狗図」(個人蔵)今回の特別展では、狗、兎、鳥、猿など愛しき動物たちの絵が数多く展示されていました。特に私は動物たちの目の描き方に関心をいだきました。実にかわいい目なのです。この白い小狗の目もそうです。芦雪は淀藩士上杉和左衛門の子として生まれました。淀藩に仕えた下級武士でしたが、京に出て円山応挙に学び、応門十哲に数えられる高弟の一人になります。天明2年(1782)29歳の時には、同年版行の『平安人物誌』の画家の項に、応挙がトップで、芦雪は19位に芦雪の名が載るようになっています。この時、芦雪は御幸町御池下ルに住んでいると明記されています。芦雪は若くして師応挙の枠にとどまらない奔放な作風を確立し、円山派の中で異色の画家になって行きます。<第2章 紀南での揮毫>天明6年(1786)から翌年2月にかけ、芦雪は紀南地方(現和歌山県南部)に滞在します。「南紀串本にある無量寺の層愚海が、かねてから親しかった応挙を訪ねて、無量寺など、南紀にある東福寺系の一派の寺に襖絵を揮毫するように依頼した」(『奇想の系譜』より)そうです。応挙には都合がつかず、芦雪が師の代役として出向き、襖絵や屏風絵を数多く描く機会を得たのです。大胆な構図や自由奔放な筆遣いによる作品、現在において注目される作品群を残すことになりました。このセクションで、前期の鑑賞なら無量寺の「龍図襖」(重文)、、「虎図襖」(重文)を鑑賞できたのですがそれを逃してしまうことになりました。このセクションでおもしろいと思ったのは、「酔李白図」と「酔李白・山水・滝図」(三幅のセット)です。いずれも個人蔵。展示室では少し離れた位置に展示してありました。酔李白の構図のベースが同じなのです。手の動きや表情にわずかの差異が加えられている程度なのです。芦雪もまた、同じ構図の絵をいくつも描いているんだなと感じた次第です。 「蛸図」(個人蔵)これは即興で描いた作品と考えられているようです。「龍・仙人図」(和歌山・草堂寺蔵)や「鍾馗・蝦蟇図」(個人蔵)という掛幅が対になった作品には、芦雪の奇想の側面が発揮されている墨画作品です。これらも目の描写に惹かれます。仙人と鍾馗の描写法がかなり異なるところも芦雪の力量の幅の広さを感じさせます。鍾馗と対に描かれた蝦蟇が巨大なのもおもしろいところ。<3章 より新しく、より自由に>「月竹図」(個人蔵)は実に自由な発想に基づく作品でした。幅11.3cm、長さ155.8cmという極細で長い絹地に、竹と月を描くという大胆かつ自由な試みです。用意周到な墨画なのか、はたまた即興的なひらめきによる絵なのか・・・・これも奇想の一種でしょう。 PRチラシに使われている部分図です。「仔狗図屏風」(江戸千家 川上宗雪氏蔵)の左半分で、右半分には仔狗が二匹描かれています。二曲一隻の風炉先屏風で、紙本墨画淡彩の作品。狗の姿態が様々で、目の表情が楽しいのです。 「降雪狗児図」(逸翁美術館蔵) このあどけなさを感じさせる狗の表情がいい!8面に描かれた「松虎図襖」(奈良・薬師寺蔵)は虎の尻尾が極端なほど長く描かれているます。溌剌と自由に描いている感じを受け、印象に残っています。併せて薬師寺蔵の「松鶴戸杉戸」が出展されていました。こちらは、写実的な絵です。芦雪はTPOに併せて、描法を使い分けていたのかもしれません。円山四条派合作「亀図屏風」もおもしろい試みです。各絵師が屏風に亀を一匹ずつ描いているのです。図録の図で数えて見ますと13匹描かれています。二匹描いている絵師もいるようです。描かれた亀はそれぞれに微妙に違いがある感じです。絵師の個性と力量が出ているのでしょう。円山四条派の絵師を研究している人には、特に興味深い屏風絵かもしれません。 「群猿図」(重文、兵庫・大乗寺蔵)襖11面のうち9面が出展されていて、その9面に猿の群が自由に行動している姿が描かれています。上掲のPRチラシに掲載の図は、左端の襖一面をはずしてそれに続く4面を撮った図です。この「群猿図」は、寛政7年(1795)の作。上掲の4面での「群猿図」を、私は京都文化博物館の「京の絵師は百花繚乱」展で鑑賞していました。図録を確認しました。なんと25年ぶりに再見したことになります。それも9面に広がった構図という本来の形で・・・・。これ郡猿がPRチラシの下辺に部分的に使用されています。 この箇所です。該当箇所を切り出して、文字等を画像処理で消去しています。 猿の動きと表情がおもしろい!「京の絵師は百花繚乱」展での展示作品のもう一点は、「月夜山水図」(重文)という掛幅でした。この作品もこの第3章にて展示されていました。こちらも再見できたという次第です。25年前は、兵庫・頴川美術館蔵でした。今回の図録を見ますと、兵庫県立美術館(頴川コレクション)蔵となっています。<第4章 同時代の天才画家たち>ここでは、伊藤若冲と曽我簫白の二人の作品展示されていました。長沢芦雪よりも早く京都で活躍していた画家たちです。そして、上記の辻惟雄氏が「奇想の系譜」と論じた系譜に連なる画家たちです。 PRチラシに使われた伊藤若冲作「象と鯨図屏風」(MIHO MUSEUM蔵)が展示されていました。紙本墨画、六曲一双。寛政9年(1797)作。曽我簫白の作品は、「虎渓三笑図」(千葉市美術館蔵)でした。これらの画家たちが併存し活躍したということは、江戸時代中期に文化的・精神的な次元において、大きな変化を求める気運が生まれていたということでしょうか。長沢芦雪という絵師の魅力の再発見、見直しが始まっているようです。 4階のオープン・スペースには、こんな来館記念撮影スポットが設けてありました。展示会場の外エリアは撮影自由とのことですので、この後美術館内部を少し探訪してみました。つづく補遺大阪中之島美術館 ホームページ長沢芦雪 :ウィキペディア串本応挙芦雪館 串本無量寺 ホームページ 長沢芦雪について長沢芦雪の襖絵巡礼 :「NHK」曾我簫白「虎渓三笑図」:「千葉市美術館」「奇想の画家」長沢芦雪が南紀でみせた目醒めの足跡 :「わかやま歴史物語100」円山応挙の高弟・長沢芦雪の代表作と人生まとめ。皮肉屋で悪評が絶えなかったって本当? :「和楽web」丹青三昧 駆け抜けた絵師 長沢芦雪 by morinousagisan :「ART Age ndA」長沢芦雪は殺された!?他殺説・自殺説を追う :「ARTISTISAN」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照&探訪 大阪中之島美術館・特別展「生誕270年 長沢芦雪」-1 外観と芝生広場 へ 観照&探訪 大阪中之島美術館・特別展「生誕270年 長沢芦雪」-3 館内探訪 へ
2023.11.29
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大阪中之島美術館で、12月3日まで開催中の特別展「生誕270年 長沢芦雪」を鑑賞に出かけました。大阪中之島美術館に行くのは今回が初めてです。この新しい美術館を眺める探訪も兼ねて見てきました。大阪中之島美術館は、2002年2月の「超コレクション展」を開館記念の展覧会としてスタートしました。「1983年に構想が発表されてから約40年」を経てのオープニングでした。(ホームページより)京阪電車・中之島線「渡辺橋」で下車し、地上に出てから堂島川に沿った道路の歩道を西方向に徒歩5分位の位置にあります。駅からは南西方向になります。美術館は道路面からは少し高い丘状の地形の上にあります。堂島川(北)側から眺めると、黒いキュービックなフオルムのシンプルな建物です。 [補足と訂正 2023.11.28 追記] 高い丘状の地形に見える芝生広場のある空間は、建物の2階部分のフロアーと 同じ高さの外延空間にあたります。歩道から階段でストレートに上がって行っ たことによる錯覚でした。この時、この建物の1階部分は認識外でした。 ここでの外観は、2階以上の空間のご紹介になります。 階段を上がり始めると、一見奇怪な像が目に入ります。 途中に外周通路があり、左の方に案内掲示があります。1階と2階のフロアーの案内だけがまず掲示されています。この部分は、ほぼオープン・スペースが中心です。館内は後ほどに。 掲示板のある辺りから見上げた景色通路を歩み、まずは周辺を眺めて見ました。まずは西方向が目に入ります。 西方向の景色立ち止まって、堂島川の対岸、北方向を西から東に目を転じて行きます。 近くに見えるのが「田蓑橋」です。 振り向けば、芝生広場の先に、美術館の入口が見え、一方、東辺にあの奇怪な像が見えます。好奇心はまず、この像に向かいます。 像の足元に銘板が埋め込まれています。ヤノベケンジ作「シップス・キャット(ミューズ)」(2021)という作品です。創作材料は、ステンレス、FRP、アクリル、LEDライト他だそうです。夜には光のでしょうか。「『シップス・キャット』は大航海時代に害獣から貨物や船を守り、船員の心を癒やす友として世界中を旅した『船乗り猫』。旅を守り地域に福を呼ぶ巨大猫のモニュメントです。ヘルメットや鎧は、混迷する世界の未来を見通し、困難に立ち向かう勇気を表します。江戸時代、この地には広島藩蔵屋敷があり、巨大猫は美の蔵を守りながら、地中に埋蔵されるその舟入遺構の記憶を未来へ伝えます。そして河川が大海へ注ぐように、堂島川に面する大阪中之島美術館が世界に向けて情報を発信しようとする象徴でもあります。」(説明文転記) 芝生広場には、様々な形のオブジェが展示されています。この広場は多目的に使われそうです。屋外展示会場を兼ねているのでしょう。 案内の掲示を見つけられません。残念!美術館の外観を眺めるために、外周を巡ってみました。 シップス・キャット側から、美術館正面を西方向に眺めた景色 美術館の東面を北側から眺めた景色 美術館の南面を東側から眺めた景色 美術館の南面を西側から眺めた景色この大阪中之島美術館の南には、国立国際美術館があります。幾度も展覧会を見に来ている場所。この時には、北側に何があったのか全く意識していませんでした。今後は、このエリアで美術館のはしごをする楽しみを味わえることになります。国立国際美術館の南西隣りには大阪市立科学館があります。 建物の西面を南側から眺めた景色 西面を北方向に進み、途中で振り返ってみた景色 建物の西面を北側から眺めた景色 美術館の正面を西側から眺めた景色これで建物の外周を一周してきたことになります。さて、館内に入りまずは特別展を鑑賞することに。つづく補遺大阪中之島美術館 ホームページ国立国際美術館 ホームページ大阪市立科学館 公式ホームページ中之島 大坂蔵屋敷 :「なごりすとのweblog」「中之島」をはさむ二つの川「堂島川」と「土佐堀川」:「三井住友トラスト不動産」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照&探訪 大阪中之島美術館・特別展「生誕270年 長沢芦雪」-2 長沢芦雪展 へ観照&探訪 大阪中之島美術館・特別展「生誕270年 長沢芦雪」-3 館内探訪 へ
2023.11.27
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=== 2023.11.11 === 南の空9時50分過ぎに撮りました。青空を引き立たせる類の雲が浮かんでいます。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線の上空もいつものどんより感がなく、青空を背景に様々な雲の姿がいい感じです。 東方向の空15時5分過ぎに眺めると、普段の午前中によく見る感じのどんより感のある曇り空に変化していました。 南の空 南方向もまた雲が張り出しています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空しかし、雲の形としてはおもしろさを感じます。まだ青空は少し見えます。 南の空17時15分頃に撮りました。はや近くの家々から灯火が見え始める時刻になっています。日の入りが早くなっています。白鼠色の雲が空を覆い、どんよりとした感じ・・・。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線上の雲の形には大きな変化は見られません。横雲が重なるようにして空を覆い、その色は南の空の雲よりも濃く銀鼠色です。=== 2023.11.12 === 南の空朝から曇り空。講演会の聴講を機会にちょっと探訪を兼ねて早めに出かけましたので、雲を取り忘れました。帰宅後、16時45分過ぎに撮りました。朝から変わらず、この時もくもり空が続いていました。南西方向の空 西方向の空 西の遠くの空では夕焼けが見えます。ズームアップして部分撮り。電線が邪魔! 相対的に近い距離の雲も一部夕映えが見えます。 東方向の空くもり一時小雨ありという天気の一日でした。=== 2023.11.13 === 南の空9時25分頃に撮りました。朝から曇り空。南西方向の空 西方向の空 東方向の空どの方向も、空一面を雲が覆っています。全体的にメリハリのないのっぺり感のある雲です。 東方向の空 17時過ぎに撮りました。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空最近比較的よく見るようになった空模様。夕暮れ時の空の色合いという感じです。雲があるようには見えません。天気は晴れ方向に変化している様に見えます。さて、雲がたりを続けます。真民さんの全詩集第4巻に移ります。この巻一冊が詩集「念珠集」です。 (参照『坂村眞民全詩集 第四巻』大東出版社)この詩集は「詩心決定(ケツジョウ)」と題する詩から始まります。巻頭の短い詩の引用から始めます。 たんぽぽや 四国は詩国 生きどころ へんろ路(ジ)や 仏島四国 死にどころ p3雲が最初に詠み込まれた詩は「空っぽ」です。その第一節に出て来ます。第一節を引用します。その文脈がお解りいただけるでしょう。 なんでも空っぽなのが 一番いい おなかも空っぽ さいふも空っぽ そんな時は 春の雲のように 軽くなって どこへでも 飛んでゆきたくなる p15春の雲が軽やかさを象徴しています。この行だけなら意図が通じないことでしょう。「なんというさわやかさだろう」と題する詩に、雲が出てきます。 外は重い雨雲で 今にも雨が落ちてきそうなのに 私の心は実に軽く さわやかである こんな詩の文脈で出ています。 p19「太陽と雲と歌と」と題する詩の2ヵ所に出てきます。題にも雲が入っています。 太陽に向かって 新しい年の雲に叫ぼう 小さい国だけれど 大きな夢を持って 原水爆にけがされた雪を 地球上から払いのけてしまおう p22 1964年の喜びの歌をうたおう 光りたなびく雲に向かって 平和と幸福とを勝ちとる 新年の歌をうたおう p221964年についてですが、詩の中に「ことしはアジアで初めてのオリンピックが/ この東海の国で開催される記念の年だ」という詩句があります。真民さんは、原水爆の悲劇・悲哀についての詩をいくつも作詩され、平和の希求を詩に託されています。「柳井田の里」と題する詩に出てきます。真民さんはこの地で仮り住まいされたそうです。最初に付記されています。 太陽は麦の穂に光り あかねの雲が わたしを燃やす p47 「わが詩の心」と題する詩の冒頭に、雲が詠み込まれています。 日の出る直前の 雲の美しさ 出初めた日の ういういしさ p48「石笛」と題する詩に出てきます。これは全文引用します。 石笛の音は かすかなり かすかに 天にひびき 地にひびき もろもろの雲を誘いて わがもとにきたる ああ石笛を吹けば われのまわりに あの世の人も来たりて 聞き給うなり 近くに寄り給え 冬の夜明けは寒きなり 寄り給え 寄り給え p55全詩集には、石笛を詠んだ歌がけっこう出てきます。石笛を愛用されていたようです。雲の変化に戻ります。=== 2023.11.14 === 南の空15時25分過ぎに撮りました。午前中は撮り忘れ。朝から晴れです。ひつじ雲でしょうか。時折にしか見られない雲の形です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線間近に横雲が広がってみえますが、その上空は青空が広がっています。 東方向の空17時10分過ぎに撮りました。曇り空に変化していました。雲の形は動きを感じさせます。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空いずれの方向も雲、雲、雲です。晴れのちくもりの一日でした。つづく補遺坂村真民記念館 ホームページ 坂村真民についてタンポポ :ウィキペデキア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.11.26
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11月12日に中央公民館で講演会を聴講した後、この石鳥居を幾度も見ながら通り過ぎていましたので、帰路に訪れてみました。少し前にご紹介した白長神社のある丘陵地の西側になります。 石鳥居の傍に、「下居(オリイ)神社」の案内板が設置されています。内容は後で触れていきます。 鳥居を通り過ぎると、左側にこれらの案内柱が立っています。左は、この神社の森一帯が「下居神社文化財環境保全地区」であることを示す標識です。右は、この下居神社が、旧宇治郷(宇治町)の下居(シモイ)地区の住民によって管理されてきたこと、社殿は江戸時代の建立で京都府登録文化財であることを説明しています。 この神社に祀られていたこの写真の神像三体と狛犬一対は、現在歴史資料館に寄託されていることが併せて記されています。 この神社の案内と観光案内標識を兼ねたものも設置されています。 参道に沿って、東側に大木が植えられています。右は通り過ぎてから振り返った景色。 参道を進むと、先に石段が見え、右側は児童公園になっています。その奥に小堂が見えますので、傍まで行ってみました。 格子戸越しに、お地蔵さまが見えます。地蔵堂です。 ユーモラスなお顔が描かれています。おもしろい。 朱塗りの明神鳥居が建てられていて、額束のところに「権現」とあります。神社名或いは神名でないのが珍しいと思います。権現とは、「仏・菩薩が日本の神に姿を変えて現れること(たもの)。(昔の神の尊号の一つとして用いられる)」(『新明解国語辞典』三省堂)という意味ですので、この尊号だけでは一般的過ぎます。区域外の私にはわかりづらい・・・・。 石段を上がった後、境内地の参道を歩みますと、参道の先に社殿が見えてきます。ちょっとした小高い山の上が削平されて境内地になっているような感じです。左側の大木の手前に、 この歌碑と駒札があります。 秋の野のみ草刈り 葺き宿れりし宇治の 京(ミヤコ)の假廬(カリイオ)し思ほゆ「この歌は、皇極天皇の大和から近江への行幸につきそった額田王の歌と伝えられ、 『秋の野の草を刈って、その草で屋根を葺いて泊まった、宇治のみやこの仮小屋の ことがなつかしく思われる』という意味である。 平成4年10月 宇治市 」 (駒札転記) 皇極天皇とは斎明天皇のことでもあります。下居神社のあるこの地は、天皇が行幸の途中に行宮(アングウ)を営んだ趾地といわれているそうです。「宇治のみやこ」の場所だとか。『万葉集』を確認しますと、第7番目の歌として収録されていて、「額田王の歌 いまだ詳らかならず」と記されています。 (資料1)さらに、石鳥居傍の案内板には、「明日香親王別業地跡とも伝えられている」との説明も記されています。 朱塗りの瑞垣に囲まれた本殿です。 狛犬像の代わりに、石灯籠が一対、拝所の両側に配置されています。西之屋形風の石灯籠です。 ご祭神は、伊邪那美命 (イザナミノミコト) 創造神 速玉男命 (ハヤタマオノミコト) 水の神 黄泉事解男命(ヨモツコトワケオノミコト) 祓(ハライ)の神 です。当社の創祀時期は明らかでは有りませんが古社だそうです。本殿は、三間社流造桟瓦葺の建物。 本殿に向かって、右斜め前にこの境内社があります。流造の屋根の小社です。 近くで拝見しましたが、特に掲示がなく、祭神は不詳です。あとは社務所の建物があるだけです。少し寂れた感じすら受ける静寂な雰囲気に囲まれた神社でした。参道を戻るとき、 この句碑が建立されていることに気づきました。残念ながら私には判読できない文字があります。句碑のご紹介に留めます。 参道を引き返し、JR奈良線の宇治駅に向かいます。参道両側は紅葉した落葉が降り積もっています。幹線道路までの静かな歩みのひとときです。下居神社探訪をこれで終わります。序でに触れておきます。講演の中での話から、確かめてみたくなったこと。JR宇治駅前を通るとき、 これが郵便ポストであることは認識していました。お茶の宇治だから茶壺になぞらえてPRを兼ね創られたものか、それくらいにしか考えていませんでした。ポストの正面の下に、こんな銘板が設置されていることを、講演の中で宇治を意識するイメージの一例として聞き、初めてその由来を知ったのです。 「宇治市制施行50周年」を記念して、この茶壺型ポストを2001年3月23日に設置したとのこと。このポストの設置時点では、はや10年余の時を経た宇治市民になっていたのですが、知りませんでした。知らないことばかり・・・・。そこで、調べてみますと、この茶壺型ポストのモデルとなった茶壺が、ここから徒歩10分ほどの場所にある宇治茶の老舗「堀井七茗園(ほりいしちめいえん)」の店頭に並べられているそうです。今度はそれを序での時に見て来ようと思っています。(資料2)ご覧いただきありがとうございます。参照資料1)『新訂 新訓 万葉集 上巻』 佐佐木信綱編 岩波文庫2) 京都府内の珍しい郵便ポストーここから手紙を出してみたい!ー :「COCO-KYOTO」補遺神像と狛犬 下居神社 宇治史探検No.010 :「ええとこ発見うじ」堀井七茗園 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2023.11.23
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宇治橋 11月12日(日)に、宇治市中央図書館主催の読書週間記念講演会「文学でたどる宇治」を聴講しに出かけました。市政だよりで知り予約申し込みをしていました。宇治の橋姫に関連した内容になるとのことで関心があったからです。そこで、久しぶりに宇治橋を渡り、西詰から宇治橋を眺め、橋姫神社を訪ねてから、中央公民館の講演会場に向かうことにしました。冒頭の景色は、西詰から宇治橋を眺めた景色です。 川の流れは、白波をみせつつ結構早そうです。 西詰に近いところに、「三の間」が設けられています。「三間水」として、かつては山城の名水と言われ、豊臣秀吉が伏見城に在城の時は、常に三間水をここから汲み上げて、茶の湯に使ったと言われています。(資料1) 『山州名跡志』(正徳元年/1711)には「三間」の項を設けて、欄干の幅一間ばかり張り出す所と延べ、秀吉が伏見城在城の折のことを述べています。(資料2)『都名所図会』(安永9年/1780)の著者はたぶんこの書を参照しているのでしょう。この書の校注者脚注によれば、「ここに橋の守護神(橋姫)が祀られていた」と述べています。一方、「橋姫の社」の項では、「宇治橋の西づめにあり(はじめは二社なり。一社は洪水のとき漂流す。いま、礎存せり)」と説明しています。(資料1) 上流側の景色 『宇治川両岸一覧』(文久3年/1863)は宇治橋西詰の景色を載せていて、「橋姫祠」として神社を橋の傍に描いています。(資料3)秀吉は三の間から水を汲み上げるために橋姫を遷座させたのでしょうか。あるいは、洪水もしくは橋の建て替えの理由から、いずれかの時点でこの西詰の場所に遷座したのでしょうか。想像するとおもしろい。この書は宇治橋の景色を幾つか載せています。 冒頭の景色と同様に、西岸から東岸を眺める橋景色がこれ。三の間は描かれていません。 こちらは逆に、東岸から西岸を眺めた景色です。そして、 東詰の通圓茶屋の景色も載せています。 部分拡大しました。この絵の宇治橋をご覧いただくと、橋の親柱等に擬宝珠が描かれていません。長谷川等伯筆「柳橋水車図屏風」を見たとき以来、擬宝珠について疑問を抱いたままでした。明治3年(1870)に洪水により宇治橋が流出したと言います。この時点で、橋姫神社が現在地に遷座したとのことです。(資料1)そこで、 宇治橋の東詰に設置されているこの案内板に、リンクしてきます。 現在の宇治橋は平成8年(1996)3月に建て替えられました。「木製の高欄に擬宝珠があしらわれるなど」というデザインがこの時点で行われたそうです。それでは、現在の橋姫神社に向かいましょう。宇治橋西詰は、橋のところから道路が2つに分岐し、さらに東側の道路が3つに分岐します。平等院表参道、府道3号、宇治市街を通過する道路です。大きな石鳥居が建つ中央の道路が府道3号で、県(アガタ)神社に至る参道でもあります。 この道路標識の設置された中央の道路沿いに南に進みます。 数分歩けば、左側の民家の間に木造の外宮鳥居が見えます。入口近くに幟が立ててあります。 鳥居をくぐると、右側に北向きに小祠が2つ並んでいます。かなり以前に訪れていますが、その時、橋姫神社の観光案内板が設置されていました。それが取り除かれていたようです。見かけませんでした。 覆屋の中に小祠が2つ 奥側に橋姫社が祀ってあります。橋姫神社の祭神は瀬織津姫(セオリツヒメ)と言われています。(資料1)「延喜式」では、瀬織津比咩(ヒメ)と記され、祓戸(ハラエド)四柱の一神です。川の織りなすところに坐(マ)す川瀬の女神。川の瀬にいて人々の罪穢れを大海原に持ち出してしまう女神だそうです。(資料4)辞書を引きますと、橋姫は「橋を守る女神」と説明され、特に宇治橋を守る、宇治の橋姫のことといいならわしていたと説明されています。(資料5)つまり、瀬織津姫と橋姫が同一視されていることになりますね。一説に、「市姫は橋姫のことだと言われる。」「市姫は市神(市場の祭神)として祀られる女神で、市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)であることが多かった。」(資料6)とも言われています。 鳥居に近い側に「住吉社」が祀られています。祭神は住吉大明神です。つまり、筒男三神と息長足姫(オキナガタラシヒメ)命(神功皇后)です。住吉大社からの勧請と思われます。航海安全の神、和歌の神、農耕の神として信仰されています。(資料4)2つの小祠の形式が異なります。橋姫社は流造(ナガレヅクリ)の屋根。一方、住吉社は住吉造の屋根の形式です。 鳥居のすぐ傍に、「源氏物語 宇治十帖(一)橋姫」の駒札が設けてありました。この駒札は、『源氏物語』「橋姫」の巻との名称での関わりを説明しているだけです。一方で、この薫君の歌に詠み込まれた「橋姫」のイメージは何か? という点が一つの接点としてそこにあるということになります。 これは、『都名所図会』に載る「橋姫社」の解説部分です。橋姫については、『古今集』に載る人々に知られた歌を取り上げて、江戸時代に様々な解釈とその結果のイメージが持たれていることを列挙しています。古今和歌集に載る歌とは、 さむしろに衣かたしくこよひもや我をまつらんうぢの橋姫 詠み人しらず 1) 僧顕昭の解釈 『袖中抄』 住吉大明神が橋姫にかよって詠んだ歌と解釈して橋姫を捉えているそうです。2) 藤原清輔の説 平安後期の歌人 山ニは山の神、橋には橋の神がいますので、佐保姫、竜田姫などと同じ。旧妻のこと。3) 一条兼良の説 関白太政大臣 離宮の神が夜毎に通い給うので、暁毎におびただしく波の立つ音がするという。 この解釈、私にはうまくつながりませんが・・・・・。この主旨が載っています。4) 玄恵法師の説 ⇒講演会で講師が『平家物語』に描かれた橋姫とされた解説と同じ。 むかし嵯峨天皇の時代に、男に妬みをいだく女が、貴船の社に七夜丑の時参りをして 宇治の川瀬に髪を浸して悪鬼と化した。それが橋姫であるととらえています。 『都名所図会』にはこの説明止まりですが、物語として記されているのはさらに具体 的です。貴船大明神は、本当に鬼になりたければ、姿を変えて21日間、宇治川に浸れ と告げたのです。女は都に戻ると、人のいない所にこもり、長い髪を5つに分け、5本 の角にし、顔には朱を塗り、体に丹を塗り、鉄輪を逆さに頭に載せて、その3本の脚 に松明を付けて燃やし、両端を燃やした松明を口にくわえ、夜更けに大和大路を宇治 へと走り抜けて行き、宇治川に21日間浸ったというのです。行きながら鬼に変身! 橋姫は嫉妬深い神というイメージの起源がここにあるようです。このイメージが人々 に受け入れられていたのでしょう。だから、簡略な説明で意味が通じたのかも。5) 宗祇の説 思いかわした妻と別れてしまい、恋しいままに、お前も私のことをそう思っている のだろうと、橋姫を妻になぞらえて、恨みごとを言っている意味だとします。 また、『源氏物語』の「橋姫」の巻は、単に橋姫になぞらえただけと藤原定家が語っていると解説しています。今回講演会で、文学から眺めた橋姫についてのイメージの変化を、興味深く拝聴しました。講師は京都文教短期大学の千古千恵子教授でした。『平家物語』に描かれた橋姫は、嫉妬深い女、嫉妬深い神というイメージで捉えられていたのですが、『新古今和歌集』の時代に入ると、橋姫について、貴族層の間では嫉妬深さというイメージやとらえ方は消えて、歌に詠んだ叙景と恋の匂いを伝える位に変化してきていると説明されていました。橋姫にも、時代の嗜好が反映し伝えられていくという説明でした。『平家物語』(屋代本)の剣の巻には、上記の玄恵法師の解釈内容が出て来ます。これを典拠にして、能百番に含まれる演目「鉄輪」が創作されたと言われています。この演目の作者は不詳。四番目物(鬼女物)です。(資料7)嫉妬に燃えた女の姿が橋姫のイメージに残るのは、ここにも一因があるかもしれません。講演の中で、『新古今和歌集』(元久2年/1205年)に載る次の三首の紹介と解説を拝聴しました。ご紹介します。 さむしろやまつよの秋の風ふけて月をかたしく宇治の橋姫 定家 秋上・420 はしひめのかたしき衣さむしろに待つよむなしき宇治の曙 後鳥羽院 冬・636 あじろ木にいざよふ浪のおとふけてひとりやねぬる宇治の橋姫 慈円 冬・637現代の橋姫観はどのようなイメージが強いのでしょう・・・・・。宇治橋西詰の紫式部像のある辺りの観光客の多さに比べて、そこから5分程度の距離にある橋姫神社は訪れる人なき感のあるスポットでした。 境内地の奥に、この石碑が建立されています。歌碑かと思いますが、私には判読できません。 最後に、こんな駒札が建ててあることに触れて起きましょう。以前にここを訪れたときにも既にこの駒札がありました。その主旨は何? 橋姫との関わりは何でしょう・・・・。いまも謎めいたままです。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1)『都名所図会 下巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p123, 安永9[1780] 初摺2)山州名跡志 白慧 撰 :「古典籍総合データベース」(早稲田大学) 正徳元[1711] 巻15 24コマめ3)『宇治川両岸一覧』:「人文学オープンデータ共同利用センター」 暁/晴翁 著述 ||松川/半山 画図、 文久3[1863]4)『日本の神々の事典 神道祭祀と八百万の神々』 園田稔・茂木栄監修 学研 p465) 橋姫 :「コトバンク」6)『日本の神様読み解き事典』 川口謙二 編著 柏書房 p2477)『能百番を歩く』 京都新聞社編 杉田博明・三浦隆夫 京都新聞社 p108-110 補遺橋姫 :ウィキペディア橋姫 :「京都通百科事典」宇治の橋姫~嫉妬に狂って鬼と化した女の情念 :「歴史人」鬼女?宇治橋の守り神?「橋姫伝説」の真実 :「KYOTO SIDE」「宇治の橋姫」恋人から鬼になったワケ :「日経ビジネス」柳橋水車図屏風 :「香雪美術館」『平家物語』剣の巻 現代語訳(途中まで 雨音みなと :「PiXiV」演目事典 鉄輪(かなわ) :「the能.com」鉄輪 冊子 :「無辺光」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2023.11.22
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=== 2023.11.8 === 南の空9時55分過ぎに撮りました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空見える範囲では、どの方向もいい青空です。東方向の空もわずかな雲がみられる位でめずらしく晴れ上がっています。 東方向の空15時35分過ぎに眺めると、稜線上空の空は一層青空らしい色合いになっていました。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南の空17時5分近くに撮りました。夕暮れ時。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空快晴の一日の日の入りに近い頃の空の色は、やはりこのような色調を表すようです。白鼠(銀色)に近い色合いのグラデーション。==== 2023.11.9 === 南の空9時45分頃に撮りました。快晴の日の夕暮れの空に近い色調です。晴れた日がスタート。南西方向の空 西方向の空 西を眺めると、軽やかなベールの様な雲が見えます。 頭上の空 東方向の空稜線上空には雲が出ています。 東方向の空16時10分近くに眺めると、稜線のすぐ上に横雲が漂い、その上空は青空へと変化していました。 南の空 雲の一部をズームアップ。雲の形はどのようにして生み出されるのでしょう。南西方向の空 西方向の空 頭上の空午後も晴れた状態が続きました。天気に恵まれた一日です。この後、もう一度空を撮ろうと思ってふと窓外をみるとはや薄暗くなっていました。タイミングを逸しました。さて、雲がたりを続けます。真民さんの全詩集第3巻に収録された詩集「詩国 第二集」の続きです。 (参照『坂村眞民全詩集 第三巻』大東出版社)「白」と題する7行の詩に雲が出て来ます。 白い雲 白い花 白い鳥 白はわたしの 生御霊(イキミタマ) 白い光となって 散っていこう p256「鳥のように」と題する詩の末尾に雲が。 漂泊流転 雲と共に消えてゆく 鳥のような わたしの一生よ p277この詩は、冒頭「ふりかえってみると/ 鳥のように飛びまわった/ わたしの人生であった」という3行から始まる13行詩です。「呼んでいる」と題する詩の後半に、 流水 行雲(コウウン) みなことごとく 呼んでいる と詠み込まれています。 p308「蒼天の美しい日に」と題する詩まで飛びます。この詩には最初に詞書があります。「1981年昭和56年1月8日 一遍上人成道記念碑の前にて」と。29行の長詩です。真民さんの熊野への旅から生まれた詩です。その中に ああわたしの新しい出発とも言えよう 雲一つない 冬には全く珍しい快晴が 一層わたしの心を歓喜させた わたしはここに立つ 年来の願いを やっと果たすことができたのだ と詩の半ばに詠み込まれています。 p333「夜明けのへんろみち」と題する詩の半ばにも出て来ます。 風が囁きかけてくれ 雲が呼びかけてくれ 鳥が喜びの声で送ってくれる と。 p364「三願」と題する詩の第3節に、 雲のように 身軽に 生きてゆこう と詠まれています。 p367同じページに「変化自在」と題する詩が載っています。全文引用します。 風となり 雲となり 鳥となり 変化自在 どこへでも だれの処へでも 飛んでゆく だから悲しまないで下さい わたしがこよなく愛した タンポポも朴もわたしの分身として 咲き続けるでしょう つゆくさのつゆが光るときは わたしも共に光っているので 足をとどめて見つめて下さい p367「眉月」と題する詩の前半に詠まれています。 雨後の空には 一片の雲もなく 東天に 眉月光り 夜が明けてゆく と。 p371[夜明けの詩」と題する詩に、 やがて茜の雲が日の出を告げ 天地一ぱいが一大光明の詩(ウタ)となる ああ生命に満ちた このひとときの荘厳(ショウゴン)よ とその末尾に詠み込まれています。 p397「洞窟」と題する詩は、空海の改名脱皮の秘密を知りたくて、真民さんが室戸岬突端の苦行の洞窟を訪ねて、そこでの体験を詠まれた詩です。その半ばに 洞窟を出ると朝日が雲間から 姿を現し海面を染める まさに大日如来の出現である と詠み込まれています。 p404詩集「詩国 第二集」を締めくくるのは「タンポポ」と題する詩です。魯迅のことを詠んだこの詩の最後の詩句が 雲ひとつない中国の空を仰いだ の一行です。 p412最後に、この第二集から、真民さんの生き方を示す詩を引用してご紹介します。 しんみん念偈 フラフラするな グラグラするな ウコサベンするな どんな思想にも どんな主義にも 振り廻されるな 朴のように 毅然として 己の道を まっすぐに行け p316最初の三行、この第二集に「しんみん三針」(p261)という独立した詩として、先に詩作されています。 老いの尾 木に 老醜はないという 老杉 老梅 老桜 みなそれぞれに 風韻 風格 風趣 を持ち 老いの美に 光る p319 若さ 若さというものは 顔ではない 心だ 未来への願いを持って 今日を生きる それが真(シン)の若さだ p355この「若さ」を読んだ時、私は大好きな詩の一つ、サムエル・ウルマンの「青春」と題する詩の一節を連想しました。三聯目に「人は希望ある限り若く、失望と共に老い朽ちる」という詩句が詠み込まれた詩です。この第二集には、真民さん自身への思いの詩句を介して、読者にエールを送ってくれていると励まされる詩をたくさん見い出します。「自分のもの」(p208)、「特技」(p209、「こおろぎのことば」(p209)、「光と闇」(p211)、「一貫」(p211)、「捨ての一手」(p249)、「三不忘」(p249)、「三学」(p265)、「一年草のように」(p265)などは、前半から抽出してみました。その詩句はストレートに響いてくるものがあります。これで第三巻からの雲がたりを閉じることにします。雲の変化に戻ります。=== 2023.11.10 ===朝から雨が降っていました。 南の空南西方向の空 9時55分過ぎに、窓際から二方向だけ撮ってみました、 白鼠の布を広げたような雲が覆っているのは、雨が古空の一つのパターンのようです。昼近くからしばらくは雨が止んでいました。16時40分近くに、改めて空を見ると、再び小雨が降っていました。 南の空南西方向の空 断続的に小雨が降り続く一日でした。つづく補遺坂村真民記念館 ホームページ 坂村真民について一遍上人誕生の地 愛媛県松山市道後湯月町 時宗 豊国山遍照院「寶厳寺」窪寺跡の彼岸花群生 :「EEKの紀行 春夏秋冬」一遍と時衆 :「愛媛県生涯学習センター」青春 :「西村経営支援事務所」青春の詩 園長のひとりごと:「日本赤十字社徳島赤十字ひのみね医療療育センター」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.11.21
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=== 2023.11.4 === 南の空9時30分近くに撮りました。ムラムラっとした感じの白鼠色の雲が広がっています。南西方向の空 西方向の空 西北寄りの方向には青空が見えます。 頭上の空 東方向の空稜線は靄がかかった状態で朧な景色。稜線上空にも同じ色合いの雲が広がっています。 東方向の空 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空15時5分頃に眺めますと、もうどの方向も雲で覆われています。稜線ははっきりとわかるように変化。一方、西北寄りの方向は雲が覆ってしまいました。 南の空17時5分頃に撮りました。雲が多少薄れて夕暮れの青空が見られる位に変化しています。南西方向の空 西方向の空 西の遠くの方では夕映えの雲が見えます。ズームアップして雲を撮りました。 天気は良い方向に向かう感じです。 頭上の空 東方向の空雲が空を全面的に覆う状態は同じでも、雲は微妙にその形を変化させています。その変化の状態を表現する語彙を持ち合わせていません。残念・・・・。終日、くもりでした。=== 2023.11.5 === 南の空9時50分近くに撮りました。青空に横雲が浮かんでいます。南西方向の空 西方向の空 こちらの方向は青空が広がっています。天気は晴れ。 頭上の空 東方向の空稜線上空に雲が広がってはいますが、これは晴れた日にもよく見かける景色です。 東方向の空15時55分頃に撮りました。稜線上空に雲はなく靄っている感じですが青さが加わっています。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空それぞれの方向は、太陽光線の影響でしょうか空の青さが様々な色相をみせてくれています。 南の空17時25分過ぎに撮りました。南西方向の空 南西から西方向にかけての雲の姿がおもしろい。 雲がこちらに近づくにつれ、集合してくる感じです。 西方向の空 夕映えした雲の部分をズームアップしてみました。 頭上の空 東方向の空稜線のすぐ上に漂う雲にも夕映えが見られます。さて、雲がたりを続けます。真民さんの全詩集第3巻に収録された詩集「詩国 第二集」に移ります。 (参照『坂村眞民全詩集 第三巻』大東出版社)この第三巻には「詩国 第一集」と「詩国 第二集」が収録されています。真民さんは、この第二集の冒頭の「光と風のなかを」と題する詩の中で、「わたしは人よりも/ 十年も二十年もおくれて出発し/ その歩みも遅々としていたが/ 真の光と風とを/ 今やっと知ることができた」とその詩境を詠み込まれています。最初に雲が出てくるのは、「新しい石」と題する詩です。「念ずれば花ひらく」の八字十音を刻まれた新しい石を詠んだ詩。この詩に、 石はその日から もう孤独ではないことを知り 雲を呼び 鳥を呼び 風を詠んだ という風に、詠み込まれています。 p223この詩の次が「第九の碑よ」です。ここから、「新しい石」が「念ずれば花ひらく」の第九の碑であると。そしてその碑が「長島愛生園のライトハウスの/ 庭に建った」ということがわかります。「西へ行く」と題する詩に雲が詠み込まれています。これは全文引用します。雲の位置づけがわかりやすいと思いますので。 筑紫(ツクシ)恋し 筑紫恋しと つくつくぼうしが鳴く すると雲も鳥も風も 西へ行く わたしの心も 西へ行く p228望郷の思い、父母への思いが込められた詩です。同種の思いを詠んだ詩がこれまでにもありました。「よい日」と題する詩の最後に雲が出て来ます。この詩には「伊藤三樹夫さんから版画『一遍さん』を頂いて」という付記があります。一遍さまがタンポポ堂においでくださったと詠まれた詩です。 ああ何という よい日でしょう 空の雲も こちらへ近づいてきますよ p247「ひとり」と題する詩にも雲が詠み込まれています。これも全文引用です。 花の下で ひとり花を見る ひとりの楽しさ ひとりの嬉しさ 花われを呼び われ花を呼ぶ 雲来り雲去り 桜燦燦(サンサン) p248桜の花と対話する真民さん。そこは誰にも邪魔されない静寂な自然空間なのでしょう。光輝く空には、燦燦と咲く桜の花の空高くを雲が通り過ぎてゆくだけ。悠々と・・・・。雲の変化に戻ります。=== 2023.11.6 === 南の空9時5分頃に撮りました。曇りです。銀鼠と銀鼠を濃くした感じの二層の雲が空を覆っています。南西方向の空 西方向の空 西にはうろこ状の雲が主になっている感じを受けます。 頭上の空 東方向の空稜線上空も、横雲が幾層にも漂っていて、それぞれの雲の色が異なり、グラデーションが楽しめます。14時過ぎに雨が降り始めた気配を感じました。15時5分過ぎに空を眺めると、雨が降っていました。 南の空南西方向の空 窓際から二方向だけ撮ってみました。 このようなベターッとした雲の状態の時に雨が降ることが多い気がします。=== 2023.11.7 === 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空この日は午前中記録写真を撮っていなかったことに気づき、14時50分頃に雲の写真を撮る結果に・・・・。ほどほどにいい感じの雲がそれぞれの方向に浮かんでいました。また、ブログの記事をまとめていて時を忘れていたのか、気づくと夕暮れが深まり、雲を撮るタイミングを逃してしまいました。夕暮れ前にもう一度撮ろうと思っていたのに・・・・・・・。つづく補遺坂村真民記念館 ホームページ 坂村真民について長島愛生園 :「Leprosy.jp」国立療養所長島愛生園 :「厚生労働省」国立療養所長島愛生園 :「岡山観光WEB」長島愛生園歴史館 ホームページ泊まって学べる国立ハンセン病療養所。今を生きる若者に伝えたい想い、偏見・差別の源 :「日本財団ジャーナル」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.11.20
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=== 2023.11.1 === 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空8時35分近くに撮りました。南、西、頭上の空は快晴そのものです。天気良し! 東方向の空稜線上空は靄がかかったような感じですが、雲という印象が乏しく、太陽光線の影響でしょうか・・・。私には不詳です。 東方向の空17時過ぎに撮りました。稜線近くはほんのりと夕映えがうかがえます。その上空は朝と似た感じです。 南の空南西方向の空 西方向の空 南から西方向の空の色もまた、朝の東方向の空に似た感じです。 やはり太陽光線が影響してつくりだした空の色調でしょうか。 西の遠方の空は、夕焼けでオレンジ色に染まっていました。 頭上の空=== 2023.11.2 === 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空9時45分過ぎに撮りました。前日に続き、南、西、頭上の空は、雲が見られず快晴です。 東方向の空 稜線上空は前日と同様の空模様です。 東方向の空15時30分過ぎに撮りました。朝の空と比べると、空に青さが加わった感じです。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空南、西、頭上のそれぞれの空は、雲はなく、天空は方向により少しずつ青さの反映具合が変化したグラデーションになっています。 南の空 17時5分過ぎに撮りました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空やはり、天空に太陽光が及ぼす影響がこのような空の色合いを生み出しているのでしょうか。さて、雲がたりを続けます。真民さんの全詩集第3巻に収録された詩集「詩国 第一集」の続きです。 (参照『坂村眞民全詩集 第三巻』大東出版社)「壮大な虹」と題する詩に雲が詠まれています。 日の出直前の 東天の彩雲(アヤグモ)も すばらしかったが 西天にかかる虹の橋は さらに美しかった p197この詩句の箇所で天空の壮大さをイメージするとともに、時間帯は真逆ですがある俳句を連想しました。与謝野蕪村の「菜の花や月は東に日は西に」です。 その後に、これがいつ頃のことかを示す詩句の中で雲が再び出て来ます。 台風九号の余波の風が流れ 梅雨も終わりの大雲は 四国連峰から雨を伴って 近づいていた と。 p197著者は、重信川の川土手に立ち、金比羅大権現の山、重信川、松山市に広がる、午前5時12分から4分間、壮大な暁天の虹を見つめ続けて、この32行の詩を詠んだのです。詩中に「念ずれば花ひらく碑の/ 東向山理正院の」という詩句が詠み込まれています。「念ずれば花ひらく」の碑がここに建立されていることがわかりました。全国に幾つこの碑が建立されているのでしょうか。第1号碑が京都洛北・鷹峯の常照寺であることを、この全詩集で知ったのですが・・・・。 その次の「尊い光」と題する詩に続いて出て来ます。 それは独り川原にひれ伏して 泣き出したいような 美しい日の出であった 薄い雲があるため またたきもせずに じっと見つめることができ p198と詩の前半に詠み込まれています。「詩国 第一集」に出てくる「雲」はこれまで。この詩集は「花が降ってきたら」と題する詩で終わります。7節の長詩。その最後の節は、「二度とない人生を/ 精一杯生きてゆきましょう」という詩句で締めくくられています。 その前ページにある「朴のことば」と題する詩を引用し、ご紹介します。 すっかり葉を落としてしまった朴が ある朝言いました なんでもないようなことに 深い意義がこもっているのです 世尊は蝶に出会うと いつも合掌されたと言いますが 脱皮の見事さに感動されたのですね わたしたちが葉を落とすのも一つの脱落ですよ 脱皮も脱落も言いかえれば別離ですね 昨日が今日に変わってゆく そのなんでもないことに 深い意義を見出した時 真に生きるとは何であるかを知るでしょう さあ日が昇ったようです 充実した一日をお送り下さい p203真民さんが日々、経を唱え、坐し、詩想を錬るという行為から汲み取られた思念を、朴の語りに仮託された詩と受け止めました。雲の変化に戻ります。=== 2023.11.3 === 南の空午前中所用で出かけて今したので、帰宅後13時近くに撮りました。文化の日。朝から天気は晴れで、祝日の行事の実施には良い日になったことでしょう。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線上空は、最近よく見かけるようになった空模様。靄がかかった感じです。雲のようには見えません。 東方向の空17時10分近くに撮りました。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空快晴の日は、日の入りの時刻になってくると、天空が光を失い始めてこのようなグレーの色調に変化するのでしょうね。つづく補遺坂村真民記念館 ホームページ 坂村真民について東向山理正院 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.11.18
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=== 2023.10.28 === 南の空9時15分頃に撮りました。ぐんと雲がはりだしていますが、青空が見え、天気は晴れ。南西方向の空 西方向の空 東方向の空東の空には銀鼠色の雲が覆っていますが、朝にはよく見る景色です。コロナ禍で外に出ることが減って、ふと思い立ち、雲の姿・形を撮り始めました。いつまでつづくかな・・・と思っていましたが、ブログに写真を載せるのが100回になりました。我ながら飽きずによく続いたものです。まあ、もう暫く続けます。今回は10月の区切りをつけるために31日までをまとめます。頭上の空模様は割愛しました。 東方向の空16時15分頃に、稜線を眺めると、大きな横雲が浮かんでいます。空を覆っていた銀鼠の雲は去り、青空が広がっています。 南の空遠くには雲が見られますが、近くでは朝の雲が去りゆき、微かに雲がみえるだけです。南西方向の空 西方向の空 西の方もまた、遠方に雲が見えますが近くは青空が広がっています。 南の空南西方向の空 西方向の空 17時35分頃に撮りました。少しずつ日の入りが早くなってきていて、全体が薄暗くなるのが早まっています。デジカメのオートで撮っているせいか、眼で見る空の感じより画像は明るいめに記録されるように思います。空は濃い青色に。西に少し雲が見えます。 東方向の空日本の伝統色でいえば、空全体が瑠璃紺色になっていました。深い青紫の色。晴れた一日。=== 2023.10.29 === 南の空10時5分頃に撮りました。銀鼠色の雲を伴って、雲が広がっていますが、青空が見え、この日も晴れでスタート。南西方向の空 西方向の空 感覚的に未だ晩秋の空には、様々な雲の形が見られておもしろいなぁと思っています。 東方向の空午前中から稜線上に明るい色の雲と青空が見えるとやはり気持ちがいい! 東方向の空15時30分頃に眺めると、午前中とは逆に、稜線上空を雲が覆っていました。白練、白鼠、銀鼠の色合いの雲が併存しています。北寄りに色の濃い雲が広がっています。、 南の空南西方向の空 西方向の空 南方向は銀鼠の雲がどんと広がっていますが、西方向は青空の比率が高い状態です。 南の空17時30分近くに再度眺めると、空全体を銀鼠の雲が覆っていました。南西方向の空 西方向の空 南西から西にかけても同様です。ほんのわずかですが、夕映えの雲が遠方に見えます。 東方向の空稜線際は雲が少なく明るさを見せ、その上空は素鼠色に一段濃くなった雲が覆っています。この雲が頭空の雲とつながっています。頭上は少し明るい色合いの雲ですが。晴れのち、夕刻は曇りという一日です。さて、雲がたりを続けます。真民さんの全詩集第3巻に収録された詩集「詩国 第一集」の続きです。 (参照『坂村眞民全詩集 第三巻』大東出版社)「サ」と題する詩に雲が含まれています。この「サ」はカタカナのサではありません。この詩の一行目が「サは聖観音の種子」と記します。種子つまり一字の梵字の発音。 サは宇宙の真実相 雲サラサラと去り 花サラサラアと散り 水サラサラと流る と途中に詠み込まれています。 p157さらに、その先3つめに「白い鳥と白い花」と題する詩の第3節の末尾に出てきます。 しんみんよ 靜かに白い道を行け 遙かな白い雲を追え と。 p159脇道に逸れますが、短い「今」と題する詩をご紹介します。 大切なのは かつてでもなく これからでもない 一呼吸 一呼吸の 今である 真民さんの生き方につながる詩 p160さて、「祈り」と題する短詩が3つ続けて載っています。その最初の詩の冒頭に雲が詠みこまれています。 一片の雲もなく 満天の星 と。 p162「白い雲」と題する詩の後半に雲が出て来ます。 近づいてくる 白い雲を 撮っていた ああ 母を乗せてきたのだ p176その次の「出雲の鐘」と題する4節からなる詩の第1節に 出雲大呂の山々にその第4節に、 八雲立つ出雲の奥の 海運山妙厳寺の鐘よ と。 p177「四国と詩国」と題する詩の最後の詩句に思いを託す形で雲が詠まれています。 雲よ わたしの思いを 父母の国へ告げに行ってくれ p181雲の変化に戻ります。=== 2023.10.30 === 南の空10時20分過ぎに撮りました。前日より雲が少なく、青空が広がっています。南西方向の空 西方向の空 西の雲は、ひつじ雲様の姿のように思います。 東方向の空稜線の上には白雲が幾重にも層を成す形で浮かんでいます。空は晴れ。青空が見えます 東方向の空15時45分近くに撮りました。稜線上には青空が広がり、その上空に雲が出ています。 南の空午前中の柔らかさのある雲と異なり、塊状の雲が広がっています。南西方向の空 西方向の空 南西から西の空にも同様の雲が広がっています。雲が広がるものの晴れた空です。 南の空17時30分近くに撮りました。南西方向の空 西方向の空 塊状の雲は去り、柔らかい感じの雲が漂う空に変化していました。 空の色は夕暮れが近く、灰色がかった青さに見えます。 東方向の空稜線上空は、再び全面に雲に覆われる形に変化していました。銀鼠より少し明るい色合いに感じます。総じて晴れた一日となりました。=== 223.10.31 === 南の空9時25分頃に撮りました。雲なく快晴。南西方向の空 西方向の空 これだけスッキリした青空も久しぶりです。 東方向の空稜線上空は、靄がかかった感じを受けますが、青空が広がっているのでしょう。 東方向の空15時20分過ぎに眺めますと、稜線際の彼方に少し白雲が見えますが、快晴状態が続いています。 南の空南西方向の空 西方向の空 南から西の空にかけて、頭上も含めてまさに快晴!! 南の空17時5分過ぎに撮りました。南西方向の空 西方向の空 東方向の空この空の色調は、沈み行く太陽の光と空との関係が生み出す色でしょうか。光の反射・屈折・透過・・・・などの相互作用のなせる技か。あくまで推測にしかすぎません。空全体に統一感があります。つづく補遺坂村真民記念館 ホームページ 坂村真民について奥出雲町 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.11.17
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金堂正面の参道を入口(西)方向に進んで、金堂を眺めるとこんな景色です。参道の右側が、柴灯護摩道場で、「青葉まつり」の行われるところです。 参道を進む人の後ろ姿が写っている参道の左側に仏足石が建立されています。その傍から北方向への通路を歩めば、既にご紹介した宝篋印塔の隣りにこの戦没者供養塔が建立されています。 この参道の北側の少し奥まった位置にこの像が建立され、駒札が立っています。傍まで歩み、拝見します。 「玄宥僧正」[享禄2年(1329)~慶長10年(1605)]の坐像です。智積院中興第一世です。「豊臣秀吉の紀州根来攻めの難を逃れ、苦節16年、慶長6年(1601)德川家康の外護を得て当地に智積院を再興された」(駒札転記)坐像の背後に見える建物はかつての収蔵庫です。ここで長谷川等伯筆の障壁画等を拝見したと記憶します。現在の用途は知りません。 西に歩みます。旧収蔵庫の西側に拝観受付所があります。 拝観受付所の手前から北を眺めた景色です。ここが有料ゾーンへへの入口。五色の幕が見える唐門の先に、「講堂」その北に「大書院」「宸殿」があり、大書院の東側に「名称庭園」があります。南北に細長い池を設けた地泉観賞式の庭園です。このエリアは漆喰の白が美しい築地塀が西と南の境界となっています。 参道をさらに西に進むと、「延命子育地蔵大菩薩立像」が祀ってあります。この地蔵菩薩像は併せて水子精霊の供養も行われているそうです。 地蔵菩薩像を拝しつつ、金堂正面の参道から右折して、北への石畳道を進みます。 地蔵菩薩像の北側に、この井戸があります。井戸の覆屋の柱にしめ縄が張り巡らしてあります。少し先から、この石畳道の右(東)側は上掲の白亜の築地塀になります。 通路の正面には「本坊」への門が見えます。この石敷道をよく見ますと、中央は長方形の板石が真っ直ぐに敷かれていて、その両側は不定形の石がそのままに組み合わされた石敷道となっています。気にかけずに、この通路を歩いていますが、禅寺と同様に、中央を歩むことについて決まりがあるのでしょうか。 通路の西側にこの小堂があります。お堂前の石標には「大日如来」と刻されています。大日如来堂です。 大日如来石仏白い涎掛けが掛けてありますので、一見だけでは私にはお地蔵さまとの区別がつきません。 小堂の屋根の軒丸瓦の瓦当に三頭巴文が使われています。地蔵堂の場合は卍文が一般的だと思います。 大日如来堂の少し先で、右側を眺めた景色境内図で見ますと、大書院への玄関口の建物です。「大玄関」の南側には白砂が敷かれた枯山水庭園風の前庭になっています。 大玄関の前辺りの西方向を眺めると、緩やかな石畳の坂道と門が見えます。 両側に白亜の築地塀の建つ石畳道の先にあるのは境内から眺めた「総門」です。この総門は、東福門院より移築されたと伝えられているそうです。(境内図より) 総門の正面には、西に七条通が延びています。七条通の東の突き当たりが智積院です。 総門を入り、緩やかな石畳の坂道を上ってくると、この大玄関が見えるという景色です。この玄関口を入り、真っ直ぐに進めば大書院へ、手前で右折し廊下を歩めば講堂に至る配置のようです。 元の通路を北に進むと、門に突き当たります。右の門柱に掲げられた木札には、「本坊 法務所入口」と表記されています。門の右側は待機席が設けてあります。 「法務所(本坊)」。普通のお寺なら、庫裡にあたる建物になりますね。 本坊の前を通り過ぎ、そのまま通路を進むと、「北門」が見えます。この門は、東山七条交差点から東方向の坂道に向かっています。智積院と北側の妙法院との間にある坂道です。豊国廟への参道です。新日吉神宮、京都女子大学等のキャンパスへの坂道でもあります。京都女子学園(中学・高校・大学)への通学路になっていますので、親しみを込め「女坂」とも呼ばれています。(資料1,2)智積院への元の入口へ引き返します。 本坊の門を通り過ぎ、大玄関前辺りから石敷道を西方向に撮った景色です。こちらの方が石敷道の様子が分かりやすいでしょう。総門からの道とも対比して眺めてみてください。 通路を引き返し右折した角近くに、この「総本山 智積院の歴史」の案内板が設置されています。説明内容から、次の点に触れておきます。詳細は説明文をお読みください。*根来(ネゴロ)攻めの難を逃れた玄宥僧正は、苦節16年間の後この地に智積院を再興。*再興された智積院の正式名称は「五百仏山(イオブサン)根来寺智積院(チシャクイン)」*明治33年(1900)に、「真言宗智山派」の総本山と公称する。宗派に3000寺院が結集 ⇒ この時点で、真言宗は諸派に分立した。*智積院は現在も「修行の寺」として、信仰のよりどころとなっている。 毎回載せてきたこの境内図が上掲案内板のすぐ手前に設置されています。 探訪の起点である入口に戻ってきました。左に「総合案内所」が見えています。御朱印はここで取り扱われています。その右側に、境内図と歴史の案内の掲示板があることがお解りいただけるでしょう。探訪を終えての帰路は東大路通を経由して、東福寺駅に向かいました。蛇足になりますが、序でにご紹介致します。 東大路通の東側歩道沿いにまずは南進します。振り返って眺めると、右(東)側は智積院の石垣と生垣です。 境内の西南角が石垣と塀を境界として凹地となっていて、境外地ができています。その隅地に、「地蔵堂」が建っています。元々境外なのかどうかは不詳です。 地蔵堂の屋根の正面の瓦当と軒丸瓦の瓦当には卍が陽刻されています。地蔵堂のシンボルです。 蟇股 格子戸の内側、堂内には少なくとも五体の石仏のお地蔵さまが安置されています。智積院の周辺で気づいたのは、この地蔵堂だけです。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*境内図 :「智積院」1) 女坂 :ウィキペディア2) 女坂の桜が満開になりました :「京都女子大学」補遺総本山智積院 ホームページ真言宗 :ウィキペディア13宗派56派の宗祖・教え・教典・唱名など :「よりそうお葬式」 このページの説明では、真言宗は現在16派に分かれているそうです。大日如来坐像 :「文化遺産オンライン」大日如来 :「コトバンク」大日如来 :ウィキペディア【仏像の種類:大日如来とは?】密教最高の仏の梵字・ご利益・真言:「butsuzo link」(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・東山 智積院 -1 境内散策・鐘楼・明王殿・宝物館ほか へ探訪 京都・東山 智積院 -2 金堂・仏足石・太師堂・もう一つの鐘楼堂ほか へ探訪 京都・東山 智積院 -3 密厳堂・旧聞持堂・運敞蔵・光明殿・学侶墓地ほか へ
2023.11.16
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金堂近くまで戻りますと、金堂の北側に東方向への石段があります。この石段道を東側へと上ります。右は石段上の踊場から見下ろした景色です。ここで道が分岐します。 左(北)側に一段高い境内地への石段が延びています。勿論、石段を上がってみました。 登り切った先には、前回同様に修行中のため立入禁止の掲示が出ています。前回の修業エリアを正面側から眺めることになります。 西方向に鐘楼堂が見えます。 正面に参道が延び、その先には「密厳堂(ミツゴンドウ)」が見えます。真言宗中興の祖・興教大師の尊像を安置するお堂です。寛文7年(1667)に建立されたお堂。智積院7世の運敞僧正が末寺・学侶に寄付を募り建立されたと言います。(境内図より) 参道の途中、右(東)側にブロンズの立像が建立されています。手許の本の竹村俊則画を参照しますと、「興教大師像」です。(資料1) 北東方向に、宝形造の屋根の「求聞持堂(グモンジドウ)」が見えます。文殊堂または護摩堂とも呼ばれるとか。本尊は虚空蔵菩薩で、他に文殊菩薩と不動明王が安置されています。(境内図より) 北西方向を眺めると鐘楼堂の先に土蔵造りの「運敞蔵(ウンショウグラ)」が見えます。智積院第7世運敞僧正の著作、研究された書物、資料などが収蔵されている蔵。延宝元年(1673年)僧正自らの発願により建立されたそうです。現在は運敞僧正の坐像も安置されているとか。(境内図より) 運敞蔵の先には、鎮守社と思える小社が幾つか祀ってあります。 現在地から一番近い位置にこの建物がありますが不詳です。石段を下り、先ほどの踊り場に戻って、東に進みます。 「永代 常光明真言」と刻された碑がまず見えます。光明真言は大日如来の御真言で、一切の苦悩を解脱せしめる真言を意味するそうです。(資料2) 少し回り込んで、石柵で囲われた五輪塔の正面から撮った景色です。 地輪の正面には、「當山化主 不生位」と刻されています。「当山化主」にある化主とは「化は教化の意で、教化の主」を意味し、「後には高徳の僧や大寺院の住持を呼ぶようにもなり、新義真言宗では、管長または寺院の住持の敬称として用いられるようになった」(資料3)用語です。つまりここでは歴代の智積院の管長を意味するようです。智積院のホームページの「青葉まつり」の説明文に「当山では、総本山智積院化主御導師のもと」という表現が使われています。羅漢さんと呼び慣れている阿羅漢という言葉はサンスクリット語の音写語です。訳し方はいろいろあるようですが、その一つが不生(フショウ)。不生というのは、仏の涅槃の世界に入ってもはや迷いの世界に生まれないという意味だそうです。不生位というのは、「日常生活のすべてが法に適う仏の行になってくる。そういうことでもはや迷いの世界に戻ってくることはない、生まれないということ」(資料4)という次元を意味するそうです。 飛び石伝いにお堂を回り込むと、お堂の正面に「光明殿(コウミョウデン)」と記された扁額が掛けられています。上掲の石碑と照応しています。現在は納骨されたお骨を安置しているお堂だそうです。(境内図より) 屋根の降棟の先端に鬼板が置かれ、宗紋が陽刻されています。このお堂の先に歩むと、金堂の背後(東側)に出ました。 空地の先には、再び石段が見えます。この金堂の背後の空地は紫陽花が咲く所だとか。石段の傍まで近づくと、手間に香炉を置いた台が設けてあります。 右側のすく近くにこの「学侶墓地」と記された案内板が設置してあります。江戸時代に智積院内で修行し、その志半ばでなくなった修行僧を祀った墓地です。平成3年(1991)に地蔵山から墓石群を移転、整備して、この聖域が造られたとのこと。この説明文には、江戸中期の宝永年間に、全国からこの智積院で真言教学はじめ学問を学び修業する学侶がその数千六百余人に及んだと伝えられていると記されています。 傾斜地に階段状の列が設けられて、墓石が整然と並んでいます。 石段を上がって行きますと、少し空間を隔てて右手前方がこの墓域の東端です。石垣の前に真新しい感じのこの石塔が見ます。さらに近づいてみますと、「東日本大震災物故者供養塔」が建立されていました。 石段の先は、一段高い境内地の側面壁が境界となります。上の境内地の五輪塔が部分的に見えます。こちらは後ほどに。ここで折り返して、一旦石段を下ります。 学侶墓地を上から見下ろすとこの景色です。西方向に金堂が見えます。 飛び石伝いに南西方向に下り、 その先にある東方向への石段道を再び上ります。すると先ほどの学侶墓地の東端の一段上の境内地を北方向に眺める場所に至りました。 東西方向に、2つの五輪塔が建立されています。 それがこれです。手前(西側)には、「僧侶納骨供養塔」、奥側(東側)には「檀信徒納骨塔」と刻した石標が立ててあります。これらもまた供養塔。 通路に戻ります。その先を眺めると墓域が続く景色です。この辺で引き返すことにしました、通路を下って行くと、小川が横切り、石橋が架けてあります。 その先に、「境内整備事業祈念碑」が建てられていました。道沿いに下って行くと、金堂の南側に出ます。 左(南)側に明王堂と池を眺めながら、金堂の正面に戻ります。 金堂前の通路を西方向に歩みます。この後は境内地の北西域を散策することに。それで一通り智積院境内で自由に散策できるエリアを拝見したことになります。つづく参照資料*境内図 :「智積院」1)『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p120-1212) 光明真言 :「永観寺観音院」3)『岩波 仏教辞典第二版』4) ○○不生位(お坊さんの戒名) :「本蔵院律良日記」補遺総本山智積院 ホームページ 真言宗と中興の祖・興教大師興教大師 :「真言宗豊山派」(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・東山 智積院 -1 境内散策・鐘楼・明王殿・宝物館ほか へ探訪 京都・東山 智積院 -2 金堂・仏足石・太師堂・もう一つの鐘楼堂ほか へ探訪 京都・東山 智積院 -4 玄宥僧正坐像、地蔵菩薩立像、大玄関、総門ほか へ
2023.11.15
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=== 2023.10.25 === 南の空9時45分頃に撮りました。雲がなく快晴です。南西方向の空 西方向の空 西方向の遠くの空には白雲が見えるくらいです。 頭上の空 東方向の空稜線の上空には全般的に雲が広がっていますが青みがかった空が見えます。14時15分過ぎに、小雨が降り始めました。 南の空 南西方向の空 二方向だけ窓際から撮りました. 南の空15時50分過ぎに空を見上げると、遠くに雲が見え、青空です。通り雨が降っただけだったようです。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線上に大きな横雲が浮かんでいますが、その上に青空が広がっています。 東方向の空17時35分頃に稜線を眺めると、上空に月が見えました。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空夕暮れが早まってきているためか、晴れた空の色が銀鼠色に見えます。=== 2023.10.26 === 南の空9時35分頃に撮りました。その1時間余前に見られた大きな雲は過ぎ去っていました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線上空だけが、靄がかかったような景色です。 東方向の空15時近くに眺めますと、少しスッキリして空に青さが増した感じです。 南の空南西方向の空 南から南西方向に、少し雲が出ています。花が一輪青空に浮かんでいる感じの雲です。 西方向の空 頭上の空 他の方向に雲はなく晴れた空です。 南の空17時20分頃に撮りました。ベールがかかったような空です。南西方向の空 西方向の空 西の空に少し雲が見え、微かに夕映えしていました。 頭上の空 頭上の雲にも夕映えが見られます。 東方向の空一面の雲なのか、夕暮れ時の空の色あいなのか識別しづらい空です。さて、雲がたりを続けます。真民さんの全詩集第3巻に収録された詩集「詩国 第一集」の続きです。 (参照『坂村眞民全詩集 第三巻』大東出版社)「朴とスバル」と題する詩に雲が詠み込まれています。 雲ひとつない 星ばかりの空を仰いでいると 人間の知り得ない沢山のことが 秘められていることがわかる p131という一節の詩句のなかに・・・・。「脱落」と題する詩の最後の一行に 一点の雲もない暁天であった と詠み込まれています。 p133「角帯」と題する詩の末尾に、 八雲立つ出雲の神話の里 大呂(オオロ)のお婆さんの わたしへの贈り物 と詠み込まれています。 p147「一筋の道」と題する詩に「雲湧く」と出て来ます。この詩は全文引用します。 右往左往せず 右顧左眄(ウコサベン)せず 自分の道を 一筋に行こう これよりほかに道はない わたしの前に光る 一筋の道よ いのちに満ちた 世尊への道よ 花咲き 鳥飛び 雲湧く 美しい道よ 限りなき喜びの道よ p150「出山の太陽」と題する詩にも一行。この詩も全文引用します。 日を浴びるのではなく 日を吸いに わたしは近くの川原に立ち 出山(シュッサン)の太陽を待つ これがわたしの日課となった むろんいつも一人であるが 白鷺がよく伴(トモ)となってくれる 山にかかる雲ひとつなく パッと射し出る光を グッと呑み込む一瞬の大歓喜よ わたし一人に注いでくる この清浄光よ わたしの生命の糧となり わたしの詩魂の源となる 出山の初光よ p153「一筋の道」「出山の太陽」は、詩国賦算の道を歩む真民さんの生き方を詠んだ詩です。さて、雲の変化に戻ります。=== 2023.10.27 === 南の空9時20分過ぎに撮りました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空雲が少し出ていますが、天気は晴れ。 東方向の空稜線の上空は、姿はその都度異なりますが、いつものように雲が出ています。 東方向の空15時5分過ぎに眺めると、朝とはそれほど大きな変化はみられません。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空他の方向にはそれぞれに異なる雲の形が見えます。頭上の空に一番はっきりとした雲の姿が見られました。 南の空南西方向の空 右寄りの下方を、少しズームアップして撮りました。 西方向の空 頭上の空 東方向の空このような色の重なりの雲景色を眺めるのは初めてかもしれません。おもしろい。つづく補遺坂村真民記念館 ホームページ 坂村真民についてホオノキ :ウィキペディアⅡ.「すばる」とはどのような星ですか? :「国立科学博物館」プレアデス星団 :ウィキペデキア(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.11.13
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明王堂から北隣りのお堂に向かいます。 向拝は柱が4本と幅が広くとってあります。お堂の正面に金字で「智積院」と記された扁額が掲げてあります。「金堂」です。智積院の中心的な建物です。智積院再興の初期段階には、前回触れました祥雲寺法堂の建物を引き継いだときに、伝智証作の不動明王を本尊とする金堂がこの地にありました。しかし、天和2年(1682)の出火全焼により焼失。「元禄14年(1701)3月智積院第10世専戒僧正が発願し、桂昌院(徳川5代将軍綱吉の生母)より与えられた金千両を基に学侶からの寄付金を資金として、宝永2年(1705)春に」(境内図より)金堂が建立されました。その金堂が明治15年(1882)に火災により焼失しました。そして、この金堂は、宗祖弘法大師のご生誕千二百年の記念事業の一環として昭和50年に建設されたました。堂内には昭和の祈りを込めた本尊大日如来の尊像が安置されています。西村公朝師の指導のもとに藤原様式で作られた仏像とのことです。(境内図、駒札より) 鉄筋コンクリート造りの金堂です。智積院の伽藍は苦難の変遷を経ていることが偲ばれます。 向拝の木鼻:象 中央の蟇股 鬼瓦 本堂前の石灯籠竿の正面(西面)には「永代常夜燈」と刻され、北面には「文化六歳己己(ツチノトミ)十二月」(文化6年は1809年)、南面には「江戸真福寺二十八世観豪建立」と刻されています。この灯籠は二百年余の智積院の盛衰を見つめてきたのでしょう。 金堂の屋根からの雨水受け水槽は蓮の花形で、正面には明王殿の香炉と同様に宗紋が付いています。 近くに大きな宝篋印塔が建立されています。 金堂前から振り返って西方向を眺めれば、広々とした空間が設けてあります。 金堂前の南北の通路 南から撮りました。この通路の先で左折すれば、講堂・名勝庭園などの拝観受付所に至ります。 さらに一筋西側で、南北と東西の通路の交差する北西角に、「仏足石」が建立されています。 金堂前の通廊を西に歩んできて、北側から見ると、上掲の空間の意味がわかりました。 「柴灯護摩道場」として、ここで「青葉まつり」の行事が行われるようです。金堂前に戻り、北方向に進むと、 石段の先にお堂が見えます。 石段上は、一段高い境内になっています。お堂への参道の両側には、 左(西)側に「弘法大師空海像」右(東)側に「稚児大師像」 の両像が建立されています。 正面のお堂は「太師堂」です。 太師堂は、寛政元年(1789)に学侶の寄付で建立されたそうです。弘法大師空海像が安置されています。遍照金剛院とも呼ばれるとか。(資料1、駒札) お堂の正面に、「遍照金剛殿」と記された扁額が掲げてあります。 太師堂の屋根の正面には獅子口が見えます。経の巻の瓦当には、三頭巴文が陽刻され、綾筋の下には輪宝が、さらに軒丸瓦の瓦当もまた輪宝が象られています。 向拝は唐破風の屋根で、兎毛通の部分には瑞鳥が彫刻されています。 桁先端、破風板の下の桁隠は植物文です。 向拝の頭貫の中央には、束が見え、その回りを丸彫りの彫刻像が見えます。麒麟像でしょうか。 全体の姿 頭貫そのものにも彫刻が施されています。 木鼻には象の頭部 この獅子像は、頭部に大斗と肘木を載せて頭貫を支える形となっています。時折、この形式を見かけます。上掲の象の頭部上も、同様の形式です。 太師堂前の石段を下ります。 途中に東方向への石段があります。この石段を上がると、 石段の上には、「これより先は修行中につき立入禁止とします」となっています。この柵の前に立ち、この境内地を眺めてみました。静寂そのものです。東山七条の交差点からわずか数百メートルの距離とは思えない静けさです。 まず鐘楼堂が見えます。こちらは天和2年(1616)に造立されたものと言います。(境内図より) 鬼瓦 蕪懸魚 蟇股これらは鐘楼堂の細部です。 鐘楼の右側前方にお堂が見えます。駒札をズームアップしてみますと「旧聞持堂」です。 鐘楼の左側の先には、石灯籠やお堂が樹木越しに見えます。「江戸時代には教学の寺として諸国から学徒の雲集するもの三千人におよんだ」(資料2)と言います。また、「第七世運敞(ウンショウ)の時代は特に講学が隆盛で、全国より参集した学徒は1700名、学寮70余が軒をつらねた」(資料1)とも。 石段を戻り、一旦金堂近くに戻ります。つづく参照資料*総本山智積院 境内図 :「総本山智積院」 1)『続・京都史跡事典』 石田孝喜著 新人物往来社 2)『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p119補遺総本山智積院 ホームページ仏足石 :「コトバンク」仏足石 :「三井寺」2023年6月15日 京都智積院 青葉まつり Walking around Kyoto Chishaku-in Temple 【4K】 YouTube(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・東山 智積院 -1 境内散策・鐘楼・明王殿・宝物館ほか へ探訪 京都・東山 智積院 -3 密厳堂・旧聞持堂・運敞蔵・光明殿・学侶墓地ほか へ探訪 京都・東山 智積院 -4 玄宥僧正坐像、地蔵菩薩立像、大玄関、総門ほか へ
2023.11.10
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寺号碑泉涌寺道古道を歩く記事(11/8)で触れましたが、公開講座を聴講した日、智積院の境内を散策・探訪してみました。智積院は真言宗智山派の総本山です。七条通の突き当たりにあり、東山七条交差点の東側、東大路通に面しています。 智積院の入口は幅広い坂道で門がありません。坂道の南側から北を眺めた入口の景色。 この少し異質な印象の大きな狛犬石像(?)が門衛代わりに鎮座しています。詳細不詳。入口の坂道を少し上がると、南側に冒頭の寺号標が立っています。 その先に見える景色。 10/21時点の紅葉です。今なら紅葉はもっと進んでいることでしょう。 近づいて行きますと「総本山智積院寺誌」が建立されています。要点は以下の通りです。*五百佛山根来寺智積院と号し、弘法大師を宗祖とする智山派の総本山*同宗派の三大本山は、成田山新勝寺、川崎大師平間寺、高野山薬王院。末寺は3,000*南北朝の頃(14世紀初)に興教大師開山の紀州根来山に学頭寺院として創建された。 天正13年(1585)に兵火により一山全焼 (付記:秀吉による紀州攻め)*慶長6年(1601)、学頭玄宥能化が德川家康よりこの地を寺領として賜り、寺を再興。 後の勧学院の濫觴として仏教研学の道場となる。元禄宝永の頃に学風隆盛を極めた。*1601年当初は豊国梵宇三区。元和元年(1615)に祥雲寺(秀吉の愛児鶴松の菩提寺)を 下賜された。 (付記:豊国梵宇三区というのは、この地にあった豊臣秀吉を祀る豊国社の三ヵ所の 坊舎を賜ったという意味です。1615年4月大坂夏の陣で豊臣氏滅亡。元和偃武。 家康は豊臣氏滅亡後に、祥雲寺を智積院に与えたことになります。)*江戸時代に伽藍が整備され寺運が隆盛。明治維新の頃に堂塔伽藍の焼失と荒廃で衰微。 (付記:幕末に、学寮の多くが土佐藩の屯所となり、講学が衰えたと言う。また、 明治3年には上地により、旧来の寺地2万7900坪が1万6800坪と約40%減に。資料1)*明治33年真言宗智山派を公称し、宗派の復興、伽藍の再建に努力し、現在に至る。 左に目を転じると、銀杏の黄葉が綺麗で、近くにはポールの先で旗が翻っていました。智積院の講堂・大書院・名勝庭園のエリアは、はるか昔に2度ほど拝見(拝観料必要)しています。それ以外の境内地を拝見した記憶があまりありませんので、どこまで探訪できるか、自由に拝見出来る境内地の散策を試みました。そのご紹介です。 この案内図が境内に掲示されています。案内図下辺が東大路通に面しています。下辺中央より右寄りに入口と表記されています。ここが上掲の坂道です。案内図の左が北方向。上辺が東方向です。境内地内の築地塀で囲まれた区画が、講堂や庭園のあるエリア。になります。それでは、境内地の南エリアから境内の拝見・散策を始めます。 上掲寺誌碑の傍から鐘楼堂の方向に進むとき、右(南)には、すぐ近くに「総本山智積院 宝物館」があります。「国宝 長谷川等伯 障壁画」の案内板が置かれています。現在はこの宝物館に保存・展示されています。「弘法大師空海ご誕生1250年」を記念する奉修事業の一環として建立され、今年、令和5年(2023)4月4日に開館したばかりです。宝物館の南西方向には、築山風の庭の向こうに、「宿坊智山院会館」が見えます。 鐘楼堂を右に回り込むと、この「智専之鐘」と刻された石碑が立っています。旧宗立智山専門学院同窓生の集まりである智専会が鐘と鐘楼堂を平成10年(1998)に建立・寄進されたものです。 梵鐘には「真言宗智山派總本山智積院」の寺号が陽刻されています。 蟇股 鬼瓦 鐘楼堂前の通路を南に歩みます。 振り返って眺めた鐘楼堂 通路の先には、お堂の屋根が見えて来ます。 緩やかな坂道の右(南)方向を眺めますと、普通の鋪装道路がカーブを描いて延びています。後で案内図で確認すると、この景色の左(東)にある建物が宗派の総務庁です。右(西)に下っていくと、宿坊智積院会館に至ります。 坂道の左方向を見ると、お堂が見えて来ます。 さらに進めば、北と南に2つの大小のお堂がはっきりと見え、両堂の間に小さめの池があります。 まずは、この「南無大日大聖不動明王」と墨書された幟が立てられているお堂から拝見しました。高齢化の趨勢は、石段に手すりを整備する形に反映しています。いずこの寺院も同様ですね。 お堂正面の石段手前に、大きな香炉が設置されています。お堂の向拝に張られた幕と香炉の正面には、宗紋の桔梗紋が見えます。 向拝に近づくと、お堂の正面に「明王殿」の扁額が掲げてあります。 お堂に張られた五色の幕が風にはためいていました。幟でわかりますがこのお堂は「明王殿」。不動明王が本尊として祀られています。 このお堂は、護摩道場、祈祷所であり、「不動堂」とも呼ばれています。本尊の不動明王は根来寺より伝来と言い、麦つき不動とも呼ばれているとか。智積院の旧本堂が焼失した時、浄土宗・大雲院の本堂の譲渡を受けた建物と言います。この明王殿は札所(京都十三仏霊場第1番、近畿三十六不動尊霊場第20番)の一つです。(駒札より)蛇足になりますが、覚書を兼ねその経緯に少し触れておきます。祥雲寺が智積院に与えられた時、同寺本尊棄君(鶴松)像は南化和尚ゆかりの妙心寺に移され、建造物や障壁画は智積院に引き継がれました。長谷川等伯一門による国宝障壁画は祥雲寺の遺物を継承したことになります。(資料1,2)昭和22年(1947)の火災により旧本堂を焼失しました。この時に譲渡を受けた建物を本堂として移築されたのは、現在の境内図で講堂がある場所です。昭和54年(1979)10月に著者が俊則画として自著に挿入している智積院境内図でそのことがわかります。(資料2)現在の講堂は「平成4年(1992)の興教大師850年御遠忌記念事業として計画し、平成7年(1995)10月に完成したもの」(智積院ホームページより)とのことですので、昭和22年後に本堂として使用されていた建物をこちらに移築したとすれば、それは平成年代の初期と推測できます。改めてホームページの境内図で明王殿の項を見ますと、このことが簡略に説明されていました。序でに、大雲院は、下京区寺町四条下ルに所在したのですが、昭和48年(1973)に東山区祇園円山町に移転しています。この本堂の背後に祇園閣が所在します。祇園閣というと所在地がわかりやすいかもしれません。(資料1,2) 屋根の雨を受ける雨水槽はごくシンプルです。五色の幕の翻る様子を眺めつつ、北側のお堂に向かいます。つづく参照資料*総本山智積院 境内図 :「総本山智積院」 1)『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p119-1232)『続・京都史跡事典』 石田孝喜著 新人物往来社 補遺総本山智積院 ホームページ 360度VR境内画像玄宥 :「コトバンク」新義真言宗総本山 根来寺 ホームページ中世に花開いた一大宗教都市、根來寺 :「わかやま歴史物語」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・東山 智積院 -2 金堂・仏足石・太師堂・もう一つの鐘楼堂ほか へ探訪 京都・東山 智積院 -3 密厳堂・旧聞持堂・運敞蔵・光明殿・学侶墓地ほか へ探訪 京都・東山 智積院 -4 玄宥僧正坐像、地蔵菩薩立像、大玄関、総門ほか へ
2023.11.09
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先月21日(土)に再びJR奈良線の東福寺駅に降り立ちました。京都女子大学の学舎で開催された公開講座を聴講するためでした。この駅での下車は、私が京都国立博物館に行く時の径路の一つです。冒頭の瀧尾神社は先日再訪記をご紹介しました。石鳥居は本町通に面しています。こちらは南側にある朱塗りの鳥居です。鳥居をよく見ていただくと、柱の上部、島木の底面に接する箇所に台輪が設けてあります。稲荷鳥居(台輪鳥居)の形式です。現在の地図表記では、瀧尾神社は本町11丁目に所在します。この鳥居の近くから東方向は、鳥居前野東西方向の道路の両側が、 この町名になります。この道路は「五葉の辻」と呼ばれていて、泉涌寺(センニュウジ)への古道だったそうです。地名の由来は、五葉の松があったことによると言います。(資料1)これが今も「泉涌寺五葉ノ辻町」として地名に残っています。天正年間(1573-1592)に一筋北に新道ができ、そちらが泉涌寺道になったことで、この道は古道になったそうです。(資料1) かつてのこの泉涌寺への道(五葉の辻)を経由して、東山七条の交差点へと歩くことにしました。 今ではこの五葉の辻は普通に民家が立ち並んだ普通の住宅街です。 道路の北側に小さなお堂があります。地蔵堂かと思って近づくと、手前に「大日如来」と刻された香炉石柱が立っていました。格子扉越しに小堂内を拝見しましたが、太陽との位置関係もあり中は暗くて見えませんでした。画像処理して眺めて見ますと、堂内に遮蔽の仕切りが設けてあるようで、本尊は拝見できません。道路沿いにある小堂は殆どが地蔵堂で、大日如来が祀られているのは少ないと思います。 現在の道路を東に歩めば、「東大路通」に出ます。この景色は東大路通の南方向を眺めた景色です。通りの向こう、東側は「泉涌寺雀々森(ズズメガモリ)町」。東大路通でかつての古道は途絶えています。左折して、東大路通を北に進みます。 「いまくまの商店街」のアーケードが見えます。 交差点近くに、「智積院」まで10分の標識が出ています。 ここは、「泉涌寺道」交差点です。北側の角に、「泉涌寺道」の道路標識が見えます。 交差点を東に横断しますと、角に立つのがこの標識。「泉山御陵」は、京都市東山区今熊野泉山町にある陵墓の総称。(資料2)地図を見ますと、泉涌寺があるのは「泉涌寺山内町」その北東隣りが「今熊野泉山町」です。ここには数多くの陵墓があります。 この坂道が泉涌寺道。道路の北(左)側は泉涌寺門前町、南(南)側は泉涌寺東林町です。さらに上れば山内町で、即成院(ソクジョウイン)、那須与市墓所、戒光寺(カイコウジ)、泉山、新善光寺とお寺が連なっています。その先に泉涌寺が位置します。陵墓への参道入口が手前にあります。 東大路通の東側歩道を北に進みます。北西方向に石柵と樹林が見えて来ます。 「新熊野(イマクマノ)神社」です。白河上皇が法住寺殿を設けて、院政を始めたとき、熊野の神霊をこの地に勧請しました。神社の造営を担当したのが平清盛です。「白河天皇法住寺稜」の御紹介をした折に触れています。 この神社の北側は少し小高い地形になっています。以前探訪した時に歩いています。自然の地形なのか、土塁のようなものが築かれた結果なのか、私には判断できませんが。 先に進みますと、右側にこの坂道が見えます。南側角に、「鳥戸野(トリベノ)陵 中尾稜」と刻された道標があります。「鳥戸野稜」は、上記の泉山御陵に続き、泉山の一峰上にあります。一条天皇皇后定子陵以下1陵6火葬塚がある御陵です。中宮定子に仕えたのが『枕草子』を書いた清少納言。中宮彰子に仕えたのが『源氏物語』を書いた紫式部です。中宮定子は皇后定子のこと。「中尾陵」はこの坂道を上ったところで、今熊野宝蔵町にあります。仁明天皇の女御沢子の御陵だそうです。藤原総継(フサツグ)の女で、仁明天皇の女御となり、光孝天皇をはじめ三男一女を産んだ人です。鳥戸野稜と中尾陵は、今熊野川の渓谷を挟んで相対する位置になります。(資料1)余談ですが、調べてみますと、一条天皇円融寺北陵は、京都洛北の竜安寺内にあります。(資料3)中宮彰子、つまり一条天皇皇后であり、後に太皇太后となった藤原彰子は、宇治市内の宇治稜が墓所になっています。この坂道は、手許の地図を見ますと「醍醐道」と記されています。東山越えの道で、別名「滑石街道」とも称され、府道118号勧修寺今熊野線です。 この道路を横断しますと、空地が見えます。東の方に石段が見えます。立ち寄って見ますと、 公園です。地図には「宝蔵公園」と記されています。今熊野宝蔵町の区域の北西隅になりますので、公園名は町名に由来するようです。 石段上からの西方向の眺め。この景色の右(北)側が谷間状になっていて、JRの鉄道線路が通っています。東海道本線(JR琵琶湖線)が通っている幹線路です。 東大路通は、谷底を走る東海道本線を跨ぐ形になっています。その橋が「今熊野橋」です。橋上は工事が継続中であり、スッキリした橋を撮れません。そこで南詰東側の親柱だけを撮りました。この橋を渡れば、智積院はほんの少し先です。智積院は別稿としてご紹介します。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1)『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p532) 泉山御陵 :「コトバンク」3) 一条天皇円融寺北陵 天皇陵 :「宮内庁」補遺泉山御陵参道【道標】 :「フィールド・ミュージアム京都」御寺 泉涌寺 ホームページ泉涌寺 :ウィキペディア中尾陵 花洛名勝図会 巻六 画像45 :「国際日本文化研究センター」Kyoto Japan【4K】醍醐道を歩く(妙法院→東大路通→東山七条→智積院→今熊野→滑石街道 滑石峠→大石神社→新十条通→坂上田村麻呂墓→小野駅)Walk the Daigo-michi St. YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 京都・東山 瀧尾神社ふたたび -1 唐破風の拝所と瑞垣 へ 2回のシリーズでご紹介。こちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 [再録] 京都・東山 新熊野神社スポット探訪 [再録] 京都・東山 泉涌寺山内 即成院と戒光寺スポット探訪 [再録] 京都・東山 泉涌寺周辺の散策 御陵群・善能寺・来迎院スポット探訪 [探訪] 京都・東山 今熊野観音寺探訪 京都・東山 泉涌寺と周辺を巡る -1 瀧尾神社・泉涌寺道(古道)・勝林寺 2019年に7回のシリーズでご紹介。
2023.11.08
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=== 2023.10.22 === 南の空9時25分過ぎに撮りました。快晴です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空尾根の向こうに少し白雲が見える他は、東方向も青空です。東の空としてはめずらしい景色。 東方向の空17時半過ぎに眺めると、雲が出ていて、稜線近くの雲は少し夕映えしています。その上も一面銀鼠色の雲が覆っています。 南の空南も一面に雲が広がっています。東の上空と違って、一部うろこ雲状の雲が見えます。南西方向の空 西方向の空 西の遠方の空は夕焼けています。 かなりズームアップして、一部分ですが切り取ってみました。 頭上の空各方向に、それぞれ異なる雲の姿が見えます。晴れのち夕刻よりくもりという一日。=== 2023.10.23 === 南の空9時25分過ぎに撮りました。うろこ雲様の白雲が漂っています。天気は晴れ。南西方向の空 西方向の空 このような雲は何と称するのでしょう? すじ雲でしょうか。 頭上の空 東方向の空稜線上空には姿の異なる色々な雲が併存しています。 東方向の空14時55分過ぎに眺めると、雲は去り、稜線上空は快晴です。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 各方向も快晴の空です。 南の空南西方向の空 西方向の空 最近見かけるようになった空の現象。 雲のようにも見えず、青空がくすんで一面にグレーがかった感じなのです。 西の遠方の空は空が焼けるような夕映えがみられます。 一部を切り出してみました。 頭上の空 東方向の空 東の空も南の空と同様です。さて、雲がたりを続けます。真民さんの全詩集第3巻に収録された詩集「詩国 第一集」の続きです。 (参照『坂村眞民全詩集 第三巻』大東出版社)「収入の道を断つことによって」と題する詩がこの「詩国 第1集」に出て来ます。真民さんは、退職願いを書き、詩一筋、一足のわらじになるという決断をされたのです。この詩の後の「雲」を見つけていきます。「古代の天」と題する詩に、いくつもの「雲」が詠み込まれています。この詩には、「海運山妙厳禅寺にて」の詞書があります。全文引用。 ここに来て 古代の天を見る 朝に立つ雲 夕に湧く雲 色かたちとりどりの雲 ここは八雲立つ出雲八重垣の歌 ゆかりの大呂の里 夜となれば昔と変わらぬ天の星座に それぞれの星今も光り輝き 山々もまた 古代の静けさにかえる ああわたしはここに来て坐して思う 遠い親たちの願いを 承け継いでゆかねばならぬ務めを p93「独一」と題する詩に、次の一節が出てきます。 目にうつるのは 白い雲だけ 耳に聞こえるのは 川の音だけ p99「しっかりしろしんみん」と題する詩の第4節です。 冬の子は 冬の子らしく リンリンと生きてゆこう 風よ鳴れ 雲よ飛べ p102真民さんは、1月6日で酉年の生まれ。一つ前の詩の題が「一月六日」です。「しん」と題する詩では、心、芯、信、神、新、親という文字を列挙して、真民さんはこう詠むのです。 みんないい字だ 夜明けの雲のように すがすがしい字だ と。 p107「あかね観音」と題する詩の冒頭に雲が詠み込まれます。生まれて程なくして亡くなった我が子の茜さんを詠んだ詩です。その前の詩「三月八日」に、「乳も飲まず/ あの世へ行ってしまった茜よ」という詩句が詠み込まれています。「あかね観音」は次の詩句が詠まれています。 あかねの雲が浮かぶと いつも茜をしのぶ わたしたち一家を救ってくれた あの引き揚げの時の 不思議を思う わたしに霊の存在を 知らせてくれた茜 信仰に導いてくれた茜 きのう頂いた大きなザボンを供え 観音経を誦する p113「十五歳四ヵ月の人生」と題する詩が載っています。筋ジストロフィ症で人生を閉じた「北原敏直君の死を悼む」という詞書のある長詩です。その詩の数カ所に雲が出てきます。敏直君は病の中で、詩を書き、詩集を出していました。真民さんとの交流がありました。一つは、敏直君が昇天した日に真民さんが記録している「詩紀」の一節が詩にでてくるところに。 暁天祈願四時0分 白い雲が流れていたが それが却って天を動きあらしめていた p126そして、敏直君の死の当日のことを詩の指導者である先生からの便りに触れます。 その夜は一晩中眠らず お母さんと美しく輝いている お月さんのことや 風に流される雲のことなど いろいろ話をしていたという そうするとわたしが拝した 月や星や雲を 彼もまた見つめていたのである p127そして、この詩の中に、彼の詩を引用するのです。敏直君の詩、3つの内1つに雲が出ています。 願い 気にしないこと 空の雲のように どこに流されようとも 素直であること 草花のように 一年の命でも (50.6.10) p127 この辺りで、一区切りといたします。雲の変化に戻ります。=== 2023.10.24 === 南の空9時15分過ぎに撮りました。快晴です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空 青空がくすんだような感じの空に見えます。 東方向の空15時45分頃に眺めますと、朝のくすんだ色調から青みが加わった空に変化しています。 南の空南西方向の空 西方向の空 雲が出て来ていますが、晴れた空が続いています。 頭上の空 見上げるとここはほぼ快晴。 南の空17時20分過ぎに撮りました。もやっとした雲が見えます。南西方向の空 西方向の空 こちらも雲はわずかに見える程度です。夕映えしている雲が見えます。 そこに焦点をあててズームアップしてみた姿。 また、南西寄りに撮った景色から、遠方の夕映え雲を切り出してみますと、こんな夕映え雲も見えます。建物や電線などの夾雑物が写り全体の景色は絵になりません。遮る物が一切無くて、近くの空とこの遠方の空の雲を一体として撮れればいいだろうな・・・・・・・。町中では儚い想像ですね。 頭上の空 南東方向に上弦の月が見えました。 少しズームアップして撮るとわりとはっきりと撮ることができました。 東方向の空稜線近くに雲が見えますが、その上空は朝の状態と似た感じです。つづく補遺雲から山の天気を学ぼう|(52)すじ雲(巻雲)が語ってくれること :「日本山岳救助機構合同会社」「すじ雲」~天高く、風に舞うような形|雲から知る山の天気(1)/登山力レベルアップ講座 :「山と渓谷オンライン」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.11.07
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瀧尾神社に参拝されたなら、ぜひ御覧いただきたいのがこの拝殿です。外観は一般的な拝殿そのものです。知らなければ拝殿傍を素通りしてしまうでしょう。ところが、この神社特有のすばらしい特徴は拝殿の内側にあります。 南側からそれがこの天井に巨大でダイナミックな木造彫刻の龍の蠢く姿が見られるのです。まさに天から降臨してきた龍神の如くに・・・・・。 前回、拝所の彫刻群でご紹介した京の彫刻師、九山新太郎の作だそうです。拝殿の周囲を巡り、天井の龍を眺めます。 龍の頭部の下部が間近に見えます。 龍の足は爪三本です。 龍尾の先端と渦巻く雲が天井の一隅に延びています。 龍頭 拙ブログで過去にご紹介していますので、彫刻師・九山新太郎についてのご紹介は省略します。 この瀧尾神社は、現在の地図では「本町通」に面して西の石鳥居があります。本町通は旧伏見街道です。東山区本町11丁目に所在。通りを数分南に下れば、京阪電車とJR奈良線の「東福寺駅」。さらに南に進めば東南方向に「東福寺」があり、本町通沿いに南下すれば、通りに面する「東福寺中大門」に至ります。ご覧いただきありがとうございます。補遺瀧尾神社 :「京都通百科事典」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 京都・東山 瀧尾神社ふたたび -1 唐破風の拝所と瑞垣 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 京都・洛東 瀧尾神社細見 -1 拝殿(天井の龍)スポット探訪 京都・洛東 瀧尾神社細見 -3 境内を巡る観照 祇園祭点描 -2 大船鉾と瀧尾神社探訪 [再録] 京都(洛東・洛南) 旧伏見街道を自転車で -2 瀧尾神社・二之橋・法性寺・三之橋・東福寺の門
2023.11.05
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ここはJRと京阪電車の「東福寺」駅から数分のところにある「瀧尾神社」です。本町通(旧伏見街道)に面した石鳥居と境内を撮った景色です。先月10月19日に京都国立博物館の特別展「東福寺」に行く際に、本町通から境内を眺めると、ここ数年、本殿・瑞垣等の修理工事中だった境内がスッキリとなっていました。そこで帰路に久しぶりに立ち寄ってみました。未だ修理工事は継続中のようですが、拝見するのに支障がないところもあります。私の関心のあるところは久しぶりに眺めることができました。 私が久しぶりに眺めたかったのは神社のこの唐破風屋根の拝所と瑞垣、拝殿です。本殿は南面しています。瀧尾神社は大国主命を祭神とする古社(旧村社)で、深草にある藤森神社の境外末社になるそうです。社伝によれば、所在地の変遷があり、日吉坂に位置した時に、天正14年(1586)、豊臣秀吉による大仏殿建立に際し、現在地に移されたと言います。(資料1) 近づいて行きますと、菱格子の設けられた瑞垣の修理されている様子がまず見えます。 私の関心の対象の一つは、唐破風屋根のこの拝所です。屋根の頂の正面に獅子口が見えます。経の巻の瓦当には三頭巴紋が陽刻されています。 綾筋の下の陽刻は、瀧尾神社の御神紋が要項されているのでしょう。 破風の飾金具で荘厳された中央部の下の兎毛通の箇所は、瑞鳥の丸彫り彫刻が見えます。 欠損箇所が修復されていました。 破風の左右の部分にも瑞鳥が取り付けてあります。 右側の鳥を少し異なる角度から撮ってみました。修復箇所もよくわかります。 久しぶりに拝見したかったのは、唐破風屋根の内側です。 この彫刻群の見事さを久しぶりに鑑賞したくなった次第。部分的な細見の楽しみです。それでは、細部を眺めていきましょう。 虹梁の上の部分には、龍が向き合う形で彫刻されています。 立ち位置を変えて眺めると、こんな感じに。 中央部の束の前面に彫刻されているのがこの動物。これは何? 不詳です。 頭貫と虹梁との間には、鳥たちが透かし彫りで飾られています。 右端で羽を広げているのは鶴でしょうか。 唐破風屋根の拝所を支える柱の大斗の上には、瑞鳥の頭部像が東西で向かい合う形で載っています。 向かって左(西)側の奥の柱の大斗の上には、この彫刻像が載っています。鼠か? 梁の部分を眺めると、本殿の方向(北側)には梁に竜頭が彫刻されています。 柱の大斗の上には、上掲の小動物が見えます。 拝所の正面側を北東側から撮った景色です。正面の頭貫・虹梁と彫刻群の背面になります 透かし彫りの背面の東端部をズームアップで撮ってみました。 蟇股の背面の彫刻もズームアップで撮ってみました。 拝所の正面に戻り、虹梁の上の透かし彫りを眺めるとここにも様々な鳥が彫刻されています。 木鼻の獅子像 獅子像と草花を一体化して彫られている箇所もあります。 拝所に近い箇所を二カ所撮っただけですが、瑞垣の菱格子の上部にも、透かし彫り彫刻が施されています。ここには、龍が彫刻されています。 もう一カ所がこれ。 左端にニ羽のうさぎが彫刻され、 右端には虎が彫刻されています。虎はうさぎを虎視眈々と獲物として狙っている様子です。未だ修理工事が継続されているようですので、拝所近くだけ拝見しました。これらの木造彫刻は、京の彫刻師、九山新太郎の作と言います。過去ブログでご紹介していますので、ここでは触れません。遺された彫刻像そのものをお楽しみください。序でに、ある本で知ったことを覚書を兼ねてご紹介します。現在のデパート大丸はもとは大丸屋という呉服店ですが、その始祖は下村正啓という人。江戸時代、元禄元年(1688)伏見の京町八丁目に生まれ、19歳の時に、家業の古着商大文字屋を継いで、伏見街道を往来し毎日京都へ行商にでていたそうです。その折り、欠かさず瀧尾神社に参詣し、商売繁盛を祈願したと言います。享保2年(1717)に自宅を店舗にして大丸を創業します。現金掛値なしの「正札付き大安売」で成功し、呉服店を拡大していきました。商売に成功した下村正啓は、晩年に、感謝の意を瀧尾神社の神殿造営で表したそうです。現在の建物は、天保10年(1839)に七代目の下村正篤が修復したと言います。(資料2)その社殿が、ここ数年かけてまた修復工事が行われてていたということになります。1839年の後、現在までに大規模な修復工事が繰り返されてきたかどうかは資料がなく不詳です。冒頭の写真には石鳥居の先に拝殿が移っています。本殿の修理工事中は、この拝殿が仮本殿になっていました。現在は既に本来の拝殿の形にもとり、御神体は本殿に遷座されたのでしょう。この拝殿を拝見するのが、もう一つの楽しみなのです。つづく参照資料1)『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p51-522)『京洛ひとり歩き』 駒敏郎著 本阿弥書店 1991年3月刊 p41-43こちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 京都・洛東 瀧尾神社細見 -2 社殿(本殿・拝所・透かし垣)
2023.11.04
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=== 2023.10.19 === 南の空9時5分頃に撮りました。もやっとした雲が見えます。天気は晴れ。南西方向の空 西方向の空 頭上の空西方向から頭上にかけては、ふわりとした今にも消え入りそうな雲が浮かんでいます。 東方向の空稜線上空は、普段よくみる曇り空です。二層の雲になって空を覆っています。 東方向の空15時10分近くに眺めますと、雲は相変わらず多ですが、雲の合間に青空がけっこうのぞいています。 南の空 うろこ雲のような雲が、青空に浮かんでいます。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南の空17時35分過ぎに撮りました。空一面、雲に覆われた状態に変化していました。南の遠くの方が明るい感じです。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線の上には、銀鼠色の布で覆われた感じの雲が広がっていました。晴れのち曇りの一日。=== 2023.10.20 === 南の空9時50分過ぎに撮りました。ひつじ雲に近い感じの雲が漂っています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空昨日とは異なり、青空っぽい空に横雲が漂う景色です。天気は晴れでスタート。ところが、15時過ぎ頃から雨が降り始めました。 南の空南西方向の空 17時20分頃に窓の外を眺めると、小雨が降り続いていました。 窓際から空模様を撮るだけにしました。晴れのち雨の一日。さて、雲がたりを続けます。真民さんの全詩集第3巻に収録された詩集「詩国 第一集」の続きです。 (参照『坂村眞民全詩集 第三巻』大東出版社)「風は遠くからくる」と題する詩の第1節前半に「雲」が初めて詠まれています。 風は遠くからくる 日の沈んでいった 海の向こうの 雲が消えていった 山々の果ての 透明な霊気をともない まだみんなが深い眠りのなかにある みめいこんとんのなかで ひとり坐っている わたしのところにやってくる p15という詩句の文脈の中に。ここでは自然の雲そのものが対象に詠み込まれています。「一遍から学びとるもの」と題する詩の中では、 彼が称名すれば 風となり 雲となり 山河草木こぞって ナムアミダブツをとなえる p17という詩句となります。この詩句は、その根っ子が<一切衆生悉有仏性>さらに、「仏性は在らざる所無く、草木土石の無情の物にも在る」とする<無情仏性>の仏教思想につながっているのでしょう。(資料1)そのように受け止めました。「師病みていませば」と題する10節で構成され2ページに及ぶ長詩には、第2節に 師病みていませば 行く雲も重く 冬の日の傾く早し p18と詠み込まれ、行く雲に真民さんが師を気遣う心情が重ねられています。さらに第4節に、 師病みていませば 西へ行くものすべてなつかし 雲よ 船よ 飛びゆく鳥よ 沈む夕日よ p18遠く離れた地で病む師を思う真民さん。師に会いに行かれたときの記憶が甦っているのでしょうか。 師病みていませば 西に向かいて み名を呼ぶなり 雲のゆききの 寒き夕暮れ p19第7節にも雲が詠まれています。雲ならば直ちにお側に飛ゆけるのに・・・そんなもどかしい思いが重ねられているのかもしれません。この後、かなり先の「生かされて生きる」と題する詩に雲がでてきます。全文を引用します。 東天に眉月光り 西天に先生の瞳の星またたく 一点の雲なく 満天の星 暁天の霊気を吸い 今日も大地に立ち祈る ああ 生かされて 生きる うれしさよ 守られて生きる ありがたさよ p80ここの雲は、文字通り自然現象として満天の星のまたたきを遮断するという側面にふれ、、それがない状態を客観的に述べているだけでしょうね。雲の変化に戻ります。=== 223.10.21 === 南の空9時15分過ぎに撮りました。昨日に続き天気は素鼠色の雲が広がった曇りの状況で始まりました。ほんの一箇所に青空が垣間見えます。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空全面的なくもり空で一日が始まりました。 東方向の空11時15分頃に眺めると、稜線上空の雲は明確な層状態に変化しています。近い雲の方か゛色濃い状態です。 南の空南西方向の空 西方向の空 西方向の遠くは、青空が広がっているようです。しかし近くの空は雲に覆われています。 頭上の空 南の空16時40分過ぎに撮りました。遠くに少し青空が垣間見えますが、近くの南の空は一面の雲です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 一方、西方向や頭上に青空が広がってきていました。 東方向の空くもり空の一日でした。つづく参照資料1)『岩波 仏教辞典 第二版』 中村・福永・田村・今野・末木 編 岩波書店補遺坂村真民記念館 ホームページ 坂村真民について眉月 :「コトバンク」悉有仏性 :「コトバンク」一切衆生悉有仏性 :「Web版 新纂浄土宗大辞典」草や木も皆仏なり :「円覚寺」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.11.02
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二つのお寺の築地塀の間に通路が東へと延びています。後白河天皇法住寺稜への参道です。三十三間堂の東に位置します。京都国立博物館で特別展「東福寺」を鑑賞した後に、久しぶりに立ち寄りました。博物館南門前の横断歩道を南に渡り、三十三間堂の東側の道路を数分歩めばこの入口が見えます。土・日は門が閉じられているようです。三十三間堂は観光客が大勢来訪し、入口付近はざわついていますが、こちらは森閑としています。一人だけ来訪者を見かけました。入れ違う形になりましたので、しばし静寂な空間を歩む形になりました。左側は養源院の築地塀。 右側はこの法住寺の築地塀で、法住寺表門の左(北)側に冒頭の門・参道があります。 参道の突き当たりに、御陵の案内板が設置されています。後白河天皇法住寺稜と冒頭に大きな字で記された後に、7法親王を祀られていることが明記されています。 松の木の根元に、「法住寺」と刻した石造水鉢が置かれています。 右折します。右側が法住寺の築地塀です、法住寺の背後(東側)に御陵が位置することになります。 参道の南端に、石の井筒を設けた井戸があります。 東に向くと、御陵の入口です。この稜域は周囲90間(約106m)と言います。 正面右側に、「後白河天皇法住寺稜」の石標が建てられています。 御陵の正面を北側から目を転じていくとこんな景色です。 門の向こう、御陵の中央に法華堂が建てられていて、堂内に後白河天皇法体の像が安置されていて、床下の地中に石槨(セッカク)が埋められていると伝えられているとか。この地は、後白河天皇が上皇となり、法住寺殿と称される御所を設けて院政を営んだ地です。後白河上皇が拠点とした法住寺殿は、南北約1km、東西約500mに及ぶ広大な地域だったと推定されています。東山七条から南は泉涌寺道近くまで、西は大和大路通あたり、東は東山山麓に及ぶエリアです。法住寺殿が設けられた同時期に、南には新熊野(イマクマノ)神社、東には新日吉(イマヒエ)神宮があります。ともに後白河上皇が勧請した神社です。 生垣を境にして、御陵の南隣には、「妙法院宮墓」があります。常胤・堯然・堯恕・堯延・堯恭・真仁・教仁と称された7法親王が祀られています。江戸時代に妙法院門主となった歴代天皇の皇子・皇孫です。墓石は無逢塔の形で建立されています。妙法院は、天台宗延暦寺派の別院で、蓮華王院(三十三間堂)は現在は妙法院の境外仏堂になっています。元は、後白河上皇が長寬2年(1164)法住寺御所内に発願し建立した仏堂です。その造営を担ったのが平清盛です。新熊野神社も造立したのは清盛です。 御陵前から振り返ると、法住寺のお堂の屋根が築地塀ごしに見えます。 参道を戻るその先には、三十三間堂の東大門が見えます。 参道の門を出て、南に歩むと、法住寺のもう一つの龍宮門があります。 「旧御陵正門」の石標が建ててあります。これで御陵との位置関係がお解りいただけることでしょう。ご覧いただき、ありがとうございます。参照資料*『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p107-108補遺後白河天皇法住寺稜 天皇陵 :「宮内庁」天台宗法住寺 ホームページ蓮華王院三十三間堂 ホームページ後白河天皇 :「ジャパンナレッジ」後白河法皇が辿った生涯と人物像に迫る:源平合戦の影の演出者としての姿とは? [日本史人物伝] :「サライ」新熊野神社 ホームページ新日吉神宮 :ウィキペディア洛東 養源院 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 京都・東山 法住寺 -後白河上皇ゆかりの地- スポット探訪 [再録] 京都・東山 新熊野神社スポット探訪&観照 京都・三十三間堂 -1 本堂拝観、通し矢見物と回想 2回のシリーズでご紹介スポット探訪 京都・東山 新日吉神宮 -1 2回のシリーズでご紹介スポット探訪 京都・洛東 新日吉神宮ふたたび -1 楼門・拝殿ほか 2回のシリーズでご紹介スポット探訪 [再録] 京都・東山 妙法院スポット探訪 京都・東山 養源院
2023.11.01
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