二人は高知でいう「いごっそう」と「はちきん」で夫婦喧嘩は絶えなかったようである。
日記を見ると、「朝、久亥と論争し、後久亥が離縁せんと云い出すに至る。夕方に至り更に久亥の陳謝するありておさまる」と書いている。
時には激しいこともあった。「久亥と争ひ怒に乗じて膳をひっくりかえす」という記述もある。
まるでテレビドラマの寺内貫太郎一家を思わせる。
二人は母親同士が姉妹のいとこであったから性格的にはよく似たところがあったのかもしれない。
共に自分のいい分を表に出して、一歩も引くということはなかった。
対等の立場で自己主張を繰り返した。
正馬は久亥に英語を教えていたが、その教え方で、しばしば口論になった。
習う時間よりも口論の時間が多かったと書いている。
それでもこりずに、算術と日本外史なども教えている。
その上、妻の久亥は夫に内緒で他人名義の口座を作って金を貯めて、無断で家を購入することもあった。
また正馬の母亀との確執もあったようである。
だから正馬夫婦が離婚に至ったのは自然の流れと見る人もいたのである。
しかし実際は違っていた面も多かった。
正馬はしばしば自宅に友人を呼んで酒盛りをすることがあったが、妻の久亥はいやな顔をしないで接待していたという。少ない家計費の中から、酒のつまみをつくり、酒が不足すれば1合ずつ買いに出たという。家計が火の車の妻がこのようなかいがいしい世話をするとは思えない。
久亥はこの新婚当時が一番人生の中で楽しかったといっている。
正馬は、久亥が音楽学校の入学試験を受けたときは、妻を気づかい、全く勉強する気にならなかったと書いている。
つまりいろんな問題が起きれば起きるほど、それを糧にして益々夫婦の絆が強固になっているのである。
我々のように小さな問題が起きると、益々無関心になっていくのとはえらい違いなのである。
だが傍で表面だけ見ている人は、喧嘩の絶えない仲の悪い夫婦に見えたのであろう。
離婚の真相としては、相続の問題が絡んでいたようである。
久亥は二人姉妹の長女で、父親がなくなったとき、旧姓田村家の家督を相続することになった。
そのためには正馬と離婚して田村家の戸主になる必要があったのだ。
実際には離婚する気持ちはなかったのだが、経済上の理由から離婚したということだ。
1924年というのは1919年に確立した神経症の特殊療法(のちの森田療法)が爛熟期を迎えて、多くの入院生を受けいれていた。その中で久亥の役割もとても大きな力となっていたのである。
かくして、正馬・久亥夫婦は、1931年(昭和6年)再び入籍を果たしている。
森田正馬・久亥は一つの夫婦の人間関係の在り方を教えてくれている。
(森田療法の誕生 畑野文夫 三恵社参照)
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