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■新宿泊はこれでおしまい。大量に買い込んだ本とCDをダンボールに詰め込み、宅急便で送る。そして移動するのは仙台である。今回の旅行の本当の目的はこちら(^_^;)。もちろん時間の余裕さえあれば、仙台の古本屋めぐりもしたいのだがどうなるか?■で、仙台のホテルに向かう途中、ブックオフを見つけるが、東京でさんざん歩いたおかげで、足が疲労困憊状態(>_
2007.09.28
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■前日の本の大量仕入れ(?)も済み、気分は上々なのだけど、相変わらず神保町に向かう。で、さらに大量購入。東京にいる人がうらやましい・・・。■それはさておき。。。江戸東京博物館で「夏目漱石展」が、開催されたばかりという情報があり、結局、行って来た。■思いのほか、人がいた、というか、その多くは、中年以上だったが、なかにはメモをとりながら展示品をみる人もおり、いずれにせよ今なお漱石の愛読者がいかに多いのかを感じさせられる。展示の内容そのものについては、これ、という印象は特になかった(^_^;)。■今回の旅行で久しぶりに、TBSラジオ、森本毅郎スタンバイで、火曜日に荒川洋治氏の話を聞いたが、基本的にはそういう展示会よりも、その作品が読まれることが重要なのであり、読者人口が増えることを願うばかりである、なんてね、と(^_^;)。夜(というか夕方から)新宿で友人と飲み会。
2007.09.27
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■今回の本買いだし(?)旅行中、三省堂@神保町で内田樹の『村上春樹にご用心』を買い、スタバで一気に読んでしまった。興味を惹くのは、なぜ日本の評論家は村上作品に対して罵倒したり無視するのか、という問題定義。■確かに、村上作品に人間の対立がない。その「ない」という事実に対して、批評家がどのように向き合うのか。それを批判するのは簡単だが、そこに肯定的な意味を見出すとすれば、どういうことが言えるのか。それをしているのが、本書でも語られていたが加藤典洋であり、本書の著者・内田樹でもある。■村上作品が世界で広く読まれていることを、村上作品の長所と見なすか短所と見なすか、という問題も浮上してくるが、内田樹は当然、長所と見なす。だが、それを全面的に長所と見なせるだろうか。個人的には突っ込みどころも多々あると思うが、面白く読んだ。■また、小説というのは、作家が「作るものだ」という視点は作家にとっても批評家にとっても重要で、その点、村上春樹は作家と読み手の間に「うなぎ」という第三者を設定したり、内田樹もそれを積極的に認めていることはなるほどと読ませる。■なお作品内の「倍音」という比喩は、音楽関係者としてどうなのだろうと読んでしまう。これについては改めて考えることにしたい。■とはいえ、こういう過去書いたものの寄せ集め本というのも、そろそろ食傷気味。内田樹氏も読者に飽きられないように、気をつけてほしい(^_^;)。
2007.09.26
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■朝一番で向かうのは、飽きもせず(?)神保町である(^_^;)。前日行ったにも関わらず、である(^_^;)。■ただし前日は、見せ前のワゴンを中心に本をチェックしていったのだけど、この日はしっかり店内に入っての本探し。少し前までは、ドイツ語・フランス語・イタリア語、そして英語の詩学・詩法の関連書を集めていたが、日本語で読めるそれらの本はほぼ入手した、という感じでもある。で、ここ最近のテーマは、上記のテーマのほか、ロマン主義とリアリズムなので、これらを中心に関連書を探したところ、あるわ、あるわ、で買い捲り。■もう何冊買ったか数え切れない(?)。これだけでも東京に出てきた甲斐があるというもの。神保町はほんと、宝の山である。もちろん宝を探す「眼」が必要だが(^_^;)。■この日のさらなる収穫は秋葉原だった。神保町から歩いて石丸電気に行き、そこで珍しいCD数枚を買う。これらのCDはネットでも見つかりにくいものなので、こうして東京に出てきて買えるのがうれしい(^-^)。■夕方Bunkamuraミュージアムで絵をみたあと、夜は友人と恵比寿で飲み会(^-^)。
2007.09.26
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■午前中からお昼過ぎにかけて、K立音大の図書館で資料を大量コピー。へとへとになって行き先に迷う(*_*)。それでもがんばって(?)、ジュンク堂@池袋に向かう。ここで高見順『敗戦日記』を買う。ほかにも買いたい文庫本はあったけれど、買い出したらきりがないし、それらは帰宅してネットで買おうと決める。■次に向かうのは神保町である。で、最初に出会ったのが、なんと(!)、平野謙『文藝時評』上下2巻で、そこそこ傷んだ本ではあったけれど1000円で。ここ2年ほど探していた本なので、ほとんど迷わず購入。ほかにも1冊買う。■こんなに幸先がいいとは思ってもみず、ほくほく顔で歩いていくが、そのあとはもうひとつの結果だった。結局文庫1冊を買う。■まあ買ったのはこの程度だけど、久しぶりに大量の本と出会えたので、とても楽しかったし、うれしかった。次に来られるのはいつなのだろう。■そして!本だけ日記としては重要な出来事としては、ドストエフスキーの『悪霊(下)』(新潮文庫)をこの日に読み終えたことがある。感想や考えることは多々あるので、高松に戻ってきてからもろもろ書きたい。■実はこの日はそれだけでは終らなくて、タワレコ@渋谷でCDを11枚ほど購入。何年ぶりの偶然の出会いもあってびっくりした。夜は友人と渋谷で飲み会(^-^)。
2007.09.25
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(この日記は9月28日に書いています)■横浜から新宿へ。本当は神保町に行きたかったが、祝日なので断念した。で、高原書店@町田に行ってしまう(^_^;)。文庫6冊を買って帰る。■それから、当初の予定通り、コンサートへ。『悪霊(下)』を片手に出かける。コンサートの感想はもうブログでは書かない。会場はかなり盛り上がっていたが、演奏はいまひとつ。この演奏家ならもっといい演奏が聴けるはず。
2007.09.24
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(この日記は9月28日に書いています)■バスで新宿についたのは朝の6時半。妻とファミレスで朝食をとりながら、時間を潰す。そして午前10時。ファミレスを出て最初に入ったのは、ブックオフである。ここでの収穫はCD1枚のみ。本の品揃えはいまひとつだった。残念。。。■次に出かけたのは、タワレコ@新宿。ここでCDを大量に買う。そして次に向かうのが神保町。ところが日曜日ということで、かなりの数のお店が休業中で、こちらのテンションもかなり下がる(>_
2007.09.23
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(この日記は9月28日に書いています)■先の日記にも書きましたが、半年ぶりに上京。行きは深夜バスで大阪を経由し、新宿へ。今回の旅行は、名づけて「買い出し旅行」。何を買い出しに行くかといえば、間違いなく「本」である。地方都市にいては手に入らない本をここで一気にまとめて入手しようという魂胆…。果たしてどうなるか。■バスの中ではドストエフスキーの『悪霊(下)』を読み進める。
2007.09.22
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■今日これから、約半年ぶりに上京します。最大の目的は、建て前上、資料収集ですが、本音(?)は古本屋&大型書店めぐりです(^_^;)。地方にいてなかなかできない古本屋めぐり。その欲求不満をここで解消する予定(^-^)。■と書いたついでに改めて書いてしまうけれど、ここ香川県高松市の本屋さん事情は、「宮脇書店」という書店の独占状態で、自転車に乗っていると、あちこちにこの書店を見かける。■「本なら何でも手に入る」というキャッチフレーズを見るたびに腹が立つが(^_^;)、問題は、どの書店に入っても、品揃えがほとんど同じ、ということ。つまり売れ筋の本しか置いてないのだ。例えば、岩波文庫がまったく置いてない、ということは当たり前のようになっている。■いまや書店の稼ぎどころが雑誌であることは言うまでもないけれど、その雑誌ですら、売れ筋しか置いておらず、この書店の存在意義を疑わざるを得ない。小さな個性のない本屋をあちこちに作るより、ある程度まとめて分散させたり、文庫専門店やマンガ専門店を作るなど、工夫して欲しいと切に思う。商店街にある「本店」の名前が恥ずかしい店も、なんとかならないものだろうか。■また、観覧車のある総本店ですら、とにかくだだっぴろいスペースに、とにかく本を詰め込んだだけで、質より量というのがみえみえなのである。行く度にがっかりする。あ~、欲求不満を解消してやる~(^-^)!■待ってろ、神保町(^-^)!待ってろ、東京の大型書店たち(^-^)!あ、資料収集もちゃんとやりますが、こちらも地方では入りにくいものを、大量にコピーして帰る予定(^_^;)。(ちなみに上京中、ブログ更新ができるかどうかは、 現時点では不明です)
2007.09.22
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■ドストエフスキーの『悪霊(下)』で、第二部第八章「イワン皇子」のあと、当初入る予定だったが、掲載を拒否された、「スタヴローギンの告白」がある。それが本書の巻末に掲載されているので、そちらを読むことにした。■訳者の解説によると、この章は『悪霊』の中心的な内容をもつもので、だがそれゆえに連載掲載誌の編集長に掲載が拒否されたのだった。その原因はその内容が問題だったわけだが、そこには、ニコライ・スタヴローギンが、なぜそのようなニヒリストになったのか、について彼の卑劣な行為についての告白文が挿入されているからだろう。■その告白文によれば、ニコライは、以前住んでいたアパートで、町人夫婦の12歳の少女に対して、無実の罪で折檻されているのを眺めたり、卑劣な行為をしていた。■そういったこういった行為の告白文をチホン僧正に読ませるのである。ところが、ある核心部分(?)を書いた紙をニコライは意図的に抜き取っていた。抜き取られていた告白文はこう続く。 すべてが終ったとき、彼女は当惑していた。ニコライはそれについてチホンに「なにもなかったんですよ」と言う。そして「あれはたんなる真理的な誤解」とも。■やがて少女は自殺をする。ニコライは自分の人生を滅茶苦茶にしたいという理由で、「最低の女」である、マリア・レビャートキナと結婚したのだという。■この告白文を読んだチホン僧正とニコライが神の信仰をめぐって会話をしていく。そして、信仰と赦しをめぐる本質的な吐露が思わずニコライの口から出る。それはこんな言葉。 「聞いてください、チホン神父。 ぼくは自分で自分を赦したい。 これがぼくの最大の目的、 目的のすべてなのです!」 「そのときにはじめて 幽霊が姿を消すだろうことを、 ぼくは知っています。 だからこそぼくは、 無際限の苦しみを求めているのです」〔…〕■苦しみによって赦しを求めうると信じ、それを課しているのであれば、それはもはや神を信仰しているのと同じとチホンは言うのだが、それについての感想は保留しておきたい。■ともあれ、ここでメモをしておきたいのは、ニコライは本当に少女に何もしていないのか、何もしていないのなら、なぜ告白文を割愛したのか、という疑問。個人的には何かをしたのだろうと感じる。でなければ、その後少女が自殺する前に彼に対して脅すように拳を振り上げるだろうか。■いずれにせよ、こうした出来事が、「ニヒリスト」ニコライを生んだのであり、それを知ったうえで、キリーロフとの会話を読み直すと興味深い。
2007.09.20
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■十何年ぶりに再読している、ドストエフスキーの『悪霊』(新潮文庫)は下巻に入った。ここでヴィルギンスキーほか新しい人物が現れる。長篇小説を読んでいるとよくあるが、新しい人物が現れると、読書のスピードが落ちてしまう(^_^;)。ともあれ、ここで「5人組」が登場。なぜ5人組なのだろう?■個人的に「5人組」といえば、作曲家のそれにあまりにもなじみがあるが、ロシアで「5人」という組み合わせに何か理由があるのだろうか。と、それはさておき、と書きつつ、作曲家の「5人組」とまったく無関係なわけではない。■今日メモしようとするのは「皇子僭称者」について。ピョートル・ヴェルホーヴェンスキーはニコライ・スタヴローギンに対して、「イワン皇子」たらんことを要求する。■「イワン皇子」は「僭称者」で有名な人物。皇子の僭称者、と言えば、ドミートリー皇子を僭称し、実際に帝位に着いた人物を思い出す。このとき帝位を追われたのが、ボリス・ゴドゥノフである。■そして、ボリス・ゴドゥノフは農奴制を確立した人物、ということも思い出される。もはや言うまでもないが、ボリス・ゴドゥノフとは、ロシア5人組の作曲家のひとり、ムソルグスキーが作曲したオペラの主人公である。■農奴制を確立したボリス・ゴドゥノフと、彼に対抗した僭称者ドミートリー。それを題材にムソルグスキーがオペラを一応完成させたのが1871年(初稿)。このオペラが農奴解放されるロシアの社会と直結していることは間違いない。■一方、『悪霊』の連載が始まったのが、なんと同じく1871年。ピョートルがニコライに皇子の僭称を進めたことはおそらくボリス・ゴドゥノフの時代と絡められているのではないだろうか。ピョートルが新しい時代を切り開くべく、ニコライを担ぎ上げようとしているのだ。■物語はどう進むのか。前回読んだ印象とまったく異なり、読み進めるのが楽しみで仕方がない(^-^)。すぐれた作品がいかに見えない糸で結ばれているかを、しみじみと感じさせられた。
2007.09.18
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■ドストエフスキーのドイツ嫌いは有名で、これまで読んできた『罪と罰』と『白痴』でもロシアにおけるドイツ人が描かれていた。今回読んでいる『悪霊(上)』でも同様である。■フォン・レンプケという県知事が、この小説での「ドイツ」を代表している。その彼の素行として描かれている内容のうち、個人的に興味をもつのは、彼が青年だったとき、鼻だけで『フラ・ディアボロ』の序曲を演奏して見せた、というもの。■これは、単なる鼻歌のことなのか、どうもよく分からないが、ともあれ、オベールのオペラであることが重要。■そして、物語の本筋とはあまり関係ないが、リャムシンという、悪ふざけが好きな若者が、『普仏戦争』という新しいピアノ曲を作曲し、それを披露する場面がある。よくあるように、『マルセイエーズ』の曲に、ドイツ民謡『わが愛するアウグスチン』を重ねていき、次第にドイツ民謡が『マルセイエーズ』を飲み込んでいく、という音楽だった。■やはり重要なのは、おそらくそのようなことが実際にロシアでなされたであろう、ということ。つまり、普仏戦争がロシアでどのように受け止められたのか、ということの現れなわけだ。■で、ドストエフスキーの『悪霊(上)』を読了。上巻は、ステパン氏が、20年も付き合いのあった、ワルワーラ夫人から追い出されるところまで。■これまで食客としてやってきたステパン氏が、こうして放り出されるのには、ワルワーラ夫人との個人的な関係もあるが、農奴解放による上流階級の生活の逼迫、というのもあるのではないか。■なおステパン氏は元大学教授という設定。彼の存在が時代遅れとなっているのか、息子ピョートルにさんざん虚仮にされる場面は痛々しい(>_
2007.09.17
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■引き続き、何十年ぶりかの再読をしている『悪霊(上)』を読む(新潮文庫)。第二部に入って、ついに小説の核心に入った。すなわち「無神論」をめぐる対話である。■第一部終わりで、シャートフになぐられたニコライは、第二部でシャートフのもとを訪れたのち、キリーロフを訪ねる。このなかのキリーロフのことばをメモ。 人間が不幸なのは、 自分が幸福であることを知らないから、 それだけです。それに対してニコライは、 「餓死する者も、女の子を辱しめたり、 穢したりする者もあるだろうけれど、 それもすばらしいのですか?」と聞くと、キリーロフは、 「すばらしい。 赤ん坊の頭をぐしゃぐしゃに叩きつぶす者がいても、 やっぱりすばらしい。〔…〕 すべてがすばらしいことを知る者には、 すばらしい。」と答える。この辺りは、続けて読んできた、『罪と罰』、『白痴』の問題提起と共通している。■キリーロフがなぜ無神論者となったのか。現時点では不明だが、当時の若者たちが無神論に走らざるを得ない、ロシアの社会的事情や、若者たちのアイデンティティの問題が、そこに絡んでいるのだろう。つまり「善悪」の判断基準の問題である。
2007.09.16
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■何十年ぶりに再読している、ドストエフスキーの『悪霊(上)』(新潮文庫)。ここ何年もの間、ぼくにとって最良の小説は、ドストエフスキーの『白痴』だったが、その評価がついに覆される時がきた感じである。■さて。このところ忙しくてあまり読めなかったが、今日、気分が乗らず仕事もできないので、『悪霊』の第一部まで読み終えた。これは上巻の半分強の量だが、第一部の大半はストーリーもほとんど動かず、この小説の本質的テーマである「無神論」についてもあまり突っ込んだ議論はされず、読み進めるのにやや苦労するが、第一部の最終場面に向かって、物語は一気に動き出す。というより、決定的な場面が形成されるのである。■その場面こそ、バフチンの言葉を借りれば、大カーニバルといっていいだろう。バフチンの著書については、いずれしっかり読み直す予定だけれど、『ドストエフスキーの詩学』(ちくま学芸文庫)から参照するならば、「カーニバル小説」の特徴として、 何よりもまず取り払われるのは、 社会のヒエラルヒー構造があり、 自由で無遠慮な人間同士の接触が 力を得ることになる。■そして、 人間の相関関係の新しい様態が作り出され常軌を逸した人間の振舞いがなされるが、それはカーニバルにおけるちぐはぐな組み合わせが引き起こしたものなのである。■そのようなカーニバルが、『悪霊』第一部終わりに設定されている。当初その場に来る予定ではない人間たちが、次から次へとワルワーラ夫人の屋敷に現れる。主人公のステパン氏をはじめ、ざっと数えただけで12人はいるだろうか。■その集まりでさまざまなやり取りがあったのち、シャートフ(元農奴の息子、役人)が、突然、ニコライ(ワルワーラ夫人の息子)をぶん殴るのである。なぜ殴ったのかについては、現時点では明らかではないが、この小説の記録者であるGの口調では、すでにすべての事情が明らかになっているらしく、とすれば、こうした事件の背後には、十分な理由があることになる。■ともあれ、第一部の最後、あのような大人数がまったくの偶然のようにひとつの部屋に集まるということに、リアリティが感じにくく、小説としての危うさを感じさせる。■それだけに、大カーニバルがなぜ生じたのか、という謎が残るわけで、その謎をG氏が知っているだけに、読み手の興味は増していく(^-^)。この辺りのドストエフスキーの手法は巧い。もちろん、これを巧いと捉えるのか、汚いと捉えるのかは、読者それぞれだろうが。
2007.09.15
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■今日も仕事で疲れた合間に、荒川洋治編による『名短篇』(新潮社)から本書所収5つ目の短篇を読む。■病気療養している父親の元を訪れるが、父親はすでに元気に病院で暮らしていて(^_^;)、むしろ主人公の方が顔色も悪く、病気のようである。■その主人公が散歩しているうちに崖にたどり着く。そこにある岩石を壊したりしていると、眼下に父の姿が見える。父は息子に手を振ってき、息子も手を振って返す。■帰ってきて、なぜ父が手を振ったのかが明らかになるのだけど、息子を心配する父の思いというのがここでも描かれており、それを知り、かつそれを振り返る息子、というのがよかった。
2007.09.14
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■さて、これから忙しくなってくるが、読書のほうが相変わらずがんがんいきたい(^-^)。しかし、昨今の、読者を泣かせることしか狙っていないような小説を読む気はない。とにかく、本当に「文学」といえる作品を体系的にちゃんと読みたいと思っているので、まずはドストエフスキーにこだわりたいと思う。(バルザックがずっと放置状態(^_^;))■で、『悪霊』を何十年ぶりか再読している。驚いたことに、前回読んだときの印象が、すっかり消え去っている(^_^;)。■ともあれ最初のメモは、農奴解放である。ロシアの歴史にとって、農奴解放のもつ意味は大きい。個人的には、ある大学の講義で、ムソルグスキーの《ボリス・ゴドゥノフ》を取り上げ、そのときにロシアの歴史と農奴解放について触れたことがあるが、ロシアの文化芸術を理解する上で、社会との関わり、とりわけ農奴解放は重要だと今回、『悪霊』を読み始めて、再認識した。■小説では、主人公のステパンが、陸軍中将夫人ワルワーラに庇護されており、それにも関わらず、農奴解放に快哉をあげる。このとき、ワルワーラに睨まれるのだ。この辺りは時代をしっかり映し出している。
2007.09.08
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■今日も仕事で疲れた合間に、荒川洋治編による『名短篇』(新潮社)から本書所収4つ目の短篇を読む。初出は大正4年。■孝次の父親、というのが主人公。69才になる彼は、どうやら連絡もせず突然に、横浜から、吉祥寺にある息子の孝次の家に電車で向かって、孝次の家を訪ねる。まだ一面畑だったころの吉祥寺である。■この短篇のいいところは、孝次本人が実際には現れないこと。父親が尋ねても息子は外出中で、結局、父親は息子に会えないで帰っていく。■息子である孝次は、社会主義思想にかぶれ当局ににらまれているらしい。それを心配する年老いた父親。例えば、東京で電車に乗りそびれたとき、孝次の父親は脇にいる商人と雑談をする。商人の行き先は「川越」とのこと。 川越と云つた商人の言葉は、 彼をして、再び発車の時間をモドかしがらせた。 川越!それは十年前に死んだ孝次の母の郷里である。これを読んで一瞬目がくらんだが、「孝次の母」とは、言うまでもなく、孝次の父にとっては「妻」である。とにかく、この短篇ではあくまでも、孝次が中心にいるのだ。■物語では、孝次の父親は孝次の妻といくらかしゃべって、結局帰る。実は、孝次の父親は、息子の結婚に賛成ではなかった。だが、息子は妻・光子のおかげで、人間的に穏やかになったのだった。■そしてこの短篇は、心のどかに瞑目する、孝次の父の独白で、このように終わる。 しかし子の女房の処へ、 親が頭を下げて穏やかにさして呉れと 頼みに往く! いや、是れがいゝんだ、 是れで彼の心が静まりさえすりゃ………。年老いた父親の思いにしみじみと感動させられる作品だった。
2007.09.08
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■荒川洋治編による『名短篇』(新潮社)所収、3つ目の短篇がこれ。仕事に追われたちょっとした隙間時間に本書を久々に手にして読んでみた。初出は、明治45(1912)年。■実は現在読んでいる小説は、引き続きドストエフスキーの作品から、『悪霊』(新潮文庫、上下2巻)を、何十年ぶりに再読しているのだけど、仕事疲れして、わずかな休憩時間に開くには、この作品は重過ぎる(^_^;)。■一方、新潮社の季刊誌『考える人』の前号、特集「短篇小説を読もう」を読んだときから、ふとした仕事の合間に、短篇小説を一篇読んでみるのは気分転換にいいのではと思っていて、ぜひぜひやってみたかったのである(^-^)。■で、これをやるには、しっかり仕事をして、疲れた頭をちょっと休めるため、というのが重要(!)。で、ようやく今日それが実現した(^_^;)。ところが、これがこれほど効果的とは思ってもみず、こうしてついついブログを書いてしまっている次第(^_^;)。■と、前置きが長くなったが──。実はこの短篇、だいぶ前に一度読んだのだが、まったくピンとこなかったのだ。ところが、今日はまったく違った。■主人公が、寂れた(?)漁村に、保養のために来ている友人を訪ねる。小説そのものは、ただでさえ短いのに、さらに短いエピソードが連ねられている。■印象的なのは、小説の冒頭で、 私は長い間の海に対する渇を 医することが出来た。と書いておきながら、いざ海を見ると、一旦は海の鮮やかな印象に捉えられるものの、 忽ち私の心は掻〔旧字体〕き乱されて了まふ。 何だか恐しく成つて来る。退屈をも感ずる。 私は海に向つて立つて居られないやうな気がすると精神的な乱れが生じることである。その乱れはなぜ起こるのか。それについて詳しい分析はなされない。■最後は、目の見えない老婆のエピソードで、一日中ひたすらご飯茶碗をがたがたさせ、食べることだけに執着する姿が描かれる。全体のとりとめのなさと、主人公の感情のつかみどころのなさが、不思議な余韻を残す。
2007.09.07
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■ドストエフスキーの『白痴』を読み終えたので、引き続き本書を読んだ(新潮選書)。以前読んだ『謎とき『罪と罰』』がそうだったように、本書も謎ときの中心は、登場人物たちの名前の由来にあった。ドストエフスキーの小説に限らず、登場人物の名前の分析は重要だが、とはいえ、ドストエフスキーほど重要な例はなかなかないのではないか。アグラーヤとナスターシャ・フィリポヴナに「ギリシャ神話」対「ロシア神話」、という構図を当てはめているというのがそのひとつである。■そのほか謎ときされるのは、小説内でのキーワードというのか、あるいはライトモティーフとでもいうのか、ある統一的な意味をもって用いられる、ことばや道具についてである。とりわけ「緑」色や「ナイフ」の存在が重要だが、そのほかにもドストエフスキーが仕組んだ、さまざまな仕掛けの解読が面白い。細かくは本書を読んでもらった方がいいだろうし、そのためにはドストエフスキーの小説を、まずぜひ読んでほしいと思う。■しかし、である。今回、何十年ぶりに『白痴』を読んで、だいぶ冷静な視点で読んだこともあって、ドストエフスキーという作家がもつ問題、のようなものを感じた。つまるところ、ドストエフスキーの小説の特徴は、なんだかよく分からない、ということにある。実際、ドストエフスキー自身が、よく分からないように書いているのだ。その「よく分からなさ」ゆえに、何度も読み返したくなるし、ついつい深読みもしたくなる。■しかしそれを、全面的に肯定的に受け止められるかどうかに、それぞれのドストエフスキー評価の鍵があると思われる。
2007.09.05
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(ネタばれあります。ご注意ください。)■何十年ぶりに再読した、ドストエフスキーの『白痴(下)』を読了した(新潮文庫)。前回読んだ印象とは前回とはとても違った。致命的だったのは(?)、ぼくが記憶していたストーリーと、だいぶ違ったこと(^_^;)。■この小説全体は、主人公で無邪気なほど純粋なムイシュキン公爵、彼の最大の敵であるロゴージン、二人の間をゆれ動く絶世の美人で激しい感情をもつナスターシャ・フィリポヴナ、そして、彼女とムイシュキン公爵を奪い合う(?)令嬢アグラーヤ・イワーノヴナ、これら4人を中心に物語は展開する。■この4人の物語だけで進めばわかりやすいのだが、そこに本筋とは関係ない細かいエピソードが加わるので、全体に掴みどころのなさも残る。■ともあれ、この小説のクライマックスは、最後の最後に訪れる。それは次の通り。ムイシュキン公爵がナスターシャとアグラーヤを振り回した挙句、一旦はアグラーヤと結婚間際までいき、ところが大どんでんがえしがあって、最終的にナスターシャと結婚間際までいくものの、その直前、ナスターシャがロゴージンと逃亡し、その逃亡先でナスターシャがロゴージンに殺される。ムイシュキン公爵はすぐにロゴージンを探し出すが、すでに亡くなったナスターシャの死骸を前にして、ムイシュキン公爵は憔悴したロゴージンと並んで横たわり、青ざめたロゴージンの顔に自分の顔を押し付けるのだった。やがてムイシュキン公爵の涙が、ロゴージンの頬に流れる──。■そのあと、登場人物たちのその後を簡単に追って、この大作は終わる。登場人物たちのその後は、不幸なものだった。■こうして改めて読んでみて、純粋無垢だが、それゆえに他人を傷つけ、他人を振り回す「完全に美しい人間」が、一般社会のなかに放り込まれたとき、彼がどのような影響を人間に及ぼすのか、ということを研究した作品だということをしっかりと実感させられる。■ムイシュキン公爵にイエス・キリストが投影されていることは明らかだが、彼の存在が、描かれた社会において、必ずしもいい影響だけを残したわけではないことは、非常に重要である。■ともあれ、ひとりひとりの人物が、なぜそのような行動をとるのか、なぜそのような発言をするのか、ということを考えることはとても興味深い。例えば、4人それぞれは、ほんとに相手を好きだったのかどうか、その感情は具体的にどのようなものだったのか。■ナスターシャとて公爵が好きだったと思うが、それにも関わらず、かぜその公爵から逃れようとするのか。彼女の根底にある複雑な感情は、彼女が歩んできた不幸な人生と関係があるだろう。そのほかもろもろは、このあとも考えたい。今日は早速、江川卓の『謎とき「白痴」』を読み始めた。
2007.09.04
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