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「半押しのすすめ」「中国写真ライフ」では、「シャッター半押しのすすめ」の写真を公開しています。ピンボケや手振れが発生し易い人に多いのが半押しを行わずに、いきなりシャッターを押してしまい手振れが生じてしまう。まず被写体にピントを合わせた後、半押し状態のまま全体の構図を決める。シャッター半押しが上手に出来ない人はカメラの持ち方に問題がある人が多い。液晶画面だけ見て指先だけで操作をしない事。カメラは手の平も使ってしっかり持つ!シャッターを押す人差し指は、指の腹をカメラの上に載せて指を固定し指先がシャッターボタンの上に来るようにする。人差し指が安定し指先を微妙に自由にコントロールできるようになる。私は殆どオートは使わずマニュアルを使う。何を撮りたいか、ファインダーを覗きながら構図を決めてよりピントを合わす事が大切である。下の写真のように動きが有り、その動きが早い場合は水の滴るタイミングを感じ取る。水が滴ったと慌ててシャッターを押しても何も写ってはいないので滴りを予期してシャッターを切ることも覚えておくと良い。画像は、柊南天の実と水が落ちる瞬間である。
2011.05.30
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「南京旅情101」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。南京霊谷寺景区の無梁殿で中に入ると国民革命軍陣亡将士公墓の祭堂があり中は辛亥革命の資料館になっていた。霊谷寺は西暦510年の南朝梁の時代に宝誌和尚を葬るために創建された。南北朝は420年から577年まで栄えた。その中で南朝は宋、斉、梁、陳の四国が420年から589年まで栄えたが960年から栄えた宋代とはまた違う。南北朝の北朝は南朝の同時期に栄え北朝は北魏、東魏、西魏、北周、北斉の五つの王朝の国から栄えた。霊谷寺は南朝の三つ目の梁王朝時代に宝誌和尚のために武帝が建てさせた寺で宝誌和尚は予知を行い病を治した為権力者に恐れられ何度も投獄された。その霊谷寺の景区の中に並んで建つのが写真の無梁殿であり入口に?像館とあり?像とは日本語で蝋(ろう)人形のこと。また辛亥革命と書かれてあり、清朝打倒と共和政体の確立のために戦った人の蝋人形が飾られ宋教仁と交わり戦った黄興や蔡元培らの人形も有ったが、蒋介石と周恩来もあった。
2011.05.30
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「南京旅情100」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。霊谷寺景区の紅山門を上がって行くと国民革命軍陣亡将士の門が見えて来た。真中に中華民国国民党の党章が貼り付けてあり、その下には国民党の元老が書いた「大仁大義」が見える。牌坊の屋根にあたるところには渋い緑色の瑠璃瓦が施されており重圧感を感じるほどであった。「大仁大義」の4文字は三国志の中で使われているが、牌坊の裏側には国難を救って人民を救うという言葉が刻まれ、これも張静江が書いたものである。重厚な鳥居型牌坊の門の前には左右に石虎が配置され魔物から守っていた。霊谷寺景区には辛亥革命の歴史事件を再現し重要な人物の像が展示してある。下の写真は「無梁殿」へ続く石畳の道。
2011.05.28
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「南京旅情99」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。地図を確認すると紫金山は南京市の北東部に位置しており紫金山には明孝陵、霊谷寺、中山陵などがある。紫金山には全長2350mのリフトが設置されているが私はリフトは利用せずバスで霊谷寺まで来た。紫金山の山頂を目指し徒歩で向かう人もあるが、その場合は紫金山山麓を起点に登山道を登って行く。中国人の中にはスーツ姿に革靴姿で登っている姿を見掛けるが、やはり登山に適した格好の方が楽である。写真は紫金山の南麓から登った所に作られた霊谷寺入口で中山陵の東側に向って1.5kmの霊谷寺公園内にある。写真でも見て分かるが観光客の姿は少ないが私一人で土日でもない日に自由に見て回っているが、一般の人は仕事をしているウイークデーである。
2011.05.27
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「南京旅情98」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。ホテルを出たのが午前9時半過ぎになってしまった。昨夜、南京夫子廟街の江南貢院を出てから外で待っていたが、友人からは夕方6時過ぎに電話があったきりで連絡は夜8時半を過ぎてもなかった。私はこんな事なら先に腹ごしらえだけ済ませておけば良かったと後悔をしながら道行く人を眺めていた。そんな時、友人から場所を替えたからタクシーで来てほしいと電話が入り場所と名前をメモっていると2人の綺麗な女の子も一緒だからと電話は切れてしまった。友人と言っても化粧品会社の通訳をしている中国人で中国人には珍しく男で薄っすらと化粧をするほどで中国人からは気持ちわるがられていたが面白い男だった。(写真は紫金山の真中に造られた孫文の墓の中山陵)タクシーを拾い行き先を行っても分からないようで夫子廟から近い南京状元楼酒店と書いたメモを見せると手に取り見ながら、ここから近いと言い車を走らせた。秦淮地区の中にあったが、歩くと結構な距離であった。ホテルに着きロビーに座る友人より2人の女性に目が行き私は友人に別のソファーへ来るよう目で合図した。私が気になったのが女性のメイクとファッションだった。コンパニオンではと疑い友人に聞くと、化粧品のモデルで広東省の広州から来ているとの事で「普通の女の子だから安心して下さいよ!」と背中を二回叩かれた。(写真は今回行く霊谷寺と明孝陵の案内図である)私は何も食べていないことを告げると彼らも同じだったのでホテルのレストランへ入ったが高そうな雰囲気だった。メニューを手に取りワインの値段を見て苦笑いしてしまった。600元から1800元まであり日本円で一本25000円した。食事をしながら飲んでいても実に落ち着かなかった。夜の11時半過ぎ閉店だと言われ、勘定を支払うとき思わず自分のポケットに手が行ったが、友人が大丈夫払うからとさっとカードを出したので「ありがとう」と言うのがやっと。外に出て歩いていると「飲み直そうか」と言い出す友人に「明日早いから」と女の子達を残してタクシーに乗った。ホテルに着きシャワーを浴びベッドに潜り込んだのは既に夜中1時を過ぎていたが旅の疲れで寝過ごしてしまった。
2011.05.26
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「南京旅情97」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。江南貢院に入り資料室を見学し出したが見知った名前のパネルが壁に掛けてあった。アヘン戦争でイギリス艦隊は林則徐率いる中国軍艦に大打撃を与え、南京条約に調印させアヘン戦争は終結。清朝は英国に賠償金を支払う。イギリス軍が引き起こしたアヘン戦争で林則徐は多大な犠牲を払ったが彼もまた時代の波に飲まれた一人だろう。資料館には官職の服装も展示されていた。科挙試験に合格した階級により服装も違い状元の服は、科挙を受ける者の憧れだった。林則徐の子息は進士となり皇帝臨席の殿試を受験しようとしたが林則徐が左遷されたためその影響もあってか進士止まりになった。殿試で順位が決められ上位3位が三魁と呼ばれる状元、榜眼、探花の順位により待遇が異なった。一番権力のある地位は状元であった。身分に関係なく優秀な官僚を集めた科挙制度。難関を突破するだけの学問を身に着けるためにはそれ相応の家柄が必要だっただろうと思う。隋代の西暦598年に始まった科挙試験は20世紀に産業革命へと移り始めた世界の動きに儒教の道徳だけでは時代から取り残されてしまった。科挙の資格者は増えるばかりであったが官職のポスト先が見つけられないという事態に1300年以上続いた科挙は1905年清末に廃止されてしまった。大学は卒業したものの就職先がないのと同じだった。科挙は15歳以下が受ける童試。童試で学問に励み次の受験が本試験である郷試、会試、進士となりやっと官僚となれ、その上に殿試があり状元となる。隋代に始まった科挙制度は地方貴族から実権を奪うのが目的だったが、朝廷支配が安定期に入ると大量の官僚予備軍を抱え人材登用に困っていた。世の中、安定期に入り科挙を受ける者が増える一方朝廷はこれ以上の官僚は必要ないと門を狭めた。その結果、優秀な人材を発掘する場が優秀な人材を科挙試験で「ふるい落とす」試験場へ変化した。科挙試験の教材であった「四書五経」の丸暗記が実際の政治には何も役に立たず、いざ改革の機運が高まっても、そのエリート官僚は科挙で選ばれし者達で、既成の枠組みを見直す事さえ出来ずただひたすら現状を守るのが精一杯だった。だが、産業革命を経た欧米列強からの圧力が強くなって来ると新しい知識や技術の習得が必要不可欠となったものの科挙制度が逆に新教育の発展を妨げたため1904年を最後に科挙は廃止さた。
2011.05.25
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「南京旅情96」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。江南貢院で入場券を購入する時に見て回る時間を聞いた所、15分もあれば見れますよと言われた。後で思ったが慣れた人で15分ほど、不慣れな所をカメラを持って回る為には30分以上掛かった、江南貢院は1168年に建てられた中国で最大規模の科挙試験場だった所で科挙の試験では、受験者にそれぞれ個室が与えられたようで、江南貢院には2万室以上の個室が準備されてあった。朝鮮王朝や中国時代劇のドラマを見ていると写真のような赤い衣装に黒い紗帽を被っているが科挙の官吏登用試験で合格した人達の服装である。科挙は598年の隋代に始まり1905年清末に廃止。科挙は15歳以下が受ける童試であるが狭き門だった。童試で学問に励み次に受けるのが本試験である郷試。次に会試、進士となり、やっと官僚となれる。その上に殿試があり状元となることが出来る。科挙の受験者数100万人に対し合格者は1000人。競争率は約800~2000倍と言われた時代もあった。中国全土に科挙試験場が設置され行われたものの試験会場の試験官や採点する人が不足し大変だった。もちろんカンニングをする受験生も多かったり替え玉受験や裏口入学をする人達もあったようである。
2011.05.24
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「南京旅情95」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。南京夫子廟の歩行街と言っても夜道であり不慣れというより同じような道ばかりで曲がる角を通り過ごしてしまった。江南貢院は南京夫子廟から300mほど離れた所にある歴史的建造物である。江南貢院は1168年の宋代に建築された科挙の試験場であり、中国最大の科挙試験場だった。江南貢院から輩出された官人としては8人の妻を娶った唐伯虎や水滸伝の作者の施耐庵日清戦争の講和交渉で全権を任された李鴻章など。現在の江南貢院は博物館になっており科挙制度史の総合展示が行われている。
2011.05.23
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「南京旅情94」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。「夫子廟遊覧碼頭」という船着場には多くの観光客が遊覧船のチケットを買い求めていた。私は友人との待ち合わせが近づいている事もあり観光遊覧船がたくさん接岸されている所へ下りて対岸の壁に照らされている大きな龍を撮影した。船着場一帯には煌びやに飾られたイルミネーションが煌々と辺りを照らさしている光景を見ながら中国パワーとは逆に電気代の事をを心配した。「秦淮河」に沿って歩行街を歩き時折立ち止まってはシャッターを切り煌びやかな光りが川面に揺れ動く余韻に浸りながら歩いた。私がこれから向かう「江南貢院」は宋の時代の1168年建築された科挙の試験場だったところである。「夫子廟」という孔子を祀った所から300mほどと教えていただいたが、曲がり角を曲がらずにまっすぐ来てしまったようで来過ぎてしまった。写真はそれ程広くない「秦淮河」が流れる周辺は三国時代の六朝時代は南京で随一の繁華街だった。六朝時代は222年からの350年間をいい相当昔だ。人々の暮らしは急速には変化しないという事である。だが現在の中国沿岸部の急速な発展に伴うリスクを思うと日本が経験したバブル崩壊以上の不幸を経験するのではと心配する。
2011.05.22
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「南京旅情93」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。南京夫子廟街へ渡る文徳橋の上から秦淮河を境にした両岸の夜景を撮影。中国の友人と待ち合わせをしたが、約束の時間まで撮影をしながら歩いた。左側奥に孔子を祭る夫子廟がある。夫子廟へは8年ほど前に入った事がある。大きな孔子の石像は、文化大革命の頃破壊されたが、1983年に再建された。この辺りは、かつて宋の時代では南京最大の歓楽地帯であり妓楼が繁盛していた。古くから商人の集まる繁華街でもあり近くには科挙試験が行われた「貢院」があった。文化大革命終了後、宋代の街並みが復元され南京一優美な街として蘇り、多くの人が行き交う。秦淮河を船で遊覧する船着場へ来たが一人ではわざわざチケットを購入して乗るほどでもない。私は科挙試験が行われた「貢院」へ向かった。
2011.05.21
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「南京旅情92」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。南京大虐殺記念館を出た後、広い道路を渡って市バスに乗り継いで南京夫子廟街まで着いた。友人と待ち合わせた時間までは1時間ほどあるので南京夫子廟の歩行街の中を散策して歩いた。歩行街にある軽食の店は昔から有名な所が多い。南京夫子廟歩行街の軽食は、上海城隍廟の軽食や蘇州玄妙観の軽食また、湖南長沙火宮殿の軽食と共に「中国の四大軽食」と言われている。南京夫子廟一体の軽食は長い歴史が脈づいている。軽食の品種も多く、毎年の9月にグルメ祭が催される。特色のある浙江省の紹興や福建省の潮州料理、そして江蘇省の南京など各地の軽食を賞味できる。江蘇料理は揚子江沿いの南京を発祥の地としており繊細な穏やかな味が特徴で、川魚や鴨などのほか野菜を多く用い、昔より江蘇の名物料理と言われる。日本人には南京ダックより北京ダックの方が知名度が高いようであるが、南京ダックは肉も美味しい。皮だけを好んで食べる北京ダックとは一味違う。
2011.05.20
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「南京大虐殺記念館(完)」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。南京大虐殺記念館の建物内部の写真を公開してきた。もし貴方が大虐殺記念館を訪れるような事があっても建物内部の撮影だけは周囲に気を配り間違ってもフラッシュを焚かないよう心掛け注意を払うように。1931年12月13日に南京が陥落し、12月13日から1月まで南京において旧日本皇軍に因る大虐殺が行われ2007年の12月13日で70周年を迎えるにあたり、この日を目標に南京大虐殺記念館新館の建設にまい進して来た。1982年日本社会党より南京大虐殺記念館の建設を推し進め乗り気でない中国側に3000万円の資金提供と記念館のデザインを日本側が提供する事で中国側も重い腰を上げた。1985年に旧館が完成し中国にとって南京大虐殺記念館が思わぬ追い風となり、トウ小平から江沢民になる頃には南京で大虐殺が行われたとアピールし反日運動を強化した。2005年から本格化した中国の反日デモはエスカレートし毎年続き単なるデモではなく暴動にと変化して行った。中国共産党も中国の青少年教育の一環として成果を上げてきた「反日感情」を更に高めようと1983年当時はどうでもよかった南京大虐殺記念館の建設だったがここへ来て更に規模を大きくし教育を推し進めて行った。1985年8月15日にオープンした記念館旧館は2006年6月25日を最後の開館日にして新館建設へ乗り出した。1983年当時は社会党が用意した3千万円の費用の内900万円で旧館を建て残った2100万円を共産党幹部で分け合って自分たちのものとしていた。だが、新館建設では「更なる反日」をのスローガンの下68億円の建設費用を捻出して2007年12月に完成させた。新しい南京大虐殺記念館では中国各地から学校教育の一環として学生たちが訪れ新たな反日感情を決意していった。下の中国青年の投稿もこのような教育から生まれたのかも。日本人はなぜ南京大虐殺を認めない(クリック)この日の夜は中国人と待ち合わせた飲み屋で酒を交わしながら色々と友好を深め合い、中国人の友人2人の4人で楽しく飲んだ。私が中国へ来た1993年当時は南京事件を全面信じていたがそれも3年ほどで中国政府筋が誇張したものであると思い始めた。今では南京事件は中国軍兵士が民間の服装で紛れ込み(便衣兵)日本兵を殺害し出したため、便衣兵を一掃せよとの命令を受け日本兵が行った便衣兵掃討作戦が南京事件と理解している(終)
2011.05.19
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「南京旅情90」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。(旧日本兵士の慰問袋に入っていた日本酒なども展示)中国国内でのテレビや新聞には中国の反日デモの真相は制限されているので若者たちには真相は伝わらない。なぜ若者たちは急に日本への敵意をむき出しにして来たのか。私の携帯電話にも反日デモのメールが入って来たほど強硬に反日デモが先導され行われたが分かる。メールの時間に私は中国の友人と上海人民広場の周りを何度も回った。多くの大学生も人民広場付近に居たが、デモ隊の中へは入ろうとはせず、何処からか集められたデモ行進する若者が列を成していた。私は車から降りようとした所危険だからと外には出さしてもらえなかった。(大虐殺記念館出口付近に死者を祭る斎場も造られていた)その2時間後に上海日本領事館が標的となった事を知った。中国の若者たちが叩き込まれた反日歴史教育にある。中国人が経営する日本料理店やスーパーから電気店の多くが破壊されて日本の名前が付いている所は見境なしだった。日本人の残虐性ばかりを叩き込まれて来た若者たちが日本人を憎むようになるのは当然の摂理であろうし1992年以降の反日教育が功を奏したと言える。下の写真の花は「紫金草」や「二月蘭」と呼ばれている。別名「諸葛菜」と呼び、孔明が占領陣地に食料として栽培したということで諸葛菜とも呼ばれるようだ。南京陥落から南京の紫金山麓で無邪気な少女が日本兵へ手渡したとされる花であるが、南京では有名な話である。(紫金草や二月蘭と呼び、別名諸葛菜と呼ばれる花)紫金草の中国名は「二月蘭」と呼び、元日本陸軍薬剤少将の薬学博士の山口誠太郎さんが南京の紫金山の麓で少女から手渡しされた紫金草の花の種を採集して日本へ持ち帰り紫金草花の普及に努めたのが今から70年前のこと。紫金草の花は「平和の花」として日本でも多く咲いている。2007年南京記念館の拡張工事で山口誠太郎さんの83才になる息子さんが日本各地で1000万円の募金を集め南京に寄付した。南京市は記念館に紫金草花園を造園して紫金花少女の像も建て日中両国人民が共に平和を祈念するシンボルとして記念祭はもとより多くの人が少女を訪れる。紫金花少女が左手に持っているのが紫金草の花である。反日デモも南京だけは一度もデモが起こってはいない。
2011.05.18
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「南京旅情89」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。「南京大虐殺記念館」は中国国内にある40箇所以上の「抗日記念館」の中で一番大きく中国で一番人気でもある。まず中国の教科書で、日本軍の血なまぐさい大虐殺の事を学ばせ記念館での野外教育で教師は泣きながら子供たちにマニュアル通りの説明を加えるという徹底した教育だ。マニュアルは、子供たちが日本を恨むように導く教師用に作成された本やCD、最近ではDVDが配布されているようだ。中国の反日教育が江沢民政権の時代から始まったのは事実。だが、現在45歳位の人たちは「南京大虐殺」を聞いた事も教えられた事も、教師が涙ながらに芝居をする事もなかった。1980年代の中国は日本と良い関係を持つという方向だった。それは共産党政府によって誘導され社会の雰囲気も日本に学ぼうという時代で、若者たちに反日感情はなかった。トウ小平が日本へ来て新幹線に乗った時、座席に座って中国は今まで何をやって来たんだと泣いた話は有名である。(大虐殺記念館内は撮影厳禁なので注意を払うこと)江沢民は日本が経済力で再び中国侵略を企てていると話した。事実、中国の電化製品は日本製のものばかりが店頭に並んだ。将来を恐れた江沢民は子供たちに反日感情を植え付け反日デモで怒りの声をあげている若者たちに育てあげた。江沢民の反日教育は、天安門事件で政府に向けられた国民の感情を逸脱させ党の威信を取り戻すためだった。日本の政府に対しいくら叩こうと外交的にも反抗しないので日本は格好の対象になり歴史的にも憎しみを植えつけ易かった。中国で国民を洗脳するのはごく簡単なことである。それは国内のメディアをすべて掌握する中央宣伝部があるからである。日本を弁護する情報は一切出さず、軍国主義が行なった犯罪を強調し、国民の愛国主義を高める方針が伝達され徹底された。(写真の文字は屠殺と書かれているが虐殺の中国語である)
2011.05.17
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「南京旅情88」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。(1985年当時から26年経ち、苔がその歳月を象徴)私は仕事柄、中国の若者たちと接する日が多くその若者たちと南京事件の話題になると皆生き生きする。中国の小学校で日中戦争の歴史を教える授業になると教師は日本軍の残虐行為を語り感極まり泣き崩れる。最後には子供たちも興奮し授業にならないようだ。日本への憎しみだけを教育されて育った子供たちが今、中国で「反日」を叫ぶ若者たちになった。1990年代初頭、江沢民政権が始めた「反日教育」は若者たちの隅々までに行き渡り反日運動は今や共産党政権維持のために欠かせないものとなった。私がまだ日本で仕事をしている頃、天安門事件が起こり多くの学生が亡くなったがテレビで見て知っていた。共産党政権は天安門事件で大きな汚点を歴史に刻んだ。(写真は旧館の外壁を壊さず利用された彫刻群) このままでは共産党政権が揺らいでしまうと江沢民は中国青少年教育の5ヵ年計画案を打ち出したのが「反日教育」だった。反日教育も10年を過ぎる頃には江沢民の思惑通りの青年たちに育って行った。江沢民政権はメディアを総動員して反日教育を行ない日本人を残虐な行為をする存在として描き青年たちの感情を喚起させ「反日デモ」を青年たちにアピールした。また現在、中国全土では40箇所を超す「抗日記念館」が建てられ日本軍に殺された中国人の?人形や絵画を展示し学生たちには「抗日記念館」へ出向かせ学ばせた。若者たちと食事をしたり会話をする中で「日本人は凶暴と教えられたけど、あなたの様な人もいるのですね」と言われ一瞬言葉を失った事があるが「日本人はある意味中国人より思いやりがありますよ」と話し「政府の方針にも行き過ぎがあるような感じは受けますね」とも話すと驚き顔だった。
2011.05.16
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「これは真実なのだろうか2」 「中国上海写真ライフ」では、日中戦争--南京!南京!の映画の写真を公開しています。スペインサンセバスチャン国際映画祭で最高賞のゴールデン・シェル賞受賞したが中国作品は初。陸川監督映画「南京!南京!」は第53回ロンドンの映画祭でも注目を集め中国のテレビ取材班も訪れた。旧日本皇軍が中国を侵略した事は紛れもない事実である。虐殺もあったに違いないが30万人となると眉唾物である。だが、親しい中国人に話した所で信じる筈もなかった。私は中国へ行ってより2回大きなホールで中国人を集めマイクを持ち15分ほどの話の中で、南京事件のことを話したことがあったが、600人以上居ると私を密告する者も現れ、かなり厳しいお叱りを工場側から受けた事があった。(上の写真は角川の上官の伊田少尉役の木幡龍)話の内容は「南京大虐殺は事実だと思うが30万という数は中国政府が水増ししたものだと私は思っている。しかし、数が少ないからと言って虐殺したことには代わりがなく、ここに私からも皆さんに対し謝罪したいと思います」と約7分ほど。バカにつける薬はないと言うが、工場側から日本本社に苦情がそして日本から「中国人の気持ちを逆撫でするような発言は慎むようにしなさい。ましてや集会の中での発言は言語道断。あなたの代わりは幾らでも居るんだから肝に銘じるように」映画「南京南京」のあらすじと言うか感じた所を思うままに書き綴ってみたいが、南京南京を見ていない人にとってはストーリーが見えてこないのかも知れない。物語は南京が陥落し多くの中国兵が虐殺されたあとのシーン。日本人主人公「角川」が慰安所へ行き、初めて女性と交わる。その日本人慰安婦は百合子と言った。角川は新年の慰問袋を持って再び百合子を訪れるが、病を患っていた。(上の写真は中国人慰安婦で真ん中が足にブレスレットを)角川の持ってきた慰問袋に手を入れ無邪気に喜ぶ百合子。角川は彼女と再び契りを結ぶ。角川は三度慰安所を訪れるが百合子の病状は重かった。角川は触れることをためらう。若い兵隊が角川に「終わりましたか」と尋ね、百合子が横たわるベットの脇に腰掛け百合子を犯すベットのきしむ音を頭を垂れて我慢する角川の姿が映し出されていた。日本人慰安婦の数が足らなくなり中国人の中から募った。100人の中国人慰安婦が集まった。角川はベットに横たわる中国人慰安婦に手を触れず共に時間をすごした。そしてカメラは彼女の右足首のブレスレットを撮った。ある日、憲兵の角川は中国人慰安婦が力尽きて裸体のままリヤカーで運ばれようとする場面に出会う。その時左足にブレスレットをつけた慰安婦の死に臨み愕然とする角川。(上の写真のリヤカーに乗せられた左側の女性の足首に飾りが)久しぶりに日本人慰安所を訪れた角川は、百合子が死んだ事を告げられ「百合子は私の妻でした」と純真な心中を話すシーン。捕虜への凄惨な虐殺が続く中で神経をすり減らしていった。その最中で角川は百合子に愛情を抱き、戦争による疲弊を癒して行ったが百合子はあくまで慰安婦でしかなかった。百合子にとって角川大勢の中の一人だが、角川にとっては精神的な拠り所であり百合子を妻と思うほどになっていた。百合子と逢うが満たされぬ思いのまま、再び暴行、虐殺が蔓延する街の所属部隊に戻って行く心の葛藤とのジレンマ。実際には、日本人従軍慰安婦は居なかったようである。最後には銃殺するために縄で縛った中国人子供と大人二人を、逃がし、「死ぬ事より生きる事の方がずっと大変だろうな」と、言い腰の拳銃で自殺した。そのシーンが妙に心に残った。35歳以下の人達で作成した映画で残酷なシーンは少なかった。だが、虐殺の人数より、虐殺した事の事実は歴史からは消えない。今回、非常に感動したのは、日本軍人から見た南京大虐殺をテーマに作品が作られて行ったが、それでも悲惨な場面が多い。主人公の日本軍人が日本人慰安婦の百合子と始めての情事でその女性を妻のように愛し通い続けたが、慰安婦の百合子は過労で病死してしまった。目の前には中国人慰安婦が過労死し全裸のまま、脇と足を抱えられリヤカーに放り込まれる。中国人慰安婦の足につけたブレスレットと百合子の死とをオーバーラップさせ、何とも切ないシーンである。日本人の主人公である角川は中国での映画のキャンペーンに訪れた時、観客席の中国人は角川に罵声を浴びせた掛けた。やがてそれを打ち消すかのように若い中国人から「日本人の俳優にそんな事を言うものではない」「彼らこそ尊敬に値する」「彼らは勇敢だ!」という声が次々と、会場全体が熱い拍手に包まれ、角川役の中泉英雄は舞台裏で感動し泣いたという。現在、中泉英雄と木幡龍は日本で嫌がらせを受け、陸川監督の計らいで中国北京で暮らしているが彼らも被害者なのかも・・。
2011.05.15
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「これは真実なのだろうか1」 「中国上海写真ライフ」では、日中戦争--南京!南京!の映画の写真を公開しています。映画「南京!南京!」のDVDを久方ぶりに見た。映画を中国人と先に見て、半年ほどしてよりDVDが発売されたので購入して何度も見た。初めスクリーンに日本皇軍将校の後姿のアップからカメラを将校の背中から頭へパンアップさせてより揚子江岸に虐殺された無数の中国国民党革命軍兵士。スクリーンへ映し出された兵士の数が1000遺体ほどに感じたが改めて「300000」の数の多さを感じる。「南京南京」の監督である陸川監督は1989年から4年間南京の大学で学んだ。また4年間に3回南京大虐殺紀念館を参観したという。その間にも南京事件の中国映画を見て何かが違うと感じ、自分で資金調達、映画「南京南京」を製作したが、日本俳優も全て陸川監督が選んだ。陸川と書くと日本人のようであるが「ルー・チュアン」と新疆ウイグル地区出身の中国人で6歳の時北京に移住した。陸川監督の写真は下の画像である。陸川監督は4年以上の歳月を費やし「南京南京」を作った。脚本は総て一人で書き上げ映画作成資金も一人で調達した。興行収入は中国で26億円とハリー・ポッターの上を行った。私が「南京南京」を見たのは上海の映画館であった。もちろん私一人で中国人の中に入って行く勇気もなく友人の中国人と一緒に映画を見たが字幕スーパーも中国語の中かなり緊張し、映画を見終わり外へ出るのも日本人と分かるのが怖く終始下を向いて歩いた。日々中国のテレビで流れる抗日戦争ドラマに出てくる日本人役は中国人役者がなっており日本語が怪しい。だが「南京南京」では主要メンバーの他に50人ほどの日本人エキストラが出演しており誰にでも分かる普段の言葉使いで収録されており安心して見れた。中国人も日本人も総て35歳以下のスタッフで製作された。映画を製作する前に陸川監督は何度も南京事件の書物を読んだり南京攻略に参加した元兵士の書いた日記に目を通し製作に望んだが、あくまで事実に基づいたフィクションである。だが完成し中国人の目に映るシーンの多くのフィクション性が隠されておりモノトーン映画の持つリアルさが、あたかも真実であるかのような映画に中国人から怒りの声が上がった。南京陥落前に中国国民党革命軍は撤退し、占領されたのは無抵抗の都市であり、無力の市民に対して、旧日本軍が犯した最も恐ろしい残虐行為が次から次へとスクリーンに映し出された。旧日本軍人により大量の虐殺や暴行殺害、放火が行われた。観客席で見ている私までが怒りを覚えるほど残虐であった。上の写真は中国革命軍で抵抗する「陸兵士」だが機銃掃射の一斉射撃で虐殺され映画の前編シーンで亡くなってしまう。下の写真は日本人主役の「角川」であるが憲兵の役柄で最後は戦争の暴力について行けなく自殺してしまう。日本では未公開?あらすじは次のページで紹介したい。
2011.05.14
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「南京旅情87」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。上の画像の足型は、77歳から88歳の人達が多い。南京事件の証言者の足跡の形をとったものである。1937年11月、旧日本軍は上海を占領し上海から南京まで移動する中、蘇州、無錫、揚州などで潜む中国国民党革命軍に神経を集中させながら南京へと向かい南京を包囲した。蒋介石は南京を易々と日本軍には渡さない6ヶ月間守りぬくと述べたが、6日間で陥落してしまった。そして蒋介石は最後まで戦わず重慶へと逃げ去った。取り残された国民党軍5万の将兵と50万の南京人民が日本皇軍兵から大虐殺を受けたと主張するのが所謂、南京事件であり南京大虐殺と呼ばれている。写真は旧南京大虐殺記念館で300000と刻まれた数字。旧記念館の外壁等はそのまま残されていた。中国国民党は日本皇軍から非人間的な残虐極まりない殺害や暴行を繰り返し受けたと主張し、その場に居なかった蒋介石も獣のような皇軍は1ヶ月余に30万の同胞を殺害し2万余の婦女暴行を行ったと報告。日本皇軍が南京市内で中国国民党軍の残兵が民間人の服を着て巡回する日本兵を殺害して行った。第13師団の記録には、やむを得ず中国ゲリラ兵士を殺害したとあるが、それは事実であろう。だが30万もの中国人を虐殺できるであろうか?東京裁判で100人切り競争をした将校が死刑になった。将校が腰に掛ける軍刀は指揮を高めるためのもので、武士の魂の日本刀ではない。日本刀であっても一度に人を3人斬れば刃こぼれがしてしまうであろう。座頭市のように一度に何十人も斬れるような映画の世界ではない。人を斬れば血脂が付着し切れ味が悪くなってしまう。骨まで斬れば刀は曲がりくねる。それとも将校は30本以上の軍刀を事前に用意して100人斬りを行ったのだろうか。不思議である。南京大虐殺の中国作成の映画では捕虜に向かって銃剣を突き刺しているシーンを見かけるが30万人を殺害するためには一体何日掛かってしまうのか。日本皇軍で使用されていた機関銃は九九式軽機関銃。1分間に550発を発射させる事ができるが装弾可能は30発なので何度も装弾しなければならない。5連発発射できる小銃は27万丁あったようなので、皇軍兵士3千人で1人が100人殺害すれば中国共産党の主張する「300000」の数字には到達できる。だが1ヶ月余りの期間、南京市内を巡回して残党兵を射殺するだけでも大変な精神的苦痛を受けるだろう。その前に残党兵は戦意を喪失して士気が下がって白旗を掲げて投降して来たのではないだろうか。写真は、旧館の通路側のガラス張りの中に無造作に入れられている虐殺されたとされる人骨でありその数は非常に少ないが、自然に手を合わせていた。
2011.05.13
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「南京旅情86」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。1937年7月7日盧溝橋付近に駐屯する日本軍に中国共産党革命軍は中国国民党と日本軍の緊張状態の中、ゲリラ軍だった共産軍が発砲し両軍の戦闘を招き日本軍は罠にはまった。日本軍は中国国民党革命軍と思い込み発砲したが問題が大きくなると判断し発砲を中止した。これを中国共産革命軍は日本が弱腰になったとさらに発砲を続け盧溝橋事件勃発へとつながった。ゲリラである共産革命軍はその場を逃げ去った。盧溝橋事件が勃発したが、停戦協定がなされ落ち着いたものの今度は中国国民党が協定を破り攻撃を仕掛けてきた。更には通州事件へと発展。通州事件では、日本軍人の妻や子供に至るまで中国支那の保安隊による虐殺が行われた。中国支那保安隊による虐殺事件は日本本土へ知らされ日本国民は下より軍部を激怒させた。日本では直ぐに派兵をするべきか意見が分かれた。停戦協定も何度も破られ無視され中国側は戦争を継続させた為、遂に派兵を採決し支那事変となる。中国国民党に対し米英は、武器と資金を支援し日本に対しては経済制裁を行なうなどの行動をとった。日本海軍は空母から爆撃機で中国沿岸部を爆撃し中華民国の首都南京へ兵を進め、南京を攻略した。下の画像は中国の軍旅詩人「王久辛」が書いた「狂雪」詩集で、王久辛は1956年生まれる。「狂雪」は1990年に発表、1995年記念館へ。大虐殺の事柄は1991年中国歴史教科書に載る。
2011.05.12
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「南京旅情85」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。南京大虐殺記念館へ行くと「300000」の数字に威圧されてしまうが1945年中国が国連に報告した南京事件での犠牲者の数は20000人と報告されていたとのこと。いつの間に2万が30万になったのかは不明。南京大虐殺記念館建設に当たり日本社会党の設計と資金提供で建設がなされた。その折に「300000」の数字も日本社会党が提示したのだろうか?だが、30万という数は学術的に根拠は全くないのであり南京事件そのものが真実なのかと思ってしまう。中国政府のトウ小平は1982年当時、中曽根政権の右傾化を警戒し中国に日本の中国侵略の記念館や記念碑を建立して愛国主義教育を推進の指示を出す。この指示と相まって日本社会党からの提案を受け入れ1983年、南京大虐殺紀念館を設立することを決定した。中国側は、日本側が資金全面援助を買って出ており反対する理由など全くなく1985年に完成した。「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」の揮毫はトウ小平直筆によるものであり、抗日戦争40周年の1985年8月15日にオープンし中国国民が旧日本軍の大虐殺の事柄を知る事となった。「前事不忘、后事之師」と大きく書かれている。中国の成語で「前事を忘れざるは後事の師なり」過去の事を忘れないで後々の戒めとするとの意味。中国で出回っている南京大虐殺のDVDの多くの描写に旧日本軍兵士が銃剣で妊婦の腹の中の赤子を突き刺し高く持ち上げ投げ捨てる場面などを中国人は信じて日本人ほど凶悪な人種はないと平気で口にする。緊迫した戦地の中に身を置いた兵士が精神的に追い込まれていたにしろ同じ日本人として、そんな残虐な行為が出来るのだろうかと逆に思ってしまう。
2011.05.11
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「南京旅情84」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。 南京大虐殺記念館は大日本帝国と中華民国の蒋介石政権との間で行った日中戦争で中国抗日戦争にまつわる記念館として中国f最大規模であることは間違いない。抗日戦争で死亡した中国軍は380万人余りで中国人民は2000万人に達したと、それまでの1000万人の死亡を倍にすると、1985年の抗日戦争勝利40周年記念で発表された。大日本帝国の犠牲者は軍人230万人余りで一般市民は80万人余り広島長崎の犠牲者も含む。南京大虐殺記念館は抗日戦争の代表格として中国共産党により愛国主義教育基地に指定されている。友人とまではいかないにしろ知人である警備員から私の携帯まで電話が入ったのが夜9時半頃だった。警備員仲間で祝い事があり友人達と飲んでいた所私の話になったそうであるが仲間の誰一人信じず出まかせのウソをついていると思われ悔しくて私まで電話をして来たという事であった。日本語が話せないのに、どうやって友達になったとウソつき呼ばわりされ、今から日本人に電話をすると言うと皆からウソに決まっていると言われたらしい。私は、警備員の中で一番のボスに電話を代われと言い電話を代わった相手が「あんたは誰?」と聞いて来た。「私は彼の友人の日本人です」と言っても、中国語なので「あんた中国人だろう?」と信じないので、今度は「私は日本鬼子です」と冗談混じりに答えた所暫しの沈黙のあと電話の向うで歓声が上がった。再び電話を代わった彼が「私が嘘をついている」と思われていたので「疑いが晴れ皆も信じてくれた」と携帯電話の向こうの様子が伝わって来るようであった。私は「携帯電話が貴方を救ったんですよ」と冗談を言ったが、ジョークが通じたかどうかは定かではない。ただ彼から「今度我々と一緒に飲みませんか?」と誘われたものの「機会があれば貴方達と一緒に酒を飲みましょう」と言って電話を切った。電話を切った後も興奮覚めやらぬ思いだった。あれから11年の歳月が流れたが彼とは連絡を取り合っていない。戦後65年過ぎた今でも、多くの中国人の恨みを残す「南京大虐殺事件」私は30万人もの人達を虐殺したとはどう考えても信じられない思いでいっぱいであった。初め興味を示さなかった中国共産党幹部に日本社会党が資金を提供してまで推し進めた大虐殺記念館とは何か。それまで日本が大好きと言っていた中国の青少年までがアンチ日本となり反日デモの先陣を切っている。反日デモをする彼らに、大虐殺記念館を建てたのは日本だと話した所で逆効果だろうし憤りを隠し切れない。だが南京の記念館で起こった口論に始まり、私に「助かりました」と信じて下さる言葉に、少し大袈裟だが「日本人としての責務を果たした」ような気持だった。写真は2006年新館になってより新しく置かれた人骨。文化大革命では4千万人以上が殺害され近くの雨花台でも中国人が殺害されており、それらの人骨ではと思うが実際にはどうなのかは今後の研究を待とう。(人骨の画像は迷った挙句、公開をする事にした)
2011.05.10
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「南京旅情83」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。私が2回目に大虐殺記念館を訪れたのは2006年4月の事で、2ヶ月すれば建替えの為半年以上見学できなると思ったからだ。また日本の設計と資金提供で建てられた旧館が観れなくなると思うと足が南京へ向いてしまった。初め南京大虐殺記念館を訪れたのは2000年11月でその当時は、社会党が記念館建設を要請した事を全く知らないまま大虐殺記念館に行った。1983年当時中国側は記念館建設には乗り気でなく社会党から資金援助をするという事で共産党も納得し日本の設計で1985年オープンした。社会党も村山総理が連立政権で担がれ総理になった。だが総理引退後の1996年以降社会党は見る影もない。私が初め記念館に行った翌年に小泉政権が誕生した。だが靖国神社参拝問題が浮上すると、中国人の心を逆なでする発言で、中国に居る日本人は中国人の標的の的となり私の見解まで聞いてくる始末だった。 酒場などでは、あまりにも不愉快な中国人の態度に「私は日本を代表して中国に居るのではない」と開き直ってしまったこともあった。中国人が何故ここまで日本人を言葉で威嚇するようになったのかは、南京大虐殺記念館を日本が建てたからで社会党の思惑は完全に外れ反日感情に拍車を掛けた。旧大虐殺記念館には社会党議員や社会党団体による中国人への謝罪文が相次いで提出され張り出された。また修学旅行で訪れる日本の生徒たちに千羽鶴を折らせ日本は2度と過ちを起こしませんなどと謝罪文を書かせていたが、何処に証拠があって高校生の心に圧力を掛けているのだと思うと、教師さえも憎かった。時には中国の新聞やテレビでも紹介され中国人はやはり南京での大虐殺は真実だったと確信を持った。2002年5月民主党の菅直人幹事長夫妻一行6名が南京大虐殺記念館を訪れ花輪を捧げ詫びを伝えた。初めて記念館を訪れた時に、私は警備員と携帯電話で口論となり、その5日後再度訪れ誤解を解いた。その折に警備員から、兄からもらった携帯電話の番号と名前のメモをもらいシステム手帳に入れてあった。私は会議の度に、そのメモを見ていたが3ヵ月後に口論となった警備員の携帯に電話をしてみた。初めは誰からの電話か分からない様子だったが大虐殺記念館での事を話すとすぐに分かったようで「お元気ですか」と始まる電話も5分ほどで終わった。その警備員は、その時点で記念館には居なく警備会社に就職して元気に働いているとの事だった。そんな彼より私の携帯に電話が入ったのは、それから更に2ヶ月ほど過ぎた夜9時半頃だったが、少し酔ったような声で電話の向こうはにぎやかだった。(館内は全面撮影禁止なので注意が必要)
2011.05.09
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「南京旅情82」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。1985年8月15日にオープンした記念館の名前は「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」でトウ小平視察の下同年2月に着工し8月開館した。1985年当時中国では記念館を建てる金銭的な余裕がなく当時旧社会党書記長だった田邊誠議員が3000万の資金を供給し日本人の設計の下で建設された。だが、建設には日本の企業は参加してなく3000万のうち900万の費用で建設を終え余った資金は共産党関係者で山分けされた。社会党が大虐殺記念館建設を提案しなければ日中関係がこれほどまでには悪化しなかった。そんな大虐殺記念館の中で警備員と衝突をしたが5日後北京から急遽記念館まで謝罪に向かった。記念館の主任に私が再度訪問した理由を聞き気を取り直した警備員と握手を交わした。色々と語り合う中、南京大虐殺記念館では中国人も記念館内で頻繁に携帯電話を使用しているようだった。元々大虐殺記念館が日本の資金提供とデザインで造られたという事を多くの中国人は知らない。また日本から観光で来ている日本人の多くは携帯電話を持ってなく、日本語で大きな声で記念館で話したのは警備員も2年間の勤務中で私が初めてとの事。また、虐殺された写真パネルの前で日本の「はい!」を大きな声で連発していたのでカッとしてしまったとの事。2人は打ち解け私に心を開いて色々と話してくれたように感じたが私の思い上がりだったのかも知れない。友人の中国人達が1時間ほどで出て来たので帰る事にした。私と口論になった警備員が「兄から貰った携帯の番号を教えますから、何かあったら連絡して下さい」と電話番号と名前を書いたメモを手渡してくれた。5日前口論となり南京空港で待つ間も気が重かったが思い切って大虐殺記念館を訪れ心が軽くなった。この虐殺については、中国の学者の中でも色々と意見が分かれており資料もまちまちである。ある中国人は「調べられない数も入れたら40万人を超える」と私に言うが、調べられない数をどうやれば数字として数が上がってくるのかと思った。しかし、虐殺は事実かも知れないとは思うがその数は10分の1ほどでしかないと思う。(写真は現在の記念館内で館内撮影厳禁)
2011.05.08
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「南京旅情81」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。南京大虐殺記念館へ5日の間に2回も訪れようとは思ってもみなかった。記念館の主任さんを呼び出して頂き「先日はご迷惑をお掛けしました」と話し「気がかりだったで、再びお礼と謝罪にお伺いしました」と訳を話した。この日は私の知合いの中国人2人も同行してくれ「この日本人は悪気でそんな事をするワケがない」などと説明してくれたので助かった。主任さんは私の気持を理解してくれたようで先に立って記念館の方に歩きだした。その後ろを同行してくれた中国人2人も中へ入っていったが、当時大虐殺の事を信じていた私は中へは入る事が出来なかった。旧記念館は新しくなった大虐殺記念館より二周りほど規模が小さく歩くだけなら時間も掛からなかったので、私だけ入口脇の警備員室で腰掛けて待った。私は通り過ぎる観光客に見えないように背を向けて腰掛けていた所、先日私の背中を押して「日本鬼子」と言った警備員が入ってきた。だが、主任から話を聞いたらしく2人の警備員は被っていた帽子を脱いでペコリと一礼をした。(館内は全面撮影禁止であるので注意)
2011.05.07
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「南京旅情80」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。写真は「平和の鐘」だが大きな記念日にはこの平和の鐘が撞かれ鐘の音が響き渡る。古い南京大虐殺記念館の中で起こった事は携帯電話の電源を切っておけば回避できた。だが、仕事中で日本からの電話でもあり電話に出てガードマンの反感を買ったが記念館の主任の計らいで事なきを得た。私はあっけに取られ主任の後姿を見ていたがふと、うしろを振り返ると、大勢の観光客が見ているので慌てて写真へ視線を向けた。後味の悪さと、歯切れの良い主任の対応を思い出しながら雨の中、タクシーまで傘をさすことも忘れ濡れながら歩いた。私は追悼しなければならない筈の大虐殺記念館のど真ん中で失敗劇を演じてしまった。私が初めて訪れた大虐殺記念館へは、この当時日本からも多くの政治家が訪れていた。2000年当時記念館で起こった出来事をネット上に流した所当たり前の事ではあるが日本人の品格を下げてしまった「アンタが悪い!」という反響。なんともやるせない思いで5日間を過ごしたが再度、南京大虐殺記念館を訪れる事にした。記念館の警備室の前を通り、詰所の中を見たが口喧嘩をした警備員は居なかった。更に進むと通路端で見つけたので手招きをした所初め私が誰か分からない様子でジッと見ていた。私が5日前に口喧嘩した日本人と分かったのかビックリした様子で走って逃げるように大虐殺記念館の中に入ってしまった。私は日本鬼子ではないので、なにも逃げる事はないのにと思いながら中国人と中に入った。写真は南京で中国の捕虜を虐殺している絵である。尚、南京大虐殺記念館の中は全面撮影禁止である。
2011.05.06
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「南京旅情79」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。(写真は日本軍の大虐殺が行われたとされる1937.12.13-1938.1までの刻印である)「言って良いことと悪い事」と言っても彼らには言って悪い事が、言って良い事と思っているから申し訳ないというような素振りもしなかった。私の「可以説事説壊事」と口調を荒げた言葉の後に付け加えた言葉が余計と勘に障ったようだった。なぜならば「?瓜」と言ってしまってから自分でも「しまった」と思ったが、口から出てしまっていた。だが若いガードマンは「なに~!」と食って掛かって来たが、時間にして1分ほどの嫌な空気が流れた。そうこうしている時、胸に「主任」と書かれたネームプレートを掛けた記念館の人が来た。中国の私の友人が主任に説明をしてくれ主任から若い方のガードマンに話をしていた。主任はガードマンの肩を叩いて持ち場へ戻るよう促し、丁寧な中国語で私に話しかけて来た。主任は「貴方に対する無礼をお許し下さい」と詫びてくれたが、私も「?瓜」と言った事を反省していたので「私も申し訳ない言葉を掛けてしまった」と主任に話すと「ガードマンの暴言を叱責しました」と一礼して去って行った。「?瓜sha3gua1」とは「バカ」という意味で本来なら「?瓜」と中国語で言わず日本語で「バカ」と言った方が通じるのかも知れない。何故ならドラマや映画で殆どの中国人が旧日本軍の罵る言葉を知っているからである。写真の釣鐘を支える柱は1本で10万人を意味する。
2011.05.05
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「南京旅情78」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。南京大虐殺記念館と言っても今の広い所ではなく改装前の狭い建物だった。狭い事も手伝い話し声や私のように電話が聞こえにくいと、つい声が大きくなってしまい迷惑を掛けてしまう。私は申し訳ないと思う気持ちもあり仕方なくガードマンの言う通りにひとまず外に出ることにし歩き出した。同行している中国人からは「外に出る必要はないのでは?」とガードマンに抗議していた。だが私は日本からの電話と言う事も手伝い電話を切らなかったのが反感を買ったようだった。一旦電話を切ってしまい掛けなおすと国際電話代がこちらの負担になるので電話代の事も考えて歩きながら応対していた。すると、いきなり後ろから大きな声で「日本鬼子!早く出ろ!」とガードマンが罵声を浴びせて来たのには驚いた。この頃の私の中国語レベルは高い方ではなく込み入った話になると通訳なしでは出来なかった。だが、そんなレベルの私にも日本鬼子の意味は分かっていたので、その言葉に「言っていい事と悪い事があるぞ!」とつい言ってしまった。日本鬼子とは日本(侵略者)の畜生どもとの意で中国の映画やテレビドラマでは四六時中出ており事の詳細を知らない子供たちが日常使っていた。
2011.05.04
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「南京旅情77」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。南京大虐殺記念館の中で日本からの電話に気を取られていて周りに気を配れなかった。まだ記念館の中全部を見終わってない私は電話を聞きながら写真を見るでもなく電話の応対をするでもないような中途半端な状態のままであった。そんな所へ今度はガードマンが2人来た。私の背中を強く押しながら外へ出そうとした。電話の相手に「少し待って下さい」と断って、「どうして背中を突くんだ!」と抗議した。するとガードマンの1人が攻撃的な態度で「アンタはさっきから日本語で、それも大きな声で電話をしている!」更には「ここが何処なのか分かっているのか!?」彼等の言葉は「なまり」の強い中国語なので始めのうちは何を言っているのか分からなかった。観光で来ていた北京方面の中国人が中に入り私に通訳をしながら説明してくれた。「ここは旧日本軍が南京を襲い、30万人も虐殺した記念館です。その中で大きな日本語で電話をするのは不謹慎ですから外へ出て下さい」と言っているとの事だった。
2011.05.03
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「南京旅情76」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。私は中国人の工場長と共に大虐殺記念館の中を進んでいったが、彼らよりゆっくりだった。中央のコーナーでは、当時の虐殺状況写真をパネルにして展示してあったが合成写真と気付くものもあったので驚いた。全ての写真は、以前中国のホームページで見たことがあったので、ここの写真をホームページに貼りつけたのか?などと思ってるところへ日本から電話が入った。日本からの電話は裕に30分以上だった。電話の内容は至急調べて報告して欲しいという仕事の電話だったが仕事先とは250キロほど離れており、今日は可能ではないと押し問答。結局、明日夕刻までに報告を入れるという事で電話を切り、間髪入れずに担当工場に電話を入れ事の詳細を把握するよう電話で指示した。だが、その電話をしていた場所は大虐殺記念館の中央辺りでガードマンが何度も私の所に来て早く外に出てくれないかと言っていたようだった。
2011.05.02
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「南京旅情75」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。今回で3回目となる南京への旅でその当時のホームページで公開した南京diaryをこのブログ上で公開したいと思う。2000年11月雨の降りしきる南京空港へ降り中山陵・南京大虐殺記念館と雨花台を廻った。中山陵を見学したあと南京大虐殺記念館に車を走らせたが、まだ地理に疎い私は中山陵と南京大虐殺記念館の距離が遠いのには驚いた。なぜならば南京大虐殺記念館は、中山陵の近くだと思い込んでいたが、どうやら雨花台と勘違いしていた。南京大虐殺記念館へ入った時入口の「300000」の数字に驚いたが説明を受けながら、中へ中へと進んでいった。いきなり土の中に埋もれた人骨がガラス張りの中に無造作に展示されていた。中国の同胞の人達の頭蓋骨をガラスケースに投げ込んだ心理状態が私たちの感覚とは違いまた驚かされたが、更に中へと入った。更に進むと埋められていたと思われる骨を掘り起こしたものを別のケースの中にビッシリと詰め込んであり、目を凝らしたが人骨は傷んではいなかった。中国人のお客様と共に中に入ったが歴史だから、あまり気になさらないようと言われたが、実のところ信じられなかった。
2011.05.01
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