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ひさびさの更新につき,テストがてら写真のアップロードなどのみにて失礼します.写真は今年8月16日の札幌大通公園のノウゼンカズラ植栽です.このピンクがかったオレンジ色がたまらなく好きですが,なかなかこういう色の花は少ないので出会うと嬉しいです.ノウゼンカズラは本州以南では一般的でしょうが,北海道では少なく,しかし最近増えて来たような気がします.嬉しい.
2013.08.30
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(2011-,モーニングKC,講談社)南Q太さんは,本人の意思はともかく読者の間では,岡崎京子のフォロワー,代用品とみなされていた節がありました。人によってはミナキューの方がいい,という人もいました。岡崎さんは良くも悪くも80年代の人らしく,既存の物語の枠組みをしっかり作りながら,あくまでその内部で狼藉をやってみせた。たとえばタンタンみたいな絵柄のキャラが,いかにもおしゃれで無邪気な生活をしていたかと思ったら,薄皮一枚下に潜む暴力と欲望がぺろりと剥けて,セックスとバイオレンスが暴走しだす。対して南さんは,あくまでリアルでした。特に盛り上がらせるでもなく,特に焦らすでもなく,現実のおしゃれな男子女子や,現実の薄汚い男子女子を登場させ,現実にいかにもありそうなセックスとその顛末を描いた。お話の中心にセックスを据えながら,その前後左右で生起することなら何でも,ドラマチックなことも,ぜんぜんドラマチックじゃないことも,分け隔てなく描いていた。*「ひらけ駒!」をはじめて読んだとき,何じゃこれはと思わず口走りました。以前の南さんを知らない方は違和感もないでしょうが,知ってる人は若干戸惑ったことでしょう。こんな可愛らしい息子さんを,こんな才能のありそうな息子さんを出しながら,いつどうやってこの物語の中にセックスが入ってくるのかしら...! こんなホンワカした家庭に,もしやあんな生々しいアレが.,南さん,さすが汚い,さすが南さん汚い(若干の期待とともに)!..とか思ったのですが,結論として汚かったのは私だけでした。淡々と宝君とママの将棋をめぐる日常が廻ります。そこにはヒカルの碁みたいに,運命のライバルとか,師匠と弟子の相克,などの娯楽大作的な枠組みはありません。それでも,単なる日常ほんわかストーリーにはならず,何とも面白く予想のつかない,リアルな人生の物語になってます。南さんさすが素敵。さすが南さんかっこいい。
2012.06.04
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(高遠弘美訳,2010,光文社古典新訳文庫,光文社)1冊目を読み終わりました。直後は漠然とした印象が残るのみでしたが,よくよく思い返してみると,その特徴がおぼろげに把握できてきました。■ あらすじなど主人公の男は19世紀末フランスのブルジョワジーで,幼いころ夏に滞在した田舎の邸宅での生活を,真夜中のベッドで反芻する。スワン氏というブルジョワへの憧れ,その娘への思慕の念など,ドラマを予感させるくだりこそあるものの,いわゆる娯楽小説的な盛り上がりは全く無い。ふわふわと,日常は過ぎていく。情景描写と主人公の回想が複雑に絡まり合い,視点がせわしく移動するために,なんとも読みにくい文章になっている。では私は一体,本作の何を楽しんでいるのかというと,それが知りたくて頁をめくる感じです。不可解の快とでも言いましょうか。■ 第一印象意外に感じたのは,ひとつひとつの文章はかなり論理的なことです。主人公は,感覚や認識という捉えどころのないものを把握しようと努めています。ちょうど,記憶メカニズムを研究しようと意気込む(けれど論文の書き方がわかっていないために空回りする)修士1年目の学生のように,自分の記憶の成り立ちを思い起こし,客観的な言葉へと置き換えていきます。果てしなく長く曲がりくねる道のような冒頭のシーンは,いわば「回想の自己分析」でしょう。自分はなぜあんなふうに感じたのか,なぜそのような考えを持つにいたったのか,相手の態度に影響を受けたからか,周囲の風景がそうさせたのか,あるいは過去の経験からくる思い込みに縛られてしまっていたのか。。などというように。ちょっとこの歌を連想しました。 あしひきの やまどりの尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝むしかし作者はあくまで感覚「について」述べているのであって,けして「感覚的( ≒ 非論理的)」に述べているのではありません。読者をけむにまこうとしているのではなく,うつろいやすい煙や水の流れのようなものを言葉にしようとした結果,こうなったのだと思います。まあそれでも,いわゆる「よくできた小説」とは言えないでしょう。ただ,歴史のあやで,なぜかかくも愛されてしまった幸福な作品,というものなのではないかと想像します。そういうものはたくさんあります。*ということで,もうしばらくこの小説に付き合おうと思います。ねみー,だりー,などと呟きながら。やっぱり岩波文庫版の文章も読みやすくていいなあと思う今日この頃。
2012.05.20
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(2012,フラワーコミックスアルファ,小学館)このひとはこういう型どおりの世界を描いた方がいいと前から思ってました。「マンゴーの涙」は現代の話だけれど,ちょうど「アポロン」のように半世紀前の日本みたいな人間関係が描かれてて,そこがまた良かった。小玉さんが今どきの社会を描く必要はあまりないと思う。 (「マンゴーの涙」の記事はこちら)当たり前のシナリオで,どこかで見たような紋切り型の善人がいて,悪人になれない凡人がいて,どこにでもいる子供たちを描かせてみたら,こんなに綺麗な世界が現れてしまうんだから。これはもう誰も敵わない。どこかでそういう世界を疑ってしまう漫画家も,どこかでそんな世界を小馬鹿にしている読者たちも,みんなまとめてぽろぽろ泣かせてしまうようなお話にしてしまうんだから,小玉さんはずるい。*とくに,好きな人を失ってしまったことに気づく場面などは,乾坤一擲の描写力を見せてくれる。「羽衣ミシン」は私の好きな作品じゃないけれど,冬が終わってしまったことに主人公が気付いた瞬間の,河川敷に咲くいちめんの花,あの2頁だけで泣けてしまったくらいだ。本作でも,千太郎が「俺にはもう誰もいない」と絶望する場面が何度か描かれた。最終巻でも,薫が自分は失恋したのだと観念した場面があった。俺はもうだめだ。あいつはいないんだ。と気付いたときの,すうっと全ての力が抜けきってしまうような気分。小玉さんはそれを,とてもうまく描いてくれる。そしてそれが救われる瞬間も。NHKの朝のドラマなら5年くらい任せてもいいんじゃないかと思えるような,ぼくらのありきたりの人生の,ありきたりの痛みと,何かに祈らずにいられない寄る辺ない気持ちを,こんなに優しく描いてくれてありがとう。そう思える最終巻でした。*では,そんな本作でとびきりの名場面を一つだけ選べ,といわれたら。。。うーんやっぱ,りっちゃんの水着姿だな!
2012.05.16
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(プルースト,高遠弘美訳,2010-,光文社新訳文庫)20年ほど前,筑摩書房から「失われた時を求めて」の文庫・新訳版が出版され,機関誌「ちくま」にはその評論などが書かれた。おそらく私はそれを斜め読みし,内容こそよく憶えていないものの,おぼろげながら「この作品のイメージ」というものを把握した。すなわち,文章は格調高く,上流階級の生活が描かれ,物語の進行は非常にゆったりとし,長大であること,そして読む前から敬遠する者,途中で挫折する者が多そうなこと,その魅力を簡潔に説明するのは容易でないことを。そのころの私は長い小説など読む気はさらさらなかったけれど,いつか読んでみたいとは思っていた。なぜだろう。まずタイトルや装丁の格調高さにそそられた。根拠もなく,アールデコ風の例えばミュシャとか,あるいはクリムトの「接吻」とか,あんな雰囲気を味わえそうな気がした。そして何よりも「ちくま」のプルースト論の文章の雰囲気,言葉の断片から,その評価は信用できるという気がしたのだろう。*さてそれから20年経ち,ようやく読み始めました。直接的な契機は長門有希の百冊(記事はこちら)ですが,むかし何となく心に引っ掛かっていたことに,ささやかな縁を感じたからです。光文社古典新訳文庫を選んだ理由は,装丁,注釈の細かさ,それに訳者の個人的な思い入れのこもった,やや癖のある読書ガイドが気に入ったこと。他の出版社の装丁は。。ちょっと古臭い感じがして敬遠しました。集英社文庫の装丁はすごくいいんだけど,全訳ではなく抄訳なので断念。これから十何冊も集めるのなら,これくらい軽い装丁がいいなあ,と思ったのです。内容については,またいつか。
2012.05.06
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*ユカリ 「ミドリちゃんはさ 小学校んとき週6 習い事してたじゃん」 「嫌じゃなかったの」 「日が暮れるときに 友達といないのってさみしくなかった?」ミドリ 「あたしは…」*はっきり言って「天狗の子」を馬鹿にしていた。3巻あたりで急につまんなくなって,もう買うのやめようと思った。なにしろ「スケルトン・イン・ザ・クローゼット」と「Yesterday, Yes a Day」がとにかく傑作すぎたので,「天狗の子」は色褪せて見えたんだ。作者は長期連載のために,描きたくもないようなほのぼの恋愛コメディを描かなくてはならず,だからこそあんな間延びして薄めたようなコイバナ描写なんぞで頁をかせぎ,いつか来る本気の漫画を描くときのために雌伏しているのではないか,などと考えたりした。だが買うのをやめられない理由があった。ミドリちゃんだ。田舎の大金持ちの町長の娘。おかっぱで眼鏡をかけて目つきがよくわからない。口を開けば毒舌を吐かぬことはなく,他人をののしり世間をののしり,なによりも自分のつまらなさをののしっている。私はそんなミドリちゃんが大好きで,たまらなく大好きで,鬼と天狗のでてくるこのおとぎ話の「おしまい」までには,どうか「大切な人と幸せに暮らしましたとさ」という仕儀に相成りますようにと願い,4巻と5巻と6巻と7巻をがまんして買っていた(ひどい)。そんな彼女も,とうとう一つの着地点を迎え,私はなかなかに満足している。おとぎばなしはこうでなくちゃいけない。おとぎばなしはこうでなくちゃいけない。大事なことだから繰り返してみた。*
2012.05.04
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(講談社文庫,上下巻)村上春樹の文章は正直言って好きじゃないが,人に勧められたので渋々読むことにした。実際に勧められたのは「ダンス・ダンス・ダンス」だけれど,これは「羊をめぐる冒険」のつづきでもあることを知ったのと,物語舞台のひとつが北海道ということで興味がわき,せっかくだから「羊」も読もうかと思った。本作もよくわからない点が多くて,素直に面白いとは思えなかったけれど,そういう不可解なものを自分の頭でなんとか把握しようともがくのは好きなので,それは欠点にみえてもやがて魅力に変わるかもしれないとは思う。*むかしむかし「羊」という,権力を求める妖怪的なアレがおったとさ。「羊」は,ここ何十年も取り憑いていた権力者の体から,最近なぜか抜け出したそうな。主人公は,逃げた「羊」の居場所にかんする手がかりを偶然拾う。「羊」を求める権力者の側近は,彼に「羊」を探させようとする。主人公は渋ったが,恋人に促されて「羊」探しの北海道旅行にでかけましたとさ。目的地にたどりついたものの,そこで主人公は途方に暮れた。そもそも「羊」はどんな形で存在するのか,人間に取り憑いているのか,会えば「羊憑き」と分かるのか,もし人間に憑いてないなら,どうやって捕まえるのか。このへんがあいまいなまま,物語はどんどん進む。「羊男」なるものが登場するに至って,ああこれこそ「幻想ホラー」というジャンルなのではないかと思った。 そうなのかい,長門。 , ^ `ヽ イ fノノリ)ハ 「……」 リ(l|゚ -゚ノlリ / il 旦~~ *文庫版上巻の始めの方はほんとうにつまらなくて,謎ときに関係する手紙の部分はほとんどおぼえていない。それは私が悪いが,手紙の主が主人公の語り口と似ているせいもあり,登場人物の数とか,お互いの関係などが把握しにくい。私の不真面目さを差し引いても,主人公をめぐる個人描写(回想やモノローグ)と,謎解き部分との関連付けがどうにも分かりづらい,バランスが悪い,という気がする。*とはいえ,面白い部分も結構あった。北海道の小さな村の開拓の歴史と,現代の田舎の描写が重ねあわされる場面だ。その村へと向かう列車行の途上で見られる,退屈で空虚で不快な,取るに足らない物件たち,人間の生態について,ねちねちとした描写が実にリアルで,痛快だった。その文章を読めば,「北の国から」では捨象されてしまった瑣末で空疎な物件たちを,心ゆくまで楽しめる。つまり,現実の田舎の人間たちはそうした無意味ながらくたの中でもがいているんだ,という感慨をしみじみ味わえるのです。リアルだなあ,良く見てやがんなあ,と感心すると同時に,しょせん都会の知識人にとって,辺境のクソ田舎の風景や人間なんてものは非現実的で,「羊男」なんてものにお似合いのファンタジックな背景なのかもしれないという卑屈な気持ちもある。ただ,私の知ってる地元の現実と,物語とがシームレスにつながっている不思議な感じ,その感覚は面白かった,そういうことです。*
2012.05.03
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この作品は「涼宮ハルヒ」シリーズの原作・アニメの中にちょろっと一瞬だけ登場する作品ですが,ハルヒファンの間ではわりとよく知られている海外SF小説です。この500頁超の単行本4部からなる長大な物語を,約半年かけてようやく読了しました。SFとか長編小説とか,長らく手に取る気すら起きなかった私が,この特段読みやすいとは言えない作品をなぜこうも熱心に読んだのか。何度か放り出しながらも,なぜ読み続けようと思ったのか。その理由の一つは,読み進めるとともに自分自身の心境に変化が起きたことです。自分の意識が変わるという体験自体が楽しかったために,途中で投げ出せなかったのです。つまり作品の内容だけでなく,読んだ動機,タイミングなどの外部条件も影響していたわけです。*その心境の変化とはつまり,SFというジャンルの奥行きの深さに驚いたこと,というか,この作品のジャンル横断的な自由さに感激したからでした。例えばこの作品は,多様なジャンルにわたる大量の古典作品を「本歌取り」の元ネタとして作品中に取り込むことで,重層的な楽しみ方ができるようになっています。その元ネタはギリシア神話だの19世紀英文学だのサイバーパンクSFだのと,馴染みの薄いものも多いです。元ネタを知らなくてもストーリーは理解できるけれど,元ネタを知れば十倍楽しめる,そういった類の知的ゲームとしても楽しめるのです。なんとなく悔しいから元ネタも知りたい,それを探すためにはあれこれ調べなくちゃいけない,そしたらその過程でもっと面白そうな作品に出会ってしまう,そういった楽しさを際限なく追求することが可能なのです。さらに,ハイぺリオンシリーズなどを読むSFファン達は,こうした「本歌取り」「内輪ネタ」的な側面も含め,実に楽しそうに語らっていました。これは近年私が源氏物語や和歌に興味を引かれたときにもあったことですが,「楽しそうなファン同士の語り」を覗き見したいあまり,ついつい深みにはまるというパターンでした。(つづくかも)
2012.05.02
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この半年は,人生で一番本を読んでいるかもしれない。へたをすると5,6冊を同時並行で読んでいる。新しい世界を知るのは面白い。しかし幼児の時からの知識の蓄積がちゃんと生きていて,かつて頭の隅っこに引っ掛かっていた言葉や作者や概念が,今になって鮮やかに立体的に見えるようになってきた,そんな感じ。ビバ読書。ひとつはフィクション,それも数年前まで敬遠してきたSF。しかも神林長平や円城塔のような思弁的なものにまで手を伸ばしている。好きな小説家が紹介したというだけで読み始め,以前なら絶対読む気が起きなかったような,しかも分厚い物語をざくざく読んだ。いまはちょっとペースが落ちてるけれど,「ハイぺリオン」シリーズ4連作の最後の一冊にまで到達した。感慨深い。フィクションを読むペースが落ちている理由は,その分ノンフィクションをたくさん読んでいるからだ。特に,岩下明裕「北方領土」を読んでから,近年の中露の関係改善がユーラシアの安定化に大きく貢献していることを知り,するとリアルタイムの国際政治が今までと全然違って見えてきた。最近の興味の中心は中央アジアと中東,とくにイランとシリアとトルコ。日本のメディアでは「厄介事」「悲劇」としてしか扱われていない中東の出来事は,実に豊かな歴史の産物であり,私たちが望みさえすれば,そこ(歴史)はあたかも深い深い井戸のように,とめどなく知恵と洞察を汲み上げることができる気がしてくるのです。ここ数日は地図帳と昔の「世界現勢」を持ち歩いて,バスや列車に乗っている間,あるいはその待ち時間で,どの国とどの国が国境を接しているのか,戦後の政権交代の推移なんかを確認しつつ,これからどうなるのだろうと予測したり,ニュースをチェックしては予測と合ってる部分,合わなかった部分を確認したりしている。そんなことして楽しいかって?もちろん楽しいのです。どんなふうにかって言うと例えば,今朝は宮田律「中東イスラーム民族史」を読みながら,札幌駅周辺を目的地へ向かって歩く道すがら,イランとイラクの国境問題が起きたチグリス・ユーフラテス川河口域の地図を頭の中に描きつつ,オスマン帝国末期から第一次イラク戦争あたりまでの経緯を思い出したりして,そのうちに,その河の色はどんなかなあ,石狩川みたいに濁っているのか,もっと熱気と匂いがきついのだろうな,そしてぼんやりと,春だなあと感じながら,埃っぽい風を受けていたのでした。つまり,こうです。見慣れた歩道を歩きながら,私の頭の中では二百年前,一万キロ西方の船頭の日焼けた顔とか,どぶの臭いとか汗のにおい,ぶつぶつ文句を言う男の奇妙なイントネーションとか,彼が思い浮かべる家族の顔や,死んだ兄弟たちの顔を思い浮かべる様なんかを,想像しているのです。そしたらきっと次にニュースで戦争の写真を見たときに,そこに映ってることだけが本当じゃないよって思えるんです。それよりももっと悲しいことがあって,それよりもっと幸せなことがあって,きっと私たちの知らないことが山ほどあるに違いない,私たちの信じたくないようなことも山ほどあるに違いない,私たちはきっと何も知らない,だからもっと知りたい,ニュースを見たときにいつもいつも,そう思うようになれたらいいなって,そう思うんです。それが私の望み。今日も明日も本を読むよ。誰に頼まれなくても本を読むよ。読むなって言われても読むよ。フィクションもノンフィクションも大してかわらないよ。この世界に生まれて死ぬ運命の,私らと同じような脳味噌の中で作られたものなんだから。これから外で本を読める季節だ。どんどん読むよ。これから読む予定の本(フィクションのみ)。虐殺機関, アンナ・カレーニナ, 夏への扉, タウ・ゼロ, ターミナル・エクスペリメント, 膚の下, 晴子情歌, キャッチャー・イン・ザ・ライ, 羊をめぐる冒険, ダンス・ダンス・ダンス, 天体の回転について, 失われた時を求めて(第2巻)
2012.04.16
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このブログを始めたころ,バレーボールを良く見ていた。アテネ五輪の出場権をかけて,ベテラン吉原らと,中堅の竹下らと,10代の栗原,大山,木村ら幅広い年代にわたる選手を柳原監督がまとめて四苦八苦していたころだ。決して質の高いチームではなかったかもしれないが,妙な熱があって,どの選手も必死で後がないような目つきをしていて,木村だけがぽかんとした童顔を晒してマイペースに点を入れていたりした。今の彼女はけっこう低い声で,大人びた受け答えをしているのが不思議な感じだ。私は大山加奈が,大好きだった。今日の試合では,既に引退した彼女は,ゲストコメンテータとして出ていた。私はつい性別も年代も違う大山に感情移入してしまって,彼女だったらこの試合をどう見ているかなと思いながら見ていた。当時の彼女は真面目で大人しそうで優しげで,とても勝負師という感じではなかった。しかし小,中,高とすべて日本代表に招集され,ただならぬ重圧の中でプレーし続けてきた。おそらく慢性的オーバーワークのせいじゃないかと思うが,学生時代から腰痛を抱え,実業団入りしてからの活躍期間も長いとは言えなかった。しかし今の代表には,彼女の同じ高校で同期の荒木がいて,一つ下の木村がいる。三人とも同じ実業団に在籍していた。大山は引退したが,残りの二人は北京五輪でも,そしてロンドン五輪を目指す今でも,フル代表の不動のメンバーである。きっと大山は,ものすごく嬉しくて,頼もしいに違いない。仲の良かった同期と後輩が,若手を引っ張りながら,必死の形相でコートを跳ね,這いつくばっている。勝手に感情移入しておいて,なんだか涙がちになってしまった。今日は中国に勝てる試合を落として負けた。若手の選手たちが,当時の大山みたいに情けない涙顔でコメントしていた。だけどなんだか,幸せそうで羨ましくて胸が詰まった。バレーボールを好きになって良かった。
2011.11.06
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(2010,F×Comics,太田出版)もはや当代有数の名手と言ってもいいでしょう,志村貴子による短編まんが作品集。志村さんの漫画では,一見よくありがちな話の流れだなあと思わせておきながら,読者を煙に巻き,少しずつ妙な方向へと話がずれていくことがよくあります。登場人物が可愛らしくてつい感情移入してしまうのですが,いつのまにかそういう不可解な世界や,不穏な展開にその子たちが導かれていくので,どうなっちゃうの?と不安になるわけです。そしてハッピーともバッドとも言いきれない一見曖昧なエンディングも多く,もしかしたら吉本ばななや江國香織や川上弘美や小川洋子が好きな方には,肌に合うかもしれません。「センセイの鞄」川上弘美の感想文「すいかの匂い」江國香織の感想文 *「すてきなあのこ」 あまりにも面白くて悶絶しました。三つ編み眼鏡の真面目そうな女の子に惚れたほがらかな少年が,隣の机から毎日彼女を眺めていたら「見ないでくれますか」と言われ,告白したら「魔女になる修行の妨げです」と断られ,「じゃあぼくも魔女になる」と言ったら化学実験室に連れてかれて,そして……後半のアクロバチックな展開を嫌う人もいるでしょう。しかしそこは,現実の恋愛や,現実の失恋で感じるあの,非現実的な感覚をうまく表現しているような気もするのです。これはもしかして,ほんとうにおきたことではないんじゃないか…という。「あたいの夏休み」 「中学生」 「とあるひ」 この三作は,それぞれ小学生,中学生,20代とばらばらな年代の女性が主人公ですが,いずれも男性への思慕が描かれた,スナップショット的で読みやすい話です。どれも思わず頬が緩むような読後感ですが,特に,銭湯の番台お兄さんに惚れてしまう小学生女子の,あいまいな恋心を描く「あたいの夏休み」が好きです。タイトルを見てにやり。「不肖の息子」 しょぼくれた男性漫画家が二重三重の悲運に凹みながらも,なんとか踏みとどまろうともがく青春小説的な力作。山川直人さんの「コーヒーもう一杯」にも,ちょっと似た設定の話がありました。いずれもラストに深くて苦い余韻が残る,忘れがたい作品です。「変身」 主人公の20代女性が無意識レベルで友人に嫉妬していることが,不思議な手法で描かれます。とても短い話ですが,複雑な葛藤をすっきりさらりと読ませてくれる,実に巧い作品だなと思いました。
2011.05.12
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正直なところ最近の私はとり・みき作品への興味を失っており,彼の新刊を待っていたわけでもありません。しかし今回私は内容も確かめず,本作を即買いました。というのは「長門有希(ながとゆき)の100冊」の中に入っていたからです(注1)。知ってる方には説明不要ですが,長門有希とはライトノベルの連作「涼宮ハルヒ」シリーズの登場人物で,寡黙な本好き宇宙人,という設定の彼女は常に本を読んでおり,彼女の読んでいる本は一部で内容を仄めかす記述があるものの,タイトルは伏せられています。その後,「長門有希が推薦した」という設定で,原作者の谷川流(たにがわながる)が,掲載雑誌の企画において百冊の本を紹介したわけです(ザ・スニーカー 2004年12月号)。そのラインナップは作者の読書遍歴や趣味趣向を反映するだけでなく,作中で長門が読んでいる本を特定する手がかりとして,また無口な長門の心の内を想像するよすがとして,読者の興味を大いにそそりました。そしてやはりというべきか,全百冊読破を目指す猛者なども現れ,アニメ化の際には彼女の読んでいる本が一部ファンの注目を集めました。*私にとってこの企画は,涼宮ハルヒシリーズを独立した娯楽作品として読むだけでなく,他ジャンルに視野を広げる直接的な契機となりました。またライトノベルに興味の無かった本読みたちの中にも,谷川流がこうした素材をどう自作品に生かしているかを知りたくなって「ハルヒ」を読み始める,というケースもあったと思われます。読書家たるもの,他の読書家の部屋を訪れた時には本棚を舐めまわすようにチェックし,そやつの実力を値踏みすると言います。ヲタ向けのアニメキャラが表紙になってるあの本の作者が一体どんなもん読んでるんだよ,とSFファンやミステリファンがこの「100冊」ラインナップを見たとき,果たしてどう評価するのかが面白かったわけです。*私自身は読書家という自覚はありませんが,漫画読みとして,自分なりの価値基準や美意識があります。「100冊」の中の数少ない漫画作品のひとつにとり・みきの作品が選ばれ,また氷室冴子の青春小説や,筒井康隆の作品が入っていていたことに,私は何となく納得がいきました。谷川流の文章にも彼らと同様,凛々しい態度とか美しい心根への憧れのようなものが垣間見えるからです。しかしそれをストレートに表現することに対して彼は恥じらいを感じているのでしょう。そして幼い日の自分を思い出したときに覚える感傷とか,翻って今の自分を見るときの自己嫌悪なども見え隠れしますが,それらはまさにジュブナイル小説を読む人たちの心性と共通します。ひねくれた自意識を抱え,ひねくれた時代を生きる私たちは,少年少女たちの瑞々しい姿への敬意を持ちながらも,そうした美しい物語をストレートに表現したり楽しんだりすることが難しくなっているような気もします。そんな私たちはもはや,空想世界の中の宇宙人や,未来人や,異世界人たちに勧められでもしなければ,こうした単純な青春譚を楽しもうとする機会すら無いかもしれない。というのはさすがに考え過ぎでしょうか?*注1:正確には「長門有希の100冊」に入っていたのは,絶版中のちくま文庫「クレープを二度食えば。」で,表題作は重複しているものの,それ以外の短編のいくつかは今回出版された単行本には収録されていないようです。・長門有希の100冊 - 長門スレまとめWiki :この他にも凝ったまとめサイト多数あり。詳細はグーグル先生参照のこと。・第弐齋藤 土踏まず日記:「なに読んでるの? 長門さん」・ニコニコ動画:長門有希の「本,読んで」
2011.05.05
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(2011,リュウコミックス,徳間書店)とり・みきと言えば私の漫画読み人生の最初期に出会った漫画家の一人です。いとこ宅では少年チャンピオン系の漫画蔵書が豊富だったので「マカロニほうれん荘」「すくらっぷブック」「750ライダー」「がきデカ」「エコエコアザラク」「七色いんこ」「恐怖新聞」などを良く読んだ記憶があります。あらためて見るとこのラインナップはすごい。黄金期でしたね。たしか1979-82年ころのことです。その中にとり・みきの「るんるんカンパニー」もありました。「マカロニほうれん荘」を信奉していた私には,ちょっと笑いの質が肌に合いませんでしたが,「クルクルくりん」はラブコメ風味で,大人びた雰囲気も垣間見え,ギャグ一辺倒ではない作者の懐の深さを感じました。他の漫画家さんのコメントからも,彼がリスペクトされている雰囲気がありました。*とりさん自身はギャグ漫画というジャンルに矜持を持っていますが,本作は副題に「とり・みきリリカル作品集」と銘打たれている通り,ギャグ以外の作品が取り揃えられています。また,古い作品も収録されているため,本人は気恥ずかしいようです。リリカルというのはつまり,喪ったものへの感傷であるとか,大事な人を失うまいと足掻く人の姿を優しい眼差しで描いている,ということを表しているのだろうと思います。作者のSFへの思い入れの深さを感じさせる作品も多く,特に後半の作品群はどれも,作者の張り詰めた緊張が感じられるような良作が並びます。特に最後の作品,大原まり子の原作を漫画化した「銀河ネットワークで歌を歌ったクジラ」は,オリジナルでは無いながらも,傑作と言っていいのではないでしょうか。斬新なアイデアとペーソスに満ちた,素晴らしい話で,原作を知る人もそうでない人も,一読をお勧めします。
2011.04.30
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以下の文は4月10日前後に書いた文章です。その頃の福島第一原子力発電所の状況は今よりも流動的で,特にネット界隈では苛立ちをつのらせた意見が目立ちました。現在,マスメディア上では原発の危機についての情報は減りつつあります。汚水処理の準備など一部の問題については確かに進捗が見られます。しかし,情報公開が劇的に進んだとは言えない現状で,マスコミの情報が減っていくことは良いこととは思えません。国民の目が現場に向けられているというプレッシャーを,東京電力など当事者組織の上層部が感じなくなったら,ますます情報公開に対して消極的になる気がするからです。今回の原子力発電所危機は,高度に専門的な領域内で完結していた出来事が,国内のあらゆる人々,さらには欧州の政治にまで激震を与えるという,ひどく特殊な事件です。その影響が長期に及ぶのは必至で,今は注目されていない思わぬ影響が,のちのち私たちに及んだりするかもしれません。この複雑すぎる問題を,どう把握すればいいのか。諦めたり怒ったりするのではなく,より深い理解,次の行動に繋げるための建設的な議論をどうすればいいのか。そういう意識の下で,主体的に考えていくためのメモとして書き残しておきます。抽象的なことばかりです。具体的なことが書きたくなったら,そのとき改めて書きます。***日々原発の状況が気になるのだけれど,たとえば誰かのことが心配とか,食べ物をどうしようとか,そういう卑近な面での不安については,申し訳ないが切迫感を持てていない。これは北海道の日本海側と言う遠隔地に居住していることも大きいし,性格的なものもある。身の回りにも理系畑の知人が多い。原発に関する私と彼らとの雑談を他人が聞くと,良く言えば俯瞰的で冷静な,悪く言えば他人事のような感情に欠けた話に聞こえるかもしれない。いま私は楽観しているのか悲観しているのかと聞かれたら,毎日ジェットコースターのように両者の間を行ったり来たりしている,というのが正直なところ。私たちが知りたいことはいっぱいあるけれど,すっきりとした回答は見つからない。一方で,必要じゃない情報も膨大に溢れており,それらに目を通すだけでもひと仕事だ。しかも,何かひとつ新事実が出るたびに,両極端な解釈が必ず出てくるものだから,いつも混乱してしまう。あるひとつの解釈に確信を得るためには,いわゆる「裏をとる」という手続きが必要だ。しかし当然そんなに時間があるわけじゃないから,私たちはどこかで諦めざるをえない。「たぶんこうだろう」とか「こういうことにしておこう」という暫定的な理解にとどめ置き,頭を切り替え,日常生活に戻っていきたい。私が気をつけていることは以下のようなこと。・事実を知る努力をやめない。妄信しない。 言い換えると,ある人物とか,ある理論とかを心の底で信じてはいけない。とりあえず一番信用できそうなものに頼るのは,けして悪いことじゃない。ただし,そこに矛盾や間違いや疑いを感じたら,事実(fact)と論理(logic)に基づいて,丹念に確認していくこと。・とはいえ,何らかの判断をする際には,手持ちの情報にもとづき,勇気をもって一つの選択肢を選ばなくてはいけない。拙速な判断は,手遅れよりもはるかにましな場合があるから。・気付いた間違いはただちに認め,失敗の原因を探って次に活かす。・他人の役に立つ確かな情報があるのなら,相手が理解できるように説明する。ただし,事実や論理で説明できないようなもの,例えば信念とか予感とかいったものを他人に押し付けない。
2011.04.29
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私は札幌近郊在住で,地震後もおおむね通常通りの生活がずっと続いています。当日の本震は震度3-4でしたが,建物から離れた所を歩いていたせいか,全く気付きませんでした。その後,遅い昼食を定食屋で食べていると,店主がニュースに釘付けで,私もやっと事実を知りました。食べてる途中で震度2くらいの余震が起きました。知り合いには直接の被災者は見当たりませんが,ある後輩の実家が仙台で,両親は避難しているものの無事である,との話を伝え聞きました。「知り合いの知り合い」レベルになると,仙台には関係者が多いので,なんとか皆無事であることを祈っています。*当日夜の映像で,去年旅行で訪れた八戸の市街に海水がなだれ込む様子を見てぞっとしました。岩手県田老町は,十年ほど前,大学の卒業研究の調査で実際に訪れた土地です。威圧的な高い防波堤のある,なんとなく見覚えのある風景に,大量の瓦礫や土砂が入り込んでいる映像を見ると,やっと,今そこで見ているかのような,現実感のようなものを覚えました。仙台近郊の畑地を呑みこんでいく空からの映像とか,陸前高田や南三陸が市街地ごと破壊される映像などよりも,そういう,自分の見知った風景の小さな変化の方が,自分にとって生々しく感じられたのです。*とりあえず,日本赤十字かどこかに募金をしようと思います。また,数日前から献血希望者が急増したようですが,理想的には皆が日付をずらして行くのが望ましいはずなので,来週頭ころにでも行こうと思います。おそらく数週間から数ヵ月後以降,報道の減少とともに,献血が減少していくであろうことを,関係者が心配しているようなので,できるだけ長く,コンスタントに続けたいと思います。そのためには自身の健康状態も保たねばいけないですね。その他に何ができるかは,これから落ち着いて考えてみます。皆様もご自愛ください。*私は(生物系ですが)理系のはしくれなので,原発事故関連の報道はかなり気になります。やっと原子炉に送電が可能になりました。冷却系を稼働させるための最低条件の一つが整いつつあります。はっきり言って政府と東電と関連官庁の対応は酷いですが,今の時点では,メディアが直接彼らを批判しすぎないことを望みます。落とし前は後でもつけられますが,今伝えなくては意味のない情報がたくさんあるからです。まずは,放射線量の計測値などの一次データの公表を増やし,ネットだけでなくテレビでもラジオでも口コミでも,被災地の人にもっと細やかに届くようにしてほしいです。あくまで現時点では,ほとんど問題が無いレベルのはずなので(情報が正しいことを大前提としてですが),心配する必要のない人たちに,少しでも早く落ち着きを取り戻させてほしいです。情報の正しさを確保し,伝わる速さを上げるにはどうすればいいか,いろいろ考えさせられます。
2011.03.19
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いろんなものを視たり読んだりしたけれど,なぜか更新する気になれませんでした。今年最後くらいは書いておこうと手を動かします。去年から今年にかけて,いろいろマイブームがありましたが,最大の波は「涼宮ハルヒ」シリーズ。「不思議の海のナディア」以来,適性あるだけに近づきすぎないようにしていたアニメにとうとう手をだしてしまった。。生活が若干変わるレベル。みんなネットが悪いんだとおもうよ。。ユーチューブとか2chとか便利すぎるもの。。どんだけアニメおたくがいるんだよこの国。なんでもすぐに調べられちゃうし,聞いたらすぐに答えてくれるし。。ブックオフも悪いとおもうよ。。田舎なのにいろいろ簡単に揃っちゃうんだもの。。そしてとうとうブルーレイ再生環境ないのにBoxセットとか買っちゃった。。!でもでも,2chとか見ると,そんなアホが全国に100人くらいいそうな勢いです。よかった。。ぼくは一人じゃない。。末期的な思考回路だ。気分的には幸せなので始末に悪いよ。アニメだけならここまではまらなかったと思うんだけど,原作を読んだのが決定的だった。原作も,シリーズの3,4作目あたりを読んでるうちはさほど感激したわけじゃないんだけど,伏線を張っては回収し,張っては回収して,話が複雑になっていくにつれて,これはすごいかも,と思うようになりました。アニメは,今は気分を盛り上げるために視るようなもんで,この作品を味わうためには,原作を繰り返し読む作業の方がメインになっています。4年ぶりに新作が出ることが決定し,ファンは驚喜しています。若いひとたちのつぶやきや騒ぎを眺めつつ,来年もこのシリーズを楽しむことと思います。あとハルヒに関連して,SF小説一般,ライトノベルズの評論ものをかなり買い込みました。ここ15年くらいの,日本の文芸の傾向を俯瞰的に眺めることの楽しさを覚えました。「ちはやふる」に引きずられて和歌や源氏物語に興味が広がったのと似ています。こういうことがあるから,マンガやアニメはやめられないです。さて明日ブルーレイドライブを買いに行こうかな。。ではみなさま,良いお年をお迎えくださいますよう。
2010.12.31
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(2008,新潮社,定価3990+税)授業で習う「更級日記」(菅原孝標女)の序盤,作者が源氏物語について書くくだりが,私はとても好きです。源氏物語の何たるかを知らない私も,幼い娘をかくも魅入らせた物語の魅力が,一体どこからやって来るのかを知りたくなるのです。幼い彼女は,源氏物語本の話を聞けば聞くほど欲しくなり,有力貴族である親のつてを通じても見つからず,望み薄と思い知ったある日,伯母から全巻揃いの本を渡されるという思いがけぬ幸運に恵まれます。それからというもの,貴重な本をたった一人でむさぼり読める彼女自身の様子が,リズム良く,畳み掛けるように描写されます.その幸福に陶酔した彼女は調子に乗って「后の位なぞなんぼのもんじゃーい!」とうそぶきます。 心もえず、心もとなく思ひ、源氏を一の巻よりして、人も交らず、几帳のうちにうち臥して、ひき出でつゝ見る心地、后の位も何にかはせむ。彼女の望みはどこまでも個人的であり,人生で初めて執着したものを手に入れることができた高揚感と全能感に溢れています。娘としては家長の意志に従わされ,嫁げば夫の事情に依存し,その男たちも時代や流行病や寿命に逆らえず,彼女らの人生は風に揉まれる草のように翻弄されていました。しかしそんな時代にも,夢心地で没頭できるものを持っていた彼女は,束の間ではあっても完全なる自由と幸福に触れたかのようで,ひとり物語に耽溺するその姿にはいじらしさを感じずに居られません。*源氏物語は,受領の娘であった紫式部が,おなじく下級官吏の妻や娘たちなど,宮廷とは縁遠い同人サロンの女性達の間で回し読みされた,完全なるサブカルチャーでした.そして読者から直接紙などを援助されることで書き継がれていたので,おそらく彼女達には「わたしたちが育んだ物語」との共有意識があったことでしょう.しかしやがて紫式部は時の最高権力者に囲われ,読者層は宮廷内に限定されてゆきます.さらに数世代下ると女性は読者としての立場から排除され,男の権力者達が占有する時代へと移行します.そしてふたたび女性や下々に読まれるようになるまで数世紀を要します.このように読者層はどんどん変化していきますが,彼らが共通して感じた思いを表現するならば,こんな感じでしょうか:・最も手に入れたいものはけして手に入らない,この世のままならなさと,人の弱さ.・その弱さゆえにますます愛おしくなる,人という存在の不可思議な魅力.権勢をほしいままにした男たちも,全てを失った寄る辺無き人びとも,源氏に執着した者達はみな,その「人生のままならなさ」への強烈な疑問と,諦観の末におとずれる甘美な痛みとを,反芻するように味わっていたのではないか,という気がしてきます.
2010.09.19
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(2010年,アフタヌーンコミックス,講談社)クラシックバレエをフューチャーしていた山岸凉子の大河ドラマ「舞姫 テレプシコーラ」もとうとう終幕を迎えました。がしかし,それと前後する形でこの社交ダンス漫画が彗星のごとくアフタヌーン誌に降臨しました。いやっふー!!ダンス漫画,おもしろいよダンス漫画。 マイナー部活動×リアリズム青春漫画。「ヒカルの碁」以降,良作が続いているジャンルです。書道とかカルタとかあれとかこれとかね。本作「BUTTER!!!」も万人に勧められそうな良質の漫画です。超おすすめです。そして何より,気品があるのです。BLとか百合もの出身で,大手の雑誌に引き抜かれるような作家さんたちには,気品というものをうまく描ける人がよく居ます。西炯子とか,草間さかえとか,タカハシマコとか。*描写のことを言いますと,ヤマシタさんの描く眼が,ぞくぞくするほど素晴らしいです。ダンス部副部長の二宮さんは,オールドファッションな少女漫画(「日出処の天子」の厩戸王子とか)を彷彿とさせる睫毛バサバサの眼をしていますが,その眼が意地悪く歪む描写などには溜息が出ます。そして一番魅力的なのはやはり,ヒロインであるなっちゃんの眼で,その生き生きとした眼,くるくると変わる表情はもう,キュート!としか言いようがありません。見た目だけでなく,タイトルの由来にもなっている 「バ,バターになっちゃいますーー」なんて科白とか,可愛すぎだろコラァ!やめて!もー,おじさんをこれ以上誘惑しないで!失礼,見苦しいスイッチが入りました。一旦筆を置きます。ふー。*BL出身の作家さんが,ノンケの,オタクっぽい男の子の,コンプレックスに満ちた精神をを描こうとする時,意外とステレオタイプでリアリティが無かったりします。おそらく彼女たちにとって魅力の薄い人種なのでしょう。あるいは同族嫌悪でしょうか。その魅力の無さを逆手に取って,オタク男子を徹底的に戯画化してみせたのが西炯子さんの「電波の男よ」「亀の鳴く声」におけるキャラクター造形です。ところがヤマシタさんの場合,そういうひ弱な男子の心根を,かなりリアルに描写していたので,私は嬉しかったです。本作「BUTTER!!!」の端場(はば)君という準主役級男子がそれです。プライドばかし高くて,でも苛められやすいオドオドっぷりは,「おおきく振りかぶって」のミハシと似ていなくもないけれど,端場君は可愛気に欠けます。しかし,だからこそ身につまされるし,リアルなのです。というわけで,脂ののってきたボーイズラブ界の中堅作家が,このヒネくれたボーイミーツガールをどう料理してくれるのか。今のところ,連載一話ごとに面白くなってきており,期待は増すばかりです。
2010.09.13
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(「ボッコちゃん」[新潮文庫]所収)お久しぶりです。久々過ぎて申し述べることもすぐには思いつきません。相変わらずですので,依然と同じように拙い文を綴ります。*最も良く知られたショートショートのひとつを,飽きもせず読み返します。「ボッコちゃん」同様,最後の数行に至るまでの構造が,シンプルながらも巧妙です。読み終わった瞬間,彼らの社会に降りかかるであろう惨事を想像するわけですが,私の場合,そこに「他人の不幸は蜜の味」というか,不謹慎な楽しさがあるのです。「おまえらは訳もわからず恐ろしいだろうが,こっちは解ってる」という,意地悪な楽しみが。しかし星新一はそんな読者に助け舟を出しています。「いやあ,あいつらが苦しむのは自業自得さ。安易な目先の解決にしがみついて,狂った社会を導いた自分たちの愚かしさを思い知るべきなんだ」と。少なくともそう読める余地がそこにはあります。それゆえ子供時代の私は,自分の中の悪意の存在を意識すらせず,無邪気に楽しめたのです。*他方で私は,ラストシーンに登場する名もない建設労働者に愛おしさすら覚え,胸を痛めたりもします。まったく私は,あちら(悪意)に行ったり,こちら(善意)に来たりと,都合のいい蝙蝠的な悦楽に身を浸す卑しい読者です。彼の眼前で拡がり発展している都市の光景と,そのパノラマを眺めながら彼の胸に去来する幸福感と高揚感。それを想像すると切なさすらおぼえます。そこには,私が小さい頃にはまだ残っていた,光輝く未来を信じる社会の雰囲気があるからでしょう。星さんがこれを書いた昭和三十年代,既にいくつも公害問題が露呈したりもしていたでしょうが,それでも大多数の人々は「まだ希望はつづく」と思っていられたのではないでしょうか。それからさらに半世紀近く,そんな気分が続いたと思われます。なんて幸せなこの国の,あの時代。でもそんな単純な時代が終わったあとに,皮肉な醒めた目で振り返ることのできる現代も,私はそれなりに楽しんでいます。星さんが亡くなっても本は当たり前のようにここにあるし。*このラストシーンには,酒場の閉じた人間関係で完結していた「ボッコちゃん」とは異なる魅力があります。そこに至るまでに描かれた【個人 - 組織 - 社会】のありように,私たちの生きる日本社会の肌触りを仄かに感じるのです。そして,余韻をどう味わうかが読者に託されている点が嬉しいです。あんたがたの好きなように味わえばいいだろ,と言われているようで,つまり大人扱いされている気がして嬉しいのでしょう。他人の悲劇を想像する楽しさを,こちらに託してくれているのです。星さんは他人一般に対して意地悪で,だからこそ僕ら読者にとって優しい創造主なのだと思います。
2010.09.11
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浅田真央とキムヨナの点数差を見て,予想よりもずいぶん差が開いた印象を持ちました.この採点に関して,ジャッジの評価が不公平ではないかという指摘を目にします.つまり高い技術を要する3アクセルの基礎点が低すぎる,または全般的に加点の割合が大きすぎると.気分的には私も賛同したいですが,配点全体を調べたわけでもないので,今は判断できません.ただ,この二人だけでなく全員の採点を分析して,何か問題があれば改正すればいいと思います.新採点システムになってからはこのような具体的な問題点が公表されるようになり,素人でも客観的な基準に基づいて指摘できるのですから,ソルトレイク以前よりはいい状況です.また,浅田真央指導陣の戦略的立場から考えると,不利な採点傾向を承知でプログラムを作りあげ,何試合もかけて審判団とかけひきをしながら微調整してきているはずであり,ある程度は織り込み済みであったかもしれません.いずれにしても,彼らはああいう演技をすることを「強いられた」のではなく,「選択した」と私は考えたいです.*見終わった直後の私は,浅田が金メダルを逃した最大の原因は振り付けにあるような気がしました.審判団の傾向は当然把握しているはずであり,なのにシーズン前半に,より有利なプログラムに修正できなかった,つまり指導陣の戦略ミスか,能力不足か,判断の遅れがあったのではないかと.たとえ最高のプログラムと最高のパフォーマンスをしても,キムヨナに勝つのは難しかったと思います.ただ,もうすこし点数の積み増しができなかったのは,指導陣の問題だったのではないかと.しかし,再放送の演技を見て,各所でのインタビューを見て,時間とともに変化する浅田選手の表情とか,受け答えとか,解説者のコメントなどを見て,徐々に違う感想を持つようになりました.浅田のフリーの演技のどこが気に入ったかというと,あのほがらかで深い考えを持たないように見えた童女が,厳しい状況に置かれながらも3アクセルにこだわり,立て続けに成功させ,凄みのあるスケーターへと変貌したことです.この危うい魅力を放つ「バンクーバーの浅田真央」は,タラソワだからこそ作り上げることができた作品のような気がしてきました.浅田選手は私にとってそれほど好きなタイプのスケーターではありません.タラソワもあまり好きではありません.ただ,順風とは言えないシーズンを重ねながらも,当然のように五輪の表彰台に登りました.そんな浅田とタラソワの能力と選択と覚悟とを,失敗だとは言えない気分になっています.また,4年前の浅田ならこんな重い曲を二つも選ばなかったと思うのですが,本心はどうあれ「気に入っている」とまで言うようになった浅田真央の内面の変化そのものに,驚きと嬉しさを感じています.そして,一つのことに全てを捧げて生きているアスリートという生き物が見せる,予測のつかない成長というものに,畏怖の念を抱いています.*4年前トリノオリンピックの表彰台に立った三人は,それぞれ挫折を背負っていました.日本スケート協会を一度は呪った荒川,五輪審判団を二度呪ったスルツカヤ,何度も栄光をつかめたはずなのにいつも「もうちょっとのサーシャ」.私は荒川ラブだったけど,いま浅田の悲哀を目の当たりにして思い出すのは,銀メダルを手に取ってぼんやり見つめるサーシャ コーエンの姿です.自分がメダルをかけてもらった直後の彼女は,さすがに明るい顔を作って観客席に手を振りました.でもその後,荒川がメダルを受け取り拍手に包まれているとき,彼女はうつむいて胸元のメダルを手に取って裏返したりしながら,ぼんやりとした不思議な表情でそれを眺めていました.このメダルを見て,いま自分は悲しい?ほっとした?と,自分で自分の感情を測りかねているかのように.そのサーシャ コーエンはとうとう競技に戻って来ませんでした.しかし浅田の複雑な表情を観ていた私は,浅田に言いたくなったのです.サーシャみたいな選手を思い出してほしいと.他者の人生を想像して,そこからのぞきこむように自分を見てみてほしいと思ったのです.トリノで負けたサーシャにしかわからない気持ち,バンクーバーで負けた浅田真央にしか形に表せないもの,そういうものを片鱗でもいい,スケートリンクの上で見せてくれたなら,スケートファンはみんな,スケートを観てきてほんとに良かったと思うんだからね.そう言いたい気分になったのでした.*ちなみに,キム ヨナのコーチのブライアン オーサーは,私がフィギュアの男子で初めてかっこいいと思ったスケーターです。明るく健康的だけどエレガントで,確か青系のタイトな服に身を包んでいた彼の風貌と名前の響きは,カタリナ ビットとともに80年代のフィギュアスケートの象徴的イメージとして私の記憶に染みついています。今回知ったのだけれど,彼は一度も金を取れなかったんですね。シルバーメダリストの系譜とは,なんと複雑で忘れがたい輝きを放つものなのでしょう。
2010.03.04
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(2010, 講談社,コミックス)<前置き その1>ブラタモリというNHKの番組を最近知りました。古地図と裏通り探索の好きなタモリが楽し気に呟きながら徘徊するという企画。視覚的に楽しく,表通りとの対比が面白く,歴史的な謂れを知るとさらに面白い。例えば,かつての大名屋敷がイタリア大使館になっていたり,伝説の池がマンションの中庭として外から隔絶され,そこの住人だけが池の畔の桜の花見を楽しめるのだとか。その一方で,個人的にはちょっと勿体ないというか,物足りない印象も持ちました。たとえばイタリア大使館の人には,案内をしてもらうだけでなく,彼の体験談とか故郷の話とか,「今そこに住んでいる」彼の主観にももう少し触れてほしかったのです。マンションの管理人のお婆ちゃんに昔の写真を見せてもらう場面は面白かったです。昔は今とずいぶん違うねって。とても変わってしまって,寂しいねって。それは驚きでもあり感傷でもあり,面白いものでした。でも私は,そんな楽し気な懐古好きの大人たちのキャッキャウフフを見ているうちに,つい八つ当たりめいた疑問を投げかけたくなったのです。でもさ,じゃあ今は? 私たちの時代は,つまらなくて残念な時代なの? タモリが旧市街から帰る道,或いは私がチャンネルを変えてテレビを消した後は,残念タイムの始まりですか? <前置き その2>江戸を描いた杉浦日向子の短編まんがで,失われた江戸の風俗を古老に聞いて廻る新聞記者の話がありました(タイトル忘れました)。ところが古老の回想談には期待したようなオチは無かったために,その記者は拍子抜けするのですが,対照的に,その爺さんが現在に満足している様子が印象的でした。その記者が,古老の現在の生活に興味を示さないところに不快を覚えます。しかしそこで別嬪の孫娘が現れた途端,記者は現在に引き戻される,というオチがつくわけです。今の時代だって悪くないだろ,みたいな。もうひとつ,杉浦さんに「YASUJI 東京」という作品があります。井上安治という明治初期の絵師に惚れこんだ1990年代の若い女性を中心に描く連作短編集です。主人公が生きる現代に軸足を置きながら,安治の絵を眺めたり思い出したりしている時に,不意に「あちらの世界」に落っこちるような気分になる様子が描かれます。「時代物」好きの人には,懐古自体を目的とする人と,現在の自分を豊かにするための一手段として利用する人がいると思われます。上の杉浦2作品は,どちらかというと後者に近い立場で描かれていると思います。<前置き その3>実際の江戸は,我々が放り込まれたら耐え難いほど不自由だったかもしれません。そこに住む人々は,その不自由に絶望したり,諦めきっていたにも関わらず,逆にそれを楽しもうと自虐的な発想転換をしたように思えます。そのねじれ具合に,江戸の諧謔の快楽と悲哀が垣間見える気がします。その絶望や悲哀の部分に気付かない振りをして,懐古をレジャーとして無邪気に楽しむ行為に,私は違和感を覚えます。そういう行為は,現在の状況を変えることを最初から諦めているようにも見えるからです。つまり私は,現在を楽しむことを優先し,その楽しみを他人に伝えられる人にこそ,懐古を楽しんでほしいと思うのです。過去はそれ単独で価値があるのでなく,現在の事物と結びつけられてこそ価値が発生すると思うからです。つまり私は,過去の事物を楽しむと同時に,現在というものに新しい意味を与えていきたいと思うのです。そういう斬新なゲームを体験してみたいと願うのです。<本題>「ちづかマップ」の主人公の女子高生(ちづか)は,わがままで面倒くさがりで忘れっぽくて責任感が薄い若者ですが,彼女の数少ない美点は,自分の審美眼を信じきっているという,その堂々たる(無根拠の)自信です。しかしだからこそ彼女は,嫌々ながら付いていった書道博物館の一品や,工事標識用オリジナルフォントの美しさにも,文脈と関係なく感激できたのです。ついさっきまで馬鹿にしてた奴の意見を,恥知らずにも正しいと認めてしまえるのです。彼女は,現代女子高生としての世俗的な生活を迷いも無く楽しみ,それと同列に過去の事物を慈しんでいるのです。おそらく彼女にとって過去は現在の一部であり,そこに逆説など無いのです。ちづかの古地図趣味にはあまり方向性が無く,向学心すらもあまり無い,本能的で生理的な執着に見えます(よく地図の匂いを嗅いでいる)。浅草十二階のエピソードでも明らかですが,彼女は歴史に詳しいどころか年代の前後関係にも鈍感で,古地図おたくだとしても,かなりいいかげんな部類に入るでしょう。しかし,ちづかが集めたものや体験したことは,ただ消費されたり忘れられたりせず,ちゃんと蓄積されています。その情報が蓄積される媒体は,彼女に巻き込まれる人びとです。例えば,彼女の祖父。文学オタクの同級生男子。その友人。いとこの女の子。お友達になった元依頼主。その友人。友人の祖母。こうした人びと全員の頭や体には,ちづかと一緒に巡った街角や建物や,食べ物や風景やらの記憶が染み付いています。だからたとえ彼女自身が何かを忘れても,誰かが後で思い出させてくれるような関係が築かれていて,それが彼女の財産になっているのです。だから彼女は安心して,つぎつぎと新しいゲーム(梅酒クラブ会合,御朱印コレクション)を開拓していきながら,つまらないことは忘れ,面白いことだけ続けて,自分の日常を飾り立てていけるんだと思います。何てったって,今が楽しいよ。このまんがを読んだらそう思うのです。江戸や明治が良いったって,何しろ杉浦日向子もこうの史代も,衿沢世衣子だって居やしないんだからね。<蛇足>あらためて,衿沢世衣子作品にハズレ無しとの思いを強くしました。既刊の4作はどれも凄い。これからもどうか,好き勝手に描いてほしいです。衿沢世衣子まんがの感想文:向こう町ガール八景シンプル ノット ローファー
2010.01.27
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(2009,小学館,フラワーコミックスα)女性向け漫画誌「flowers」で発表された短編漫画を集めた一冊.「本日はお日柄もよく」は,女子高生が学者肌の年上男性に恋をするなどという,少女漫画では手垢にまみれた(氷室×山内「雑居時代」など)筋立てで,ストーリー上の独創性もさほどありません。にもかかわらず引き込まれてしまい,草間さんの巧みさには脱帽しました。たぶん男性読者向き。*「さよならキャラバン」はサーカス団員ガールと粗忽なボーイとの恋をさらりとまとめた見事な短編。入江亜季さん同様,古めかしくも匂い立つようなロマンスの香気(70年代風)と,冷めた視点やテンポの良さ(90年代的)とのバランスが絶妙。さらに屋上のバク転とか,投げキッス オンザロープとか,読者をアイキャッチする技術たるや憎らしいほどです。サーカス団員の転入という筋立てから,ただちに西炯子「ひらひらひゅ~ん」2巻の旅芸人転校生の話を連想しました。材料は似てても料理の仕方が違ってて,併せて読むと面白いんじゃないでしょうか。*最後をしめくくるホラー2編は,巻頭に出て来た連作短編での伏線を一気に回収して,アクロバティックに急展開します。これが「超絶技巧」という宣伝文句の所以でしょう。古めかしくも朗らかな町内で営まれる一軒の時計店という舞台,そこに立ちこめる静謐な恐怖感には,今市子作品に通ずる雰囲気を感じます。
2010.01.20
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今年は個人的にSFと古典文学とライトノベルズを開拓しました。去年以前のランキング本に載っている作品を参考にしたので,旧作が多いです。しかし周回遅れでもいいものを読めた気がしており,今年の読書生活はいつになく充実していました。10位 「のだめカンタービレ」22-23巻 二ノ宮知子 15巻あたりから中だるみかなとも思いましたが,なかなか良い終わり方でした。「バラとプルトニウム」に匹敵する見事さと言ってよいでしょう。22巻のオクレール先生の長台詞のシーンは,私が待ち望んできた場面でした。09位 「ラストイニング」21-23巻 中原裕,神尾龍 「おおきく振りかぶって」と双璧をなす技巧派野球漫画。佳境に入ってきて盛り上がってます。単行本も揃えました。美里さんのツンツン具合がたまらんです。08位 「20世紀の幽霊たち」 ジョー・ヒル 07位と同様,発売から一年以上経ち,評価の定まっている作品です。変態的でアクロバティックな作品もありますが,苦しみや悲しみが丁寧に描けている点こそがとにかく重要なのです。07位 「夏の涯ての島」 イアン・マクラウド 08位と以下同文。ただし変態性やアクロバットは少ないです。設定はSF的ですが,目指しているところは一般文学と同じく,人の苦しみとその救済なのです。06位 「暴風ガールズファイト」1,2 佐々原史緒 ライトノベルズのガイド本無しには,おそらく発見することは不可能だった作品。現在のラノベの主流とは違い,どちらかというと古き良き和製ジュブナイル,もしくは少女漫画的な,80年代的な学園青春スポーツグラフィティです。なんかね,山口美由紀の漫画に出てくる子たちみたいで,健気で可愛いのです。05位 「涼宮ハルヒの憂鬱」シリーズ 谷川流 このシリーズは過去の様々な文学,娯楽,音楽へのオマージュが散りばめられています。シリーズ最近作では百人一首と百人秀歌を題材にしたネタを埋め込んでいたりして,最近古典文学に傾倒している私にはタイムリーでした。ハードルは低いけれど,良質な知的娯楽を与えてくれた点で,筒井康隆や川原泉のような存在に感じられます。04位 「ちはやふる」4-7巻 末次由紀 各所で大プッシュされており,もう私から付け加えることはありません。当初予想よりもずっと長い連載になりそうで嬉しい限りです。03位 「源氏物語の時代 一条天皇と后たちの物語」 山本淳子 平安時代の不思議さとは,和歌や物語を作るための「言葉を操る能力」が,宮廷という権力をやりとりする場で重視され,しかも女性が男性と同等以上にその役割を担ったことです。残念なことに歴史教育や時代小説においては,変化の少ない時代とみなされ軽視されがちですが,私はこの本を読んでからというもの,この時代の人物や事物や文藝を知ることに興奮し続けています。02位 「この世界の片隅に」下巻 こうの史代 「夕凪の街 桜の国」に続く,戦争時代の物語です。前作ほど絶賛されていないのは「悲惨なはず」の出来事が,しばしば奇妙なユーモアセンスとともに,一見のどかに描かれており,その解釈に困った人が多かったのかもしれません。しかしこの奇妙奇天烈な笑いこそ,彼女の全作品に一貫しているものであり,これこそが彼女の「描きたかったこと」だとすら思えます。杉浦日向子の作品同様,十年かけてゆっくりと味わいたい,宝物です。01位 「巨匠とマルガリータ」 ミハイル・ブルガーコフ ピンクのカバーに素敵なイラストの帯。カラマーゾフは読み続けられなかった私にも,ブルガーコフなら読めました。陰惨なオープニング,共産国の秩序と権威をこづきまわす大魔術,復讐のため高級マンションを壊しまくる魔女っ子マルガリータのキュートな狼藉,キリストを処刑する総督ピラトゥスの苦悩,あれもこれも詰め込まれて分厚くなってるけど,あまり厚さを感じませんでした。かならずしも読みやすいとは言えませんが,黒田硫黄の「大日本天狗党絵詞」が好きだというような変人にはお勧めです。*読書の何が面白いって,過去に読んだ作品を連想したり,それまで聞き流していた他人の言葉を急に了解できてしまったりするような,意外性のある「出会い」の瞬間にほかなりません。むろん映画でも現実の会話でもそのようなことはあるわけですが,現実の会話では望めない質と量の情報を短時間に流しこめるし,映画と比べて時間的経済的コストが少なく,場所の制限も少ないです。来年も私は布団やトイレや電車の中で,紙片を指で繰りながら,過去や架空やよその大陸へと脳を誘うことでしょう。この拙い文にコメントを下さったり,読んでくださる全ての方に感謝します。みなさま良いお年を。
2009.12.30
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(2009,NHKブックス)まんが「ちはやふる」の影響もあり,百人一首についての本を手にとってみました。本書の特色は,各首の解釈についてはほとんど立ち入らず,詠んだ歌人たちを,その境遇などによりいくつかのテーマに分け,論じています。たとえば「神と人」「男と女」「都と鄙」「虚と実」というように。私の場合,特定の歌や人物に対して強い思い入れがあるわけではないため,こういう抽象的なテーマの方が興味が持ちやすかったです。しかもテーマを少数に絞っているので,飽きずに読了できました。*「神と人」の章では,政治的な敗者となった貴族や天皇が取り上げられますが,意外だったのが次の一首でした。 瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ (七七 崇徳院)これを詠んだ崇徳上皇は,父親の鳥羽上皇に自分の子ではないのではと疑われていました。彼は天皇にこそ即位したものの,父に強要されて退位し,弟が即位(近衛天皇)していきます。この一首は漫画「ちはやふる」にも取り上げられ,一般にも比較的人気のある歌です。表向きは恋歌ですが,他方で,父や弟に奪われた地位を奪還したいという,恨みや野心の吐露としても読めるとのことです。*日本史を授業で選択したことのない私ですが,小学校の時に歴代天皇を暗記したので,南北朝の手前あたりまでなら,そらんじることができます。 [白河,堀河,鳥羽,崇徳,近衛,後白河,二条,六条,…]というように。 しかしその多くは,単に漢字の羅列として把握しているだけで,何時代の天皇かは詳しく把握していません。しかし本書を読んでからは,上に述べた骨肉の争いと,「瀬をはやみ…」のイメージが植えつけられることで,[鳥羽(父)・崇徳(兄)・近衛(異母弟)]の三代を特に意識することになりました。こうして政治史と文学史が記憶の中でからみあい,どこかを引っ張れば芋づる式に思い出せる,というようになればいいなと思っています。
2009.11.29
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(2000年,プチフラワービッグコミックス,小学館)倉多江美さんの漫画に初めて出会ったのは1980年代半ばのコミック・トム誌上です。フランス革命を,ほのぼの,ぼんやり,のらりくらりと描いた稀有な歴史漫画「静粛に!天才ただいま勉強中」でした。70年代の一部の少女漫画家に特有な,あっさりとして大人びた絵柄,そしてドラマ性を煽ったりせず,淡々として落ち着いた作風が大好きでした。しかし,主人公が中央政界に入ってからの長い晩年の描写は,子供のころの私には退屈すぎて最後まで読みませんでした。先日,古本屋で立て続けに倉多江美の本を買いました。彼女は寡作ですが,私は熱心なファンではなかったので,両方とも知らないタイトルでした。約二十年ぶりの,懐かしい再会です。*そのうちの一冊が,レディコミ系のコミックスレーベルから出ている「お父さんは急がない(1巻)」。これが滅茶苦茶おもしろくて,傑作と言ってもいいでしょう。続編も出ているようです。「ヒカルの碁」を読んだ人なら腹が立ちそうなほどやる気のない,ロートル棋士のだらだらとした日々が描かれます。でも途中から,ちょっとずつ格好良くなっていきます。彼の家族が全員たまらなく魅力的で,最高に笑えます。娘もその弟も,じつにかわいらしい。*時間が止まったような,でもとりたてて強い主張をするでもない昔のままの作風です。革命ではなく,こういう日本の日常の笑いとペーソスを描いてくれて本当に私は嬉しい。でもこの作者,なまなかではない哲学を持っている雰囲気があります。でなければ,こんなに作風が変わらないなんてありえないと,逆に思うのです。自分の感覚や感情を人に見せたい!という欲望が見えてこず,なにかこう,穏やかならぬものを隠し持っている気がするのです。こう書いてみて,こうの史代さんの座右の銘,私はいつも真の栄光を隠し持つひとのことを書きたい,というアンドレ・ジッドの言葉を思い出しました。いつか倉多さんのことをほんとうに書ける日が来ることを願って,キーを叩く指を措きたいと思います。では皆様,おやすみなさい。明日も良い本と出会えますように。
2009.11.14
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源氏物語の第四帖,夕顔を読んでいます.このあたりまで読むと,第二帖で語られた「雨夜の品定め」の内容や,第三帖での空蝉とのやりとりが伏線として効いてきます.こうなってくると,四苦八苦して読んできた甲斐があるし,もっと読むぞという気分も高まるというものです.また,光源氏が葛藤や逡巡を見せる場面は近代小説みたいで,古典を読むときに感じる独特の違和感や抵抗感も薄らいできました.*しかしこの古い文章を四苦八苦してでも読みたがるモチベーションは何だろうと改めて考えてみると,それは,古今東西の源氏物語ファンたちが味わった世界を追体験してみたいということです.とくに「源氏物語の時代」という本を読んでからというもの,そこに書かれた人物たちにえらく感情移入してしまったのです.この本を読むとまず,誰でも一条天皇と,その后の定子に肩入れしてしまうのではないかと思います.それに対して,成り上がり的に権力を伸ばしてきた藤原道長の娘である彰子には,最初あまり魅力を感じません.彰子はまさに箱入り娘で,上品だけれど個性というものが見えない娘でしたが,その彼女が,父も困惑するほどの異常な執着を見せたものこそ,源氏物語だったそうです.幼く無個性だった后が,源氏物語の何によって触発されたのでしょうか.そもそも彼女たちが生きていた時代の宮廷とはどんな場所で,宮廷に生きた女性たちとはどのような存在であり,その背後にはどのような歴史が横たわっていたのでしょう.そんなことが気になりはじめたのです.*源氏物語には,漢詩や仏教や物語や和歌や日記文学のエッセンスが注ぎ込まれていますが,彼女は単純なあざといパロディというものを徹底して嫌ったようです.深読みしようとする読者たちの期待をことごとくかわしながら,一方で彼らの意表をつき,度肝を抜き,魅了していったらしいのです.また後世には,新古今和歌集や百人一首で,また能や歌舞伎や落語の中でも,源氏物語は形を変えつつ歌われ演じられています.そうして何度も書き足され消費されたりしながらも,滅びること無く命脈をたもちました.その末端のさらに末端に,漫画をはじめとしたサブカルチャーがぶら下がり,その漫画にぶらさがっているのが私であり,その私がようやく,自分のぶら下がる小枝の根元方面に,目を向け始めたというわけです.漫画「ちはやふる」で百人一首のいくつかを思い出しました.「花よりも花の如く」で能を知りました.そして「源氏物語の時代」などを読んで,ようやく日本史や国語の授業で習ったことと,今この時代の自分とが地続きであることをかすかに実感しました.*けっきょく,古典の楽しみとは,連想ゲームの幅がひろがるということなのかもしれません.いろんな人たちが楽しんだ物語とは,将来自分が楽しみにありつける可能性を多く含んでいるということでしょう.時代が違うから感覚も違うし,読むだけでも大変だけど,だからこそ,今まで解り得なかったものを解ったときの感覚は強烈です.「これが定家の感激したアレか!!ちょっと解った(気がする)(かも)!!」みたいな.聖書の民もすごいけど,私らにも戻るべき古代の書はあるのです.ちょっと頑張れば,千年前のエロスも鬱展開も,いちおう読んで楽しめるのだ.逆の意味でSFだ.ぼくたちは未来から,彼や彼女を覗いている.源氏や惟光が,垣根の隙間から夕顔の衣や髪をちらりと見たみたいに.
2009.11.11
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(少年チャンピオンコミックス,秋田書店)1980年代前半,少年チャンピオンにはお世話になりました。「すくらっぷブック」「750(ナナハン)ライダー」などの青春ラブコメ,「エコエコアザラク」「恐怖新聞」などのホラー,さらには手塚治虫も多数の傑作を連載してました。しかしガキの頃の私にとって何より存在感が大きかったのは「マカロニほうれん荘」「るんるんカンパニー」「がきデカ」といった,ややイっちゃってた感じの,壮絶なまでにきわどいギャグ漫画たちでした。それ以来,10年に1度ほどは目を通すものの,チャンピョンにはほとんど見るべきものはないと思ってました。そんな折,「たまごまごごはん」さんというブログで知ったのがこの「みつどもえ」です。ギャグで食っていくことが困難なこの時代に降臨した,その堂々たる作風に感服しました。すでに一定の人気を得て,二次創作活動も活発化してるようです。1巻を読んでみるとやや殺伐とした空気があって敬遠しましたが,最新刊から古いほうへ順に読んでいったところ,めちゃくちゃ面白かった次第です。5巻まで買いました。*高飛車な長女,野性児の二女,陰湿な三女からなる三姉妹を主軸に,小学校六年の教室での荒唐無稽な騒動や,しょうもないいさかいや,楽しい永遠の放課後を描くスタンダードなギャグ漫画。この作品が提供する笑いはエロを主軸としており,雌豚とか痴女とかキツいワードを多用しながら過激に展開するものの,オチの付け方に関しては(とくに新しい話では)友人や家族との温かい関係に回帰する,ほのぼのとしたものが多いです。個々の言葉やネタは下劣だけど,読後の後味はかなりさわやかです。ただ,繰り返し言いますが,連載初期の話はかなり雰囲気が違うし笑いの質もやや落ちるので,あまりお勧めできません。5巻以降の面白さは請け合いますし,3巻以降でもたぶん大丈夫。*絵柄は単純ですが,背景やモブ(群衆)の中に描き込まれた見落としがちな部分で,ひそかに伏線を張ったり回収したりと,構成の面ではかなり技巧的です。作者自身が楽しみながら,読者を飽きさせまいと工夫に工夫を重ねている姿勢がうかがえて非常に好印象です。1話8ページという,やや短めの尺のおかげで,長期にわたり品質を落とさず描けているのかもしれません。「マカロニほうれん荘」の鴨川つばめのこともあるし,良質なギャグ漫画家は皆で大切に支えたいものです。何度も何度も読みかえしちゃうギャグ漫画なんて,ほんと久しぶり。
2009.11.08
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いつものトイレでの源氏読みも第三帖「空蝉」に入りました。内容はさておき,素人ならではの苦労について書いてみます。*いままで本文を読んだことは何度かありますが,そのときの最大の障害は「人称の複雑さ」でした。ただでさえ主語が省略されまくりなのに,人物の固有名詞がほとんど出てこないため,たまに出てきた人物が一体誰を指すのか分からなくなるのです。理由の一つ目は,人物名が官位名や続柄で呼ばれる場合です。したがって,その人物が出世したり,家族が死んだりすれば自動的に変化します。第二の理由は,同一人物の名称が,一つの帖の中でも場面ごとにころころと変わることです。これは素人読者の意欲をあっというまに削いでしまう,じつに強力な障壁です。例を挙げましょう。第二帖に登場する源氏の相手は,後年「空蝉」と読者から呼ばれる女性ですが,この名前は本文には出てきません(知らなかった)。じゃあ本文ではどう呼ばれているかというと,「姉なるひと,女君,姉君,女,妹の君,継母」と,この帖だけで六つの異なる人称で呼ばれていることがわかります。もう,かんべんしてよ。なにしろ主人公である光源氏ですら,4つほどの名称が使い分けられます。同じ帖の中で,義兄にあたる頭中将が「中将」と呼ばれているのに,源氏も「中将」と呼ばれたりします。文脈に沿って読めば誤解する危険は無いとはいえ,素人には大変です。特に私のように途切れ途切れに読む輩などは,途端にパニックです。*しかし,私が今読んでいる本には,各帖の始めにある人物紹介で,これらすべての人称がもれなく列挙されているので,大変便利です。他の本でも同じようなサービスはあるかもしれませんが,私が今まで読んだものにはありませんでした。小学館の「古典セレクション 源氏物語」シリーズです。ソフトカバーで,16冊揃いですが,各巻1600円~でお手ごろ価格です。第一巻は中古で500円くらいで買えました。わーい。一回目は現代語訳で読んで,その次は原文を読んでいく予定ですが,あくまで予定です。では今回はこんなところで失礼します。じゃーごぼごぼ。
2009.11.01
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本日,北海道立近代美術館にて鑑賞しました。絵自体も良かったのですが,今日はそれ以外の周辺的なことの方がむしろ面白かったので,そのことを書きます。ルオーについては,去年か一昨年,お隣の道立三岸好太郎美術館でも少し見ました。そしてそのときと同じく今回も,第一の感想は,とにかく額装がおもしろい!というものでした。彼は家具職人の生まれだそうですが(ウィキペディアには指物職人とある),どのくらい自分で作ったのかが気になります。バリエーション豊富で,独創的で,ちょっとグロテスクものもあるけど,必ずどこか可愛らしい部分もあって素敵なのです。*解説で驚いたのは,ニジンスキーで有名な,ディアギレフ主催の「バレエ・リュス」公演の舞台美術にルオーがかかわったとのこと。ウィキペディアで調べたら,ルオー以外にもピカソ,ブラック,キリコ,ローランサン,そして人づきあいの多くなさそうなユトリロまでが関わっていたことを知り,驚きました。単なる公演ではなく,一種の文化運動だったのだなあと実感した次第です。バレエ・リュスについては,山岸凉子さんの漫画「牧神の午後」で詳しく描かれましたし,また小川彌生さんの漫画「キス&ネバークライ」でも「春の祭典」の紹介があったので,頭の隅に興味の欠片が残っていたのです。「テレプシコーラ」で興味をもったとはいえ,さほど熱心にバレエの映像を観ているわけではありません。でも,これまでなら完全にスルーしていたはずの単語(バレエ・リュス)に反応して,自分の知っている人物同士が思いがけない関係をもっていたことに,ささやかな感慨を持ちました。こういうささいな体験の積み重ねが,さらなる知的好奇心の呼び水になっていくという気がします。話はバレエの方に脱線します。最近,LaLaLa Human Steps というモダンバレエのカンパニーが作った「Amelia」というムービーをYouTubeで観たのですが,あれはすさまじく面白かったです。年末には教育チャンネルで有名バレエ団の公演とかやってくれるかもしれないので,近づいてきたら調べてみようかとも思っています。*出光のルオー・コレクションは世界的に見ても有数の規模だそうですが,実際,その数に圧倒されました。しかし出光がキリスト教の宗教画を収集することに,一体どんな動機があるのでしょう。もちろんルオーの絵は伝統的な宗教画ではなく,美的な価値観を理由に収集してもいいとは思いますが,なにか理念があるならぜひ示してほしかったです。ところでその後,雑誌「一個人」の西洋絵画特集を見つけて立ち読みしてみたら,これがえらく面白かったので,買いました。キリスト教の宗教画についての概説は,今日観た展覧会の復習にもなるような内容で,たいへんタイムリーでした。今年出た「pen」という雑誌のレオナルド・ダ・ヴィンチ特集がわりと売れたようですが,内容はそれ以上に幅広く,聖書やギリシア神話にまつわるモチーフまでも取り上げている包括的なものでした。これはお買い得でしょう。最近話題になることの多い,ブルータスやカーサの芸術関連特集よりも内容は濃いと思います。
2009.10.30
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私は文学少年ではなかったのですが,数学よりは国語が好きで,現国よりは古典が好きでした。別世界を覗き見るという意味で,歴史や地理と似た楽しみがあったのかもしれません。とくに,読み下し文がかっこいい漢文が好きでした。日本の古文も,和歌や平家物語それに方丈記の序文のようにリズムのあるものは好きでしたが,随筆とか物語にはさほど興味を覚えませんでした。少女漫画で『ざ・ちぇんじ!』とか『なんて素敵にジャパネスク』こそ嗜んでいたものの,これはやはり20世紀戦後日本のラブコメだからこそ楽しめたのであり,その舞台である平安文化への興味はそそられませんでした。川原泉が『笑う大天使』で光源氏をけちょんけちょんに罵ったのは,明らかにギャグだったのでしょうが,私はほぼそのまま真に受けてもよかろうとさえ思っていました。それくらい,源氏物語などどうでもよかったのです。興味が出たのは今年の正月,偶然手に取った『源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり』が契機でした。これは源氏物語についてではなく,歴史の話で,紫式部と清少納言をとりまく背景についても詳しく書かれています。それは二人の苦闘と葛藤をあざやかに想像させる文章で,それまで教材としか認識していなかった枕草子や源氏物語を,再び読みたいと思わせるのに十分なものでした。それから立て続けに解説書などを買ったあと,ついに原著も買ってみました。小学館の十六分冊のシリーズの,第一巻だけですが!しかもトイレに置いて読むという,源氏ファンが聞いたら怒りそうないいかげんな読み方。そして未だに第二帖「帚木」の途中,それも原文ではなく対訳現代語のみを読むという体たらく。しかし,嫌気を起こさずに,とにかく読み進めるためには,このやり方が最善だと思ってます。そして,最近図書館で借りた『源氏物語を読むために』(西郷信綱,平凡社ライブラリー)という解説書がわりと面白かったので,一旦やめかけたトイレでの源氏読みを,また熱心にするようになりました。気が向いたら続きを書きます。
2009.10.25
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9月2日(火)に観覧しました。クリムトについては,作品数が少なくてがっかりという意見が複数あったので過剰な期待はせずに行きました。とはいっても,クリムトやシーレが札幌に来る機会なんてそうそう無いので,ファンとしては外せません。たしかに,クリムトについては質量ともに物足りなかったです。でも,クリムトとシーレの部屋では壁面が暗色で,落ち着いた上品な雰囲気を味わえる良い展示でした。個人的には,クリムト晩年の風景画がひとつでもあれば大満足だったんだけど。そして何よりシーレ!シーレ! いい作品けっこう揃ってんじゃーん。枯れた向日葵が来てるとは知らなかった!わーいわーい。いちばんよかったのは「アルトゥール・レスラー」(画像こちら)という評論家の肖像画。無地の背景なのに手抜きせずに塗りたくる,あの描き方にとても感激した。この人は基本的にどこにも手抜きをしてない気がします。そして無地の空間の筆跡にすら強烈な自意識を感じます。(しかしこのレスラーて人,柳沢教授にしか見えない)また,クリムトの人物素描を見てたら,まんまシーレじゃないかと思える作風のものがありました。当然シーレの方が真似たわけですが,あの自意識の塊みたいなシーレの微笑ましい一面を,実物の作品から垣間見ることができて嬉しかったです。あと,全体的に額装が面白かったです。さすがアールヌーヴォー真っ盛り。植物文様ゴテゴテ装飾系あり,アールデコ風味幾何学系ありと,主役がつまんなくても額縁でずいぶん芳しい雰囲気を味わえた面もありました。まあ,札幌的には十分面白い展覧会だった,とまとめて良いでしょう。あとはねー,北海道でほとんど紹介されてなさそうなバウハウスとかドイツ戦後美術とか,北欧のデザインとかを見てみたいな。
2009.09.06
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(浅倉久志 訳,2008,プラチナ・ファンタジイ,早川書房)「SFが読みたい! 2009年版」海外編第7位。全編にただよう沈痛な雰囲気といい,嫌いな作品が無いという点でも,「20世紀の幽霊たち」以上に気に入りました。日本での初単行本ですが,他作品もがんがん訳してほしいです。癒されない喪失感というものに対して,人はどのように対処できるのだろうかなどと考えつつ,ゆったりとしたペースで読み進めました。以下は短編ごとの紹介。順不同。「ドレイクの方程式に新しい光を」「転落のイザベル」「息吹き苔」これら3作は,遠い未来の地球または別の惑星が舞台で,創作上の生物や技術や文化や宗教が設定されているディープなSFです。事件やドラマを描くというよりは,人間に普遍的な悲哀というものの描写に主眼を置いているので,純文学好きの人にも勧めたいです。中でも気に入ったのは,他の惑星を舞台にした伝記のような作品である「息吹き苔」と「転落のイザベル」です。設定としてはファンタジー的ですが寓話や活劇にあるような明快な筋は無く,主人公的な少女の日常から,人生の行く末までを描きます。やや難解な言い換えや比喩が多いですが,大筋は理解できますし,なにより鮮やかな描写に引きずり込まれました。風景や生物,風や湿気や渇きやみぞれ,獣の匂いとか手触り,汗の匂いや肌の手触り,建造物の巨大さや距離感などに,五感を刺激されっぱなしです。*「帰還」典型的なSF設定ながら,叙情詩的な味わいのある美しい小品。ブラックホールの「事象の地平線」に突入してデータを得るという,カミカゼ的事業に身を捧げた宇宙飛行士の,後日譚です。真綿で首を絞められるような,明るい悪夢のような,名状しがたい苦悩が淡々と描かれます。「わが家のサッカーボール」人間が他の動物や物体に変身できて当たり前の世界が舞台ですが,じつにまっとうな家族ドラマになっていきます。息子はあるきっかけから両親の秘密を知り,急に世界が寄る辺なきものに感じられます。たとえ家族の中にも,何の疑いも持たずに依存できるものなどないというメッセージかもしれませんが,家族全員の成長譚にもなっています。ジョー・ヒルの短編「ポップ・アート」(「20世紀の幽霊たち」所収)によく似たテイストの,エッジの効いた奇想文学。*「チョップ・ガール」「夏の涯ての島」この2作は歴史もの。前者は,第二次大戦中の空軍基地に勤める女性を主人公とした,ビター&スイートなフィクションです。後者は,第二次大戦でドイツが勝った世界で弾圧されるゲイ男性を主人公とした歴史改変フィクション。暗くて重厚ですが,高村薫ファンなら好きになるかも知れません。
2009.07.25
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(2006,文春文庫,文芸春秋/ 単行本:2002)80年代に偶像化された8人の作家たち(村上春樹,俵万智,吉本ばなな,林真理子,上野千鶴子,立花隆,村上龍,田中康夫)にまつわる言説を分析し,なぜ彼らが高く評価されたのかを論じています。(なんで山田詠美がないんだ!という解説者のツッコミに同意。)最初の三人は「新しい革袋に入れた古い酒」というキーワードでくくられ,なぜ彼らがあそこまで受けたのかが,学術誌から週刊誌までの豊富な引用などを用いて論じられます。*特に吉本ばななについての論考には興奮しました。著者は新井素子や氷室冴子などコバルト文庫作家との文章を比較したり,ばななが個人的な謝辞をこまごまと「あとがき」に書く異例のスタイルが,コバルト文庫では一般的だった事実を指摘します。著者は少女小説との類似に気付いた人があまりに少なかった点を不思議がっていますが,たぶん評論の世界では少女小説は完全に見下されており,それゆえまともに扱われなかっただけのことでしょう。海外での二つの吉本ばなな評論がそろって「もののあはれ」(源氏物語を解釈するために本居宣長が提出した概念)を持ち出した件にしても,西洋文芸評論においてはそもそも近代日本文学の多様な分野や,サブカルチャーとの関連などは認知されておらず,少しでも関連がありそうで,彼らの知ってる文学といえば,源氏物語以外に見当たらなかっただけじゃないでしょうか。つまりサブカルチャーと一括りにされる中にも,暗黙の序列がつけられているのです。少女漫画はおそらく70年代ごろから学問の世界でも徐々に認知されてきました。しかし少女小説に関しては,未だに評論の世界ではまともに取り上げられてすらいないと思います。実際に,コバルト小説の文学的価値自体はさして高くないのかもしれません。たとえば,萩尾望都や山岸凉子ら多くの少女漫画家がジェンダーをめぐるシリアスな問題を意欲的に取り入れてきた一方で,コバルト文庫にそういう視点からの作品がどれほどあるかというと,あまり聞いたことがありません。ただし著者が指摘したように,80年代以降のコバルト文庫は,市場規模から言っても,TVドラマ脚本・少女漫画・文学に与えた影響を考えても,より広い(社会学的な)視点から体系的に調べれば,これまで見過ごされてきた重要な役割が発見される可能性は高そうです。*私はというと,コバルト文庫といえばルパン3世のノベライズを買ったくらいで,少女小説はほとんど読んだことがなく,心のどこかで小馬鹿にしていました。ただし,氷室冴子だけは別です。彼女のコバルト小説を漫画化したもの(「雑居時代」「ざ・ちぇんじ!」「なんて素敵にジャパネスク」)はかなり熱心に読んでおり,ほのかなリスペクトを抱いた記憶があります。著者もコバルトを愛読したクチなのか,個人的な感想こそ書いていませんが,コバルトは重要なんだ!という声が行間から滲み出てくるような,いい文章でした。
2009.07.22
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(2008,ハヤカワ文庫JA,早川書房)『SFを読みたい!2009年版』国内部門第7位。短編集ですが,面白いのとつまらないのが両極端でまとめづらいです。*表題作は「新しい人類への移行」という本作のテーマを高らかに謳うファンファーレ的小品ですが,分子生物学者という設定の主人公が,進化の仕組みやその解釈については,まことに薄っぺらな理解しかしていないことに落胆しました。でもツカミはばっちりだし,チラリズムも心得ているし,読後感は爽快だし,一服の清涼剤としてなら一読をお勧めします。「Love me Me」は力作です。SF界では手垢にまみれているはずの自我の定義にまつわる物語ですが,描き方が丁寧でいいです。普通の人間が,全く異なる存在になっていく過程を,実に細かい段階ごとに分けて描いていくので,主人公の心理を追体験するかのように,自然に感情移入できました。さらに結婚や死といった方向にまで展開しますが,主人公の彼女は結局,後戻りのできない段階へと足を踏み入れる決断をします。ありきたりの救済をつい期待する読者心理をあっさり袖に振るわけですが,SF愛好者にとってはこれこそがSFプロパーな醍醐味でしょう。「Slowlife in Starship」はいかにも「プラネテス」的で面白かったです。悩み方といい,引きこもり方といい,開き直り方といい,やる気の出し方といい,さらりと隣人の大切さを描く筆致といい,急に視点を転換する手際といい,まるっきりハチマキみたい。読んでて楽しかったです。*「千歳の坂も」はもっと丁寧に展開させて長編にすれば,面白くなりそうなんだけど,性急な終わらせ方が残念です。ラストのポリネシア伝統社会を舞台にしたSFは旧作の番外編ですが,あまりのセンスの古さにがっかりしました。
2009.07.15
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(2007-2008,ファミ通文庫,エンターブレイン)『ライトノベル文学論』で紹介されていた「きわめて珍しい,スポ根系ライトノベル」。二冊とも一気に読み終えました。優等生(猫かぶり)の主人公が,転校してきたハイテンションな帰国子女のラクロス部再建運動に巻き込まれ,部員集めや他部との軋轢,初の練習試合や公式試合に奔走するという―それはもう典型的な部活青春コメディ。*文体は,ライトノベルズとしては落ち着きがあり,佐藤多佳子『一瞬の風になれ』を思わせるものがあります(けして大袈裟でなく)。マイナー競技であるラクロスのルールや,独特の練習法,初心者にありがちな失敗などをさらりと読ませる手腕は見事です。また,女子同士のいさかいや仲直り,敵対関係にある運動部の立場を慮ったり,他競技からの転向などを描く場面では,生身の若者が現実に経験するであろう葛藤を,かなり丁寧に描写しています。あとがきの文章からうかがえる,作者の人柄にも惚れました。2巻まではトントンと出ましたが,続刊の可能性は微妙なようです。えらい気に入ったので,なんとか後押ししてあげたいのですが。
2009.07.13
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(池澤夏樹編・世界文学全集 1-5,2008,河出書房新社)『SFが読みたい! 2009』で知りました。書店でも目立つ,あのカラフルな世界文学全集の1冊です。カバーはほぼ無地ですが,巨大な帯には絵画的なイラストが描かれ所有欲をそそります(買ってませんが)。中でも本書のイラストは印象的です。二本足で立つ黒猫と紳士という非現実的な組み合わせは,まるでマグリット。その猫がばら撒くトランプが宙を舞う絵は,映画のCFみたいです。*まずはスターリン時代のロシア人作家というイメージとはかけ離れた,その作風に驚愕しました。奇妙な登場人物がごろごろ出てくるのに,ほとんど説明も無しにさくさく話を進めてくあたりなどは,キング以降の本格ホラーかサイバーパンクみたいです。そして,悪人とも思えぬ人物が突如悲惨な死を迎える冒頭の場面は,ショッキングだけど劇的で,まるでキル・ビルか西島大介の漫画みたい。序盤のイメージは,残酷,シニカル,不条理。でも,作者がかくも執拗に攻撃するものは,どうやら特権意識,虚栄,自己顕示とかいったものらしいので,そのへんが痛快なのです。*何度か差し挟まれるのが,ローマ帝国のユダヤ総督ピラトゥスによるヨシュア(イエス)の尋問と処刑の挿話です。これが本編とどう関わってくるのか,徐々に明らかにされていく仕掛けがめちゃくちゃ面白いです。遠藤周作『キリストの誕生』をもう一度読み返して復習します。雨の日に読むのがしっくりくるような,酩酊にも似た重厚な読書感覚を味わってます。今まで読んだ中でも一番分厚い小説かもしれないけど,ジェットコースターみたいに手がとまらない,本気で面白いブンガクです。ガルシア・マルケスも読んでみたくなります。
2009.07.11
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(2004-,ビッグスピリッツコミックス,小学館)「おお振り」のような特異な内面描写もないし,「ザワさん」のような映画的ギミックもありません。ゆえにセンセーションは起きなかったけれど,読者を選ばず,誰にでも勧められる野球漫画です。でも,並みの野球漫画じゃありませんよね。あだち充並みに敷居が低いけど,「おお振り」並みに理論武装されており,そして思いっきり笑えます。つまり素晴らしく洗練されているんです。原作と監修と作画が,こんなにハイレベルでマッチした例は珍しいんじゃないでしょうか。*何が面白いって,ベンチでのやりとりが笑えます。監督とマネージャーを主軸として,ガチでヘタレな毛呂山部長がからむかけあい漫才は,ややマンネリ気味ながらも,その安定感には定評があります。監督やマネージャー,は状況に応じてボケとツッコミの役柄が入れ替わったりして,読者を飽きさせません。「あたしもポッポと仲良しじゃーん」とか「もちろんデータですよマネージャー」とか「なぬーー!」とか,オチの多彩さには目を見張るものがあります。最近は,常識人ぽい八潮捕手がこのコンビに割って入って思いがけぬ笑いを誘ったり,いつのまにか無敵のツンデレキャラになった美里さんの登場場面は,いまやはずせない見所となってます。*本誌ではとうとう決勝戦が始まりました。囲碁風に言えば,ここまで盤面穏やかに展開してますが,そろそろ起承転結の承にさしかかります。個人的には,終盤に持ち上がった学園売却問題の決着の付け方がやや心配です。理事長が意外なアホキャラだったために,問題の深刻さが削がれた気がするのです。これでバッドエンドの可能性にハラハラする余地が減り,ハッピーエンドだった場合の安心感が目減りしたような気がするのです。とはいえ,連載はもう終盤。囲碁で言えばヨセに入ってるわけで,これ以上ケチはつけず,この息詰まるローリングストーンな展開を見守るつもりです。
2009.07.10
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(生田耕作訳,1974,中公文庫,中央公論社/ 原作:1959)内容は面白かったです。何度も読みたくなります。『世界小娘文学全集』で「筒井康隆みたいな人」と書かれてたけど,まさにそんな感じ。しかし訳文は,実に読みにくい。誰のセリフかわからない箇所があるし,古臭くて不自然な言い回しが多いです。なのに今読めるのは中公文庫だけ。…新訳絶賛募集中!*ザジは言います。将来教師になって,女の子を目一杯いじめてやると。それを伯父さんにたしなめられたザジは,じゃあ宇宙飛行士になると言う。火星に行って,火星人をいじめてやるんだと。ザジが他の女子とうまくいってないことは明らかです。この娘が一方的にいじめられてるとは思えないけど,けして旗色は良くないらしく,ナーバスになってることがわかります。伯母に聞かれても,学校のことは言いたがりません。このザジのひねくれ方が好きです。彼女は大人との戦い方を知ってます。攻撃のかわし方と引き際を心得ています。私はそのしたたかさに憧れ,嫉妬します。アラン・シリトーの「長距離走者の孤独」とか「ジム・スカーフィディルの屈辱」に登場する,食えない少年たちに似ています。それからやっぱりラストがすごくいい。ザジは地下鉄を見たくてパリに来たのに,地下鉄はストでとうとう動きませんでした。そんな事情を知らない母はザジに「地下鉄は見たの?」と訊き,そのあと短いやりとりがあって,この物語は終わります。およそまとまりというものを欠くこの作品が最後の数行できゅっと引き締められる,この手際といったらたまりません。逆に,この最後の台詞が無ければ,あえて他人には勧めないかもしれません。*映画版,見ようかなあ。でもちょっとかわいすぎない?上品すぎない?「ケツ食らえ」とか言わなかったらがっかりするよ。
2009.07.06
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『川原泉の本棚』(川原泉,2003,白泉社)中学生のとき以来お世話になってる少女漫画界の一等変光星。SF・歴史・技術系のお気に入り作品の本文とともに,川原さんらしい解説が入ります。期待を裏切らないラインナップ。ファン至福の一冊。続編も出ていますが,さっき知ったばかりなので,未読です。アシモフとポーの短編(大渦に呑まれて)が特に面白かったです。前者は予想どおりの作風,後者は予想外の作風にて。*『萌えで読み解く名作文学』(牧野武史,2007,インフォレスト)近代古典とされる和洋の文学作品を取り上げていかにもなイラストを添え,主にアニメ・ラノベファンに向けて平易に紹介している本です。類似作多いですが,その中ではいちばん気に入ってます。著者の関心の広さを反映した,良心的ラインナップだと思います。ロシア人作家など,ほとんど興味のなかった小説に興味を持ちました。しかし三島由紀夫だけは,どの書評読んでも読む気があまり起きない。*『ライトノベル文学論』(榎本秋,2008,NTT出版)文学論というよりは文学史。アマゾンのレビューでは評判わるいですが,私は気に入ってます。「ラノベとはなにか」を解説する本はいくつも出てますが,その多くは基本的には本質を追及しようとしていて,その結果空回りしてる感があります。その点,歴史的経緯に絞って解説するこの著者の選択は賢明だと思います。ラノベ初心者の私にはとてもしっくり来る内容でした。例えば,ライトノベルの成立に影響を与えた要素として,海外翻訳ファンタジーやテーブルトークRPGを挙げた点などは,なるほどという気がします。ただ,図表は高校生が授業で作らされた,やっつけ仕事のパワーポイントみたいです。頭悪そうに見えるので,とても残念。
2009.07.05
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毎年北海道で開催されるクラシック音楽祭の20周年記念の開会式が,札幌市芸術の森の野外ステージで無料公開されました。20年目にして,初めて行きました。芝生が綺麗で気持ち良かったー。一番後ろの空いてるところ,笹藪の際にごろんと転がってたら,ヤブカやマダニの襲来を受けましたが,まあそれほどひどくもなく,こないだ買ったSF短編集『夏の涯ての島』を読みながら音楽を聴きました。モーツァルトのクラリネット五重奏曲,ハチャトゥリアンの仮面舞踏会のワルツ,シベリウスの悲しきワルツなどが良かったです。予報では雨が降るはずでした。芸術の森は標高200m余りですが,いかにも山の中といった地形です。低いところを暗い雲が流れてくし,湿った空気が流れ込んできて,今にも降りそうな空模様でしたが,全演目が終わるまで,とうとう降りませんでした。私の陣取った芝生の最後方部は,我慢の限界が切れたガキ共が走りまわったり,赤ん坊をあやしたりするスペースになってました。ちょっと落ち着かないけれど,私もそれほど集中して聴いてるわけでなく,そんないかにも無料公演らしい,気楽でのんべんだらりとした雰囲気を楽しみました。*ジョルジュ・スーラの「グランド・ジャット島の日曜の午後」という有名な絵があります。そこに描かれる人々の多くはいかにも紳士淑女然とした服装ですが,手前でランニングシャツみたいのを着て寝っ転がるおっさんは,親しみ深い風体をしてます。あそこまで堂に入った中年になりきれてないのは悔しいけど,気分としてはちょっとだけ,あんな感じだった。アンコールで演奏された篤姫のテーマが終わって拍手が起こると,ステージの天井部に飾られていた何千もの風船が落ちてきて,子どもたちが興奮して拾っていきました。トイレもさほど混まず,帰りのシャトルバスも次々と来て待たされることもなく,ストレスを感じずに帰ることができました。運営の手際の良さは,さすが20年目といったところです。これから約1か月,札幌を中心にPMF関連の演奏会が各所で開催されます。日も長くなったし,気候も夏らしくなってきたし,これまでの1か月とこれからの1か月,札幌は最も天国に近づくのさ。さて来週は,どこに行こっかな。
2009.07.04
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(2009,ベツコミフラワーコミックス,小学館)高校時代の同級生の死をきっかけに,大学1年の水帆が複雑な人間関係に立ち入るはめになります.そして自分が見落としてきたさまざまなことに気づき,人間観が変わっていくという筋立てです.謎解き部分はミステリ的だし,いじめや堕胎やストーカーに向き合う過程はサスペンス的で,華やかさはありませんが『キス&ネバークライ』を連想します.1巻は暗い印象に終始しましたが,2巻ではほがらかな人間模様も差し挟まれて深みが増します.また予想以上に複雑な設定が姿を現し,一気に面白い展開になってきます.普通の人がぽろりと出してしまった不用意な言動が,他人から見ると不気味に見えてしまう.そして人の噂がその不気味さを増幅していく.たいていの悲劇を引き起こすのは,異常な人間の突飛な行動ではなく,ありふれた人たちの,ありふれた心の動きなのだと思います.だからこそ切ないし,だからこそやっかい.キスネバほど細部まで洗練されてないけど,先の見えなさが期待感を煽ります.私の知らなかった作家さんですが,中堅どころの実力派というかんじで頼もしいです.前作はドラマ化されたそうですが,一転してこんな暗い話に,気合いを入れて描いてることに好感を持ちました.傑作かもね.
2009.07.01
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(2009,河出書房新社)なぜ「少女文学」ではなく「小娘文学」なのかと気になって手に取りました。装丁も洒落てて綺麗だし,「志は高く心は狭く」というキャッチフレーズにも笑いました。明らかに普通じゃない書評を狙っていますから,最初に何を紹介してるかでその心意気が推し量れるはずです。そしてそれは『地下鉄のザジ』(クノー)でした。「なんて臭えやつらだ」で始まり「歳をとったわ」で終わる,口汚い少女と大人たちの,パリをめぐるお話とのこと。ちょいと立ち読みしてみたところ,私の好きな『長距離走者の孤独』にちょっと雰囲気似てたので,買うことにしました。*時代がかった話し言葉とか,私の苦手な嶽本のばらを彷彿とさせるボキャブラリー(「スヰート」とか)満載の文体ながら,私はこの著者が大層気に入りました。高慢でありながら,仮想敵たちへの皮肉がじつに面白いのです。人を気持ち良く笑わせるということは,度量が大きくないとできない技術です。あきれることに,本書で紹介された作品に,私の読んだことあるものは一つもありません。知っている作品も『悲しみよこんにちは』『ティファニーで朝食を』『高慢と偏見』など片手の指ほど。サキもポーもほとんど読んでない私は今,この本にたくさんの印をつけまくってます。尻切れとんぼで何を言いたいか全く不明な文も多いのは欠点ですが,引用が巧みで,悔しいほど興味をそそられます。一連の引用からおぼろげに感じられる未知の雰囲気からは,私が少女漫画の世界をはじめて知った時の興奮を思い出しました。ま,あんな興奮を味わうには私も歳をとりすぎたかもしれないけど,注文した「ザジ」が届くまでの数日間,そんな期待に体をあずけてもいいじゃないかと思っています。
2009.06.28
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YouTubeにて『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』を観ました。12分割された最後の回は削除されていて観られなかったけど,めちゃくちゃ面白かった。ダレるシーンがほとんどなくて,あっというまに時間が過ぎていきました。記憶はおぼろげですが,公開(1984)から数年後ころに,テレビ放映されたものを観たことがある気がします。この奇妙な世界をどう思うと面堂に,訊かれたラムが,とっても楽しいと答えた後の,水鏡が広がるシーンの印象が強烈でした。ウィキペディアを読んで知ったけれど,ナウシカと同じ年の公開だったんですね。ある期間が永遠に繰り返されるという設定は,たぶんSFでは何度も使われてきたことでしょう。私が思いついた作品は,星新一『白い服の男』(新潮文庫)のラストに収められているショートショート「時の渦」です。ラストの種明かしは賛否が分かれるかもしれないけど,星さんとしては皮肉だったのではないでしょうか。それはともかく,普通の男の視点から描かれる非現実的な世界が淡々と述べられる文章に,とても奇妙な心地よさを覚えます。最近読んだものにも,たぶんこの映画へのオマージュでもあると思われる短編があります。涼宮ハルヒシリーズ第5作『涼宮ハルヒの暴走』に収められる「エンドレスエイト」。高校生の男女,終わらない夏,甘美なモラトリアムの記憶,こういった手垢のついた設定に,どうして私たちは飽きもせずノスタルジーを仮託できるのでしょう。と疑問文で書いてはみたもののそんな問いに答えるつもりもなく,いいよなあとつぶやきながら私は甘美な余韻に浸ったままでいるところです。現実もしばらく夏日が続きそうですから。
2009.06.27
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(2009,太田出版)『おかえりピアニカ』,『向こう町ガール八景』に続く第三作目の短編漫画集。私立女子高のとあるクラスの日常が,オムニバス式に描かれます。何人かの少女たちが,一人で楽しむ趣味を持っているところが素敵です。たとえば機械修理。たとえば短館上映の映画めぐり。そして教室で飲む早朝コーヒー。彼女らは一人で楽しみ,たまに仲良しとも楽しみ,なりゆきで気に食わない奴とも遊ぶはめになったりするのです。最後の10頁に描かれる無人の校舎が,とにかく見所です。そして読み終わったあとに冒頭の8頁を読み返すと,印象的な登場人物たちが,最初からそこに描かれていたことがわかる仕組みになってます。*ところで私の中の漫画家ランキングは,<1位>杉浦日向子,<2位>高野文子とこうの史代,<3位>黒田硫黄,という感じですが,衿沢世衣子(えりさわ せいこ)がここにぐいぐい近づいてくる印象を持ちました。正直,上記4人のような凄みは感じないのですが,彼女にはいかにも天才にありそうな力の抜け具合があります。常識に根ざしたくすぐりも盛り沢山なのだけれど,その足下には,虚無や諦観が広がっている気がします。
2009.06.06
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(2008,小学館,ガガガ文庫)昨夏ごろには多くのブログで紹介され,総じて絶賛でした。その中に,宮崎駿アニメに雰囲気が似てるとのコメントが複数あったので興味を持ち,読んでみました。アマゾンへのコメントを読んでも,読者の盛り上がりようがうかがえます。*主人公の少年は軍命により,皇太子の妃となる少女を,大洋を隔てた本国に送り届ける任務を命じられます。しかしあえなく敵艦隊に見つかり,武装をほとんど持たぬ二人の飛行機は,ひたすら逃げつづけることになります。少年は,軍には失望しているのに,それでもその中でしか生きられない自分の立場を受け入れます。しかし,その手枷足枷を嵌められた立場を超えることなく,彼は物語に爽快な幕を引いてみせるのです。そのラストのすごさに,全国のラノベファンが涙しました。*真っ向やり合う戦闘シーンはありません。とにかくひたすら,逃げて逃げて逃げまくります。この制約が,物語をギュッと引き締めます。その逃走シーンの間ずっと,物理法則に押しつぶされるような息苦しさを感じます。そして切ないのは,敵が去った後に,彼らは自国の組織の前でふたたび無力感に陥るのです。読者はおそらく考えます。誰も踏みにじることなく,自分の感謝と誇りを彼女に伝えるために,しかも限られた時間内で,そこで一体何ができたというのだろうと。彼が見せた機知と反骨とその優雅さに,ひれふしたくなるラストがあります。おそらく読者は単純な喜びにも,単純な悲しみにも落ち着けない。だからこそこのラストはすばらしい。せつなさとほほえましさ,無念さと爽快さといった,豊かなアンビバレンスがそこには満ちています。この感想文に手をつけてから一年くらい経ってしまいましたが,そうしてぼやぼやしてるうちに,本作の番外編的な作品まで出ちゃいました(「とある飛空士への恋歌」)。これからもこんなかんじで旧作の感想文を「いまごろ?」みたいなタイミングで書くことになりそうです。ちなみに今ごろ,涼宮ハルヒシリーズ読んで盛り上がってます。
2009.05.27
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(2009, アクションコミックス,双葉社)こうのさんの初期作品(4コマなど)を読むと,そのこらからすでにコメディセンスは異質です。短編集『長い道』になると,これは単に「ほのぼの夫婦生活コメディ」とはまとめられない異様なシロモノに仕上がってます。それでもやはり,笑えるのですから,彼女は根からの喜劇作家なのだと思います。*本作では,広島と呉に住む人物たちをめぐる太平洋戦争末期の三年間が描かれます。主人公の身近な人が死に,見知らぬ人の死が日常にあふれかえります。それでも生きている人はいるわけで,もちろん生きている限り,かれらは笑うのです。この作品では,本編の中に主人公が創作した話(鬼イちゃんの話など)が登場するほかに,「本編とも幻想ともつかない話」が差し挟まれます。たとえば最終話では,1巻で登場した毛むくじゃら怪人や座敷童が再登場します。これらのエピソードは事実なのか,主人公の想像なのか,あるいは作者によるメタフィクションなのか。何度か読めば,およその見当はつくのですが,とあるアマゾンのレビューが指摘するように,分かりづらい,と言われればそのとおりです。しかし,このわかりづらさが欠点とは私には思えません。これらの挿話は,「この世の苦汁や絶望に対して,武器も権力も持たない者が,想像や空想をその手にたずさえて,一体どう現実に立ち向かえるというのか」との問いに対する,こうのさん渾身の答えでしょう。これは kaien さんのブログ(Something Orange)を読んで気付かされたことです。また,『物語の役割』(ちくまプリマー新書)で小川洋子さんが論じたことでもあります。こうのさんのこれらの表現は,人間というものの叡智なのだと思います。あのホンワカした絵柄で,多重層の複雑な物語を描ききってしまうところが,こうのさんの不可解さです。彼女は一種の妖怪変化なのでしょう。たしか京極夏彦作品の表紙で,鳥の姿に似たウブメの絵がありました。ならば,さしづめこうのさんは,セキセイインコ柄のウブメでしょう。物語がもつ力というものを,私はここで受け取りました。この僥倖を,こうのさんに連なるこの世界の,誰かしらに返していけたらいいなと思います。はじめは拙くとも,大事な人のために,それを使えたらいい。例えば,すずが寒い冬,知り合った女に南の島の絵を描いてあげたみたいに。*サーテそれでは「桜の国」をもいちど読もっかな。そして,杉浦日向子さんの「合葬」をまた読もう。それからそれから,高野文子の「美しい町」を読むんだ。彼女たちの漫画を,死ぬまでのあいだに何度も何度も読み返せるとは,ありがてえなあ。
2009.05.17
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(Joe Hill,2008,小学館文庫)『このSFが読みたい!2009年版』海外編第4位。SF初心者がこつこつ話題作を読んでいくというテーマの,第三回目です。(一回目は「夜更けのエントロピー」,二回目は「ハローサマー,グッドバイ」)表紙の絵はぱっとしないけど,約18編700頁余りでアンダー1000円は魅力です。前半は不満でしたが,ラストの数編は確かにすばらしく,我慢して良かったです。*私好みの短編をみっつ挙げますと,1位「自発的入院」 読み終えて,ほうとため息をつき,本を閉じました。自閉症と診断され,話があまり通じない弟が,徐々にそれまでとちがう姿を見せてきます。それは,兄にとってただ恐ろしいだけでなく,共犯関係のような安心感も伴ってきます。その弟が姿を消したいきさつにたいする感慨は,単純ではなく,とても複雑ですが,そこがたまらなく良いです。何度も読み返したくなるような味わい。2位「おとうさんの仮面」 作者の妻が「頭おかしくなりそうなほどいい!」と絶賛したという作品。両親がいきあたりばったりに別荘に行くと言い出し,車のなかで13歳の主人公の少年があきらめ顔でやれやれというような場面から始まります。少年と母親の会話が洒脱で,とくにお母さんの言葉は最高デス。後半のストーリーはおそろしく奇天烈で,正直言って何がどうなったのかわかってません。星新一が似た雰囲気の短編をいくつか書いていた気がするので,探してみます。3位「ポップ・アート」 設定は思いきり奇をてらっているけれど,ストーリー自体は単純です。孤独な少年がたった一人のマブダチと別れる話です。終りかたが潔くて,いいです。『プラネテス』に出てくるハチマキの切迫感を思い出しました。いかにもホラー的な短編群は,私には退屈でした。ただし「黒電話」は,風通しの良い素っ気ない語り口が私の肌に合います。読後感の良いものとして,「二十世紀の幽霊」「うちよりもここのほうが」「ボビー・コンロイ,死者の国より帰る」は万人に勧められます。とくに表題作はいろんな魅力が揃ってて,良質なアメリカ映画のようです。また,キリスト教徒特有の苦しみに興味がある人には「救われし者」が面白いかもしれません。ちょっと高村薫的な,一見殺伐としたストーリーだけれど,筋がシンプルなので良いです。ありふれた愚かな男の苦悩を正面から描いてて,ああ文学を読んでいるなという気になる,歯ごたえのある短編です。
2009.05.03
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(2009,ビッグスピリッツコミックス,小学館)規定により公式試合に出場できない女子高校生野球部員,都澤さんの日常をスナップショット的に6-8ページに収めた話の連作集。*男子部員は思ってることを口に出すけど,肝心のザワさんの心理描写は書かれず,ひたすら他者視点で描かれます。これが,読者の想像の余地を与えていて,巧みです。もう一点,巧いと思ったのが「ザワさん」という呼び名。これのおかげで,とても小粋なタイトルになったし,部員からザワァーと無造作に呼ばれることでリアルな雰囲気が出てます。exiteの記事によると,作者の三島さんはもともと野球部にいい印象を持っていなかったそうです。第9話で登場する女性たちの下世話な会話は,あるいはかつての作者の視点かもしれません。この作品では,しばしばそういう「野球部に対して,ついさっきまで全く興味なかった人」の視線から描かれます。このことは,一般の野球漫画とはちがう不思議な雰囲気をこの漫画にもたらしています。*この作者が印象的な一瞬を切り取ってみせる手腕たるや,読者のフェティシズムをくすぐるのもいいかげんにしろと言いたくなるほどですが(むろん反語表現),その最たるものは第二話「バッティングセンター」です。ボックスに入り,バッティンググローブをはめ,バットでこんとベースを叩き,肘の位置をきめ,足(ローファーの靴)を定位置にすっと置き,という一連の動作。この数ページにわたる淡々とした動作描写を見て,『エマ』の身繕いのシーンを思い出したのは私だけでしょうか。私がとくに好きなのは第十五話「都サン」。ザワさんと同級の,文化系女子の視点から描かれる話です。彼女は自己主張の激しい他の運動部女子に辟易する一方,いつも気だるそうでマイペースなザワさんに親近感を抱きます。彼女は新聞部の活動という名目で,ザワさんの練習姿の観察を目論みます。たった8ページなのでさしたる展開はありませんが,部活モードに入ったザワさんに戸惑う彼女の雰囲気が,じつに良く描かれています。私はこの新聞部の女の子に,猛烈に親近感をおぼえました。彼女がこのとき「都サン」に感じたものは,畏怖でしょうか。それとも,ああこの人は違う世界の住人だと悟った時に感じる,嫉妬にも似た悲哀でしょうか。
2009.05.02
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私は最近たまに,歯磨きについてのウェブサイトを見ながら歯を磨いています。いつもより熱心に磨くようになるのが良いです。また,歯垢染色剤など,あまり馴染みのなかったデンタルグッズについて知るのも楽しいです。新しいブラシや洗口剤を使うようになると,歯磨きの時間も楽しくなってきます。歯磨きってのはすぐ飽きがちなので,こういった変化はよい刺激です。私は昔から歯磨き粉のミント風味はやや苦手だったのですが,最近アップルミント系香料を使用したペーストを試したら,えらく気に入りました。こんなちょっとしたことで毎日の退屈な習慣が楽しくなるもんなんですね。*しかしデンタルフロスだけは,20年近く前から使っています。当時はあまり一般的ではなかったと思います。始めたきっかけは,少女コミックの成田美名子『CHIPHER(サイファ)』でした。1巻で,アニーがサイファと出会って間もない頃,フロスを勧められるくだりがあります。これを見てなんだか面白そうだと思い,フロスを買ってみました。ジョンソン&ジョンソン,ノンワックスタイプ。やってみたら,思ってた以上に歯垢がとれるわとれるわ。たちまち好きになりました。*『サイファ』はドラマとして見ても特別出来が良かったですが,生活の何気ない習慣やニューヨーク都市文化にしても,じつにさりげなく「かっこいい」と思わせられるまんがでした。成田さんはその後『Natural』でバスケと弓道を,『花よりも花の如く』で能をフューチャーするという伝道士的な役割へとすすんで踏み込んでいくわけですが,あの衰えの無さとクオリティの高さは驚異です。おかげで「サライ」の能の特集号のバックナンバーを買おうかどうか迷ったりしてます。北海道だと能を見る機会なんてほんと少ないのにさ。。成田さんたらおすすめ上手なんだから。
2009.04.26
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(2009,マーガレットコミックス,集英社)つばさという娘の面白さは,そのアンビバレンスです。一見内向的なくせに体育会系のブラバンに入り,一見弱気なくせに自分の選択をかたくなに守り通そうとしている。だから,勇気を絞り出してしんどい現実に立ち向かう彼女を,がんばれという気持ちで見守っていたくなるのです。「おお振り」で三橋にがんばれといいたくなるみたいに。弟がつばさを「あのひと頑固だから」と評するのも,不器用なくせに自分の価値観をゆずらない彼女の性格を,ちょっと羨んでるためでしょう。付かず離れずのこの姉弟独特の雰囲気が面白いです。*最大の見所はやはり,つばさが失敗への恐怖感に屈服してしまう場面。長いコンクールの間,つばさのモノローグは無く,撮影された映像のように他者の視点から描かれます。そのとき彼女が何を考えているのか,読者は想像で補わなくてはいけません。それゆえ,コンクール終了後,一気に訪れる彼女のショックが生々しく伝わってきます。本作はじつに典型的な青春物語なのですが,意外と先が読めず,いつもちょっとした驚きや,新鮮さを感じます。作者は,どっかで見たようなありきたりな展開を避けて,自身の頭で思い描いた絵を描こうとしてるように見えます。つまり作者は自分の中の現実とつねに向き合っているのだと思います。嘘っぽく見えないのも,読んでて恥ずかしくならないのも,そのせいだと私は思うのです。『おおきく振りかぶって』や『ちはやふる』とともに,傑作部活青春ものとして強烈に存在感を増しています。もっともっと売れてほしいです。フレフレつばさ。(『青空エール』1巻の感想文)
2009.04.23
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