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9月21日(土)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(下)(110)「ご難つづきの一週間」(27)往年の自称哲学青年や、昨今の自称文学青年が、それであり、偏えに翻訳者の無力・無神経・無責任の産物にほかならないクイズ的文章をもって、内容自体の高邁さのしからしめるところなりと錯覚し、西洋人といえば、すべてが、かくのごとくに深遠な哲学的思索の持主ででもあるかのように買い被ってしまう。いや買い被るというよりは、もともと西洋人は偉いはずだという先入主がその前にあり、サスガに偉いなァと、あらためて確信の度合いを深めるというほうが、当っています。 西洋と日本とでは、思考様式も発想法も言語構造も、まるきり違っているのだから、コトバや文節のもつ含蓄というものを、よほど巧く感じとって移し代えないことには、万事が間違ってくるのだが、強いてそういう良心的な仕事をしてみても、却って物足りなく感じる読者のほうが多いらしい。そこでクイズ的翻訳しかできない人たちにとっては、日本ほど住み良い国はないということにもなります。要するに、絶望を感じさせるようなものであればあるほど、これに越したことはないのだし、そのためには自分が読んでも判らないような翻訳を繰り返しさえすればよろしいわけだから、ことは至って簡単です。 (つづく)
2024.09.21
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9月21日(土)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(464)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。人生の階段(107)四(18)(前日)死ぬすぐ前のパウロの言葉があります。「わたしは、うしろのものを忘れ、前のものに向ってからだを伸ばし、目標を目指します。つねにキリスト・イエスにおいて上にめしてくださる神の賞与を得ようと努めています。ですから、わたしたちの中で完き人たちは、そのように考えるべきです。しかし、あなたがたが違った考え方を持っているなら、神はそのことも示してくださるでしょう」(ピリピ人への手紙第三章十三~十五節)。ですから、それからあとは単純な道です。(よりつづく) 人生の最後の合言葉である「従順」ということも、すでにそこに含まれています。たとえ最上の意味でなされるにせよ、およそ自分自身のため、自分の向上のためになされることはすべて、何といってもなお、いささか利己心の後味が残ります。老年になれば、生活がついにまったく一種の軍隊的勤務になり、そして「神の収穫」に、つまり、われわれの獲物ではなく、神の獲物に、なるのでなければ、最後の瞬間までその生活を精神的に健全に保つことはむずかしいでしょう。宗教の秘密は、人生のあらゆる段階において神のそば近くあることです。しかし、それにはまず、わたしたちは神の接近に耐えること(逃げ出さずに)を習わなければなりません。次に、神のそばに近くあることを願い、最後には、実際そうすることができ、「とこしえの燃える火のなかにさえおる」ことを学ばなければなりません。 (つづく)
2024.09.21
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9月21日(土)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。式また式また式人に見られようとするこの世の人は、式をもってしなければ何も出来ません。式でもって信者となり、式でもって信仰を続け、ついには式で墓に葬られる。式、式、式と。牧師と呼ばれる者は主として式を司る者で、式がなくなればいらなくなるのではないだろうか。式は外の事です、心には関係ありません。式は事を決めることも出来ず、心を潔めることも出来ません。人間の意志が事を決定し、神様の霊が心を潔めるのです。
2024.09.21
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9月20日(金)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(463)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。人生の階段(106)四(17)(前日)素朴と聡明、威嚇と無邪気な快活、洗練された趣味とまったくの簡素、厳重と温和、明快な知性と感激性などが、一つに融け合っていることです。こうした調和こそ、その人がこの地上で可能なかぎりの完成に達しているという印象を与えるものです。(よりつづく) 読者のなかには、どうしたら年をとってもなお若々しさを失わないでいられるか、とたずねる人がいるでしょう。それに対する精神的方法として最も大切なものは、おそらく「常に新しいことを学び、とにかく何ごとかに興味を持ち、たえず何か前途の計画を立てていることでしょう。死ぬすぐ前のパウロの言葉があります。「わたしは、うしろのものを忘れ、前のものに向ってからだを伸ばし、目標を目指します。つねにキリスト・イエスにおいて上にめしてくださる神の賞与を得ようと努めています。ですから、わたしたちの中で完き人たちは、そのように考えるべきです。しかし、あなたがたが違った考え方を持っているなら、神はそのことも示してくださるでしょう」(ピリピ人への手紙第三章十三~十五節)。ですから、それからあとは単純な道です。 (つづく)
2024.09.20
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9月20日(金)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(下)(109)「ご難つづきの一週間」(26)だいたいが、日本人には実に人のいいところがある。つまり、ジャパニーズ・イングリッシュにコンプレックスを感じるかと思えば、イングリッシュ・ジャパニーズにもまたヨワイ。ぜんぜんコンプレックスを感じないわけにもいかぬということであれば、せめてどちらかひとつだけにしてもらいたいですなァ。こんなことでは、コンプレックスの感じづめであり、割りに合わぬも甚だしいではありませんか。 ジャパニーズ・イングリッシュに舌を巻いてくれる英国人は、まずないと言っていい。それなのに、日本では、日本人でありながら日本語自体さえも覚束ないような人が辞書を片手にでっち上げた生硬きわまる訳文、つまりお世辞にも日本文とは申し兼ねるような怪奇な訳文であればあるほど、逆にこれに魅力を感じたくなるというハイカラさんが少なくないのだから、始末に負えませぬ。 (つづく)
2024.09.20
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9月20日(金)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。イエス・キリスト キリストは法王、監督、牧師、宣教師、神学博士の類では有りません。キリストはかって頭に僧冠をいただいたこともなく、また身に僧衣を着けたこともありません。キリストは、今日世間が言うところのいわゆる宗教家では有りません。キリストは宗教によって金を得たことは有りません。キリストはナザレの一平民であり、父の仕事をついて大工となりました。キリストは直感的に神様を知った者で、神学校や大学の哲学科などで宗教的知識を得た者では有りません。わたしがキリストを尊敬するのは、キリストが大平民であるからなのです。
2024.09.20
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9月19日(木)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(下)(108)「ご難つづきの一週間」(25)これも、このロンドンに到着して間もない頃のことですが、六ペンスのポゥスト・スタムプつまり六ペンスの切手が買いたくて、「シックス・ペンス・ポゥスト・スタンプ・プリィーズ」と申しましたところ、郵便局員が、わたしの顔をシゲシゲと見つめたのち、「可愛そう」というような表情をしながら、しずかに首を横にふってみせるのでした。「意地悪ッ!」という日本語にピッタリの感じの英語が咄嗟には出てこないので、やむを得ず手の指を一本一本曲げながら「ワン」「トウ」と徐ろに算えて見せてあげました。そうしたら、「オウ!シクス・ペンス・ポゥスト・スタムプのことか」と、ようやく気がついて下さったのです。考えてみれば、シックスでは、ヤマイ持ちだとか、気もちがわるくてムカムカするだとかという意味になりましょうから、局員が「可愛そう」と同情してくれたのにも一理あります。しかし、カズの上でこそ一ペニーから十二ペンスまで存在しますものの、十二ペンスのことは一シリングと言いますし、十一ペンスなどというヤヤコシイ額の切手は売っていませんから、ペンスの上につくカズとなると、二から十までに絞られてしまうはずです。だから、わたしどもとしては、年じゅう切手を売るのを仕事になすっていながら、なんとマア血のめぐりの良ろしくない人たちですことよと、思わずブツツキたくもなって参ります。しかし、そこは日本語とでは、コトバの生い立ちから構成から、まるきり違う英語のことですもの、辛棒してあげなければなりません。ただ、それにつけても思うことは、通じないのが玉に瑕(きず)というだけの話であり、しかもそれというのも、日本人の発音や発想が、あまりにも卓抜すぎるためでしょから、こんなことに、いちいち当方がコンプレックスまで感じなくてもいいはずだということです。(つづく)
2024.09.19
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9月19日(木)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(462)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。人生の階段(105)四(16)(前日)老年のこの最後の段階になっても、その人の宗教が、人と楽しく暮す助けにもならず、相変わらず周囲に対して不機嫌で気むずかしく、身勝手をあらためさせないのなら、そんな宗教は決して値打ちはなかったということになります。(よりつづく) 老年の円熟を示す一つの主な特徴は、人生において普通なら互いに排斥して相容れないようなさまざまな性質、たとえば素朴と聡明、威嚇と無邪気な快活、洗練された趣味とまったくの簡素、厳重と温和、明快な知性と感激性などが、一つに融け合っていることです。こうした調和こそ、その人がこの地上で可能なかぎりの完成に達しているという印象を与えるものです。 (つづく)
2024.09.19
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9月19日(木)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。 詩編三十七の25わたしは、むかし年若かった時も、年老いた今も、正しい人が捨てられ、あるいはその子孫が食物を乞食して歩くのを見た事は有りません。
2024.09.19
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9月18日(水)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(下)(107)「ご難つづきの一週間」(24)だんだんに脱線をして行きますが、発音上のミスにしたところで同様であり、日本人とすれば些細な違いにすぎないかのように感じても、あちらさんにしてみれば見当のつけようがないのが当り前、というケイスもあらば、またその反対に、日本人としては大違いだと思うような発音が、あちらさんにとっては却って連想の助けになるという実に皮肉なケイスもございます。 因みに、ロンドン行きの切符を買おうとして、“To London”と言い直したら、こんどは四枚くれた。途方に暮れて、「エート、エート…」と呟いたら、八枚、また八枚―という作り話がありますが、それほどではなくても、ちょっとしてコトバが通じなくてジリジリしたという経験くらいなら、憚(はばか)りながら、このわたしにだって、いくつもありますワ。 だいいち、オフロのことは「バース」と言わないとダメですヨ。このホテルに到着の翌朝のヤママス・センセイは、さんざんだったなァ。「「いつでも自由にフロに入っていいかい?」と、ルウム・メイドに尋ねたつもりだったのに、「バス」と発音したものだから、(イヤ、それだけでもなかったろうが、)「午後ニナルト非番ニナルカラ、アタシヲ待ッテ頂戴、オ世話ヲシテアゲマスワ」と、散々待たされた挙句、昼すぎには約束どおりバスの乗り場まで連れて行ってもらうことになってしまったからである。 (つづく)
2024.09.18
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9月18日(水)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(461)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。人生の階段(104)四(15)(前日)この段階のわたしたち自身のうちには、もはや善と悪との真剣勝負は存在しない状態です。なお、中世のある聖女は、聖なる境地が本物であれば、その人の外部をも整えるものだと言っているのが、まったくその通りです。(よりつづく)なぜなら、神は「秩序の神」(コリント人への第一の手紙十四の三十三)であって、なんらかの変り者を好むことは決してないからです。とりわけ、外的な事柄での風変りに対してそうです。そうした奇をてらうような「聖者」は、まったくの贋物ではないにしても、まだ未熟な聖者であることは確かです。だから、そういう人達と共に暮らすのは必ずしも楽ではありません。老年のこの最後の段階になっても、その人の宗教が、人と楽しく暮す助けにもならず、相変わらず周囲に対して不機嫌で気むずかしく、身勝手をあらためさせないのなら、そんな宗教は決して値打ちはなかったということになります。 (つづく)
2024.09.18
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9月18日(水)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。 宗教とは(3)自分を宗教の実験台に提供できない者は、説教者になることは出来ません。近代のキリスト教(他の宗教も)が無意味で、無能であるのは、個人的でなくまた一身的でなく、ただ全般的であり、社交的であったりするからです。地球上でもっとも無用と思うものは、世の中でいはゆる「専門宗教家」といわれる人々です。彼らは自分自身の真の宗教を持たず、よって真の宗教を知らず、それでいて宗教を語るからです。
2024.09.18
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9月17日(火)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(下)(106)「ご難つづきの一週間」(23)それにひきかえ、ヨレヨレになって、やっとのことで、辿りつかれたのが、某男子学生さんからのエアメイル。ナゼ10日もかかったのかしら?こんな無惨な姿におなりになるまで、どこを彷徨(さまよ)っておられたのだろうと、宛書きを見ると、LONDON UXIとかいてある。この学生さんは、もともとこれにかぎらず、考えすぎては却って失敗(いくじり)を重ねるという。まことにお気の毒な性格の人だけに、おおよその経緯のほどは、こちらでも想像がついています。 つまり、わたしのアドレスが走り書きしてあったであろう友人のメモを、見せてもらわれたとき、このメモによるとWCの1らしくもあるけれど、多分これはUX1とよむのであろう、第一、あのヤママス・センセイがWCの1などという場所にお住まいになっているはずがないとでも、お考えになってしまわれたのでしょう。この人は、万事そういうふうに気を利かしすぎるかたののです。しかも、他の諸君からのもののように、いずれともとれるような曖昧な書体で書いてありさえすれば却って判読もしてもらえただろうに、根が潔癖で几帳面な、この人のことですから、筆記体を排し、断乎、活字体をご採用になった。そして、ついでに、1のほうも、キチンとしておかなくてはと、とうとうIにしてしまいなさった。つまり、ここまで入念に仕上がっていると、万が一どこかにミスがあるという場合には、その入念さが却って禍をして、命とりになってしまうのだナァ。 (つづく)
2024.09.17
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9月17日(火)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(460)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。人生の階段(103)四(14)(前日)老年期の生活目的は実を結ぶことであって、休息することではなく、また、これからもなすべきことが残っている限り、すでになし終えたことは無価値だと見なすべきだからです。(よりつづく) このような老年の特徴は、その円熟です。それは決して思い上がった「神聖」ぶりではありません。わたしたちがこの地上で達しうる聖なる境地とは、ただ、神の意志と完全に一致し、神の意志にしたがう完全な心構えができている状態です。したがって、わたしたち自身のうちには、もはや善と悪との真剣勝負は存在しない状態です。なお、中世のある聖女は、聖なる境地が本物であれば、その人の外部をも整えるものだと言っているのが、まったくその通りです (つづく)
2024.09.17
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9月17日(火)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。宗教とは(2)「ああわれはなんと困苦(なやめる)ひとなるか、この死の体よりわれを救わん者は誰ぞや」とはパウロ自身の言葉であり、ここからパウロの宗教は始まるのです。神学者たちは、自分自身をかえりみず宗教の全般的真理を探ろうとするために、いつまでたっても真の宗教を見出せないのです。神は人の奥底の霊の、魂の叫びにおいてはじめて発見されるのです。
2024.09.17
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9月16日(月)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(下)(105)「ご難つづきの一週間」(22)前略きのうは皆さんからのお便りを手にすることができませんでした。しかし、きょうは午後になって三通のお手紙が届きました。殊に、そのなかの一通たるや、ズッシリと、いやに重量感のあるお手紙。どなたからかナ?と思って裏返してみると、差出人は某女子学生さん。「アァ、また、わたしの手紙のどこかにお気に障る個所でもあったのかしら。またなにか叱られるのではなかろうか。コワイことよ」と、オソルオソル封をきりましたところ、四日がかりでお書き継ぎになったものと見え、「眠くなりましたので、またあした」などという断り書きまでも、ところどころに差し挿みながら、やれ建設利息がどうの、それ創業費がこうのと、会計学のオハナシばかりが、十五枚の便箋のウラオモテに小さな字でギッシリ。しかも、この部厚な手紙に貼りつけてある切手はといえば、ただの一枚きり。ポストにお投げこみになったさい、バタンとかズシンとか、とにかく一種異様な反響があったに違いなく、せめてその段階にでも、思わずハッとなさりそうなものですがネェ。しかも、日英両国の郵便局にしたところで、これほどのグラマーをミスミスお見逃しになる手はあるまいがと、不思議に思えてならないのですけれど、人間かくも堂々とワルビレルことなしに罷り出られると、その気勢に威圧されるのか、それともあとの祟りが気になってくるのか、とにかくヘタにかかり合うと面倒だと、反射的に目を閉じてしまわれたのでしょう。いずれにしても、一枚の切手だけで、空路颯爽とロンドン入りをされたした。これぞ世渡りの亀鑑(かがみ)、心臓の勝利。ただただ、お見事とのみ申上げるほかは、ありません。(つづく)
2024.09.16
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9月16日(月)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(459)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。人生の階段(102)四(13)(前日)天上の霊界の生活が、およそ存在するとしましたら、この人はそのような心境によって、そうした霊たちの生活に近づいております。死後そこへ移って行くことも、今や考えられることであり、また事実可能なことと思われます。(よりつづく 地上の生活における今述べた最後の困難にも、その試練をうける人のために、この世に別れをつげる彼らの辛さを軽くしてやるという目的があることは疑いのないところです。 老人が強く生に執着しているのをみるほど不快な感じを受けるものはありません。また、これ以上に「凡俗」の印象を与えるものもありません。 こういう場合に、主として役立つ一つの方法は、決してうしろをふり向かないことです。なぜなら浄罪界では「うしろをふり向くものは、あと戻りしなければならぬ」からです。また、生涯のひと時をもいたずらに過さないで、最後の瞬間まで力いっぱいの活動を持続することも大切です。というのは、老年期の生活目的は実を結ぶことであって、休息することではなく、また、これからもなすべきことが残っている限り、すでになし終えたことは無価値だと見なすべきだからです。 (つづく)
2024.09.16
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9月16日(月)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。宗教とは(1) 宗教は個人的です。全般的では有りません。宗教は「われら」ではなく、「われ」です。複数でなく、単数です。第一人称の単数です。人類または人道の事ではなく、わたくし自身の事です。「わが神、わが神、何故にわれを棄てたまいしや。」これはイエス御自身の苦痛の言葉であり、ここからイエスの宗教は始まるのです。
2024.09.16
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9月15日(日)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(下)(104)「ご難つづきの一週間」(21) さて、こうして愚痴をこぼしておりますうちにも刻々と時は移り、きょうも、ついに午後になってしまいました。まだ、電話一本さえもかかってきません。この上は、先払いを余儀なくされ没収の憂き目に遇いかけているホテル代が、せめて一日ぶんなりとむだにならないよう、某くんの一刻も速やかなる御到着を冀(こいねが)うのみであります。 頓首閉口 九月二五日 午後一時半 (つづく)
2024.09.15
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9月15日(日)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(458)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。人生の階段(101)四(12)(前日)神のみこころであれば、どんなことでも甘んじて受けることのできる人です。しかし、そういうことは――もしそれがすべて本物であって、ただ口先だけの信念でなければ――なかなか難しいことです。それが完全に出来るようになるのは、ようやく生涯の終り頃です。 (よりつづく)というのは、その前に、利己心が以前にもまして徹底的に焼き尽くされねばなりません。また、その人の力に応じて最も苛烈な試練が実際に与えらるでしょう。または少なくとも、それにおびやかされる必要があるでしょう。そして、その時、その人が神への信頼を失わずに、その試練をきり抜けるならば、ほかのいかなる道でも達せられないほど、神に近づくことができます。われわれ現代人でも同感され理解できるような、天上の霊界の生活が、およそ存在するとしましたら、この人はそのような心境によって、そうした霊たちの生活に近づいております。死後そこへ移って行くことも、今や考えられることであり、また事実可能なことと思われます。 (つづく)
2024.09.15
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9月15日(日)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。真のキリスト信者キリストと同化した者。キリストの体の一部となった者。キリストの苦しみと喜びと、辱めと栄光と、死と復活とをキリストの中にあってキリストとともに父なる神様から分け与えられた者。これが真のキリスト信者です。「信ずる」とはこの場合においては知識的に認める事でも、感情的に信頼することでも有りません。キリストを信ずるとは、キリストの神格の中に自分の人格を投入する事です。自分を無き者にして、自分に代わってキリストが自分の中に住むようにする事です。これが信じることの最高の境地であり、真の信者にはここまでになるよう要求されるのです。キリストは神様であり、霊の宇宙です。信者がその霊界の一部分になる事によって、はじめてキリストの光が信者をとうして世に顕われるようになるのです。
2024.09.15
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9月14日(土)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(下)(103)「ご難つづきの一週間」(20)尤も、Oくんの手紙にも、「余分の御心配は御無用に」と書き添えてある。だから、「ホテルの予約まで誰がしてくれと頼んだか」と仰るかもしれないなァ。しかし、Oくんよ、このホテルは常に超満員であり、何日も前から予約しておかないと泊れないのです。しかも、某くんが辿り着くのは、昨夜おそくということでした。床の上にでも泊めてもらえるつもりで深夜に扉を叩き、床の上にさえも寝かせてもらえずに雨のロンドンの街を放浪しなければならないなんてことでは、少し可哀そうでしょう?なにぶんにも御到着の予定時刻が時刻だけに、こちらロンドン側としましては、そのようにでも取り計らうほかなかったのです。 しかも、平素に投資がしてあればこそ、こういう火急の申し入れにもかかわらずフロント嬢も部屋の工面をつけてくれたわけでした。もともとこの国のホテルというのは、サーヴィスがわるく融通のきかぬことを、なによりのモットーにしているらしく、ゼミナールの合宿所であるY温泉の旅館などとは、だいぶそのへんの事情に差がありますのヨ。あの旅館も、当ホテルと同じく「観光ホテル」を名乗ってはおられますがネ。 (つづく)
2024.09.14
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9月14日(土)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(457)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。人生の階段(100)四(11)(前日)フォリニの聖アンジェラが、自分の内に養い育てた欠点を、罪のつぐないのために、しばらくの間、自分の内に宿していなければならないと言ったのは、心理的に正当です。(よりつづく) このような試練から、まず、徹底的に謙虚な、もはや少しも己惚れのない人間になります。たとえば、なんでも自分に与えられるもので満足する人です。また、自分はこれ以上のものを与えられる値打ちがないのだと考え、現状より一層悪いものでも、それが正当に起こるのであれば、それも自分にふさわしいと思うような人です。さらには、神のみこころであれば、どんなことでも甘んじて受けることのできる人です。しかし、そういうことは――もしそれがすべて本物であって、ただ口先だけの信念でなければ――なかなか難しいことです。それが完全に出来るようになるのは、ようやく生涯の終り頃です。 (つづく)
2024.09.14
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9月14日(土)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。破壊と言う事釈迦はバラモン教の破壊者でした。キリストとパウロはユダヤ教の破壊者でした。ダンテとル-テルとはロ-マ.カトリック教会を破壊しました。破壊する事は、時と場所によっては決して悪い事ではなく、むしろ必要な事です。破壊を恐れるのは老人根性です。進歩を愛するなら、正当な破壊を歓迎すべきです。
2024.09.14
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9月13日(金)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(下)(102)「ご難つづきの一週間」(19)Oくんに申上げたいのは、そのことよりも、「床の上にでも泊めてもらえ」というような、甚だしくサモシイ、しかも「対英認識度」に欠けることを、一年後輩の新聞部員にアドヴァイスなすったという、そのあなた一流の軽率さについてであるノデアリマス。これでは、せっかく小生が老躯に鞭うちながら国威の宣揚に努め、対日認識度の向上を図りつつある矢先だというのに、その辛苦のほどが水泡に帰してしまうでは、ありませんか!だいたい、英国のホテルへ日本人が夜陰に乗じて忍びこみ、別の日本人のシングル・ルームにそのまま翌朝まで泊まりこむというようなことが、可能なことかどうか。そういうデタラメなことを思いつかれ、できるかもしれないなどとお考えになるあたりに、OくんのOくんらしいところがあるノデアリマス。しかも、しかも、「床の上にでも」とは、あなたにせよ、某くんにせよ、ともになんという見下げ果てた、なんという非ジェントルマン的な性根(しょうこん)の持主たちなのでしょう。「衣食足リテ礼節ヲ知ル」とは、このことです。(つづく)
2024.09.13
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9月13日(金)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(456)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。人生の階段(99)四(10)(前日)第三段階の人たちは、人生の最終段階において当然神への確固たる信頼があるはずです。しかし、万一そうした信頼がなかったならば、この神の最終試練にとうてい耐えることはできないでしょう。(よりつづく)しかし、この試練は、今やそのきびし一撃一撃がことごとく十倍の効果を後にもたらすでしょう。もしも魂自身がすすんでこうした苦難を欲し、神みずからの手がその苦難を無用として取り去るまで倦むことがなく耐えているのであれば、それはすでに神の恵みを受けている証拠です。またあなたの魂が進歩しているこの上ない証拠です。フォリニの聖アンジェラが、自分の内に養い育てた欠点を、罪のつぐないのために、しばらくの間、自分の内に宿していなければならないと言ったのは、心理的に正当です。 (つづく)
2024.09.13
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9月13日(金)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。テモテ第一書六の6~9 信心があり満足を知る事は、大きな利得です。わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきました。また、何ひとつ持たないでこの世を去って行きます。ただ衣食が有れば、それで満足すべきです。富むことを願い求める者は、誘惑と、わなに陥る危険が有ります。また、人間を滅びと破壊に沈ませる無分別な恐ろしいさまざまな情欲に陥る危険が有ります。
2024.09.13
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9月12日(木)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(下)(101)「ご難つづきの一週間」(18)拝啓ずいぶんこちらは寒くなり、二、三日まえからは部屋にストーブまでも入りました。しかし、きょうは、珍しく上天気です。 さて、きょうもまた、Oくんよりの速達便が舞いこみ、欧州大陸で「対日認識度」の調査を行いつつある某くんがロンドンに足を伸ばすゆえ万事よろしくとのこと。そして昨日の朝、その某くんとやらからも急報があり、先生のところに転げ込みさえすれば床の上にでも泊めてくれるだろうからとのOさんの話につき、床の上にて結構につき泊めてもらいたし、なにぶんにも旅費の残りが、いくばくもなき状態にしあればと、到着時刻まで付記しての哀訴。 そこで直ちにフロント嬢に話をつけて、小生の隣室をリザーブするとともに四日ぶんのホテル代までも前納し、昨晩から一睡もせずにこうして待ち侘びているイジラシイわたしなのに、その彼氏ときたら、ちょっとも姿を見せてくれないではないのヨウ。ホテル代のことは、みすみす没収されてしまう無念さというか、「ホテルのヤツ、ホンマニ旨いことショッタナァ」と多分にジェラシーを感じはするものの、ドブに棄てたとでも思いさえすれば諦めもつきましょう。 (つづく)
2024.09.12
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9月12日(木)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(456)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。人生の階段(98)四(9)(前日)彼らは与えられるものを謙虚に受け取っているだけで、それ以上何かを望む必要もなく、彼らの身に備わった徳の一つである謙虚な気持ちで、たえず他人のために、他人に祝福をもたらす人間になることをもとめて生活をしているのです。(よりつづく)この最終段階が始まる時に、通例、最後の大きな試練があらわれるでしょう。なぜなら、神がほんとうに関心をもつ(このように言ってよければですが)ような人たちは、みなその生涯のさまざまな段階で、くり返しくりかえし、あらためて、一種の溶鉱炉のような火をくぐらなければならないのです。その灼熱の火だけが、ダンテも言うように「霊を一人前にする」ものです。下の段階では多分まだ必要と思われた価値の乏しい成分を、彼の本質から取り除くのです。第三段階の人たちは、人生の最終段階において当然神への確固たる信頼があるはずです。しかし、万一そうした信頼がなかったならば、この神の最終試練にとうてい耐えることはできないでしょう。 (つづく)
2024.09.12
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9月12日(木)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。わたしの祈ることわたしが祈るものは、富か、権力か、知恵か、天才か、幸福か、安全か、または山を動かすほどの信仰か。そうではありません。人を愛する心、軽々しく怒らない心、ぶたれても赦す心、どこでも温良な香をはなつ心。そうゆう心を求めて、わたしは祈るのです。
2024.09.12
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9月11日(水)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(下)(100)「ご難つづきの一週間」(17)さて、Eくんをはじめとする公開討論会員の諸君よ。Eくんからのこの手紙には、徹頭徹尾ディレクト・コスティングに対する礼讃論のみが展開されているところから、わたしとしては、むしろ徹頭徹尾ディレクト・コスティングに冷水をあびせかけるようなことばかりを故意に書きつらねてみた次第です。そもそも是か非か式の討論会の場合には、是の側に立とうが非の側に立とうが、かりにどちらに回ろうが、やりこめられることのないように、両面の準備を整え上げておくべきであり、しかも、そのどちらの側に回るかは、討論開始の寸前にジャンケンをでもして決めるべきですナァ。 では、急ぎますから、これで失礼。君たちも、このスピーディーな返事の出しっぷりを見習ってくれては、どうですか?折返しと言うセリフは、こういう返信の仕方を指すためのものとして存在しているのです。でも、きょうは、よほどのことが今後数時間内にヤママス・センセイの身辺に勃発しないかぎり、夜はもう筆をとりませんわよ。わたしにだとて、仕事というものがありますからね。バイバーイ。 匇々 九月二三日 午前一〇時半 (つづく)
2024.09.11
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9月11日(水)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(455)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。人生の階段(97)四(8)(前日)第三の終末は、たいてい目立たない姿をしていますが、人生の意義をよく理解し、よく活用した生涯の最後を飾るほんとうの冠であって、来世においてもその生命はいっそう立派に継続するという完全な保証をみずから帯びているのです。(よりつづく)とにかく、人生の最後の段階において果たすべき特別な使命は、神のそば近くにあって完全に正しい生活をいとなむことです。これは、頭で考えたり口に出して言ったりすることは簡単ですが、なかなか書き現わせない、書き現わすことの難しい、書き現わされていないと言った方がいいのでしょうか。こういう境地に達したひとは、ことさらこれを記録するようなことはなさらないのです。この境地をことさら世間に発表するために生きるとか、そんなふうな考えはいっさいなく、当たり前として、淡々とこの到達した境地の生活しているからです。彼らは与えられるものを謙虚に受け取っているだけで、それ以上何かを望む必要もなく、彼らの身に備わった徳の一つである謙虚な気持ちで、たえず他人のために、他人に祝福をもたらす人間になることをもとめて生活をしているのです。 (つづく)
2024.09.11
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9月11日(水)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。批評家批評される人にむしろなりなさい。批評する人になってはいけません。前者は何かを社会に提供したために批評されたのです。後者は何も提供することが出来ないので、他人の提供したものを批評するだけなのです。
2024.09.11
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9月10日(火)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(下)(99)「ご難つづきの一週間」(16)そこで、強(し)いて意地わるい論法を用いますと、あなたがたは、期中における全部原価計算が、そのように可能であるにもかかわらず、なにゆえことさらにそれを忌み嫌われるのであるか?しかも、このように、いったんは、それを軽々しく回避なすっておきながら、なぜにまた、コストの行方が遥かに不明瞭になってしまっているはずの期末になって、ノコノコと、これを全部原価計算に引戻そうとなさるのですか?いずれにしても、ひとたび勇ましいほうの見解に左袒なさるかぎり、間違っても調整計算のごときを口にすべきではありません。この場合には、言わば、それは、一種の自殺的発言にほかならないのであります。さて、つぎに、たいせつなことは、そもそもディレクト・コスティングというのは、コストを直接費と間接費とに分類することを前提にしてのものなのか、それとも変動費と固定費とに分解することを前提とするものなのか、という点でありましょう。そして、いまさらことあたらしく注釈を加えるまでもなく、ひとしくコストの区分とは申しましても、前者が言わば計算技術面よりする便宜的な区分でしかないのに反し、後者こそはコスト自体の内容に着目しての、かなり本質的な性格区分を意味しているわけです。 (つづく)
2024.09.10
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9月10日(火)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(454)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。人生の階段(96)四(7)(前日)第三の種類の人の人生の終末はもっとも値打ちがあります。いや、本当はこれだけが値打ちがあるのです。しかし、時にはなお何らかの苦難を伴うこともあります。しかし、それは戦う力を維持するためのものです。(よりつづく) 以上の三通りの人生の結末は、シェークスピアの劇(「ヴェニスの商人」)に出てくる三つの小函に似ています。第一の終末は、金の小函にはいっていてうわべは最も立派ですが、中身はからっぽで、結局は下らないものです。銀の小函にはいっている第二のものは、値打ちがなくはないですが、いささか「平凡」です。第三の終末は、たいてい目立たない姿をしていますが、人生の意義をよく理解し、よく活用した生涯の最後を飾るほんとうの冠であって、来世においてもその生命はいっそう立派に継続するという完全な保証をみずから帯びているのです。 (つづく)
2024.09.10
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9月10日(火)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。祈るとき祈りをするときは、偽善者のように祈ってはいけません。偽善者は、人々に見てもらおうと、会堂や大通りの角のように目立つところで祈りたがる。それによって、かれらはすでに人に誉められています。ですから、神に誉められたければ、奥まった自分の部屋で戸を閉め、隠れたところにいます父なる神様に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父なる神様が報いて下さるのです。
2024.09.10
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9月9日(月)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(下)(98)「ご難つづきの一週間」(15)要するに、ディレクト・コスティング自体の効用の限度いかんを巡って、げんにふたつの見解がへいぞんしていますだけに、そのいずれを前提にしつつ討論を進めるかということが問題です。しかし、この点については、むろん勇ましいほうの見解こそを、あなたがたも暗黙の前提になすっておいでなのでしょう?そうでなければ、いまさらことあららしく「ディレクト・コスティング是か非か」などと、めくじらをたてて議論なさるおどのことも、ありませんからネ。 そして、もしも、そういうことであれば、かりにもディレクト・コスティングを支持しようとなさるからには、ディレクト・コスティングを前提とする損益計算のほうが、伝統的なそれよりも、なぜベターであるのかを、みずからの責任において積極的に立証なさるべきでしょうし、またその場合には期末に原価差異の調整を行うなどして全部原価計算に引戻してしまうような小細工を、こんりんざい黙認なさるべきでありません。 つまりディレクト・コスティングを前提とする損益計算のほうがベターであるということであれば、原価差額の調整など、そのこと自体が、もともと不必要なはずはありませんか!しかも、その必要性の有無までは、しばらく惜くとしても、期末における調整計算を可能と考えることに、既に矛盾がありはしませんか?と申しますのは、期末において調整計算が可能であるということは、期中にあっても全部原価計算が必ずしも不可能ではないことを意味するからであります。 (つづく)
2024.09.09
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9月9日(月)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(453)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。人生の階段(95)四(6)(前日)死亡したときは、世間もよろこんで立派な葬儀を営んでくれるでしょう。これが第二の人たちの生涯で、これでもってすべては終了します。(よりつづく)第三の種類の人たちの晩年は、より高いいのちへの前進です。言ってみれば、常に鋤から手を離さず、決してうしろを振り返ることなく、たえずこれから到達するべきものに目を注いでいる生活です。本来こうした人生観は、来世を信じる人達のみが持つことのできるものです。もっとも、来世を信じなくてもまじめに働いている人にも、こういう人生観をいだく人があります。しかし、こうした人たちの場合は、自分の力がたえず衰えてゆくことに対する悲しみが付きまとっています。いずれにしましても、第三の種類の人の人生の終末はもっとも値打ちがあります。いや、本当はこれだけが値打ちがあるのです。しかし、時にはなお何らかの苦難を伴うこともあります。しかし、それは戦う力を維持するためのものです。 (つづく)
2024.09.09
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9月9日(月)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。神と共に わたしに慈悲の心がないのは、神様が心にいないからです。わたしが恐れるのは、神様がわたしと共にいないことです。わたしが美を感じず、宇宙と人生を楽しむことが出来ないのは、わたしの心が閉ざされていて、神様を見る事が出来ないからです。歓喜がなく、勇気がなく、常に重荷を負うように思うのは、わたしが神様から離れて独りで歩くからです。
2024.09.09
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9月8日(日)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(下)(97)「ご難つづきの一週間」(14)ところで、謙遜は、このくらいにして、ぼつぼつ本論に取りかかるとしようか。質問者のEくん自身はディレクト・コスティングの礼讃者なのだそうだが、一口にディレクト・コスティングとは言っても、ディレクト・コスティング自体についての相互の理解を統一した上で議論を始めないことには、せっかくの応酬も並行線を辿る虞れがある。というのは、最初のあいだこそディレクト・コスティングを支持する人たちの論調にも節度のほどがたもたれていたものの、このころではディレクト・コスティングに準拠しつつコストの算定を行うことこそが、損益計算的にもまた正しいかのような主張、つまり従来の損益計算理念を真向から否定し去ろうとするかのような、たいへんに勇敢な見解までもが、続々と登場しつつあるからにほかなりません。 (つづく)
2024.09.08
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9月8日(日)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(452)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。人生の階段(94)四(5)(前日)どんなに上品な姿をしていようとも結局、会う人ごとに不快な感じを与えるのです。どんなに身分が高くても、することのなく暮している人たちは、たいていこのような晩年を迎えるものです。(よりつづく)第二は、第一よりは、かなりましな人生です。その人たちは、生涯のおもな時期を多忙のうちに過ごしています。そして、晩年をひまな日々を過ごすのです。蓄えられた財産の上に憩いの日々を過ごします。とりわけ都合のよくいった人たちは、別荘や隠居所で家族たちの尊敬を保ちつつ上品に過ごします。青年時代や大学時代、旅行や従軍などの思い出にふけり、回想録を書いたりします。または、記念の祝賀会を催してもらったりします。そして、悠々自適に老後を過ごします。こうした人たちは、常にそれらの生活に結びやすい多少の虚栄心とせせこましさとを除けば、罪のない晩年といえるでしょう。こういう老人たちはだれの邪魔もしないという理由からも、一般に世間の人たちは、そういう人たちの生活に最も多く理解を示します。ですから、死亡したときは、世間もよろこんで立派な葬儀を営んでくれるでしょう。これが第二の人たちの生涯で、これでもってすべては終了します。 (つづく)
2024.09.08
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9月8日(日)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。完全なホ-ム(家庭)完全なホ-ムを造るのは、完全な人を造るように難しいのです。格言に、「身、修まりて、しかして後、家、ととのう」とあります。ホ-ムというのは平安を求めるところではなくて、平安を与えるところなのです。ホ-ムというのは幸福の貯蔵所であって、幸福の採掘所ではないのです。幸福を求めて作ったホ-ムは、必ず破れるでしょう。幸福を与えようとして作ったホ-ムは、幸福なホ-ムとなります。ホ-ム、ホ-ム、マイホ-ム。多くの青年男女がその幻影にあざむかれて、失望することでしょう。
2024.09.08
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9月7日(土)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(下)(96)「ご難つづきの一週間」(13)ただ、きょうのEくんからのご質問事項というのは、講義やゼミナールの範囲外に属するものですし、しかも、お手紙によれば、三田祭で『ディレクト・コスティング是か非か』という公開討論会を行うにあたっての参考意見にしたいという趣旨のもののようですので、今回に限っていわば例外的に小生の見解を申しのべることに致します。しかし、ほんとうはこのディレクト・コスティング(direct costing)にしたところで、もともと小生よりもAセンセイのほうが遥かに造詣が深いのですよ。少なくとも、このロンドンぼけのヤママス・センセイが書き散らすことなどを、まともに御信用になると、討論会で大恥をかく結果になりますよ。尤も、三田祭のさいに選りに選って「ディレクト・コスティング是か非か」などというテーマで公開討論会をお開きになってみたところで、恥がかけるほどお客さんのほうが集ってくれますまいがね。(つづく)
2024.09.07
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9月7日(土)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(451)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。人生の階段(93)四(4)(前日)どの段階にも、一番下の段階にさえも、最高の段階にぞくするものがすでに何程か含まれているので、より多くを渇望しなくても、それに希望をかけているだけで、魂が満足させられるからです。(よりつづく) 年老いた人達の生活には、普通三つの考え方が現れてきます。外的に恵まれた境遇にある老人の普通の考え方は、生活享楽者になりがちです。品のよしあしの差はありますが、余生を出来る限り享楽しようとするものです。時には青春時代を忘れられなくて、そのまねごとに没頭しようとするのです。そうした性向の根底には利己主義があります。そういう人は、どんなに上品な姿をしていようとも結局、会う人ごとに不快な感じを与えるのです。どんなに身分が高くても、することのなく暮している人たちは、たいていこのような晩年を迎えるものです。 (つづく)
2024.09.07
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9月7日(土)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。神の造りし世界この世は神様の造りたまいし世界です。悪人の思うままになると思ってはいけません。神様には神様の計画があります。その計画は完璧に実行されなければ止みません。わたしが悪人の成功を見て憤(いきどお)ったり怨(うら)んだりするのは、まだまだ神様を信じる力がすくないからです。
2024.09.07
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9月6日(金)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(下)(95)「ご難つづきの一週間」(12)実は、これまでも、会計学上の問題についてアレコレと質問をお寄せ下さった方がたがありますが、そのつど個々にご返事を差上げ、それに応じられない旨の回答を繰り返してきました。と申しますのも、小生としては、あなたがたにたいするこの一年間の会計学の指導をAセンセイに御一任申上げてしまっているからです。指導をお願いしておきながら、私見なるものを蔭で学生諸君に申し送るというようなことであっては、Aセンセイにしても、やりにくくて仕方があるまいし、それに第一こんな失礼な話はない。どうか、そのへんのところを御諒察の上、もしも、どうしても質問がしたければ、ロンドンのサカナヤには、なにが並んでいるか?というような類いのものにしていただきたく、こと専門の領域に関する御質問だけは、今後とも平に御容赦願いたい。(つづく)
2024.09.06
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9月6日(金)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(450)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。人生の階段(92)四(3)(前日)これは仕事を与える主人の慈悲のおかげですが、しかしこのことに対しては、今日でもなお多くの人々が不平を鳴らしています。つまり先に来て仕事をしているのに後から来た人間と同じ賃金では不公平というのでしょう。(よりつづく)わたしの心の奥深く、とわに変わらぬ者あらわれてから、この世の快楽はみな侘しく見える。わたしは白く塗られた偽りにも、世の味けない飲みものにも飽きた。わたしの空からになった水がめをいだいて神の都よ、あなたの泉に行きたい。 けれども、こうした内省がもっと早く行われて、第三期が精神の方向転換ということでなく、ただ第二期の生活の自然の結果であり、その完成であったなら、なお一層よいでしょう。なぜなら、ほんとうの人生の段階には、元来、ダンテの天国に似かよったところがあって、どの段階にも、一番下の段階にさえも、最高の段階にぞくするものがすでに何程か含まれているので、より多くを渇望しなくても、それに希望をかけているだけで、魂が満足させられるからです。 (つづく)
2024.09.06
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9月6日(金)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。わたしの福音 人がだれ一人信じなくても、わたしの福音は真理です。人がことごとくこれを破棄しても、わたしの福音は真理です。人がみんなしてこのために排斥しても、わたしの福音は真理です。わたしの福音は人の福音ではありません、神様の福音です。ですからわたしは神様にすがって、ひとり終わりの日までこれを保持しようと思います。
2024.09.06
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9月5日(木)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(下)(94)「ご難つづきの一週間」(11)冠省魔の日曜日を切りぬけたので、きょうは一仕事も二仕事もと、勇躍ホテルの玄関をあとにしかけたとき、門先で郵便配達のオジサンと擦れ違いました。彼が鷲掴みにしていた手紙の束のなかに、日本のエーログラムの混じっているのを目ざとく見つけたヤママス・センセイは、そこでイジマシクモ再びフロント・デスクの前まで引き返しました。三年生のEくんからのお手紙でした。しかし、固い固い内容のものであって、要するにディレクト・コスティングに関する小生の見解をあ確かめたいというわけ。 (つづく)
2024.09.05
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9月5日(木)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(449)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。人生の階段(91)四(2)(前日)わたしはどこへ行くべきであろうか、わたしの心の奥深く、とわに変わらぬ者あらわれてから、この世の快楽はみな侘しく見える。わたしは白く塗られた偽りにも、世の味けない飲みものにも飽きた。わたしの空からになった水がめをいだいて神の都よ、あなたの泉に行きたい。(よりつづく) 世の中には、終日のらくらして過ごした人もいれば、無用な仕事に精魂をつくした人もおります。こういう人も雇われてその日の仕事が終れば、先に来て働いた人たちと同じ賃金を受け取ることになります。これは仕事を与える主人の慈悲のおかげですが、しかしこのことに対しては、今日でもなお多くの人々が不平を鳴らしています。つまり先に来て仕事をしているのに後から来た人間と同じ賃金では不公平というのでしょう。 (つづく)
2024.09.05
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