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(自己変革の方法:p229:クリシュナムーティ:十菱珠樹(訳):霞ヶ関書房)より引用『学問や文学その他の知的活動に専念するときには、その玩具はただ心を夢中にさせるだけであって、心を真に平静にすることはできない。』
2008年05月22日
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ほんの少し 位置をずらし身体を 不健全から 遠ざけ「Aである」と考えたとたん、「A」から目をそらしている。ああ おいしいみずから 不適切な状況に わざと 身を置かないこと。カチッ、と組みなおされる 骨の音「経験がいかに心地よかろうと、美しかろうと、実り豊かだろうと、それを反復しようとする衝動は悲しみが芽生える土壌である」(クリシュナムルティの生と死:p196:大野純一(訳):コスモス・ライブラリー)
2008年05月19日
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(瞑想:p83/p85:クリシュナムルティ:星雲社)より引用『瞑想は ほんとうに単純なことだ それをむずかしくしているのは わたしたちだ わたしたちは そのまわりに 観念の織物をつくりあげる「瞑想とはこれこれのものだ」とか… しかし 瞑想は そのようなものではない 瞑想は あまりに単純で わたしたちの眼をすりぬけてしまう わたしたちの心は きわめて複雑で 古びたものになっていて 時間にもとづいているからだ このような心が ハートのはたらきを支配すると やっかいな問題がもちあがる しかし 瞑想は おどろくほど やすやすと 自然におとずれる あなたが 砂のうえを歩いているとき 窓から外を見わたすとき さりゆく夏の陽に燃えたつ 雄大な丘をながめているときに… なぜ わたしたち人間は こうも苦しみに苛まれているのだろう 眼には 涙をうかべ 唇には 偽りの笑みをうかべ あなたが独りきりで 丘を歩き 森のなかを歩き 白く長い砂浜を歩くことができるなら その独りきりのなかで 瞑想とはなにかを知るだろう あなたが 独りであることをおそれず 世界にくみせず なにものにも執着していないとき 独りであることのエクスタシーがうまれる 今日の朝おとずれた夜明けのように それは静かにやってくる まさにその静寂のなかで 黄金に輝く道が照らしだされる それは はじめからそこにあり いまも現前している そして いつもそこに ありつづけるだろう』
2008年05月18日
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(瞑想:p83:クリシュナムルティ:星雲社)より引用『あなたが窓の外を見たとき 空間と時間は なくなったようにみえた』
2008年05月18日
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(遠い太鼓:p17:村上春樹:講談社文庫)『日常にかまけてだらだらと歳を取ることができるからこそ、人はまだなんとか正気を保っていられるのだろう。』
2008年05月17日
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(日はまた昇る:p13:ヘミングウェイ:佐伯彰一(訳):集英社文庫)『「ねえ、ジェーク」彼はカウンターにぐっと身をのりだした。「こんな気持ちになること、ないかね、人生がどんどん過ぎ去ってゆくのに、ちっともうまく使っていないという? もう人生の半分近くがすんじまったんだと、はっとしないかい」
2008年05月11日
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『思考はまた、勝手に何でもつくりあげ、そこに存在しない物事を見るのであるから、それはひねくれた存在である。』(クリシュナムルティ) ああ、これは、このほど書きはじめた「文」の序文にしたいくらいだな。 ひねくれた存在… 本を読んでいて「死ぬときには、この本を読んだかどうか、どちらでもいいんだろうな」と思う。 映画を見ていて「死ぬときには、この映画を見たかどうか、どちらでもいいんだろうな」と思う。 そんなこと言いだしたら、何をしていたって、死ぬときには、それをしたかどうか、どちらでもいい。 いったい何がしたいんだ? 何がしたいかわからなくて苦しいんだと思ってたけど、じつは、枠内にいるのが苦しいのだった。 だったら、したいことははっきりしている。 そう、枠外に出ること。 枠内にいて苦しんでいる。 枠から出るための、一時的にせよ、枠の中が問題とならなくなるための、病的でない方法。 むじゅんは、枠内にいるうちは、枠外へ出る方法がわからないということ。 でも、やはり、なんといっても、ある個人にとって、ある特定の状況/状態に身を置くことで、扉がひらく(扉といったって四方八方のことで、いわば枠全体がひらく)確率が飛躍的に上がる。 儀式のようなもの。 枠内にいると、どうしても枠が目につくし、どうしても枠が気にかかる。 ああそうか、枠内/枠外というとらえ方じたいが、枠内の発想だ。枠が見えなければ、枠について考えることもない。枠を作ったのは私だし、私が枠だ。 まあな、そんな理屈は、正しいけれど、枠内にいるときはどうしても頭でしか理解できない。理解しようと必死になるんだけど、泥沼だ。 にもかかわらず、これまでずっとそうだったように、必死で苦しんで努力してきたことだけが、理解できる。
2008年05月11日
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(しなやかに生きるために/若い女性への手紙:p62:クリシュナムルティ:大野純一(訳):コスモス・ライブラリー)より引用『進み続けてください。前進するか、またはずるずると後退するかのどちらかです。静止してはいられないのです。』
2008年05月07日
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(自己変革の方法:p217:クリシュナムーティ:十菱珠樹(訳):霞ヶ関書房)より引用『思考はまた、勝手に何でもつくりあげ、そこに存在しない物事を見るのであるから、それはひねくれた存在である。』
2008年05月06日
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だけどな、こんな「文」、つづけたところで、これまで書いてきたいろんなのと、どうちがう? 何でもあり、って言ったって、いろんな形式の組み合わせにすぎず…まあいい…期待せず、どうなってゆくのか、眺めていよう。 このところ、留守番電話に無言電話が入ってないな。 これまで生きてて、できそうもないことなのに、できたこと。 生き苦しさのせいいっぱいと思考力のせいいっぱいをつぎこんで、まったく予想外に、「これ」を発見したこと。それから、こんな単純なことなら、簡単に伝わるんじゃないかとかんちがいして、言葉を駆使して「これ」を誰かに伝えようとして、驚いたことにうまくゆかず、あきらめかけたころ、ひとり、伝わったこと。 あとから考えれば、宝くじに連続で当たったようなもの。 いまの息苦しさは、もうこれいじょう、何もできないような気がすること。 思考を落とそうとがんばっているうち、思考は落ちないまま、だけど、なんというか脳のベクトルが変化して、たぶん、「起こっていること」と「思考」が別のことだという事実を脳が実感として認めて、世界が変わる。 だから、はじめのころは、短時間であれ、数字がただの図形としか認識できなくなり、数字が読めなくなったりもする…このことは、「これ」が伝わった、ひとりの人、にも起こったこと。 だけど、こんなの、ふつうにとらえれば、ただの自慢話。 くだらない。 世界が変わるだなんて、ばかばかしい与太話。 そしていま、ぼくはあきらめている。ひとり、がぼくにはせいいっぱいだろうと。 だったら、やっぱり、不愉快な自慢話。 だけど、けれどもなお、にもかかわらず…このことしか、しがみつくところはない…たぶん、ぼくは、せいいっぱい… ちがう… ちがう… 自慢したってしかたない。 宣伝したってしかたない。 だから? だから… ぼくの自己満足のために… ぼくのせいいっぱい、のために… このことは、生きていて、うそをつかずにすむ、せいいっぱいのこと… 何かおかしい…ん?…どこか、おかしい…まあ、いいか… アメリカの野球でいま、ステロイドが問題になっているのはいいことだ。 ぼくの子が通ってた学校では、たとえば、アメフトのクラブに入りたくても、ステロイドを使うのを拒否したら、入れないらしい。 中学のころからステロイド使用を学校から(学校の監督から)強制されてるのに、プロになったら禁止されたってね。
2008年05月06日
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スタイルが落ちついていない文…形式を持とうとしない文…書かれてしまった文に期待はしないけれど、ある種の祈りはこめられている文… いいこと思いついたな。 きょうはなつかしい日だな。 トンネル・線路・光・窓・書く快楽… 生きてきて、これまで言葉にしてきたことは「これまで言葉にしてきたこと」にすぎず、考えてきたことは「考えてきたこと」にすぎず…「ただ見るだけ」って言われてもね。 そうか、書くこともまた…『「書いている」のを「ただ見ている」』 いま食べているスパゲティーの皿の模様やフォークの模様を新鮮な出来事として、ただ見ているように、いま書かれつつある文を新しい出来事として、ただ見ている…「無選択の気づき」って言われてもね。 新鮮な感覚を持てそうな方向へと、複数の選択肢の中から、必死になって、ひとつ、またひとつ、選択しつづけている。「無選択の気づき」が起こりそうな状態へと、選択しつづけている。 心が大きく崩れてしまった人たちのなかには、「起こっていること」と「言葉の世界」が、ほんとうにつながっていると考えてしまった人たちが、けっこういるんじゃないかな…
2008年05月06日
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