仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2005.09.29
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カテゴリ: 宮城
今週月曜の宮城県知事定例記者会見で、浅野知事は自民の候補選びに関して、政党主導の選考作業を批判したという。昨日(27日)付け朝日新聞県内版の見出しを引用すれば、「脱「脱政党」に知事苦言」。自らの選挙は「選挙に勝っただけでなく県民の地力が注がれた」とのこと。同じく毎日新聞記事によれば、「県民が主役になるには政党がじゃまと思ってよけてもらった。おれがいつの間にか全国で常識となったのは歴史的事実だ」とのこと。産経新聞記事では、「黙ってみこしに乗る選挙だと、みこしは選挙が終わっても崩れない。それはあまりよくない。政党がダメというのではないが、県民一人ひとりが主役になる選挙を内外に見せつけるにはハッキリいって邪魔になった」とのこと。

 浅野知事の選挙観が伺えて興味深い。自画自賛とも言えるが、選挙の必勝法を私が開発したのだという自負心があるのだろう。現実に結果はそうだと思うし、それはそれでいい。
 どうしてもわからないのは、地方の首長選では政党政治は邪道である、という理解を前提にしていること。
 無党派、脱政党で勝ちました、というのは良いけれど、脱政党が普遍的に正しい、とまで言い切っていると思われること(少なくとも地方の首長選では。国政や、地方議会は別かも知れないが)が、とても気になっている。

 そこで、こだわって考えてみたい。

 かつて浅野知事は、「本物の民主主義を宮城から」というようなスローガンを掲げたように思うが(新年挨拶か何かで言ったのが報道になったものと記憶)、このときも私は相当びっくりした。もし「本物の民主主義」が「脱政党首長選挙」なる政治過程を指しているとすれば(多分そうなのだろう)、私は大変混乱してしまう。
 というのは、一応、政党による民意集約と政策形成によって民主政治がダイナミックに動くことを理想ないし到達点として思い描いている(描きたい)からだ。書生論といわれるかも知れないが。

 現代の議会制民主政治の運営において政党は有益であり不可欠であると、一般には考えられている。憲法学の議論だが、トリーペルの4段階論で言えば、第3段階の「承認・合法化」にあるか、最終段階の「憲法的編入」にちょっと踏み出しかけた段階というのが、憲法解釈上の了解事項だ。実定法上は国政選挙における比例代表法の導入や政党助成法が成立しており、また憲法上も、政党を直接根拠づける規定はないものの、単に集会結社の自由の一環というに留まらず、国会議員は全国民を代表するとの趣旨から、政党の存在を積極的に予定していると解されている。
 また、政治学的にみても、資源配分や国家の重要意思決定をめぐる意見集約の過程で、政党や利益集団は必然的に重要な役割を果たしている。またこうした現象面で捉えられているだけでなく、現代民主政治を評価する上で1つの理想とされるポリアーキー民主制(昔に習った政治学者ロバート・ダールの提唱)でも、政党を含む集団の自立的形成が1つの必須条件とされている。

 浅野知事の「脱政党」普遍化論は、理論的にこれらの政党の機能を否定することになる。しかし、そうなるとどのような民主政治の制度なり運営を描いているのだろうか。
 第一に、制度の面すなわち憲法レベルの議論。上記のように全国民を代表する代表民主制の思想に立脚する憲法は、国民と議会を媒介するものとして政党を必然的に招来する。政党を否定すると、全国民を代表する代表民主制をどう実現するのか、という問題が出てしまう。選挙を有権者による命令的委任の手段と理解して、ルソー流の直接民主主義に近づけて解釈する立場(東北大出身の樋口陽一さんの立場。人民主権論)からは、それでもいいのかも知れない。しかし有権者の意思を反映しつつも独自に国家的利益から行動する代表者を想定していると一般には理解されている。また人民主権論的な発想は、重要政策決定の都度に国民投票を代替する意味で選挙をする、とでもなるのだろうが、非現実的だし、政治エリート(言葉はともかく)による統一的で継続的な政策形成・実行は現実として必要で、いちいち国民の意思を求めていられない。
 第二に、運営の面すなわち政治(学)レベルの議論。政治過程に役割を果たす政党や各種の利益集団が民意を歪めているのではないか、との点について指摘や検討することは、もちろん重要である。しかし、政治過程は意見の集約・排斥の過程だし、人間が社会的動物である以上、なんらかの政治的組織集団の離合集散は不可避である。政党以外にも、いわゆる政治団体、さらには業界団体、労働団体、各種圧力団体などを含めて考えれば、いずれにしてもなんらかの政治的組織集団がない政治というのは考えられない。

 なお、これらの議論は主に国政について妥当する議論だが、地方政治はある程度別とは言える。統一的意思形成の必要性が国よりは薄いから、住民自治をある程度優先することが許されるので、憲法や地方自治法でも一定の直接民主制が採用されている。また首長は直接選挙によるから、政党民主主義は議会に妥当すればよく、首長は別に考えて良い、という論法もあり得るかも知れない(議会と首長の関係を「是々非々」という発想もこれに近いかも)。特に市町村を考えると、極論すれば議会は不要で直接選挙の首長だけいればいい、政党も不要、という気も多少はする。

 あれこれ理論的なことを整理してみたが、浅野知事がこのような理論的ことがらを整理して発言しているのではないと思う。ちゃんと調べれば何かにハッキリと書いているのかも知れず、そうだとすれば私の不勉強だが。

 おそらく浅野知事も、概念や理論としての政党の必要性有用性や政党を中心とした民主政治までも、すべて否定のではないのだろう。理論的に考えて言っているのではなかろう。
 現に存在する政党が、民意をストレートに吸い上げていないよ、という皮肉に、ご自身の輝かしい戦歴に基づく自負心が加速して、自分が改革の先陣を切った、民主主義の新しい(そして正しい!)モデルを作った、と大きな表現になってしまったのではないだろうか。つまり、ちょっと言い過ぎましたね、ということ。
 更に言えば、宮城県の現在の瞬間的政治状況をふまえて、知事選や引退後に一定の影響力を残すため、自民党の候補選びを牽制する意味で、あえて「脱政党」浅野の威光を誇示したという面もあるかも知れない。

 言葉尻をつかまえてケチをつけるために書いているのではないから、その先の、より本質的なことに進む。
 現に存在する政党が歪んでいるという理解は、政党なり政治家が既得権益で骨がらみになっている現代日本の政治システムの病理(一例を言えば、道路建設は止まらない)を突いていると考えれば、大変正しいと思う。そして、これを前提にすれば、確かに「脱政党」を公言できるほどの政治家にこそ、真の改革の期待が持てると言える。
 他方で、今後は政党の内側からも改革の動きがわき起こり、政策論議重視の政党運営がなされていくと思う(期待)。とすれば、「脱政党=政党ダメ前提」の思想も、次第に「健全な政党民主主義」に収れんしていくと思う。(と期待する、というべきか)。そして、政党政治と連動した形で首長選挙が行われ、議会との関係も与党野党という関係で(是々非々でなく)進むことが、健全な地方政治だと私は考えている。

 さて、いずれにしても、「脱政党」という実体のないパワーに怯えて、既成政党が候補者を立てられないというわが県の政党の実態については、今のところ、強く嘆くしかない。





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最終更新日  2005.09.29 00:30:51
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