仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2006.02.28
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カテゴリ: 仙台
梅原仙台市長について河北新報は就任早々からだいぶ手厳しく評しています。村井宮城県知事評と合わせ見ると、従来の浅野知事・藤井市長の時代とは形勢逆転の状況とも。私自身も梅原市政について意見もありますが、極力抑えて、まずは河北新報の「梅原評」を客観的にみてみます。私見の方は具体的テーマごとに整理でき次第に。

ところで、訪問頂いた方で「河北新報」をご存じでない方のために、編集長の私見ながら同紙を簡単にご紹介します。(よくご存じの方には、編集長の独断の河北評の紹介、ということで。)

「河北新報」は宮城県内で圧倒的購読率を誇る地方紙ですが、さらに一歩飛び出して東北ブロック紙と位置付けられることも。社としても、道新、中日、西日本(ブロック紙3社連合)に比肩するプライドを持つ。仙台の政界・経済界との馴れ合いから脱しきれない面もあったが、最近は、90年代以降の行政の不祥事や従来型でない政治リーダーの言動に対処する中で、単に官との距離の加減で書いてきた(失礼!)のを卒業して、客観的に定点を探り出し、そこに腰を据えて独自の論評スタンスを決めようとする、是々非々というか成熟した大人げある論調になってきているように思われます。また、東京での独自取材力の表れでしょうか、司法関係などでは時に全国紙を上回る水準の記事が提供され、感心することも多い。さらに、不羈独立、地方からの発信を一貫して重視してきた点は、その姿勢自体が仙台伊達文化の良い面を継承していると評価しています。私自身これまで河北ネタを何件か書きましたが、同紙には、何事におもねることなく、高い志を持ち続けて欲しいです。

さて、戻ります。その河北新報が、月曜日(27日)まで5日間の連載記事で梅原市長の6ヶ月を検証してみせた。第4回と第5回の見出しが、河北の「梅原評」を見事に要約している。見出しの 後半部分 が、河北の評価ということになろう。
 ○第4回(連携) 村井県政と「蜜月」  摩擦生む発言波紋呼ぶ
 ○第5回(哲学) 伝統的価値を尊重  周囲に気配る度量を期待
第4回(連携)では2つのトピックが取り上げられている。宮城陸上競技場サブトラック問題では、仙台が断念した構図の決着だが、市長の直接交渉がなかったと指摘。私は、この問題はそもそも仙台市の主張に無理というか限界があると考えていたが(過去の最終の日記: 政令指定都市制度、仙台市、そして再びサブトラック問題について (05年11月01日))、河北の検証記事は、市民や市役所内部の声を受けて政治的対処を期待されたのに、その過程があまりにもアッサリしすぎたと指摘しているようだ。

もう1つの県立高校一律共学化「汚点」発言。私もだいぶ書きました(過去の最終の日記: 宮城県立高校の共学化について(4)真に学校を思うなら (05年12月11日))。いま冷静に見ると、県教委で決着後も主義主張は変わらないと公言するなど、ご自身では首尾一貫しているつもりのようで、つまりはそういう人だ、という事実がわかる。

第5回(哲学)では、「伝統的価値」を尊重する市長の姿勢をかなり批判的に評している。冒頭に「茶髪の選手は来訪しても市長室に入れない」との市長発言を載せているあたりが、市長の哲学たる「伝統的価値」の突出ぶりと底の浅さを暗に批判しているわけだ。
もう少し理性的な検証の視点としては、「政治家として哲学、信念、信条に基づき発言するのは当然だが、市長選の時自らの主義主張まで十分に説明したのか」という在仙企業社長の疑問を引用しているが、これも一社長発言に仮託した河北の批判の1つだろう。

私は政治リーダーはいかなる成果を残すかこそが重要で、聖人君子たる必要はないし、その有する歴史認識や哲学が異端であっても構わないと思う。また、政治ダイナミズムの中で一見して「突出」とみられても、それで敢えて市民の議論を喚起するリーダーシップの手法もあり得るし、極論すれば、今の大衆に迎合するより100年後の市民に評価される施策だってあり得ないではない。

だから一般論としては、政治リーダーの突出が当節の目から見て際だって見えるとしても、その突出ぶりが一過性の挙動に終わるのでなく、若干の摩擦や誤解を克服して後々に評価されるべき結実を得るのなら、良いのだ。(初期の浅野県政には結果的客観的にそのような成果があった。当人が意図したかどうかはともかく。政治評価は主観主義であってはならない。)
仙台の経済界が一致して推薦した経緯からは、梅原市長の突出ぶりに当惑する向きも多いと思うが、たしかに期待を大きく上回る(?)独自性発揮ぶりだ。
私としては、いかにも通産官僚の発想という印象です。ラベリングは良くないと思いながら言いますが、個別利害よりもマクロな流れに乗る或いは流れを制御するという観点から発想し、啓蒙主義的で、闊達身軽で洒脱な言動を持ち味として、積み上げや地道な調整は重視しない、政策を見直すよりは対応できない社会が悪いと考えるからあきらめも良い、というのが通産官僚タイプ。
いずれにしても個人の特性は二の次で、問題は成果を残せるかどうかだ。

その問題の成果なのだが、ハッキリ言ってこれまでの半年の間に、生じた梅原市長の突出ぶりが、今後に「ああそういう事だったのか」とある種の納得をもって理解されるような(その成否の評価は別としても)予感は、今のところない。今のところというよりも、宮城県沖地震より高い確率で、そうなるだろう。つまりは、底の浅い突出さ、突出だけに終わる突出、なのだ。

そのために市民が選んだ市長ではない。河北もそう言いたいのだ。

無色透明の藤井市政の後で、目に見える活力を求める市民の声なき声を聞いて、独自性を出すのに奮闘している、と梅原氏の立場に立って理解してやりたい気もするが、それならそれで周りの声を聞く謙虚さがあって然るべき、という河北の指摘も、今のところまったく当然だ。

颯爽と登場した異端児を度量広く見守りながら、他方で河北新報の理性にせめてもの安心感を抱いている。多くの市民の感想はそんなところか。新聞も市民も成熟して来た、ということだろうか。

※ なお、梅原市政の論評ではないのですが、市長発言に象徴されるちょっと歪んだ「仙台伝統文化論」について書いた日記です。時間に余裕あればお読み下さい →  仙台文化を理論的に解明? (06年2月17日)

朝から冗長な長文。最後まで読んで頂いた方には深く御礼いたします。





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最終更新日  2006.02.28 06:51:07
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