仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2006.05.21
XML
カテゴリ: 仙台
大正7年(1918年)の夏、お盆の仙台市内の随所に蜂起を促す貼り紙が出た。明日15日午後4時西公園に集合すべし。同月3日の富山の米騒動を受けて全国が騒然となる中、米価の急騰と賃金切下げにあえぐ一般市民は、いよいよ仙台もか、との思いを抱いていた。

11日には新聞社(東華新聞)社長などの主催で廉米払下げ大会が開催されたが、県も市も動く気配がない、そしてこの貼り紙になったのだ。竹槍マッチ持参せよ、と付記されている。

リーダーも不在で市民3百人超が集まり、熱気の中から東華新聞記者で政友会党員の窪田総次郎が、石の上に立って演説し、気勢を集める。その後、立町の米屋が名乗りを上げ、大米屋や問屋が隠して貯めているから、我々小さい米屋は皆さんと同じで困っている、と演説。警察も張り付いたが気勢を押さえられない。群衆は目標に向けて歩き出した。

肴町、国分町を横切り、東一番丁を右折、大町4丁目の角を左に進むと東二番丁手前に、佐々重商店。高騰する味噌と醤油を払い下げさせるためだ。番頭も小僧もびっくりしたが、佐々木重兵衛は観念して「味噌は40銭、醤油は30銭、でよござんすか」と返事したという。群衆は大歓声、今度は東二番丁を横切り新伝馬町。

次は名掛丁の福田商店。外米を一手に扱う仙台最大の米問屋だ。西方哲四郎という義侠の筋も入って交渉を続ける。結局白米を一升20銭(高騰時は約40銭)の要求を飲ませる。

次いで、裏五番丁で福田商店の出店の姉歯米店、宮城倉庫、元寺小路の奥田米店。二手に分かれて、片や同心丁、外記丁、宮町、車通りへ。他方は鉄砲町の高利貸し吉田由右衛門。吉田は多賀城の大工出身ながら市会議員にもなる。仙台三大悪徳高利貸し(吉田、山田、細谷)でも最も冷酷に市民を苦しめてきた(二度取りなど)という。市民は吉田に米価調節費として三万円寄附を要求。

市民は吉田を一旦あきらめ上杉山通り北五番丁の伊沢平左衛門宅へ向かう。酒造業で大富豪。天保時代のどぶろく造りから始まり、平左衛門の先代の平蔵は多賀城笠神の農家から伊沢家に雇われて婿養子になり、仙台市長代理、貴族院議員(多額納税)、七十七銀行頭取なども務めたが、平左衛門も貴族院議員。北五番丁角には皇族も泊まる別館勝山館がある。
市民は伊沢の店の前では、寄付金を要求。吉田のように憎まれてはおらず、さほど怒号はなかったという。

別の群衆は大変なことになった。三代高利貸しの細谷は土橋通り北二番丁突き当たりに邸宅を構えていたが、伊勢堂山に集合した群衆など千人が押し寄せ、門塀や屋内外を打ち壊してしまった。細谷はさすがに観念し、二万円の寄附と、買いだめしている蔵の米を一升18銭で供出することを受け入れた。
これで気勢のあがる市民は、八幡町(天江酒造)や北一番丁(高利貸し山田)などに向かう。

他方で荒町で米屋味噌醤油屋に値下げをさせながら宮城野原に結集した市民は、田町の八木久兵衛(紅久)の邸宅へ。八木は藩政時代の紅小間物商から久兵衛の代に味噌醤油で裕福になり、ご存じ八木山を所有し、七十七銀行頭取、貴族院議員も務めた。八木は市民の米開放要求に、米は一粒もないとごまかしたが、傍らの小僧が蔵の中にあるとバラしたので結局要求が通ったという。

こうして夜の12時頃には市民はようやく解散。行動した市民はおよそ2千人。明けた16日には仙台市の緊急市議会で外米の売り出し、内地米の買い入れなどを決議。

16日夜も西公園などに市民は集結し、今夜の目標などを演説する。群衆は四分五裂し、例えば交番に投石するもの、また例えば新伝馬町に向かう一団は佐々重や福田商店に寄附の増額と誓約書を要求するつもりだった。ところが、鉄砲町の吉田邸が燃えているとの一報。市民千人が燃えさかる吉田邸を取り巻き歓声。消火活動もできなかったという。邸主一家は駅前の青木旅館に逃げ込んでいたという。
ついに浜田県知事の要請で軍が出動し、騎兵隊や歩兵とのにらみ合いの後、やっと市民は退散した。このとき市民が兵隊の銃床で殴られたという情報もある。先頭に立った市民は逮捕。

17日には県知事の夜間外出取締命令が出た。市民は今度はどこを焼き討ちか、などと不安と期待の入りまじった不穏な雰囲気。武装した歩兵が要所に配備。家族を市外に非難させるものも。こうして、市内はやがて静けさをとりもどした。放火や打ち壊しを扇動した「天誅組」なる一団も姿をくらました。

20日には、栗原郡沢辺出身の政友会論客代議士の沢来太郎が、これは暴動ではなく、米価調節運動というべき市民の人道上やむを得ない美挙であり、非難すべきでなく、軍隊出動は甚だ遺憾、などと演説。

以上では、『物語宮城県民のたたかい』 濱田隼雄、 ひかり書房、1976 によります。天明の米騒動(天明3年9月、1782年)、寛政の百姓一揆(寛政9年、1797年)を調べようと思ったから。特に寛政は仙台藩最大の一揆とされる。

著者の社会観や思想、米騒動の評価についても共鳴し切れない面も多いけど、事実描写は史実でしょうから、参考になります。大正の米騒動で、群衆が市内を練り歩いた様子が印象的だったので、記しました。藩政時代の一揆については、後に。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2006.05.21 11:26:27
コメント(0) | コメントを書く
[仙台] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

コメント新着

おだずまジャーナル @ Re:仙台「6時ジャスコ前」の今むかし(11/14) 仙台フォーラスは来月3月から長期休業。再…
クルック@ Re:黒石寺蘇民祭を考える(02/18) ん~とても担い手不足には見えませんけどネ…
おだずまジャーナル @ Re:小僧街道踏切(大崎市岩出山)(12/11) 1月15日のOH!バンデスで、不動水神社の小…

プロフィール

おだずまジャーナル

おだずまジャーナル

サイド自由欄

071001ずっぱり特派員証

画像をクリックして下さい (ずっぱり岩手にリンク!)。

© Rakuten Group, Inc.
X
Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: