仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2006.08.18
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カテゴリ: 仙台
梅原仙台市長が8月8日(火)の記者会見で、今後「都市ビジョン会議」の議事は公開すると話した。

同会議は、これまで、腹蔵ない議論のため議事を非公開としていた。会見で市長は、議事は非公開だったが透明性の確保に努め、HPで会議資料や議事要旨を公開するなど、事実上の公開と言って差し支えない状況だった、と説明。たしかに、実際に市のHPに公開された「議事要旨」も相当に具体的で、誰が発言者か明示しても別に支障あるとは思えないから、今後ハッキリ公開としたのは全く自然だ。むしろ非公開にこだわったことが不自然にも思えた。

今回の方針変更に梅原氏の「脱皮」を感じ取って、安心した市民は、私だけではあるまい。

一般論として、腹蔵ない意見を出すために非公開にするべきこともあろう。しかし、自治体の基本方向という高度な公益がテーマで、しかも公的な立場の人間が話すのに、非公開にする方が、今の時代には相当な冒険だ。つまるところ、「こういうものは非公開にすべきだ」という論にどこまでこだわるのかというだけだろう。

以後は梅原氏がこうだ、ということを離れるのだが、多分、こういう考えの人、は行政過程の情報公開には反対ないしは抑制的に考えているのだろう。そういう人には、ノブリス・オブリージュと緊張関係にあるのでなかろうか。本来これらは相容れないものではない。何故に緊張関係に立つかと言えば、「情報公開を徹底するとノブリス・オブリージュが失われて困る」と思い込んでいるからだろう。

そこには、2つの点で、やや誤った認識があるのではないかと思われる。1つは、情報公開を為政者の判断の自由を縛るものと片面的にしか見ないこと。もう1つは、ノブリス・オブリージュを規範でなく実のところは、恣意(やりたい放題)とはき違えているのではないか、である。

以下に整理するが、梅原市長がこうだと断定するものではない。

1 情報公開の作用と効果

たしかに情報公開は、ともすれば政治や行政を糾弾し匡正する手段として理解されがちだ。実際に近年、行政のご都合主義や不正を摘発する道具として情報公開が脚光を浴びたことを見れば、うなずける。

憲法論では、表現の自由に基礎をおく見解が伝統的に主流で、近時は人格権や生存権と結びつける見解すら登場しているが、少なくとも統治機構の情報に関する限りは、国民主権原理から派生して来るというのが基本だろう(99年の情報公開法の第1条もこの原理を示す。なお例えば宮城県の条例には、これに加えて知る権利の尊重を趣旨としている)。
つまり、基本は、主権者たる国民が国政を監視しまた参政権を十全に公使するために情報開示を権利として(憲法上の権利かどうかはともかく)認めたのだ。
このような本来論からすれば、糾弾・匡正の効果は言わば副次的作用と言うべきかも知れないが、行政の不正な実態がゾロゾロ出たことで、糾弾・匡正の作用がクローズアップされた。もちろん、それはそれで良いことだ。

しかし、情報公開は単に主権者に武器を与え為政者を縛るだけではなく、長い目で見れば為政者や行政を救う機能がある。これは政治家や学者が知ったかぶりして論じる以上に、行政に携わる人には実感だろう。もっとも、国の役人にはわからないかも知れない。市町村、特に都市部の役所の職員ほど、その正しい意味がわかるだろう。
つまり、情報を常に公開している仕事ぶりほど、住民にとっても役人にとっても、安心できるものはない。住民の関心と批判が寄せられることが、結局は信頼となるのだ。
(これは外交関係にも言えると思うが、表面的な友好姿勢は真の友を作らない。また、公法関係特有の議論ではなく、企業と消費者の関係、あるいは人間関係一般についても通用しそう。ただ、行政とくに国政の場合は「知らしむべからず」の伝統なのか、その意味がわからないのだろう。)

つまり、行政活動が縛られて困る、という側面でしか捉えていないのだ。現実に、そういう面はあるだろう。人間誰しも、万人に公開されていると思えば、やましいところがないとしても、ためらいが生じるものだ。「腹蔵ない意見をもらうため」、という理由も表面的には理解できないではない。しかし、情報公開の大きな流れと長期的な意味を考えれば、その理由は非常に小さいことに過ぎないと気づくのが普通だ。

確かに、情報公開が行政活動を萎縮させると思わせる面はある。最近も梅原市長が誘致したアセアン大使会議の批判があるが、あまりにも極端な議論で私は賛成できない。公費の優先順位が低く不当だというにしても、基本は市長の裁量だろう。しかし見解の存在は認めるし、議論は重要だ。

2 ノブリス・オブリージュについて

高い地位にある者や権力を持つ者は、自覚をもって自らを規律すべし。そうあって欲しい。

本当に偉い人は自分を律しているものだ。行動の面で見ても、昔の金持ちや名望家は、献身的努力で或いは私財をなげうって人々のために尽くした。

だから、本当のノブリス・オブリージュなら、情報公開と緊張関係にあるはずがない。公開されて、褒められることこそあれ、当人が困ることはなかろう。賢者の美徳で「人に言わないでくれ」というのなら、まさにノブリスだが。

これが自分を律するという側面で機能している分にはいいが、時として「自分で律しているのだから外から見られなくて良い」「いや、むしろ外から見られない方がやりやすいのだ」と変質してくると、誤ったノブリス・オブリージュ感覚に接近する。

端的に言えば、オレは高官(ノーブル)なのだ、俺の裁量だ、オレだけが関知すればいい、ということだろう。単なるゆがんだ特権意識、と言っても良い。客観的にはおかしいことでも、当の本人は主観的には、オレの裁量が国のためになっている、と思いこんでいるのかも知れない。手がつけられない。

私がこの「誤ったノブリス・オブリージュ感覚」を最も強烈に感じたのは、数年前の福岡高裁判事の妻の被疑事件に関する福岡地方検察庁情報漏洩事件(2001年2月に発覚)だ。
あの時、確か情報を流した検事だと思うが、記者会見では、刑法にも親族による特例があってどうこう、などと堂々と釈明していた。一般市民が知らないだろう法律をタテに煙に巻けばいいんだという意図と、オレたち特定の者が世の中を決めているんだという、最も誤ったエリート意識が丸出し。それと、裁判官との間に一種の同族意識もあったろう。

世の中を正しくする立場の者が、身の回りの悪は握りつぶす。権限とやりたい放題をはき違えて、自分の裁量で世の中を動かしたつもりになっている。これでは、真のノブリス・オブリージュが泣いて呆れる。一生懸命やっている大多数の裁判官や検察庁職員に顔向けもできるまい。一般人が「どの検察官が悪だ」と最初からわからない。組織全体に不信の念を抱くのは仕方がない。警察の中の闇も、だからこそ事態が重大なのだが。

3 情報公開をどう見るか

この「誤ったノブリス・オブリージュ感覚」に対して、情報公開は真っ向から緊張関係に立つ。当然だ。だから、歪んだ特権意識を持った人には、情報公開は邪魔者に映るだろう。

このような歪んだ特権意識に基づいた事件が発覚すると、対策としてさまざまな「装置」が考え出される。情報公開が最大の「装置」だが、他にも、人材交流、研修、外部人材の登用、審議会的組織の活用などが案出される。それはそれで大切なことだろう。

しかし、最大の防御策は何と言っても彼ら特権者の正しい意識、つまり「正しいノブリス・オブリージュ感覚」なのだ。人的信頼ほど確かなものはない。例えば、依頼者が弁護士に話した事柄が筒抜けになっては、誰も親身に相談できない。医者に相談したら、別の機関から高額の検査の案内が通知されたら、商売の対象にされただけで医者を信用できない。

古典的な想定例と言われそうだが、相談を受けた医者が、患者の家族の財力を察して、自らの費用で高額の投薬を行い、カルテには低廉な薬を処方する。弁護士が法律論では相手に勝っても和解にならないと考えて、相手方に話して勝てる事件もあえて話し合いさせる。

このように、識見をまさにフル活用して一般人のために行動する。その過程で自ら犠牲にするものもあるが、識見者でしか解決できないのだから、と社会的な役割を自認するが、ことさら外に言うこともない。ただ、しっかりと世の中のために行動する。期待を裏切らない。そんなのがノブリス・オブリージュではないか(一般の意味と多少ズレるかも)。

ところが、歪んだノブリス層は、重大な勘違いをする。すなわち、例えば古典的な美談について言えば、「もし情報公開されたら身動きとれなくて、やろうにもできない」とも考えてしまうかも知れないからだ。先の古典的事例なら、医者は勝手に個人情報を改ざんした、と言われるだろうし、弁護士は弁護士倫理に問われるだろう、と。でも、「だから本来の専門家たる活動ができなくなる」と言い訳をするのは、とんでもない思い違いだ。

同様のことが、学校の先生にも言える。内申書の公開がされるから、何にも書けない。学級便りには全児童のことを平等のスペースで書かなければいけない。今日プールに入れて良いか、給食で食材に問題がないか、全部保護者の了解がないと決定できない、などなど。でも、生徒と教師の人的信頼こそ教育の真髄。途中途中でいちいち保護者に話す必要も本当はないのだ。口うるさい保護者がいるなら、言わせておけばいい。当の先生や校長がビクビクしては何にもできない。堂々と生徒と向き合っていただきたい。

私は、きれいごとと言われそうだが、教育現場にモヤのように掛かっていた「情報公開と個人情報の一時的混乱」は、教師側の(注:学校や教委の、ではない)自発的働きかけと自信回復を経て、そのうちに晴れると思っている。保護者側の過敏な意識も、やがて大人になるだろう。表面的な「情報公開に縛られる」感覚は、乗り越えられると思うのだ。教育は、情報公開が目的ではないから。教育内容と成果に理解があれば、何を公開するかしないかなどは小さいことで、共通理解を得られるだろう。

よく考えれば当然のことなのだが、こうしますか、ああしますか、などといちいち神経質になって逆問してくる専門家ほど頼りにならないものはない。こっちは素人だからこそ、公務員や医者や弁護士や先生に委ねているというのに。

困るのは、これら専門家が、情報公開や個人情報に過敏になるあまりに、真のプロフェッショナリズムを犠牲にして、機械的な事なかれ主義に陥ること。報酬もらっている範囲で、無理なく仕事すればいい、オレは余計なことする義務もないし... と。
福岡高検のように現実にやましいところのあった専門家は極端な例としても、一所懸命やっている大部分の専門家にとっても、ちょいとやりづらくなっている面はあるかも知れない。

しかし、それでは専門家の意味がない。社会の中ではその人にしかできないことなのだから、信頼も生まれない。仕事をしない言い訳を、情報公開や個人情報の風潮に帰するような専門家は、さっさと転業して欲しい。もちろん大多数の専門家はわかっているだろう。

問題は国の中枢に位置する役人だ。政治家はむしろ変わってきたように思う。なにしろ選挙の洗礼を意識する。残るは役人だ。国益はどこへやら、ひたすら自己目的化して三位一体改革に徹底抗戦し、旧態依然と業界人や地方の役人を下働きさせ、他方で情けない組織的不祥事も改まらない。これでは、やましいことがあるだろうと思われても仕方ないのだ。彼らは、自分たちの社会的使命を自覚して見せ、オレたちは高尚な大局的判断をしているんだ、情報公開なんて下界の小事よ、とさげすみながらも、実は見えない敵だと意識しておびえている像が浮かぶ。何とも情けない。

(冗長な割には整理がつかない文章でした。 編集長)





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最終更新日  2006.08.18 06:11:16
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