仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2007.05.29
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カテゴリ: 仙台
仙台城は三方が人馬叶わざる天然の要害、比較的近づきやすい北側と西側北半の傾斜面だけに石垣を築いた。石垣以外では東側断崖上に木柵を建て、他は土塁を廻すことで足りた。

イスパニア人ビスカイノが、彼の国の最も勝れ又最も堅固なるもの、と嘆称した(金銀島探険記)ほどだ。

仙台城の歴史は中世に遡る。初め国分氏の居城があり、また虚空蔵・千体仏を安置する仏閣があった。早いところでは観応2年(1351年)の文書に虚空蔵楯(館)が相当すると考えられている。ここに千体城の名が起こり、後年政宗が仙台の字を当てる。戦国末に国分氏は小泉に移り廃城。その後、改めて藩祖政宗が築城。平山城か平城の時代の傾向に逆行した山城の構築は、上記のような天険を利用して短期間の築城を考慮したためと言われている。

しかも仙台城は、周辺の要所を戦術的に利用できる地勢に恵まれていた。

広瀬川は、青葉山段丘から延びる段丘、または下の低い段丘に突き当たって急崖を作り、また幾つかの大屈曲部分を作る。亀岡山から澱橋の地帯、経ケ峯の地域などがその例で、両者が東北に突出する最奥部に本城を置いた。また、高所が、西部山地より広瀬川に出口を開く幾つかの谷によって適当に区分され、各区域は山地から川に下るに連れて高低幾種類かの段丘に別れ、各個に適当な城の曲輪(くるわ)を造るのに適していた。

この利点が戦国に育った政宗に活用されたのだろう。

政宗は、茂ヶ崎山を南端とし、愛宕山を配することで、北西より東南に至約3.5キロの一大城砦のシステムを構想したのではないか。広瀬川北西対岸の大崎八幡社地と東南対岸の若林城の完成で、仙台城はいよいよ金城鉄壁の構えを見せた。

さらに、荒廃地の密林にも深慮遠謀は及んだ。後年になるが茂庭綱木に大梅寺を建立し、郷六には郷六御殿の名で通る別荘が営まれる。これらは一種の「隠し曲輪」の唱えがあり、お裏林より密林地帯を抜けて両所に達する間道もできていた。

戦乱の時代が去り太平の世に、城の中心が二の丸に移るが、広瀬川西部一帯は藩の権力維持のため苦心の上で威容を深く蔵する地域だった。
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■出典 佐々久監修『仙台の散策 歴史と文学をたずねて』宝文堂、1974年(1990年修訂版)
(おだずまジャーナルで若干要約などしました)

この中で、隠し曲輪として大梅寺のほか、「郷六御殿」が登場する。現在建物は大梅寺に移築されているそうだが、郷六の広瀬南岸に四代綱村が貞享4年(1687年)に、遊興と防御上の曲輪として造営した。( 仙台市資料

■関連する過去の日記(仙台城関連)
 ○ 大梅寺 (07年5月21日)
 ○ 仙台城秘密の抜け道の話 (07年5月20日)
 ○ 仙台城の「奥」のようす (06年7月4日)
 ○ 青葉城の概要と略史 (06年7月1日)
 ○ 仙台城を考える (06年6月28日)
 ○ 政宗公騎馬像の歴史 (06年6月11日)





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最終更新日  2007.05.29 05:19:28
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